東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~霧の湖 北東岸~
――霧の湖の朝は、うるさい。
岸辺の葦の上を、羽の生えた小さな影がいくつも飛び交っている。蜻蛉を追いかけ回す妖精。水面に石を跳ねさせて数を競う妖精。睡蓮の葉の上で昼寝の場所を取り合って、髪を引っ張り合っている妖精。笑い声と怒鳴り声と泣き声が、朝霧の中でごちゃ混ぜになって響いていた。
『リグル・ナイトバグ』は、その騒ぎを背中で聞きながら、葦の根元にしゃがみ込んでいた。
緑の短い髪から、二本の触角がピンと伸びている。白いシャツに半ズボン、肩から黒いマント。少年に間違われることの多い蛍の妖怪は、手元の帳面に、細かい字で数を書き付けていた。
「光蟲、十二。雷光虫、三。……先月より少し減ってるかな」
中央会館の生態研究室から、月に一度受けている依頼だ。霧の湖のまわりに居る虫の数と場所を、決まった場所で数えて記録する。研究室の『朝倉理香子』は、この数を他の観測と突き合わせて、湖の様子を読むのだという。
光蟲は、閃光玉の材料になる小さな虫だ。採りすぎると群れが戻らない。だから数を見ておく。虫を数える仕事は、虫を守る仕事でもある。リグルはこの依頼が嫌いではなかった。
帳面を閉じると、リグルは背中に担いでいた棍を下ろした。
長い棍の先には、鋭く長い一本角を模した穂先が付いている。柄には、薄い翅を折り畳んだような意匠。継ぎ目には雷光虫が数匹棲みついていて、薄暗い朝霧の中で、淡い黄緑の光を灯していた。徹甲虫と呼ばれる空飛ぶ甲虫の、角と殻と翅から作った操虫棍*1――徹甲棍『蛍火の灯』。
リグルは左の前腕を軽く持ち上げた。
籠手の上に止まっていた虫が、もぞりと動く。親指ほどの太さの体に、黒光りする硬い殻。頭の先には、短い角が二本。羽を畳むと、ちょうど甲虫の幼い姿のように見える。
[猟虫*2]だ。リグルが卵から育てた相棒である。
「おはよう。今日は数えるだけだから、まだ寝てていいよ」
猟虫は角を二度振って、また籠手の上で動かなくなった。
猟虫はモンスターの体に取り付いて、体液を吸ってくる。頭から吸えば赤いエキス。脚からなら白、胴からなら橙。持ち帰ったエキスを使い手が受け取ると、腕に力がこもり、足が軽くなり、体が硬くなる。だから操虫棍の使い手は、猟虫を戦の道具のように言うことがある。
リグルは、猟虫を相棒とも道具とも呼ばない。仕事仲間と呼ぶ。互いに腹が減るし、互いに疲れる。それを分かっている相手、という意味だ。
「――リグルー!見て見てー!」
頭の上から、ひときわ大きな声が降ってきた。
見上げるまでもない。青い服に大きな青いリボン、背中には氷の羽。氷の妖精『チルノ』が、両手に何かを抱えて飛んできて、リグルの目の前にドスンと着地した。背中の大剣が、反動で大きく揺れる。
「蛙!今朝いちばんの大物!」
チルノの両手の中で、カチコチに凍った蛙がキラキラ光っていた。
「……チルノ。それ、溶かしてあげなよ」
「溶かしたら逃げるじゃん」
「逃がしてあげなって言ってるんだよ」
チルノは唇を尖らせた。その後ろから、緑の髪をサイドテールにまとめた妖精が、少し遅れてパタパタと飛んでくる。腰の小さな円盾には、緑と黄色のまだらの鱗。『大妖精』だ。チルノの行く所には、だいたいこの子が付いている。
「チルノちゃん、蛙さん苦しそうだよ。溶かしてあげよう?」
「えー」
「溶かしてあげよう。ね?」
大妖精はにっこり笑ったまま、同じ言葉を繰り返した。チルノは三秒だけ黙って、それから渋々、蛙を浅瀬の水に浸けた。
さらにその後ろから、白い毛にうっすらと水色の差したアイルーが、短い脚でテクテク歩いてくる。チルノのオトモの『シズク』だ。シズクは浅瀬の蛙を覗き込み、溶けて動き出したのを見届けると、小さく頷いた。
「蛙さん、生きてるニャ。チルノ、えらいニャ」
「でしょ!」
褒められた所だけを拾って、チルノはフフンと胸を張った。
リグルは苦笑して、帳面を懐にしまう。
