東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗原野 東の尾根 見張りの岩陰~
――夜明け前の尾根は、風の音しか聞こえない。
岩陰に身を寄せて、麟は膝を抱えていた。畳んだ弓と矢筒は、すぐ手の届く岩の上に置いてある。夜露で、弭の白い綿毛がしっとりと濡れていた。
ここから岩棚の巣までは、谷を一つ挟んで百歩ほど。空っぽになった巣の縁には、赤い布切れが一本、枯れ枝に結んである。会館の印だ。巣の主が戻れば、布は引き千切られる。
――卵を下ろしてから、今日で十三日目になる。布は、まだ揺れていた。
「……麟さん、起きてるニャ?」
足元で、白に薄茶の斑の毛玉がモゾリと動いた。オトモのアマネだ。
「起きてるよ。夜番なんだから」
「オイラは寝てたニャ」
「知ってる」
麟は小さく笑った。隣では、組になった、ハンター歴十五年の古参のハンターが腕を組み、目を閉じたまま座っている。寝ているのか起きているのか、三晩組んでも麟には分からなかった。
東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。
麟は腰の水筒に手を伸ばす――
――その時、風が止んだ。
尾根を吹き抜けていた風が、ピタリと止まった。草の擦れる音も、遠くの沢の音も、一緒に消えた気がした。
アマネの大きな耳が、ピンと立った。
「……麟さん」
アマネが空を見上げていた。麟も耳を澄ます。
風が止んだ空の、戌亥の方角。遠く、重い羽音が二つ。ゆっくりと大きく空を打つ音と、それより速く、力強く打つ音。見上げると、白み始めた空の、まだ夜の色が残る低い雲の下を、何かが渡ってくる。
――二つの影だった。
一つは高く、大きく翼を広げて、滑るように。もう一つは低く、それより少し重たげに、力強く羽ばたきながら。
「――起きてください」
麟は、隣の古参の肩を揺すった。焦りで声が掠れている。それでも古参ハンターは目を開け、空を一目見て、無言で遠眼鏡を取り出した。
影は、見る間に大きくなっていく。
朝焼けの最初の光が、影の背を照らす。赤い鱗が炎のように煌めく。
低い方の影が、岩棚の上で大きく翼を打った。風が谷を渡って、麟の頬を叩く。巨体が、空っぽの巣の縁に降り立った。ドスン、と岩棚が鳴り、小石がバラバラと谷へ落ちていく。
緑がかった鱗に覆われた、太い脚。地面を踏みしめる爪。背には棘の並んだ甲殻、太い尻尾の先には、棘がびっしりと生えていた。
リオレイアは、巣の真ん中に頭を下ろした。
卵のあった窪みに、鼻先を押し当てる。一つ。また一つ。七つの窪みを、順に嗅いでいく。
高い方の影は、まだ空にいた。巣の上を、大きな輪を描いて回っている。赤い鱗。広い翼。陽を背負って、地上を見下ろしている。
「……戻ってきた」
古参ハンターが遠眼鏡を覗いたまま呟く。
麟は声が出なかった。十三日間、ずっと待っていた。戻ってくれば、卵を親の腹の下に返せる。慧音が、そう言っていた。だが――
――リオレイアは、最後の窪みから顔を上げた。
首を伸ばし、空っぽの巣をグルリと見回す。それから、喉の奥から低い声を漏らした。
低く、長い唸りだった。怒っているそれとは違う、何かを探している声だった。
リオレイアの鼻先が、巣の縁の枯れ枝に向いた。赤い布切れが、朝の風に揺れている。
顎が開いた。
布切れは、枝ごと噛み千切られた。
「……印が」
麟の手が膝の上で震えた。
リオレイアは、千切った枝を岩棚の下へ吐き捨てた。そして、鼻を地面に擦り付けるようにして、岩棚の縁を歩き始めた。
七つの卵を籠に入れ、滑車で下ろした縁だ。そこから、麓の小道へ向かって。
「匂いを追ってる……」
古参ハンターが遠眼鏡を下ろす。
「卵を下ろした道を、そのまま辿るつもりだ。――麟、狼煙だ」
麟は弾かれたように立ち上がった。
岩陰の奥に、狼煙を用意している。乾いた枯れ草と、松の枝と、会館から渡された[ケムリ玉]。慧音の決めた色は二つ。黄は『動きあり』。赤は『里へ向かう』。
麟の手が、黄の煙玉と赤の煙玉の間で、止まった。
