東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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十五話の続きです。


第十九話:扉の洞窟の巣

~博麗神社 裏山の洞窟 扉の前~

 

――足の裏で、岩が鳴っている。

 サラは毛布の上で目を開けた。

 洞窟の奥は真っ暗だった。背中には、魔界へ続く扉の冷たい石の肌がある。扉の前で寝るようになって、今夜で八日目になる。毎晩、裸足の足の裏を床の岩盤に付けたまま眠り、震えが来れば目を覚ます。それが扉の番人の決まりだった。

 地下水の滴る、かすかな震え。洞窟の入り口で鳴く夜の虫の震え。この七日、岩が伝えてくるのはそれだけだった。

 今夜は違う。

 

――ズン。

 

――重い。

 地下水の滴よりずっと重く、ずっと遠い。一つ鳴って、少し間が空いて、また一つ。一定の間隔で、少しずつ近付いてくる。

 

「……足音だ」

 

 サラは呟き、毛布を跳ね除けて立ち上がった。轟門大剣『閂』を背に負い、革帯を締める。

 足の裏に意識を集める。

 

――ズン……ズン。

 

 四つ足だ。前の脚が二度、後ろの脚が二度。前の脚の方が重い。前に体重を預けて、這うように歩く足音。

 八日前、丘の北の岩場で見た足跡と同じ並び方だった。

 それから、別の音が混じった。ゴロリ、と何かが転がる音。重いものを引き摺り、岩に擦り付けるような、長い震え。

 

――岩を、転がしてる。

 

 以前知り合った妖精、『クラウンピース』が言っていた話を思い出す。

 

――『夜中に裏山の方から、岩が転がるような音がするんだよね』

 

「――そっか。あれ、あんただったんだ」

 

 サラは洞窟の入り口の方へ歩き出した。

 扉の前から入り口までは、緩く曲がった一本道だ。途中で一度広くなり、天井の高い部屋のような空洞になる。玄爺はそこを『前室』と呼んでいた。前室を抜けて、また狭い道を少し行けば、入り口の岩の上に月明かりが落ちている筈だった。

 

 前室の手前で、サラは足を止めた。

 足の裏の震えが、前室の中から来ている。

 サラは岩壁に身を寄せ、角の向こうを覗いた。

 

――月明かりが、前室の奥まで差し込んでいる。

 入り口から斜めに入る月の光の中に、大きな影がうずくまっていた。

 四つ足の、黄色い体。月の光の下でも分かる、背の青い縞。前脚は太く、肩の辺りが後ろ脚よりも高く盛り上がっている。首を低く下げ、前脚の爪で、床に転がった岩を一つ、壁際へ押しやっていた。

 

――『轟竜:ティガレックス』

 

 ティガレックスは、飛ぶことよりも地を駆けることを選んだ飛竜である。翼を前脚のように突いて走り、獲物を見つければ、どこまでも追いかける。

 前室の床は、すっかり様子が変わっていた。転がっていた岩が壁際へ寄せられ、真ん中に、浅い窪みが掘られている。窪みの縁に、骨が何本も散らばっていた。

 

――寝床を作ってる。

 

 サラの指が、大剣の柄を握り締めた。

 影が首を上げた。

 大きな口だった。上下の顎に、太い牙がずらりと並んでいる。鼻先が、サラの方へ向いた。ふっと、生臭い息が前室を流れてくる。

 

〈グルルルル……〉

 

 喉の奥で、低い音が鳴った。

 サラは角の陰から一歩出た。

 

「――ここは、私の扉の山だよ」

 

 声が前室の高い天井に響く。

 

「寝床なら他を探して。この奥には――通さないから」

 

 サラは背から大剣を抜いた。

 肩越しに柄を引き抜き、そのまま重い刃を前へ振り下ろす。切っ先が床の岩を叩いた瞬間、鍔元の共鳴室が震え、低い唸りが前室いっぱいに広がった。

――ヴゥン、と。

 洞窟の小型なら、この唸りだけで逃げていく。

 黄色い影は、逃げなかった。

 ゆっくりと前脚を突っ張り、体を起こす。首を反らし、大きく口を開ける――

 

〈ガアアアアアアアッ!!〉

 

 前室が揺れた。

 咆哮は音というより、音の壁だった。正面からぶつかってきた空気の塊に、サラの体が後ろへ押される。天井から細かな砂がパラパラと落ちる。耳の奥で何かが弾け、世界から音が消えた。

 サラは大剣を床に突き立てたまま、膝を付いた。

 

――耳当て、忘れてた。

 

 ルイズ姉さんに、何度も言われていた。夢子姉さんにも『咆哮の大きいモンスターの前では、耳当てを外さないこと』と。扉の前で寝る時、耳当ては毛布の横に置いたままだった。