霧の湖の朝は、うるさい。うるさいのがいつもの湖だ。妖精が騒いでいるうちは、湖に悪いものは居ない。この辺りの者なら、人間も妖怪もそう言う。妖精は、自然が少し変わっただけで、すぐに大人しくなるからだ。
「ねえリグル、今日はどこ数えるの?」
「南の入り江。あそこが最後」
「あたいも行く!入り江で蛙の数、数えてあげる!」
「数えるのは虫だよ」
「じゃあ蛙も虫も数える!」
チルノはもう、南へ向かって飛び出していた。大妖精が「待ってー」と追いかけ、シズクがその下をテクテク走っていく。
リグルは小さく溜め息をついて、棍を担ぎ直した。
~霧の湖 南の入り江~
―――南の入り江に近付くにつれて、湖の音が変わっていった。
最初に気付いたのは、リグルの触角だった。
北東の岸では、葦の上をうるさいほど飛んでいた羽虫が、ここでは一匹も飛んでいない。水面の上をすいすいと滑っていた水馬の姿もない。葦の茎を見ると、羽虫達は茎の根元、水から一番遠い所に、ぎっしりと固まってしがみついていた。
虫は、水しぶきを嫌う。羽が濡れれば飛べなくなるからだ。だから大きな魚が跳ねる所では、虫は水面から離れる。
――でも、こんなに離れるほどの水しぶきって、何だろう。
次に気付いたのは、静けさだった。
妖精の声がしない。いつもなら、入り江の砂浜では妖精達が砂で城を作ったり、浅瀬で水を掛け合ったりしている。それが、一人も居ない。聞こえるのは、葦が風に擦れる音と、遠くの北東岸から流れてくる騒ぎ声だけだった。
「……ねえ、リグル」
すぐ後ろで、チルノの声がした。
「なんか……ムズムズする」
リグルは振り返った。
チルノは、いつもの顔をしていた。怖がってもいないし、構えてもいない。ただ、その声だけが、さっきの半分ほどの大きさになっていた。本人は、それに少しも気付いていない。
チルノの隣で、大妖精が足を止めていた。
大妖精は、チルノの横顔をじっと見ていた。それから、黙ってチルノの手を取った。さっきまでの笑顔が、すっと消えている。
「チルノちゃん。ここから先は、静かに歩こうね」
「なんで?」
「なんでもいいから、ね?」
チルノは首を傾げたが、手を引かれるまま、大人しく大妖精の後ろについた。その素直さが、かえってリグルの背中を冷たくした。
氷の妖精の声が小さくなったら、近くに大きな水か氷の生き物が居る。湖の近くで暮らしている者なら、子供でも知っている言い伝えだ。言い伝えの当人であるチルノだけが、それを知らない。
「――あの、皆さん」
葦の陰から、か細い声がした。
水面から、青い髪の少女が顔だけを覗かせていた。頭には緑の帽子のような飾り、耳の脇には鰭。湖の南の岩場に住む人魚『わかさぎ姫』だった。水の中では、魚の尾がゆらゆらと揺れている。
「わかさぎさん。何かあったの?」
リグルが小声で尋ねると、わかさぎ姫は不安そうに入り江の奥を見やった。
「三日ほど前から、入り江に大きいのが居着いてしまって。お魚がみんな、深い所へ逃げてしまったんです。私も、岩場から出られなくて……」
「大きいのって、どんな?」
「水の中からは、黄色いフワフワしたものしか見えませんでした。それと、夜中に誰かが水をパシャパシャ鳴らすと、何匹も、スウッと寄ってくるんです」
「何匹も?」
「はい。小さいのが、何匹も」
わかさぎ姫はそれだけ言うと、怖々と水の中へ沈んでいった。最後に一言、「みだりに水を鳴らさないでくださいね」と付け加えて。
リグルは、腰を落として砂浜へ下りた。
――白い砂の上に、何かを引きずった跡が残っていた。
幅は、リグルが両腕を広げたほどもある。浅く窪んだ帯が、水際から砂浜の奥の葦原へ、ゆるい曲線を描いて続いていた。帯の真ん中には、一本の細い溝。溝の両脇に、規則正しく小さな刺し穴が並んでいる。
「……腹を引きずって、這ってる。真ん中の溝は、尻尾かな。尻尾の両側に、棘が並んでるんだ」