――『迷ったら、重い方を上げろ。外れたら、私が頭を下げる』
慧音の声を耳の奥で反芻し――麟は赤の[ケムリ玉]を掴んだ。
火打ち石を打つ。三度目で、枯れ草に火が移った。煙玉を放り込むと、パチパチと弾けて、赤い煙がモクモクと立ち昇り始めた。
空の上で、リオレウスが首を巡らせた。煙に気付いたのか、気付かなかったのか。大きな輪を描いたまま、リオレイアの後を追うように、麓の方へ滑っていく。
「私、麓へ下ります!先に誰かに知らせないと!」
「――待て、麟」
古参ハンターが麟の襟首を掴む。
「小道は使うな。あいつらと同じ道を行くことになる。尾根伝いに南へ回って、神社の裏手に出ろ。そこからなら、街道へ先回りできる」
「はい!」
「俺はここで見張りを続ける。――行け」
麟は弓と矢筒を背に負い、走り出した。アマネがその足元を転がるように付いてくる。
背中では、赤い煙が朝の空へ伸びていった。
~博麗神社 境内~
――今夜は、『博麗神社』の宵宮だった。
夏越の祓を明日に控えて、境内には朝から里の人々が出入りしている。拝殿の前には茅の輪が組まれ、石段の両脇には提灯の竿が立ち並んだ。石段を下りた先の参道には、もう屋台の骨組みがいくつも建ち始めている。
拝殿の脇の縁台に、慧音が腰掛けていた。
膝の上には紙の束が広げてある。今夜の宵宮の段取りと、境内で演奏をする楽団の届け出だ。
「……奉納演奏は日暮れから。演目は四つ。終わりは亥の刻の前、と」
慧音は紙を一枚めくり、顔を上げた。
「霊夢は、本当に居ないんだな」
「うん、居ない」
答えたのは、慧音の向かいに立つ小柄な少女だった。
金色の短い髪に、先に赤い三日月の飾りが付いた黒い帽子。黒いベストに、膝丈の黒い巻きスカート。猟団『
「三日前に、
「……全く、あの巫女は」
慧音は額に手を当てた。
「自分の神社の祭事だぞ。主が居なくてどうする」
「居なくても、祭りはできる。――私達が居るから」
ルナサは、ほとんど表情を変えずにそう言い返す。
拝殿の前では、ルナサの妹達が支度をしていた。
薄桃色の服に、波打つ薄水色の髪。傍らに金色のトランペットを浮かべた次女『メルラン・プリズムリバー』が、茅の輪の周りをクルクルと回りながら、音を確かめるように一吹きしている。赤い服に茶色の短い髪、宙に浮かぶ鍵盤を指先で叩いている三女『リリカ・プリズムリバー』は、手元の帳面に何かを書き付けていた。
茅の輪の向こうでは、青と白の服に、つばの広い帽子を被った金髪の少女が、石段の方を見下ろしていた。博麗神社に住み着いている騒霊『カナ・アナベラル』だ。今夜の奉納演奏を楽団に頼んだのは、カナだった。
「慧音さーん!」
メルランが、トランペットを抱えたまま駆け寄ってきた。
「一曲目、私の独奏から入っていいでしょ?宵宮なんだから、パーッと明るく!」
「駄目だ」
「えー」
「取り決めを忘れたか。――里の人の前で、躁の音の独奏はしない。三人で合わせるか、カナの歌を主にしろ」
「……ほらね、メルラン姉さん。だから言ったのに」
リリカが帳面から顔を上げずに言った。
「慧音さんが通すわけないじゃん。――あ、慧音さん。ついでに演奏料の件なんだけど、宵宮の分と、明日の祓の分、まとめて計算してもらえる?」
「それは小鈴に言え」
「じゃあ、小鈴さんには
「言ってはいない」
リリカはちぇっ、と舌を出した。
ルナサが、小さく溜息をついた。それから、慧音に頭を下げた。
「……すみません。相変わらず妹達が」
「構わん。慣れている」
慧音は紙を揃え、縁台から立ち上がった。
「雷鼓と九十九姉妹は」
「雷鼓さんは参道の下で屋台の太鼓台を組んでいるわ。九十九姉妹は、昨日から遺品の回収に出ていて、今夜は間に合わない」
「そうか」
慧音は、石段の上から参道を見下ろした。
――長い石段の下に、一の鳥居が見える。鳥居をくぐった先が参道で、参道はそのまま東の街道へ繋がっていた。街道の脇に、屋台の骨組みが並んでいる。茶屋の幟。綿飴の釜。子供達が、骨組みの間を走り回っている。
