東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~永遠亭 配達所~
――薬箱の紐が、肩にキュッと食い込んだ。
『迷いの竹林』の奥、『永遠亭』の配達所は、夜明け前から薬草の匂いで満ちている。棚には色違いの薬瓶が並び、兎達が小さな手で包みを数えている。風邪薬、腹下しの薬、傷薬。数え終えた包みから、順に薬箱の引き出しへ収まっていく。
『永遠亭』の現地調査員にして、邸の実質的な責任者たる薬師の弟子『鈴仙・優曇華院・イナバ』は、背負った薬箱を一度揺すって、重さを確かめた。
中身はいつもの倍ある。今日は月に一度の巡回日だ。人里の置き薬の補充、中央会館への納品、命蓮寺の救護所の見回り。そして帰りがけに、竹林の入口の様子を見る。永遠亭の外へ出る仕事を、一日でまとめて片付ける日である。
配達所の柱には、師の字で書かれた紙が貼ってあった。
一、人里 置き薬の補充
一、中央会館 回復薬・解毒薬の納品
一、命蓮寺 救護所の見回り、包帯と痛み止めの補充
一、竹林の入口 兎の印の確かめ
瓶の色と札を、必ず確かめること
最後の一行にだけ、朱で二重に線が引いてある。
「……分かってますよ、師匠」
鈴仙は、誰も居ない柱に向かって小さく返事を呟く。彼女の師『八意永琳』は、まだ研究室に籠もっている。昨夜から、何かの毒腺を調べているらしい。
人間用の薬は緑の札。妖怪用は青の札。そしてモンスター用の眠り薬や麻酔は、赤い瓶に赤い札。妖怪用の薬は人間には効きすぎ、人間用の薬は妖怪には毒になる。モンスター用の眠り薬に至っては、人が浴びれば丸一日目を覚まさない。だから師は、この一行だけは毎回必ず書く。
鈴仙は引き出しを一段ずつ開け、札の色を指でなぞって確かめていった。緑、緑、青、緑。赤い瓶は一本も入っていない。
腰の後ろには、畳んだライトボウガンを提げている。
月兎軽弩『狂視』。竹林の夜に棲む迅竜の、黒から濃い紫へ移る素材で組んだライトボウガン*1だ。銃身の両脇には薄い刃翼が沿い、照準器の周りには、赤い残光のような飾りが入っている。巡回の日でも、竹林を抜ける以上は手放せない。
紺の上着の襟と肩には、同じ迅竜の黒い毛。前腕には刃翼を薄く削った板。腰には救急の小物入れを三つ。長い兎耳の片方が、癖のようにくたりと折れていた。
「うーん……その箱、隙間が空いてるねぇ」
足元から声がした。
いつの間にか、黒髪の小柄な兎が薬箱の脇にしゃがみ込んでいた。桃色のワンピースに、人参の首飾り。竹林の兎達の頭『因幡てゐ』である。手には、小さな布袋がいくつも握られていた。
「……てゐ。それは何?」
「因幡印の兎の御守。一つ入れときゃ、置き薬のついでに売れるでしょ。博麗のよりかは効くよ」
「効き目は一緒でしょう」
「売り文句が違うのさ」
てゐはにんまり笑い、薬箱の隙間へ御守をねじ込もうとする。鈴仙はその手首を摘まんで、そっと外へ戻した。
「駄目。これは師匠の薬箱よ。勝手に物を入れたら、私が怒られるんだから」
「ちぇっ。鈴仙はお堅いねえ」
「てゐが柔らかすぎるの」
てゐは御守を懐にしまった。それから、ふと声の調子を変えた。
「――帰りは、竹林の入口から戻るんだよね」
「ええ。印の確認があるから」
「なら、入口で待ってる。昨日から、南の筍林の土が荒れてるんだ。――猪の足だよ。それも、大きいのが一頭混じってる」
短く、まっすぐな言い方だった。冗談を嘯く時のてゐは、もっと言葉が多い。
「分かった。気を付ける」
鈴仙が頷くと、てゐはもういつもの顔に戻って、ヒラヒラと手を振った。
「御守、要るなら安くしとくよ」
「だから要らないって」
~迷いの竹林~
―――竹林の朝は、霧の匂いがした。
見上げるほどの竹が、どこまでも同じように並んでいる。昨日と同じ道を歩いているはずなのに、竹の伸びた分だけ景色が違って見えた。慣れた者でも迷う。ここはそういう場所だ。
