東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~東の尾根 岩棚の巣~
――夜明け前の岩棚に、白い息が三つ浮かんでいる。
巣の窪みの縁に、妹紅が胡座をかいていた。両の掌を窪みの上に翳し、薄い橙の炎を灯している。炎の下には、白い殻に赤茶の斑を散らした卵が七つ、枯れ草の上に寄り添って並んでいた。
十日前と同じ姿だった。違うのは、妹紅の目の下の隈と、巣の周りに増えた道具の山だけだ。
理香子は寒暖計を卵と卵の間から抜き、目盛りを読んだ。行灯の明かりに丸眼鏡を近付け、帳面に数字を書き付ける。
「……見張りを始めて十日目の朝。針は昨夜と変わらないわ」
「十日、毎晩これだ。針が変わってたら私が困る」
「えぇ、そうね。――ありがとう、妹紅」
妹紅は答えず、炎を少しだけ絞った。
――この十日、岩棚には見張りが交代で立った。昼は会館から依頼されて派遣されたハンターが。夜は妹紅とオトモのオキが。妹紅が眠る昼の間は、温めた灰を詰めた布袋を卵の周りに置いて冷えを凌いだ。灰は理香子が麓の小屋で焼き直し、日に三度運び上げている。
理香子は寒暖計を鞄に仕舞い、一番手前の卵の前に膝を付いた。
殻の天辺、斑の薄い所に、髪の毛ほどの細い罅が一本走っている。昨夜、行灯の明かりで見つけたものだ。
理香子は罅に耳を寄せた。
トン。――トン、トン。
内側から、殻を叩く音がする。十日前よりずっと強く、ずっと近い。
「……嘴打ちが始まってるわ」
「嘴打ち?」
「中の仔が、殻を内側から突き始めるの。罅が入ってから殻が割れるまで――早ければ二日。遅くても五日」
妹紅が炎の向こうから罅を見下ろした。
「――今日、動かすんだろ。保つのか」
「保たせるのよ。そのために、里香が十日掛けて組んだんだもの」
理香子は鞄の内ポケットから、折り畳んだ紙を一枚取り出した。昨日の夕方、オキが首に結んで運んできた、慧音の書き付けだ。
――『卵を移す。行き先は生態研究室の孵卵小屋。巣ごと移すかは、孵ってから決める。番が戻った時のため、見張りは尾根に残す』
慧音は十日の間、卵をどうするかを決めなかった。決めずに、待った。
――『番が戻ってくるかもしれない。戻ってくれば、卵は親の腹の下に返せる。それが一番いい』
だが、十日待っても、尾根の空に火竜の影は一度も差さなかった。
「……慧音さんは、ギリギリまで待ったのよ」
理香子は紙を畳み直した。
「嘴打ちが始まったら、もう待てない。孵った仔を、この岩棚で育てることはできないもの。親が居ないなら、餌を運ぶ者も居ないわ」
「孵ったら、どうする」
「孵ってから考えるのよ。――慧音さんも、そう書いてるでしょう」
妹紅は何か言いかけて、やめた。
理香子は立ち上がり、岩棚の縁を振り返った。
東の空が白み始めている。その薄明かりの中に、岩棚の縁から突き出した太い丸太の腕木が浮かび上がっていた。
~東の尾根 岩棚の縁~
――腕木の先には、鉄の滑車が二つぶら下がっている。
岩棚の縁の岩に、杭が四本打ち込まれていた。杭に丸太を縄で縛り付け、腕木を崖の外へ斜めに突き出す。腕木の先の滑車から、麻を三本撚り合わせた太い縄が崖下へ垂れていた。縄の端は岩棚の上の巻き取り車に繋がり、巻き取り車の脇には、木の歯止めの付いた鉄の輪が嵌め込んである。
その巻き取り車の陰から、三つ編みの頭がひょいと顔を出した。
「おはようございますなのです!今朝は風が弱いのです。下ろすなら今のうちなのです!」
人里ギルドの技術屋、里香だ。額に防護眼鏡を上げ、油の染みた前掛けには、昨夜から一度も外していないスパナが三本差さっている。
「里香。歯止めの具合は?」
「昨日の夕方に、砂袋を卵七つ分の重さにして十回下ろしたのです。十回とも、歯止めが一つずつちゃんと噛んだのです。縄の擦れも見たけど、腕木の当たりに革を巻いたから大丈夫なのです」
