東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~玄武の沢 にとりの工房~
――沢の水音に、ヤスリを掛ける音が混じっている。
『玄武の沢』の岸辺に建つ河童の工房は、初夏の昼下がりでも薄暗い。土間には油と鉄の匂いが籠もり、壁の棚には歯車や発条、何に使うのか分からない部品の木箱が天井まで積まれている。
その作業台の上で、一振りの片手剣と一枚の盾が、留め金を外されて並んでいた。
柄に巻いた白い毛は解かれて木皿に纏められ、剣身の付け根の留め具は一つずつ油に浸けてある。にとりは刃を光に翳しては目を細め、拡大鏡を当て、また翳す。それを何度も繰り返していた。技術屋の手入れは、狩人の手入れよりずっと気が長い。
土間の隅の炉では小さな火が熾きていて、鉄瓶の口から湯気が細く上がっている。沢の水音とヤスリの音と、時折パチリと鳴る炭の音。それだけが工房の中を満たしていた。
「――うん、刃の方は問題ないね。研ぎ直すだけで済むよ」
台の向こうで、にとりが拡大鏡から目を離した。油の染みた指で、刃に走る青い筋をなぞる。
――雷狼剣盾『千里白狼』。椛が年に一度、ここへ預けに来る得物だ。
「盾の方は?」
土間の隅の腰掛けで、椛が訊いた。哨戒の帰りに寄ったのか、袴の裾に沢の泥が跳ねている。開け放した戸口の外では、オトモのハツシモが日向に伏せ、時折耳だけを動かしていた。
「盾も留め具が緩んでるだけさ。……ただ、ここ」
にとりは盾を裏返し、縁の一点を指で叩いた。
盾の縁に沿って据えられた、反り返った黄色い角。その根元に、髪の毛ほどの細い罅が一筋走っている。
「春に、東の畑で雷狼竜の前脚を受けたろ?多分その時のだよ。罅が入ったまま使ってると、そのうち縁ごと持ってかれるよ」
「……直りますか」
「直すとも。……ただ、同じ角はもう無いからね。継ぐしかない」
にとりはそう言って、ふと手を止めた。
「――椛。この角、覚えてる?」
「右の角です」
答えは早かった。椛は腰掛けから立ち、作業台の角に指を伸ばす。触れる寸前で指が止まった。
「あの竜の、右の角です」
――その時、戸口の陽が翳った。
「――あやや。こんな所に記事の種が転がっているとは」
黒い翼を畳みながら、文が土間へ降りてきた。首からは相変わらず写真機を下げ、片手には手帳を開いている。日向のハツシモが一度だけ顔を上げ、相手を確かめ、また伏せる。
「……文さん、ここは工房です。取材の場所ではありません」
「いやいや、取材じゃないわよ。双剣の研ぎを頼みに来ただけ。――ついでに、春の雷狼竜の記事の続きを少々」
文は作業台を覗き込み、盾の縁の角に目を留めた。
「ほう。『千里白狼』の由来。それは是非とも聞いておきたいわねぇ。読者は英雄譚が好きだから」
「お断りします」
「まだ何も訊いてないわよ?」
「英雄譚ではないので、お断りします」
椛の声が硬くなる。にとりが鼻の頭を掻いて笑った。
「何言ってるのさ、文。あの時は三人だったじゃないか。あんたも居たろ」
文の手帳の上で、筆が止まった。
「……おっと、そうでしたね」
文は手帳を閉じ、壁にもたれる。からかう色が、その顔から少しだけ引いていた。
「あの時は、写真を一枚しか撮りませんでした」
椛は答えず、台の上の刃を見下ろした。青い雷光の筋が、薄暗い土間の中で鈍く光っている。
春の夜明け、東の畑で雷狼竜と向き合った時、この剣は妙に静かだった。同じ竜を前にして、怯えもせず、昂りもせず、ただそこに在った。
――五年前の夏。あの竜も、最期はそうだった。
~妖怪の山 北の谷 索道の終点~
――夕立が上がったばかりの谷に、濡れた土の匂いが立ち込めている。
谷底の沢から北の尾根へ、一本の鉄の綱が張り渡されていた。にとり達河童が掛けた索道で、荷籠を吊るして天狗の詰所へ食料や薪を上げる。その終点の小屋の前で、椛は足を止めた。
小屋の戸板が、縦に三筋裂けている。
軒下に吊るしてあった干し肉の籠は引き倒され、中身は一切れも残っていない。土間には荷運びの河童が落とした草鞋が片方、転がったままだ。
