東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第三話:黒い風

~妖怪の山 天狗の里 文の家~

 

――軒先に吊るした風鈴が、一度だけ鳴った。

 

 天狗の里の外れ。杉林の斜面にへばりつくように建つ小さな家が、鴉天狗『射命丸文』の住まいである。土間には刷り損じの紙が積み上がり、板の間には現像の薬の瓶と、乾燥中写真が所狭しと吊るされていた。

 

――その奥の壁に、二振りの双剣が掛けてある。

 黒い刀身に、赤い筋が一本ずつ。柄には黒い毛が巻かれ、鍔の代わりに鴉の羽を思わせる刃の飾りが付いている。研ぎから戻ったばかりなのだろう。刃が、障子越しの朝の光を鈍く吸い込んでいた。

 文は文机に向かい、明日の新聞の割り付けをしていた。筆を走らせ、写真を並べ替え、また筆を走らせる。

 

――そんな中、戸がノックも無しに開いた。

 

「文ー。居るんでしょ。居るのは分かってるんだけどー」

 

 入ってきたのは、栗色の髪を二つに結った鴉天狗の少女だった。紫の市松模様のスカートに、首からは折り畳み式の小さな携帯電話を下げている。肩には、紫と黒の羽根で飾った弓を負っていた。

 文の同業者にしてダブルスポイラー(商売敵)、『花果子念報』の記者――鴉天狗『姫海棠はたて』だ。

 

「……はたて。勝手に入ってこないで。割り付けの途中よ」

「いいじゃん。どうせ団子の行列の記事でしょ。三日前のやつの焼き直し」

「……どうして知ってるのよ」

「念写したもん」

 

 はたては悪びれもせず、首から下げた携帯を振ってみせた。

 はたての携帯電話――の形をした写真機は、遠くを撮るための物ではない。キーワードを打ち込めば、誰かが既に撮った写真を念写して写し出す。自分の足では取材に行かず、他人が撮った写真を集めて記事を書く――それが、『念写する程度の能力』を持つはたての新聞の作り方だった。

 

「それで、何の用?私の写真を盗み見に来たなら、もう間に合ってるんだけど」

「違うってば。……あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 はたては板の間に上がり込み、勝手に座布団を引き寄せて座った。それから懐から一枚の紙を取り出し、文机の上に置く。

 ギルドの古い狩猟記録の写しだった。四年前の夏の日付と、『北東の楢の森 迅竜一頭 討伐』の文字。担当の欄には、文とはたての名前が並んでいる。

 

「今度、『花果子念報』で山のハンター特集をやるの。で、あの時の迅竜の写真、念写で探してみたんだけど」

「……えぇ」

「――一枚も出てこないの」

 

 はたては、写真機の小さな画面を文の方へ向けた。そこには何も映っていない。真っ暗な画面に、『該当なし』の文字が浮かんでいるだけだ。

 

「他の狩りの記録なら、誰かしらが撮った写真が一枚は出てくるのよ。見物してた河童とか、通りすがりの天狗とか。なのに、これだけ一枚も無いの。

――おかしいでしょ。あの夜、文、写真機ずっと首から下げてたじゃん。私、覚えてるもん。なのに、迅竜の写真が一枚も無いの。誰も撮ってないってことになるのよ?文が?あの、あんたが?」

 

 文は筆を置いた。

 しばらく、壁の双剣を見ていた。風鈴が、また一度だけ鳴る。

 四年前のあの夜のことを、文は誰にも話したことが無い。山で起きたことなら何でも書き立てる『文々。新聞』の紙面に、迅竜の二文字が載ったことは、一度も無かった。

 

「……撮らなかったわよ」

「……は?」

「一枚も、撮らなかった。だから念写しても出てこないんでしょうね」

 

 はたては、目を丸くした。それから、心底信じられないという顔で、文の顔をまじまじと覗き込む。

 

「……嘘でしょ。文が?あの文が?撮れるもの全部撮って、撮れないものまで撮ろうとする文が?」

「失礼ねぇ。撮れないものは撮らないわよ」

「じゃあ、なんで」

 