里香は巻き取り車の取っ手を軽く回してみせた。カチ、カチ、と歯止めが鉄の輪の歯を一つずつ噛み、取っ手から手を離しても、縄は一寸も滑らない。
「火薬樽を崖から下ろすのと同じなのです。急に止めない、急に動かさない。それさえ守れば、中身は自分が運ばれてることにも気付かないのです」
「卵は火薬樽じゃないわよ」
「火薬樽より繊細なのです。だから、火薬樽用より念入りに組んだのです」
里香は胸を張り、崖下を指差した。
「下にはもう台車を置いてあるのです。藁を三重に敷いて、車軸には板発条を噛ませたのです。小石を踏んでも、揺れは半分になるのです」
理香子は崖の縁から下を覗いた。
岩棚の下、尾根の斜面がなだらかになった所に、幌を掛けた荷台が一台待っている。荷台の前には、会館の厩から借りてきた年寄りのアプトノスが一頭、繋がれていた。のんびりと草を食んでいる。
「……吊り籠は?」
「これなのです!」
里香が巻き取り車の脇から籠を一つ持ち上げた。
竹を細く割って編んだ深い籠だ。人の胴ほどの大きさがある。籠の底と側面には綿を詰めた布が張られ、真ん中に卵がちょうど一つ収まる窪みが作られている。籠の四隅から四本の吊り紐が伸び、上で一つの鉄の輪に纏まっている。
「籠は七つ作ったのです。一つの籠に一つの卵。一度に一つずつ下ろすのです。七往復なのです」
「一度に全部じゃないのね」
「一度に全部下ろして、もし縄が切れたら、七つ全部が駄目になるのです。一つずつなら、最悪でも一つだけの犠牲なのです」
里香はさらりと言った。
理香子は籠の窪みを指で押し、綿の厚みを確かめた。それから鞄を開け、布袋を七つ取り出す。昨夜のうちに焼き直した灰を詰めた袋だ。袋はまだ温かい。
「卵の下に、この灰袋を一つずつ敷くわ。藁と綿だけじゃ、下ろしてる間に冷えるから」
「台車に移した後は、冷えないのです?」
「麓の台車に着いたら、灰袋を入れ替えるわ。台車にも、焼いた石を二十個積んである。藁の下に埋めて、上から毛布を被せるの」
理香子は腕を組み、崖下の台車と巣の卵を見比べる。
「――殻の中は、親のお腹と同じ温かさでなきゃいけないの。熱すぎても、冷たすぎても駄目。里まで半日。半日の間、ずっとよ」
「――なら、台車の上でも私が温めればいい」
妹紅が巣の前から言った。
「炎で包めば、石も灰も要らないだろう」
「あなた、十日寝てないじゃない」
「昼に寝てる」
「一時間もない昼寝を寝たとは言わないの」
理香子は鞄から帳面を出し、一頁を開いて妹紅の前に突き出した。この十日の、妹紅の炎の記録だ。夜ごとに書き付けた寒暖計の目盛りが並んでいる。並びの最後の方で、数字がほんの少しずつ下がっていた。
「針が下がってるのは、あなたの炎が弱ってるからよ。――台車では、焼いた石が主。あなたは石が冷めた時の継ぎ足し。それでいいわね?」
妹紅は帳面を見て、しばらく黙っていた。
「……あぁ、分かった」
「よろしい」
理香子は帳面を閉じた。妹紅は鼻を鳴らし、掌の炎を一度だけ明るくして、また元に戻した。
オキが、巣の脇から顔を上げた。灰白の毛並みに、朝の光が当たり始めている。オキは鼻をヒクつかせ、尾根の下の斜面の方へ、一度だけ耳を向けた。
理香子はそれを、目の端に留めた。
~東の尾根 岩棚の巣~
――一つ目の卵は、罅の入った卵にすることにした。
「一番先に孵りそうな子を、一番先に下ろすの。里で待つ時間が長い方がいいわ」
理香子は両手に厚い布を巻き、罅の入った卵の下に掌を差し入れた。
ズシリと重い。人の頭より一回り大きく、抱えると腕が下がる。殻は思ったより温かい。妹紅の炎の熱が、殻の奥まで染みている。
卵の中で何かが動いた。殻越しに、掌へ小さな衝撃が伝わる。
――生きている。
十日前、冷たい殻の奥で微かに聞こえた音と、同じ音だった。ただ、ずっと強い。
理香子は息を止めたまま、卵を籠の窪みへ下ろした。灰袋の上に、罅を上にして。綿の布で卵の周りを包み、上から布を一枚掛ける。
「籠、閉じるのです」