帯の両脇には、足跡が並んでいた。前脚の跡は大きく、深い。指が太く広がり、砂を掴むように食い込んでいる。後脚の跡は、それよりずっと浅かった。前脚で体を引き寄せ、後脚は添えるだけ。水の中で暮らす生き物の歩き方だ。
その大きな足跡のまわりに、小さな足跡が、数えきれないほど重なっていた。形は同じ。大きさだけが、半分ほど。
リグルは帳面を開き、指で足跡の幅を測って書き付けた。大きいのが一頭。小さいのは、十前後。
葦の茎に、何かが引っかかっていた。
わかさぎ姫の証言と同じ、黄色い、フワフワしたものだ。綿のようにも、苔のようにも見える。指でそっと摘まむと、思ったより重い。押すと、指の間からじわりと水が滲み出してきた。
「……フワフワ。わかさぎさんが言ってたやつだ」
「それ、知ってるニャ」
足元から、シズクが小声で言った。
白いアイルーは、鼻をひくつかせて黄色い欠片を嗅ぐと、ぴんと髭を立てた。
「――[ロアルドロス*3]の鬣ニャ。マヨヒガで、橙さまに図を見せてもらったことがあるニャ。水を吸って溜めておく鬣で、乾くと縮むニャ。だから、水から遠くへは離れられないのニャ」
「ロアルドロス……」
名前だけは、リグルも聞いたことがあった。水辺に棲む、大きな黄色いトカゲのような竜。雄の大きいのが、雌の小さいのを何頭も従えて群れを作る、という。
「小さいのが何匹もって、群れの雌ってこと?」
「多分そうニャ。それと、水をバシャバシャ鳴らすと、弱った獲物が居ると思って寄ってくるって、橙さまが言ってたニャ」
わかさぎ姫の言葉と、ぴたりと合っていた。
砂浜の奥、葦原の手前の岩の上に、白く光るものが散らばっていた。魚の骨だ。大きな鯉の頭が、半分噛み砕かれて転がっている。その脇には、竹で編んだ細長い籠が、ぐしゃりと潰れて捨てられていた。
籠の口には、見覚えのある赤い紐が結んであった。
「これ、ミスティアの仕掛けだ」
八目鰻を獲るための、筌という仕掛けだ。ミスティアは毎晩この入り江に筌を沈めて、翌朝引き上げて屋台の仕込みにする。その筌が、中身ごと食い荒らされていた。
岩の表面には、透明な何かがべったりとこびりついていた。指で触れると、糸を引く。粘り気が強く、乾きかけているのにまだ指にくっついてくる。
――これを足元に吐きかけられたら、走れない。
リグルは指を砂で拭い、さらに葦原の方へ目をやった。
葦原の手前の砂が、ところどころ浅く掘り返されていた。
丸い窪みが、いくつも。一つ一つは、リグルの両手で囲めるほどの大きさだ。リグルは膝をつき、一番手前の窪みの砂を、指先でそっと払った。
砂の下から、白くて丸いものが覗いた。
卵だった。鶏の卵よりひと回り大きく、表面はしっとりと柔らかい。窪みの中に、三つ、四つと身を寄せ合って埋まっている。
リグルは、指を止めた。
払った砂を、元通りそっと戻す。卵の上に、さっきと同じ厚さになるように。手の平で、軽く押さえる。
「……ここは巣だ」
振り返ると、大妖精も、チルノも、シズクも、同じ窪みを見下ろしていた。
「ここは産卵場所なんだ。だから入り江から動かない。近付くものを片っ端から追い払ってる」
虫の世界でも同じだ。卵を産んだ雌は、巣の周りでは気が荒くなる。そして雄は、巣を守る雌を守る為に好戦的になる。
その時、入り江の奥の深みで、水がゆっくりと盛り上がった。
水面から、黄色い頭がいくつも、ぷかりと浮かんだ。トカゲに似た頭が、十ほど。どれも、じっとこちらを向いている。水に半分沈んだ目が、瞬きもせずに四人を見ていた。
〈ギャウ……ギャウ……〉
喉を鳴らすような、低い声。群れの雌――『ルドロス*4』達だ。
そして、その奥。
雌達よりずっと大きな影が、水面のすぐ下を、ゆらりと横切った。黄色い、ふわふわとした塊が、一瞬だけ水面に浮かび、また沈んでいく。
リグルは、ゆっくりと立ち上がった。急いではいけない。背中を見せてもいけない。
「下がるよ。ゆっくり。水には近付かない。足音も立てない」
「え、でも、あたい最強だし――」
チルノの声は、蚊の鳴くような小ささだった。
大妖精が、黙ってチルノの手を握る力を強くした。何も言わない。ただ、チルノの目を見た。
