東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第十八話:向きを変える死骸

~霧の湖 西岸 葦原~

――朝霧が、葦の穂先の高さまで降りている。

 

 霧の湖の西岸は、紅魔館の門から湖へ向かって緩く下り、水際の手前で背の高い葦の原に変わる。葦の根元は浅い泥の水溜まりで、踏むたびにクチュリと靴が沈んだ。

 小悪魔は葦を掻き分けながら、鞄の紐を肩に掛け直した。背には小悪魔軽弩『インプズ・アーカイブ』を畳んで負い、腰には標本瓶の入った袋が三つ、カチャカチャと鳴っている。

 

「美鈴さん、まだですか?」

「もう少し先ですよ。見張りの子が、葦の倒れた所に印を立てたって言ってましたから」

 

 前を行く美鈴が、振り返らずに答える。背のランスの穂先が、葦の上に突き出ている。その隣を、虎毛のガルク――オトモの番太が黙って歩いている。

 

――今朝早く。『湖畔前哨所』の見張りの妖精メイドが、門まで飛んでその異常を知らせに来た。

 

――『葦の中で、ケルビが一頭死んでる。噛まれた跡がない。なのに、血が無い』

 

 妖精メイドはそれだけ言うと、仕事の途中だったのも忘れて館の中へ逃げ込んでしまった。いつもなら、小悪魔は嬉々として飛んでいく。だが今朝は、妖精メイドの言葉の最後の一言が引っかかって、朝食のパンを半分残してきた。

 

――血が無い。

 

 小悪魔は、それが何を意味するかを知っている。

――二年前。『霧の湖』の周りで、同じ言葉が何度も報告された。小さな生き物が痩せ衰え、大型の獣がやつれ、漁師の網の魚までが白く濁った目をして浮いた。その全ての傷口を辿った先に居たのが――銀の鱗の古龍、『爵銀龍:メル・ゼナ』だった。

 

「――ここですね」

 

 美鈴が足を止めた。

 葦の原の真ん中に、丸く倒れた所がある。人が四、五人寝転べるほどの広さで、倒れた葦の上に、細い棒が一本挿してあった。棒の先には、妖精メイドの赤いリボンが結んである。

 その足元に、ケルビが横たわっていた。

 小悪魔は息を止めてしゃがみ込んだ。

 若い雄のケルビだ。角はまだ短く、枝分かれも少ない。脚を折り曲げ、首を葦の上に投げ出している。眠っているようにも見えた。だが、毛並みの下の皮膚が紙のように白い。

 

「……美鈴さん、少しだけ離れていてください。足跡を消したくないので」

「はい」

 

 美鈴は番太の首筋を軽く叩き、倒れた葦の外へ一歩下がった。番太は動かない。耳を立て、鼻先をケルビの方へ向けたまま、低く喉を鳴らしている。

 小悪魔は鞄を開け、手袋を嵌めた。巻尺、拡大鏡、帳面、筆、細い竹のピンセット。地面に布を一枚広げ、その上に道具を並べていく。

 まず、周りからだ。

 倒れた葦の縁を、小悪魔は四つん這いになって一周した。泥の上には、ケルビの蹄の跡が乱れて残っている。外から駆け込んできて、ここで何度も跳ね、回り、最後に倒れた跡だ。

 

「――逃げ回ったんですね、この子」

 

 蹄の跡は、外から真っ直ぐ入ってきている。小悪魔は帳面に矢印を一本書き付けた。

 他の獣の足跡は無い。ジャギィの三本指も、ブルファンゴの蹄も、大型の爪の跡も。泥に残っているのは、ケルビ自身の蹄の跡だけだった。

 

「美鈴さん。昨夜、この辺りで何か聞きましたか?」

「前哨所の子達は、夜中にケルビの鳴き声を聞いたそうです。甲高いのが何度か。それから静かになったって」

「何かに追われた鳴き声、ですね」

「えぇ。でも――」

 

 美鈴は、葦の原の向こうの湖面に目を向けた。

 

「追ってた方の気配は、ありませんでした。前哨所の子が言うには、ですけど。足音も、息遣いも、大きな影も。ケルビだけが、何も無いところで逃げ回ってたって」

 

 小悪魔は筆を止めた。

 それから、ケルビの体へ向き直る。

 拡大鏡を当て、首から肩、背、腹、脚と、毛並みを指で分けながら一寸ずつ見ていく。噛み傷は無い。爪の跡も無い。骨も折れていない。

 

――首の付け根の、毛の薄い所に、小さな丸い跡があった。

 小指の先ほどの大きさの、真ん丸な跡だ。跡の縁に、針で突いたような細かい点が輪になって並んでいる。輪の真ん中は、皮膚が僅かに窪んでいた。

 小悪魔は息を呑んだ。

 一つではない。首の付け根に三つ。肩に二つ。脇腹に、四つ。腿の内側にも。毛を分けるたびに、同じ丸い跡が次々と見つかった。

 

「……十一、十二」

 