 文は答えず、立ち上がった。壁から双剣を外し、二振りを並べて文机の上に置く。黒い刀身の赤い筋が、朝の光の中で細く光った。

 

「――はたて。あの時、あなたは森の外で地図を広げていたわね」

「……そうだけど。私の仕事は、記録を並べて、あいつの出る場所を当てることだったし」

「なら、あの森の中で何があったか、全部は知らないでしょう」

 

 文は双剣の柄に巻かれた黒い毛を、指でなぞった。

 

「記事にはしないでよ」

「……それ、記者が記者に言う台詞?」

「えぇ。だから言うのよ」

 

 はたては口を尖らせたが、写真機の蓋を、パチンと閉じた。

 

――四年前の夏の終わり。山の北東の森で、天狗の伝令が三人、空から落ちた。それが切っ掛けであった。

 


~妖怪の山 北東の楢の森~

 

――楢の森は、昼でも薄暗い。

 

 山の北東の斜面を覆う楢の古木は、どれも幹が太く、枝を横へ大きく張り出している。その枝が幾重にも重なって天井を作り、夏の日差しを葉の一枚一枚で受け止めてしまう。地面に届くのは、緑に濾された薄い光だけだ。

 この森の上を、天狗の伝令は毎晩のように飛んでいた。麓の詰所から山の北の見張り台まで、尾根を越えるより森の上を突っ切る方が早いからだ。

 

――その伝令が、半月のうちに三人落ちた。

 

 幸い三人共、命は助かった。だが三人とも、片方の翼を根元近くで裂かれていた。爪で引き千切られた傷ではない。研いだ刃を一息に引いたような、真っ直ぐな切り口だった。

 落ちた伝令の一人は、詰所の寝床で、震える声でこう言ったという。

 

――『何も聞こえなかった。羽音も、唸り声も、何も。ただ、赤(・)い(・)光(・)が二つ、尾を引いて横へ流れた』

 

 残る二人も、似たようなことを口にした。一人は『月が急に陰った』と言い、もう一人は『横から風に殴られた』と言った。見たものは三者三様だ。だが三人とも、落ちる前に何かが近付く気配を感じた者は、一人も居なかった。

 天狗は、空では誰にも負けない――そう信じて疑わない山の者たちにとって、それは小さくない騒ぎだった。夜の伝令は止められ、北の見張り台との遣り取りは、遠回りの尾根伝いに改められた。

 

――大天狗達の命で調べに出されたのは、二人の鴉天狗だった。

 山で一番速い足を持つ文と、山で一番多くの記録を抱え込んでいるはたて。片や現場へ飛ぶ者、片や記録を並べる者。龍ら大天狗の言い分は、それだけで足りるというものだった。

 この頃の文は、ハンターとして登録しているものの、新聞記者としての仕事が優先であり、自分自身の武具を持っていない。

 いつもの天狗の装束に、背には工房で借りた鉄の双剣。腰より低い位置に、二振りを交差させて負っている。そして首からは、いつもの写真機を下げていた。

 

――昼の森を、文は一人で歩く。

 飛べば早い。だが、飛んでいては見えないものがある。新聞記者の性分で、文は地面に足を付けて、一本ずつ楢の幹を見て回った。

 

――最初に見付けたのは、枝だった。

 頭の少し上の高さで、楢の枝が何本も、横一文字に断ち切られている。切り口はどれも同じ高さに揃っていて、白い木肌が覗いていた。鋸で引いたのでも、斧で叩いたのでもない。一度に、滑らかに。

 文は切り口に指を当て、その高さを目で辿る。枝の切り口は、楢の木立の間を縫うように、ずっと奥まで続いていた。

 

「……あやや。これは、何かが飛んだ跡ね」

 

 飛んだ、というよりは滑った跡。翼を広げて木々の間を滑り抜けた何かが、通りすがりに枝を断っていったのだろう。その何かの翼には、刃が付いている。

 次に見付けたのは、楢の幹に突き刺さった黒い棘だった。

 

――大人の前腕ほどもある、細長い棘だ。幹の皮を割って、半分近くまで深々と刺さっている。文が両手で掴んで引いても、びくともしない。仕方なく借り物の双剣の片方で幹を削り、ようやく抜き取った。