里香が籠の蓋を被せ、四隅の紐を鉄の輪に通した。輪を、縄の先の鉤に掛ける。
「――それじゃ、下ろすのです」
里香は巻き取り車の取っ手を両手で握り、歯止めを一つ外した。
――カチ。
籠が、岩棚の縁を離れた。
腕木の先の滑車がキイ、と鳴る。籠は崖の外の宙にぶら下がり、ゆっくりと揺れた。里香は取っ手を握ったまま、揺れが収まるのを待つ。揺れが止まってから、歯止めをもう一つ外す。
――カチ。
籠が一尺下がる。
――カチ、カチ。
里香は崖下を見ていない。籠の揺れだけを見ていた。揺れが出れば止め、止まれば下ろす。取っ手を握る手の甲に、汗の玉が浮いている。
理香子は崖の縁に腹這いになり、籠の行方を見守った。
籠は、尾根の斜面の半ばまで下りた。そこで、崖の途中の岩の出っ張りに、籠の角が近付いた。
「里香!右に一尺――」
「――分かってるのです」
里香は巻き取り車の脇の、もう一本の細い縄を引いた。籠の脇に結んだ控え綱だ。籠がわずかに右へ振れ、出っ張りの横をすり抜ける。
理香子は止めていた息を吐いた。
籠は斜面の下まで下り、待っていた見張りのハンターが両腕で受け止めた。籠ごと台車の藁の上へ下ろし、腕を大きく振る。
「――着いたのです!」
里香が取っ手から手を離し、手の甲で額の汗を拭った。
「……一つ目、なのです」
「あと六つね」
「あと六往復なのです」
里香は防護眼鏡を額から下ろし、また取っ手を握った。
妹紅が、巣の前で二つ目の卵に手を翳した。炎の熱で、殻を温め直している。
理香子は帳面を開き、一つ目の卵の欄に、下ろし終えた刻を書き付けた。
――五つ目の卵を下ろしている時、風が出た。
尾根の肩を越えて、東からの風が岩棚を叩く。腕木の先で、籠が大きく振れた。崖の岩肌の方へ。
「――止めるのです!」
里香が歯止めを二つ続けて噛ませた。カチカチ、と鉄の輪が鳴り、縄がピンと張る。籠は宙で振り子のように揺れ、崖の岩肌まで、あと一尺の所で振り戻った。
また振れ、また戻る。
里香は取っ手を握ったまま、動かなかった。控え綱にも触れない。
「……引かないの?」
「今引くと、籠が回るのです。回ったら、もっと揺れるのです」
里香の声は低かった。目は籠から離れない。
「振り子は、放っておくのが一番早く止まるのです」
風が、フッと弱まった。籠の揺れが少しずつ小さくなり――やがて、真っ直ぐに垂れて止まった。
里香は長く息を吐いた。
「……三つ数えたら、また下ろすのです」
理香子は、自分が崖の縁の岩を指で掴んでいたことに気付いた。指先が白くなっている。手を離すと、指の腹に岩の跡が付いていた。
六つ目、七つ目は、風の合間を縫って下ろした。
最後の籠が台車に収まった時、日は尾根の上に昇り切っていた。
――岩棚の上に、空っぽの巣が残った。
枯れ枝と枯れ草を、大きな円の形に積み上げた窪み。窪みの底には、七つの卵が並んでいた跡が、丸く凹んで残っている。理香子は巣の縁にしゃがみ、凹みの一つに掌を当てた。
――まだ温かい。
理香子は方位磁石を開き、巣の縁に置いた。針が落ち着くのを待ち、帳面に書き付ける。巣の向き。岩棚の開いた方角。十日前に番が飛び去った方角。
――戌亥。
帳面の端の、短い線の並びを見る。一本目は東の街道。二本目は、この尾根の麓。どちらも、同じ向きを向いている。
理香子は帳面を閉じ、巣の縁の枯れ枝に、赤い布切れを一本結んだ。会館の印だ。巣の主が戻れば、布は引き千切られる。戻らなければ、雨風に晒されて色が褪せる。
「……行きましょう」
妹紅が巣の前から立ち上がり、掌の炎を消した。オキがその脇に寄り添う。
里香は腕木の縄を巻き取り車から外し、丸めて肩に担いだ。
「腕木と滑車は、置いていくのです。後で、もう一度使うかもしれないのです」
「もう一度?」
「――巣ごと移す時なのです。慧音さんが、そう決めたらそのまま再利用できる方が便利なのです」
里香はそれだけ言って、崖を下りる縄梯子に手を掛けた。
~人里 東の外れ 生態研究室の孵卵小屋~