チルノは、口を閉じた。
四人は、水際から一歩ずつ後ずさり、葦原の陰まで下がってから、ようやく背を向けた。入り江を抜けて、北東岸の騒ぎ声が聞こえてきた所で、リグルはやっと、止めていた息を吐いた。
~霧の湖 東岸 屋台『夜雀亭』~
―――湖の東岸の柳の下に、赤い提灯を下げた屋台が出ていた。
荷車に屋根を載せただけの、小さな屋台だ。車を引く綱の先では、ずんぐりとしたガーグァが一羽、柳の根元で居眠りをしている。暖簾には、下手くそな字で『夜雀亭』とあった。昼の湖に夜の名前の屋台。それが、いつものこの店の不思議だった。
「いらっしゃい。……あら、四人揃って難しい顔ね」
暖簾の向こうから、鳥の羽の付いた帽子を被った娘が顔を出した。桃色の髪に、背中には夜雀の茶色い翼。指先の爪は長く、鳥の鉤爪のように尖っている。屋台の女将『ミスティア・ローレライ』だ。
狩り場の外れまで屋台を引いていき、狩りの前と後のハンターに温かい食事を出す。そのために、自分の身を守れる程度にはハンターの腕も持っている。屋台の柱には、大きな笛が一本、立てかけてあった。
暗い赤の甲殻を張った笛の胴に、鮮やかな赤い羽で縁取ったベル。背には、孔雀のように扇形に開く赤と青の尾羽。眠りを誘う息を吐く眠鳥の素材で作った狩猟笛*5――眠鳥笛『夜雀の子守唄』。
リグルは屋台の床几に腰を下ろし、潰れた筌を卓の上に置いた。
「ミスティア。南の入り江で、これ見つけた」
ミスティアの眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「――私の筌!誰よ、こんなにしたの!」
「ロアルドロスだよ。たぶん」
リグルは、入り江で見たものを順に話した。引きずり跡、大小の足跡、葦に引っかかった黄色い鬣の欠片。岩の粘液。それから、砂の下の卵。
話が卵のところまで来ると、ミスティアの怒った顔が、少しずつ困った顔に変わっていった。
「……卵、か。それじゃあ、文句も言えないわね」
「三日くらい前から居着いてるって、わかさぎさんが言ってた」
「三日前……ちょうど、筌の中身が空っぽになり始めた頃だわ。てっきりルーミアの盗み食いだと思ってたんだけど」
ミスティアは筌を手に取って、溜め息をついた。
「入り江には、筌があと二つ沈めてあるの。放っておくと、中に入った魚が死んで腐るわ。卵の傍で腐ったら、余計に嫌でしょうね、あっちも」
「引き上げに行くってこと?」
「行くしかないでしょ。……でも、その前に」
ミスティアは筌を脇へ退けると、炭火の上に網を載せた。
「お腹、空いてるでしょう。朝から湖を一周してきた顔よ、それ」
返事を待たずに、ミスティアは串を並べ始めた。
炭火の上で、開いた八目鰻がジュウッと音を立てる。甘辛いタレが刷毛で塗られ、焦げた匂いが柳の下に広がった。隣の鍋では、根菜と川魚の汁がぐつぐつと煮えている。
「はい、八目鰻の蒲焼き。それと、狩りの前の汁物」
四人の前に、皿と椀が並んだ。
チルノはさっきまでの静けさが嘘のように、蒲焼きにかぶりついた。熱さに目を白黒させ、それでも離さない。シズクは自分の皿の蒲焼きを、ふうふうと冷ましてから少しずつ齧った。
リグルは椀の汁をすすった。根菜の甘みと、川魚の出汁。腹の底から、じわりと温かいものが広がっていく。
「……これ、いつもと違う?」
「狩りの前用よ。根菜は、走っても息が上がりにくくなるの。川魚は、怪我をした時に血が止まりやすい。どれも食材の力。私の歌じゃないわ」
ミスティアは、さらりと言った。
「八目鰻は?」
「目にいいの。夜目が利くようになるわ」
リグルは、思わず箸を止めた。
目の前の女将は、歌で人を鳥目にする夜雀だ。その夜雀が、鳥目に効く鰻を売っている。
「……それ、自分で目を悪くした上で自分で治してない?」
「商売ってそういうものでしょ」
ミスティアはにっこりと笑った。
大妖精は、汁をすすりながら、隣のチルノの横顔をそっと見ていた。蒲焼きを頬張るチルノの声は、もういつもの大きさに戻っている。