だから鈴仙は、景色ではなく足元を見て歩く。
竹の根元、兎の目の高さに、小さな刻み目が付いている。三本線は『人里』。丸に一本線は『永遠亭』。毎朝、兎達が竹を見て回り、竹が伸びた分上へずれた印を付け直しているのだ。重い怪我人を運ぶ時、この印が一本でも消えていれば、それだけ永遠亭への道のりが遠くなる。
三本線を辿って、霧の中を抜けていく。
――やがて竹の間から、人里の屋根と朝餉の煙が見えてきた。
~人里 東通り~
―――人里の朝は、竹林よりずっと騒がしい。
豆腐屋の呼び声、井戸端の笑い声、荷車の軋む音。鈴仙はその間を縫うように歩き、一軒目の戸を叩いた。顔馴染みの大工の家だ。
「永遠亭です。置き薬の入れ替えに参りました」
「あら、兎の薬屋さん。ちょうど良かった」
出てきたおかみさんが、奥の棚から薬箱を下ろしてくる。人里の家々には、こうして永遠亭印の薬箱が一つずつ置いてある。使った分だけ、巡回の日に代金をもらう決まりだ。
鈴仙は箱を開け、中の包みを数えた。風邪薬が二つ、傷薬が三つ減っている。帳面に印を付け、減った分を新しい包みで埋めていく。
「傷薬の消費が多いですね。どなたか、お怪我を?」
「うちの坊主よ。屋根から飛び降りる遊びが流行ってるみたいでねえ」
おかみさんの後ろから、膝に擦り傷を作った男の子が顔を出した。目線は、鈴仙の顔ではなく、もう少し上を向いている。
「……耳、本物?」
「本物よ。だから引っ張らないでね」
鈴仙は苦笑して膝をつき、男の子の擦り傷を見た。洗った跡がある。膿んでもいない。薬箱の脇から小さな軟膏を取り出し、指先で薄く塗ってやる。
「傷は綺麗ね。でも、屋根から飛ぶのはもう少し大きくなってからね」
「竜は飛ぶのに?」
「竜は、落ちても平気な体をしてるの」
男の子は、分かったような分からないような顔で頷いた。その手が、そっと鈴仙の耳へ伸びかけて、おかみさんにピシャリと叩かれた。
――それから二軒、三軒と回っていく。米屋のご隠居には腰の湿布を、長屋の若夫婦には腹下しの薬を。減った薬を埋め、代金を受け取り、帳面に印を付ける。
同じ事の繰り返しだが、鈴仙はこの仕事が嫌いではなかった。薬箱の減り方を見れば、その家の暮らしが少しだけ分かるからだ。
――そんな中長屋の奥の一軒での作業で、鈴仙の手が止まった。
薬箱の引き出しの奥に、赤い瓶が一本転がっていた。添えられているのも赤い札――
「――おかみさん。これは、どちらで」
声が、自分でも驚くほど低くなっていた。おかみさんがビクリと肩をすくめる。
「あ、それ……うちの人がね。狩りで余ったからって、薬箱に入れといたのよ。いけなかった?」
「ご亭主は、ハンターさんですか」
「ええ。歳に反して新米だけど」
鈴仙は赤い瓶を布で包み、自分の薬箱の、赤い札の段へ移した。
「これは、捕獲の時にモンスターを眠らせる薬です。人が浴びたら、丸一日は目を覚ましません。もし、お子さんが風邪薬と間違えて開けたら――大変なことになります」
おかみさんの顔からサァッと血の気が引いた。
「ご亭主には、余った薬はちゃんと会館の医務に返すように伝えてください。……私からも、会館に言っておきますから」
「は、はい。すみません……」
「ご亭主は、今日は狩りですか?」
「それがね、昨日、街道脇の虫の駆除に行って。刺されて腕が痺れたって、今朝から命蓮寺の救護所に行ってるのよ」
街道脇の虫。中央会館の掲示板に、しばらく前から貼られていた依頼だ。群れで飛ぶ『ブナハブラ』の駆除。あの甲虫種が相手なら納得出来る負傷だ。
「なら、後で救護所で会えると思います。そちらで直接忠告しておきますね」
鈴仙は帳面の端に、小さく赤い印を付けた。
~中央会館 裏口~
――中央会館への納品は、表の受付ではなく、裏口の医務室へ回る。