――同じ頃、里の東の外れの小屋では炉の砂が温まり始めていた。
土間に切った炉は、人が二人横になれるほどの大きさがある。炉の底に炭を並べ、その上に川砂を一尺の厚さに敷き詰めてあった。炭火の熱が、砂の中をゆっくりと上がってくる。
阿求は袖を襷で括り、炉の縁に膝を付いていた。
砂に挿した寒暖計を一本抜き、目盛りを読む。理香子が置いていった書き付けと見比べ、首を傾げ、炉の端の炭を火箸で一本だけ脇へ寄せた。
「……ケホ」
それから、小さく咳き込んだ。
「――阿求!何してるのよ、そんな慣れないことして!」
――戸口から小鈴が飛び込んできた。腕には紙の束を抱えている。
「炭の番なら、研究室の人に頼めばいいじゃない!阿求が煙なんか吸ってたら、慧音先生に怒られるわよ!」
「研究室の人は、皆、尾根の見張りに出ているのですよ。理香子さんの書き付けどおりに砂を温めるだけです。難しいことではありません」
阿求は寒暖計を砂に挿し直し、立ち上がり――少しだけ膝が揺れた。小鈴が慌てて腕を取る。
「……ほら。無理するから」
「……ありがとう、小鈴」
阿求は文机の前に腰を下ろした。小屋の隅に据えた小さな文机だ。その上に、『博麗原野』の地図の巻物が広げてある。
「それで、その紙の束は?」
「あ、そうだった。会館に昨日届いた覚え書き、阿求が見たいって言ってたでしょ。竹林の鈴瑚さんのと、魔界の猟団のと」
小鈴は紙の束を文机の上に置いた。一枚目は、細い字で丁寧に書かれた鈴瑚の覚え書き。二枚目は、旅行記の頁を切り取ったような、ルイズの帳面の写しだった。
阿求は二枚を並べ、一行ずつ指でなぞった。
霧の湖の南岸、ケルビの蹄跡、揃って西へ。東の丘の北の岩場、ジャギィ不在。東の街道の榎の休み場、ブルファンゴ四頭、北の原野より南へ。神社の裏の大木より、夜半に岩の転がるような音。
阿求は筆を取り、墨を含ませた。
朱ではなく、墨で。
博麗神社の裏山の辺りから、西へ一本。南へ一本。東の丘の方へ、もう一本。短い線を、裏山を中心にして外へ向けて描いていく。
「……阿求。いつもの赤い矢印じゃないの?」
「これは、別の矢印です」
阿求は筆を置いた。
地図の上で、墨の短い線が、裏山を中心に花びらのように散っている。その西の方、原野の南の窪地と東の尾根からは、朱の線が二本、真っ直ぐに伸びていた。
小鈴は、二色の線を見比べた。
「……向きが、全然違うね」
「えぇ。――全然違います」
阿求はそれ以上は言わず、炉の方を振り返った。寒暖計の針が、少しずつ上がっていた。
~東の尾根 麓の小道~
――台車は、小川に沿った小道をゆっくりと西へ進んだ。
年寄りのアプトノスが、ノッソリと荷台を牽く。荷台の上には七つの籠が二列に並び、籠と籠の間を藁が埋めていた。藁の下には、麓の小屋で焼いた石が二十個。石の熱が藁を通して籠の底へ上がり、上から掛けた毛布が、その熱を逃がさない。
理香子は荷台の縁に腰掛け、半刻ごとに寒暖計を籠の間に差し入れた。
「……少し下がったわ。妹紅、四つ目と五つ目の間」
「はいよ」
荷台の後ろを歩いていた妹紅が、掌に炎を灯した。毛布の端を持ち上げ、籠の間に炎を翳す。炎は藁に触れず、藁の上、指一本分の所で揺れた。
「どうだ」
「……戻った。もういいわ」
妹紅は炎を消し、毛布を戻す。
里香はアプトノスの手綱を引きながら、荷台の車輪を何度も振り返っていた。小石を踏むたびに、車軸の板発条がギシリと鳴る。鳴るたびに里香の肩が跳ね、理香子が寒暖計から顔を上げた。
「……里香。発条が鳴るたびにこっちを見ないで。私まで落ち着かなくなるわ」
「鳴るのは、ちゃんと揺れを吸ってる証拠なのです。鳴らなくなったら、それは壊れた時なのです」
「じゃあ、鳴ってる方がいいのね」
「鳴ってる方がいいのです。……でも、気になるのです」
小道は小川の右岸を下っていく。川の流れは浅く、丸い石の河原が両岸に広がっていた。
――オキが、立ち止まった。