「……ねえ、リグルちゃん」
大妖精が、小さな声で言った。
「さっき、入り江の奥で見た、大きいの。私……あれは狩らない方がいいと思う」
「うん。私もそう思う」
リグルは頷いた。
「卵が孵れば、群れは深い所へ戻るはずだよ。それまで、誰も入り江に入らなければいい。……だから、やることは三つ。会館に知らせる。入り江の入口に、立ち入らないように札を立てる。それから、ミスティアの筌を引き上げる」
「筌は、岩場の側から行けば、砂浜を通らなくて済むわ」
ミスティアが言った。
「巣は砂浜の葦原の手前でしょう?筌を沈めたのは、反対側の岩場の下。水にさえ入らなければ、竿で手繰り寄せられる」
「私、会館へ行ってきます。小鈴さんに知らせて、札を貰ってきます」
大妖精が立ち上がりかけた――その時だった。
北東の岸の方から、複数の甲高い笑い声が近付いてきた。
見ると、妖精が五、六人、ひと塊になって湖の上を飛んでいく。手には、木の枝の棒や、葉っぱの舟。顔馴染みの、今日は北東岸で遊んでいた子達だ。そのまま、南へ――南の入り江の方へ飛んでいた。
「――入り江の砂浜で、水掛けっこしよう!」
先頭の妖精の声が、風に乗って聞こえてきた。
リグルは、椀を置いた。
大妖精の顔から、血の気が引いていく。チルノが、蒲焼きの串を咥えたまま立ち上がる。シズクの髭が、ピンと逆立った。
「待って――」
ミスティアが叫んだ時には、妖精達の姿はもう、南の葦原の向こうに消えていた。
水を鳴らすと、寄ってくる。わかさぎ姫の言葉が、リグルの頭の中で鳴った。
リグルは棍を掴んだ。ミスティアが笛を、大妖精が盾を、チルノが大剣を背負い直す。屋台の主が最後に一度だけ炭火に灰をかけ、四人と一匹は、南へ駆け出した。
~霧の湖 南の入り江~
―――葦原を抜けた時、浅瀬にはもう水しぶきが上がっていた。
妖精達が、膝まで水に浸かって、キャアキャアと水を掛け合っている。葉っぱの舟が波に揺られ、木の枝で水面を叩く音が、パシャン、パシャンと入り江に響いていた。
その水面の向こうで、黄色い頭が、一つ、また一つと浮かび上がっていた。
ルドロス達だ。さっき見た時よりもずっと近い。水面を滑るように、音もなく浅瀬へ寄ってくる。半ば水に沈んだ目が、水を叩く小さな手を、じっと見ていた。
「――水から上がって!早く!」
リグルが叫んだ。
妖精達がキョトンとして振り返る。その足元のすぐ先で、一頭のルドロスが、口を大きく開け――喉の奥から、水の塊が吐き出された。
塊は妖精の一人の胸にパシャリと当たり、小さな体を浅瀬に叩き倒して悲鳴が上がる。他の妖精達が、ようやく何が起きているのかに気付い、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。だが羽が濡れていて、上手く飛べない。
大妖精の姿が、フッと消えた。
――次の瞬間、大妖精は倒れた妖精の脇に居た。小さな体を両腕で抱え込み、また消える。現れたのは、砂浜の奥の岩場の上だった。妖精を岩の上に下ろし、また消える。短い距離を跳ぶような、大妖精の身のこなしだ。だが続けては跳べない。三人目を岩場に下ろしたところで、大妖精は肩で息を吐いていた。
残りの妖精達の前に、チルノが飛び込んだ。
背中の大剣を抜き、浅瀬に突き立てる。白い毛皮を巻いた柄に、氷牙竜の巨大な牙を思わせる反りの刀身。峰には、前脚の棘のような鱗がずらりと並んでいる。チルノの冷気が触れたところから、刀身に霜が厚く張っていく――氷牙大剣『最強ノ氷柱』。
チルノは、太く広い刀身の腹を盾のように構えた。
ルドロスの吐いた水の塊が、大剣の腹で弾けた。二発、三発。チルノの足が、浅瀬の砂を削って後ろへ滑る。
「――チルノちゃん、構えたまま下がって!振らないで!」
岩場から大妖精が叫ぶ。チルノは歯を食いしばって、刀身を立てたまま、一歩ずつ後ろへ下がった。その背中の後ろを、妖精達が転がるように逃げていく。
ガードを忘れるチルノが、ガードだけをしていた。