――十日前の夜、ここに一頭の大型モンスターが現れた。逃げ遅れた荷運びが腕を折り、近くに居た山岳哨戒班が駆け付けて追い払った。
だが、五日前にもう一度現れ、今度は椛が前に立ち、左の前脚に一太刀入れて追い払った。
――五日前の夜のことは、まだ腕が覚えている。
月の無い夜だった。小屋の軒先で干し肉の籠を漁っていた竜は、椛の松明を見ても逃げなかった。前脚の一振りで盾ごと弾き飛ばされ、起き上がりざまに斬りつけた一太刀が、たまたま左の前脚に入った。竜はそれで退いたのではない。仲間の天狗達が鳴らした鉦の音を嫌って、悠々と闇へ去っていったのだ。
追い払った、と記録には書いた。だが本当のところ、あの竜は気が済んだから帰っただけだったと椛には解っていた。
――そして昨夜、三度目が来た。
守矢ギルドの会所は今朝、討伐の判を押した。
「……戸の裂け目、前より深いね」
背後でにとりが呟いた。
背嚢から鉄の筒を覗かせたヘビィボウガンを背負い、裂けた戸板に指を差し入れている。後の河童筒とは形が違う。筒は二本きりで、継ぎ当ての甲殻もまだ少ない。
「爪の幅、前の晩と同じだ。同じ奴だよ」
「えぇ。――戻ってきたんです」
椛は戸板から目を離し、谷を見渡した。
背の低い所に負った片手剣は、工房から借りた鉄の剣だ。盾も同じく借り物で、木の枠に鉄を張っただけの物である。この頃、椛の隣を歩くガルクはまだ居ない。
「――三度目ですからねぇ」
小屋の屋根の上から、文の声が降ってきた。翼を邪魔しない背中の少し下、腰辺りに双剣を負い、首から写真機を下げている。
「二度追い払って、二度戻る。ここの干し肉の味を覚えちゃったんでしょう。困ったものです」
「文さん。下りてください。屋根が傷みます」
「はいはい」
文は軽く跳んで、音もなく土の上に降りた。
椛は腰の袋を開け、道具を一つずつ確かめる。
――[回復薬]が三本。[閃光玉]が二つ。[砥石]。それから、にとりが組んだ[シビレ罠]が一つ。
「その罠、雷光虫の電気で痺れさせる仕組みなんだ。大型でも、四つ数える間くらいは動けなくなるよ」
にとりが椛の手元を覗き込み、得意げに鼻を鳴らした。
「試すのはハンターの仕事さ。使ったら、効き具合を教えておくれよ」
「……はい。使えたら、ですが」
椛は罠を袋の一番上に入れ直し、口紐を締めた。
「――見つけて、討ちます。今夜の内に」
そう言った自分の声が、思ったより低かった。
――山岳哨戒班の仕事は、山を巡り、何も起こさせないことだ。追い払って済むなら、それに越したことはない。だが――三度目の夜に誰かが死ねば、それは見回っていた者の落ち度である。
「空から探しましょうか?私なら、一刻もかけずに谷中を見て回れるけど」
「いいえ。空は飛竜の縄張りです。……それに上から見えるのは、梢だけですから」
椛は小屋の脇の大岩に上り、谷の奥を見据えた。
――日が、尾根の向こうに沈みかけている。
夕闇の降りた谷の底で、小さな光が一つ、また一つと灯り始めた。黄色い光の粒が、沢の上を、草の葉の上を、ゆっくりと漂っていく。
雨上がりの湿った空気の中で、光は滲んで見えた。沢の淀みに落ちた光が水面に映り、二つに増えてはまた一つに戻る。夕立に打たれた草の葉の先からは、まだ雫がポタポタと垂れていて、その雫の一つ一つにも小さな光が宿っていた。
――雷光虫だ。
夏の山なら珍しくもない。だが今夜の光は、漂ってはいなかった。
「……流れてる」
にとりが、岩の下で呟いた。
光の粒は、一つ残らず同じ方へ向かっている。沢を遡り、北の斜面を這い上がり、尾根の稜線へ。まるで、見えない川が谷の底から山の上へ逆さに流れているようだった。
椛は目を凝らした。千里を見通す白狼天狗の眼が、光の帯を辿っていく。斜面の岩、ブナの梢、尾根の手前の岩棚。光の帯は、そこで稜線を越え――
――尾根の向こうは、見えない。
千里眼は遠くを見通す。だが山の裏側までは見通せない。光は稜線の陰へ吸い込まれ、それきりだった。
「あの先です」
椛は岩から跳び降りた。
「光が集まっているのは、尾根の向こう側。……行きます。足で回り込みましょう」
――斜面のブナ林に入って間もなく、椛は一本の幹の前で立ち止まった。