回復薬の瓶を二十本、解毒薬を十本。数を確かめてもらう間に、長屋の赤い瓶のことを医務係に伝えておく。新米には、時々こういうことがある。
納品を済ませて裏口を出ようとしたところで――鈴仙の足がピタリと止まった。
戸口の前の日だまりに、灰白の大きな獣が寝そべっていた。人ひとり乗せて走れそうな体に、耳と尾の先だけが炭のように黒い毛並み。
ガルク。それも竹林、永遠亭でも顔馴染みである妹紅の相棒『オキ』が居る。
オキは片目を開けて鈴仙を見ると、くるりと巻いた尾を、パタン、と一度だけ地面に打ちつけた。
「……お、おはよう、オキ。通るわよ。通るだけだからね」
鈴仙は壁に背中をつけ、カニのように横歩きで戸口を抜けた。オキはもう我関せずと目を閉じている。
「――オキは噛まないって何度も言ってるだろ、鈴仙」
中から、呆れたような妹紅の声がした。
「分かってるの。分かってても、大きいものは大きいんです」
鈴仙は振り返らずに言い返し、早足で通りへ出た。背中で、オキがフスッと鼻を鳴らした気がした。
~命蓮寺 救護所~
――里のはずれに聳える『命蓮寺』に着いたのは、日が真上に来る頃だった。
山門をくぐると、線香の匂いがふわりと鼻をくすぐる。本堂の脇の壁には、白く大きな盾斧が立てかけてあった。白い鬣のような毛で縁取られた盾と、一本の蒼い角を据えた斧。
幻獣盾斧『仁獣ノ誓』。この寺の住職であり、猟団"命蓮寺"の長でもある人の得物だ。
「――ようこそ、鈴仙さん。今月もありがとうございます」
庫裏の戸口で、その人が手を合わせて迎えてくれた。
紫から金茶へ移ろう長い髪に、白と黒の衣。尼僧にして魔法使いである『聖白蓮』は、いつ会っても同じ穏やかな顔をしている。この柔らかな人が、いざ狩りとなれば誰よりも速く踏み込むのだと、鈴仙は話に聞いて知っていた。
「こんにちは、白蓮さん。包帯と痛み止め、それと解毒薬をお持ちしました」
「助かります。ちょうど、解毒薬の在庫が心細くなっていたところでしたので」
救護所は、庫裏の一角を板戸で仕切った広間だ。人間も妖怪も、同じ畳の上に並んで寝かされている。永遠亭ほどの治療はできない。だが、傷を洗い、縫い、骨を固め、ゆっくり養生させることにかけては、この寺の右に出る所はなかった。
鈴仙は薬箱を下ろし、補充の包みを白蓮へ渡していく。それから、一人ずつ患者の様子を見て回った。
窓際の布団では、若い男が大きな丼を抱えていた。三杯目の粥だという。右の前腕には、赤く腫れた刺し跡が二つ。
「街道脇の、ブナハブラの駆除を行ったハンターの方ですね」
「へ?あ、ああそうだが……なんで知ってるんだい」
「さっき、ご自宅に伺いましたから」
鈴仙は男の腕を取り、指先で軽く押す。押した跡に、ちゃんと血の色が戻ってくる。指も一本ずつ曲げさせる。痺れはもうほとんど抜けていた。
「解毒が早かったんですね。もう大丈夫でしょう。……それと、薬箱に入っていた赤い瓶は、こちらで預かりました」
男の手から、匙がポロリと落ちた。
「あ……あれは、その」
「余った薬は、会館の医務へ返してください。おかみさんには、もう伝えてありますから」
男は丼を抱えたまま、首をすくめて何度も頷いた。叱られる相手が、家にもう一人待っているのだ。
「それにしても、腹が減って仕方ねえ。眠くもあるし」
「私の術のせいでしょう。少し強すぎたと自覚があるので」
白蓮が申し訳なさそうに微笑んだ。――身体強化の魔法への知見を活用し、体の治る力を魔法で少しだけ後押しする。傷を消すわけではない。その代わり、治る体は、普段の何倍も腹を空かせて、眠りたがる。
「たくさん食べて、たくさん眠ってください。それが一番の薬ですから」
奥の布団には、まだ十五、六の娘が膝を抱えて座っていた。腕と脛に打ち身の痕。駆け出しのハンターだという。娘は鈴仙が近付いただけで、ビクリと肩を震わせた。
