東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 山岳哨戒班の詰所~
――夜明け前の詰所には、炭と濡れた毛の匂いが籠もっている。
尾根の中腹に建つ山岳哨戒班の詰所は、見張り台と、板の間が一つきりの小屋である。板の間の壁には哨戒路を描いた大きな地図が貼られ、その前で夜番を終えた白狼天狗が二人、欠伸を噛み殺しながら帳面を付けていた。
土間の隅では、白いガルクが一頭、腹這いになって前脚を舐めている。ハツシモだ。夜露に濡れた背筋の灰色の差し毛が、炭の火に照らされて銀色に光っていた。
椛は帳面の最後の行に印を押し、筆を置いた。
「――北の沢、異常なし。東の尾根、ガウシカの群れが東へ移動。以上です」
「了解。……相変わらず、椛は字が細かいなぁ」
夜番の一人が帳面を受け取り、目を細める。もう一人は土間を覗き込み、ハツシモに干し肉の切れ端を投げた。ハツシモは鼻先で受け止め、一度だけ尾を振ってから、ゆっくりと噛む。
「そいつ、今日も吠えなかったな」
「えぇ。吠える用がありませんでしたから」
「部下の躾がいいこった」
白狼天狗達が笑う。椛は笑わなかったが、否定もしなかった。
――その時、戸口の外で翼の音が聞こえた。
「あやや。おはようございます。今朝も犬が犬を連れていますねぇ」
戸を開けて入ってきたのは文だった。首から写真機を下げ、片手には刷り上がったばかりの新聞の束を抱えている。夜通し山を飛び回っていたのか、頭襟の房に朝露が光っていた。
「……文さん」
「はい?」
「私は狼です。それから、ハツシモも犬ではありません。ガルクです。これで何度目ですか」
「あら、そこは怒るのね」
文は悪びれもせず新聞を一部、板の間の端に置く。一面には大きな見出しで『麓の茶屋、新作団子の行列』とある。椛は見出しから目を逸らした。
土間のハツシモが、文の方へ顔を向ける。琥珀色の目が、相手を確かめるように一度瞬き――それから、何事も無かったように前脚を舐める作業に戻った。
「相変わらず、愛想の無い部下ですねぇ」
「愛想は要りません。必要な時に、必要なことをすれば十分です」
「では、必要な時に、必要なことをした日の話でも伺いましょうか。――その子が来て、三年だったかしら」
文が手帳を開く。椛は眉を寄せ、それから小さく溜め息を吐いた。
「……記事にはしないでください」
「しないわよ。オトモとの馴れ初めより、団子の行列の方が売れますから」
椛は土間に下り、ハツシモの隣にしゃがんだ。首筋の白い短毛に手を置くと、ハツシモは目を閉じる。
――三年前の春。初めてこの背中に触れたのは、山の中の、どこにあるとも知れない里の台所だった。
~マヨヒガ~
――霧の中に、茅葺きの屋根が浮かんでいる。
案内役のガルクの尻尾を追って、どれほど山を歩いただろうか。尾根を一つ越えたはずが、気付けば谷の底にいた。沢を渡ったはずが、振り返ると沢は無かった。千里を見通す白狼天狗の眼でも、この霧の中では十歩先の木の幹を視るがやっとだった。
――そんな霧が切れた所に、古い屋敷が建っていた。
門は開け放たれ、庭には鶏が歩き回り、縁側では猫が何匹も日向ぼっこをしている。軒下では二本足で立った猫――アイルーが、籠いっぱいの薬草を仕分けていた。屋敷の裏手からは、ガルクの吠え声と、木の的を打つ乾いた音が聞こえてくる。
山の者なら、誰でも一度は話に聞く。山の中で迷い込み、二度と同じ道では辿り着けない屋敷。オトモを育てる猫の里――『マヨヒガ』だ。
――案内役のガルクが、門の手前で足を止めた。
黒い毛並みの、年季の入ったガルクだった。そのガルクは椛を一度だけ振り返り、顎で屋敷の方をしゃくると、そのまま裏手へ歩き去っていく。ここから先は自分で行け、ということらしい。
「――あ、来た来た!山の白狼天狗さんでしょ!」
縁側から明るい声が飛んできた。
帳面を小脇に抱えて縁側から飛び降りてきたのは、マヨヒガのまとめ役にして、オトモの育成を一手に担う橙だ。
そのまま椛の目の前まで駆けてきて、そこでピタリと止まった。
耳が、ほんのわずかに後ろへ倒れている。尾の先が、二本とも小さく膨らんでいた。
「……あの」
「な、なに?」
「何か、失礼をしましたか」
「し、してないよ!してないけど……天狗さん、狼でしょ。……狼の匂い、するんだもん」