 数えながら、小悪魔は帳面に跡の位置を書き込んでいった。ケルビの体の輪郭を描き、跡の一つ一つに点を打つ。点が増えるたびに、筆を持つ指が冷たくなる。

 

「――十四。全部で、十四です」

「多いんですか?」

「一匹なら、一つです」

 

 小悪魔は拡大鏡を下ろした。

 

「この跡、二年前にも見たんです。迎撃戦の前、湖の周りで弱っていた獣達の体に。……あの子達の口の跡ですよ」

 

 美鈴の顔から、いつもの柔らかさが消えた。

 

「――『キュリア』、ですか」

 

 小悪魔は頷き、標本瓶の袋を開けた。

 血のような赤い体の、蛭に似た小さな生き物――『キュリア*1』。

 

――二年前。メル・ゼナの胸元に赤い毛皮のように群がり、霧の湖の獣という獣から生命力を吸い上げては、主へ運んでいた小さな生き物達だ。小さな口は八目鰻のように丸く、縁に細かな歯が輪になって並んでいる。吸い付いた跡は、ちょうど今、ケルビの首に残っている形になる。

 そのメル・ゼナは、紅魔館を主体とした迎撃戦で討たれた。

 主を失ったキュリアの群れは散り散りになり、その多くは宿る獣を見つけられないまま、湖の周りで息絶えた。生き残りが時折獣を襲うことはあったが、それも年に一、二度。今では、湖の漁師達もキュリアの名を口にしなくなっていた。

 

「でも、十四か所なんて」

 

 小悪魔は、ケルビの白い首を見下ろした。

 

「迎撃戦の後に見つかった獣は、どれも一つか二つでした。はぐれた一匹が、細々と吸っていただけだったんです。……十四匹分が、一晩で一頭に群がるなんて。そんなの、迎撃戦の前の――」

 

 小悪魔は言葉を切った。

 番太が唸っている。

 さっきまでの低い喉の音ではない。牙を剥き、首の毛を逆立て、湖の方の葦の茂みを睨みつけていた。

 

「……番太?」

 

 美鈴の声が静かに低くなる。右手が、肩越しに背のランスの柄へ伸びた。

――葦の穂先の間に、赤いものが漂っていた。

 霧の中で、それはほのかに光って見えた。熾火のような、くすんだ赤。大きさは人の掌ほどで、体の両脇に、金魚の鰭のような薄い翼が付いている。翼はヒラヒラと揺れ、赤い体を宙に浮かべていた。

 飛んでいる、というより、漂っている。風に吹かれる花びらのように、フワリ、フワリと高さを変えながら、葦の上を横切っていく。

 

「居た……!」

 

 小悪魔は、思わず膝立ちになった。

 

「美鈴さん、生きてるキュリアです!初めて見た!二年前は私、死骸しか――」

「小悪魔さん、下がって!」

 

 美鈴の声と同時に、赤い影が向きを変えた。

 漂っていた体が、急にスッと真っ直ぐになる。鰭の翼が畳まれ、赤い体が矢のように宙を滑った。真っ直ぐに――小悪魔の方へ。

 小悪魔は尻餅をついた。

 その目の前で番傘が開いた。

 鉄を重ねた猟犬具の傘の盾――[護り番傘]だ。番太が小悪魔の前に飛び出し、口にくわえた柄で、傘を真横に払う。

――カンッ、と硬い音が響く。

 赤い影が傘に弾かれ、葦の中へ転がり落ちる。

 しかしすぐに浮き上がった。鰭をばたつかせ、さっきよりも低く、ふらつきながら。今度は番太の鼻先を狙って滑り込んでくる。

 

〈ガウッ!〉

 

 番太が吠え、番傘をもう一度払った。キュリアが傘の縁を掠め、宙で一回転する。

 美鈴はランスを抜いていなかった。背の柄に手を掛けたまま、腰を落として、キュリアの動きを目で追っている。

 

「――槍で突くには小さすぎますね」

 

 美鈴の呟きを聞きながら、小悪魔は尻餅をついたまま、背のライトボウガンを下ろした。

 畳んだ銃身を開き、銃床を腰に当てる。手が震えて、弾倉を嵌める金具が一度空振りした。二度目でカチリと嵌まる。

――[通常弾]。

 腰だめのまま、銃口をキュリアに向ける。赤い影は番太の周りを、ふらふらと回っている。

 引き金を絞った。

 パン――と乾いた音がして、弾は葦の穂を千切って湖の方へ抜けていった。外れた。キュリアは驚いたように高く浮き上がり、それからまた、ゆっくりと降りてくる。

 

「……当たりません!フラフラしてて、狙いが――」

「狙わなくていいですよ」

 

 美鈴が言った。

 

「あの子、もう疲れてます。気が殆ど残ってない。――番太」

 

