東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~東の尾根 麓の平石~
――リオレウスの喉の奥で、炎が揺れている。
それを見つめ、妹紅は動かない。
「……」
〈…ガル…〉
刃を下げたまま、籠の隣に立っている。オキが妹紅の足元に伏せ、低く唸り続けている。
――リオレウスの首が、ゆっくりと下りてきた。
金色の目が、妹紅の顔の高さまで降りてくる。熱い息が、妹紅の前髪を揺らした。焦げた肉と硫黄の匂いがする。
リオレウスの鼻先が、籠に向いた。
籠の中で、仔が首を伸ばした。
リオレウスの鼻先が、籠の縁に触れる寸前で止まった。鼻の穴がヒクリと動く。
――仔の匂いを嗅いでいる。
妹紅は息を止めていた。リオレウスの鼻先が、籠から妹紅の手へ移った。赤い刃の上で、鼻の穴がまた動く。火竜双刃の鱗の匂いを嗅いでいる。
鼻先が、刃に触れるか触れないかのところで止まった。
金色の目が、ほんのわずかに細くなった。
――知っている匂いなのか。それとも、知らない匂いなのか。
妹紅には分からなかった。分からないまま、刃を握る指の力だけを、少しずつ抜いていった。
リオレウスの鼻先が、また籠へ戻った。
――このまま匂いを確かめて、巣へ戻ってくれれば。
その時、斜面の上から、咆哮が降ってきた。
――リオレイアの声だった。怒りに裂けた、長い声。草地の方で、炎の上がる音が聞こえる。
リオレウスの首が跳ね上がった。
金色の目が、斜面の上を見た。それから、妹紅を見た。妹紅の手の、赤い刃を見た。
目の色が変わった。
リオレウスの翼が、大きく広がる。鉤爪の付いた後ろ脚が、平石の縁から浮いた。
狙いは――籠だった。
「――っ!」
鉤爪が籠を掴みにくる。妹紅は籠の上に身を投げ出した。
鉤爪が妹紅の背中に食い込む。焼けるような痛みが、背中から肩へ走る。爪の根元から、熱い何かが流れ込んでくる。
――毒だ。
それでも、妹紅は籠の上から退かなかった。
「……悪いな」
妹紅は歯を食い縛って笑う。
「こいつは、掴んで運ぶもんじゃない。お前の爪じゃ、こいつまで毒にやられる」
リオレウスが妹紅を籠ごと持ち上げようとする。翼が地面を叩き、土埃が舞い上がる。妹紅の足が平石から浮きかける。
「――オキ!」
〈ワウッ!〉
オキが吠えた。
背の鎖鎌が宙を走る。両端の大鎌が、リオレウスの後ろ脚の鱗を叩く。斬れない。だが、鉤爪の力がほんの一瞬だけ緩んだ。
妹紅は、その一瞬に体を捻った。
鉤爪から背中が外れる。籠を胸に抱えたまま平石の陰へ転がり込んだ。
リオレウスが空中で身を翻した。
喉が赤く膨らむ。
妹紅は籠を平石と自分の体の間に挟み込んだ。背中を、空へ向けて。
――火球が妹紅の背中を直撃した。
炎が妹紅の全身を包む。白い髪が燃え、防具の外套が焦げる。熱が、皮膚を通り越して骨まで届く。
「……っ……!」
それでも、妹紅は声を上げなかった。籠を抱える腕だけは、ほどかなかった。
――炎が消える。
平石の陰で、妹紅は蹲ったまま、焼け焦げた背中から煙を上げていた。髪の先が、チリチリと縮れている。
――だが、焼けた皮膚の下から、もう新しい肉が盛り上がり始めていた。
「……熱いな、やっぱり」
妹紅はゆっくりと顔を上げ、腕の中の籠を覗き込む。藁の中で、仔が目をぱちくりさせていた。藁の一本も、焦げていない。
「……お前は、無事か」
〈ピィー……〉
仔が細く鳴いて答える。
リオレウスが、もう一度旋回して戻ってくる。
妹紅は籠を抱えて立ち上がる。背中の焼け跡が、まだ煙を上げている。毒が、手足の先を痺れさせている。
その時――斜面の上から、乾いた破裂音が鳴った。
――突如、リオレウスの頭の横で火花が弾けた。
リオレウスが首を振り、旋回の向きを変える。
斜面の岩場から、魔理沙が
「――妹紅!生きてるか!」
「死ねないんだ、知ってるだろ」
