東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗神社 縁側~
――夜の縁側に、湯呑みが二つ並んでいる。
片方は霊夢の、もう片方は誰のものでもない。客用の湯呑みだ。その湯呑みの縁に、半透明の指が一本、所在なげに掛かっていた。
「……あんたねぇ。飲めないのに毎晩お茶を淹れさせるの、やめてくれない?」
霊夢が言うと、湯呑みの向こうで緑の長い髪が揺れた。
縁側の板の上を、霊体の尾が煙のように漂っている。神社に居着いて久しい悪霊『魅魔』だ。
「なんだい。湯気くらいは楽しませておくれよ。香りってのは、霊にも届くもんさ」
「届いたところで、出涸らしになるのは私のお茶なのよ」
「ケチだねぇ」
魅魔は湯呑みから指を離し、夜の境内を眺めた。
石灯籠の火が、風に揺れている。本殿の裏の方からは、時々、祠の扉の前を掃く箒の音が聞こえてきた。門番は、夜も扉の番を欠かさない。
「――そういや魔理沙のやつ、最近見ないね」
ふと魅魔がポツリと、何でもないことのように言った。
「来てたわよ、昼間。依頼票をヒラヒラさせて、自慢しに」
「へぇ。何の依頼だい」
「魔法の森の外れのキノコ採りの場所に、変な猿が出るんですって。鼻から水を吹いて、木から木へ飛び移る、耳のでかいやつ。キノコ採りの婆さんが追い回されて、籠を三つ駄目にしたとか」
「猿、ねぇ」
「アリスは人形の修理で手が離せないって断ったらしいわ。だから、クスネと行くって。明日の朝から」
霊夢は湯呑みを傾けた。
「――『新しい弾を試すのに丁度いい』って、楽しそうだったわよ」
魅魔は黙って夜空を見上げ――しばらくして、霊体の尾がフワリと縁側から浮き上がった。
「――ちょいと、散歩してくるかねぇ」
「こんな夜中に?」
「悪霊が夜中に散歩しないで、いつ散歩するんだい」
魅魔は鳥居の方へ漂っていく。青いローブの背が、石灯籠の明かりの外へ溶けていく。
霊夢は魅魔が残していった湯呑みを見下ろした。湯気は、もう立っていなかった。
「……過保護ねぇ」
霊夢は小さく呟き、自分のお茶を飲み干した。
~魔法の森 霧雨魔法店~
――朝の魔法の森は、湿った菌の匂いがする。
巨大な茸の傘の下に、一軒の家が埋もれるように建っていた。看板には『霧雨魔法店』とある。店というより、物置と研究室を足して二で割らなかったような家だ。窓という窓の前に、瓶と本と得体の知れない道具が積み上がっている。
その家の土間で、魔理沙は作業台に覆い被さっていた。
作業台の上には、魔砲重弩『恋色彗星』が分解されて並んでいる。銃身、機関部、銃床、弾倉。継ぎ足しだらけの部品が、色も素材もばらばらに散らばっていた。その真ん中に、掌に乗るほどの八角形の炉――ミニ八卦炉が置いてある。
「……よし。これで、どうだ」
魔理沙は八卦炉を機関部の脇の金具に嵌め込み、ネジを締めた。それから、作業台の端の小箱から、弾を一発摘み上げる。赤い紙で巻いた、ずんぐりとした弾。
――見た目は[火炎弾]のそれだ。
ただし、普通の火炎弾ではない。魔理沙が一晩かけて火薬の配合を変え、着弾した時の火の回りを倍にした、自作の弾だった。
「八卦炉の熱で薬室を温めておけば、撃った瞬間に火薬が一気に燃える。燃え方が速けりゃ、炎も遠くまで届く。――理屈の上ではな」
「理屈の上では、ニャ」
作業台の下から、かすれた声が聞こえる。
作業台の脚に背中を預けて、クスネが魔理沙を見上げていた。両手にネコピックを大事そうに抱えている。
「この前も『理屈の上では』って言って、屋根に穴を開けたニャ」
「あれは八卦炉の火加減を間違えただけだ。今度は大丈夫だぜ」
「その前は、竈を吹き飛ばしたニャ」
「……あれは、火薬の量を間違えただけだ」
「その前は――」
「分かった、分かった。――今回は外で撃つ。猿が相手なら、的には困らないだろ」
