東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗神社 本殿裏 祠の前~
――本殿の裏手の古い石段を下りると、小さな祠がある。
苔むした石の台座に、古びた木の扉が一枚構えられている。人ひとりがやっと通れるほどの大きさしかない。『博麗神社』への参拝客は、その存在すら知らない。
――その扉の前を、一人の少女が竹箒で掃いていた。
背筋の伸びた、物静かな佇まいの少女だ。落ち葉を一枚ずつ丁寧に掃き寄せ、時々手を止めては、扉の木目を指でなぞる。扉の脇の石には、鉄の盾斧が一振り立て掛けてあった。
博麗神社の本殿裏の祠――『魔界*1』と『地獄』の両方へ通じる『分かれ門』の門番『シンギョク』である。
扉の奥は乾いた石の下り道になっている。しばらく下ると天井の高い広間に出て、そこで道が二本に分かれる。片方は進むほど暑くなる『地獄』の道、もう片方は進むほど空気の静まる『魔界』の道だ。
シンギョクの務めは、幻想郷の側から扉をくぐろうとする小さな生き物――小型のモンスターや、その卵や、虫や胞子――を、扉の手前で止めることだった。『魔界』にはモンスターが一頭も居ない。一頭でも入れば『魔界』始まって以来の大事になる。
故にシンギョクは毎朝、扉の前を掃く。落ち葉の下に、何かの卵が紛れていないか。扉の隙間に、虫が巣を作っていないか。一枚ずつ確かめるように掃いていく。
シンギョクは、箒を止めて空を見上げた。
祠の真上には、切り立った崖がそびえている。高さは本殿の屋根の三倍ほど。崖の上の縁に、何本かの松が斜めに張り出していた。
――その松の向こうを、蒼い影が横切った。
翼を広げ、ゆっくりと輪を描いている。朝日を受けて、背中の甲殻が空の色に光った。翼の膜だけが、体と違う深い緑色をしている。
リオレウス亜種は蒼い体躯を持つ火竜の亜種だ。原種より長く空に留まり、空から縄張りを見張って、入り込む者を追い払う。
――今朝も、居る。
影は崖の上を二度、三度と回り、それから崖の縁の松の陰へ降りていった。
「……三日目ね」
シンギョクは小さく呟き、箒を祠の脇に立て掛けた。
――石段の上から、足音が下りてきた。
「――シンギョク。居るんでしょ」
霊夢だった。寝癖の付いた髪を手櫛で押さえながら、面倒そうに石段を下りてくる。手に、会館の判を押した依頼票を一枚持っている。
「おはよう、霊夢」
「おはよう。……あんた、今日はそっちの姿なのね」
「えぇ。門の前を掃くのは、こちらの方が向いているから」
霊夢は肩を竦め、依頼票をシンギョクに差し出した。
「慧音から。三日前の件、ようやく正式な依頼になったわ」
――三日前の朝、シンギョクは祠の扉を開けて外へ出たところを、空から襲われた。
崖の上から真っ直ぐに降りてきた蒼い影が、扉の前の石畳を爪で抉った。シンギョクはチャージアックスの盾で受け、扉の中へ転がり込んで難を逃れた。その日の昼には、同じ影が参道の石灯籠の上に降り、参拝に来た里の老夫婦が目撃して腰を抜かした。
「撃退、ね」
「若いのを追い払ったばかりなのに、今度は空の上よ。この神社、モンスターに好かれる呪いでも掛かってるのかしら」
霊夢は崖を見上げ、大きく溜め息を吐いた。
「――『リオレウス亜種』。理香子が言ってたわ。目撃例が少なくて、『出会った者の運命を変える』なんて言い伝えまであるとか」
「運命なら、もう変わっているわ。――三日前から、私は門の外へ出るたびに空を見ている」
シンギョクは、チャージアックスを手に取った。
工房から借りた鉄の盾斧だ。分厚い鉄板の盾に、片刃の剣を差し込んで納める。飾り気のない、新人のハンターが最初に握るような得物だった。シンギョクが前に使っていた盾斧は、去年の冬に地獄道を上ってきた溶岩獣の群れを押し返した時に、盾が割れてしまっていた。