 棘の根元には、黒い毛のようなものが絡み付いていた。指で摘まむと、毛にしては硬く、鱗にしては柔らかい。

 

――これを、何かが投げたのだろうか。

 

 いや、投げたのではない。辺りを見回すと、同じ棘が三本、四本、五本と、別々の幹に刺さっている。どれも同じ方向から、扇を開くように散っていた。何かが一度に、纏めて撃ち出したのだ。

 文はさらに奥へ進む。

 

――森が、静かだった。

 楢の森なら、夏の昼は鳥の声で煩いほどのはずだ。それが一羽も鳴いていない。木の実を拾いに来るはずの『ケルビ』の足跡も、古いものばかりで新しいものが一つも無い。森に棲む小さな者たちが、皆どこかへ逃げ出してしまったかのように。

 

――そして、楢の大木の股に、それはあった。

 

 地面から、天狗の背丈の三倍ほどの高さ。太い枝が二股に分かれたその窪みに、『ブルファンゴ』の骸が引っ掛かっている。

 腹は食い破られ、骨が覗いていた。肉は半分以上が食べ尽くされ、残った皮には蠅がたかり始めている。重い猪の体を、何かがここまで咥えて運び上げたのだ。

 幹の皮には、その何かが登った跡が残っていた。地面から股まで、深い爪痕が斜めに走っている。前脚の爪だろう。一歩ごとの間隔が、ひどく広い。

 

 文は翼を使わず、爪痕を辿るように幹を登ってみた。股の窪みには、骸の他に、黒い毛のような鱗が何枚も落ちている。ここで何かが、何度も獲物を食べ、何度も身を休めたのだ。窪みから見下ろすと、楢の枝の隙間から、森の下草がよく見える。上からは見えず、下はよく見える場所――ここは、狩人の寝床だった。

 

「……木の上で食べるのね」

 

 文は呟き、写真機を構えて骸を一枚撮った。それから幹の爪痕、断たれた枝、刺さった棘を、順番に撮っていく。シャッターの音だけが、静まり返った森にやけに大きく響いた。

 


~妖怪の山 麓の詰所~

 

――詰所の板の間で、はたては記録の束を広げていた。

 

 ギルドの狩猟記録、伝令の飛行記録、見張り台の夜番の日誌。床が見えなくなるほど並べた紙の上に、さらに山の地図を広げて、赤い墨で印を付けていく。

 文が持ち帰った写真を見せると、はたては一枚ずつ手に取り、黙って地図の横に並べた。

 

 はたては、もう三日もこの詰所から出ていない。板の間の隅には冷めた湯呑みが幾つも並び、文机の上には書き損じの紙が山を作っていた。自分の足で現場を踏むより、集めた記録を並べて答えを探す――それが、はたてのやり方だ。山の誰よりも出不精で、山の誰よりも記録を読む鴉天狗だった。

 

「……三人とも、落ちたのは月が昇った後。一番早いので、月の出から半刻」

「ほう」

「場所はここと、ここと、ここ。全部、楢の古木が固まって生えてる区画の真上」

 

 はたては、地図の三つの赤い印を筆の尻で叩いた。三つの印は、森の北東の一角に、身を寄せ合うように集まっている。

 

「で、文が見付けた枝の切り口。この高さ、楢の枝が一番混んでる高さでしょ。そこを滑り抜けてるってことは、木の間を飛ぶのに慣れてる。翼に刃があって、尻尾から棘を撃って、獲物を木の上に運んで食べる」

 

 はたては、別の記録の束から一枚を抜き出した。他所の土地のギルドから回ってきた、古い狩猟記録の写しだ。黒い竜の簡単な絵と、その特徴が箇条書きで並んでいる。

 

「――『迅竜』よ、これ。夜の森に棲む、黒い飛竜」

「……『ナルガクルガ』、ね」

「目がいいのは当たり前として、耳がすっごくいいんだって。暗い森の中で、獲物が立てる音を聞き分けて狩るの」

「ほうほう。で、弱点は?」

「……あんた、真面目に聞いてる?怒ると目の赤い光が尾を引いて、尻尾の棘が逆立つんだって。それと、尻尾を切れば、跳ぶ時の釣り合いが取れなくなるらしいわ」

 