「竹林の入口で、大きな猪に追い回されたそうです」
白蓮が小声で教えてくれる。
「怪我は軽いのですが、ここへ来てから、ずっとあの調子で。眠ろうとすると、目の前に牙が来るのだそうです」
鈴仙は娘の前に膝をつき、手首を取って脈を診る。速い。浅い息が、喉の奥でつかえている。
――波が、乱れている。
鈴仙の目には、人の心の揺れが、水面のさざ波のように見えることがある。娘の波は、嵐の後の池のように、細かく、尖って、止まらなかった。
「大丈夫。ここは寺の中よ。猪は入ってこないわ」
ゆっくりと、言葉を置くように話しかける。同時に、娘の波に、自分の波をそっと重ねた。尖った揺れを、少しずつ、なだらかにしていく。押さえつけるのではない。乱れた拍子に、静かな拍子を並べて、そちらへ寄ってくるのを待つ。
娘の肩から、ふっと力が抜けた。
「……あ、れ」
「怖かったのね。でも、ちゃんと逃げて、ちゃんと帰ってきた。それが一番大事なの」
娘の目に、じわりと涙が浮かんだ。それから、娘は小さく頷いて、布団の上に横になった。間もなく、寝息が聞こえ始める。
鈴仙は立ち上がろうとして、少しだけ足元がふらついた。人の波に合わせると、後で自分の波が酔う。いつものことだ。
「大丈夫ですか」
「平気です。ちょっとした船酔いみたいなものなので」
白蓮は何も言わず、鈴仙に白湯を一杯差し出した。
――裏手の獣舎の方から、元気すぎる声が響いてきた。
「おはよーございまーす!!」
時刻はもう昼過ぎだ。だが、声の主にとっては挨拶はいつでも『おはよう』らしい。
獣舎を覗くと、緑の髪に垂れた犬耳を伸ばした娘が、脚に包帯を巻いたアイルーの背中を撫でていた。命蓮寺の門下『幽谷響子』だ。アイルーは響子のよく響く声を聞くたびに、気持ちよさそうに目を細めている。
「その子は?」
「マヨヒガから預かってる子です!ガーグァに蹴られて、脚をくじいちゃったんです!でも、あと三日で治ります!」
声が獣舎の壁に跳ね返り、山彦になって二度三度と返ってくる。鋭い聴覚には刺激が強過ぎる音圧に鈴仙の耳がピクピク動いた。それでも目の前のアイルーは、平気な顔で喉を鳴らしている。人より獣が先に元気になる寺、という噂は本当らしい。
ひと回り見終えて、鈴仙は帳面を閉じた。
「今日は、永遠亭へ運ぶ方はいません。みんな、ここで治る怪我です」
「それが一番ですね」
白蓮は嬉しそうに目を細めた。それから、少しだけ声を落とす。
「あの娘さんを追った猪のことですが。竹林の入口は、永遠亭への搬送路でもありますね」
「はい。帰りに、てゐと見てきます」
「お手伝いしましょうか」
「大丈夫です。……追い払うだけなら、竹林の兎の方が上手ですから」
白蓮は頷き、布施の包みと一緒に、竹の皮に包んだ握り飯を二つ持たせてくれた。
「一つは、てゐさんに。あの方はお腹が空くとどうにも商売が荒くなりますから」
鈴仙は、思わず吹き出した。
~迷いの竹林 入口~
―――竹林の入口に戻った頃には、日が西へ傾き始めていた。
約束どおり、てゐは入口の石に腰掛けて待っていた。足元には、兎達が五、六匹。どの兎も耳をぴんと立て、竹林の南の方を気にしている。
「遅いよ、鈴仙」
「寺でお昼をいただいてたの。はい、これ。白蓮さんから。お腹を空かしてると荒くなるそうね」
握り飯を差し出すと、てゐは一瞬目を丸くして、それからそっぽを向いたまま受け取った。
「……あの尼さん、そういうとこ抜け目ないねぇ」
一口かじって、てゐは足元の兎達に顎をしゃくる。
「さて、お前達。さっきの報告をもう一回、コイツに言ってやりな」
兎達が、口々にキイキイと鳴き立てる。竹林に、永遠亭に居着いてから長いが、鈴仙には兎の言葉は半分くらいしか分からない。
――大きい。怖い。たくさん。掘ってる。それくらいだ。
「大きいのが一頭、小さいのが三頭。南の筍林から、印の道の上まで出てきてる。筍を掘り返して、印の付いた竹を三本、根元から倒した」