その時、入り江の奥の深みが、大きく盛り上がった。
水が、山のように持ち上がる。その山を割って、巨大な影が浅瀬へと這い上がってきた。
黄色い鱗に覆われた、大きなトカゲのような体。だが、その首から背中、後脚の付け根まで、ふわふわとした黄色い塊がびっしりと覆っていた。水をたっぷり吸った鬣が、体を揺するたびにボタボタと水を滴らせる。頭の後ろには、五本のトサカが扇のように並んでいた。太い尻尾の両脇には、短い棘が規則正しく並んでいる。砂浜の溝と刺し穴は、この尻尾の跡だったのだ。
群れの長。雌達を従える、ただ一頭の雄。
ロアルドロスは前脚で浅瀬の砂を掴み、ぐっと上体を起こした。
咆哮と共に、頭のトサカが、バッと逆立った。
リグルは、自分の立っている場所を確かめる。
背後の葦原の手前には、卵の埋まった砂の窪みがある。ここで戦えば、巣を踏む。ロアルドロスはそれを分かっていて、だからこそ巣の前に立ち塞がっている。
「ミスティア!あいつを岩場の方へ引っ張りたい!巣から離したいんだ!」
「乾いた砂の方ね?」
ミスティアが、笛を構えながら叫び返した。
「鬣は乾くと縮む。陸に長く居させれば、勝手に疲れて水に戻るわ!」
ミスティアの笛が、鳴った。
歌ではない。夜雀は、狩り場では決して歌わない。仲間まで鳥目にしてしまうからだ。笛の胴を打ち、ベルを鳴らし、尾羽を震わせて、旋律を重ねていく。低く、ゆったりとした三つの音が、入り江に響き渡った。
リグルは、胸の奥の息が、すっと深くなるのを感じた。さっきの汁物の温かさが、まだ腹の底に残っている。走れる。息が切れない。
リグルは左腕を突き出した。
「行って。狙いは頭」
籠手の上の猟虫が、羽を広げて飛び立った。黒い殻が陽を弾き、真っ直ぐにロアルドロスの頭へ向かっていく。トサカの付け根に取り付き、短い角を突き立てて、すぐに離れる。戻ってきた猟虫の背に、赤い滴が光っていた。
猟虫が籠手に戻る。赤いエキスが、リグルの腕に染み込んでいく。腕に、力がこもった。
「いいよ。次、脚」
猟虫が再び飛ぶ。今度は、砂を掴む前脚へ。戻ってきた滴は、白かった。足が、羽のように軽くなる。
リグルは棍を砂に突き立て、それを支えに、高く跳んだ。
ロアルドロスの頭の上を飛び越える。空中で体を捻り、棍の穂先で背の鬣を叩く。湿った塊を叩いた手応え。着地と同時に、岩場の方へ駆け出した。
ロアルドロスが、首を巡らせた。巣の前に居たはずの小さな虫けらが、背中を叩いて、自分の後ろへ逃げていく。
〈グルルル……!〉
巨体が、リグルを追って向きを変えた。
――掛かった。
リグルは乾いた砂の上を走った。後ろで、ロアルドロスが口を開ける気配がする。振り返らずに横へ跳ぶ。水の塊が、さっきまで居た場所の砂を抉った。続けて二発、三発。三つの水弾が、扇のように広がって砂浜に降り注ぐ。リグルは白いエキスの足で、その隙間をすり抜けた。
ロアルドロスが、体を丸めた。
次の瞬間、黄色い巨体が、樽のように転がってきた。鬣から振り飛ばされた水が、しぶきになって辺りに撒き散らされる。リグルは岩場へ向かって跳び、転がる巨体は岩の手前でようやく止まった。
ロアルドロスが起き上がる。その口から、今度は透明な何かが吐き出された。
水ではない。粘りのある、糸を引く塊だ。
――岩にこびりついていた、あれだ。
避けきれなかった。粘液がリグルの足元に落ち、靴ごと砂に貼り付けた。足が、動かない。
ロアルドロスが、上体を高く持ち上げた。のしかかってくる。
「――リグルちゃん!」
横合いから、大妖精が飛び込んできた。
腰の片手剣を抜き、リグルの足元の粘液を、刃でざくりと切り裂く。緑と黄色のまだらの鱗を張った小さな円盾に、尻尾の膨らみを模した鞘袋付きの剣。毒妖鳥の素材で作った剣――毒妖片手剣『木洩れ日の小盾』。
粘液が裂けた。リグルの足が抜ける。大妖精がリグルの手を掴み、二人で横へ転がった。
一瞬前まで二人が居た場所に、ロアルドロスの巨体が落ちてきた。ドスンと砂が跳ね上がる。