橙は帳面で口元を隠し、半歩だけ下がった。椛は自分の袖を嗅いでみたが、自分の匂いは分からなかった。
「……噛みませんよ」
「知ってるよ!知ってるけど……その、体が勝手にこうなるの!」
橙は頬を膨らませ、それから気を取り直したように帳面を開いた。
「えっと、まずはご飯!決まりなの。初めて来た人には、台所でご飯を食べてもらうんだよ。それから、オトモと顔合わせ」
――台所の膳は、驚くほど旨かった。
炊きたての麦飯に、山菜の煮物と、川魚の塩焼き。茸の味噌汁。給仕をしてくれたのは前掛けをした年寄りのアイルーで、椛が箸を置くたびに黙って次の皿を寄せてくる。
漆塗りの古い椀だった。縁に小さな欠けが一つある。
椛は全部平らげ、最後に手を合わせた。椀は膳の上に伏せて返す。持ち帰ろうとは思わなかった。
台所の窓からは、裏手の訓練場が見えた。丸太を組んでモンスターの形を模した的があり、アイルー達が小さな武器でそれを叩いている。その奥の走り込みの道を、ガルク達が何頭も砂埃を上げて駆けていく。
先頭を走っているのは、ガルクではなかった。二本の尾をなびかせた、さっきの化け猫だ。走っている間だけは、どのガルクもその背中を追い越せずにいた。
「……へぇ」
台所の戸口から覗いていた橙が、小さく声を漏らした。
「何か」
「ううん。何でもない。――じゃあ、帳場に来て。もう決めてあるんだ」
~マヨヒガ 帳場~
――帳場の障子は開け放たれ、裏手の犬舎がよく見える。
文机の上には分厚い台帳が広げてある。一匹ごとに頁が割り当てられ、毛並み、目の色、耳と尻尾の形、声の高さ、性格、得意なことが、丸っこい字で書き込まれていた。だが所々、別の誰かの几帳面な字で数字が書き直されている。
橙は台帳の一頁を指で押さえ、犬舎の方を顎で示した。
「あの子だよ。一番奥の、サキガケの隣に伏せてる白いの」
犬舎の奥、日陰になった藁の上に、ひときわ大きな老いたガルク――『サキガケ』が寝そべっていた。鼻先には白い毛が混じり、片方の耳が裂けている。周りの若いガルク達は、その老いたガルクから少し離れて伏せていた。
――ただ、一頭を除いて。
白い短毛に、背筋だけ灰色の差し毛。琥珀色の目の若いガルクが、老いたガルクの脇腹にピタリと寄り添って伏せている。周りでどれほど他のガルクが吠え合っても、取っ組み合っても、その若いガルクは耳一つ動かさなかった。
「名前は『ハツシモ』。初めての霜が降りた朝に、ここの軒下で見つけたから」
「……落ち着いた子ですね」
「でしょ!慌てないの。何があっても。――ただ、ね……」
橙は台帳の性格の欄を指でなぞった。そこには『平和主義』と書いてある。
「……大型のモンスターには、絶対に噛みつかない。牙も向けない。稽古でも、丸太の竜にだって噛みつかない。やるのは、道案内とか救助の手助けだけ」
椛は黙って、台帳の字を見下ろした。
――山岳哨戒班の白狼天狗がオトモを申し込むのは珍しい事である。天狗の多くは自分の足で飛べるし、白狼天狗として自分の鼻も利く。それでも椛が申し込んだのは――去年の冬の一件があったからだ。
――雪山で遭難した山童を見つけたのは椛の千里を見通す眼だったが、動けない山童を背負って、吹雪の中を下るのに半日かかった。もう一人分の背中があれば、と何度も思った。
だが――牙を向けないガルクで、果たして山に棲む大型モンスターの前に立てるのか。
「……どうして、その子を私に?」
椛が訊くと、橙は少しだけ得意げに胸を張った。耳はまだ後ろに倒れたままだったが。
「天狗さんの匂いがね、群れの頭の匂いなの」
「……群れの頭?」
「うん。ガルクって、アイルー、猫の言うことは聞かないんだ。私の言うことも、本当は半分くらいしか聞いてない。でも、群れの頭の言うことは聞くの。――天狗さん、山でたくさんの白狼天狗をまとめて、見回りしてるでしょ。そういう匂いがする」
椛は返事に詰まった。――所属している哨戒班において椛は班長ではない。役職も無くそこそこ年数を重ねている、ただの一人の哨戒員だ。
「……私は、班をまとめる立場ではありませんが」
「立場の話じゃないよ。匂いの話」
橙はあっさりと言い切った。
「それにね。天狗さんのお仕事、狩ることじゃなくて、何も起こさせないことなんでしょ?だったら、噛みつかない子の方がいいよ。噛みつく子は、噛みつきたくて前に出ちゃうから」