てゐが、兎達の話を数と場所に、具体的な情報に直していく。
「搬送路の印が、切れてるってこと?」
「切れてる。今、怪我人を運べば半刻は遠回りになるね」
鈴仙の顔から笑みが消えた。――半刻。重い怪我人にとっては、助かるか助からないかを分ける長さだ。
「寺に、その猪に追い回された駆け出しの子が居たわ。……狩る?」
「いんや、狩らない」
てゐは即答した。
「猪は筍を食いに来てるだけさ。でも奥の筍林の方が、よっぽど筍が多い。道から退いてもらえば、それでいい」
てゐは握り飯の最後のひと口を飲み込み、腰の剣を抜いた。
軽い片手剣だった。刀身には、青紫の羽根の模様と、大きな目玉の模様がそのまま残っている。夜の竹林に棲む眠鳥の羽を打ち込んだ剣――兎惑剣『福因』。
「これで睨まれると、運が逃げるんだよ」
「それ、お客さんに言ってるやつでしょう」
「鈴仙は客じゃないからね。ただで教えてやった」
てゐはニッと笑い、兎達に短く指示を出した。兎達が散っていく。籠に入った掘りたての筍を咥えて、竹林の奥、南へ。一本道に、点々と筍を置いていくのだ。
~迷いの竹林 南の筍林~
―――印の道は、ひどい有様だった。
竹の根元の土が、大きな鋤で掘り返したように捲れ上がっている。刻み目の付いた竹が三本、根こそぎ横倒しになっていた。土の上には、蹄の跡が無数に重なっている。
鈴仙は薬箱を竹の根元に下ろし、膝をついた。
蹄の跡は、二つに割れた小さな指が並んだ形をしている。ほとんどは鈴仙の掌に収まるほどの大きさだ。数えると三頭分。歩幅は小刻みで、跡は浅い。
その中に――明らかに違うものが混じっていた。
掌を二つ並べても足りない。深さは、指の第二関節まで沈む。縁の土が外へめくれ上がっていて、踏み込みの強さを物語っていた。
「……これが、大きい方ね」
「しかも重いよ。牛より重いかもしれない」
てゐが隣にしゃがみ、土を一つまみ取って指で揉んだ。
「――湿ってる。掘り返したのは、昼過ぎだね。朝の跡なら、もっと乾いてる」
鈴仙は、倒れた竹の根元に目を移した。根は引き抜かれたのではなく、下から掘り崩されていた。土の中に、太い溝が何本も平行に走っている。牙を鋤のように土へ突っこみ、筍ごと根を掻き出した跡だ。齧り捨てられた筍の皮は、切り口がまだ白い。
少し離れた太い竹に、泥がこびりついていた。
腰をかがめなくても届く高さ――鈴仙の胸の辺りだ。泥の中に、茶色い剛毛が何本も絡みついている。竹の皮が、斜めに擦り剥けていた。
「体を擦り付けたのね。……ここまで背があるなら」
「肩の高さで、鈴仙の胸くらい。頭はもっと低く構えてくる。寺に居た駆け出しの子は、よく生きて帰れたもんさ」
てゐの声は、平らだった。
その先の藪に、竹籠が一つ転がっていた。編み目が裂け、中の筍が散らばっている。籠の縁には、深く抉れた牙の跡。あの娘が追い回されたのは、ここだ。籠の周りの蹄の跡は一本の真っ直ぐな線を描き、籠のあった場所を突き抜けていた。
――突進は、曲がらない。
鈴仙は、その線の先を目で辿った。線は竹にぶつかる手前で途切れ、そこから大きく横へ逸れていた。ぶつかる直前で踏みとどまり、向きを変えたのだ。
「……真っ直ぐにしか来ない。でも、止まってからなら向きは変えられる」
「そういうこと。一回目を躱して油断したのが、あの子の運の尽きさ」
足元の兎達が、キイキイと鳴き交わした。てゐが耳を傾け、それから眉をひそめた。
「……おかしいね。こいつら、群れは南の筍林で掘ってるって言ってる」
「それの何がおかしいの?」
てゐは黙って、地面を指差した。
新しい蹄の跡は、南を向いていなかった。印の道に沿って、北へ。竹林の入口の方へ――人里へ、そして永遠亭へ怪我人を運ぶ道の方へ、点々と続いている。
「筍の匂いを追って、道伝いに上がってきてる。南の筍は、もう食い尽くしたんだ」