 はたては、そこで筆を止めた。地図の上の三つの赤い印を、じっと見る。

 

「……伝令の三人、羽音を立てて飛んでたのよね。夜の静かな森の上を」

 

――文の背筋を、冷たいものが撫でた。

 森の上を飛ぶ羽音を、下の暗がりで聞いていたのだ。耳を澄ませて、待っていた。そして音のする方へ、木々の間から跳び上がった。

 だから、三人とも『何も聞こえなかった』と言った。音を立てていたのは、自分たちの方だけだったのだから。

 

「なるほど。それなら話は早いわねぇ」

 

 文は、ポンと手を打った。それから背の双剣の柄を叩き、にっこりと笑ってみせる。

 

「私が森の上を飛んで、出てきてもらいましょう。迅竜なんて大層な名前ですけど、速さ比べなら、この『射命丸文』が――幻想郷最速が負けるはずがないんだから」

「……あんたねぇ。文程じゃなくても、速い鴉天狗が三人も落ちてるんだけど」

「伝令の三人と、私とでは、速さが違うわよ。それに――」

 

 文は首から下げた写真機を、指先で持ち上げた。

 

「夜の森を駆ける黒い竜――誰も撮ったことの無い一枚よ。逃す手はないわ」

「撮る暇があったら斬りなさいよ。……私は森の外から地図見てるから。何かあっても、知らないからね」

 

 はたては口ではそう言いながら、地図の一点に、赤い丸を一つ書き足した。楢の古木が一番固まっている区画の、そのど真ん中に。

――その夜は、満月の二日前だった。月の出は、日が沈んでから一刻の後。

 

――月が、楢の梢の向こうに顔を出す。

 

 満月に二日足りない月は、それでも森の天井を銀色に縁取るには十分に明るかった。だが、その天井の下は真っ暗だ。月の光は重なった葉に遮られて、地面までは一筋も届かない。

 

 文は、その天井のすぐ上を飛んでいた。

 わざと大きく羽ばたく。梢を掠めるほど低く、ゆっくりと。羽音が夜気を叩き、バサリ、バサリと森の上に響き渡った。

 自分が餌だということは分かっている。分かっていて、文の口元には笑みが浮かんでいた。どこから来るのか。どれだけ速いのか。それを確かめるのが、楽しみで仕方がない。

 

――下は、静かだ。

 

 虫の声すら聞こえない。夏の夜の森とは思えない静けさだった。風が梢を揺らす音と、文の羽音。それだけが、この森で鳴っている音の全てだった。

 一度、森の端まで飛んで引き返す。二度目も、何も起きない。

 三度目に、はたてが赤い丸を付けた区画の真上に差し掛かった時だった。

 

――足の下の暗がりで、赤い光が二つ、灯った。

 

 灯った、と思った時にはもう、光は尾を引いて昇ってきていた。

 葉の天井を突き破って、黒い塊が跳ね上がる。助走も無しに、真下から真っ直ぐに。文の目の前で、その塊の前脚から、何かが扇のように開いた。

 

「――!」

 

 文は咄嗟に身を捻った。

 

――ヒュッ、と。

 耳元を、冷たい風が一筋通り過ぎる。遅れて、左の袖が肘のところで、ぱっくりと口を開けた。肌には届いていない。だが、あと半寸ずれていれば、袖ではなく翼の付け根だった。

 

「――っ、危な……!」

 

 黒い塊は、文を追わなかった。跳ね上がった勢いのまま宙で身を返し、また葉の天井の下へ沈んでいく。枝が折れる音が、一つだけ。それきり、森は再び黙り込んだ。

 文は迷わなかった。翼を畳み、塊が消えた穴へ、真っ逆さまに飛び込む。

 梢を抜けた先は、楢の古木に囲まれた小さな空き地だった。倒れた大木が一本、苔に覆われて横たわっている。その倒木の向こうに――それは降り立っていた。

 

――『迅竜:ナルガクルガ』

 