「その盾斧で大丈夫なの?」
「門番は、盾があれば十分よ」
「……前の時みたいに、玉になって転がるだけ、とか言わないでよ」
「前の時?」
「ほら、あんたと最初に会った時よ。転がってきて、ぶつかってきたじゃない」
シンギョクは、少しだけ目を細めた。
「――覚えていたのね」
「何をよ」
「いいえ。何でもないわ」
霊夢は首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
――その時、石段の上で、小さな羽音がした。
二人が振り返ると、石段の一番上に、白い影がちょこんと座っていた。
金色の長い髪。赤い帯の付いた白いとんがり帽子。赤い縁取りの白い服に、透き通った羽。背には、桜色の甲殻を張った狩猟笛――桜火笛『春告げ』を負っている。
春を告げる妖精のハンター――『リリーホワイト』だ。
「……リリー?あんた、こんな時期に何してるのよ」
霊夢が石段を見上げて言った。
リリーは答えなかった。帽子の鍔の下で、眠たげな目を瞬かせている。羽は畳んだまま、少しも動かない。春の盛りなら、目にも留まらぬ速さで飛び回っている筈の妖精だ。だが今は、桜もとうに散って、季節は初夏に差し掛かっている。リリーの力は、半分ほどしか戻っていない。
リリーはゆっくりと腕を上げた。
小さな指が崖の上を指している。蒼い影が降りていった、松の陰を。
「……向こうに飛んで行った、あの子?」
シンギョクが柔らかく訊くと、リリーはこくりと頷いた。
それから背の狩猟笛を胸の前に抱え、桜色の胴をそっと撫でる。
霊夢が、ハッとしたように笛を見た。
「――あんたの笛。桜火竜の素材だったわよね。早春に『霧の湖』の北の崖に巣を作って、討伐された」
リリーはまた頷いた。
「霊夢。桜火竜と蒼火竜は、番になることがあると聞くわ」
「……まさか」
シンギョクは、崖を見上げた。
松の陰から、蒼い首がもたげられている。こちらを見下ろすでもなく、遠くの空を見ている。北西の空――霧の湖の方を。
低い声が崖の上から降ってきた。
誰かを呼ぶような声だった。一声鳴いて、しばらく待つ。返事が無いと、また一声聞こえる。
リリーが帽子の鍔をキュッと引き下げた。
「……春の間、ずっと」
か細い声だった。
「湖の北の崖の上を、回ってました。ずっと、ずっと……呼んでました」
霊夢は黙って崖を見上げた。
蒼火竜の声がまた一度、空に響いた。返す声は、どこからも聞こえなかった。
~博麗神社 本殿裏の崖 上の縁~
――崖の上へは、本殿の脇の獣道を回って登る。
霊夢が先に立ち、シンギョクが続く。リリーは少し遅れて、シンギョクの袖の端を摘まんでついてくる。羽を使う気力は無いらしく、木の根に足を取られるたびに、シンギョクがそっと腕を支えた。
崖の上に出ると、風が強くなった。
崖の縁は、岩盤が剥き出しになった平らな台地だった。縁に沿って松が並び、その向こうに博麗原野が一望できる。足元の岩盤には、所々に枯れた草がこびり付いていた。
霊夢は、台地の手前の岩陰で足を止めた。
「……居ないわね」
松の陰には、何も居なかった。蒼い影は、いつの間にか台地を離れていたらしい。
「狩りに出たのかしら。空から見張ってるなら、どこかで――」
霊夢は空を見回したが、雲の多い初夏の空には、鳥の影一つ無かった。
「今の内よ。見ておきましょう」
シンギョクが、台地の上へ歩み出た。
足元の岩盤に、深い爪痕が刻まれている。三本の太い筋と、その後ろに一本。前へ三本、後ろへ一本の、鳥の足に似た形だ。爪痕の縁は鋭く、岩の欠片がまだ脇に散らばっていた。
「着地の跡ね。ここへ何度も降りているわ」
シンギョクは爪痕の一つにしゃがみ、指で深さを測った。指の第二関節まで沈む。