鈴仙の耳がピクリと立った。このまま道を辿られれば、印の竹は三本では済まない。
鈴仙は立ち上がり、竹の葉の揺れを見た。風は北から、竹林の入口の方から吹き下ろしている。
――こちらが風下だ。だが風が回れば、すぐに気付かれる。
「回り込むわよ。蹄の跡の脇の、落ち葉の少ない所を踏んで」
「言われなくても、忍ぶ兎は音を立てないよ」
二人は道を外れ、竹の間を縫って、蹄の跡を追った。兎達は先回りして、竹の陰から陰へ、音もなく跳ねていく。乾いた落ち葉の上を避け、湿った土だけを選んで進む。百歩ほど行くと、獣の匂いが、急に濃くなった。
――その先で、何かが土を掘る音がした。
竹の間から、茶色の背中が三つ見えた。見た目は猪だ。人の腰ほどの丈で、短い牙を土に突っ込み、筍を掘り返しては夢中で齧っている。[ブルファンゴ*2]の群れだった。
そして――その奥。
ひと回りどころではない。牛ほどもある大猪が、太い竹に体をこすりつけていた。全身を覆う茶色の剛毛。首から背にかけて、灰色の長い鬣が逆立っている。口の両脇から反り返った白い牙は、鈴仙の腕より太かった。
大猪がこすりつけた竹が、ミシリと軋んで傾いた。
鈴仙は竹の陰に身を沈め、息を殺して群れを見る。
大猪は、ただ体を擦っているのではなかった。竹に肩を押し当て、ゆっくりと体重をかけていく。根の張りが弱い若竹が傾いで、土が持ち上がる。浮いた根元へ鼻先を突っこみ、牙で土を掻き出すと、白い筍がごろりと転がり出た。
大猪はそれを、ひと口で噛み砕いた。
子分達は、親分が掘り終えるまで近寄らない。少し離れた所で鼻を鳴らしながら待ち、親分が次の竹へ移ると、我先に掘り跡へ飛びこんで、残った根や皮を漁り始める。
〈ブギッ、ブギッ〉
――掘るのは親分で、子分はおこぼれを食べる。だから群れは、親分の鼻の向く方へ動く。
「……親分を動かせば、子分はついてくるわね」
「そういうこと」
てゐが、鈴仙の耳元で囁いた。
「兎達が、奥の筍林まで筍を一本ずつ置いてってる。皮を剥いて、匂いが立つようにね。あいつの鼻を一度そっちへ向けさせれば、後は勝手に歩いてく」
「向けさせるまでが、大変なんでしょう」
「だから鈴仙を連れてきたのさ」
鈴仙は、大猪の体を目でなぞった。
左の脇腹に、古い傷が一筋走っている。毛の生え方がそこだけ違う。何年も前に、何かの爪にやられたのだろう。右の牙の先は、わずかに欠けていた。太い竹か岩に、何度も打ちつけてきた牙だ。
長く生き延びてきた獣は、無茶をしない。勝てない相手からは引き、腹が満ちればさっさと帰る。――だがそれは、腹が満ちていればの話だ。
南の筍林を掘り尽くして、ここまで上がってきた。今のあれは、腹を空かせている。
鈴仙は背中の得物を下ろし、音を立てずに組み上げた。銃身を伸ばし、照準器を起こす。握りに指をかけた途端、口数が減るのが自分で分かった。月で兵士だった頃の癖だ。
「――弾種、通常弾。当てるのは牙だけ。体には当てない」
低い声で言うと、隣でてゐが頷いた。
「筍の列は、もう奥まで敷いた。あいつの鼻を、そっちに向けさせりゃいい」
その時、大猪の鼻が、ピクリとこちらを向いた。
風が変わったのだ。小さな目が、竹の間の二人を捉える。大猪は頭を低く下げ、前脚の蹄で地面をガリガリと掻き始めた。
――地面を掻くのは、突進の前触れ。
「鈴仙、そこ危ない」
てゐの声は短く、平らだった。冗談の欠片もない。
大猪が地を蹴った。
土煙が上がる。茶色の巨体が、竹の間を一直線に突っ込んでくる。速い。思っていたよりずっと速い。牙の先が、見る間に大きくなる。
鈴仙は動かなかった。
代わりに、目の奥で、光の波をほんの少しだけずらした。自分の姿が、半歩横にあるように見えるように。
大猪の牙が、鈴仙の
突進は曲がれない。大猪は勢いのまま、正面の太い竹にまともにぶつかった。