幹の皮が、縦に裂けている。爪の跡だ。三本の深い溝が、椛の頭より遥か上、大人二人分ほどの高さに刻まれていた。溝の底からは、まだ樹液が滲み出している。
「乾いてない。……今日の内の傷だね」
にとりが背嚢から小さな巻尺を引き出し、溝の幅を測った。
「小屋の戸の傷と同じ幅だ」
「でも、この高さ。後ろ脚で立ち上がっても届くかどうか……」
文が首を傾げる。椛は答えず、幹を見上げた。
溝は幹を斜めに上り、太い枝の分かれ目まで続いている。分かれ目の皮が、何か重い物に踏まれたように潰れていた。そこから先、斜面の上の岩棚までは、ちょうど一跳びの距離だ。
椛は幹に手を掛け、溝の縁に指を這わせた。木屑が爪の間に入る。溝の底は滑らかではなく、ささくれ立った木の繊維が一方向に毛羽立っていた。下から上へ。爪を掛けて、体を引き上げた向きだ。
幹の根元の土には、深い窪みが二つ並んでいる。後ろ脚で踏み切った跡だろう。窪みの縁の土はまだ崩れておらず、雨粒の跡も残っていない。夕立の後に付いた跡だ。
「――登ったんです。この木を足場にして、上の岩棚へ跳んだ」
「あの体で?」
「えぇ。この谷の斜面を、あの竜は平地と同じように歩きます。……左の前脚の傷も、もう治っていますね」
五日前に椛が入れた一太刀は、浅くはなかった筈だ。それでも、幹に食い込んだ三本の溝は、左右どちらも同じ深さだった。
――足元の熊笹に、白い物が引っ掛かっている。
椛は屈み、それを指先で摘まみ上げた。白い毛の束だ。獣の毛にしては太く、硬い。
――パチリ。
指先に小さな痛みが走り、椛は思わず手を引いた。毛の束が、笹の上に落ちる。
「痺れた……?」
「貸して」
にとりが手袋を嵌め、毛の束を拾い上げる。夕闇の中で、毛の先がかすかに青白く瞬いていた。
「[雷狼竜の帯電毛*1]だよ。電気を溜め込む毛でさ、抜け落ちてもしばらくは電気が残ってる。……これだけ残ってるなら、抜けてから半日も経ってない」
にとりの目が、技術屋の目になっていた。毛の束を光に翳し、指で弾いて、また小さな火花を散らす。
「すごいなぁ。これ一束で、何か一つ動かせそうだ」
「にとりさん。それは後にしてください」
「分かってるって。――文、一枚撮っとく?」
「では、遠慮なく」
文が写真機を構え、毛の束を一枚だけ写した。
――尾根の手前の岩棚で、三つ目の痕跡が待っていた。
ケルビが一頭、岩の上に横たわっている。腹から下が無い。食い千切られた肉の断面は、まだ湿っていた。椛が手の甲を当てると、ほのかに温かい。
「食べ残しですね」
文が珍しく声を潜めた。
「腹が膨れたから、残したのかしら」
「多分。……それに、静かすぎます」
椛は岩棚の上を見回した。夏の夕暮れの山なら、鳥が塒へ帰る声や、小型のモンスターが草を分ける音で、もっと賑やかな筈だった。今は、沢の音しか聞こえない。
この辺りの生き物は、皆どこかへ逃げている。森の王が通った後は、いつもそうだ。
椛は頭の中で、三つの痕跡を並べる。
幹の爪痕は、今日の昼。抜け落ちた毛は、半日以内。食べ残しの肉は、まだ温かい。雷光虫は、尾根の向こうへ流れていく。
――腹を満たして、尾根の向こうで休んでいる。光を呼び集めながら。
「回り込みます」
椛は岩棚の東の端、稜線が低く切れ込んだ鞍部を指差した。
「風は南から吹いています。尾根を真っ直ぐ越えれば、こちらの匂いが向こうへ流れる。東の鞍部から、風下に回りましょう」
「遠回りねぇ」
「えぇ。遠回りでいいんです」
椛は言い切って、歩き出した。
~北の谷 尾根の裏の窪地~
――鞍部を越え、尾根の北側を回り込むと、風が正面から顔に当たるようになった。
月が昇っている。岩と草の斜面が、青白く浮かび上がって見えた。三人は言葉を交わさず、岩陰から岩陰へ、腰を低くして進んでいく。
雷光虫の流れは、ここでは川幅を増していた。足元の草の間から、岩の割れ目から、光の粒が湧いては同じ方へ吸い込まれていく。にとりの帽子の鍔にも一匹止まり、すぐに飛び立って流れに加わった。
――途中、斜面の上からケルビの群れが駆け下りてきた。