「重いわ。でも――爪痕が、浅い所と深い所で揃っていない。片方の脚を、少し庇っている」
「怪我?」
「古傷かもしれないわね」
霊夢は、台地の端の松に近付いた。
松の幹が、黒く焦げている。地面から人の背丈ほどの高さまで、幹の片側だけが炭のように焼けていた。焦げた跡の周りの草も、輪の形に焼け落ちている。
「火球の跡ね。ここで吐いたんだわ」
「何に向かって?」
「さぁ」
霊夢は焦げた幹を見上げた。焼け跡の上の方の枝に、小鳥の巣が引っかかっていた。黒焦げで、中は空だった。
リリーが、台地の奥を指差した。
松の根元の、崖の縁に近い窪み。そこに、枯れ枝が山のように積み上げてあった。
霊夢とシンギョクは窪みに近付いた。
枝はただ積み上がっているのではなかった。太い枝を外側に、細い枝を内側に、丸く編むように組んである。真ん中は浅く窪み、柔らかい枯れ草が敷き詰めてあった。
「……巣」
霊夢が呟いた。
「火竜の巣よ。雄が場所を選んで、雌が卵を産む。――でも」
シンギョクは巣の真ん中を覗き込んだ。
枯れ草の上には何も無かった。卵も、卵の殻も、雌の鱗の一枚も。
ただ枯れ草の上に、蒼い鱗が一枚だけ落ちていた。
シンギョクは鱗を拾い上げ、朝日に翳した。空の色を帯びた硬い鱗の縁が少し欠けている。
「この三日で作ったのね。一頭で」
霊夢は巣の周りを一回りする。
巣の脇の岩の上に、ケルビの骨が転がっていた。肉はほとんど残っていない。だが骨の折れ方が奇妙だった。噛み砕かれたのではなく、高い所から落とされて砕けたように、細かく割れている。
「上から落としたのね。掴んで飛んで、ここへ落とした」
「巣に餌を運んだのね」
シンギョクが骨の横にしゃがんだ。
「雄の火竜は、雌が卵を抱いている間、餌を運ぶ。巣の傍へ獲物を落として、雌に食べさせる。――でも、これは食べていない。ほとんど手を付けずに、落としただけ」
「……誰も食べる相手が居ないのに?」
「えぇ」
霊夢は骨から目を逸らし、崖の縁から下を覗いた。
崖の真下に、祠の屋根が小さく見える。そこから石段が本殿の裏へ続き、本殿の脇を回って参道へ出る。参道の石灯籠が、一列に並んでいた。三日前老夫婦が腰を抜かした灯籠は、手前から四つ目だ。その笠の上の石が欠け、爪の跡が白く残っているのが、ここからでも見えた。
「祠の扉は、巣の真下ね」
「えぇ。巣から見下ろすと、扉を出入りする者が、真っ先に目に入る」
シンギョクは立ち上がり、崖の縁に並んで下を見た。
「だから、私を襲ったのよ。あの子から見れば、私は巣の真下から出てくる侵入者だもの」
「とばっちりじゃない」
「門番は、いつもとばっちりを受けるものよ」
シンギョクは少しだけ笑い、霊夢は何も言わなかった。
リリーが巣の縁にしゃがみ込んだ。
懐から小さな枝を一本取り出す。白い花の付いた、野茨の枝だ。初夏の野原で摘んできたのだろう。リリーはそれを、巣の縁の枝の間にそっと差し込んだ。
花は咲いたままだった。
リリーが触れても、花は増えもしなければ、散りもしなかった。
「……春じゃ、ないから」
リリーは、帽子の鍔の下で小さく言った。
「私にはもう、咲かせられません」
霊夢は、リリーの帽子を見下ろした。それから、頭を掻いた。
「――あのさ。慧音の依頼は撃退よ。追い払えって言われてるの。ここに居座られたら、シンギョクは門の外へも出られないし、参拝客は腰を抜かすし」
「……はい」
「だから、追い払う。でも――」
霊夢は、巣を見下ろした。
「どこへ追い払うのかは、あの子次第ね」
シンギョクが、霊夢の横顔を見た。
「門番と同じことを言うのね」
「何がよ」
「通るか戻るかは、通る者が決めること。門は、決めるまでの間を守るだけ」
霊夢は鼻を鳴らした。
「私は門じゃないわよ」
――その時、頭の上から影が差した。