魔理沙は
組み上がったヘビィボウガンを、背に負う。重さで少しよろけ、それから足を踏ん張った。
作業台の隅に、紐で綴じた古い帳面が置いてある。表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。魔理沙は帳面を手に取り、一頁だけ捲った。
頁の真ん中に、癖のある大きな字で一行だけ文が書いてある。
――『溜めて、一気に撃て。半端に撃つな』
魔理沙はその一行をしばらく眺めていた。それから帳面を閉じ、作業台の引き出しの奥に仕舞った。
「行くぜ、クスネ」
「……ニャ」
クスネは、魔理沙が閉じた引き出しをちらりと見た。それから、ネコピックを背負い直して、魔理沙の後を追った。
~魔法の森 入口~
――森の入口の倒木に、老婆が一人腰掛けていた。
背を丸め、膝の上に、底の抜けた竹籠を抱えている。籠の目には、乾いた粘液が白く固まっていた。人里で茸を売っている、茸採りだ。依頼票を出したのもこの老婆だった。
「婆さん、来たぜ。依頼を受けた魔理沙だ」
魔理沙が声を掛けると老婆は顔を上げ、目を細めた。
「おや、霧雨さんとこのお嬢ちゃんかい。大きくなったねぇ」
「……お嬢ちゃんはやめてくれ。今日はハンターとして来てるんだ」
「そうかい、そうかい。そっちの猫ちゃんも、ハンターかい」
「魔理沙のオトモニャ」
クスネが胸を張った。老婆は皺だらけの顔をほころばせ、それから膝の上の籠を撫でた。
「この籠で三つ目さね。採り場で茸を摘んでたら、上からいきなり、バシャッと水を掛けられてねぇ。見上げたら、木の上に大きな猿がぶら下がってたのさ。耳がこう、傘みたいに広がってて、鼻がずうっと長いんだ」
「鼻から水を吹いたんだな」
「そうさ。その水がまた、ネバネバしててねぇ。体に掛かると重くて重くて、ちっとも走れやしない。息が上がるのも、いつもより早くてねぇ。籠を放り出して、這うようにして逃げてきたよ」
魔理沙は帳面を開き、老婆の話を書き留めた。
――『水を浴びると体が重くなり、息が切れやすくなる』
「いつ頃から出るようになったんだ?」
「ほんの十日ばかり前さね。あの採り場には、もう五十年通ってるけど、あんな猿は見たことがない。森の奥の、もっと北の方に棲んでるもんだと、亡くなった爺さんは言ってたけどねぇ」
「北の方から、降りてきたってことか……」
魔理沙は筆を止めた。
――北。阿求の地図の上で、朱の矢印が向いていた方角だ。
「あぁ、それとねぇ」
老婆が思い出したように続ける。
「今朝、夜明け前に厠に起きたらね。森の方へ、青い灯りがスウッと飛んでいくのが見えたのさ。鬼火かと思ったけど、怖い感じは、ちっともしなかったねぇ」
クスネの耳がピクリと動いた。
魔理沙は帳面から顔を上げずに口を開く。
「……人魂でも迷い込んだんだろ。森はそういうのが多いからな」
「そうかい。お嬢ちゃんが言うなら、そうなんだろうねぇ」
老婆は籠を抱え直し、よっこらしょと立ち上がった。
「気を付けてお行き。茸は逃げないけど、お嬢ちゃんは一人しか居ないんだからね」
「分かってるよ。茸の採り場は、ちゃんと取り返してやるぜ」
魔理沙は帽子の鍔を軽く持ち上げて見せ、森の中へ踏み込んだ。
森の小道を歩きながら、魔理沙はさっきの帳面のことを考えていた。
――あの帳面を貰ったのは、まだ背が今の半分くらいしかなかった頃だ。
道具屋の実家を飛び出して、魔法の森に転がり込んで、右も左も分からなかった頃。毎晩のように、青い影がふらりと現れては、魔理沙が撃つ魔法の弾を眺めていた。
――『半端に撃つんじゃないよ。そんなへなちょこ弾、妖精だって避けやしない』
――『溜めな。溜めて、溜めて、これ以上は無理だってとこで――一気に撃つんだ』
何度も言われた。何百回と撃って、何百回と叱られた。叱られる度に、帳面に書いた。帳面の最初の一頁にだけは、魔理沙ではなく、青い影が自分で書き込んだ。癖のある、大きな字で。