十頭ほどの群れが、三人の脇を目もくれずに走り抜けていく。蹄が岩を叩く音が、南の谷の方へ遠ざかっていった。
「……逃げてきたんでしょうか」
文が群れの後ろ姿を見送る。
「えぇ。光が流れていく方から、逃げてきています」
光は寄っていき、獣は離れていく。その先に何が居るのか、もう誰も口にしなかった。
――前の方で、何かが鳴いた。
低く、長く尾を引く声だ。椛の耳がピクリと動き、文の足が止まる。にとりは息を飲み、背嚢の紐を握りしめていた。
「……近いわね」
文の囁きに、椛は小さく頷いた。
斜面が切れ、岩の縁の向こうに、すり鉢のような窪地が開けている。崖を背にした、丈の高い草の窪地だ。雷光虫の川は崖の縁から滝のように流れ落ち、窪地の底で大きな渦を巻いていた。
その渦の真ん中の平たい岩に――一頭の竜が寝そべっている。
ジンオウガは、山の奥深くに棲む牙竜種である。胴を覆う碧の鱗に、背と頭と前脚に立ち並ぶ黄土色の甲殻。首回りと腹には、さっき笹に引っ掛かっていたのと同じ白い毛が、月の光を吸ってふさふさと生え揃っている。額からは二本の角が、兜の飾りのように前へ伸びていた。
左の前脚に、薄桃色の引き攣れが一筋ある。五日前に椛が入れた傷だ。それがもう殆ど塞がっている。
ジンオウガは時折、その傷を舌で舐めた。それから鼻先を上げ、窪地を渡る風の匂いを嗅ぐ。崖の縁の向こうから鳥の声が細く届いても、耳を向けるだけで動こうとしない。腹が満ちているのだ。
平たい岩の足元には、骨が幾つか転がっていた。その骨の間に、千切れた縄が絡まっている。荷籠を吊るすのに河童が使う、麻と鉄線を撚り合わせた縄。
――小屋の干し肉の籠の縄。間違いなく、あの竜だ。
ジンオウガは岩の上で身を起こし、犬のように前脚を揃えて座った。
月を仰ぎ、もう一度長く鳴く。
その声に応えるように、雷光虫の渦が縮まった。光の粒が竜の背へ、甲殻の隙間へ、次々と吸い寄せられていく。背に灯る光が、ゆっくりと数を増していく。
竜は目を細め、喉の奥で低く唸り続けていた。唸りに合わせて、首回りの白い毛がわずかに膨らんでは萎む。そのたびに、毛の先で小さな火花が瞬いた。まるで、息をするたびに光を飲み込んでいるようだった。
岩陰で、文が写真機に手を伸ばしかけ――やめた。代わりに、腰の後ろの双剣の柄に指を掛け直す。にとりは岩肌に頬を押し付けるようにして、竜の背の光を数えていた。唇だけが、声を出さずに動いている。
「……溜めてる」
にとりが岩陰で呟く。
「会所の記録にありました。雷光虫を集めきると、姿が変わると」
椛は声を潜めたまま、窪地の地形を目で測る。崖、草地、窪地の口の狭い岩の間。退路は口の一つだけだ。
「――集めきる前に、叩きます」
椛は二人に振り返る。
「にとりさんは、ここから撃ってください。この岩の上なら、窪地の底まで届きますね?」
「届くよ。弾は何がいい?」
「最初は[通常弾]で。頭が下がった時のために、[徹甲榴弾]を一つ残しておいてください」
「了解」
「文さんは右から回って、後ろ脚を。私は正面に立ちます。……それから」
椛は腰の袋から[シビレ罠]を取り出した。
「窪地の口に、これを仕掛けます。逃げようとした時に、止めるために」
「あやや。用意がいいわねぇ」
文が双剣の柄に手を掛ける。にとりは岩の上に這い上がり、背嚢から鉄の筒を引き出して銃身を組み始めた。
椛は岩陰を伝って窪地の口へ下り、罠の口を開いて草の間に据えた。爪先で土を掛け、金具の光を隠す。
――その時、首筋を撫でていた風が止んだ。
椛は顔を上げた。
夜の山では、風の向きが変わる。昼の間、谷から尾根へ吹き上がっていた風は、日が落ちると冷えた空気になって、尾根から谷へ吹き下ろし始める。
――知っていた筈なのに、忘れていた。
背中から、冷たい風が吹き下ろしてくる。椛の匂いを乗せて――窪地の底へ。
――岩の上で、ジンオウガの鼻先が動いた。
ゆっくりと首が巡り、月明かりの中で、二つの目が窪地の口を捉える。草の間に屈んだ白狼天狗を、正面から。
同じ瞬間、岩の上でにとりの銃身が組み上がる音がした。
――ガチャリ。
ジンオウガが、岩から腰を上げた。
――森の王が、吼えた。