同時に風が上から叩きつけて来る。台地の枯れ草が一斉に舞い上がり、リリーの帽子が飛びかける。霊夢が咄嗟にリリーの肩を掴み、岩陰へ引き込んだ。
見上げると、蒼い翼が空を覆っていた。
リオレウス亜種が、台地の真上で羽ばたいている。翼を大きく打ち下ろすたびに、風が地面を叩く。緑の翼膜が陽を透かし、蒼い甲殻の縁が金属のように光った。両脚の爪が、ゆっくりと開き、閉じる。
蒼火竜は、巣を見下ろしていた。
それから、巣の傍に居る三人を見た。
――咆哮が崖の上を震わせる。
霊夢は耳当てを押し込み、リリーを背に庇った。シンギョクは盾斧の盾を前に構え、咆哮の圧を盾の面で受け止める。
蒼火竜の口の端から炎が漏れた。
「――来るわよ!」
霊夢の叫びと同時に、空から火球が降ってきた。
一つ、二つ。地面に当たって弾け、炎が岩盤の上を舐める。霊夢はリリーを抱えて横へ転がった。シンギョクは盾を斜めに構え、火球の一つを盾の縁で受け流す。弾けた炎が盾の鉄を舐め、シンギョクの袖の端を焦がした。
蒼火竜は降りてこない。
台地の上を、低く輪を描いて飛ぶ。巣の上に影を落としながら、隙を窺うように三人を見下ろしている。
――空から降りてこないつもりだ。
また一つ、火球が降ってきた。
霊夢は懐から御札を二枚抜き、宙へ放った。札が淡く光って薄い壁を作り、火球がその壁にぶつかって向きを変える。逸れた火球は台地の縁の松に当たり、枝を一本、炎ごと崖の下へ叩き落とした。壁は、それだけで砕けて消えた。
――止めるのではなく、逸らす。それで精一杯だ。
蒼火竜は、高さを変えながら飛び続けている。霊夢達の真上へは来ない。巣の上で輪を描き、時々、巣に近付いた者へ向けて火球を吐く。
「――巣を守ってるのね」
シンギョクが、盾を構えたまま言った。
「番も居ない、空っぽの巣を」
霊夢は唇を噛み、リリーを岩陰に下ろした。
「リリー、ここに居て。動かないで」
リリーは、笛を抱えたまま首を振った。
「……吹けます」
「春じゃないでしょ」
「半分なら、吹けます」
霊夢はリリーの顔を見た。それから、短く頷いた。
「――無理はしないで。息が切れたら、すぐやめること」
霊夢は懐から[閃光玉]を一つ取り出した。空を飛ぶ竜を地に落とすなら、これしかない。
問題は、空の上の竜の目の前にどうやって投げ込むかだった。
リリーが、岩陰から一歩踏み出した。
桜色の狩猟笛を両手で構え、吹き口に唇を当てる。息を吸い込み――吹いた。
低く、柔らかな音が流れた。
春の盛りの、花びらが舞うような響きではない。息は細く、音はところどころ途切れる。それでも、旋律は崖の上の風に乗って、霊夢とシンギョクの背中に届いた。
霊夢は自分の足が軽くなるのを感じた。
――効果量は半分だけの、春の旋律。
霊夢は地を蹴った。
フワリと宙へ浮き、蒼火竜の描く輪の内側へ飛び込む。空は飛竜の縄張りだ。高く飛べば、真っ先に狙われる。それを承知の上で、霊夢は蒼火竜と同じ高さまで上がった。
蒼火竜の首が、霊夢の方へ向いた。
口の端の炎が、膨れ上がる。
――今。
霊夢は[閃光玉]を、蒼火竜の顔の真ん前へ投げた。
同時に、自分は目を瞑り、体を真下へ落とした。
瞼の裏が、真っ白に灼けた。
悲鳴のような声と、翼が空を叩く乱れた音。霊夢が目を開けると、蒼火竜が宙でもがいていた。目を焼かれ、翼の打ち方が乱れ、体が傾いでいく。そのまま、台地の上へ落ちてきた。
岩盤がズシンと鳴る。
蒼火竜は横倒しに落ち、翼をばたつかせて起き上がろうとしている。目は閉じたまま、首を振り回していた。
霊夢は着地しざまに、背の太刀を抜いた。
その脇を、シンギョクが駆け抜けた。
鉄の盾斧の剣で、蒼火竜の脚を斬りつける。一太刀、二太刀。斬るたびに、剣から盾へ力が流れ込み、盾の中のビンが鈍く光った。剣で斬って溜めた力を、盾に込めていく。