荷台の前、小道の脇の河原で、オキは鼻を地面に擦り付けている。首の毛が、少しだけ逆立っていた。
「……オキ?」
妹紅が荷台の脇を抜け、オキの隣にしゃがんだ。
河原の砂地に、足跡が残っていた。――三本指。鳥の足に似た、小さな足跡だ。泥の付いた足で砂の上を歩き回り、行ったり来たりしている。
理香子も荷台から下り、妹紅の隣に膝を付いた。巻尺を出し、足跡の幅を測る。
「……指先から踵まで、七寸」
「十日前の岩棚の足跡と同じか」
「同じ大きさね。――見て、ここ」
理香子は、足跡の並びの脇を指差した。
河原の丸い石が、ある所だけ不自然に退けられていた。石を一つ抱え上げた跡だ。石の抜けた凹みに、まだ水気が残っている。凹みの縁の砂は、崩れていない。
「抜いてから、半刻も経ってないわ」
妹紅は凹みの大きさを手で測った。拳二つ分。
十日前、岩棚の巣の脇に転がっていた石と、同じ大きさだった。
オキがまた鼻を鳴らした。今度は河原の先の、岸の灌木の根元だ。
妹紅が灌木の枝を掻き分ける。根元の窪みに、小鳥の巣が一つ落ちていた。枝の上から引き摺り下ろされたらしく、編んだ草がばらばらにほつれている。巣の中には、割れた小さな卵の殻が三つ。殻の縁に、乾いた黄身がこびり付いていた。
巣の脇の枝に、羽毛が一枚引っかかっている。暖かな橙色の、ふわりとした飾り羽だ。
理香子は羽毛を摘み上げ、標本の管に収めた。
「……小鳥の卵で、腹の虫を誤魔化してたのね。殻はまだ湿ってる。今朝のうちよ」
「腹を空かせたまま、ここで待ってるってことか」
「えぇ。――この十日、尾根の巣には見張りが居て近付けなかった。だから、卵が尾根から下りてくるのを、下で待ってたのかもしれないわ」
理香子は管に札を付け、番号を書き込んだ。
「あの子は頭がいいの。石を道具に使える鳥竜よ。奪われた卵がどこを通るか、くらいは考えるでしょう」
「――あいつか」
妹紅が立ち上がった。
理香子は足跡の向きを目で追った。足跡は河原を行き来した後、小道と並行して、下流の方へ続いている。台車の進む先へ。
「……先回りしてるのね」
「卵の匂いを覚えてるんだろう。十日前、あいつは一つ盗りかけた」
理香子は荷台の上の七つの籠を振り返った。毛布の下から、焼いた石の熱が陽炎のように揺れている。
「卵は、あの子の大好物よ。それに――親の居ない卵だってことも、もう知ってる」
里香が手綱を握ったまま青い顔をした。
「ど、どうするのです。引き返すのです?」
「引き返したら、卵が冷えるわ。巣に戻しても――温める親はまだ居ないのよ」
理香子は鞄の蓋を開け、中から丸い玉を二つ――[閃光玉]の内一つを里香に渡す。
「投げ方は分かるわね」
「火薬の玉なら、目を瞑ってても投げられるのです」
「目は瞑っちゃ駄目よ。――光る瞬間だけ、瞑るの」
妹紅は背中の双剣の柄に手を掛けた。抜きはしない。荷台の前に出て、オキと並んで歩き始める。
「このまま進む。あいつが出てきたら、私とオキで追い払う。お前達は荷台から離れるな」
「分かったわ」
台車はまた動き出した。
小川の流れる音が、さっきより大きく聞こえた。
――河原の石が、カラリと鳴った。
下流の方、小道が川沿いに曲がる所だ。岸の灌木の陰で、何かが動いた。
理香子は寒暖計を握ったまま、そちらを見た。
灌木の陰から、白っぽい頭が覗いている。細く長い首。大きな嘴。頭の天辺に、暖かな色の飾り羽が揺れていた。
首の下、乳白色の鱗の脇腹に、薄く赤い筋が三本走っている。治りかけの、刃の跡だ。
クルルヤックは灌木の陰から一歩踏み出し、首を傾げた。太く発達した前脚の三本指が、胸の前で丸い石を抱えている。小さな目が、妹紅を見て、オキを見て――荷台の上の毛布へ吸い寄せられた。
嘴がカチリと鳴った。
「――止めて、里香」
理香子が囁くと、里香が手綱を引いた。アプトノスがのっそりと足を止める。
妹紅は背から双剣を抜いた。
赤黒い二振りの刃が、肩越しに背から抜き放たれる。振り出しただけで、刃の根元から火の粉が一粒散った。オキが妹紅の左に並び、背の鎖をジャラリと鳴らす。