参道の真ん中で緑の髪の少女が、箒を手に屋台の主達と話していた。博麗神社の狛犬――あうんだ。霊夢の留守の間、参道の見回りはあうんの役目だった。
「――慧音さん」
カナが石段の縁から振り返った。声が少しだけ硬い。
「あれ、何かな……?」
カナが指差したのは、参道の向こう、東の空だった。
朝の青空に、一本の煙が立ち昇っていた。細く、真っ直ぐに。
――赤い煙だった。慧音の顔から、表情が消えた。
「……東の尾根だ」
「狼煙?」
「赤は、『里へ向かう』だ」
ルナサが、慧音の横に並んだ。拝殿の前のメルランとリリカも、手を止めてこちらを見ている。
慧音は紙の束を縁台に置いた。
「卵を下ろした番が、戻ってきた。そして――匂いを追って、里の方へ動き出した」
「卵って、研究室の?」
リリカが、帳面を閉じた。
「十三日前に、東の尾根から里の孵卵小屋へ移した火竜の卵だ。数は七つ」
慧音は石段の下の参道を見た。屋台の骨組み、子供達、茶屋の幟を見回す。
「卵を運んだ道は、東の尾根の麓から、東の街道を通って里の東の外れへ入る」
ルナサが息を呑んだ。
「……この参道の、すぐ下を通る」
「あぁ、そうだ」
その時、神社の裏手の雑木林がガサガサと鳴った。
藪を掻き分けて少女が一人、転がり出る。泥だらけの脚で立ち上がり、肩で息を吐く。同時に足元で白に薄茶の斑のアイルーが一匹転がる。
「け、慧音先生……!」
新人ハンターの麟だった。
「――東の尾根より急報です!火竜の番が、巣に戻りました……!」
麟は境内の石畳に膝を付く。
「卵の匂いを嗅いで……布を千切って……麓の小道を、卵を下ろした道の通りに、下りていきました……!」
「――よく知らせた」
慧音は、麟の肩に手を置いた。
「狼煙を上げたのは、お前か」
「は、はい。赤を……あの、合ってましたか」
「合っている」
慧音は短く答え、立ち上がる。そして――声を張り上げる。
「――あうん!参道の者を、全員石段の上へ上げろ!屋台は捨て置け!」
石段の下で、あうんが弾かれたように顔を上げて走り出した。
~博麗神社 参道~
――石段を駆け下りると、参道はもう騒ぎになっていた。
あうんが屋台の間を走り回り、主達に声を掛けている。綿飴の釜を抱えて逃げ出そうとする男、骨組みに布を掛けたまま立ち尽くす女、母親の袖を引いて泣き出す子供。皆が一斉に動き出し、一斉に詰まっていた。
「荷物は置いてってくださーい!石段の上へ!上ですー!」
あうんが両手を振って叫ぶ。だが、何人かは石段とは逆の、街道の方へ走り出そうとしていた。里へ帰ろうとしているのだ。
「そっちは駄目だ!」
慧音が、街道の口に立ちはだかる。
「街道はモンスターの通り道になる。里へ戻るな。石段の上の方が近い」
「で、でも慧音先生、うちの婆ちゃんが里に――」
「里には会館の者が居る。お前は上へ行け」
男は唇を噛み、石段の方へ向き直った。
参道の一番奥、一の鳥居の脇に組みかけの太鼓台があった。その上に、赤い髪の女が一人、あぐらをかいて座っている。白いシャツに赤いネクタイ。背後には、大小の太鼓が輪のように宙に浮かんでいた。
太鼓の付喪神にして、幻奏楽団の
「慧音さん。何事?」
雷鼓は、太鼓台の上から身を乗り出した。両手には二本のバチを握ったままだ。
「火竜の番が、街道を下りてくる」
「へぇ……」
雷鼓の目が、一瞬だけ細くなった。
「ここを通るの?」
「それを、今から確かめる」
慧音は麟を振り返った。
「麟。小道の出口まで行く。付いて来い」
「はい!」
「あうん。ここを頼む。人を上へ上げ終わったら、鳥居の前に立て」
「――分かりました!」
あうんが、背の大盾を下ろした。狛犬の顔を彫った、岩の塊のような盾が頼もしく感じられる。
~東の街道 麓の小道の出口~
――街道を東へ、五町ほど。
東の尾根から下りてくる小道が、街道に合流する所に、平たい大きな石が一つ置いてある。昔から、荷を担いで尾根を越える者が一息つく場所だった。
その石の周りの土が、掘り返されていた。
「……来てる」
麟が足を止めた。