 番太が番傘を地面に突き立てた。

 キュリアが、傘の縁へ寄っていく。吸い付く獣を探して、番太の匂いに引き寄せられているのだ。鰭の翼がヒラリと揺れ、赤い体が傘の上を越えようとした――その刹那。

 番太が、傘を前へ倒した。

 鉄の傘の面が、上からキュリアを叩き伏せる。赤い体が泥の上に押さえつけられ、傘の縁の下で、鰭の翼がバタバタと泥を跳ねさせる。

 

「小悪魔さん、瓶を!」

「は、はいっ!」

 

 小悪魔は這うようにして傘の脇へ寄り、袋から一番大きな標本瓶を掴み出した。蓋を外し、口を下にして、傘の縁から覗く赤い体へ被せる。番太が傘をゆっくりと持ち上げ、小悪魔が瓶の口を泥ごと掬い上げて、蓋を捻じ込んだ。

 瓶の中でキュリアが跳ねる。

 ガラスの内側に、丸い口がペタリと吸い付く。輪になった細かな歯が、ガラスを噛もうとしてカリカリと鳴る。

 小悪魔は瓶を抱えたまま、泥の上に座り込んだ。肩で息をしている。

 

「……つ、捕まえました」

「えぇ。よく頑張りましたね、番太も」

 

 美鈴は番太の頭を撫で、それから小悪魔の前にしゃがんだ。瓶の中のキュリアを、じっと見る。

 

「――小悪魔さん。それ、館で飼うつもりじゃないですよね」

「飼いませんよ!パチュリー様に、生かしたまま保管してはいけないって、迎撃戦の後に決まったんです。永琳さんと一緒に決めた決まりで――」

 

 小悪魔は瓶を覗き込んだ。

 キュリアの動きが、目に見えて鈍くなっていた。ガラスに吸い付いていた口が離れ、鰭の翼がゆっくりと畳まれていく。赤い体の光が、少しずつくすんでいく。

 

「……それにこの子。もう、保たないです」

 

 瓶の底でキュリアは一度だけ身を捩った。

 丸い口が、瓶の壁を探るように動く。右へ。左へ。何かを探すように、ガラスの壁を伝って、ぐるりと半周し――止まった。

 それきり、動かなくなった。

 小悪魔はしばらく瓶を見つめていた。

 

「宿る獣が見つからないと、長くは生きられないんです。一晩でケルビから吸えるだけ吸って……でも、吸ったものを、渡す相手が居なかったのかもしれません」

「渡す相手?」

「キュリアは、吸った生命力を自分のためだけには使わないんです。二年前は、メル・ゼナに運んでいました」

 

 小悪魔は瓶の中の小さな死骸を、葦の上に置く。

 

「……でも、メル・ゼナはもう居ません。なら、この子は――誰に運ぶつもりだったんでしょう」

 

 美鈴は答えなかった。

 霧の向こうで、紅魔館の時計塔の鐘が鳴った。朝の刻を告げる鐘だ。番太が鐘の方へ耳を向け、それから湖の方へもう一度、鼻を鳴らした。

 

「――お嬢様のノクスが、昨夜から落ち着かないんです」

 

 美鈴がポツリと話す。

 

「夜の狩りから戻ってからずっと、天井の梁の上を行ったり来たりして。お嬢様は『虫でも居るんでしょう』って笑ってましたけど」

 

 小悪魔は瓶を抱え直した。

 

「――帰りましょう、美鈴さん。パチュリー様に見せないと」

 

 小悪魔は立ち上がり、ケルビの体の周りに縄を張って、妖精メイドの赤いリボンの棒をもう一本立てた。それから帳面を開き、最後の頁に一行書き付ける。

 

――『ケルビ一頭、死亡。吸い跡十四。キュリア一匹、捕獲後に死亡』

 

 筆を置こうとして、小悪魔は少し迷った。

 それから、その下に、小さな字でもう一行足した。

 

――『追ってきた方の足跡、無し』

 


~紅魔館 地下大図書館~

 

――地下の大図書館には、朝も夜も無い。

 

 天井まで届く書架が、灯りの届かない奥まで何列も続いている。書架と書架の間の通路は迷路のように折れ曲がり、本の背の金文字が、吊り燭台の炎を受けて鈍く光っていた。外から見た館の大きさでは、到底収まりきらない広さだ。メイド長が広げた館の空間の中でも、ここは一番深く、一番広い。

 小悪魔は瓶を胸に抱え、書架の間を早足で抜ける。

 図書館の真ん中、書架に囲まれた広い円卓の周りだけが明るい。円卓の上には本が塔のように積み上がり、塔と塔の間に、標本瓶、試験管、天秤、拡大鏡が所狭しと並んでいた。円卓の端には分厚い魔導書が一冊、開いたまま宙に浮かんでいる。

 

――その魔導書の前の椅子に、一人の少女が埋もれるように座っていた。

 紫の長い髪に、三日月の飾りを付けた柔らかな帽子。薄紫と白の縦縞の、寝間着のようにゆったりとした服。膝の上にも本を一冊広げ、片手で頁を捲りながら、もう片方の手で宙の魔導書の頁を指でなぞっている。

 紅魔館の地下大図書館の主にして、猟団『紅魔館』の編纂者兼研究者――『パチュリー・ノーレッジ』。

 