 ナルガクルガの黒い体がシルエットを浮かび上がらせる。

 全身を覆う鱗は細く柔らかく、まるで獣の毛並みのように、月の無い暗がりに溶けている。体はしなやかに細く、四肢は長い。猫に似た平たい顔の両側で、大きな耳が、文の方へぴたりと向けられていた。

 前脚には、さっき開いたものが畳まれている。腕に沿って生えた、黒い刃の並んだ翼――刃翼だ。その縁が、僅かな月明かりを拾って、研いだばかりの鎌のように光っている。

 背の向こうでは、長い尾がゆっくりと左右に揺れていた。その先に、黒い棘が寝かされたまま幾本も並んでいる。昼に幹から抜いた棘と、同じものだった。

 大きい。頭から尾の先までなら、天狗の背丈の七、八倍はあるだろう。だというのに、倒木の向こうに降り立った時、その足音は少しも聞こえなかった。

 

――そして、目が赤い。

 

 ナルガクルガが、身を低く沈めた。

 

〈ギャオオオォォォォッ!!〉

 

――迅竜が吼えた。

 空き地の空気が震え、楢の葉がざあっと鳴る。文は耳を塞ぎたくなるのを堪え、背の双剣を逆手に引き抜いた。工房で借りた、何の変哲もない鉄の双剣だ。

 

「さぁて。速さ比べといきましょうか」

 

 文が、地を蹴る。

 天狗の脚は、地を走っても速い。倒木を一跨ぎで越え、ナルガクルガの左の前脚へ、二振りを交差させて叩き込む。鉄の刃が、黒い鱗を斜めに滑った。手応えは浅い。毛並みのような鱗が、刃をいなしてしまう。

 構わず、もう一太刀。三太刀。

――四太刀目が、空を切った。

 

 ナルガクルガは、そこに居なかった。

 横へ跳んだのだ。身を沈める間も、脚を溜める間も無かった。その場から、まるで地面に弾かれたように、空き地の端まで一跳びで。

 文は追う。追い付く。刃を振るう。

 

――また、居ない。

 

 今度は後ろへ跳んでいた。その次は斜め前へ。文が一歩詰める間に、迅竜は三歩分を跳んでいる。速く走っているのではない。走らずに、跳んでいるのだ。

 ならば、と文は翼を広げた。地を走って追い付けないなら、上から押さえればいい。空き地の上へ舞い上がり、跳んだ先へ真上から斬り下ろす――つもりだった。

 だが、文が羽ばたいた瞬間、迅竜の大きな耳がぴくりと動く。黒い体が跳ね上がった。文が昇るより速く、文より高く。刃翼が、文の翼のすぐ下を薙いでいく。

 文は慌てて翼を畳み、地面へ転がり落ちた。切り取られた黒い羽根が数枚、宙に舞っている。

 

――飛ぶ速さなら負けない。だが、これはその速さの勝負ではない。

 

 五度目に跳んだ先で、ナルガクルガは跳ばずに振り向いた。

 右の刃翼が、横薙ぎに開く。文は双剣を交差させて受けた。鉄と刃翼がぶつかり、火花が散る。受け止めたはずの腕ごと体が持っていかれ、文は楢の幹に背中から叩き付けられた。

 息が詰まる。視界の端で、黒い影がまた跳んだ。

 今度は上だ。楢の太い枝の上に、ナルガクルガが音も無く降り立つ。枝が僅かに撓んだだけで、葉の一枚も落ちなかった。

 月を背に、黒い竜の輪郭だけが浮かび上がる。

 

――文の右手が、首の写真機に伸びた。

 

 考えるより先に、指が動いていた。枝の上の迅竜と、その背の月。――誰も撮ったことの無い一枚が、そこにある。

 写真機を目の高さに持ち上げた、その一瞬。

 枝の上で、尾が跳ね上がった。寝ていた棘が一斉に逆立ち――次の瞬間、尾が鞭のように振り抜かれる。

 

「――文ッ!!写真機から手ぇ離しなさい!このバカ!!」

 

――頭の上から、怒鳴り声が降ってきた。

 文は写真機を放り出し、地面に身を投げる。その頭上を、黒い棘が何本も唸りを上げて通り過ぎた。たん、たん、たん、と楢の幹に突き刺さる乾いた音。一本が肩を掠め、天狗の装束を裂いていく。