蒼火竜が目を閉じたまま尾を振り回す。
シンギョクは盾を構えて受ける。重い尾が盾を叩き、シンギョクの体が半歩下がった。だが、崩れない。受けた瞬間に、剣で尾の付け根を斬り返した。
――門番は先に斬らない。受けた瞬間に、斬り返す。
霊夢は蒼火竜の頭の側へ回り込み、太刀で首筋を斬った。蒼い甲殻は硬く、刃が滑る。それでも、甲殻と甲殻の継ぎ目に刃が食い込み、鱗が何枚か剥がれ落ちた。
蒼火竜が、目を開けた。
焼けた目で、霊夢を睨む。前脚の代わりの翼を突いて体を起こし、首を大きく引いた。
「霊夢、下がって!」
シンギョクの声が飛んだ。
霊夢が跳び退いた瞬間、蒼火竜が地面を蹴って跳び上がった。
跳び上がりざまに、体を縦にグルリと回す。後ろ脚の鋭い爪が、宙に弧を描いて振り下ろされた。爪の先から、紫がかった液が飛沫になって散る。
――毒の爪だ。
爪は霊夢の鼻先を掠め、岩盤を抉った。飛び散った毒の飛沫が、霊夢の袖に一滴かかり、白い布がジュッと黒ずむ。
「――っ!」
霊夢は袖を払い、さらに跳び退いた。
蒼火竜は宙で羽ばたき、また台地の上に浮き上がった。目は完全に開いている。閃光の効き目が切れたのだ。
口の端から、炎が溢れ出している。息を吐くたびに、黒い煙が混じっていた。――怒り状態だ。
「……空に戻られたわね」
「えぇ。なら、もう一度落とせばいい」
シンギョクは盾斧を構え直した。盾の中のビンが、さっきより強く光っている。
シンギョクは、ひと呼吸、目を閉じた。
その一瞬、シンギョクの体の輪郭が揺らいだ。
ユラリと、陽炎のように。次の瞬間、霊夢の隣に立っていたのは、もう少女ではなかった。
――烏帽子を被った、陰陽師風の男だった。
背丈も肩幅も、先程までの女の姿より一回り大きい。防具の紐が、男の体に合わせてきつく張っている。男は盾斧を一振りし、盾と剣を合わせた。ガチリ、と金具の噛み合う音がして、盾斧が大きな斧の形に変わる。
「――よし。斧で行く。霊夢、あれを地へ落とす手立てを、もう一つ考えろ。[閃光玉]は二度目以降は効きが悪い。目を慣らすだけだ。それに、あれは今怒っている。怒った竜は、地へ降りる回数が増える。つまり、降りた所を狙えばいい」
「早口ね。……つくづく、さっきと同じ存在とは思えないわね」
「我らは同じだ。中身は一つ、記憶も同じ。性別など些事――来るぞ」
蒼火竜が空から突っ込んできた。
翼を畳み、真っ直ぐに急降下してくる。狙いは、斧を構えたシンギョク。毒の爪を前へ突き出し、獲物を掴み取ろうとするように。
シンギョクは――動かなかった。
斧を肩に担ぎ、爪が届く寸前まで待つ。そして――爪が触れる刹那、半歩だけ横へ踏み込み、斧の刃を下から振り上げた。
ガギン――と鈍い音がした。
斧の刃が、蒼火竜の脚の付け根を打つ。蒼火竜の体が宙で傾き、爪がシンギョクの肩を掠めて岩盤に突き刺さった。勢いのまま、蒼火竜は台地の上を転がる。
シンギョクが、斧を振りかぶった。
盾の中のビンが、眩しいほどに光っている。剣で溜めた力のすべてを、斧の刃へ流し込む。
「――解き放つ!はぁぁっ!!」
気を吐いて斧を振り下ろす。
刃が蒼火竜の背に食い込んだ瞬間、溜め込んだ力が一気に弾けた。属性解放斬り*3だ。
炎の帯が蒼火竜の背で弾けた。
蒼い甲殻が割れ、破片が台地に散る。蒼火竜が悲鳴を上げ、翼をばたつかせて跳ね起きた。
そのまま蒼火竜は――空へ逃げた。
翼を必死に打ち、台地から離れていく。崖の縁を越え、博麗原野の上へ。片方の脚を、だらりと垂らしたまま。北西の空へ。霧の湖の方へ。
霊夢は太刀を下ろした。
シンギョクも斧を下ろし、肩で息を吐く。肩当てが毒の爪に裂かれ、その下の布が黒く滲んでいた。
「……撃退、ね」