――そしていつからか、あの青い影は来なくなった。
『もう教えることはない』とも、『免許皆伝だ』とも言わなかった。ある日フッと来なり、気が付けば、博麗神社の縁側で霊夢のお茶の湯気を眺めるようになっていた。
神社で顔を合わせれば、普通に話す。軽口も叩く。だが、魔法の話になると、決まってはぐらかされた。
――『私は、ただの通りすがりの悪霊さ』
「……通りすがりが、何年居座ってんだか」
「何か言ったニャ?」
「何でもない」
~魔法の森の外れ 茸の採り場~
――森の外れの採り場は、ひどい有様だった。
苔むした倒木が何本も横たわる、薄暗い窪地だ。倒木の上や根元には、色とりどりの茸が生えている。里の茸採り達が、代々大事にしてきた場所だった。
その茸が、あちこちで踏み潰され、千切られ、食い散らかされていた。
魔理沙は窪地の縁にしゃがみ込み、潰れた茸の一つを指で摘み上げた。
「……ベタベタだな」
茸の傘に、透明な粘液がべっとりと絡みついている。指を離すと、糸を引いた。水のようで、水ではない。乾きかけた所は、薄く膜を張ったように固まっていた。
クスネが、粘液の付いた茸に鼻を近付け、すぐに顔を顰めた。
「生臭いニャ。……これ、鼻水ニャ」
「鼻から水を吹くって話だからな。婆さんの籠を駄目にしたのも、これだろ」
魔理沙は立ち上がり、窪地を見回した。
粘液は、茸の上だけではなかった。倒木の幹にも、苔にも、木の根元の落ち葉にも、点々と飛び散っている。飛び散り方に、向きがあった。窪地の真ん中から、外へ向かって扇のように広がっている。
「ここから吹いたんだな」
魔理沙は窪地の真ん中に立ち、粘液の飛んだ方を目で追った。
一番遠くの粘液は、窪地の縁の楢の幹に付いていた。地面から人の背丈の倍ほどの高さに。
「……上から吹いたのか?」
魔理沙は楢を見上げた。
楢の太い枝が、一本だけ不自然にしなっていた。枝の樹皮が、何かに巻き付かれたように擦り剥けている。輪のような擦り跡が、枝の付け根から先まで、三つ、四つと続いていた。
「尻尾ニャ。尻尾で枝にぶら下がった跡ニャ」
クスネが、木の幹に爪を立てて少しだけ登り、擦り跡を覗き込んだ。
「太い尻尾ニャ。猿にしては、でかすぎるニャ」
「だろうな」
魔理沙は帽子の鍔を押し上げた。
楢の根元の落ち葉の上に、足跡が残っていた。四つ足。前脚の跡は、人の手のように指が長い。後ろ脚の跡は、それより少し大きい。前脚の指の間に、薄い膜の跡のような、ぼやけた縁取りが残っている。
「飛膜があるのか。……滑空するんだな、こいつ」
魔理沙は、腰の帳面を取り出して足跡を写した。指の数、長さ、膜の跡。帳面の端に、粘液の飛び方と、楢の擦り跡の高さを書き添える。
クスネが、魔理沙の手元を覗き込んだ。
「魔理沙、いつも書くニャ」
「書かないと忘れるだろ」
「魔理沙は忘れないニャ」
「忘れないために書くんだよ。……昔、そう言われたんだ」
魔理沙は帳面を閉じた。
窪地の奥、森の深い方へ、足跡は続いていた。所々で途切れ、また少し先の木の根元から始まっている。木から木へ飛び移り、時々地面へ降りて、また木へ登る。そうやって、森の奥へ移っていったらしい。
足跡の脇に、齧りかけの果実が落ちていた。森の奥でしか実らない、赤い木の実だ。噛み跡の歯形は小さく、細い。
「茸と木の実を食ってるのか。肉食じゃないんだな」
「食いしん坊ニャ。籠ごと茸を持ってったって、婆さんが言ってたニャ」
「籠ごとか……」
魔理沙は、森の奥を見た。
その時、クスネの背中の毛が、ブワリと逆立った。
尻尾が太く膨らみ、耳が後ろへ倒れる。クスネは魔理沙の足元へ跳び退き、窪地の反対側の茂みを睨みつけた。
「――どうした、クスネ」
「……何か、居るニャ」
魔理沙は、背のヘビィボウガンに手を掛けた。