 頭がガンガンと鳴っている。目の前が白く滲む。

 その滲んだ視界の中で、黄色い影が前脚を踏み込んだ。

 

――来る。

 

 サラは床に突き立てた大剣の腹を、体の前へ倒した。幅広の刃を盾にして、肩を当てる。両足の裸足の指で、床の岩を掴む。

 衝撃が来た。

 突進だった。前脚で岩を掻き、四つ足で飛び込んできた体が、大剣の刃にまともにぶつかる。腕が痺れ、肩が軋んだ。サラの体が、刃ごと後ろへ押される。足の裏が岩の上を滑る。

 一尺、二尺――三尺目で、サラの踵が止まった。

 

「――通さ、ないって……言ってる、でしょ!」

 

 サラは歯を食いしばり、刃を押し返した。

 鼻先が、刃の向こうで止まっている。黄色い鱗の頭。大きな目。その目が、刃の縁越しにサラを見ていた。

 鱗が薄い。

 八日前に拾った鱗と同じだ。分厚く硬い大人の鱗ではなく、まだ指で押せばしなるほどの薄い鱗。牙も、大人の個体ほど太くはない。

 

――若い。

 

 若いティガレックスは、刃を押し込むのをやめた。

 首を引き、一歩下がる。二歩目で鼻を鳴らし、刃とサラを見比べるように首を傾げた。それから、クルリと向きを変え、前室の窪みへ戻っていく。

 窪みの縁の骨を一本咥え、ガリリと噛み砕く。そのまま、窪みの中に腹這いになった。

 サラは、大剣を構えたまま立ち尽くした。

 

――寝る気だ。

 

 追い出されるつもりはまるで無い。しかし扉の奥へ進むつもりも、今は無いらしい。ただ、この前室を自分の寝床に決めて、そこから動く気が無いだけだ。

 サラは、刃を下ろさなかった。

 前室と扉の間の、狭い道の真ん中に立つ。大剣を床に突き立て、その柄を両手で握ったまま、窪みの中の黄色い背中を見つめた。

 耳鳴りはまだ止まない。腕はまだ痺れている。

 それでも、ここから一歩も退かない。

 洞窟の入り口の月明かりが、少しずつ傾いていった。

 


~博麗神社 母屋~

 

――夜明けの境内に、裸足の足音が駆け込んできた。

 

『霊夢さん!霊夢さーん!』

 

 縁側の雨戸を叩く音で、博麗霊夢は布団の中で顔を顰めた。

 

「……うるさいわね。まだ日も昇ってないじゃない」

『昇ってるよ!今、昇ったとこ!』

 

 霊夢が雨戸を開けると、縁側の前にサラが立っていた。大剣を背に負い、髪はぼさぼさで、目の下に隈ができている。裸足の足は泥だらけだった。

 その後ろに、玄爺の甲羅がのそりと続いてくる。

 

「――御主人様。洞窟の方は、少々拙いことになりましたぞ」

「……何があったのよ」

 

 サラは息を整えながら、昨夜のことを話した。

――前室に、若いティガレックスが寝床を作ったこと。咆哮を浴びて、突進を一度受け止めたこと。そのまま朝まで、扉の手前の道で睨み合っていたこと。日が昇る少し前に、ティガレックスが寝床を出て、尾根の方へ餌を探しに出ていったこと。

 

「戻ってくるよ、絶対。骨を窪みの縁に並べてたもん。あそこを自分の巣だと思ってる」

「……寝ないで見張ってたの?一晩中?」

「扉の番人だから」

 

 霊夢は溜め息を吐き、縁側に腰を下ろした。

 

「咆哮を浴びたって言ったわね。耳は?」

「……まだ、ちょっと鳴ってる」

「耳当ては?」

「……毛布の横」

 

 霊夢はもう一度溜め息を吐いた。

 境内の狛犬の台座の陰から、高麗野あうんが顔を出した。片手にランスを提げたまま、眠そうに目を擦っている。

 

「霊夢さん、おはようございます。……あれ、サラさん?」

「あうん。裏山、昨夜は何か聞こえた?」

「えっと……岩が転がる音なら、夜中に二回くらい。でも、それはいつものことなので……」

 

 あうんの声が、尻すぼみに小さくなった。

 霊夢は額に手を当てた。

 

「……で、魔界の他の連中は?」

「長屋から、もうこっちへ向かってる。お爺さんが、夜明けにルイズ姉さんのとこへ知らせに行ってくれたんだ」

「左様。地の足で行くより、空から行った方が早うございます故に」

 

 玄爺がゆったりと首を巡らせた。

――その時、鳥居の方から足音が近付いてきた。

 石段を上がってくるのは、四人。先頭の夢子の後ろに、ルイズ、ユキ、マイが続いている。夢子の手には、会館の判を押した依頼票が一枚握られていた。

 