霊夢は呟いた。
岩陰で、リリーが笛を下ろしていた。息が切れて、肩が大きく上下している。それでも、目は蒼い影が消えた空の一点を見つめていた。
「――帰ってきます」
リリーが小さく言った。
「あの子、また帰ってきます。巣が、ここにあるから」
~博麗神社 本殿裏 祠の前~
――昼過ぎ、玄爺が空から戻ってきた。
甲羅に括り付けた文箱を霊夢が開けると、慧音の几帳面な字の書き付けが一枚入っていた。
――『撃退を確認した。ただし、巣を残したまま追い払ったモンスターは、まず戻る。戻ってきた場合は区分を討伐に改める。祠の門と参道を守ることを優先せよ。――上白沢慧音』
「……やっぱり、そうなるわよね」
霊夢は書き付けを畳んだ。
縁側の端では、男の姿のままのシンギョクが、裂けた肩当ての下の傷に[解毒薬]を塗っていた。傷は浅いが、毒で周りが紫に腫れている。
「巣を壊せば、戻ってこないかもしれないわね」
霊夢が言うと、シンギョクは首を振った。
「巣を壊しても、あれは戻るだろう。巣のためではない。――あの崖の上が、あれの選んだ縄張りだからだ。雄の火竜は空から縄張りを見張り、入る者を追い払う。追い払われたのは、こちらの方だと思っている」
「じゃあ、どうするのよ」
「戻ってきたら、狩る――慧音の言うとおりだ」
シンギョクは、薬の壺の蓋を閉めた。
「門番は先に斬らない。だが、門そのものが危うい時は斬る。あれが参道に降りれば、次は人が死ぬ」
霊夢は、黙って空を見上げた。
それから、シンギョクの方へ向き直った。
「で、あんた。今は男の方だけど、夕方までに女の方へ戻れるの?」
「戻れない」
シンギョクは、あっさりと言った。
「姿を変えるのは、一日に何度もできることではない。変わる瞬間は、ひと呼吸だけ隙ができる。体も重くなる。今日は既に一度、変わったばかりだ。夕方にもう一度変われば――明日は無力な玉のまま転がるしかなくなる」
「玉のまま、って……」
「冗談だ」
「……あんたの冗談、分かりにくいのよ」
霊夢は額を押さえた。
シンギョクは、借り物の盾斧を膝の上に置き、盾の縁の焦げを指でなぞった。昼間の火球を受け流した跡だ。鉄が黒く煤け、ところどころ熱で歪んでいる。
「この盾は、あと二、三度なら火球を受けられる。それより多く受ければ、割れる」
「なら、受けさせなきゃいいわ。空から火球を撃たせる前に、地へ降ろす」
「どうやって降ろす?」
「降りてくる場所は、分かってるでしょ」
霊夢は、祠の方を顎で示した。
「あの子は、あんたが扉から出てくるのを侵入者だと思って襲う。巣の真下だから。――なら、あんたが扉の前に立ってれば、向こうから降りてくるわよ」
シンギョクは、しばらく霊夢の顔を見ていた。
「……私を囮にするのか」
「門番でしょ。門の前に立つのが仕事じゃない」
「――ふむ。理屈は通っている」
シンギョクは、借り物の盾斧を背中に担ぎ直した。
縁側の柱にもたれて、リリーが眠っていた。笛を胸に抱いたまま、小さな寝息を立てている。半分の春の旋律を吹いただけで、力を使い果たしたのだ。
霊夢は、自分の羽織を一枚、リリーの肩に掛けた。
リリーが、うっすらと目を開けた。
「……霊夢さん」
「起こしちゃったわね。寝てていいわよ」
「……あの子のこと、話してもいいですか」
霊夢は、リリーの隣に腰を下ろした。
リリーは、途切れ途切れに話した。
――早春、まだ雪の残る『霧の湖』の北の崖で、桜色の雌火竜が巣を作り始めた。リリーが最初に気付いて会館へ知らせ、街道が閉じられ、上位のハンター達が集められた。巣ごと移らせようと撃退を試みたが果たせず、雌火竜は討伐された。卵は生態研究室に引き取られた。
その狩りの日、空の高い所にはもう一つの影があった。
「蒼い子が、上から見てました。降りてこなかった。ずっと、ずっと、上で回ってて……」