茂みは、静かだった。風が葉を揺らす音だけがする。何も動かない。
クスネは、しばらく茂みを睨んでいた。それから、毛を逆立てたまま、小さく首を傾げた。
「……居なくなったニャ」
「猿か?」
「猿じゃないニャ。もっと、こう……」
クスネは、言葉を探すように髭を震わせた。
「……冷たいニャ。冷たくて、懐かしい匂いニャ」
「何だそりゃ」
魔理沙は茂みをもう一度見たが、やはり何も居なかった。
クスネの毛が、少しずつ元に戻っていく。だが尻尾の先だけは、まだ膨らんだままだった。
「……気のせいだろ。森は色んな匂いがするからな」
魔理沙は肩を竦め、足跡を追って森の奥へ歩き出した。
クスネは、魔理沙の後ろについて歩きながら、何度も後ろを振り返った。
~魔法の森 樹上の回廊~
――森の奥へ進むほど、空が遠くなる。
巨大樹の枝が何層にも重なり合い、陽の光を細い筋にして地面へ落としている。枝と枝の間には太い蔓が何本も垂れ下がり、森の天井に網を張ったようだった。足元は湿った苔で、踏むたびに靴が沈む。
足跡は、ここで地面から消えていた。
魔理沙は頭上を見上げた。蔓の何本かに、粘液がこびり付いて光っている。蔓から蔓へ、樹上を移っていったのだ。
「上か……」
ヘビィボウガンを背から下ろし、畳んだ銃身を開く。銃床を腰に当て、腰だめに構えた。重い。だが、この重さが一発の重さになる。
「クスネ。上を見とけ。私は下を見る」
「ニャ」
――その時、頭上の蔓が、ぎしりと鳴った。
魔理沙とクスネが、同時に見上げた。
巨大樹の太い枝から、何かがぶら下がっていた。
――太い尻尾を枝に巻き付け、逆さまに垂れ下がっている。灰色がかった紫の毛並み。前脚は長く、指の間に薄い膜が張っている。顔の両脇には、体と同じくらい大きな耳が、傘のように広がっていた。そして顔の真ん中から、象のように長い鼻が、ゆらゆらと揺れている。
逆さまの顔が、魔理沙を見下ろしていた。
長い鼻の先から、ぽたりと粘液が一滴、落ちてきた。
ケチャワチャは、森の樹上で暮らす牙獣だ。尻尾と長い前脚で枝から枝へ渡り、木の実や茸を探して森を巡る。大きな耳は物音をよく拾い、驚くと顔を覆う盾にもなる。
「……デカい猿だな、本当に」
魔理沙が呟いた瞬間、ケチャワチャの鼻が、プクリと膨らんだ。
「――吹くニャ!」
クスネの叫びと同時に、鼻先から水が噴き出した。
細い水の筋が、上から真っ直ぐに飛んでくる。魔理沙は横へ跳んだ。水は魔理沙の居た苔を打ち、苔ごと地面を抉る。飛沫がかかった帽子の鍔が、ズシリと重くなる。
粘つく水だ。帽子に、服に、べっとりと張り付いて、布が体に纏わりつく。腕を上げるだけで、いつもより重い。
「……っ、気持ち悪いな、これ!」
ケチャワチャが、枝から尻尾を解いた。
前脚を大きく広げる。指の間の膜がぴんと張り、ケチャワチャの体が宙を滑った。滑空だ。枝から枝へ、音もなく飛び移り、魔理沙の背後の木の幹に張り付く。
「速いな……!」
魔理沙は体ごと振り返り、腰だめのまま狙いを付けた。だが、ケチャワチャはもう幹を蹴って、別の枝へ跳んでいる。照準が追いつかない。
魔理沙は自分の手を見た。
粘つく水を浴びた腕が、ひどく重い。ヘビィボウガンを構え直すだけで、息が上がる。胸の奥が、全力で走った後のようにぜいぜいと鳴っていた。
「……婆さんの言ってた通りだな。これが、[水やられ]か」
浴びた粘液が、体の動きも、息の続きも奪っていく。長くは保たない。
ケチャワチャが、再び尻尾で枝にぶら下がった。
逆さまのまま、体をぐるりと捻る。鼻を膨らませ――ぶら下がったまま、体ごと回転しながら、水を吹き撒いた。
水の筋が、輪を描いて森の底を薙ぎ払う。苔が抉れ、倒木の茸が弾け飛ぶ。魔理沙は倒木の陰へ転がり込み、クスネを抱えて伏せた。頭の上を、水の筋が唸りを上げて通り過ぎていく。
「上から撒かれちゃ、狙いが付けられないぜ……!」