「パチュリー様!」

「……廊下は走らない。本が埃を被るわ」

 

 パチュリーは顔も上げずに言った。

 

「小悪魔。あなたの靴、泥だらけよ。書架の前を通る前に、靴を脱ぎなさいと何度言ったら――」

「――キュリアです」

 

 パチュリーの指が、頁の上で止まった。

 小悪魔は円卓の空いた所に瓶を置いた。瓶の底の泥の上で、赤い小さな死骸が、鰭の翼を畳んで横たわっている。

 パチュリーは、膝の上の本を閉じた。

 それからゆっくりと身を乗り出し、瓶を覗き込む。紫の眼が細くなる。

 

「……生きていたの?」

「はい。湖の西岸の葦原で、番太が叩き落として、私が瓶に入れました。入れて少ししてから、死にました」

「生きていたキュリアに、近付いたのね」

「えっと、それは――」

「近付いたのね」

「……はい」

 

 パチュリーは小さく溜め息を吐き、それから口元を袖で押さえて咳き込んだ。乾いた咳が二度、三度と続く。小悪魔が慌てて、円卓の端の水差しからグラスに水を注いだ。パチュリーは一口だけ飲み、グラスを置く。

 

「……吸われていたら、今頃あなたはここに居ないわ。キュリアの毒は、人の体なら一匹分で意識を奪う。永琳がそう書いていたでしょう」

「でも、番太が傘で守ってくれたので」

「美鈴のガルクの傘に、命を預けないで」

 

 パチュリーは、宙に浮かんだ魔導書の方へ指を一本立てた。魔導書の頁がパラパラと捲れ、白紙の頁で止まる。七曜解析具『アストラル・インデックス』――パチュリーが観察記録と解析に使う、魔導書の形をした解析器具だ。

「次からは気を付けなさい。――じゃあ、話して。最初から、順に」

 

 小悪魔は帳面を開き、葦原で見たことを順に話した。

 蹄の跡が外から真っ直ぐ入ってきていたこと。他の獣の足跡が無かったこと。ケルビの体に残っていた十四の吸い跡。番太が唸り、霧の中から赤い光が漂ってきたこと。瓶の中で、キュリアが何かを探すようにガラスの壁を伝い、止まったこと。

 パチュリーは黙って聞いていた。小悪魔が話すそばから、宙の魔導書の頁に、細い字がひとりでに書き込まれていく。

 

「――十四」

 

 小悪魔が話し終えると、パチュリーが言った。

 

「迎撃戦の後に見つかった吸い跡は、一頭に一つか二つ。多くて三つ。帳面の写しを持ってきなさい。去年の秋の分と、一昨年の分」

「はいっ」

 

 小悪魔は書架の一つへ駆け寄りかけ、パチュリーの視線に気付いて、走るのをやめた。早足で戻り、紐で綴じた帳面の束を二つ抱えてくる。

 パチュリーは帳面を受け取り、頁を捲った。細い指が、数字の欄を上から順になぞっていく。

 

「……去年は、吸われた獣が四頭。一頭に吸い跡が一つ、一つ、二つ、一つ。一昨年は七頭。三つが一度、あとは一つか二つ」

 

 パチュリーは帳面を閉じた。

 

「はぐれた個体が、一匹ずつ、細々と獣を見つけては吸っていた。宿る獣を見つけられずに死ぬ方が、ずっと多かったでしょうね。――それが、一晩で十四」

「群れに、戻ってるってことですか?」

「そうは言っていないわ」

 

 パチュリーは瓶を手に取り、灯りに翳した。赤い死骸が、ガラス越しに透けて見える。

 

「群れなら、ケルビは一頭では済まない。湖の周りで、もっと沢山の獣が死んでいる筈よ。そうじゃない。――集まったのよ。十四匹のはぐれた個体が、一晩だけ、同じ場所に」

「同じ場所に……」

「偶然、同じ葦原に居合わせた。――それだけならいいわ」

 

 パチュリーは瓶を円卓に戻した。

 

「でも、二年間ばらばらだった虫が一晩で一か所に集まるなら、何かが呼んだと考える方が筋が通る。……生き物としての理由なら、理香子に訊けばいい。餌か、水か、気温か、風か。あの自称科学者は、そういうものを一つずつ潰していくわ」

「パチュリー様は、何を潰すんですか?」

「私が知りたいのは『何故』よ」

 

 パチュリーは、宙の魔導書の頁を指でなぞった。書き込まれた字の上に、小さな七つの印が浮かび上がる。火、水、木、金、土、日、月。七つの印が、輪になって並んだ。

 

「キュリアの毒も、メル・ゼナの力も、私の七曜のどれにも当て嵌まらない。龍の力――龍属性と、会館の人達は呼んでいるわね。火なら[火炎袋*2]のように火を生み出す器官があって、雷なら[電気袋*3]のような電気を生む器官がある。でも――龍の力だけは、どの器官から来るのかが分からない。キュリアは、その分からない力を吸って、運ぶ虫よ」