咆哮が崖に跳ね返り、窪地全体を震わせる。椛の耳の奥がキンと鳴る。
巨体が岩を蹴った。音がしない。あれほどの体が、重さを持たないかのように宙を渡り、窪地の口の手前へ、ドッと降り立つ。
――近い。肩の高さは、人の背丈の倍を優に超える。
降り立った衝撃で、足元の草から雷光虫が一斉に舞い上がった。光の粒が竜の周りを渦巻き、碧の鱗と黄土色の甲殻を下から照らし出す。月明かりの中では見えなかった傷が、いくつも浮かび上がった。古い爪痕、噛み傷、甲殻の欠け。この山で、何度も他の獣と争ってきた体だ。
竜は頭を低くし、椛を見据えたまま、ゆっくりと横へ歩き始めた。間合いを測っている。値踏みするような、静かな目だった。
椛は背の剣を抜き、盾を前に構えた。
――右の前脚が、上がる。
振り上げた前脚が一瞬、宙で止まった。肘から先の白い毛が逆立ち、隠れていた黒い爪が覗く。
椛は左へ跳んだ。
前脚がズドン――!と振り下ろされ、さっきまで椛の居た地面を叩き潰す。土と草が跳ね上がる。息を吐く間もなく、左の前脚が上がった。
――二つ目。
躱しきれない。椛は盾を斜めに構え、肩を入れた。
ガン――と鈍い音が響く。
盾ごと体が浮き、背中から草の上に落ちる。左腕が肩まで痺れていた。借り物の盾の鉄板が、真ん中から歪んでいる。
――重い。五日前とは、まるで別の竜のようだ。
「――文さん!」
「はいはい、ただいま!」
黒い影が、ジンオウガの右の後ろ脚を掠めた。文の双剣が、碧の鱗を三度、四度と裂いていく。ジンオウガが首を巡らせた時には、文はもう反対側へ抜けていた。
岩の上から、乾いた破裂音が続けざまに降ってくる。にとりの[通常弾]が、竜の肩の甲殻に弾けて火花を散らした。
にとりは岩の上で足を開き、腰だめにしたヘビィボウガンの銃床を脇腹に押し当てていた。撃つたびに反動が腰から両足へ抜け、足の裏が岩の上をジリジリと擦れて下がる。撃ち終えると銃身を下げ、腰の弾帯から次の弾を掴んで薬室に押し込む。その手つきに迷いは無かった。
文は止まらない。竜の脇腹へ寄っては斬り、尻尾の届かない所へ跳んでは、また寄る。速さだけなら、竜の首が巡るより文の方が速い。だが双剣の刃は浅く、碧の鱗に白い筋を残すばかりだった。
ジンオウガは苛立ったように身を翻し――太い尻尾が、横薙ぎに振られた。
椛は伏せた。頭の上を、甲殻の並んだ尻尾が唸りを上げて通り過ぎる。
尻尾を振り抜いた勢いのまま、ジンオウガの体が宙で縦に回った。
「――文さん、上です!」
尻尾が、真上から振り下ろされる。文が飛び退いた跡の地面が、尻尾の形に深く抉れた。
「……あやや。今のは、ちょっと危なかったわねぇ」
飄々とした軽口とは裏腹に、文の頬を汗が伝っていた。
ジンオウガが身を低くした。背の甲殻の隙間で、雷光虫の光が膨れ上がる。体を捻ると、背から青白い光の玉が二つ、尻尾の振りに乗って放たれた。
――光の玉が、こちらへ来る。
椛は右へ躱した。――躱したつもりだった。
光の玉は、宙で弧を描いて曲がった。逃げた先へ回り込んでくる。椛はとっさに盾を上げた。
――バチン……!
「っぐ……!」
盾の表で光が弾け、腕から胸へ痺れが駆け抜けた。指が強張り、剣を取り落としかける。
椛は歯を食いしばり、窪地の口へ後退った。草の間に据えた[シビレ罠]までは、あと数歩だ。
「――こっちです!」
盾で剣の柄を叩き、音を立てる。ジンオウガの目が、椛を捉えた。
前脚が地面を掻き、巨体が真っ直ぐに突っ込んでくる。椛は罠の脇へ転がった。
ジンオウガの前脚が、罠を踏んだ。
罠の金具から稲妻が迸り、竜の巨体が硬直する。四肢が突っ張り、首が仰け反ったまま動かない。
「掛かった!」
岩の上でにとりが拳を握った。
椛は剣を握り直し、竜の頭へ駆け寄ろうとして――足を止めた。
――竜の背が、光っている。
さっきまでとは比べ物にならない。甲殻の隙間に灯る光が、一つ、また一つと強まっていく。窪地に残っていた雷光虫が、渦を巻いて竜の背へ吸い込まれていく。
「――ひゅい?!光が増えてる?!」
にとりの声が裏返った。
「椛、離れて!罠の電気を吸ってる!」
罠の金具が、赤く焼けていく。
――バキン……!