「おはよう、博麗の巫女。朝から騒がしくてごめんなさいね」

 

 夢子はそう言って、霊夢の前に依頼票を差し出した。

 

「慧音から預かってきたわ。八日前から裏山の尾根の見回りを続けていたけれど、昨夜、とうとう入り込んだと。――それと、サラ」

 

 夢子の目が、サラの泥だらけの足と、目の下の隈に向いた。

 

「一人で押し返そうとしたのね」

「……押し返せなかった」

「そう」

 

 夢子はそれ以上は何も言わず、サラの頭に手を置いた。ほんの一瞬だけ。それから手を離して、依頼票を霊夢に手渡す。

 

依頼:轟竜一頭の撃退

目標:博麗神社裏山の扉の洞窟、および尾根からの撃退。討伐は見合わせる

地点:博麗神社裏山

受託:猟団"万魔殿"、および博麗神社

 

「……受託、『博麗神社』って。勝手に書かれてるんだけど」

「慧音が書いたのよ。『どうせ、巫女は行くだろう』って」

「あの石頭……」

 

 霊夢は依頼票を指で弾いた。

 

「撃退、ね。討伐じゃないの?」

「若い個体だから、と慧音は言っていたわ。縄張りを決めかねて彷徨っているだけなら、居心地の悪い場所だと覚えさせて追い出せばいい。追い出した先で、自分の縄張りを見つけるかもしれないって」

「それで、また誰かの裏山に住み着いたら?」

「その時は、その時の依頼よ」

 

 夢子は淡々と言った。

 ユキが背負ったスラッシュアックスの柄を揺する。

 

「……夢子姉さんはそう言うけどさ。押し返すより、狩っちゃった方が早くない?サラの扉の前まで来たんだよ?」

「早いかどうかで決めないの」

「えー」

「……ユキ」

 

 マイがユキの袖を引いた。ユキは口を尖らせ、それきり黙った。

 霊夢は依頼票を畳み、懐に仕舞った。

 

「――いいわ。行きましょ」

 

 霊夢は立ち上がり、母屋の柱に立て掛けてあった太刀を背に負った。

 

「あうん。あんたは洞窟の入り口の前に居て。サラと二人で、扉の側を固めて。何かが洞窟へ駆け込もうとしたら、入れないで」

「は、はい!通しませんよ!」

「サラ」

 

 霊夢は、サラの方を振り返った。

 

「今日は、耳当てを付けてきなさい」

「……うん」

「それから」

 

 霊夢は、少しだけ目を逸らした。

 

「一晩、扉を守ったんでしょ。――よくやったわね」

 

 サラがパチパチと目を瞬いた。それから、パアッと顔が明るくなる。

 

「霊夢さんが私を褒めた!ルイズ姉さん、聞いた?今の聞いた!?」

「えぇ、聞きましたわ。ちゃんと旅行記に書いておきますわね」

「書かなくていいわよ」

 

 霊夢は鳥居の方へ歩き出した。後ろで、ルイズがクスクスと笑っていた。

 


~博麗神社 裏山の洞窟 前室~

 

――前室の中は、獣の匂いで重かった。

 入り口から差し込む朝の光が、昨夜の月明かりと同じ角度で、前室の奥まで届いている。霊夢は入り口の岩の脇で足を止め、目が暗さに慣れるのを待った。

 サラの言ったとおりだった。

 前室の真ん中に、浅い窪みが掘られている。差し渡しは人が三人並んで寝られるほど。窪みの底の土は爪で何度も掻き均され、細かく砕けていた。前室に転がっていた筈の岩は、全て壁際へ押しやられ、窪みをぐるりと囲む低い塀のようになっている。

 

「……随分、丁寧に作ったものね」

 

 霊夢は窪みの縁にしゃがみ、底の土に掌を当てた。

 

――まだ温かい。

 

「出ていって、半刻も経ってないわね」

 

 窪みの縁には骨が並んでいた。ケルビの細い脚の骨。ブルファンゴの太い肋骨。どれも中ほどで叩き潰され、髄まで舐め取られている。骨の表面に、大きな歯形が残っていた。

 夢子が骨の一本を拾い上げ、歯形に指を当てた。

 

「八日前の岩場の食べ跡と同じね。牙の間が、手のひら一つ」

「骨を並べるのは、縄張りの印ですの?」

 

 ルイズが入り口の脇から覗き込んで訊く。

 

「さぁ。巣の飾りかもしれないし、ただ食べ残しを寄せただけかもしれない。――でも、ここを離れる気が無いのは確かね」

 