椛は、もう一度犬舎を見た。
老いたガルクが、ゆっくりと頭を上げていた。裂けた耳を立て、帳場の方――椛の方を、じっと見ている。それから、隣に伏せた若いガルクの首筋を、鼻先で一度だけ押した。
ハツシモが立ち上がった。
藁を踏み、犬舎の柵の隙間を抜け、庭を横切って、真っ直ぐに帳場の縁側の下まで歩いてくる。そこで腰を下ろし、琥珀色の目で椛を見上げた。
「……サキガケが、行けって言ったんだ」
橙が、小さな声で言った。
「サキガケ、乗せる時以外は私の言うことなんか一回も聞いてくれたことないのに。……ずるいなぁ」
椛は縁側に膝を付き、手を差し出した。ハツシモは鼻先で一度だけその手の匂いを嗅ぎ、それから、指の背に額を押し付けた。
――温かかい。
橙は台所へ走っていき、木の飯椀を一つ抱えて戻ってきた。底に、小さく霜の結晶の模様が焼き付けてある。
「これ、ハツシモの椀。毎朝これにご飯を入れてあげてね。――それと、天狗さん」
「はい」
「季節ごとに最低一回、里帰りさせてね。再稽古があるし、毛並みと爪と匂いを確かめて、帳面に書くから。……それから」
橙はハツシモの頭をくしゃくしゃと撫で、少しだけ寂しそうに笑った。
「その子、噛みつかないけど弱くはないよ。走るのも、匂いを辿るのも、ここで一番だから。――使ってあげてね」
~妖怪の山 中腹の哨戒路~
――山桜の花びらが、哨戒路の石段に散っている。
マヨヒガから戻った翌朝、椛はハツシモを連れて、初めての哨戒に出た。
受け持ちは中腹の東の哨戒路だ。詰所から尾根沿いに下り、ブナの森を抜け、山桜の多い沢筋をぐるりと回って戻る。歩けば半日の道のりである。
出がけに、詰所の白狼天狗達は口々にハツシモを品定めした。噛みつかないガルクだと聞くと、一人は笑い、一人は首を傾げた。
「牙を向けない犬なんぞ、山で何の役に立つ」
「犬ではありません。ガルクです」
「同じだろう」
「……違います」
椛はそれ以上言い返さず、哨戒路へ出た。ハツシモは椛の半歩後ろを、足音も立てずについてくる。
首には革の帯が巻かれ、そこに二本の巻物が差してあった。マヨヒガの鍛冶小屋で持たせてくれた猟犬具だ。一本は匂いと気配を消す[隠れ身の巻物]。もう一本は、傷を癒す薬を染ませた[癒しの巻物*1]である。
背には、雷狼竜の余りの毛と甲殻の端材で仕立てた軽い防具を身に付けている。白い毛並みの上に、碧の鱗と黄土色の甲殻が、小さく肩を覆っている。椛の防具と同じ素材だ。マヨヒガの鍛冶小屋が、椛の申し込みの書付を見てから仕立てたのだという。
――とはいえ、どう使えばいいのか。
椛は歩きながら考えていた。巻物はハツシモが口で引き抜いて使う、と橙は言っていた。だがいつ使うのかは、ハツシモが決めるのか、自分が命じるのか。牙を向けないガルクに、山の大型の前で何をさせればいいのか。
「……ハツシモ」
呼ぶと、ハツシモは足を止めて椛を見上げた。琥珀色の目が、静かに次の言葉を待っている。
「巻物を、使ってみてください」
ハツシモは動かなかった。耳を立てたまま、椛を見上げている。
「……隠れ身の方です」
ハツシモは首を少しだけ傾げ、それから鼻先で周りの匂いを一度嗅いだ。山桜の花の匂い。ブナの若葉の匂い。遠くの沢の水の匂い。それだけだ。
ハツシモは腰を下ろし、そのまま前脚を揃えて座った。巻物には口を付けない。
――必要が無い、ということらしい。椛は思わず苦笑した。
「……そうですね。隠れる相手が居ませんしね」
ハツシモが一度だけ尾を振る。椛は再び歩き出した。
――昼までの道のりは、何事もなかった。
ブナの森の下草の中を、ケルビの親子が跳ねていく。沢の淀みでは、ガーグァが数羽、嘴を水に突っ込んで小魚を漁っていた。岩の上で日向ぼっこをしていたジャギィが一匹、椛に気付いて藪へ逃げ込む。どれも、山の春のいつもの景色だった。
椛は哨戒路の要所要所で足を止め、千里眼で遠くを見渡した。尾根の向こうの空、谷底の沢、麓の畑へ続く道。異常があれば帳面に書き、無ければ『異常なし』と書く。それが哨戒の仕事だ。
ハツシモは椛が足を止めるたびに、隣に座った。椛が帳面に何かを書いている間、鼻先を風上へ向け、ずっと匂いを嗅いでいる。時折耳がピクリと動き、また元に戻る。
椛には聞こえない何かを、聞いているのだろう。
――沢を渡る所で、哨戒路は崩れていた。