鉄の留め具が弾け飛んだ。罠の残骸が、煙を上げて草の上に転がる。
――ジンオウガが、天を仰いだ。
咆哮と同時に、竜の全身から青白い光が迸った。
前を向いていた二本の角が、ゆっくりと上へ起き上がる。背の黄土色の甲殻が、鰭のように逆立って開き、その一枚一枚が青白く輝いた。首回りの白い毛が総毛立ち、前脚の白い毛の中から、隠れていた鉤爪が二本、音を立てて開く。
窪地の草が、竜を中心に放射状に薙ぎ倒された。空気がパチパチと鳴っている。
――速い。
さっきまでの動きが、まるで準備運動だったかのようだ。
ジンオウガが前脚を振り上げる。開いた鉤爪に青白い稲妻が絡みつき、叩きつけた地面から光が蛇のように走った。椛は跳んで躱し、着いた足が痺れる。次の一撃が、もう来ている。
疲れを見せない。息も乱さない。叩き、跳び、尻尾を振るい、また叩く。
「――あやや、これは……!」
文が右から斬りかかった。双剣が後ろ脚の鱗を裂く。だがジンオウガは怯みもせず、そのまま後ろへ大きく跳んだ。
――宙で、竜の体が裏返った。
光り輝く背中を下にして、巨体が落ちてくる。
「文さん、離れて!」
轟音と共に、背中から地面に叩きつけられた竜の周りで、稲妻が弾けた。窪地の草が焼け焦げ、白い煙が上がる。逃げ遅れた文の体が、稲妻に撥ね飛ばされて岩に転がった。
焦げた草の匂いが鼻を刺す。竜が落ちた地面には、背の甲殻の形のままに浅い窪みが穿たれ、その縁で土がまだ青白く燻っていた。巨体は何事も無かったかのように起き上がり、首を一つ振って、もう次の獲物を探している。
――疲れを知らない。こちらの息が先に尽きる。
「文さん!」
椛は駆け寄り、文の襟を掴んで岩陰へ引き摺り込んだ。文の髪の先が、パチパチと音を立てて逆立っている。
「……痺れて、指が動かないわ。とんでもない電撃ね」
「喋らないでください」
椛は腰の袋から[回復薬]を出し、栓を噛み切って文の口に当てた。自分の分も一息に呷る。――苦い。だが腕の痺れが、少しずつ引いていく。
――このままでは、押し切られる。
岩の上から、にとりの[通常弾]が続けざまに放たれていた。ジンオウガの頭に、一発、二発と弾ける。三発目が額の甲殻を叩いた時、竜の首がビクリと仰け反った。
椛は見た。
竜の背から、光の粒がいくつか、パッと散ったのを。散った雷光虫は二度と背に戻らず、夜の中へ逃げていく。背の光が、ほんのわずかに陰った。
――怯むたびに、光が逃げる。
さっき罠に掛かった時、光は増えた。今、頭を撃たれて怯んだ時、光は減った。あの竜の力は竜のものではない。背に集めた雷光虫から借りているのだ。
なら、その光を追い払えばいい。
「――にとりさん!」
椛は岩陰から叫んだ。
「頭です!怯ませれば、光が逃げます!」
「頭ね!――分かった、[徹甲榴弾]を込める!」
岩の上で、槓桿を引く音がした。
「文さん、立てますか」
「……誰に向かって言ってるの?」
文は口元を拭い、双剣を握り直した。
「――速さ比べなら、負けるつもりはないわ」
二人は左右へ分かれて岩陰を飛び出した。
ジンオウガの目が、二人の間で揺れる。先に動いたのは文だった。黒い影が竜の鼻先を掠め、わざと目の前を横切っていく。竜が首を巡らせて追い――右の前脚を、高く振り上げた。
――前脚を叩きつければ、頭が下がる。
前脚が地面を叩いた。稲妻が走る。文がそれを跳んで躱した瞬間、竜の頭が、椛の胸ほどの高さまで沈んでいた。
「――今です!」
岩の上で、ヘビィボウガンが火を噴いた。
弾は竜の額に突き刺さり、一拍置いて――炸裂した。
ジンオウガの頭が大きく揺れた。四肢がもつれ、巨体がよろめく。目の焦点が合っていない。
――目を回している。
椛は走った。焦げた草を蹴り、竜の前脚を足場にして跳ぶ。起き上がった二本の角が、目の前にあった。
狙うのは、右の角。にとりの弾が罅を入れた、その根元。
鉄の剣を振り下ろす。火花が散った。もう一度。腕が痺れる。もう一度――
右の角が、根元から折れ飛んだ。
ジンオウガの全身が、ガクンと大きく仰け反った。
その背から、光が噴き上がった。雷光虫が一斉に竜の背を離れ、噴水のように夜空へ散っていく。逆立っていた甲殻が閉じ、起き上がっていた残りの角が前へ倒れ、総毛立っていた白い毛が寝た。全身を包んでいた青白い光が、消えていく。
――窪地に、月の光だけが戻った。
散っていった光の粒は、窪地の上でしばらく迷うように漂い、やがて崖の縁を越えてバラバラに消えていく。空気の中のパチパチという音が止み、焦げた草の匂いと、竜の荒い息遣いだけが残った。