 霊夢は立ち上がり、前室の壁を見回した。

 岩壁に、深い爪痕が何本も刻まれている。高さは人の背の倍ほど。前脚を壁に突いて伸び上がり、爪を立てて引っ掻いた跡だ。痕の縁の岩が白く削れ、粉が壁の下に溜まっていた。

 その下の壁際に、乾いた涎の筋が光っている。

 

「――御主人様。こちらを」

 

 入り口の外から、玄爺の声がした。

 霊夢が外へ出ると、玄爺が入り口の脇の斜面に首を伸ばしていた。斜面の土が大きく抉れている。抉れた跡は、人の胴ほどの大きさがあった。

 

「昨夜の岩が転がる音の正体ですな。斜面から岩を抉り取って、洞窟の中へ引き摺り込んでおったのでしょう」

「寝床の塀にするために?」

「さて。……儂の目には、岩を退けて寝床を広げたというより、入り口を狭めようとしたようにも見えますな」

 

 霊夢は、洞窟の入り口を振り返った。

 確かに、入り口の脇に岩が二つ、内側から寄せられている。人一人なら通れるが、大型が駆け込むには少し窮屈な幅だ。

 

「――外から何かが入ってこないように、か」

 

 霊夢は呟いた。

 

「何から隠れるつもりなのかしら。あんな図体で」

 

 誰も答えなかった。

 霊夢は入り口から伸びる足跡に目を落とした。

 四つ足の足跡が、洞窟を出て斜面を登っていく。前脚の跡が深く、後ろ脚の跡は浅い。前脚の跡の先には、爪が地面を掻いた三本の筋が付いていた。走ってはいない。前脚で地面を掴むようにして、一歩ずつ斜面を登っている。

 

「……ゆっくり登ってるわね。餌を探しに行く歩き方じゃない」

「日向ぼっこかもしれませんわね」

 

 ルイズが帽子の鍔を持ち上げて尾根を見上げた。

 

「轟竜は寒い所でも暑い所でも暮らせると、図鑑に書いてありましたわ。でも、朝日の当たる岩の上は、どんな竜でも好きなものですもの」

 

 霊夢は足跡を追って、斜面を登り始めた。夢子、ユキ、マイ、ルイズが続く。サラとあうん、玄爺は洞窟の入り口に残った。

 斜面は半ばから木々が疎らになる。

 足跡は木の間を縫い、時々、倒木を乗り越えていた。倒木の幹に、爪の跡が深く食い込んでいる。若い楢の木の幹が、根元から斜めに裂けていた。

 

「――これ、咆哮の跡?」

 

 ユキが裂けた木の幹を指でなぞった。

 

「八日前の岩場にもあったね。扇みたいに草が倒れてて」

「えぇ。ここで一度、吠えたのね」

 

 夢子は、裂けた木の周りを見回した。

 木の周りの下草が、一方向に倒れている。尾根の方から、斜面の下へ。扇の要は、尾根の方の、少し開けた岩場だった。

 

「何に吠えたのかしら」

「……鳥」

 

 マイがぽつりと言った。

 皆がマイを見た。マイは裂けた木の枝の先を指差していた。枝に、小鳥の巣が引っかかっている。巣は空っぽで、半分が崩れていた。

 

「……親鳥が騒いだ。吠えた。……逃げた」

「小鳥に吠えたの?あの図体で?」

「若い個体だからよ」

 

 夢子が言った。

 

「何にでも腹を立てる年頃なの。小鳥の声も、風の音も、自分の縄張りを脅かすものに聞こえる。――大人の個体なら、小鳥なんて気にもしないわ」

 

 ユキが口を尖らせた。

 

「それ、なんか私に言ってない?」

「言ってないわよ」

「……言ってる」

 

 マイが小さく言い、ユキに無言で脛を蹴られる。

 霊夢は尾根を見上げた。

 足跡は、裂けた木の先で尾根筋に出る。尾根の上は、岩盤が剥き出しになった細長い鞍部になっていた。左右は急な斜面で、鞍部の端は、洞窟の真上の岩棚に繋がっている。

 その鞍部の真ん中の、大きな平たい岩の上に――黄色い影が、腹這いになっていた。

 朝日を背に浴びて、青い縞の背中が、ゆっくりと上下している。前脚を岩の縁から垂らし、顎を岩に乗せていた。目は閉じている。

 霊夢は岩陰に身を伏せた。後ろの四人も、それに倣う。

 

「――居たわね」

 

 夢子が霊夢の隣に身を寄せた。

 

「眠ってるの?」

「目を閉じてるだけよ。……鼻が動いてる」

 

 霊夢の言うとおりだった。ティガレックスの鼻先が、風の匂いを確かめるように、時々ヒクリと動いていた。

 ルイズが、弓を背から下ろし、そっと弦を確かめた。

 