クルルヤックは、石を胸の前に掲げた。
――石を持っている間は、強気だ。
十日前と同じだった。
クルルヤックが跳んだ。
石を両腕で頭の上に振りかぶり、河原を蹴って小道へ躍り上がる。狙いは妹紅ではない。妹紅の脇をすり抜けて、荷台へ。
「――させるか!」
妹紅は横へ跳び、鳥竜の進む先へ回り込んだ。振り下ろされた石を、交差させた双剣で受ける。ガツン、と重い音がして、腕が痺れた。火の粉と石の欠片が一緒に散る。
クルルヤックが後ろ脚で蹴り上げてきた。妹紅は身を反らして避け、二歩下がる。下がった分だけ、鳥竜が荷台へ近付いた。
「――オキ!」
オキが地を蹴った。背の鎖が解け、二振りの鎌が宙を走る。鎖鎌がクルルヤックの脚元を薙ぎ、鳥竜は跳び上がって避けた。荷台との間に、鎖の唸る輪ができる。
クルルヤックは苛立ったように嘴を打ち鳴らし、石を胸の前に構え直した。ジリ、ジリと横へ回る。妹紅が踏み込めば、刃は石に当たる。
――十日前と同じだ。手放させれば、臆病に戻る。
だが、十日前と違うことが一つあった。
背後には卵がある。
妹紅が石を払いに飛び込めば、その間に鳥竜は荷台へ届く。荷台を背にしたままでは、双剣の手数が活きない。
「……妹紅、下がり過ぎよ」
理香子が荷台の陰から声を潜めて指摘する。
「分かってる。――だが、今は下がるしかないんだ」
クルルヤックが、石を振りかぶった。
だが、叩きつけてこない。振りかぶったまま、肩を大きく後ろへ引く。
――投げる気だ。
妹紅の頭の上を越えて、荷台へ。十日前、巣へ向かって石を投げつけた時と同じ構えだった。
「理香子、伏せろ!」
妹紅は叫びながら跳んだ。投げ放たれた石の軌道へ、真横から。右の刃を振り上げ、宙を飛ぶ石の腹を叩く。
ガキン――!と火花が散った。
石は軌道を逸れ、荷台の幌の端を掠めて、小道の脇の草むらへ転がり落ちた。幌の布が一枚、裂けてはためく。
妹紅は着地して、すぐに振り返った。荷台の毛布は乱れていない。理香子が、荷台の陰で籠の上に覆いかぶさっていた。
「……無事よ!」
理香子の声に、妹紅は息を吐いた。右の手首が、石を叩いた衝撃でジンと痺れている。
クルルヤックは、もう次の石を探していた。河原の丸い石を、三本指で掘り起こしている。爪の先の吸い付くような指で、石をしっかりと掴んで持ち上げた。
クルルヤックが、また跳んだ。今度は川の側から回り込む。オキの鎖の輪の外側を跳び越え、荷台の後ろへ。
荷台の後ろに居たのは、里香だった。
「わ、わわっ……!」
里香は手綱を放し、荷台の後ろの荷箱に飛び付いた。蓋を跳ね上げ、中から何かを引っ張り出す。
――見た目は卵だった。
人の頭よりひと回り大きい、白い殻に赤茶の斑を散らした卵。荷台の上の七つと、そっくり同じ形をしている。
「――こんなこともあろうかと……なのですッ!」
里香はその卵を、両手で抱えて河原へ転がした。
ゴロリ、ゴロリと卵が河原の石の上を転がっていく。
クルルヤックの首が、グルリと回った。
小さな目が、転がる卵に吸い寄せられる。抱えていた石を、ためらいもなく放り出した。空いた三本指の手で、転がる卵へ跳び付く。
卵を抱え上げ、クルルヤックが河原を走った――下流へ。
「――今なのです!理香子さん、目を!」
里香が叫んだ。
河原を走るクルルヤックの腕の中で、卵がボンッと弾けた。
白い煙が鳥竜の頭を包む。煙の中で、カラカラカラ、と乾いた音が鳴り続けた。卵の殻の内側に仕込んだ、木の鳴子の音だ。
その煙の中から、クルルヤックの裏返った声が上がった。
理香子はもう玉を投げていた。
放物線を描いた[閃光玉]が、煙の縁で弾ける。理香子は、光る瞬間だけ目を瞑った。
白い光が、河原を真昼のように塗り潰した。
瞼の裏が赤く染まる。光が引いて目を開けると、煙の中で、クルルヤックがよろめいていた。目を眩まされ、首を振り、抱えていた卵の殻の欠片を取り落としている。