 顔を上げると、空き地の端の楢の枝に、はたてが居た。

 森の外で地図を見ている、と言っていた筈の鴉天狗が、そこで弓を構えている。

 

「……森の外に居るんじゃなかったの」

「うっさい!記録じゃあいつの跳ぶ先までは分かんないでしょ!」

 

 はたての手の弓は、紫と黒の羽根に飾られていた。

――念写弓『花果鏡写』。夜鳥の羽根を幾重にも重ねた弓の背には、目玉のような斑の模様が並んでいる。はたての腰の矢筒の横には、色の違う小瓶が幾つも提げられていた。

 はたては、その中から一本を抜き、矢の先に瓶の口を当てた。

 

「これでも食らいなさいっ!」

 

――弦が鳴る。

 放たれた矢は、枝の上のナルガクルガの脇腹に吸い込まれるように突き立った。矢に塗られていたのは、[麻痺ビン*1]の薬液だ。二本、三本と、同じ場所へ矢が続く。

 四本目が刺さった時、迅竜の体が、びくりと強張った。

 黒い四肢が痙攣し、枝を掴んでいた爪が外れる。ナルガクルガは枝から滑り落ち、空き地の真ん中へ、どさりと腹から落ちた。

 

「今っ!」

 

 言われるまでもなかった。

 文は跳ね起き、二振りの双剣を握り直す。息を一つ、深く吸い込み――体の奥の熱を、刃の先まで流し込んだ。鬼人化を己が身に宿す。

 痺れて動けない迅竜の、右の刃翼へ。斬る。斬る。斬る。鉄の刃が刃翼の縁を削り、黒い刃の一枚が、ぱきりと欠けて飛んだ。

 鬼人化の間は、息をするのも忘れる。腕が熱く、刃が軽く、斬れば斬るほど次の一太刀が速くなる。

 

――だが、痺れは長くは続かない。

 ナルガクルガが首を振り、四肢に力が戻る。文が飛び退くより早く、迅竜は跳んだ。真上へ。葉の天井の中へ。

 また、森が黙り込んだ。

 

「……居ないわね」

「居るわよ。上で、あんたの足音を聞いてる」

 

 はたては、腰の袋から丸い玉を一つ取り出した。そして、迅竜が消えた辺りの梢へ、思い切り放り投げる。

 [音爆弾]だった。

 

――キィィン、と。

 耳を刺す甲高い音が、葉の天井の中で弾ける。文でさえ思わず顔を顰めた。

 その音の中から、黒い影が転がり落ちてきた。大きな耳を持つ竜には、堪らない音だったのだろう。ナルガクルガは地面で頭を振り、のたうつように身を捩る。

 文が駆け寄り、双剣を振るう。はたての矢が続く。

――その時。

 

〈グルルルルルル……〉

 

 低い唸りと共に、ナルガクルガが身を起こした。

 その赤い目が、さらに赤くなる。目の光が強くなり、動くたびに、その赤が残光となって宙に尾を引いた。尾の棘が根元から逆立ち、尾そのものが、一回り太くなったように膨らんでいる。――怒り状態だ。

 

 そこからの迅竜は、まるで別の竜だった。

 跳ぶ。刃翼を振る。また跳ぶ。赤い光の筋が空き地を縦横に走り、文の目では、もう光の筋しか追えない。刃翼の一振りが、楢の若木を根元から断ち切った。

 迅竜の赤い目が、枝の上のはたてを捉えた。

 尾が振り上がる。逆立った棘が、今度ははたての居る枝へ向けて一斉に放たれた。はたては枝を蹴って跳び、隣の楢へ移る。たった今まで立っていた枝が、棘に縫い止められて裂け落ちた。

 

「ちょっと、こっち狙わないでよ!」

 

 文句を言いながらも、はたては宙で次の矢を番えている。だが、[麻痺ビン]を塗った矢は、もう効かなかった。一度痺れた体は、同じ毒に慣れてしまう。はたては舌打ちし、素の矢で迅竜の頭を狙い続けた。

 

 ナルガクルガが、高く跳んだ。

 宙で体を縦に一回転させる。長い尾が頭上から、振り下ろされる鎚のように降ってきた。

 

――ドォン!