「眠らせましょうか?」

「眠らせて、どうするの?」

 

 夢子が訊き返した。

 

「眠っている間に罠を仕掛けて、捕まえて運ぶ――それもいいわ。でも、慧音の依頼は撃退よ。『ここは居心地の悪い場所だ』と覚えさせて、自分の足で出ていかせるの。眠らせて運んだら、あの子は何も覚えない。目が覚めたら、また居心地のいい寝床を探しに戻ってくるわ」

「……成程」

 

 ルイズは矢を矢筒に戻した。

 夢子は鞍部を見回す。

 

「場所は、こちらが選ぶ。――この鞍部がいいわ。左右が急な斜面で、逃げ道は尾根の北か、洞窟の岩棚の二つだけ。北へ追えば、あの子は裏山を越えて、向こうの山へ降りる」

「岩棚の方へ逃げたら?」

「その下は、洞窟の入り口よ」

 

 夢子は霊夢を見た。

 

「サラと、あなたの狛犬が居るわ」

 

 霊夢は太刀の柄に手を掛けた。

 

「――じゃあ、北へ押すわよ。逃げ道を一つだけ空けておく」

「えぇ。ルイズは鞍部の南の高い岩へ。マイは右の斜面の縁。ユキは私と左。博麗の巫女は――」

「正面ね。分かってる」

 

 霊夢は岩陰から立ち上がった。

 


~博麗神社 裏山の尾根 鞍部~

 

――霊夢は隠れもせずに鞍部の真ん中へ歩み出た。

 

 岩盤を踏む足音が、朝の静けさの中で響く。

 平たい岩の上で、ティガレックスが目を開けた。

 首をもたげ、霊夢を見る。前脚を岩に突いて、ゆっくりと体を起こした。岩の上から見下ろすその姿は、洞窟の暗がりで見たサラの話より、ずっと大きく見えた。若いとはいえ、前脚を伸ばせば、霊夢の背丈の三倍はある。

 霊夢は背の太刀に手を掛けた。

 

「――おはよう。悪いけど、ここはうちの裏山なの。無許可の居住者には立ち退いてもらうから」

 

 ティガレックスが、岩から飛び降りた。

 前脚で着地し、岩盤が鳴る。首を低く下げ、霊夢を正面に据える。牙を剥いた口の奥で、喉が大きく膨らんだ。

 霊夢は袖の内側の耳当てを指で押し込んだ。

 

〈ガアアアアアアアアッ!!〉

 

――咆哮が鞍部を薙いだ。

 

 霊夢の足元の小石が跳ね、鞍部の端の草が一斉に倒れる。耳当ての上からでも、頭の芯まで響いた。霊夢は奥歯を噛み、半歩だけ後ろへ下がって、咆哮の圧を受け流した。

 咆哮が終わる前に、ティガレックスが走り出していた。

 前脚で岩盤を掻き、四つ足で突っ込んでくる。速い。図体からは想像できない速さで、鞍部の幅いっぱいに迫ってくる。

 

――突進の線から外れる。

 

 霊夢は地を蹴り、フワリと浮いた。

 黄色い体が、霊夢の足の下を駆け抜ける。突進の勢いのまま鞍部を半ばまで走り、そこで前脚を突っ張って、岩盤を削りながら急停止した。そのまま体をぐるりと捩り、向きを変える。

 霊夢は着地しざまに、背から太刀を抜いた。

 肩越しに柄を引き、長い刀身が朝日の中に弧を描く。薄紅の刃の縁から、泡がひとつ、ふわりと散った。

 ティガレックスが、二度目の突進に入った。

 今度は、霊夢は浮かない。

 半身だけずらして突進の線の外へ出る。すれ違いざま、太刀を横へ払った。刃が黄色い前脚の外側を走り、薄い鱗を何枚か削ぎ落とす。

 

〈グギャッ!〉

 

 ティガレックスが短く鳴き、また急停止して振り返る。

 その時、左手から赤熱した光が走った。

 

「――こっちだよ、黄色いの!」

 

 ユキだった。

 スラッシュアックスの斧の刃を岩盤に擦り付けながら駆け込んでくる。擦れた刃が火花を散らし、反り返った刃身が根元から赤く灼けていく。ユキはその勢いのまま、斧を振り回してティガレックスの後ろ脚へ叩き込んだ。