 

 七つの印の輪の真ん中に、ポッカリと何も無い隙間が空いていた。

 

「――運ぶ虫が、運ぶ先を失った。それでもまだ吸っているなら、運ぶ先がまだどこかにある、ということになるわ」

 

 小悪魔は、瓶の中の死骸を見つめた。

 瓶の底で、死骸は丸い口を壁の方へ向けたまま、横たわっている。

 

――そういえば、あの時。

 

 瓶の中で死ぬ前、キュリアは壁を伝って半周し、止まった。止まった時、丸い口はどちらを向いていただろう。

 小悪魔が口を開きかけた時――書架の間から足音が近付いてきた。

 

「――小悪魔。そこに居たのね」

 

――書架の陰から、咲夜が姿を見せた。手には革の表紙の帳簿を一冊抱えている。

 

「おはようございます、咲夜さん」

「おはよう。――パチュリー様、失礼致します」

 

 咲夜は円卓の前で軽く頭を下げ、それから瓶に目を留めた。眉が、ほんの少しだけ動く。

 

「……美鈴から聞いたわ。葦原のケルビの件ね」

「はい。キュリアが一匹、生きてました」

「生きていた?」

 

 咲夜の視線が、小悪魔の泥だらけの膝と靴へ下りる。小悪魔は首を竦めた。

 

「近付いたのね」

「……はい」

 

 咲夜はそれ以上は言わず、帳簿を円卓の上に置いて開いた。紅魔館の標本保管庫の台帳――危険な素材と、古龍由来の標本を記した帳簿の写しだ。

 

「丁度よかったわ。明日の昼過ぎに、会館の監察室から小兎姫が台帳の照合に来るの。永琳も一緒よ。キュリアの試料の確認は、永遠亭と共同だから」

「明日ですか?来月じゃ――」

「繰り上がったの。会館に、湖の漁師から『また魚が白い目で浮いた』という届けが出たらしいわ。慧音が、念のため早めに確かめておけ、と」

 

 咲夜は台帳の頁を指で叩いた。

 

「キュリアの封じた死骸、三十一体。乾かした体液の瓶、十二本。迎撃戦の後に集めた分と、その後に見つかったはぐれた個体の分。――今日のうちに、全部数えて、台帳と合わせておいてちょうだい。一つでも合わなかったら、小兎姫が三日は居座るわよ」

「三日……」

「えぇ、三日。あの人、記念品と称して何か持って帰ろうとするから、見張るのも大変なの。……魔理沙とは違う方向で大変なのよね」

 

 咲夜は瓶の中の死骸をもう一度見た。

 

「その子も、封じて台帳に足しておいて。三十二体目ね」

「はいっ」

「パチュリー様。今日の分の記録が纏まりましたら、私の方で報告書に起こして、明日、会館へ届けます。お嬢様には、私からお伝えしておきますので」

「……えぇ。お願い」

 

 パチュリーは短く答え、宙の魔導書に目を戻した。

 咲夜は軽く頭を下げ、書架の間へ戻っていった。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 小悪魔は、パチュリーの横顔を見た。

 パチュリーは、魔導書の頁を見ていない。頁の上の、七つの印の輪の真ん中の、何も無い隙間をじっと見つめていた。

 

「パチュリー様?」

「――行きなさい、小悪魔。三十一体と十二本。それと、その子」

 

 パチュリーは、瓶を小悪魔の方へ押しやった。

 

「封じる時は、蝋を二重に。札は、魔力を遮る方を。……それから」

 

 パチュリーは、一度言葉を切った。

 

「数える時に、死骸の様子もよく見ておきなさい。いつもと違うところがあれば、台帳には書かずに、私に言いに来ること」

「台帳には書かずに、ですか?」

「えぇ」

 

 パチュリーはそれだけ言って、また咳き込んだ。

 


~紅魔館 地下 標本保管庫~

 

――標本保管庫の扉は、図書館の一番奥の、更に階段を下りた先にある。

 鉄の扉には、パチュリーの手で七つの印が刻まれていた。扉の取っ手に掌を当てると、印が一つずつ順に淡く光り、最後の一つが光ったところで、重い錠がゴトリと外れる。危険な素材を、本や館の暮らしから隔てておくための扉だ。

 

――中は冷たかった。

 石造りの細長い部屋に、木の棚が三列、奥まで続いている。棚には瓶、壺、木箱、油紙の包みが、番号の札を付けて整然と並んでいた。火炎袋を封じた壺。毒腺を浸した瓶。帯電した皮を巻いた包み。どれにも、パチュリーの細い字の札が貼ってある。

 一番奥の棚の、一番下の段。そこだけ、他の棚から少し離して置かれている。

 

――キュリアの棚だ。

 小悪魔は灯りを棚の脇の鉤に掛け、床に膝を付いた。

 棚の上の段から下の段まで、同じ大きさのガラスの瓶が三列に並んでいる。瓶の口は蝋で固く封じられ、その上に、魔力を遮る札が十字に貼られていた。瓶の中には、乾いて縮んだ赤い小さな死骸が、一体ずつ収まっている。