倒木の陰から銃口だけを出し、一発撃った。火炎弾はケチャワチャの脇の枝を掠め、葉を焦がして森の奥へ消える。外れだ。
「……ちっ、残り四発」
クスネが、ネコピックを背から外した。
「魔理沙、落とすニャ!」
クスネは、懐からどんぐりの形をした小さな玉を取り出した。[閃光爆弾の技]だ。それを、枝の上のケチャワチャ目がけて放り投げる。
カッ、と白い光が弾けた。
ケチャワチャが目を押さえ、尻尾が枝から滑った。そのまま、背中から苔の上へ落ちてくる。ドスン、と地面が揺れた。
「でかしたぜ、クスネ!」
魔理沙は、もがくケチャワチャに銃口を向けた。
引き金を絞る。
ズドン――と腰から背へ反動が抜けた。自作の火炎弾がケチャワチャの肩に食い込み、炎が毛並みを舐める。ケチャワチャが悲鳴を上げ、地面を転がった。
「効いてる!火に弱いってのは、本当らしいな!」
魔理沙は二発目を撃った。炎がケチャワチャの脇腹に、背に、次々と燃え移る。
ケチャワチャが、跳ね起きた。
毛並みの焦げた所から煙を上げながら、後ろ脚で立ち上がる。そして――大きな耳を、顔の前でぴたりと閉じた。
二枚の耳が、顔を覆う仮面になる。目も、鼻の付け根も、耳の向こうに隠れた。耳の縁が赤く充血し、毛並みが逆立っていく。――怒り状態だ。
「……閃光は効かないってことか」
「目を隠したニャ。光っても遮られて見えないニャ」
ケチャワチャが、耳の仮面のまま前脚を振り回した。
長い前脚が、魔理沙の目の前の苔を薙ぐ。魔理沙はヘビィボウガンを抱えたまま後ろへ転がった。重い得物を抱えての転がりは、いつもより一拍遅い。粘つく水を吸った服が、動きをさらに鈍らせていた。
ケチャワチャが、鼻を膨らませた。
耳の仮面の隙間から突き出た鼻先が、魔理沙を狙う。
「――っ!」
水の筋が、ヘビィボウガンの銃口をまともに打った。
ジュウッ、と銃身の中で音がした。八卦炉で温めていた薬室に、粘つく水が流れ込んだのだ。白い湯気が、機関部の隙間から噴き出す。
「くそっ、薬室が……!」
魔理沙は引き金を絞った。しかしカチリ、と乾いた音がしただけだった。火炎弾は撃ち出されない。湿った火薬が、燃えないのだ。
ケチャワチャが、樹上へ跳んだ。
尻尾で枝に巻き付き、逆さまに垂れ下がる。真上から、魔理沙を見下ろした。耳の仮面の向こうで、何かが光った気がした。
――真上から、来る。
「っくそ……!」
魔理沙は立ち上がろうとして、粘液まみれの苔に足を取られた。膝をつく。ヘビィボウガンは重く、湿った薬室からはまだ湯気が上がっている。
「クスネ、離れてろ!」
「嫌ニャ!」
クスネが、魔理沙の前へ飛び出した。
背中に、自分の体より大きなタル爆弾を抱えている。[特大タル爆弾の技]だ。クスネはそれを抱えたまま、ケチャワチャのぶら下がる枝の真下へ駆け込んでいく。
「馬鹿、やめろクスネ!」
ケチャワチャの長い前脚が、真上から振り下ろされた。
クスネはタル爆弾ごと弾き飛ばされ、苔の上を転がった。導火線の火が、ぷすりと消える。タル爆弾は、クスネの腕から転げ落ちて、木の根の窪みで止まった。
「クスネ!」
クスネは、苔の上で目を回していた。
ケチャワチャが、尻尾を枝から解きかけた。
前脚の膜を広げ、真上から魔理沙の上へ、滑り落ちてくる――
――その瞬間、ケチャワチャのぶら下がっていた枝の付け根で、何かが光った。
三日月のような、細い光だった。
次の瞬間――太い枝が付け根から音もなく断ち斬られた。
枝ごとケチャワチャが落ちて来る。
尻尾を巻き付けていた枝が、そのまま宙に放り出されたのだ。滑り落ちる体勢を崩されたケチャワチャは、膜を広げる間もなく、魔理沙の目の前の苔へ叩き付けられた。ドスン、と森の底が揺れ、粘液混じりの苔が飛び散る。
魔理沙は、膝をついたまま、それを見ていた。
「……何だ、今の」