 

 尾が、地面を叩き割った。

 文は横へ転がって避けた。だが、叩き付けの衝撃が地面を伝い、足を払われる。土くれと一緒に宙へ放り出され、背中から倒木の上に落ちた。

 頭の中で、鐘を撞いたような音が鳴っている。

 

――駄目だ。追い付けない。

 

 文は、倒木の上で、仰向けのまま息を吐いた。

 

――そして、気が付いた。

 自分が倒れて動かずにいる間、ナルガクルガは跳んでいない。

 空き地の端で、迅竜は首を巡らせていた。大きな耳が、あちらへ、こちらへと向きを変える。探しているのだ。さっきまで地を蹴り、刃を振り、息を荒くしていた獲物の音を。

 

 あの竜は――音が聞こえる方へ跳ぶ。

 ならば、こちらは音を立てずに待てばいい。跳んでくるのが分かっているなら、跳ぶ先に居る必要は無い。跳ぶ前に、身を沈める。その一拍がある。

 文は、ゆっくりと身を起こした。足音を立てないよう、倒木から地面へ降りる。両足を肩幅に開き、双剣を低く構える。

 そして――動くのを、やめた。

 

「……文?」

 

 枝の上のはたてが小さく呼ぶが、文は答えない。

 息を細くする。鼓動さえ、静まれと念じる。風が楢の葉を揺らす音だけが、空き地に満ちていく。

 枝の上で、はたてが息を呑む気配がした。はたてもまた、弓を引き絞ったまま動かない。

 ナルガクルガの耳が、ぴたりと文の方を向いた。

 赤い目が、細められる。迅竜の体が、低く、低く沈み込んでいく。

 

〈ギャアアアアオオォォォォッ!!〉

 

――黒い風が、来た。

 

 赤い光の筋が、一直線に文へ伸びる。開かれた刃翼が、月明かりを裂いて迫ってくる。

 文は、まだ動かない。

 一歩分。半歩分。刃翼の縁の、欠けた刃の一枚まで見えるところで――文は、身を沈めた。

 刃翼が、頭の上を通り過ぎる。髪が、何本か散った。

 迅竜の体が文の上を跳び越え、背後に着地する。その瞬間、迅竜が身を捻った。尾が、宙へ持ち上がる。さっき地面を叩き割った、あの一撃だ。

 文は振り向かない。音で分かる。尾が風を切って上がる音。止まる音。そして――落ちてくる音。

 文は、一歩だけ横へ跳んだ。

 鼻先を掠めて、黒い尾が地面に叩き付けられる。土が爆ぜた。その尾が、地面にめり込んで止まった、一拍。

 

――文の双剣が、尾の付け根に落ちた。

 鬼人の熱を乗せた刃が、交互に、絶え間なく、同じ一点を斬り続ける。右。左。右。左。黒い鱗が裂け、その下の肉が裂け、骨に刃が当たる硬い手応えが、腕を伝って肩まで響いた。

 迅竜が、尾を引き上げようとする。

 

――ブツリ、と。尾が、半ばから断ち切れた。

 切れた尾は地面の上で一度大きく跳ね、逆立った棘を四方へ撒き散らしながら、倒木の向こうへ転がっていった。

 

〈ギャアアアッ!?〉

 

 ナルガクルガが、甲高い悲鳴を上げてよろめく。跳ぼうとして、跳べない。尾を失った体が、宙で釣り合いを取れずに傾いていた。

 はたての矢が、迅竜の首の付け根に突き立つ。文の双剣が、もう一度。もう一度。

 それでも、迅竜は跳ぼうとした。傾いた体を無理やり起こし、最後の力で文へ向けて刃翼を振るう。文は、もう慌てなかった。振り抜かれる刃翼の下へ潜り込み、すれ違いざまに、首の付け根へ二振りを揃えて突き立てる。

 迅竜の赤い目から、光の尾が消えた。

 