「――妹紅!」
「分かってる!」
妹紅は既に河原へ飛び込んでいた。
目の見えない鳥竜の脇腹へ右の刃、左の刃と斬り込む。治りかけの三本の筋の上に、新しい火の粉が散る。クルルヤックは甲高く鳴き、闇雲に蹴り上げて抵抗する。妹紅は身を沈めて潜り、蹴り足の外へ抜ける。
オキの鎖鎌が、鳥竜の尾を打った。
クルルヤックは身を翻す。
まだ眩んだ目のまま、河原を蹴って小川へ跳び込む。浅い流れを水飛沫を上げて渡り、対岸の灌木の中へ転がり込んだ。灌木がバキバキと鳴り、その音が、上流の方へ遠ざかっていく。
妹紅は河原に立ったまま、双剣を下げた。オキが対岸へ向かって一度だけ吠え、それきり追わなかった。
――河原に、静けさが戻った。
小川の流れる音だけが聞こえる。煙が風に流され、河原の石の上に、白い殻の欠片が散らばっていた。
理香子は荷台に駆け戻り、毛布を捲った。
七つの籠。七つの卵。一つずつ、殻に掌を当てていく。罅の入った一つ目の卵に耳を寄せると、トン、と内側から殻が鳴った。
「……七つとも、無事よ」
理香子は荷台の縁に手を付き、長く息を吐いた。
里香は河原にしゃがみ込み、散らばった殻の欠片を拾い集めていた。欠片の内側には、黒く焦げた紙と、割れた木の鳴子の破片がこびり付いている。
「……里香。転がしたのは何?」
「囮の卵なのです」
里香は欠片を一つ摘み上げ、得意げに振って見せる。
「漆喰で殻を作って、中に[煙玉]と鳴子を仕込んだのです。持ち上げると紐が引かれて、三つ数えたら弾けるのです。――化け化けの、卵版なのです」
「いつの間に、そんなものを」
「十日前に、理香子さんの報告を読んだのです。『卵泥棒で、石で叩き割って中身を啜る』って。だから――盗られて叩き割られても困らない卵を一つ、大急ぎで作っておいたのです」
里香は殻の欠片を前掛けのポケットに仕舞い、立ち上がった。
「本物の卵より、ちょっとだけ重いのです。卵泥棒なら、重い卵の方が中身が多いと思うのです。……多分」
妹紅が双剣を背の鞘へ納めながら戻ってきた。
「……つくづく思うが、お前の周りには変わった奴しか居ないな」
「あら。あなたも入ってるのよ、それ」
理香子が丸眼鏡を押し上げると、妹紅は鼻で笑い、掌に炎を灯した。
「――冷える前に、行くぞ」
台車がまた動き出した。
年寄りのアプトノスは、閃光にも煙にも驚いた様子を見せず、のっそりと荷台を牽き始めた。
~人里 東の外れ 生態研究室の孵卵小屋~
――小屋の土間に、砂を敷き詰めた炉が一つ切ってある。
炉の砂は、昼から炭火で温め続けてきた。砂の上には藁を敷き、藁の上に、七つの窪みが並んでいる。窪みの間に寒暖計が三本、砂に挿してあった。
稗田阿求は、炉の脇の文机に巻物を広げたまま、小屋の戸口を見ていた。
日が西に傾き、戸口から差し込む光が、土間の上に長く伸びている。
――遠くから、板発条の軋む音が近付いてきた。
ギシリ、ギシリ。
阿求は筆を置き、立ち上がった。
戸口に、台車が止まった。年寄りのアプトノスが鼻を鳴らし、荷台の幌の下から、理香子が降りてくる。白衣の裾は泥で汚れ、丸眼鏡に砂埃が付いていた。
「――お帰りなさい、理香子さん」
「ただいま、阿求さん。……炉は?」
「昼から温めてあります。針は、理香子さんの書き付けどおりに」
理香子は土間に上がり、砂に挿した寒暖計を一本ずつ確かめた。頷き、台車の方を振り返る。
「――運ぶわよ」
籠が一つずつ小屋の中へ運び込まれていく。妹紅が籠を抱え、理香子が蓋を開け、卵を炉の窪みへ移す。里香がその度に窪みの藁を整える。
七つ目の卵が窪みに収まった時、小屋の中は、卵の温かさと、炭の匂いで満ちていた。
妹紅は最後の籠を土間の隅に下ろすと、炉の縁にどかりと腰を落とした。掌を砂の上に翳しかけ、理香子に手首を掴まれる。
「――もういいの。今夜は砂が温めるわ」
「……そうか」
妹紅は手を引っ込め、炉の縁に背を預けた。目を閉じる。十日分の夜が、一度に肩に落ちてきたような顔だった。