ドンッ!――と竹林が揺れた。
竹の葉がバラバラと降ってくる。大猪は頭を振り、たたらを踏む。目を回しているのだ。
鈴仙はライトボウガンを構える。照準の先に、反り返った白い牙。引き金を引く。乾いた音がして、弾が牙の根元を叩いた。もう一発。逆の牙。牙が鳴り、大猪が嫌がるように首を振る。
〈ブギッ、ブギィッ!〉
横合いから、小さな猪が一頭、てゐに向かって突っ込んできた。てゐは跳ねるように半身になって、目玉模様の剣の腹で、猪の鼻面をペチリと叩く。猪は目を白黒させて、自分の勢いのまま竹藪の中へ転がっていった。
だが、大猪はもう目を回してはいなかった。
首を振って竹の葉を払い落とすと、灰色の鬣が根元から逆立った。鼻息が荒くなり、小さな目が赤く濁る。牙を二度も叩かれたことが、よほど腹に据えかねたらしい。
〈ブフッ、ブフゥッ……!〉
――怒った。
大猪は、鈴仙の方を向かなかった。子分を転がした、小さな兎の方へ向き直る。前脚が地面を掻く。さっきより速い。二度、三度。
「てゐ!」
「分かってる」
てゐは逃げなかった。くるりと踵を返し、太い竹が二本並んで生えている隙間へ、ひょいと身を滑りこませる。
そこへ大猪が突っこんだ。
巨体が竹の隙間に挟まり、ミシミシと竹が悲鳴を上げた。牙の片方が、裂けた竹の幹に深く食い込む。大猪は首を振って抜こうとするが、竹は撓るばかりで折れない。
てゐは竹の向こう側で、腕を組んで見物していた。
「ここの竹はしぶといよ。兎達が毎朝、根元を踏み固めてるからね」
鈴仙は照準を、もがく大猪の耳の上へ合わせた。体には当てない。当てるのは、竹だ。
息を止め、引き金を引く。弾が、牙を咥えこんだ竹の節を撃ち抜いた。竹が割れ、牙が抜ける。大猪は勢い余って尻餅をつき、きょとんとした目で辺りを見回した。
鬣が、ゆっくりと寝ていく。怒りの熱が、少しだけ引いていた。
「ほら、こんな兎よりこっちの方が美味いよ」
てゐが、懐から一本の筍を取り出した。皮を剥いたばかりの、白く柔らかな筍だ。それを、大猪の鼻先めがけて放り投げる。筍は弧を描いて、竹林の奥、兎達が筍を敷いた一本道の上にポトリと落ちた。
大猪の鼻が、ヒクヒクと動く。
牙を叩かれた痛みと、目の前の筍の匂い。大猪はしばらく、鈴仙とてゐと、道の上の筍を見比べる。やがて――鼻を鳴らし、ノソリと向きを変えた。
一本目の筍を、ひと齧り。その先に、二本目が転がっている。さらに奥には三本目が見える。
大猪は筍を追って、竹林の奥へ、ノシノシと歩き出す。小さな子分達も、慌ててその後を追っていく。茶色の背中が、竹の向こうの夕霧に紛れて、やがて見えなくなった。
鈴仙は、ゆっくりとライトボウガンを下ろした。
「……行った、わね」
「行ったね。奥の筍林は広い。しばらくは、こっちまで出てこないよ」
てゐは剣を収め、倒れた竹の根元にしゃがみ込んだ。指で土を払い、刻み目を確かめる。兎達がいつの間にか戻ってきて、新しい竹に新しい印を刻み始めていた。三本線。丸に一本線。夕暮れが来る前に、道は元どおりに繋がるだろう。
「奥まで、確かめてくるわ」
「好きにしな。こっちは印の復旧で手が離せない」
鈴仙は、筍を置いた一本道を辿っていった。
一本目の筍は、皮だけが残っていた。二本目も、三本目も。皮の脇には、深い蹄の跡と、小さな蹄の跡が並んで続いている。子分達は、ちゃんと親の後ろについていったのだ。蹄の跡の向きは、一度も乱れていなかった。
竹の間を抜けるにつれて、夕霧が濃くなっていく。
――やがて、竹林の奥がひらけた。古い筍林だ。背の高い竹がまばらに立ち、足元には、まだ誰にも掘られていない土が広がっている。
――その手前の窪地で、泥が跳ねる音がした。
鈴仙は竹の陰で足を止めた。湧き水の溜まった泥の窪みに、大猪が横倒しになって転がっていた。背中を泥に擦りつけ、腹を見せ、また寝返りを打つ。鬣にも牙にも、たっぷりと泥がまとわりついていた。子分達は窪地の縁で、親の真似をして小さな体を泥に押しつけている。