 小悪魔は台帳の写しを膝の上に広げ、筆を構えた。

 

「――一番」

 

 一段目の左端の瓶を、そっと棚から持ち上げる。瓶の底の札の番号と、台帳の番号を見比べる。蝋の封に罅が無いか、札が剥がれていないか、瓶の中の死骸が崩れていないかを確かめ、台帳の欄に小さな印を付けた。

 瓶を、元の場所へ戻す。

 

「二番。……三番」

 

 一体ずつ、同じことを繰り返す。

 迎撃戦の直後に集めた死骸は、一番から二十番。主を失って湖の周りに落ちていたものを、小悪魔が拾い集めた。どれもメル・ゼナが倒れた夜明けの岸辺で、霜のように散らばっていたものだ。

 二十一番から先は、その後の二年で見つかった、はぐれた個体。獣を吸った後で力尽きたもの。宿る獣を見つけられずに落ちたもの。

 小悪魔は瓶を一つ持ち上げるたびに、拾った日のことを思い出した。

――十四番は、岸辺の石の上。二十三番は、漁師の網の中。二十七番は、館の門の前の花壇で、美鈴さんが見つけた。

 

「――三十一番」

 

 最後の瓶を戻し、小悪魔は台帳の欄を見直した。三十一の印が、全て揃っている。

 

「よし。合ってる」

 

 小悪魔は筆を置き、乾かした体液の瓶の方へ手を伸ばしかけた。

 その手が――止まった。棚に並んだ瓶を、もう一度見る。

 

――何(・)か(・)が(・)、揃(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。

 

 三列に並んだ、三十一の瓶。その中の、三十一の乾いた死骸。

 死骸は、どれも丸い口をこちらへ向けていない。瓶の中で横たわったまま、全て同じ方へ――棚の奥の、左の隅の方へ丸い口を向けていた。

 小悪魔は首を傾げた。

 瓶を棚に戻す時、向きを揃えた覚えは無い。札の番号が手前に来るように置いただけだ。死骸の向きなど、気にしたことも無かった。

 そもそも二年前に拾った時から、死骸はバラバラの向きで瓶に入れた筈だ。

 

「……偶々、だよね」

 

 小悪魔は呟き、鞄から帳面を出した。

 帳面の後ろの方の頁を、何枚も捲る。去年の秋、台帳の照合の時に、小兎姫に言われて描いた瓶の写生の頁がある。

 

――『見た目の記録も残しておくこと。後で中身がすり替えられていないかを確かめるためよ』

 

――監察官の言い付けだった。

 写生の頁を開く。

 三十の瓶の小さな絵が、番号順に並んでいる。去年の秋の時点で台帳にあった、一番から三十番までだ。

 小悪魔は、絵の中の死骸を一つずつ見ていった。

 一番は、口が右を向いている。二番は、上。三番は、手前。四番は、左。五番は、丸まっていて、口が見えない。

 

――バラバラだ。

 

 去年の秋、死骸の口はてんでばらばらの方を向いていた。

 小悪魔は帳面と棚を見比べる。

 今は、三十一の口が、全て同じ方を向いている。

 背筋を冷たいものが這い上がった。

 

「……誰かが、並べ替えた?」

 

 口に出してから、小悪魔は首を振った。

 この扉を開けられるのは、パチュリーと、小悪魔と、咲夜だけだ。咲夜は台帳を見に来ても、瓶には触らない。パチュリーは、ここまで階段を下りてくるのも億劫がる。それに、蝋の封には一つの罅も無い。瓶を開けずに、中の死骸の向きだけを変えることなど――。

 小悪魔は一番の瓶をもう一度持ち上げた。

 灯りに翳す。乾いて縮んだ赤い体。畳まれた鰭の翼。丸い口。どこにも、動いた跡は無い。瓶の底の乾いた粉も、死骸の周りに崩れた跡は無かった。

 

――動いた跡は無い。なのに、向きだけが違う。

 

 小悪魔は、瓶を棚に戻さなかった。

 瓶を膝の上で、そっと回す。死骸の口が、棚の奥の隅とは反対の方――保管庫の扉の方を向くように。そしてそのまま、棚の手前の床の上に置いた。

 灯りを床に下ろし、瓶の前に膝を抱えて座る。

 息を殺して、待った。

 保管庫の中は、静かだった。どこかで、水の滴る音がする。灯りの炎が、時々小さく揺れる。

 死骸は、動かない。

 

――当たり前だ。詰められているのは死骸なのだから。

 

 小悪魔は、自分の考えが馬鹿馬鹿しく思えてきた。瓶の写生を見間違えたのかもしれない。去年は、もっと急いで描いたから――

 小悪魔は乾かした体液の瓶を数え始めた。十二本。番号、封、札。全て合っている。台帳に印を付ける。

 それから、今朝の瓶を鞄から取り出した。葦原で捕まえた、三十二体目。

 瓶の口の蓋を外し、パチュリーに言われた通り、蝋を二重に垂らして封をする。蝋が固まるのを待ち、魔力を遮る札を十字に貼る。瓶の底に『三十二』の札を貼り、台帳の最後の行に書き足した。