石の縁の土が、何かで抉られたように捲れている。草が根ごと剥がされ、土の下の小石が覗いていた。
慧音は石の前に屈み込んだ。
「鼻先で掘った跡だ。――ここで、卵を籠ごと下ろしたんだな」
「はい。滑車で岩棚から下ろした後、里香さんが籠の縄を締め直すのに、一度ここに置きました」
麟は捲れた土に手を当てた。まだ冷たい。朝露が土の粒に光っている。
「……新しいです。半刻も経ってない」
小道の方へ更に足跡が続いていた。
三本の太い指。指の先には、爪で抉った深い溝。麟は足跡の脇に膝をつき、指の幅を掌で測った。自分の掌が、三つ並んでも足りない。
足跡の中に、指を差し入れる。深さは、指の付け根まで沈んだ。
「すごく深い……重たい足です。それに、歩幅が狭い」
「走っていない。歩いている」
慧音が、足跡の並びを目で追った。
足跡は、平たい石の周りをグルリと一周していた。所々で、足跡が重なって乱れている。立ち止まって、周りを嗅いだ跡だ。それから足跡は、街道には出ずに、街道の脇の藪へ入っていた。藪の奥へ、細い踏み跡が下っている。沢へ下りる道だ。
「雌火竜は、空より地面を歩いて縄張りを守る。故に足が太くて重い」
慧音が呟く。
「この足跡はリオレイアだ。リオレウスは――」
慧音は空を見上げ、麟もつられて見上げる。
――遥か高い空に、黒い点が一つ、ゆっくりと輪を描いていた。陽の光の中で、輪の真下が、ちょうど街道の上に重なっている。
「……上から、見てる」
「番の雄は、空から縄張りを見張る。雌が地面を嗅ぎ、雄が空から追う。卵を探すときも、同じだ」
アマネが足跡の一つに鼻を突っ込んだ。
「くっさいニャ。焦げた匂いと、それから……」
アマネは、鼻をヒクヒクさせた。
「卵の匂いもするニャ。籠の藁の匂いニャ」
「藁?」
「卵を包んでた藁ニャ。落ちてるニャ」
アマネが、街道の脇の草むらから、藁屑を一本咥えて戻ってきた。
麟は、藁屑を受け取った。籠の緩衝に詰めた藁だ。十三日前、ここで籠を下ろしたとき、零れ落ちたのだろう。
「藁が落ちてる所を、全部嗅いで回ってるんだ……」
「麟。移送の時、他にどこで籠を下ろした」
慧音の問いに、麟は目を閉じた。
十三日前の、移送の日。麟は籠の後ろを歩いていた。滑車で下ろし、平たい石で縄を締め直し、それから――
「……そこの踏み跡から、沢沿いの近道へ入りました。街道より揺れないからって。沢の丸木橋の手前で、一度籠を下ろしました。橋が揺れるから、籠を一つずつ渡して」
「それから」
「それから――」
麟は目を開けた。
「近道は、榎の休み場の裏に出ます。街道の、参道の分かれ道の。昼になったから、そこで皆でお握りを食べて……籠は、榎の根元に並べて置きました。半刻くらい」
慧音は、黙って街道の先を見た。
参道の方だ。
「――藁屑が一番多く零れた場所に、一番強く匂いが残る」
慧音の声は低い。
「半刻も籠を並べて置いた所なら――あいつは、そこで立ち止まる」
その時、南の方から声が届いた。
遠く、低い声だった。木々の向こう、沢の方から聞こえる。
麟の背中がゾクリと粟立った。声の遠さと、木々に籠もる響き方で、どこから来た声か分かってしまった。
「……沢の、丸木橋」
「あと一つだ」
慧音は立ち上がり、街道を参道の方へ走り出した。
「戻るぞ、麟!あいつが次に足を止めるのは、榎の休み場だ!」
~博麗神社 一の鳥居~
――参道に戻ると、屋台の間はほとんど空になっていた。
だが、石段が詰まっていた。
慧音は走りながら懐の帳面を引き抜き、鳥居の前で足を止めて矢立の筆を走らせる。
一、東の尾根の火竜の番、巣に戻る。卵の運び道を辿り、街道を西へ
一、東の外れの通りを閉じよ。孵卵小屋の戸を閉め、炉の火を落とすな
一、竜を里へ入れるな。手の空いたハンターは東の外れへ
上白沢慧音
「――これを会館へ。誰が一番速い」
「はいはーい!私、私!」
石段の上から、メルランがトランペットを抱えたまま、フワリと宙に浮いて飛び降りてきた。騒霊は、空を飛べる。
「カナの鳥の方が速いけど――」
「鳥では駄目だ」
慧音は、カナの名が出る前に首を振った。