冬の雪解け水が斜面を削り、石段が一間ほど抜け落ちている。下は小石の積もった急な崖で、足を置けば石ごと流れ落ちそうだった。いつもなら、椛は崖の上を回り込む獣道を使う。四半刻の遠回りだ。
椛が獣道の方へ足を向けた時、ハツシモが椛の前に回り込み、体を低く伏せた。
背中を、こちらへ向けている。
「……乗れ、ということですか」
ハツシモは答えない。ただ、伏せたまま待っている。
椛は少しだけ迷い、それから防具の肩当てを掴んで、白い背中に跨った。思っていたより、ずっと広い背中だった。
ハツシモが立ち上がる。次の瞬間――白い体は崖の小石の上へ跳んでいた。一歩、二歩。小石が足元から崩れ落ちるより早く、ハツシモは崖を斜めに駆け抜け、対岸の石段の上に軽々と降り立った。
振り返ると、抜け落ちた石段の跡から、小石がまだパラパラと流れ落ちていた。
「……成程。これなら、哨戒路を倍は回れますね」
椛が背から降りると、ハツシモは尾を一度だけ振り、何事も無かったように元の半歩後ろへ戻った。
――沢筋の休み場で、握り飯を半分に割った時だった。ハツシモが不意に立ち上がった。
鼻先を麓の方へ向けたまま、耳を真っ直ぐに立てている。尾は下がり、動かない。椛は握り飯を置き、ハツシモの視線の先を追った。
沢筋を誰かが駆け上がってくる。
手拭いを姉さん被りにした、麓の村の女だった。着物の裾をからげ、草履の片方はどこかで脱げている。椛の姿を見つけるなり、女は膝から崩れるように座り込んだ。
「て、天狗様……!うちの子が、うちの子が居ないんです……!」
椛は女の前に膝を付き、水筒を差し出した。女は震える手でそれを受け取り、一口だけ飲んで、また話し出す。
――朝のうちに、八つになる息子を連れて、中腹の沢へワラビを摘みに来たのだという。昼前に霧が出て、気付いたら息子の姿が見えなかった。名前を呼んで探し回ったが、返事が無い。沢の奥の方からは、何か大きな獣が枝を折るような音が聞こえた、と。
「沢の奥、ですか」
「は、はい……!ワラビの採れる、斜面の上の方で……!」
椛は立ち上がり、沢の奥を見据えた。
千里眼が、沢筋を遡っていく。岩、流れ、山桜の幹、ブナの梢――。
――霧だ。
沢の奥は、白い霧に覆われていた。千里を見通す眼でも、霧の中までは見通せない。見えるのは、霧の上に突き出した梢の先だけだ。梢の下で何が起きているのかは、分からない。
「……行きます。あなたは、ここで待っていてください」
「で、でも……!」
「必ず連れて帰ります。だから、ここを動かないでください。二人とも迷子になっては、探す手が足りません」
椛がそう言うと、女は唇を噛んで頷いた。それから、懐から何かを取り出して差し出す。小さな手拭いだった。藍色の生地に、子供の名前らしい字が縫い取ってある。
「あの子のです……。汗を拭いてやった時の……」
椛は手拭いを受け取り――それから、隣に立つハツシモを見下ろした。
ハツシモは、既に手拭いの方へ鼻先を伸ばしていた。
~妖怪の山 中腹の沢 霧の中~
――霧の中は、音が近い。
沢の流れの音、滴る雫の音、自分の足音。どれもすぐ耳元で鳴っているように聞こえる。そして、十歩先の岩の形が分からない。
ハツシモが先を歩いていた。鼻先を地面すれすれに下げ、時折立ち止まっては左右に首を振り、また歩き出す。歩みは速くない。だが、一度も迷う素振りを見せない。
――最初に見つけたのは、竹籠だった。
斜面の中ほど、ワラビの群れ生えた草地の端に、小さな竹籠が転がっていた。中のワラビは半分ほど零れ、草の上に散らばっている。零れたワラビの切り口は、まだ青く湿っていた。
椛は籠を拾い上げ、周りの地面に目を凝らした。
子供の足跡がある。草履の跡だ。草地を踏み荒らしながら、斜面の上へ向かっている。爪先の跡が深く、踵の跡が浅い。
――走っている。何かから逃げたのか。
その足跡を、もう一つの跡が横切っていた。
椛は草を分け、その跡の上にしゃがみ込んだ。大きい。椛の掌を二つ並べても収まらない。五本の指の跡の先に、鋭い爪の刺さった穴が並んでいる。踏みしめた土が、深く沈んでいた。
前脚と後ろ脚の跡が、交互に並んでいる。四つ足で歩く獣だ。
「……大型モンスターですね」
ハツシモは大きな足跡の匂いを一度だけ嗅ぎ、すぐに顔を上げた。尾は下がっている。だが、毛は逆立っていない。耳も倒れていない。