大妖精はすぐに立ち上がり、ロアルドロスの前脚に、剣を一太刀浴びせた。浅い傷だ。だが刃に仕込まれた毒が、傷口から黄色い鱗の下へ染み込んでいく。大妖精は火力を出さない。その代わり、毒で少しずつ体力を削る。
「チルノちゃん、こっち!横から!」
「分かった!」
チルノの声は、まだ小さかった。だが、足は止まらなかった。大剣を担いで走り込み、ロアルドロスの脇腹へ、溜めきらないまま刀身を振り下ろす。霜をまとった刃が、黄色い鱗を叩いた。
ミスティアの旋律が、低く、途切れずに鳴り続けている。
リグルは、ロアルドロスの背中を見た。
鬣が、変わり始めていた。
乾いた砂浜に引き出されて、照りつける日を浴び続けた鬣は、さっきまでの膨らみを失いつつあった。水を滴らせていた黄色い塊が、萎んで、縮んで、ところどころ地肌が透けて見える。ロアルドロスの動きが、目に見えて鈍くなっていた。息が荒い。口を開けても、もう水の塊が出てこない。喉の奥で、空気が詰まるような音がするだけだ。
ロアルドロスは、湖の方を見た。
それから、リグル達を見た。最後に、砂浜の奥の、葦原の手前を見た。
――巣を、見ている。
リグルは、棍を下ろした。
「……みんな、下がって。道を空けて」
「えっ、なんで?今、弱ってるじゃん!あたい、今なら――」
チルノが大剣を構え直しかけ、大妖精がチルノの前に黙って盾を差し出した。
何も言わない。ただ、チルノの顔を見ている。
チルノは、口を開けたまま、しばらく固まっていた。それから、ゆっくりと大剣を下ろした。
四人と一匹が、砂浜の脇へ退いた。湖と巣の間に、一本の道が空く。
ロアルドロスは、その道を這っていった。
縮んだ鬣を引きずり、重い体を前脚で引き寄せながら、ゆっくりと水際へ。巣の窪みの脇を通る時、一度だけ足を止め、鼻先で砂の上をなぞった。窪みの砂は、リグルが払って戻した時のまま、乱れていなかった。
ロアルドロスは、水に入った。
深みに沈んでいく黄色い背中から、ふわりと泡が立った。縮んでいた鬣が水を吸って、見る間に膨らんでいく。浅瀬で待っていたルドロス達が、長の後を追って、一頭ずつ水の底へ消えていった。
水の底から、くぐもった声が一度だけ響いた。
それきり、入り江は静かになった。
リグルは砂の上に、へたり込んだ。白いエキスの軽さが、ふっと足から抜けていく。籠手の上で、猟虫が羽を畳んだ。こいつも疲れている。リグルは懐から蜜の染みた布切れを出して、猟虫の口元へ寄せてやった。
「……お疲れ様」
ミスティアが笛を下ろし、竿を手に岩場の下へ回った。水に入らないように、慎重に竿を伸ばして、沈んだ筌を一つずつ手繰り寄せる。二つとも、まだ無事だった。中で、八目鰻がにょろりと身をくねらせている。
「……良かった。腐る前で」
大妖精は、葦原の手前の地面に、枝を何本も突き立てていた。枝と枝の間に、自分の髪のリボンを解いて結び渡す。急ごしらえの、立ち入り禁止の印だ。
岩場の上では、助けられた妖精達が、濡れた羽を乾かしながら震えていた。大妖精が戻ってきて、一人ずつ頭を撫でてやる。
「もう、ここで水を鳴らしちゃ駄目だよ。卵が孵るまでね」
妖精達は、こくこくと頷いた。
チルノは、少し離れた所で、大剣を抱えて座り込んでいた。
リグルが隣に腰を下ろすと、チルノはぼそりと言った。
「……あたい、やっつけられたのに」
「うん。やっつけられたかもね」
「じゃあ、なんで」
リグルは、葦原の手前の、リボンの張られた砂地を指差した。
「あそこに、卵があるから。あいつが居なくなったら、卵を守る存在が居なくなる。卵が孵らなかったら、来年の入り江は、ルドロスも居ない代わりに、何も居ない入り江になるよ」
チルノは、リボンの方をじっと見た。
「……蛙も?」
「蛙も、魚も、たぶん虫も。大きいのが居る湖は、小さいのもいっぱい居る湖なんだ」
チルノはしばらく黙っていた。それから、大剣の刀身の霜を、指でなぞった。
「……じゃあ、今日のは、あたいの勝ちってことにしといてあげる」