 

――『三十二 キュリア 封じた死骸 霧の湖西岸の葦原にて捕獲後に死亡』

 

 そこまで書いてから、小悪魔は顔を上げた。

 床に置いた一番の瓶を見るなり――ペンが、指から落ちた。

 

 死骸の丸い口が――棚(・)の(・)奥(・)の(・)、左(・)の(・)隅(・)を(・)向(・)い(・)て(・)い(・)た(・)。

 

 扉(・)の(・)方(・)へ(・)向(・)け(・)た(・)筈(・)の(・)口(・)が。瓶は置いた時のまま、一寸も動いていない。蝋も、札も、そのままだ。瓶の中の死骸だけが、いつの間にか、元の向きに戻っていた。

 小悪魔は、声も出せずに瓶を見つめた。

 それから、のろのろと視線を移す。

 封をしたばかりの、三十二番の瓶。今朝、瓶の中で死んだばかりの、まだ赤みの残る死骸。

 その丸い口も――棚の奥の、左の隅を向いていた。

 

 葦原で、キュリアが瓶の壁を伝って半周し、止まった時のことを思い出す。あの時、口はどちらを向いていただろう。瓶を抱えていた小悪魔の胸の前で、湖を背にして――

 小悪魔は、震える手で鞄の底を探った。

 現地調査に必ず持ち歩く、真鍮の方位磁石。蓋を開け、床の上に置く。磁石の針が揺れ、ゆっくりと落ち着いていく。

 小悪魔は、方位磁石と、棚の奥の左の隅とを見比べた。

 

――棚の奥の隅は、北西を向いている。針の示す北から、左へ、ちょうど半分。

 

――戌亥の方角だった。

 


~紅魔館 地下大図書館~

 

――吊り燭台の蝋燭が、一本、燃え尽きかけている。

 パチュリーは魔導書から目を上げ、燭台を見上げた。新しい蝋燭に替えさせる妖精メイドは、今日はまだ一人も図書館に下りてきていない。湖でキュリアが出たという噂は、昼前には館中に広まっているだろう。妖精メイド達は、そういう日に限って仕事を放り出す。

 書架の間から足音が近付いてきた。

 走ってはいない。だが、いつもの小悪魔の足音より、ずっと速い。

 

「――パチュリー様」

 

 円卓の前に立った小悪魔は、台帳の写しと帳面を胸に抱えていた。顔が白い。泥だらけの靴は、言い付けどおり脱いで手に提げている。

 

「数は、合いました。三十一体と、十二本。三十二体目も、封じて台帳に足しました」

「そう。ご苦労様」

「それで、その――」

 

 小悪魔は帳面を開き、円卓の上に置いた。去年の秋に描いた瓶の写生の頁と、今日、保管庫で描き直した頁。二つの頁が、並んでいる。

 

「――いつもと違うところが、ありました」

 

 パチュリーは、二つの頁を見比べた。

 去年の秋の絵では、死骸の口はばらばらの方を向いている。今日の絵では、三十二の口が、全て同じ方へ揃っていた。絵の脇に、小悪魔の震えた字で書き添えてある。

 

――『北西。戌亥』

 

「一番の瓶を、逆の向きに回して、床に置いたんです。目を離して、体液の瓶を数えて、三十二体目を封じて……顔を上げたら、戻ってました。瓶は一寸も動いてないのに、中の死骸だけが」

 

 小悪魔の声が、少しずつ速くなる。

 

「三十二体目も、です……!今朝死んだばかりの子が、封じてすぐに、もう同じ方を向いてて!葦原で死んだ時も多分、同じ方を――」

「――見(・)て(・)い(・)る(・)間(・)は(・)、回(・)ら(・)な(・)い(・)わ(・)」

 

 小悪魔がまさかの言葉に口を噤んだ。パチュリーは帳面から目を離さずに言葉を続ける。

 

「何(・)度(・)試(・)し(・)て(・)も(・)、同(・)じ(・)よ。瓶を回して、じっと見ていても、死骸は一寸も動かない。目を離して、本を一頁読んで、顔を上げると、戻っている。――瓶を別の棚へ移しても。保管庫の外へ持ち出しても。磁石を取り上げて、鉄の物を全部部屋の外へ出しても」

「パチュリー様……知ってたんですか?」

「春の終わりからよ」

 

 パチュリーは、円卓の端に積んだ本の塔の一番下から、薄い帳面を一冊抜き出した。表紙に題は無い。紐で綴じただけの、パチュリー自身の覚え書きだ。

 頁を開く。日付の並んだ短い書き付けが、何頁も続いていた。

 

「最初は、三体だけだった。三十体のうち、三体が同じ方を向いていた。偶々だと思ったわ。それから夏の初めに、十体。夏の終わりに、二十体。秋に入って――」

 