〈ブフゥ……〉
満足げな、間の抜けた鼻息だった。
――ぬた場だ。
猪の仲間は泥を浴びて、体の熱を冷まし、毛に付いた虫を落とす。てゐが前にそう言っていた。ぬた場に入った猪は、日が暮れるまで動かない。そして泥のある場所を、自分の寝床に決める。
鈴仙は、ライトボウガンの照準を覗かなかった。覗く必要がなかった。
帰り道、筍の皮を一枚拾って懐紙に包んだ。歯の跡が、くっきりと残っている。師匠の机に置いておけば、何か言われるかもしれないし、言われないかもしれない。
戻ってくると、印の付け直しは半ば済んでいた。
「お代は?」
てゐが、振り返りもせずに言った。
「……何のよ」
「筍代と、兎達の手間賃」
鈴仙は小さく溜め息をつき、懐から小銭を出した。
「じゃあ、御守を一つ。……それでいいでしょう」
てゐは振り返り、今日いちばん嬉しそうな顔をした。
~永遠亭 縁側~
―――永遠亭に帰り着いたのは、すっかり日が暮れてからだった。
空になった薬箱を配達所の棚に戻し、赤い瓶を赤い札の段へしまう。兎達はもう眠っている。研究室の障子だけが、まだ明るかった。師匠は今夜も、あの毒腺と睨み合っているのだろう。
鈴仙は縁側に腰を下ろし、巡回の帳面を開いた。今日一日の出来事を、順に書き付けていく。
人里 置き薬十一軒、補充済み。長屋の一軒に赤瓶一本、回収。会館医務へ連絡済み
中央会館 回復薬二十、解毒薬十、納品
命蓮寺 患者四名。永遠亭への搬送、なし
竹林の入口 猪の群れ、南の筍林へ誘導。印の竹三本、付け直し済み
――書き終えて筆を置いた時、鈴仙は、自分の指先が細かく震えているのに気付いた。
今になって、震えている。
あの大猪の牙が、目の前まで迫った瞬間。波をずらしたのは、半歩だけだった。もしも、ほんの少し遅れていたら。もしも、あれが猪ではなく、もっと大きな何かだったら。
――『月の都』に居た頃も、兵士としての自分もそうだった。前に立っている間は、手は少しも震えない。震えるのは、いつも全部が終わって、一人になってからだ。
鈴仙は、震える手を膝の上で握りしめた。
その拳の中で、何か小さなものがカサリと鳴った。
てゐの御守だった。兎の顔を縫い取った、安っぽい布袋。効き目は博麗のものと大差ない、とてゐ自身が言っていた。中に何が入っているのかも、怪しいものだ。
それでも、握っているうちに、指先の震えはゆっくりと収まっていった。
「……売り文句だけは、一番上手いのよね」
鈴仙は小さく笑って、御守を懐にしまった。
竹林の方から、夜風が渡ってくる。その中に、遠く、竹を叩くような音が混じっていた。奥の筍林で、あの大猪がまだ筍を掘っているのだろう。人里の方角には、ぽつぽつと家々の灯りが見える。赤い瓶の消えた、あの長屋の灯りも、きっとその中にある。
明日になれば、また誰かが怪我をして、誰かが薬箱を開ける。竹林の印は伸びた竹と一緒にずれていき、兎達が朝ごとにそれを付け直す。
――竜と暮らす郷では、命を運ぶ道も、毎日付け直されている。
研究室の障子の向こうから、師匠の声がした。
『うどんげ、帰ったの?』
「はい、師匠。――今、帳面を持っていきます」
鈴仙は立ち上がり、長い兎耳を一度だけ振った。折れていた片方の耳が、ピンと伸びた。
『因幡てゐ』
所属:永遠亭(竹林の兎達の頭)
役職:竹林の守りの責任者、罠師、商人
武器:兎惑剣『福因』(片手剣)
防具:眠鳥装【素兎】
『聖白蓮』
所属:人里ギルド、猟団"命蓮寺"
役職:命蓮寺の住職、猟団長
武器:幻獣盾斧『仁獣ノ誓』(チャージアックス)
防具:幻獣装【蓮華】
『幽谷響子』
所属:人里ギルド、猟団"命蓮寺"
役職:命蓮寺の門下、獣舎の世話係
武器:怪鳥笛『鳥獣伎楽』(狩猟笛)
防具:怪鳥装【木霊】