「知ってるから聞いてんだよ!」
魔理沙は平石の脇に滑り込み、腰の袋から小瓶を一本引き抜いて妹紅に放る。――[解毒薬]だ。麟が慧音に渡した包みの中にあったものを、魔理沙が持たされていた。
妹紅は受け取った小瓶の栓を歯で抜き、一息に飲み干す。手足の痺れが、少しずつ引いていく。
「――行けるか」
「行く。――行かなきゃならない」
妹紅は籠を抱え直す。
「巣まで、四町だ」
「上は私とクスネが押さえるぜ。――クスネ!」
「ニャ!」
クスネが平石の上に飛び乗った。懐からどんぐりの形の小さな玉を取り出す。
「次に降りてきたら、目を潰すニャ」
「あぁ、頼んだぜ」
魔理沙は空を見上げた。
リオレウスが、斜面の上空で大きく輪を描いている。左の翼が、陽に透けていた。金色の目が、まだ妹紅の腕の中の籠を追っている。
「……走れ、妹紅!」
妹紅は走り出した。
~東の尾根 中腹の草地~
――草地は半分が燃えていた。
三連の火球が焼き払った草の跡から、まだ煙が上がっている。焦げた土の上で、霊夢は太刀を下段に構えたまま、肩で息を吐いていた。
炎の壁の向こうで、明羅が太刀を鞘に納め、腰を落としている。
――リオレイアは、二人の間に立っていた。
顎の下の鱗が一枚剥げ、首の付け根と胸に浅い傷が幾筋も走っている。口の端からは、絶え間なく炎の舌が覗いていた。怒り状態のまま、少しも収まる気配がない。
「……しぶといわね」
霊夢はそう零して汗を拭う。
「『手傷は負わせても殺すな』ってさ。簡単に言ってくれるわね」
「――だが、正しい」
明羅が炎の向こうから応える。
「この竜は、ただ仔を探しているだけだ」
「分かってるわよ」
リオレイアが首を振った。
口の端の炎が、ボウッと大きくなる。首を大きく横へ薙ぎながら、火の息を吐き散らした。火球ではなく、扇のように広がる炎だ。焦げた草地を、もう一度炎が舐めていく。
霊夢は、地面スレスレに身を伏せた。炎が、頭の上を通り過ぎていく。熱で、髪の先がチリリと鳴る。
「……っ、もう少し加減しなさいよ……!」
炎の向こうで、明羅が太刀を抜いた。リオレイアの尻尾が、明羅の足元を薙ぎ払う。明羅は跳んで躱し、着地と同時に尻尾の付け根を斬りつけた。翠の火花が散る。
リオレイアが、明羅へ向き直る。その背中へ、霊夢が斬り込む。リオレイアが霊夢へ向き直れば、明羅が斬る。
――何度目かの入れ替わりの後、リオレイアが大きく跳び退いた。息が荒い。翼の付け根が、ブルブルと震えている。
「――疲れてきたわね」
「――それはこちらもだ」
「……正直ね、明羅さん」
――見張りの岩陰からは、尾根の斜面がすべて見渡せた。
慧音は、岩の縁に手を突いて、身じろぎもせずに戦いを見ていた。隣では阿求が筆を走らせている。
草地では、霊夢と明羅が交互に斬り込み、リオレイアを少しずつ斜面の下へ引き寄せている。
岩場では、魔理沙の銃口が空を追っている。麓の平石の陰では、籠を抱えた妹紅が走っている。南の崖では、里香の滑車が回っていた。
「……全部、段取り通りに動いてますね」
阿求が帳面から顔を上げずに口を開く。
「段取り通りに動いているのは、こちらだけだ」
慧音の声は低い。
「相対している番は、こちらの段取りなど知らん。仔の声が聞こえたら、あいつらは何を捨ててでもそっちへ行くだろう。――私なら、そうする」
阿求の筆が止まった。
「……慧音先生」
「――書け、阿求。番がどう動いたか。こちらがどう動いたか。間違えたところも、全部だ」
「……はい」
阿求の筆が、また走り出した。
慧音は、平石の陰の妹紅を見つめる。それから、草地の霊夢と明羅を見る。
――どちらへ転んでも、仔だけは巣へ返す。
それが、慧音の決めた区分だった。
その時――斜面の下から、細い声が届いた。
〈ピィー……〉
――仔の声だった。
リオレイアの首が、跳ねるように声の方を向いた。