リリーは、笛の胴をきつく抱いた。
「あの日から、春の間ずっと、湖の北の崖の上を回ってました。桜が散っても。私が、春の終わりで眠くなっても」
「……それで、追いかけてきたの?」
「北の崖から、居なくなったから。どこへ行ったのか、知りたくて」
リリーは、霊夢を見上げた。
「私が、最初に知らせたんです。桜色の子の巣のこと。――私が知らせなかったら、あの子達は、今も一緒に居たのかなって」
霊夢はすぐには答えなかった。
しばらく黙って空を見上げ、それから言った。
「知らせなかったら、街道を通った誰かが襲われてたわよ。卵を抱えた雌火竜は、近付くもの全部を襲うんだから」
「……はい」
「だから、あんたが知らせたのは間違いじゃない。――間違いじゃないけど、それであんたの気が晴れるわけでもないのよね」
リリーは、何も言わなかった。
霊夢はリリーの帽子を、上から軽く押さえた。
「寝てなさい。夕方には、多分、また吹いてもらうことになるから」
――夕暮れ。シンギョクは、祠の扉の前に立っていた。
割れた石畳を掃き清め、倒れかけた石灯籠を起こし、扉の五歩前で、扉を背にして盾斧を地に立てている。男の姿のまま、烏帽子の縁を夕陽に染めて、じっと北西の空を見ていた。
霊夢は、石段の途中の岩陰に身を伏せていた。太刀の柄に手を掛け、息を殺している。リリーは本殿の縁側で、玄爺の甲羅の陰に寝かせてあった。
「……来ないわね」
「来る」
シンギョクは、空から目を離さずに言った。
「日が沈む前に。火竜は夜目が利かない。暗くなる前に、塒へ戻る」
――その言葉どおり、蒼い影は戻ってきた。
北西の空から、片方の脚を垂らしたまま、ゆっくりと飛んでくる。翼の打ち方が重い。背の割れた甲殻から、時々、黒い煙が漏れている。
蒼火竜は、崖の上の巣へは降りなかった。
崖の上を一度回り、真下の祠の前に立つ烏帽子の男を見下ろした。巣の真下に立つ、侵入者を。
蒼火竜は翼を畳み、真っ直ぐに降りてきた。
石畳が割れ、起こしたばかりの石灯籠が、また倒れる。蒼火竜はシンギョクの十歩先に降り立ち、首を低く下げた。口の端から炎が溢れ、喉の奥で低い唸りが続いている。
――扉の前を、自分の場所にしようとしている。
門番の居場所を奪い、門の前で翼を広げている。
シンギョクは、盾を前に構えた。
「――そこは、世界を隔てる門の前だ」
シンギョクの声は、低く静かだった。
「通る者が選ぶ場所だ。お前の巣にしていい場所ではない」
咆哮と同時に、蒼火竜は低く跳んだ。翼を半ば広げ、毒の爪を前に突き出して、シンギョクへ飛びかかる。
シンギョクは盾で受けた。
爪が盾の鉄を掻き、火花が散る。シンギョクの足が石畳を削って下がる。一歩、二歩。背の扉まで、あと三歩。そこで――シンギョクは止まった。
「――霊夢!」
「分かってる!」
霊夢は蒼火竜の側面へ回り込んだ。
背の割れた甲殻。昼間、シンギョクの斧が叩き割った傷だ。黒い煙が、そこから漏れている。
――狙うのは、背の傷。
霊夢は地を蹴り、フワリと浮いた。蒼火竜の背の高さまで上がり、太刀を大上段に振りかぶる。刀身の薄紅の縁から、泡が幾つも散った。
浮いたまま――斬り下ろした。太刀の刃が、割れた甲殻の隙間へ深く入る。
〈ギャアアッ!〉
蒼火竜の体が、大きく仰け反った。
翼をばたつかせ、首を振り回し、尾を薙ぐ。霊夢は太刀を引き抜いて跳び退いた。尾が霊夢の足元の石畳を叩き割る。
――その時、本殿の方から、細い笛の音が流れてきた。
霊夢が振り返ると、石段の一番上にリリーが立っていた。玄爺の甲羅に寄りかかるようにして、桜色の笛を構えている。羽織を肩に掛けたまま、頬は白く、息は昼より更に細い。
「リリー!本殿に居なさいって――」
――吹けます!まだ……!