 ジュッ――と鱗が焦げる音がした。

 ティガレックスが、体ごと振り返る。

 その逆の方から、夢子が踏み込んだ。

 太刀の刃が、金の鱗のように煌めく。ティガレックスの視線がユキへ向いた一瞬の隙に、夢子は前脚の付け根へ一太刀浴びせ、すぐさま横へ跳んで間合いを外した。

 ティガレックスの首が、右へ、左へと振れる。

――三方から囲まれている。

 それを、若い竜は分かっていない。分からないまま、怒っている。

 ティガレックスが、その場で体を捩った。

 尾が唸りを上げて円を描く。回転攻撃だ。体ごと一回転し、太い尾が周りの全てを薙ぎ払う。

 

「――回るわよ!」

 

 霊夢の声と同時に、三人が跳び退いた。ユキだけが一拍遅れ、尾の先がスラッシュアックスの柄を掠める。ユキの体が弾かれ、岩盤の上を転がった。

 

「――ユキ!」

 

 右の斜面の縁から、白い影が跳んだ。

 マイだ。操虫棍の棘を岩に突き立て、それを支点に宙へ跳び上がる。白い翼がほんの少しだけ広がった。マイは宙で棍を振り、ティガレックスの頭の上を飛び越えざま、棍の先で鼻面を打った。

 同時に、マイの腕から白い蛾が飛び立った。猟虫の『みぞれ』がティガレックスの顔の前を舞い、白い鱗粉を撒き散らす。

 ティガレックスが、鱗粉を払うように首を振る。

 その隙に、ユキが跳ね起きた。

 

「――平気!平気だから!」

「……平気じゃない。……下がって」

「やだ!下がらない!」

 

 ユキはスラッシュアックスの柄を捩った。斧の刃が開き、尾の先の部分が伸びて、片刃の長剣へと形を変える。剣の刃が赤熱した筋を走らせる。

 

――ティガレックスの前脚と顔に、血管が浮き上がった。

 黄色い鱗の下で、太い血管が赤く膨れ上がり、顔の皮膚が見る間に赤黒く染まっていく。前脚の付け根の筋肉が盛り上がり、喉から漏れる息が、荒く、熱くなった。――怒り状態だ。

 

 ティガレックスが、前脚で岩盤を抉った。

 抉り取った岩の塊を、首を振って投げ飛ばす。人の胴ほどの岩が三つ、霊夢達の方へ飛んでくる。

 霊夢は懐から御札を二枚抜き、宙へ放った。

 札が淡く光り、薄い壁を作る。飛んできた岩の一つが壁にぶつかって向きを変え、鞍部の外の斜面へ転がり落ちていった。壁は、それだけで砕けて消えた。残りの二つは、霊夢と夢子の間の岩盤に落ちて砕け散る。

 

 岩の破片が降り止まないうちに、ティガレックスが跳んだ。

 前脚で岩盤を蹴り、宙へ躍り上がる。狙いは、右の斜面の縁から棍を構え直したマイだった。大きな口を開け、前脚を広げて、真上から覆い被さるように飛びかかる。

 マイは棍を岩に突き立て、横へ跳んだ。

 ティガレックスの前脚が、マイの居た岩を叩き割る。着地するなり、ティガレックスはもう一度跳んだ。二度目の飛びかかり。マイの逃げた先へ、寸分違わず。

 マイの白い翼が、大きく開きかけた。

 

――その刹那、鞍部の南の高い岩の上で、弦が鳴った。

 ヒュッ――と風を切る音が二つ続き、ティガレックスの首の付け根に、橙の羽根の矢が二本突き立った。ルイズの矢だ。鏃に塗った眠鳥の睡眠の成分が、傷口から滲み込んでいく。

 ティガレックスの二度目の飛びかかりが、ほんの僅かに鈍った。

 マイの翼が、閉じた。代わりに棍の棘を地面に突き立て、低く、横へ跳ぶ。ティガレックスの前脚が、マイの白い髪を一筋だけ掠めて岩盤に落ちた。

 ティガレックスが、首を振った。

 頭を低く下げ、前脚を突っ張り、喉の奥で唸りながら、周りを睨み回す。二度跳んで、二度とも獲物を逃した苛立ちを、全身で示している。威嚇だ。

 

「――今よ」

 

 夢子の声が短く飛んだ。

 霊夢と夢子が同時に踏み込んだ。霊夢の太刀が右の前脚を、夢子の太刀が左の前脚の付け根を斬る。夢子の刃は、さっき付けた傷を、寸分違わずもう一度なぞった。黄色い鱗が裂け、赤い血が滲む。

 

〈ギャウッ!〉

 

 ティガレックスが、威嚇の姿勢を崩して跳び退いた。前脚の付け根から、血が一筋、岩盤に垂れる。

 ルイズが、岩の上で次の矢を番えた。

 

「――[睡眠ビン]の液はあと四本分ですわ。眠らせるにはまだ足りません」

「眠らせなくていいわ。足を鈍らせて」

「承知しました」

 