斜面の下、平石の方から、白い髪の人影が籠を抱えて駆け上がってくる。草地の脇の、岩と灌木の間の細い道を。巣へ向かう近道だ。
妹紅だった。背中から、まだ煙を上げている。
「――まずいわね」
リオレイアが、妹紅の方へ向きを変えた。
霊夢と明羅のことなど、もう目に入っていない。首を低く下げ、太い脚で地面を掻く。突進の構えだ。
狙いは――籠を抱えた妹紅だ。
「明羅さん!」
「承知!」
明羅が炎の壁を突き抜けた。袴の裾に火が移るのも構わず、リオレイアの脇腹の前へ躍り出る。抜き打ちの一閃。翠の刃が、リオレイアの脇腹を走り、緑の火花がパァンと弾ける。
リオレイアの突進が、一歩だけ遅れた。
その一歩の間に、霊夢はリオレイアの正面へ回り込んでいた。
妹紅とリオレイアの間。草地の、焦げた土の上に。
「――悪いけど」
霊夢は、太刀を上段に振りかぶる。
刀身が、薄紅に煌めく。一太刀ごとに刃に溜めてきた力が、刀身の上で泡のように揺らめいていた。
「――あんたの仔は今、巣に帰るところなの。邪魔しないで」
リオレイアが突進してきた。霊夢は――退かなかった。
――そのまま踏み込む。突進してくる頭の真正面へ、半歩だけ斜めに。顎が霊夢の脇を掠めた瞬間、霊夢は体ごと回転していた。
薄紅の刃が、大きな円を描く。
一回転。刃が、リオレイアの頭の甲殻を真横から斬りつけた。
ガキィン――!と硬い音が鳴った。
リオレイアの頭の甲殻に、斜めの亀裂が走った。
リオレイアの頭が横へ弾かれ、突進の勢いのまま、草地の焦げた土の上へ横倒しに転がる。
ドスン――と地面が揺れた。
リオレイアは、焼けた草の上でもがいた。脚が空を掻き、尻尾が地面を叩く。
「――今の内よ!」
霊夢は斜面の上を振り返った。
妹紅は、既に草地の脇を抜け、岩場の手前まで駆け上がっていた。籠を胸に抱えて、振り返らずに。
――リオレイアが、起き上がった。
頭の亀裂から、細く血が流れている。首を振り、また斜面の上を見た。妹紅の背中を。
だが――今度は、突進しなかった。
リオレイアは、霊夢を見た。明羅を見た。それから、斜面の上を見て、低く鳴き声を零す。
怒りを宿した声ではなかった。
昨日、空の巣を嗅いでいた時と同じ、何かを探す声。
「……行かせてあげて、明羅さん」
霊夢はそう言って太刀を下ろす。
「仔が巣に着いたら、親もそっちへ帰るわ」
明羅は袴の裾の火を手で揉み消しながら、黙って頷いた。
~東の尾根 巣へ続く斜面~
――岩場の斜面は、急だった。
妹紅は籠を胸に抱えたまま、岩から岩へ足を掛けて登っていた。背中の焼け跡はもう塞がりかけているが、毒の痺れがまだ指先に残っている。片手で岩の縁を掴むたびに、指がわずかに滑った。
オキが妹紅の先を跳ねるように登っていく。時々振り返り、妹紅が付いてくるのを確かめる。
頭の上を影が通り過ぎる。
――リオレウスだった。
斜面の真上で翼を広げ、旋回している。妹紅の腕の中の籠を、金色の目がずっと追っていた。
その輪が、だんだんと狭まってくる。
「……来るなよ。まだだ」
妹紅は岩の縁を掴んだまま空を見上げた。
リオレウスの口の端から、炎が零れていた。額の傷から、血の筋が鼻先へ垂れている。翼の打ち方が、さっきより荒い。――怒っている。
リオレウスが、空中で首を後ろへ引いた。
喉が、三度膨らむ。
火球が、空から立て続けに三つ降ってきた。
一つ目は、妹紅の頭の上の岩に当たって砕けた。二つ目は、斜面の灌木を燃え上がらせた。三つ目は、妹紅の足元の岩を叩き、熱い砂礫を跳ね上げた。
オキが妹紅の前で身を低くし、背の鎖鎌を盾のように振り回した。飛んできた岩の破片が、鎖に弾かれて逸れる。
「――悪いな、オキ」
妹紅は、熱い岩に手を掛けて、また一段登った。
斜面の下から、ズドン――と魔理沙の重い一発が鳴った。弾は、リオレウスの翼の端を掠めて空へ消える。
「くそっ、動きが速くなってやがる……!」
リオレウスは、とっくに魔理沙を見ていなかった。