岩の上で、にとりがヘビィボウガンを抱えたまま、ぺたりと座り込むのが見えた。
――角を折れば、光は逃げる。
椛は草の上に着地し、肩で息をしながら、竜を見上げた。
ジンオウガは頭を振り、焦点を取り戻した目で椛を見下ろしている。額から血が流れ、片方だけになった角が、月明かりの中で鈍く光っていた。
竜は後ろへ跳んで距離を取り、その場に座り込んだ。月を仰ぎ、低く鳴く。
窪地に残っていた雷光虫が、また渦を巻き始めた。
――また、溜めるつもりだ。
今度は、椛の足が先に動いた。
溜めている間、竜は動かない。座ったまま、首を上げて鳴き続けている。椛はその懐へ飛び込み、下がった顎の先を剣の腹で殴りつけた。
竜の首が跳ね、鳴き声が途切れる。集まりかけていた光が、バラバラに散った。
「……学習が早いわねぇ、椛」
横から、文の双剣が竜の後ろ脚を裂いた。にとりの[通常弾]が、肩の甲殻を叩く。
ジンオウガが、初めて後ろへ退いた。左の前脚を、引き摺っている。五日前の傷が開いたのか、薄桃色の引き攣れから血が滲んでいた。
竜は窪地の口へ向かった。逃げ道は、そこ一つだけだ。
椛は先回りして、窪地の口に立った。歪んだ盾を前に構え、剣を低く持つ。
――ジンオウガが、足を止めた。
月明かりの中で、竜と白狼天狗が向かい合う。竜の息が荒い。口の端から涎が垂れている。それでも、その目は少しも濁っていなかった。
――この竜は、逃げ道を塞ぐ者を、正面から退けて通るつもりだ。
ジンオウガが、残った力で右の前脚を振り上げた。
椛は躱さなかった。
振り下ろされる前脚の内側へ、一歩踏み込む。盾が前脚の付け根にぶつかり、鉄の板が悲鳴を上げて裂けた。左腕が軋む。退かない。
懐の、すぐ上。折れた角の付け根の下で、白い毛に覆われた喉が、無防備に晒されていた。
椛は、鉄の剣を真っ直ぐに突き上げた。
――手応えがあった。
竜の体が、一度だけ大きく震えた。
振り上げられていた前脚から、力が抜けていく。巨体がゆっくりと傾き、椛の脇をかすめて、草の上に横たわった。
それきり、動かなかった。――その背から、最後の光が立ち昇った。
竜の体に残っていた雷光虫が、一匹残らず飛び立っていく。窪地の底から崖の縁へ、崖の縁から夜空へ。夕暮れに谷底から尾根へ流れていた光の川が、今度は尾根から空へ、逆さに流れていくようだった。
椛は、それを目で追った。千里を見通す眼が、光の帯を辿っていく。光は尾根を越え、山を越え、やがてバラバラに解けて、夏の星の間に紛れて消えた。
――見えなくなるまで、追い続けた。
光が消えた後の窪地は、驚くほど暗かった。月は崖の向こうへ傾き、焼け焦げた草の上に、竜の大きな影と、三人の小さな影が落ちている。どこかで虫が鳴き始めた。この竜が来てから、この辺りの虫は鳴くのをやめていたのだろう。
椛は剣を下ろし、そこで初めて、自分の左腕がほとんど動かないことに気が付いた。借り物の盾は、真ん中から二つに裂けていた。
岩の上から、にとりが滑り降りてきた。文は双剣を背に納め、竜の頭の傍らに立っている。首から下げた写真機に、一度だけ手を掛け――下ろした。
「……撮らないんですか」
「撮らないわよ。今日の一枚は、もう撮ったから」
文は笑ったが、声は小さかった。
椛は竜の傍らに膝を付いた。首回りの白い毛に、そっと掌を当てる。
――パチリ。
小さな痛みが、指先に走った。毛の奥に、まだ微かに電気が残っている。椛は掌を離さなかった。二度、三度と火花が弾け――やがて、何も感じなくなった。
討たれた竜は、霊にならない。
この竜の命は、どこへも行かずに、ここで終わった。
椛は剥ぎ取りの小刀を抜いた。刃を入れる前に、ほんの少しだけ目を閉じる。
黄土色の甲殻、碧の鱗、黒い鉤爪。白い帯電毛を束で。それから、草の上に転がっていた、折れた右の角を拾い上げた。
「――その角さ」
にとりが、角を覗き込んだ。
「盾の縁に据えたらどうかな。あんたの借り物の盾、もう持たないだろ。爪は刃に打って、帯電毛は柄に巻く。……雷狼竜の剣と盾、組んでみたいなぁ」
椛は、手の中の角を見下ろした。
「……私には、尾根の向こうが見えませんでした」
「でも、自分の足で見に行ったじゃないか」
にとりは何でもないことのように言った。
「千里先まで見える眼で見えない所へ、ちゃんと歩いて行った。――私はそういうハンターに、使ってほしいと思うけどね」
椛は答えなかった。ただ、角を両手で抱えたまま、長い間、竜の傍らを動かなかった。
~北の谷 索道の終点~