 ティガレックスがまた走り出した。

 さっきよりも速い。前脚の踏み込みが深く、岩盤の砕ける音が連なる。突進の先は――霊夢ではない。

 鞍部の端の、洞窟の真上の岩棚の方だ。

 

――逃げ道を、間違えた。

 

 北ではなく、南へ。洞窟の方へ。怒りに任せて、自分の巣へ駆け戻ろうとしている。

 

「サラ!あうん!そっちへ行くわよ!」

 

 霊夢の叫びが、岩棚の下へ落ちていく。

 


~博麗神社 裏山の洞窟の前~

 

――サラは、足の裏でその震えを聞いていた。

 岩棚の上から、岩盤を砕く足音が近付いてくる。

 

――速い。重い。一直線に、こちらへ来ている。

 

 隣であうんがランスの盾を構えた。足が少し震えている。

 

「と、通しませんよ……!」

「うん。――通さない」

 

 サラは耳当てを両手で押さえ、それから背の大剣を抜いた。

 洞窟の入り口の真ん前に、刃を突き立てる。幅広の刃の腹を正面に向け、柄に肩を当てた。裸足の指で、岩を掴む。

 扉を内側から塞ぐ横木――閂のように。

 

――岩棚の縁から、黄色い影が跳んだ。

 斜面を半ば滑り落ちるように駆け下り、洞窟の入り口へ一直線に突っ込んでくる。顔は赤黒く、目は血走っていた。

 あうんがランスの盾を大剣の脇に並べた。

 

――ズン!と衝撃が来た。

 ティガレックスの頭が、大剣の刃と盾にまともにぶつかる。昨夜と同じ衝撃が腕に走り、肩が軋む。サラの体が後ろへ押される。あうんの足も、地面を削って滑った。

 一尺。サラの足は、その一尺で止まった。

 昨夜は三尺下がった。今朝は、一尺だ。

 

「――ここから先は、通さない」

 

 サラは刃を押し返した。

 受けて、押し返す。ハンターになってすぐ、紅魔館の門番(美鈴)に教わった型の、まだ前半しかできない形。それでも、サラの体は覚えていた。どこに力を入れれば、相手の重さが刃を伝って地面へ逃げていくか。

 ティガレックスの頭が、僅かに上へ逸れた。

 勢いのまま、太い前脚が洞窟の脇の岩壁へ突っ込む。ガツン、と岩の砕ける音がして、前脚の爪が岩の割れ目に挟まった。ティガレックスがもがく。抜けない。

 

「――今!」

 

――岩棚の上から声が降ってきた。

 霊夢だった。岩棚の縁から飛び降り、宙で体勢を整え、[閃光玉]を一つ、ティガレックスの顔の前へ投げ込んだ。

 カッ――!と白い光が弾けた。

 

〈ガァァッ!?〉

 

 ティガレックスが、目を焼かれて仰け反る。挟まった前脚が、もがいた拍子に岩の割れ目から抜けた。だが、目は開かない。首を振り回し、前脚で宙を掻く。

 霊夢がその脇に着地した。

 

「ユキ!」

「分かってる!」

 

 岩棚の縁から、ユキが斜面を駆け下りてきた。剣形態のスラッシュアックスを両手で構え、赤熱した切っ先を、ティガレックスの前脚の付け根――夢子が斬りつけた傷へ向け、突き込んだ。

 刃が鱗の割れ目に食い込んだ瞬間、ユキは柄を握り込んだ。剣の内側に溜め込んだビンの力が、一気に刃の先へ流れ込む。『属性解放突き*1』だ。

 

――ドォン!

〈ギャァァァァッ!?〉

 

 赤い光が前脚の付け根で弾け、ティガレックスの体が横倒しに吹き飛ぶ。

 岩盤を転がり、斜面の途中で止まる。前脚を突いて起き上がろうとして――前脚が、崩れた。片方の前脚を引き摺りながら、ティガレックスは、ようやく体を起こした。

 

 霊夢は太刀を構えて正面に立った。

 夢子が右に。マイが左に。岩棚の上では、ルイズが弓を引き絞っている。洞窟の入り口では、サラとあうんが刃と盾を並べていた。

 

 ティガレックスの目が、ゆっくりと開いた。

 赤黒かった顔の色が、少しずつ引いていく。荒い息の中で、首を巡らせて、周りを見回す。霊夢を、夢子を、マイを。そして――洞窟の入り口に立ち塞がる、黄色い大剣を。

 霊夢は太刀の切っ先を僅かに下げた。

 洞窟の反対側。北の尾根へ続く斜面の方へ、一歩、道を空ける。

 

「――行きなさい」

 

 ティガレックスは、しばらく動かなかった。

 それから、喉の奥で短く唸り、クルリと向きを変えた。片方の前脚を引き摺りながら、斜面を登っていく。鞍部を抜け、尾根を越え、北の山の方へ。

 黄色い背中が、尾根の向こうへ消えた。

 