答える者は居なかった。断ち切られた枝の付け根からは、白い木屑がぱらぱらと落ちている。それだけだった。
ケチャワチャが、耳の仮面の向こうで呻いた。前脚で苔を掻き、起き上がろうとしている。
考えるのは、後だ。
魔理沙はヘビィボウガンの機関部を開いた。薬室から、粘つく水がどろりと流れ出る。湿った火炎弾を指で掻き出し、苔の上へ捨てた。袖で薬室の中を拭う。粘液が糸を引いて、なかなか取れない。
「……くそ、取れろって……!」
拭いて、拭いて、それでも薬室の奥は濡れていた。このまま次の弾を込めても、また火薬が湿気るだけだ。
ケチャワチャが、片膝を立てた。
魔理沙の目が、機関部の脇に嵌めた八角形の炉に落ちた。
――『溜めて、一気に撃て。半端に撃つな』
帳面の一行が、頭の中で鳴った。
「……そうかよ」
魔理沙は八卦炉の火口を、薬室の方へ捻った。
八卦炉に魔力を流し込む。炉の中で、小さな火が唸りを上げた。熱が金具を伝って機関部へ流れ込み、薬室の中の粘液が、ジュウジュウと音を立てて泡立ち始める。白い湯気が、機関部の隙間から噴き出した。
さっきとは逆だ。湯気が出るほど薬室が乾いていく。
魔理沙は、弾倉に残った最後の火炎弾を薬室に送り込んだ。
――八卦炉の火を、止めない。
熱が薬室を満たしていく。銃身が熱を帯び、握った手袋の上からでも熱い。機関部の金具が、きぃん、と細く鳴り始めた。
――まだだ。
指が引き金に掛かったまま震える。今撃てば、弾は出る。出るが、それは半端な一発だ。耳の仮面に弾かれて、怒りを煽るだけで終わる。
昔、何百回と叱られた。撃ち急いで、彼女が言うへなちょこ弾をばら撒いて、その度に青い影が溜息をついた。
――『怖いから撃つんだろ。怖いから、早く撃って楽になりたいんだ。それじゃ、いつまで経っても半端だよ』
――怖い。今だって怖い。目の前には自分の三倍もある猿が居て、クスネは倒れていて、体は粘液で鉛のように重い。
それでも、魔理沙は待った。
ケチャワチャが、立ち上がった。
耳の仮面を閉じたまま、鼻を膨らませる。仮面の縁が、怒りで真っ赤に染まっていた。
――まだだ。
鼻先が、魔理沙を向いた。
魔理沙は銃床を腰に押し当て、両足で苔を踏みしめた。粘液まみれの靴が滑る。それでも、踏ん張った。
八卦炉が、白く光った。
「――溜めて、一気に!」
ケチャワチャの鼻から、水が噴き出すのと同時だった。
「――ぶちかますッ!」
魔理沙は、引き金を絞った。
反動が、腰から背骨を突き抜けた。
魔理沙の体が、後ろへ吹き飛ばされる。視界がぐるりと回り、背中から苔の上へ落ちた。
銃口から飛び出した火炎弾は、向かってくる水の筋をまともに突き破った。水が一瞬で白い湯気に変わり、その湯気を引き裂いて、炎の塊がケチャワチャの耳の仮面に叩き込まれる。
火が、弾けた。
耳の仮面が炎に包まれ、ケチャワチャの全身へ燃え広がる。焦げた毛の匂いが、辺りいっぱいに広がった。
ケチャワチャが、耳を大きく開いた。仮面が解け、焼け焦げた耳の下から、怯えた目が覗く。
ケチャワチャは魔理沙に背を向けた。尻尾で手近な蔓を掴み、体を引き上げる。煙を引きながら枝から枝へ渡り、膜を広げて滑空し、森の奥へ消えていく。
蔓の揺れる音が、遠ざかっていく。
やがて、それも聞こえなくなった。
――魔理沙は、苔の上に大の字に寝転がったまま、木の天井を見上げていた。
「……は、ははっ」
笑いが、喉の奥から勝手に出てきた。
「撃てた……撃てたぜ……!」
腕が痺れて、上がらない。背中は粘液でぐっしょりだ。帽子はどこかへ飛んでいった。それでも、笑いが止まらなかった。
ヘビィボウガンは、魔理沙の横に転がっていた。銃口からまだ薄く煙が上がり、八卦炉は静かに冷えていく。
「……ニャ……?」
木の根元で、クスネが身じろぎした。
「クスネ!」
魔理沙は跳ね起き――ようとして背中の痛みに呻き、四つん這いでクスネの所へ這っていった。