――夜明けの谷に、索道の鉄の綱が細く光っている。
小屋の前では、詰所から降りてきた白狼天狗が二人と、腕を吊った河童の荷運びが待っていた。十日前の夜、逃げ遅れて腕を折った荷運びだ。
「……討ったのかい」
荷運びが訊いた。椛は頷き、背の荷を下ろす。布に包んだ右の角が、荷の一番上に載っていた。
「そうかい。……助かった。助かったよ」
荷運びは吊った腕を抱えたまま、何度も頭を下げた。それから布の端から覗く黄色い角を見て、ポツリと言った。
「あいつ、綺麗な竜だったよなぁ。月夜に索道の綱の上を跳んでった時なんか、腕が折れてるのも忘れて見とれちまった」
椛は何も言わずに、もう一度だけ頷いた。
――その日の昼、椛は会所に一枚の狩猟記録を出した。
区分:討伐
担当:犬走椛、射命丸文、河城にとり
経過:尾根の裏の窪地にて発見。雷光虫を集めて姿を変える
所見:帯電した個体に[シビレ罠]を用いると、罠の電気を吸って力を増す。使用を控えること
所見:頭を撃たれて怯むたびに雷光虫が離れる。右の角を折り、集めた光を散らすことに成功
負傷:射命丸文(痺れ、軽傷)
「所見が二つとも、しくじった話と、しくじりかけた話ねぇ」
記録を覗き込んだ文が、肩を竦めた。
「次に行く者が、同じしくじりをしないためです」
椛は筆を置き、記録の『使用を控えること』の一行を、もう一度だけ読み返した。
――一月後。
玄武の沢の工房で、にとりは一振りの片手剣と一枚の盾を作業台に並べた。
刃は、竜の黒い鉤爪を削り出して打ったものだ。剣身に青い筋が走り、柄には白い帯電毛が巻いてある。盾は黄土色の甲殻を重ねて張り、その縁に沿って、あの右の角が反り返っていた。
「――どうだい。雷狼竜の剣と盾、組み上がったよ」
椛は剣を手に取った。借り物の鉄の剣より軽い。柄を握ると、帯電毛が掌にパチリと小さく応えた。
「……銘は、どうするんですか」
「それを決めるのは、使う奴さ」
椛は黙って刃を見下ろした。何も浮かばない。浮かべようとするたび、尾根の向こうへ光が消えていく夜が、目の奥に戻ってくる。
「――『千里白狼』なんて、どう?」
戸口の柱にもたれていた文が、何でもないことのように言った。
「千里を見通す白狼の剣。……ただし、見えない千里も自分の足で歩いて行く白狼の、だけどね。千里の先が見える眼より、千里を歩く足の方が、よほど惹きつける記事になるから」
「……記事にはしないでください」
「しないわよ。銘を付けるだけ」
文はそう言って笑い、それきり手帳を開かなかった。
~玄武の沢 にとりの工房~
――戸口から差し込む陽が、土間の奥まで伸びている。
「よし、っと」
にとりが最後の留め金を締め、盾を作業台の上に立てた。
縁の角の罅は、白い糸のような物で幾重にも巻かれ、その上から透明な膠で固められている。
「継ぎ目に巻いたのは、帯電毛だよ。……あの時、熊笹から拾った束の残り」
「……まだ、持っていたんですか」
「技術屋は物を捨てないのさ。些細でも少量でも、いつか使うかもしれないからね」
にとりは胸を張り、それから少しだけ照れ臭そうに鼻を掻いた。
「同じ竜の毛だ。角とも、すぐに馴染むよ」
椛は盾を受け取り、縁の継ぎ目に指を這わせた。
――パチリ。
ほんの微かな痛みが、指先に走った。椛は、少しだけ目を細めた。
「……で、文」
にとりが壁際を振り返る。文は手帳を開いたまま、一行も書いていなかった。
「書くのかい、これ」
「書きませんよ」
文は手帳を閉じ、懐に仕舞った。
「英雄譚ではないそうですからね。――私の新聞は、英雄譚しか載せない新聞ではありませんけど、今日のところは」
「……文さん」
「何?」
「研ぎの順番、私が先です」
「あやや。こういう時だけ、ちゃっかりしてるわねぇ」
文が肩を竦め、にとりが声を上げて笑った。
椛は剣を背の低い所に負い、盾を腕に通して戸口を出た。
日向で伏せていたハツシモが起き上がり、大きく伸びをする。それから当たり前のように、椛の隣に並んだ。
椛はハツシモの首筋に手を置いた。白い短毛の下に、確かな温もりがある。あの夜、竜の毛の奥で小さく弾けていた火花は、とうに消えた。けれど同じ竜の毛と甲殻で仕立てたハツシモの防具の肩には、今も竜の碧が残っている。
「……帰りましょう。日が暮れる前に、北の哨戒路を一回りします」
〈ワゥ〉
ハツシモが、短く一度だけ吠えた。
沢の上で、気の早い雷光虫が一つ、ポツリと光った。光は流れもせず、ただ水面の上をフワフワと漂っている。
椛はそれを一度だけ見て、ハツシモと一緒に、山へ続く道を歩き出した。