妹紅だけを――妹紅の腕の中の籠だけを見ていた。
――昔、同じ赤い鱗の竜に、何度も焼かれた。
あの日、妹紅は狩る側だった。あの竜は、自分の縄張りを守っていた。今日の妹紅は、竜の仔を抱えている。竜は、自分の仔を取り返そうとしている。
――どっちも、間違っちゃいない。
妹紅は、籠を抱え直した。
「……もう少しだ。あと少しで、帰してやるから」
リオレウスが翼を畳んだ。
真っ直ぐに、妹紅の頭上へ降ってくる。鉤爪が開く。
――その瞬間、斜面の下の岩の上から小さな影が飛んだ。
「――今ニャ!」
クスネが、どんぐりの形の玉を空へ放り投げた。
[閃光爆弾の技]だ。
玉が、リオレウスの鼻先で弾けた。
白い光が、斜面いっぱいに広がる。妹紅は籠を胸に抱え込み、目を閉じた。視界が瞼の裏まで白く焼ける。
リオレウスの叫びが光の中で裂けた。
目を焼かれたリオレウスの翼が、空を掴み損ねる。巨体が傾き、錐揉みしながら、妹紅の横の斜面へ墜ちてきた。ドォン――!と岩が砕け、砂礫が雪崩のように斜面を流れ落ちていく。
リオレウスは、斜面の岩の間でもがいていた。脚が空を掻き、裂けた左の翼が岩に引っ掛かっている。
「――魔理沙!」
「分かってる!」
斜面の下の岩場で、魔理沙が『恋色彗星』を腰だめに構えていた。
八卦炉の火が、薬室を温め続けている。新しく組み直した管が、白く光り始めていた。
――『溜めて、一気に撃て。半端に撃つな』
魔理沙は、照準の真ん中にリオレウスの頭を捉えた。
リオレウスが、もがきながら首を擡げる。閃光の目眩から、少しずつ醒めかけている。金色の目が、魔理沙の方を向いた。
――まだだ。
八卦炉が、機関部の金具をキィンと鳴らす――
「――ぶちかますッ!」
反動が、魔理沙の腰から背骨を突き抜けた。足が岩の上を滑り、魔理沙の体が後ろへ弾き飛ばされる。
[徹甲榴弾]が、リオレウスの額の甲殻を撃ち抜いた。
一拍置いて、弾頭が爆ぜる。リオレウスの額の甲殻が砕け、赤い鱗の破片が宙に散った。リオレウスの頭が大きく仰け反り、首から先が岩の上へ叩きつけられた。
リオレウスは、動かなくなった。
――いや、動いていた。喉が、ゆっくりと上下している。息はある。目を回して、伸びているのだ。
「……っ、当たった、ぜ……!」
魔理沙は、岩の上に大の字に倒れたまま、空を見上げて笑った。
「殺すなって言われたからな。――頭の皮一枚だ」
クスネが、岩の上を駆け寄ってきて、魔理沙の帽子を拾った。
「魔理沙、また吹っ飛んだニャ」
「うるさい。……妹紅、今のうちだ!」
――斜面のずっと下、草地の端で、霊夢が太刀を鞘に納めながら、その一発の音を聞いていた。
「……魔理沙ね、今の」
「頭を撃ち抜いたか。……命まで砕いてなければいいが」
明羅が斜面の上を見上げる。岩の間に、赤い巨体が伸びているのが見える。
「殺してはいないわよ、たぶん。――あの子、そういう加減だけは上手いもの」
霊夢の隣で、リオレイアが首を擡げていた。斜面の上の、伸びた番の雄を見ている。低く、短く鳴き声を零す。
それから、リオレイアは霊夢と明羅に背を向け、ゆっくりと斜面を登り始めた。――巣の方へ。
霊夢はもう止めなかった。
妹紅はすでに巣の近くまで登っていた。
伸びたリオレウスの脇を、籠を抱えて駆け抜ける。リオレウスの金色の目が、うっすらと開いて妹紅を追った。だが、首は持ち上がらなかった。
岩棚の縁が、目の前に迫った。
縁から理香子の手が伸びてきた。
「――妹紅!」
妹紅は、籠を理香子の手に預け、岩棚の縁に手を掛けて体を引き上げた。
巣の上に、六つの卵が並んでいた。窪みに収まり、それぞれの向きで、静かに温もりを保っている。
一つだけ空いた窪みが、巣の西の縁にあった。
理香子が籠を妹紅に返した。
「あなたが置いて」
「……私が、か」
「十三日前、ここから卵を下ろしたのは、あなたでしょう。返すのも、あなたの役目だって言ったじゃない」