「光る鳥は、空の竜の目を引く。今、空にはリオレウスがいる」
「そう言うと思った。だから私!」
メルランは慧音の手から紙を引ったくり、懐に押し込んだ。
「――メルラン」
石段の上から、ルナサの低い声が降ってきた。
「街道の上は飛ばないで。森の上を、低く」
「分かってる、分かってるって!」
「……戻ったら、すぐ石段の上に」
「はーい!」
メルランは、もう西の空へ飛び去っていた。森の梢を掠めるように、低く。ルナサは、その背中が見えなくなるまで目を離さなかった。
百段を超える長い石段に、里の人々がひしめき合っている。荷物を抱えた者、子供を背負った者、年寄りの手を引く者。上の方は少しずつ動いているが、下の方は押し合いになっていた。
鳥居の前で、あうんが大盾を地面に立て、最後の何人かを石段へ送り出していた。
「慧音さん!あと少しです!」
「榎の休み場から、人を全部離せ!あそこに来る!」
あうんが、ハッとして街道の分かれ道を振り返った。
分かれ道の角に、大きな榎が一本立っている。枝を広げた木陰に縁台が二つ。旅の者が一息つく休み場だ。その根元にも、今日は茶屋の幟が立っていた。
――そこに、空から影が落ちてきた。
参道に大きな翼の形をした影が、スウッと滑り込む。石段の人々、一斉に空を見上げた。
――リオレウスが、真上にいた。
低い。屋根の高さの三倍もない。赤い鱗の腹と、鉤爪の付いた後ろ脚が、ハッキリと見える。翼が一打ちするたびに、提灯の竿がしなり、屋台の布がバタバタと鳴った。
リオレウスが、大きく顎を開いた。
――空の王が、吼えた。
腹の底まで揺さぶるような声だった。石段の人々が耳を押さえ、身を竦める。誰かが悲鳴を上げた。それが合図だったように、石段の下の方で押し合いが一気に崩れた。
上へ逃げようとする者と、思わず下へ戻ろうとする者がぶつかる。子供が泣き叫び、年寄りが段に手をつく。誰も前に進めない。
「落ち着いて!押さないでくださーい!」
あうんの声も多くの悲鳴に呑まれて消える。
慧音が、石段の下へ駆け寄ろうとした――その時、石段の上から音が降ってきた。
――ヴァイオリンの音だった。
低く、静かで、少しだけ悲しい旋律。誰も弾いていないのに、宙に浮かんだヴァイオリンが、ひとりでに弓を滑らせている。
石段の一番上に、ルナサが立っていた。両手は空のまま、背中の狩猟笛にも触れていない。ただ真っ直ぐに、石段の人々を見下ろしている。
音は、耳ではなく胸の奥に届いた。
泣き叫んでいた子供が、しゃくり上げながら顔を上げた。段に手をついていた年寄りが、ゆっくりと膝を伸ばす。押し合っていた男達の肩から、力が抜けていく。
怖さが消えたのではない。皆の顔は、まだ青い。だが、震えが止まっていた。足が、前へ出るようになっていた。
――騒霊の音だ。
慧音は拳を握りしめた。
ルナサの隣にリリカが並ぶ。リリカの鍵盤が、ルナサの旋律の下に柔らかな和音を敷く。
だが、明るい音が足りない。一人では沈みすぎる音を、三人で釣り合わせるのが三姉妹の合奏だ。メルランは今は西の空の上である。
ルナサの旋律が、ほんの少しだけ揺れた。
――その隙間を埋めたのは、歌だった。
カナだった。石段の中ほどに立ち、つばの広い帽子を押さえて、歌っている。
言葉の意味は、よく分からなかった。それでも、聞いた者は自分の気持ちのまま、ほんの少しだけ楽になる。ここにいていい。ここで、一段ずつ上がればいい。そう言われている気がした。
「――はい、こっちよ!一段ずつね!」
カナが歌の合間に手を振る。人々がカナの声の方へ、一段、また一段と上がり始めた。
リリカが、鍵盤を叩きながら石段の脇を駆け下りてくる。腰の袋から、小さな布の玉を掴み出しては、人々の手に押し付けていく。
「耳栓!耳に詰めて!また吼えるから!――はい、あなたも!そっちのお爺ちゃんも!」
「お、お嬢ちゃん、これ、お代は……」
「後で会館に請求するから、いいの!」
慧音は、思わず口の端を緩めかけた。
――その時、地面が揺れた。
――ドスン、ドスン。
重い足音が、榎の裏の藪の奥から近付いてくる。