怯えてはいない。ただ、覚えた――そういう顔だった。
大きな足跡は、子供の足跡とは別の向きへ続いていた。斜面を斜めに横切り、霧の奥のブナの森へ。子供の足跡は、その手前で斜面の上へ折れている。
――追われたのではない。偶然出会して、逃げたのだ。
ハツシモが子供の足跡の方へ歩き出した。椛も続こうとして――足を止めた。
風が、霧の奥から甘い匂いを運んできた。
――蜂蜜の匂いだ。
「ハツシモ。少しだけ、こちらへ」
椛は大きな足跡を追って、ブナの森の縁まで進んだ。
一本の太いブナの幹に、深い爪痕が四筋刻まれていた。椛の頭よりずっと高い所から、斜めに引き下ろしたような跡だ。爪痕の周りの樹皮には、青い毛が数本引っ掛かっていた。指で摘まむと、獣の毛にしては柔らかく、しっとりと湿っている。
幹の上の方に、洞が開いていた。洞の縁は無理やり引き剥がされたように裂け、そこから琥珀色の雫が幹を伝って垂れている。洞の周りでは、蜂が何匹も怒ったように飛び回っていた。
――蜂の巣を壊して、蜜を舐めた。青い毛、四つ足、後ろ脚で立ち上がれる体。
椛は記憶にある名前を、口の中で確かめた。
「……『青熊獣:アオアシラ』、ですね」
蜂蜜を好む青い毛の牙獣だ。山の大型の中では大人しい方だが、腹を空かせている時や、食べている最中を邪魔された時は話が違う。前脚の甲殻は生半可な刃を阻む程に硬く、爪は人の体など簡単に引き裂く。
蜂の巣の蜜は、半分も残っていなかった。食べ足りずに、次の巣を探しに行ったのだろう。
――迷子の子が居る方へ行かなければいいが。
椛はハツシモの下へ戻った。ハツシモは子供の足跡の先で座って待っていた。椛が戻ってくるのを見ると、すぐに立ち上がり、また鼻先を下げて歩き出す。
子供の足跡は、斜面を登り、大きな岩が幾つも重なった岩場へ向かっていた。途中で一度転んだのか、草の上に手を突いた跡がある。そこから先の足跡は、片方の草履の跡だけが妙に浅く、もう片方は引きずったように長く伸びていた。
――足を挫いている。
ハツシモも気付いたのか、その歩みが少しだけ速くなった。
~妖怪の山 中腹の岩場~
――岩場の上だけ、霧が薄かった。
大人の背丈ほどの岩が、幾つも折り重なって斜面に突き出している。岩と岩の間には、山桜の根が這い込み、苔が厚く貼り付いていた。霧はその岩の下の窪みに溜まり、上の方だけが白く透けている。
ハツシモが、岩場の手前で足を止めた。
鼻先を、岩の一つの根元へ向けている。尾が、ほんのわずかに一度だけ揺れた。
――あそこだ。
椛は目を凝らした。岩と岩が寄り掛かり合ってできた、狭い隙間がある。その奥の暗がりに、藍色の着物の袖が、ほんの少しだけ覗いていた。
子供は、隙間の奥で膝を抱えて丸くなっていた。顔は見えない。だが、肩が小さく震えているのは分かった。
椛が声を掛けようとした――その時、ハツシモが椛のスカートの裾を咥えて引いた。
ハツシモの目は、子供の隠れた隙間ではなく、その少し上を見ていた。
――重い鼻息が、霧の向こうから聞こえた。
岩場の一番上、子供の隠れた隙間から十歩ほど離れた岩の上に――それは居た。
後ろ脚で立ち上がり、岩の割れ目に太い前脚を突っ込んでいる。割れ目の周りでは、蜂が雲のように群がって飛び回っていた。その大きな体の背中に、蜂が何匹も止まっては刺そうとしている。だが、硬い甲殻と分厚い毛皮に阻まれて、まるで効いていない。
アオアシラは割れ目から前脚を引き抜くと、爪に絡んだ琥珀色の塊を、うっとりと目を細めて舐め取った。蜂の巣ごと齧っている。ボリボリと音を立てて噛み砕き、また前脚を割れ目へ突っ込む。
こちらには、まるで気付いていない。蜂蜜を食べるのに夢中なのだ。
――このまま食べ終えて、どこかへ行ってくれれば。
だが、割れ目の蜂の巣は大きいようだった。アオアシラが前脚を突っ込むたびに、蜜の滴る塊が次々と引き出される。食べ終えるまで、どれほどかかるか分からない。
そしてその間、子供は十歩先の隙間で、息を殺し続けなければならない。足を挫いた八つの子供が、いつまで声を殺していられるか。
椛は思考を巡らせる。
子供の隙間までは、斜面の下から回り込めば二十歩ほど。だが、岩場は見通しが良い。アオアシラが顔を上げれば、すぐに気付かれる。剣と盾を負った白狼天狗が岩場を登っていけば、匂いも音も隠しきれない。