妹紅は籠の蓋を開けた。
藁の中から、仔が首を伸ばした。金色の目が、巣を見回す。六つの卵。枝と草の匂い。親の腹の熱が残る、窪みの土。
仔が鳴いた。
妹紅は、両手で仔を掬い上げた。
やはり、軽い。猫一匹ほどの重さしかない。焼けた手のひらに、柔らかな鱗の感触が伝わる。
空いている七番目の窪みへ、そっと下ろす。
仔は、窪みの土の上でクルリと体を丸めた。それから、隣の卵に、小さな頭を擦り寄せた。
妹紅は、しばらくその姿を見下ろしていた。
「……ほら、帰ったぞ」
小さく呟き、妹紅は立ち上がった。
理香子が、妹紅の背中を見て眉を寄せた。外套に、焼け焦げた大きな穴が開いている。穴の下の肌は、もう桃色に塞がっていた。
「……焼かれたのね」
「籠は焦げてない」
「そういうことを聞いてるんじゃないわよ」
理香子は溜息を吐く。それから、巣の中の仔を見下ろして、少しだけ口元を緩めた。
「でも――ありがとう。最後まで、隣に立っててくれて」
妹紅は何も答えなかった。ただ、焼けた外套の襟を、黙って立て直した。
理香子が、崖の縁から身を乗り出して、崖下へ手を振った。
里香の笛が、長く一つ、尾根に鳴り響いた。
――卵が全部、戻った。
~東の尾根 見張りの岩陰~
――笛の音が尾根に消えてから、全員斜面の下まで退いた。
見張りの岩陰に、全員が身を寄せている。
慧音、阿求。霊夢と明羅。魔理沙とクスネ。妹紅とオキ。崖を下りてきた理香子と里香。誰も口を利かなかった。
岩陰からは、谷を一つ挟んで、岩棚の巣が見える。
陽は、もう西へ傾き始めていた。
「……来たわ」
霊夢が小さく言った。
――岩棚の下の斜面を、リオレイアが登ってきていた。
頭の甲殻に、斜めの亀裂が走っている。脇腹には、明羅の刃の跡。足取りは重い。それでも、一歩ずつ、岩棚の縁へ近付いていく。
リオレイアは、岩棚の縁に前脚を掛け、体を引き上げる。そして――巣の上に首を伸ばした。
七つの窪み。六つの卵。そして、西の縁の窪みで、体を丸めている、小さな赤い影。
リオレイアの首が、止まった。
長い間、リオレイアはそのまま動かなかった。
やがて――仔が首を上げた。
リオレイアの喉から、低い声が漏れた。
唸りとは違った。もっと柔らかい、喉の奥で転がすような声だった。
リオレイアは、巣の中へ踏み込んだ。
卵の一つ一つに、鼻先を寄せる。一つ。また一つ。昨日、空っぽの窪みを嗅いだ時と同じ順で。最後に、仔の前で鼻先を止めた。
仔が、リオレイアの鼻先に頭を擦り寄せた。
リオレイアは、ゆっくりと体を下ろした。
七つの窪みの上に、腹を付けて。翼を少しだけ広げ、卵と仔を包み込むように。
「…………」
阿求の筆が、帳面の上で止まっていた。
理香子が袖で目元を擦る。
「……ちゃんと、抱いたわね」
「えぇ、確かに」
理香子の声が、少しだけ震えていた。
「卵の向き、一つも間違えなかったのよ。――あの子、気付かないで抱いてる」
その時――リオレイアの翼の下で、何かがコツ、と鳴った。
皆が息を呑んだ。
――コツ……コツ、コツ。
リオレイアが、翼を少しだけ持ち上げた。首を下げ、腹の下を覗き込む。
四つ目の卵だった。罅が、殻の上を走っていく。罅の縁から、小さな嘴の先が突き出す。
そして殻が――パリッと割れた。
濡れた小さな頭が、殻の中から現れる。金色の目が、母親の顔を見上げた。
〈ピィー……〉
一つ目の仔が、隣で鳴き返した。
リオレイアは、二つの小さな頭に、交互に鼻先を寄せた。それから、また翼を下ろして、七つの窪みを包み込んだ。
「……二つ目」
理香子が、震える声で呟いた。
「親の腹の下で、孵ったわ」
空から、影が降りてきた。
――リオレウスだった。
額の甲殻が砕け、赤い血が筋になって鼻先まで垂れている。裂けた左の翼を引き攣らせながら、それでも空を打ち、巣の隣の岩の上に降り立った。