――藪を押し分けて、リオレイアが現れた。
首を低く下げ、鼻先を地面すれすれに擦り付けている。太い脚が一歩踏み出すたびに、参道の石畳が震えた。リオレイアは、街道の分かれ道で足を止めた。
――榎の休み場だ。
リオレイアは、榎の根元に鼻を押し当てた。茶屋の幟を、鼻先で薙ぎ倒す。縁台を前脚で押し退け、根元の土を掘り返し始めた。藁屑が舞い上がる。
長い唸りが、喉の奥から漏れる。十三日前、籠を半刻並べて置いた場所だ。匂いが一番強く残っている場所だ。
リオレイアは、根元を掘り続けた。掘っても、掘っても卵は出てこない。
「……探してるんだ」
慧音の隣で麟が呟く。その声は震えていた。
「ずっと、探してるんだ……」
慧音は答えなかった。
空のリオレウスが、榎の真上で翼を打った。
喉の奥が赤く光り、火球が一つ、空から落ちてくる。火球は綿飴屋の屋台を直撃し、骨組みごと炎に包んだ。乾いた布が一瞬で燃え上がり、黒い煙がモクモクと参道を這う。
石段の人々が、また悲鳴を上げかけた。だが、ルナサの音がそれを押し留める。カナの歌が、一段上へと人々を手招く。
石段の下では、最後の何人かが上がり始めていた。あと少し。あと少しで、参道は空になる。
――その時、榎の向こうの茶屋の屋台から、小さな泣き声が聞こえた。
真っ先に振り返ったのは、麟だった。一拍遅れて、慧音とあうんも振り返る。
倒れた屋台の陰。縁台の下に、小さな男の子が蹲っていた。逃げ遅れたのだ。両手で耳を塞ぎ、顔を真っ赤にして泣いている。
リオレイアの頭が、ゆっくりと泣き声の方へ向いた。
「――っ!」
あうんが走った。
大盾を前に構え、狛岩槍を脇に抱えて、倒れた屋台と竜の間に飛び込む。リオレイアが首を擡げ、喉の奥が赤く光る。
「通しませんよ……!」
火球があうんの大盾を真正面から打った。
ゴウッ――!と炎が盾の縁から溢れる。あうんの踵が石畳を削って、半歩、一歩と後ろへ下がった。それでも、盾は下がらなかった。
「麟!子供を!」
慧音の声と同時に麟は走っていた。アマネが先に縁台の下へ潜り込み、男の子の袖を咥えて引っ張り出す。麟はその子を抱え上げ、石段へ向かって駆ける。
リオレイアが体を捻る。
太い尻尾が、宙で大きく弧を描く。後ろへ跳ね上がるように、全身で宙返りを繰り出す。棘だらけの尻尾が、あうんの盾の上から叩き下ろされる。
ガギン――と盾の岩殻が鳴る。
あうんの体が、盾ごと横へ弾き飛ばされる。石畳の上を転がり、屋台の骨組みに背中から突っ込む。
「あうん!」
「だ、大丈夫です……毒は、盾で……!」
あうんは、骨組みの残骸の中で盾を構え直した。腕が震えている。
リオレイアが、あうんに向き直った。空では、リオレウスが低く輪を描きながら、参道の真上に戻ってきていた。
このままでは、鳥居が抜かれる。石段の上には、まだ大勢が残っている。
「――慧音さん」
――声は鳥居の脇の太鼓台から聞こえた。
雷鼓が、太鼓台の上に立っていた。両手のバチを、軽く打ち合わせている。
「――
慧音は雷鼓を見上げる。
――付喪神の太鼓は、本物の音だ。心に響かせる騒霊の演奏と異なり、モンスターにも聞こえる。狩り場で鳴らせば、獲物を呼ぶ。だから楽団は、狩り場で付喪神の音を鳴らすときは、猟団の長に許しを取る。そう取り決めてあった。
「――呼んでどうする」
「連れて行くよ。尾根まで」
雷鼓はニヤリと笑う。
「あの竜の足音はさっきからずっと聞いてた。一歩の間が長くて、止まると長い。――乗りやすいリズムだよ」
慧音は一拍だけ黙る。
「……街道を東へ。里の方には、絶対に向かせるな」
「了解」
「――許す」
雷鼓が太鼓台から跳んだ。
宙に浮かんだ太鼓の輪ごと、参道を東へ駆け抜ける。榎の休み場を回り込み、リオレイアの脇を抜けて、街道の東側へ。リオレイアの首が、雷鼓の動きを追った。
街道の真ん中で、雷鼓が足を止め――バチを振り上げる。
雷鳴の様な一打ちで、空気が震えた。
リオレイアの頭が、跳ねるように雷鼓へ向いた。空のリオレウスも、首を巡らせる。
――ドン、ドン、ドドン……!