 パチュリーは、頁を一枚捲った。

 

「――十日前に、全部」

 

 小悪魔は、パチュリーの覚え書きを覗き込んだ。日付の横に、数字と、方角が書いてある。方角は、最初の頁から最後の頁まで、一度も変わっていない。

 

――戌亥。

 

「……どうして、誰にも言わなかったんですか」

「――言う必要があるの?」

 

 パチュリーは覚え書きを閉じた。

 

「死骸が、見ていない間に向きを変える。理由は分からない。何がそうさせているのかも分からない。向きの先に何があるのかも、分からない。――分からないことを三つ並べて、中央会館に届けろと?」

 

 パチュリーは、小さく咳き込んだ。

 

「分からないことを書けば、それは記録じゃなくて噂になるわ。阿求なら、そう言うでしょうね。噂は、どんどん勝手に一人歩きしていく。湖の漁師にも、里にも」

「でも、お嬢様には……」

「レミィに話したら、どうなると思う?」

 

 小悪魔は、答えに詰まった。

 

「あの子は、明日にでも戌亥の方へ飛んでいくわ。日が出ていようが、雨が降っていようが、お構いなしに。『面白そうじゃない』って言ってね。咲夜が止めても聞かないし、私が止めても聞かない」

 

 パチュリーは、宙に浮かんだ魔導書の方へ目を向けた。七つの印の輪の真ん中の、何も無い隙間は、まだそこにある。

 

「――戌亥に何があるのか。それがハッキリ分かるまでは、言わない」

 

 小悪魔は、しばらく黙っていた。

 それから、台帳の写しを抱え直した。

 

「……明日、小兎姫さんが来たらどうしますか」

「数は合っているわ。台帳が問うのは、数だけよ」

「瓶の写生も、見せるように言われてるんです。去年の秋に、小兎姫さんに描けって言われたので」

 

 パチュリーは少しだけ眉を寄せた。

 

「……見せなさい。去年の秋の頁だけ」

「今日の頁は?」

「今日の頁は、描き直しの途中。――そういうことにしておきなさい」

 

 小悪魔は、帳面の今日の頁を見下ろした。

 三十二の小さな瓶の絵。三十二の、同じ方を向いた丸い口。

 

「――はい、パチュリー様」

 

 小悪魔は帳面を閉じ、胸に抱えた。

 それから、少し迷って、言った。

 

「あの子達……主のところへ、帰りたがってるんでしょうか」

 

 パチュリーは答えなかった。

 小悪魔が書架の間へ戻っていき、足音が聞こえなくなってから、パチュリーは覚え書きを開き直した。ペンを取り、最後の書き付けの下に、一行足す。

 

――『三十二体目。死んで半刻の内に、戌亥』

 

 ペンを置き、帳面を閉じる。

 それから、パチュリーは椅子から立ち上がった。

 膝掛けを畳み、魔導書を一冊だけ抱えて、図書館の奥へ歩き出す。書架の間の通路を折れ、また折れて、一番奥の階段の前で立ち止まった。

 階段は、下へ続いている。冷たい空気が、下から這い上がってきた。

 パチュリーは咳を一つ堪えて、一段目に足を下ろした。

 


~紅魔館 地下 標本保管庫~

 

――鉄の扉の七つの印が、順に淡く光る。

 パチュリーは灯りを持たずに保管庫へ入った。指先に、小さな火を一つ灯す。七曜の火、一番弱い火だ。

 一番奥の棚の、一番下の段。

 三列に並んだ、三十二の瓶。

 パチュリーは棚の前に立ったまま、瓶の中を一つずつ見ていった。三十二の乾いた赤い死骸が、三十二の丸い口を、棚の奥の左の隅へ向けている。

 

――北西。戌亥。

 

 その方角には、『霧の湖』の岸があり、湖の向こうに森があり、更に森の向こうに――何があるのか、パチュリーはまだ知らない。図書館のどの本にも、まだ書いていない。

 パチュリーは、指先の火を消した。

 

――闇の中で三十二の死骸は、揃って同じ方を向いていた。

 

*1:
血のように赤い、蛭に似た小さな生き物。金魚の鰭のような翼で宙を漂い、獲物に吸い付いて生命力を吸い取ると同時に毒を流し込む。

*2:
一部の大型モンスターの体内に存在する、火属性エネルギーを生成する特殊な内臓器官の総称。

その名の通り袋状になっており、その中には可燃性の粉塵が大量に溜まっている。

一歩間違えば爆発炎上しかねず、取り扱いや加工には細心の注意が必要。

*3:
一部のモンスターの体内にある、電気を蓄積する特殊な袋状の内臓器官。

衝撃を受けると放電する性質を持っているため、取り扱いには注意を要するが、

その特性から雷属性武器の製作に大いに利用される。




『パチュリー・ノーレッジ』
所属:特別独立猟団『紅魔館』
役職:編纂者兼研究者。紅魔館魔導生態研究室の責任者。地下大図書館の主
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