自分が囮になって、アオアシラを引き付ける手もある。だが、食事を邪魔された牙獣は気が立つ。暴れたアオアシラの足元に、子供の隙間があるのだ。
――どうする。
椛が剣の柄に手を掛けかけた時――隣で、スルリと小さな音が聞こえた。
ハツシモが、首の革の帯から巻物を一本、口で引き抜いていた。
椛が何か言う前に、ハツシモは巻物を咥えたまま首を振り、足元の岩に叩きつけた。巻物の紙が裂け、中に染ませた薬が薄い煙になって広がる。煙はハツシモの白い毛並みを包み、ゆっくりと染み込むように消えていった。
――[隠れ身の巻物]だ。
煙が晴れた後、椛は目を疑った。
ハツシモは、すぐ目の前に座っている。見えている。それなのに――
ハツシモは一度だけ椛を見上げた。琥珀色の目が、静かに何かを告げている。
――行ってきます。
そう言われた気がした。
「……お願いします」
椛は小さく頷いた。
ハツシモが岩場を登り始めた。足音が無い。岩から岩へ、苔の上を選んで、体を低くしたまま進んでいく。白い背中が、霧の中で時折見えなくなった。
アオアシラは、まだ蜂の巣を齧っていた。
椛は岩陰に身を伏せたまま、片手を盾の革紐に、もう片方の手を背の剣の柄に掛けていた。ハツシモがあの巨体の脇を通り過ぎる間、一度でもアオアシラが顔を上げれば、すぐに飛び出せるように。
蜂の羽音が、霧の中でうるさいほどに響いている。その羽音の向こうで、ボリボリと巣を噛み砕く音が続いていた。噛む音が途切れるたびに、椛の心臓が一つ跳ねる。音が戻るたびに、息を吐く。
千里を見通す眼で、ハツシモの白い背中だけを追った。霧の中でも、この距離なら見失わない。
ハツシモが、アオアシラから七歩の所を横切る。アオアシラの耳が、ピクリと動いた。椛の手が剣の柄を握りしめる。だがアオアシラは鼻を一度鳴らしただけで、また割れ目へ前脚を突っ込んだ。
ハツシモが子供の隙間に辿り着いた。
隙間の奥で、子供がビクリと肩を震わせるのが見えた。悲鳴が上がる――椛は息を止めた。
だが、悲鳴は上がらなかった。
ハツシモは隙間の入り口に伏せ、鼻先をそっと差し入れていた。子供の顔に、鼻先を押し当てている。子供は目を見開いたまま、ハツシモの白い毛並みを見つめていた。
それから、震える手を伸ばして、ハツシモの首に抱きついた。
――怖がっていない。
椛は岩陰で、ほうっと息を吐いた。牙を向けない、何があっても慌てないガルク。その落ち着きが、子供にも伝わったのだ。
ハツシモは子供を隙間から引き出そうとした。だが、子供は這い出したところで顔を歪め、右の足首を押さえてうずくまった。挫いた足が、腫れ上がっている。あれでは、ガルクの背に跨ることもできない。
ハツシモは子供の足首の匂いを嗅ぎ、首の帯から二本目の巻物を引き抜いた。
――ハツシモが選んだのは、[癒しの巻物]だった。
ハツシモは巻物を咥え、静かに足元の苔の上に押し付けた。叩きつけはしない。音を立てないように、ゆっくりと。裂けた紙から、淡い緑色の煙が湧き上がり、子供の足元を包んでいく。薬草を煎じたような、ほろ苦い匂いが岩場に広がった。
子供の顔から、少しずつ強張りが解けていく。痛みが和らいだのだろう。子供はハツシモの首に掴まって、そろそろと立ち上がった。
ハツシモが体を低く伏せる。子供はその背中に、しがみつくように跨った。
――あとは、下りるだけだ。
その時――風向きが変わった。
霧を押しのけて、斜面の下から風が吹き上がる。[癒しの巻物]の薬の匂いが、岩場の上へ流れていく――アオアシラの鼻先へ。
アオアシラが、前脚を割れ目から引き抜いた。
鼻先を上げ、風の匂いを嗅ぐ。ゆっくりと首が巡り、岩場の下を見下ろす。薬の煙の残りが漂う辺りに――白いガルクと、その背にしがみつく子供の姿があった。
[隠れ身の巻物]の効果は、ガルク一頭分だけのものだ。背中の子供の匂いまでは、隠しきれない。
――食事を邪魔された牙獣が、吼えた。
アオアシラが岩の上で立ち上がり、両の前脚を大きく広げた。威嚇だ。体が倍にも膨れ上がって見える。
それでもハツシモは、慌てなかった。
子供を背に乗せたまま、くるりと向きを変え、岩場を斜面の下へと駆け下り始める。走りは速い。だが、背中の子供を振り落とさないよう、岩の一つ一つを選んで跳んでいる。
アオアシラが四つ足に戻り、その後を追おうと岩を蹴った。
「――こちらです!」
椛は岩陰から飛び出し、腰の剣を抜き放った。