リオレウスは、巣の上のリオレイアを見下ろした。リオレイアの翼の下から、仔が首を出している。
リオレウスは、しばらくそれを見ていた。
それから――首を巡らせた。
岩陰の方ではない。巣でもない。
西の空の、少し北寄り――戌亥の方角を。
陽が沈みかけた空の、その向こうを、リオレウスはじっと見据えていた。翼を半分広げたまま。いつでも飛び立てるように。
縄張りを見張る目ではなかった。獲物を探す目でもなかった。
霊夢は、その目を見たことがあった。祠の上の崖で、蒼火竜が最後に見せた目と、同じだった。
――何かが来るのを、待っている目。
あるいは、何かから逃げてきた者が、後ろを振り返る時の目。
霊夢は太刀の柄に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「……まだ、見てるわね」
霊夢が呟く。
「えぇ、戌亥を」
阿求の筆が、再び動いた。
――『夕刻。番、巣に戻る。リオレイア、卵と仔を抱く。リオレウス、巣の脇の岩上にて戌亥を注視。翼を畳まず』
阿求は最後の一行の後に、小さく書き足した。
『朱の矢印、一本追記』
「――引き上げる」
慧音が静かに宣言する。
「撃退と巣への返還はどちらも済んだ。これ以上ここに居れば、番がまた気を立てる」
誰も異を唱えなかった。皆が静かに岩陰を離れていく。最後に、妹紅が振り返った。
岩棚の上で、リオレイアの翼の下から、小さな赤い頭が覗いている。その隣の岩の上で、リオレウスが戌亥の空を見ていた。
「……達者でな」
妹紅は焼け焦げた外套の襟を立てて、斜面を下りていった。オキがその後ろをピタリと付いていく。
背中で、仔の声が、一度だけ細く鳴いた。
麓へ下りる小道で、魔理沙が妹紅の隣に並んだ。
「背中、もういいのか」
「塞がった」
「外套は塞がらないぜ。穴だらけだ」
「……慧音に怒られるな。新しく誂えたばかりなんだ」
「火竜の素材で誂えた外套を、火竜に焼かれたって言えばいい。面白がるぜ、きっと」
「面白がるのはお前だけだろ」
魔理沙はケラケラと笑う。それから、少しだけ声を落とした。
「……籠、最後まで離さなかったな」
「離したら、あいつが掴んでた」
「そうじゃなくてさ」
魔理沙は前を歩く慧音の背中を見る。
「火竜の剣を持って、火竜の仔を抱えて、火竜に焼かれてさ。――お前、どんな気分だった」
妹紅はしばらく黙って歩く。
「……悪くは、なかった」
それだけ言って、妹紅は歩調を速めた。
少し後ろを、霊夢と明羅が並んで歩いていた。明羅の袴の裾が、焦げて短くなっている。
「明羅さん、その裾」
「繕えばいい」
「炎の壁を突っ切る人、初めて見たわ」
「あの竜が妹紅へ向かっていた。間に合わぬと思った」
「……そういうの、昔から変わらないのね」
霊夢は前を向いたまま続ける。
「――人の前からは、絶対に退かない」
明羅は少しだけ霊夢の横顔を見た。それから、何も言わずに前を向いた。
一番後ろを、慧音と理香子が歩いていた。
「翼膜の切れ端、パチュリーに見せると言っていたな」
「えぇ。明日にでも、紅魔館へ」
「――私も行こう」
理香子が足を止めかけた。
「……ギルドマスターが、自ら?」
「死骸の向きの記録も、本人から直に聞きたい。阿求の地図に、まだ載せていない、考察するべき線があるかもしれん」
慧音は暮れていく西の空を見上げる。
その空の少し北寄りに、一番星が光っていた。
~人里 東の外れ 木戸~
――日が落ちてから、一行は東の外れの木戸に帰り着いた。
木戸の脇で、麟が提灯を掲げて待っていた。足元で、アマネが大きな耳を立てている。一行の足音は、姿が見えるより先に、二人の耳に届いていたらしい。
「慧音先生!皆さん!」
麟は駆け寄りかけて、妹紅の焼け焦げた外套を見て足を止めた。
「妹紅さん、それ……!」
「大丈夫だ。もう治った」
「な、治ったって……」