阿求は文机の前から、その横顔を見ていた。
「妹紅さん。今夜は、会館の仮眠部屋をお使いください。慧音先生から、そう伝えるように言われています」
「慧音が?」
「『どうせ帰れと言っても、小屋の前で寝るだろうから』と」
妹紅は片目だけ開け、それから鼻で笑った。
「……分かってるなら、言うなって伝えといてくれ」
「はい。そのままお伝えします」
阿求が真顔で頷くと、里香が炉の脇で吹き出した。
阿求は、文机の前に座り直した。
帳面を開き、筆に墨を含ませる。
卵:七つ。うち一つに嘴打ちの罅を確認
崖下ろし:滑車と吊り籠にて七往復。事故なし
道中:小川沿いにて掻鳥一頭の襲撃。十日前と同じ個体と見る。撃退
損傷:卵なし。荷台の幌一枚
筆を止め、阿求は顔を上げた。
「……掻鳥は、十日前と同じ個体でしたか」
「脇腹に、妹紅の刃の跡が三本残ってたわ。今日、もう三本増えたけど」
「卵の匂いを、十日も覚えていたのですね」
「泥棒は執念深いのです」
里香が炉の脇で藁屑を払いながら言った。
阿求は帳面に一行書き足し、それから文机の上の巻物に目を移した。
博麗原野の地図だ。なだらかな丘、崩れた遺跡、小川、東の街道、東の尾根。墨で描かれたその上に、朱の線が引かれている。
一本目は、南の窪地から伸びる線。子産み場を捨てたアプトノスの群れ。
二本目は、東の尾根から伸びる線。卵を残して飛び立った火竜の番。
どちらの線の先にも、小さな鏃が描き足してある。二本の鏃は、同じ向きを向いていた。
そして地図の東の端、博麗神社の裏山の辺りには、昼に描いた墨の短い線が散っていた。
「……阿求、その黒い線は?」
理香子が文机の脇に膝を付いた。
「昨日、会館に届いた覚え書きです。竹林の鈴瑚さんと、魔界の猟団から。……どれも、神社の裏山を中心に、外へ散っています。散る向きは、墨。揃う向きは、朱。――そう分けることにしたんです」
「散る方は、裏山に何かが居て、そこから逃げてる」
「えぇ。魔界の猟団が見つけた爪痕の主でしょう。……ですが、こちらは」
阿求は、朱の二本の線に指を戻した。
「逃げているのではありません。散っていない。追われてもいない。ただ――揃って同じ方へ移動している」
阿求は硯の脇の小皿に、朱の墨を溶いた。
細い筆に朱を含ませる。
「理香子さん。今朝、巣で方位を測っていただけましたか」
「えぇ。巣の開いた向き、番が飛び立った向き、どちらも戌亥。それと――」
理香子は帳面を開き、一頁を阿求の前に置いた。
「尾根の見張りの組が、今日の昼に見たそうよ。尾根の上を、ガーグァの群れが渡っていった。二十羽ほど。脇目も振らずに、真っ直ぐ」
「向きは?」
「――戌亥」
阿求は何も言わなかった。
筆先を東の尾根の北の端に置く。そこから、戌亥の向きへ――尾根を越え、原野の北を横切り、二本の朱の線と並ぶように、真っ直ぐに線を引いた。線の先に、小さな鏃を描き足す。
三本の朱の矢印が、地図の上に並んだ。
三本とも、原野の北西の端を指していた。その先には、まだ何も描かれていない。
阿求は筆を置き、乾きかけた朱の線を見下ろした。
「――偶々、偶然の可能性は、二本までです」
理香子は答えなかった。
帳面の端に、三本目の短い線を、小さく引いた。
炉の上で、七つの卵が温かな色に照らされている。一番手前の卵が、トンと鳴った。罅がほんの少しだけ伸びている。
里香が炉の脇にしゃがみ込み、その罅に顔を近付けた。
「……明日か、明後日なのです?」
「早ければね」
妹紅は戸口の柱にもたれ、掌に小さな炎を灯したまま、卵の方を見ていた。オキは妹紅の足元で丸くなり、もう寝息を立てている。
「――親の顔を知らずに、か」
妹紅が誰にともなく呟いた。
阿求は帳面の頁を一枚捲り、新しい頁の頭に、日付と、一行だけを書き付けた。
『火竜の卵、七つ。親、未だ戻らず』
小屋の外で、夕暮れの風が吹いた。風は東から吹き、人里の屋根を越えて、戌亥の方へ流れていった。