〈ガアァ……〉>

 

最後に一度だけ遠くで咆哮が聞こえ――それきり、裏山は静かになった。

 


~博麗神社 裏山の洞窟 前室~

 

――夕方。前室の窪みは、すっかり埋め戻されていた。

 壁際に寄せられていた岩を、玄爺とあうんが元の場所へ転がし戻し、サラが窪みに土を入れて踏み固める。骨は、夢子が一本残らず拾って袋に詰めた。ルイズは前室の様子を帳面に写し、ユキとマイは入り口の脇の岩を退けた。

 霊夢は前室の入り口の岩に腰掛けて、それを眺めていた。

 

「……手伝わないんですか、霊夢さん」

「手伝ってるわよ。見張りを」

 

 あうんが困ったような表情を浮かべる。

 夢子が骨を詰めた袋の口を縛りながら霊夢の隣に立つ。

 

「博麗の巫女。さっきの洞窟の入り口の岩、玄爺さんは『入り口を狭めようとしたようにも見える』って言っていたわね」

「えぇ」

「若い個体が、親元を離れて縄張りを探すのはよくあることよ。でも――寝床の入り口を塞いでまで隠れようとするのは、何かに怯えている時だわ」

 

 霊夢は黙って裏山の尾根を見上げた。北の空に、一番星が出ている。

 

「……あの子、どこから来たのかしらね」

「さぁ。それを調べるのは、理香子の仕事でしょう」

 

 夢子は袋を肩に担いだ。

 

「この骨は、会館の生態研究室へ届けるわ。歯形と、食べ方と、骨を並べた順番。何か分かるかもしれない」

 

 夢子はそれだけ言って、洞窟の外へ出ていった。

 入れ替わりに、ルイズが帳面を抱えて霊夢の隣に腰を下ろした。帳面を開き、筆の先で頁を軽く叩く。

 

「霊夢さん。旅行記の東の丘の頁、書き直しましたの。見てくださる?」

「なんで私に見せるのよ」

「裏山の持ち主ですもの」

 

 霊夢は渋々、帳面を覗き込んだ。八日前に書き足した一行の上に、細い線が引かれている。その下に、新しい一行が書き加えられていた。

 

――『丘の北の岩場、および神社の裏山。轟竜、北の山へ去る。観光は、もう少しだけお待ちを』

 

「……『もう少しだけ』って何よ」

「骨を研究室に届けて、理香子さんが『もう大丈夫』と言ってくださるまで、ですわ。旅行記に嘘は書けませんもの」

 

 ルイズは帳面を閉じ、帽子の鍔を少し持ち上げて、裏山の尾根の方へ顔を向けた。

 

「それに、あの子。逃げていく時、一度も振り返りませんでしたわ。洞窟の方も、私達の方も。――まるで、ここより北の方が、まだマシだと思っているみたいに」

 

 霊夢は何も言わなかった。

 ルイズは立ち上がり、ユキとマイの方へ戻っていった。ユキが岩を退ける手を止めて、マイに何か文句を言っている。マイは黙って、ユキの頬に付いた煤を指で拭っていた。

 前室の奥から、サラが出てきた。足は泥だらけで、腕には包帯が巻いてある。それでも、顔は明るかった。

 

「霊夢さん!窪み、埋め終わったよ!」

「そう。お疲れ様」

「今夜も、扉の前で寝るね」

「……ティガレックスは、北の山へ行ったわよ。もう戻ってこないでしょ」

「うん。でも、扉の番人だから」

 

 サラはそう言って、耳当てを首に掛け直した。

 

「今夜からは、これも付けて寝る」

 

 霊夢は小さく笑った。

 

――夜。洞窟の奥は、しんと静まり返っていた。

 扉の前に、サラは毛布を一枚敷いて座った。耳当てを首に掛け、大剣を扉の脇の岩壁に立て掛け、裸足の足の裏を床の岩盤に付ける。

 地下水が滴るかすかな震動。洞窟の入り口で鳴く夜の虫の鳴き声。

 それから、ずっと遠く――北の山の向こうから、岩盤を伝ってくる、ほんの微かな震動。

 重い足音ではない。走る音でもない。もっと低く、もっと長い、地の底が身じろぎするような震え。

 サラは目を閉じ、しばらくそれを聞いていた。

 しかし震動はすぐに消えた。

 

「……気のせい、かな」

 

 サラは毛布を肩まで引き上げた。足の裏は、岩盤に付けたままだった。

 

*1:
スラッシュアックスの剣を相手に突き立て、ビンに溜めた力を刃先から一気に解き放つ大技。

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