クスネは、目をパチパチ瞬かせながら起き上がった。頭の上に、苔が一房乗っている。
「……猿は、どこ行ったニャ?」
「追い払った。私が撃ったんだぜ」
「魔理沙が、ニャ?」
「そうだよ。湿気た薬室を八卦炉で乾かして、溜めて、一発。ドカン、だ」
クスネは、魔理沙の顔をじっと見た。それから、焦げて煙を上げる苔を見た。
「……屋根に穴、開けなかったニャ」
「開けるか、森の中で」
魔理沙はクスネの頭の苔を払ってやった。クスネが、喉の奥で小さくゴロゴロと鳴らした。
――狩猟の跡を、魔理沙は一つずつ確かめた。
帽子は低い枝に引っ掛かっていて、クスネが木に登って取ってきた。タル爆弾は木の根の窪みで湿気ていたが、壊れてはいなかった。
苔の上に、何かが落ちていた。
魔理沙はそれを拾い上げた。焼け焦げた、薄い皮の切れ端だ。手のひらより大きく、縁が細かく波打っている。裏には、細い血管が網目のように走っていた。
「……耳の欠片だ」
最後の一発で、耳の仮面の縁が千切れ飛んだのだ。
「耳が欠けたら、もう顔を完全に隠せないニャ。あの猿、しばらくは森の奥で大人しくしてるニャ」
「だといいけどな。……北の方から降りてきたってのが、気になるぜ」
魔理沙は耳の欠片を素材袋に仕舞い、帳面に一行書き足した。火に弱い。耳は焼くと千切れる。それから、少し迷って、もう一行。
――『北から、降りてきた』
最後に、魔理沙は断ち切られた枝の所へ行った。
大人の胴ほどもある、太い枝だった。その切り口を、魔理沙は指でなぞった。
滑らかだった。鋸で挽いた跡も、斧で叩いた跡もない。ただ一度で、すっぱりと断たれている。切り口は真っ直ぐではなく、わずかに弧を描いていた。
――三日月の形だ。
クスネが、切り口に鼻を近付けた。
その瞬間、クスネの背中の毛が、また逆立った。尻尾が膨らみ、耳が後ろへ倒れる。
「……さっきの匂いニャ。冷たくて、懐かしい……」
クスネは鼻をひくつかせ、それから、ゆっくりと毛を寝かせた。
「でも、もう怖くないニャ。……優しい匂いニャ」
魔理沙は、黙って切り口を見ていた。
三日月。冷たくて、懐かしい匂い。
――『溜めて、一気に撃て』
魔理沙は立ち上がり、森の奥へ向かって、大きく息を吸った。
「――魅魔様っ!」
声が、巨大樹の幹に跳ね返って、森の奥へ吸い込まれていった。
返事は何もなかった。
葉擦れの音と、遠くで鳴く鳥の声。それだけが、森に残った。
魔理沙は、しばらく森の奥を見ていた。それから帽子を被り直し、鍔をぐいと引き下げた。
「……へっ。名乗りもしないで、いいとこだけ持っていきやがって」
「魔理沙、嬉しそうニャ」
「……嬉しくない」
「尻尾が揺れてるニャ」
「尻尾なんか無いだろ、私には」
魔理沙はヘビィボウガンを背負い直し、重さに少しよろける。それから足を踏ん張って、森の出口へ歩き出した。
クスネは、もう後ろを振り返らなかった。
~博麗神社 境内~
――夕方の境内に、泥だらけの魔法使いが転がり込んできた。
「――霊夢!聞いてくれ!」
縁側で洗濯物を畳んでいた霊夢は、顔を上げて、それから露骨に眉を顰めた。
「……何よ、その格好」
魔理沙の白黒の服は、乾いた粘液でゴワゴワに固まっていた。帽子の鍔は焦げ、頬には煤が付いている。後ろからついてきたクスネも、毛並みがあちこち束になって逆立っていた。
「猿を追い払ってきたんだよ。『ケチャワチャ』っていうんだ。あいつ、鼻水を吹くし、ぶら下がって回るし、怒ったら耳で顔を隠すしでさ」
「その恰好で縁側に上がらないでよ。拭くの私なんだから」
「最後の一発でな、こう、溜めて、ドカンだ!」
魔理沙は、両手で何かを抱える格好をして、そのまま後ろへ大きく仰け反って見せた。霊夢は、洗濯物を畳む手を止めなかった。
「ふうん。良かったじゃない」
「……それでな、霊夢」
魔理沙は、急に声を落とした。