リリーは笛から唇を離さずに、目だけで答えた。
旋律が祠の前の石畳に降りてくる。途切れ途切れの、半分の春の旋律。それでも霊夢の体に、ほんの少しだけ力が戻った。毒の爪に掠められたシンギョクの肩の腫れが、僅かに引いていくのが見えた。
玄爺が、甲羅の上からのんびりと言った。
「御主人様。この子は止めても聞きませぬ。儂が傍に居ります故、どうぞ前を」
「……分かったわよ」
シンギョクが盾を構えたまま踏み込んだ。
剣で脚を斬る。昼間の傷が開き、蒼火竜の体が傾ぐ。もう一太刀。蒼火竜の片脚が、崩れた。
蒼火竜は翼を突いて体を支えた。
口から炎が漏れる。だが、火球を吐く力はもう残っていなかった。炎は口の端で燻り、煙だけが上がる。
霊夢は太刀を構えた。
蒼火竜の首が、ゆっくりと霊夢の方を向く。焼けた目が、霊夢を見た。それから、霊夢の肩越しに空を見上げる。
北西の空。夕焼けの赤が、霧の湖の方へ沈んでいく。
蒼火竜の喉の奥で、小さな声が鳴った。
何かを――番を呼ぶような声だった。
霊夢は瞑目し――目を開くと太刀を振り下ろした。
――蒼い火竜は、祠の前の石畳に静かに伏した。
~博麗神社 本殿裏の崖 上の縁~
――夜。崖の上の巣の傍に、小さな白い影が座っていた。
リリーだった。笛を膝の上に置き、巣の縁に差した野茨の枝を見つめている。白い花は、夕方と同じまま咲いていた。
霊夢は、少し離れた岩に腰を下ろした。
「……リリー」
リリーは振り返らなかった。
「あの子、北西の空を見てました。最期まで」
「えぇ」
「あっちに、桜色の子が居たから」
リリーは、膝の上の笛を撫でた。桜色の甲殻が、月明かりの下で淡く光っている。
「――吹いても、いいですか」
「……好きにしなさい」
リリーは笛を構え、吹き口に唇を当てた。
細い音が夜の崖の上に流れた。
息は昼よりもっと細く、旋律は途切れ途切れだった。春の歌でも、狩りの旋律でもない。ただ、誰かを呼ぶような、短い節を何度も繰り返す。
霊夢は黙ってそれを聞いていた。
石段の方から、足音が近付いてきた。シンギョクだった。男の姿のまま、烏帽子を脱いで小脇に抱え、もう片方の腕に蒼い甲殻の欠片を幾つか抱えていた。
「剥ぎ取りは終わった。素材は会館へ届ける。慧音の判断で、一部は私とリリーに回るそうだ」
「……あんた、それで盾斧を作るの?」
「あぁ。小傘の工房に頼む。借り物は返さねばならん。全体が焦げて歪んでいるがな。これでは一から造る方が安いだろう」
シンギョクは甲殻の欠片を一枚、月に翳す。空の色の甲殻の縁に、緑の翼膜が少しだけ付いていた。
「『出会った者の運命を変える』――か」
「言い伝えのこと?」
「あぁ。私の運命は、盾が一枚変わる程度で済んだ。あれの運命は、桜色の番を失った春に、とうに変わっていた」
シンギョクは甲殻を胸に抱えた。
「門の前を選んだのだな。あれは」
「祠の扉の前に降りたこと?」
「あぁ。崖の上の巣ではなく、門の前に。……門は、選ぶまでの間を守るだけだ。行き先を決めるのは、通る者の方だ。――だが、あれには、もう行き先が無かった」
霊夢は、何も言わずに夜空を見上げた。
門番の言うことは、いつも少し回りくどい。それでも今夜は、その回りくどさが、少しだけありがたかった。
リリーの笛の音が、ふっと途切れた。
息が切れたのだろう。リリーは笛を膝に置き、巣の縁の野茨の枝に、そっと指で触れた。
その時――白い花の隣で、小さな蕾が一つ、ほんの少しだけ綻んだ。
リリーが、目を瞬いた。
霊夢も、シンギョクも、何も言わなかった。
――初夏の夜風が、崖の上を吹き抜けていく。北西の空には、星が一つ、二つと瞬き始めていた。
『シンギョク』
所属:人里ギルド(博麗神社の祠の傍に住む)
役職:『分かれ門』の門番。当番と報告の取りまとめ役
武器:工房から借りた鉄の盾斧(チャージアックス)
『リリーホワイト』
所属:人里ギルド
役職:春を告げる妖精のハンター。季節によって受けられる依頼の重さが変わる
武器:桜火笛『春告げ』(狩猟笛)