雷鼓が、太鼓を叩きながら後ろへ下がる。一歩、また一歩。リオレイアが、一歩踏み出した。雷鼓の太鼓が、その一歩に重なるように鳴る。
「そう。こっちだよ」
リオレイアが突進した。雷鼓は横へ跳び、太鼓の輪をクルリと回して、また街道の東へ下がる。リオレイアが首を振り、火球を吐いた。雷鼓は、火球が来る半拍前に、もう跳んでいた。
「速い拍と、遅い拍。――あんたの癖、もう覚えたよ」
――ドン、ドン、ドドン……!
太鼓の音が、街道を東へ遠ざかっていく。リオレイアの重い足音が、その後を追う。空の影も、ゆっくりと東へ流れていく。
参道に静けさが戻った。
倒れた屋台。踏み潰された茶屋の幟。掘り返された榎の根元。
あうんが、骨組みの中から這い出してきた。盾の表面が煤で真っ黒になっている。
「……と、通しません、でした……」
「あぁ。よく、通さなかった」
慧音はあうんの肩を叩いた。
石段の上から、ルナサのヴァイオリンが、まだ静かに鳴り続けていた。
~博麗神社 境内 宵~
――宵宮の提灯に火が入った。
だが、参道の屋台は一つも開かなかった。
境内には、昼間に逃げ上がってきた里の人々が、そのまま残っていた。街道はまだ竜の通り道かもしれない。暗くなってから石段を下りるのは危ない――慧音がそう判断して、今夜は皆を神社に泊めることにしたのだ。
拝殿の板の間と普段碌に使われない社務所が開け放たれ、筵が敷かれた。茶屋の主が、逃げる時に抱えてきた米で握り飯を作り、綿飴屋の男が、釜の代わりに大鍋で湯を沸かしている。子供達は、もう昼間のことを忘れたように、茅の輪の周りを走り回っていた。
日が落ちきる少し前、雷鼓が石段を上ってきた。
シャツの袖が焦げ、頬には煤の筋が付いている。宙に浮かぶ太鼓の一つに、爪で引っ掻いたような傷が走っていた。
「ただいま。――無事、送り届けてきたよ」
雷鼓は、縁台にどっかりと腰を下ろした。
「尾根の麓まで連れてったら、雌の方が勝手に小道を上がっていった。巣に戻って、空っぽの窪みの上に伏せたよ。雄は、その隣の岩に降りた」
「怪我は」
「太鼓が一つ、ちょっとね。私は平気」
雷鼓は傷の付いた太鼓を指で叩いた。音が、少しだけ濁っている。
「直るのか」
「小傘に頼む。――それより、慧音さん」
雷鼓の声が、少し低くなった。
「――あの雄。左の翼に、大きな裂け目があった」
慧音の手が、止まった。
「古い傷じゃない。端がまだ赤かった。飛び方が、少し左に傾いてたのは、そのせいだと思う」
「……縄張り争いか」
「さぁね。でも――」
雷鼓は、夜の空を見上げた。
「火竜の翼を、あんな風に裂ける相手って――この辺に居る?」
慧音は答えなかった。
――十三日前、卵を残して巣を離れた番。飛び去った方角は、戌亥だった。阿求の地図の上で、朱の矢印が向いている方角だ。
その戌亥から、番は戻ってきた。――翼に、新しい傷を負って。
――何かから逃げてきたのか。
慧音はその考えを口には出さなかった。
石段の下から、メルランが息を切らせて駆け上がってきた。飛んできたのではなく、最後の石段を自分の足で上ってきたらしい。トランペットを抱えた腕に、森の小枝が何本も引っ掛かっている。
「慧音さん、届けてきた!小鈴ちゃんがすぐ東の外れの門を閉めて、妹紅さんと明羅さんが孵卵小屋の前に立ってくれてる!」
「理香子は」
「孵卵小屋に籠もってる!それで、伝言」
メルランは少しだけ声を落とした。
「『二つ目の卵にも、罅が入った。三日のうちに、全部孵るかもしれない』――って」
慧音は目を閉じた。