雷狼剣盾『千里白狼』の剣で、盾の縁を思い切り叩く。ガィン、――甲高い金属音が、霧の岩場に響き渡った。
アオアシラの足が止まった。大きな音が嫌いなのだ。首をすくめるようにして耳を伏せ、それから怒りに燃えた目で、音の主――椛を睨みつける。
ハツシモと子供の背中が、霧の中へ消えていく。
――それでいい。
アオアシラが、標的を椛に変えた。
四つ足で岩場を駆け下りてくる。重い体が、岩を揺らす。椛は盾を構え、斜面の上へ半歩だけ下がった。
アオアシラが目の前で止まり、右の前脚を振り上げた。
――爪を、横から叩きつけてくる。
椛は盾を斜めに構えた。籠手のような前脚が、盾の表を叩く。雷狼竜の甲殻で張った盾は、びくともしない。だが、受けた腕に重い痺れが走った。
すぐさま、左の前脚。椛は後ろへ跳んで躱した。爪の先が、袴の裾を掠める。
アオアシラは苛立ったように後ろ脚で立ち上がり――そのまま、全身の重さを乗せて前へ倒れ込んできた。
椛は横へ転がった。アオアシラの巨体が、さっきまで椛の居た岩の上に、ドスンとのしかかる。岩の上の苔が、一面に剥がれ飛んだ。
――狩る必要は無い。ここから引き離せばいい。
椛は腰の袋を探った。指先に、小さな素焼きの壺が触れる。――[ハチミツ]だ。[回復薬]に混ぜて効き目を強くするために、いつも一つ持ち歩いている。
椛は壺の蓋を親指で弾き飛ばし、斜面の横手、ブナの森の方へ力いっぱい放り投げた。
壺が木の根に当たって割れ、琥珀色の蜜が地面にドロリと広がる。甘い匂いが霧の中に立ち昇り――アオアシラの鼻が、ヒクリと動いた。
振り上げかけていた前脚が、宙で止まる。首が、ゆっくりと匂いの方へ巡っていく。椛と、蜜の匂いと。二つを見比べるように、アオアシラの目が一度だけ揺れた。
――そして、食欲がアオアシラの中で勝った。
アオアシラは椛に背を向け、四つ足でのそのそと森の方へ歩き出した。割れた壺の前で腰を下ろし、地面に広がった蜜を、長い舌で舐め始める。
椛は剣を下ろさず、静かに後ずさった。一歩、二歩、三歩。アオアシラは振り返らない。蜜を舐め終えると、岩場の割れ目の蜂の巣のことも忘れたように、鼻を鳴らしながらブナの森の奥へと消えていった。
森の奥から、枝を折る音が遠ざかっていく。
――あのアオアシラは、今日はもう岩場へ戻ってこない。
椛は剣を背へ戻し、ようやく大きく息を吐いた。盾を受けた腕が、まだ少し痺れている。
~妖怪の山 中腹の沢 休み場~
――沢の霧は、昼過ぎには嘘のように晴れていた。
椛が休み場へ下りてくると、沢の岩の上に、母親が座り込んでいた。その膝に、子供がしがみついている。母親は子供の頭を何度も何度も撫で、子供は母親の着物に顔を埋めて泣いていた。
その傍らで、ハツシモが腹這いになっていた。
背中の防具に、子供の涙と鼻水の跡が付いている。ハツシモは気にした様子もなく、前脚に顎を乗せて、母子の様子を静かに眺めていた。椛が戻ってくるのに気付くと、耳だけをこちらへ向け、尾を一度だけ振った。
「天狗様……!」
母親が椛に気付き、子供を抱いたまま立ち上がろうとした。椛は手で制し、自分の方から歩み寄った。
「足の具合は、どうですか」
「腫れは、少し引いたみたいで……。こ、この子、白い犬が助けてくれたって……!」
子供が、母親の着物から顔を上げた。泣き腫らした目で、ハツシモを見て、それから椛を見上げる。
「……いぬ、ふわふわだった」
「犬ではありません。ガルクです」
「が、がるく……?」
「はい。ハツシモという名前です。……私の、部下です」
子供はハツシモの方を見て、小さな声で「ありがとう」と言った。ハツシモは耳を一度だけ動かした。それが返事だったのだろう。
椛は子供の足首を診た。腫れはまだ残っているが、骨は折れていない。挫いただけだ。[癒しの巻物]の薬が、痛みと腫れをいくらか和らげている。これなら、麓の村までハツシモの背で運べば十分だろう。
「ハツシモ。この子を、麓まで」
ハツシモが立ち上がり、子供の前で体を低く伏せた。子供は母親の顔を見上げ、母親が頷くのを確かめてから、おずおずとハツシモの背中に跨った。
ハツシモが歩き出す。子供を乗せた白い背中が、沢筋の道をゆっくりと下っていく。母親がその横に付き添い、椛は少し後ろから続いた。
途中で、子供が振り返った。
「ねぇ、天狗さま。がるくって、噛む?」