「そういう体なんだ。気にするな」
麟は、まだ何か言いたそうに口を開けたが、妹紅がさっさと木戸を抜けていく姿を見送って、言葉を呑み込んだ。
それから、慧音を見上げた。
「……あの子達は」
「無事、巣に返した」
慧音は麟の肩に手を置いた。
「母親が翼の下に抱いた。残りの卵と、巣で孵ったもう一つの仔と一緒にな」
麟の顔が、くしゃりと歪んだ。提灯の明かりが、少しだけ揺れた。
「……よかった」
「あぁ。お前の上げた煙が、最初だった」
麟は袖で目を擦り、大きく頷いた。
木戸の内側で、小鈴が帳面を抱えて立っていた。
「お帰りなさい、慧音先生。――依頼の締めは、どうしますか」
「区分は撃退と巣への返還。どちらも達成。負傷一名、藤原妹紅。――治った、と書いておけ」
「……治った、ですか」
「本人がそう言っている」
小鈴は、少しだけ困った顔をしてから、筆を走らせた。
――『負傷一名(自然治癒)』
「それと、麟の夜番の手当てを、一晩分上乗せしろ」
「承ります。――理由は」
「一番重い煙を上げた」
小鈴は、筆を止めて慧音を見た。それから、小さく笑って書き付けた。
――『夜番手当、一晩上乗せ。理由:狼煙』
「記録室を開けてくれ。――阿求の地図を広げる」
小鈴の顔から、笑みが消えた。
「……全部、並べるんですね」
「あぁ。全部だ」
~中央会館 記録室~
――その夜、記録室の机の上に、地図が一枚だけ広げられていた。
阿求が情報を書き込んでいる地図だ。人里を真ん中に、東の『博麗原野』、北の『妖怪の山』の裾、西の『魔法の森』、南の『迷いの竹林』の入口。ここ一月余りの出来事が、墨と朱で細かく書き込まれている。
机を囲んで、慧音と阿求と理香子が立っていた。霊夢と魔理沙は、壁際の長椅子に並んで腰掛けている。魔理沙は半分眠りかけ、妹紅は窓の外を見ていた。
小鈴が、行灯の芯を少しだけ上げる。
「――始めます」
阿求が、朱の筆を取った。
「散る向きは、墨で書いてきました。大型モンスターに追われて逃げた群れや、縄張りを追い出された若い個体。向きはバラバラです。これは、いつもの幻想郷の動きです」
地図の上に、墨の矢印が無数に散っている。北へ、南へ、東へ。
「揃う向きは、朱で書いてきました」
阿求は、朱の矢印を一本ずつ指でなぞった。
「――博麗原野の、季節外れのアプトノスの渡り」
地図の東から、西寄りへ伸びる線。
「――ガーグァの群れ」
もう一本。
「――東の尾根の巣を、卵を残して離れた火竜の番。飛び去った向き」
もう一本。
「――昨日、番が里へ下りてきた道」
もう一本。
「――今日、巣の脇の岩の上から、リオレウスが見ていた方角」
阿求の筆が、新しい朱の線を一本、東の尾根から引く。
「それと――」
阿求は理香子を見る。
「理香子さんから聞いた、紅魔館の死骸の向き。パチュリーさんの記録です」
「えぇ」
理香子が頷く。
「霧の湖の西岸の、キュリアの死骸。小悪魔さんが封じた三十二体。――見ていない間に、全部が同じ方を向いていた」
阿求は霧の湖の西岸に、細い朱の線を引く。
「それから、魔理沙さんの帳面より」
壁際の魔理沙が片目を開けた。
「……ん?ああ、猿か」
「魔法の森のケチャワチャ。北から降りてきた個体。それと、霊夢さんから――」
「蒼火竜」
霊夢が、長椅子に背を預けたまま言った。
「祠の上の崖。……最後まで、戌亥を見てた」
阿求は、霊夢の神社の裏手に、もう一本の線を引いた。
それから、阿求は筆を置いた。
長い物差しを取り、朱の矢印を一本ずつ、その向きのまま、地図の外へ向かって延ばし始めた。
――一本、二本、三本。
東の原野から。霧の湖の西岸から。魔法の森から。神社の裏の崖から。
線は、それぞれ違う場所から出ていた。違う日に、違う生き物が、違う理由で動いた跡だった。
だが、延ばした線は――
――阿求の手が、止まった。
地図の戌亥の端を越えて、机の上の白い板の上で。