「……危ない所で、誰かが枝を斬ったんだ。猿のぶら下がってた枝を、付け根から、スパッと。切り口が、三日月みたいな形でさ」
霊夢の手が一瞬だけ止まった。
「……三日月、ね」
「森の奥に向かって呼んでみたけど、返事はなかった」
魔理沙は、鳥居の向こうの空を見た。夕焼けが、山の端を赤く染めている。
「……魅魔様は、今どこに居る?」
「散歩よ。昨日の夜から」
「昨日の夜から?」
「悪霊の散歩は長いんですって」
霊夢は畳んだ手拭いを重ね、魔理沙の顔を見ずに言った。
「何か、伝えとく?」
魔理沙は、しばらく黙っていた。それから、焦げた帽子の鍔を引き下げた。
「……いいよ。どうせ、知らないって言うに決まってる」
「でしょうね」
「それに、礼なんか言ったら調子に乗るだろ」
「あんたがね」
「私がかよ」
魔理沙は笑い、ヘビィボウガンを背負い直した。
「帰って、こいつの薬室を一から組み直す。八卦炉の熱の通り道を、最初から作っとけば、湿気ても撃てるはずなんだ。――理屈の上ではな」
「理屈の上では、ニャ」
クスネが、魔理沙の足元で繰り返した。
二人の背中が、石段の向こうへ消えていった。霊夢は、畳み終えた洗濯物の山を見下ろし、小さく溜息をついた。
「……まったく。師匠も弟子も、揃って素直じゃないんだから」
~博麗神社 縁側~
――その夜も、縁側には湯呑みが二つ並んでいた。
霊夢が自分の湯呑みに口を付けた時、鳥居の方から、青い影が漂ってきた。
「――遅かったわね。散歩にしては」
「悪霊の散歩は長いのさ」
魅魔は縁側へ漂い寄り、客用の湯呑みの前に収まった。湯気の立つ湯呑みに、半透明の指を掛ける。
霊夢は、魅魔の青いローブの裾に目を留めた。
裾の端に、透明な何かが、べっとりとこびり付いていた。乾きかけて、糸を引いている。
「……それ、何?」
「ん?」
魅魔は、自分の裾を見下ろした。それから、何でもないように手で払った。粘液は霊体の指をすり抜けて、ローブにこびり付いたままだった。
「……森で、ちょいと引っ掛けたかねぇ」
「魔法の森の、茸の採り場辺りで?」
「さて、ね。悪霊は散歩の道なんか、いちいち覚えちゃいないよ」
霊夢は、湯呑みを置いた。
「夕方、魔理沙が来たわよ。泥と鼻水だらけで、帽子を焦がして」
「へぇ」
「猿は追い払ったって。最後の一発でドカン、だって。――それから」
霊夢は、魅魔の横顔を見た。
「誰かが枝を斬って、助けてくれたんだって。三日月みたいな切り口で。――礼を言ったら調子に乗るから言わない、ですって」
魅魔の肩が、小さく揺れた。笑ったのかもしれなかった。
魅魔は、湯呑みの湯気を眺めていた。
石灯籠の火が、風に揺れる。
「――『溜めて、一気に撃て』。魔理沙は、撃つ前にその言葉を思い出したって。あれ、あんたの口癖でしょ」
魅魔は、湯呑みから指を離した。
夜空を見上げる。細い三日月が、鳥居の上に掛かっていた。
「……さて、ね」
魅魔は、薄く笑った。
「――昔のことは、大分と忘れちまったよ」
霊夢は、それ以上は聞かなかった。
代わりに急須を取り、魅魔の湯呑みに、熱いお茶を注ぎ足した。湯気が、また白く立ち昇る。
「熱いうちに、香りだけでも嗅いどきなさい」
「なんだい、今夜はケチじゃないんだね」
「今夜だけよ」
魅魔は、湯気の香りを吸い込むように、目を細めた。
しばらくして、霊夢は空になった自分の湯呑みを持って、奥へ引っ込んだ。
縁側には、魅魔一人が残った。
客用の湯呑みから、白い湯気が細く立ち昇っている。魅魔は、その向こうの三日月を眺めていた。
「……溜めて、一気に、か」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「半端じゃなかったねぇ、今日の一発は」
霊体の尾が、縁側の板の上で、ゆらりと揺れた。
本殿の裏の方から、祠の扉の前を掃く箒の音が、いつものように聞こえてきた。