「……その子は、噛みません」
「じゃあ、熊が来たら、どうするの?」
椛は少し考えて、それから答えた。
「熊の前には、私が立ちます。その子は、その間にあなたを連れて逃げます。……それが、その子の仕事です」
子供は分かったような、分からないような顔をして、ハツシモの首にぎゅっと抱きついた。
~妖怪の山 山岳哨戒班の詰所~
――日が落ちた詰所に、行灯の灯りが入っている。
椛は板の間の文机に向かい、哨戒の帳面を広げた。今日の行を、一つずつ書いていく。
午前:異常なし。ケルビ・ガーグァ、例年どおり
午後:中腹の沢にて、麓の村の男児一名の迷子を確認
沢上の岩場にてアオアシラ一頭、蜂の巣を採食中。男児はその近くの岩の隙間に避難
救助:男児の発見・接近・手当て・搬送、ハツシモ(ガルク)
誘導:アオアシラを[蜂蜜]の匂いでブナの森へ。負傷なし
男児の負傷:右足首の捻挫。麓の村へ送り届ける
筆を置くと、背後から帳面を覗き込む気配があった。朝、ハツシモを品定めしていた白狼天狗の一人だ。夜番に入る前に、詰所へ顔を出したらしい。
「……救助の欄、お前じゃなくて、そいつの名前なのか」
「えぇ。見つけたのも、近付いたのも、手当てしたのも、運んだのも、ハツシモですから」
「お前は何をしてたんだ」
「アオアシラの前に立っていました」
白狼天狗は鼻を鳴らし、それから土間を振り返った。
土間の隅で、ハツシモが伏せている。椛が夕方に盛ってやった飯は、霜の模様の椀の底まで綺麗に平らげてあった。ハツシモは顎を前脚に乗せたまま、半分だけ目を開けて、白狼天狗を見返した。
「……噛まない犬でも、使いようか」
「ガルクです」
「分かった、分かった。ガルクな」
白狼天狗は苦笑し、土間へ下りた。ハツシモの前にしゃがみ込み、腰の袋から干し肉の切れ端を一つ取り出して差し出す。
ハツシモは干し肉の匂いを一度だけ嗅ぎ――それから、椛の方を見た。
「……どうぞ。貰っていいですよ」
椛が言うと、ハツシモはようやく干し肉を咥え、静かに噛み始めた。
「なんだ、お前の許しが要るのか」
「群れの頭の言うことは聞くそうです」
「……お前、いつから頭になった」
「私にも分かりません。マヨヒガの猫が、そう言っていました」
白狼天狗は声を上げて笑い、夜番の見張り台へと出ていった。
椛は帳面を閉じ、土間へ下りる。ハツシモの隣に腰を下ろすと、ハツシモは干し肉を噛みながら、椛の膝に顎を乗せてきた。
首の革の帯には、巻物が差さっていなかった。二本とも、今日使い切ったのだ。
「……明日、鍛冶小屋へ頼んでおきます。新しい巻物を」
ハツシモの尾が、一度だけ床を叩いた。
――その年の秋、ハツシモは初めての里帰りをした。
戻ってきたハツシモの首の帯に、小さな紙片が結び付けてあった。丸っこい字で文が記されている。
その下に、別の几帳面な字で、小さく一行が書き足されていた。
――『よく選んだ』
~妖怪の山 山岳哨戒班の詰所~
――東の空が、白み始めている。
「……成程。それが、最初の手柄というわけね」
文は手帳を閉じた。結局、一行も書いていない。
「三年前に助けたその男の子、今は麓の村で一番の山菜採りだそうよ。先月、取材で会ったわ。白い大きな犬に乗ったことがあると自慢していたわねぇ」
「……ガルクです」
「えぇ、えぇ。ガルクね、ガルク」
文は笑い、新聞の束を抱え直した。
「では、私はこれで。団子の行列の取材があるしね。――おや」
戸口へ向かいかけた文の足元に、ハツシモがのっそりと立っていた。琥珀色の目で、文をじっと見上げている。
文は首を傾げ、それから懐から何かを取り出した。干した小魚が一匹。ハツシモの前に、ポイと放る。
ハツシモは小魚の匂いを嗅ぎ、それから椛を振り返った。
「……どうぞ」
ハツシモは小魚を咥えた。文は、目を丸くした。
「あやや。本当に、許しを待つんですねぇ」
「部下ですから」
「相棒、とは呼ばないんですか」
「呼びません」
椛は短く答え、背の剣と盾の留め具を確かめた。
ハツシモは小魚を飲み込むと、首の帯の二本の巻物を鼻先で一度だけ確かめ、椛の半歩後ろに並んだ。
「――中腹東の哨戒路、出ます」
椛が戸を開けると、朝の冷たい風が詰所に流れ込んだ。山桜の花びらが一枚、風に乗って土間に舞い込む。
白狼天狗と白いガルクは、並んで朝の山へ出ていく。足音は、一匹分しかしなかった。