――すべての朱の線が、
「…………」
記録室の中が、静まり返った。
行灯の芯がジジ、と鳴る。
魔理沙が、長椅子から身を起こしていた。霊夢は、背を預けたまま、目だけを細めていた。妹紅が、窓から振り返った。
「……偶々は、二本までです」
阿求が小さく口を開く。
「三本で、偶々ではなくなる。――これは、八本です」
理香子が重なった点に指先を近付けて、止めた。触れなかった。
「……地図の外ね」
「はい。この地図には載っていない場所です」
「何があるの、そこに」
阿求は首を横に振った。
「分かりません。――今は、まだ」
慧音は長い間、その点を見下ろしていた。
それから、机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、新しい帳面だった。紐で綴じた、厚い帳面。表紙には、まだ何も書かれていない。
慧音は帳面を開き、最初の頁に筆を置いた。
『調査簿』
その三文字を書いた。
続けて、件名の欄に筆を移し――筆が、止まった。
慧音は、しばらく件名の欄を見つめていた。墨が、筆の先で小さく膨らむ。
やがて、慧音は筆を上げた。件名の欄は、白いままだった。
その下の、本文の一行目に、慧音は書いた。
――『東の尾根の火竜の番、巣へ返す。撃退成功。仔二つ孵る、卵五つも無事』
二行目。
――『番の雄、戌亥を注視。翼に新しい裂け目確認。裂け口、一筋のみ鋭い』
三行目。
――『朱の矢印、八本。地図の外、戌亥の一点に集まる』
慧音は、筆を置いた。
「……名前は、まだ付けない」
慧音は帳面を閉じずに、地図の横に並べて置いた。
「名前を付ければ、皆それを異変と呼ぶ。異変と呼べば、誰かが慌てる。――分かっていることが、まだ少なすぎる」
霊夢が長椅子から立ち上がった。
「――その時になったら、呼んで」
「あぁ」
「特任じゃなくて、ちゃんとギルドの依頼でね」
慧音は少しだけ口の端を緩めた。
「……考えておく」
霊夢は肩を竦めて記録室を出ていった。魔理沙が欠伸をしながら、その後を追う。クスネが、魔理沙の足元を転がるように付いていく。
妹紅は、窓の外を見ていた。
東の空に、細い月が掛かっていた。尾根の向こうで、今頃、あの仔は母親の翼の下で眠っているのだろう。
それから妹紅は焦げた外套の襟を直して、黙って記録室を出た。
――記録室には、慧音と阿求と理香子だけが残った。
理香子は、鞄から布の包みを取り出し、翼膜の切れ端を地図の脇に置いた。一筋だけ、真っ直ぐに裂けた縁。行灯の明かりに透かすと、裂け口の縁が、わずかに光って見えた。
「……これも、同じ方から来たのかしらね」
「分からん」
慧音は切れ端を見下ろす。
「明日、紅魔館へ持っていく。パチュリーに見せて、死骸の記録と並べる」
阿求が筆を洗いながら口を開く。
「慧音先生。……グランドマスターには」
「――まだだ」
慧音は、首を横に振った。
「
「線だけで、八本です」
「あぁ。だから、調査簿を開いた」
慧音は白いままの件名の欄に、指先を置いた。
「名前を付けはれないものを、まずは名前の付かないまま情報を書き留めておく。――それが記録だろう、阿求」
阿求は暫く黙っていた。それから、小さく頷いた。
「……はい。『縁起』も、最初はそうでしたね」
理香子が翼膜の切れ端を布に包み直した。
「私は、孵卵小屋の後片付けをしてくるわ。――空っぽの木箱を見たら、たぶん泣くけど」
「あぁ、泣いてこい」
慧音は、少しだけ笑った。
「お前が一番、あの卵の面倒を見たんだからな」
理香子は、肩を竦めて記録室を出ていった。
行灯の明かりの下に、地図と調査簿が並んでいた。
地図の戌亥の端の向こう、白い板の上で、八本の朱の線が一つに重なっている。
その点が何なのか、記録室に残った誰も、まだ知らなかった。
ということで第一章終了です。幻想郷のモンスター達に一体何が起きているのか...