――三日。卵が孵れば、籠に入れて運ぶことも難しくなる。仔は籠の中で鳴き、親はその声を聞きつける。
「……分かった。よく飛んだな、メルラン」
「でしょ?」
メルランは胸を張り、それから、拝殿の方をちらりと見た。
「ねぇ、ところで。私が居ない間に、ルナサ姉さん、誰と合わせたの?」
「カナの歌だ」
「……ふーん」
メルランは、少しだけ口を尖らせた。
――夜が更けて、境内が少し静かになった頃。拝殿の縁側に、カナが一人腰掛けていた。
筵の上では、里の人々が身を寄せ合って横になっている。眠っている者も、眠れずに天井を見ている者もいた。昼間に助け出された男の子は、母親の膝に頭を乗せて、目だけを開けていた。
カナが、小さな声で歌い始めた。
昼間の歌とは違う、もっと静かな歌だった。子守唄のような、ただの鼻歌のような。誰に聞かせるでもなく、夜の境内へ流れていく。
男の子の瞼が、少しずつ下りていった。
縁側の柱に背を預けて、ルナサがヴァイオリンを膝に置いていた。弓は動かしていない。カナの歌の邪魔にならないよう、黙って聞いている。
ルナサの目は、筵の上を一人ずつなぞっていた。
「……何してるの、ルナサ姉さん」
リリカが、帳面を抱えて隣に座った。
「数えてる」
「何を」
「顔」
ルナサは、筵の端から端まで目を動かしてから、小さく息を吐いた。
「……全員、居る」
「当たり前でしょ。私がちゃんと数えたもん。百十二人。耳栓は百八個配って、四個足りなかった。――請求書は、百十二人分で出すけど」
「……リリカ」
「冗談だってば」
リリカは帳面を閉じ、ルナサの肩にもたれかかった。
メルランは、拝殿の階段の一番下で、トランペットを抱えたまま眠っていた。昼間、一度も独奏させてもらえなかったのがよほど悔しかったらしい。口が少し尖っている。
境内の隅の石灯籠の脇で、慧音は麟と並んで立っていた。
麟の足元で、アマネが丸くなって寝息を立てている。
「……慧音先生」
麟がポツリと口を開く。
「あのリオレイア、ずっと卵を探してました。榎の根元を、掘っても、掘っても出てこなくて」
「あぁ」
「卵、返してあげられないんですか。親が戻ってきたら、返すって……」
「――返す」
慧音は迷わずに言った。
「親が戻ったら、卵を親の腹の下に返す。最初から、そう決めてある」
「じゃあ――」
「だが、あの番は、卵を探して里の方へ下りてきた。今日は雷鼓が尾根へ連れ戻した。明日は、どうなるか分からん」
慧音は東の夜空を見た。尾根の方角に、星が瞬いている。
「卵は、もう孵りかけている。籠に入れて尾根へ運び上げるにしても、あの番の目の前でやることになる。――番が、こちらを卵を盗った者として見ているなら、なおさらだ」
麟は唇を噛んだ。
「明日の朝、会館で話す。理香子と、阿求と、狩りに出られる者を集める」
慧音は麟の頭に手を置いた。
「今夜は休め。お前は今日、一番重い煙を上げた。――よくやった」
「……はい」
麟は小さく頷き、アマネの隣に腰を下ろした。
縁側ではカナが歌い終えていた。
筵の上は静かな寝息で満ちていた。カナは帽子を脱ぎ、膝の上に置いて、眠っている人々を見回した。それから、隣のルナサの袖をそっと引く。
「ねぇ、ルナサ」
「……何」
「今日も、ちゃんと聞いてくれたかな」
ルナサはカナの顔を見、それから、筵の上の母親の膝で眠る男の子を見る。
「……うん、聞いてた」
カナは、ニッコリと笑った。
石灯籠の火が、夜風に揺れる。
東の尾根の方から、低い声が、一度だけ届いた。
それきり、夜は静かだった。