その声は、もういつもの大きさに戻っていた。
~霧の湖 東岸 屋台『夜雀亭』~
―――日が暮れると、柳の下の提灯に灯が入った。
屋台の炭火の上で、入り江から引き上げた八目鰻が、ジュウジュウと音を立てている。床几には、昼間の四人と一匹。それに、岩場で震えていた妖精達が、ちゃっかり並んで座っていた。助けてもらったお礼だと言って、どこからか摘んできた木苺を籠いっぱいに持ってきたのだ。もっとも、その木苺はほとんど自分達で食べてしまっていたが。
大妖精は、夕方のうちに中央会館まで飛んで、戻ってきていた。
「小鈴さんに全部話してきたよ。明日の朝、会館の人が正式な札を立てに来てくれるって。卵が孵るまで、入り江は立ち入り禁止。……それと」
大妖精は、懐から一枚の紙を取り出した。中央会館の印が押してある。
「慧音先生が、よく狩らずに済ませたね、って。チルノちゃんのことも、褒めてたよ」
「えっ、ほんと?」
チルノが、串を咥えたまま身を乗り出した。
「うん。守りも取っていて偉かった、って」
「あたい、ガードもできる最強だからね!」
チルノは得意げに胸を張り、その拍子に串のタレを服に垂らした。シズクが、慌てて手拭いで拭いてやる。
ミスティアが、焼き上がった蒲焼きを皆の皿に配っていく。
「はい、入り江の八目鰻。今日の分は、お代はいらないわ。筌を拾ってくれたお礼」
「ミスティアが自分で拾ったんでしょう」
「拾えるようにしてくれたお礼よ」
リグルは、熱い蒲焼きを一口齧った。甘辛いタレと、脂の乗った身。昼間の疲れが、じわりと溶けていく。籠手の上では、猟虫が蜜の布切れを抱えたまま眠っていた。
暗い湖の方から、ちゃぷん、と小さな水音がした。
提灯の灯りの届く所まで、わかさぎ姫が泳いできていた。水面から顔を出し、屋台の方を見上げている。
「あの……ありがとうございました。入り江の奥の深みに、お魚が少し戻ってきました。大きいのも、深い所で静かにしています」
「良かった。卵が孵るまで、静かにしててくれるといいね」
リグルが言うと、わかさぎ姫は小さく頷いた。ミスティアが蒲焼きを一串、そっと水際まで差し出す。わかさぎ姫は少し迷ってから、嬉しそうにそれを受け取った。
湖の北東の岸の方から、また騒ぎ声が聞こえてきた。
夜になっても遊び足りない妖精達が、蛍を追いかけ回しているのだ。笑い声と怒鳴り声と泣き声が、夜の湖の上を渡ってくる。岩場で震えていた妖精達も、木苺の籠を放り出して、その騒ぎの方へ飛んでいった。
「……もう元気になってる」
大妖精が、呆れたように笑った。
リグルは、湖の上を飛び交う小さな光を眺めた。半分は妖精の羽の光で、半分は本物の蛍だ。その中に、光蟲の淡い光もいくつか混じっていた。入り江の葦の根元に隠れていた虫達が、水しぶきの止んだ水面へ、少しずつ戻ってきているのだろう。
明日の朝、もう一度数えに来よう。リグルは、懐の帳面をそっと押さえた。
騒ぎ声の中に、ひときわ大きな声が混じった。
「――あたいったら最強ね!」
チルノがいつの間にか屋台を飛び出し、妖精達の輪の真ん中で、凍らせた蛍を自慢していた。
「チルノちゃーん!溶かしてあげてー!」
大妖精が叫びながら追いかけていく。その後ろを、シズクがテクテクと走っていく。
ミスティアが肩をすくめ、リグルは小さく笑った。
霧の湖の夜は、今日もうるさい。
『リグル・ナイトバグ』
所属:人里ギルド(湖畔組)
役職:翔蟲・猟虫の育成と供給、生態研究室の外部協力者
武器:徹甲棍『蛍火の灯』(操虫棍)
防具:徹甲装【蛍雪】
『大妖精』
所属:人里ギルド(湖畔組)
役職:チルノの付き添い
武器:毒妖片手剣『木洩れ日の小盾』(片手剣)
防具:毒妖装【若葉】
『わかさぎ姫』
所属:人里ギルド、猟団"草の根妖怪ネットワーク"
武器:人魚槍『湖ノ子守唄』(ランス)
防具:人魚装【淡水】
『ミスティア・ローレライ』
所属:人里ギルド(湖畔組)
役職:移動屋台『夜雀亭』の女将
武器:眠鳥笛『夜雀の子守唄』(狩猟笛)
防具:眠鳥装【夜雀】