――黒い風は、楢の根元で止まった。

 文は、その場に尻もちをついた。

 双剣を握ったままの指が、開かない。鬼人の熱が引いていくにつれて、肩の傷がずきずきと疼き始めた。太腿も、背中も、倒木に叩き付けられたところが遅れて熱を持っている。

 枝が揺れて、はたてが降りてきた。弓を肩に掛け直し、尻もちをついた文の前にしゃがみ込む。

 

「……生きてる?」

「えぇ、なんとか。……あやや、装束がボロボロね」

「装束(服)の心配してる場合?」

 

 はたては腰の袋から[回復薬]の瓶を取り出し、文の手に押し付けた。それから、言うのを躊躇うように一度口を開き、閉じ、もう一度開く。

 

「……あんたさ。さっき、写真撮ろうとしたでしょ」

「……えぇ、撮ろうとしたわ」

「あと少し遅かったら、あんたが四(・)人(・)目(・)だったのよ」

 

 文はすぐには答えなかった。回復薬を一息に飲み干し、口元を袖で拭う。裂けた袖の端が、頬に当たってチクチクと微かに痛い。

 

「……そうね。助かったわ、はたて」

 

 いつもの飄々とした軽口は、一つも付いてこなかった。はたては、二度、瞬きをした。それからふいとそっぽを向き、『別に』とだけ言った。

 文は、空になった瓶を握ったまま、楢の根元の黒い体を見ていた。伝令の三人は、この竜の羽音一つ聞かずに落ちた。自分も、はたての声が無ければ、四人目として同じように落ちていただろう。速さで負けたことより、それが分かってしまったことの方が、ずっと堪えた。

 

――月が、梢の真上まで昇っていた。

 

 尾を失ったナルガクルガの体は、楢の根元に横たわっている。赤かった目は、今はただの黒い玉になっていた。あれほど速く、あれほど静かだった竜は、倒れてしまえば思ったよりもずっと細く、小さかった。

 文は剥ぎ取りの小刀を押し当て、前脚の刃翼を付け根から外していく。[迅竜の刃翼]は、外してみると、手に持った刃物そのものだった。縁に指を沿わせるだけで、皮が薄く切れそうになる。

 背からは、毛並みのような鱗を一掴み。[迅竜の黒毛*2]は、月明かりの下でも光を返さず、文の掌の上で、そこだけ暗がりを切り取ったように黒い。

 はたては、倒木の向こうまで転がった尾を引きずってきた。逆立ったままの棘に手を刺さないよう、恐る恐る持ち上げて、その重さに顔をしかめる。

 

「うわ、重っ。……こんなの振り回して、よくあんなに跳べるわね」

「だから、切ったら跳べなくなったんでしょうねぇ」

 

 剥ぎ取りを終えると、文は空き地を見回した。

 地面には、尾に叩き割られた穴が二つ。楢の幹という幹に、黒い棘が刺さっている。断たれた若木、削られた苔、蹴られて抉れた土。そして、その中に転がった、小さな写真機。

 文は写真機を拾い上げ、土を払った。壊れてはいない。レンズにも、罅一つ入っていなかった。

 首に掛け直し、空き地の真ん中の、黒い亡骸に向けて構える。

 

――だが、シャッターは切られなかった。

 しばらくそのまま動かずにいた文は、やがて、写真機をゆっくりと胸元まで下ろした。

 

「……撮らないの?誰も撮ったことの無い一枚なんでしょ」

「えぇ。だけど――私が撮りたかったのは、これじゃないから」

 

 文は、亡骸から目を逸らさずに言った。

 

「私が撮りたかったのは、夜の森を駆ける黒い風。でも私は、あの風に一度も追い付けなかった。写真機を構えた瞬間に、落とされかけた。最後は、動かずに待っていただけよ」

「……それで勝ったんでしょ」

「勝ちはしたわ。――でも、速さ比べには負けた」

 

 文は、少しだけ笑った。それから、写真機の蓋を閉じる。

 

「倒れた竜を撮って、あの黒い風を撮ったような顔をするのは、記者の仕事じゃないわ。――撮れなかったものは、撮れなかった」

 

 はたては、何も言わなかった。

 ただ、自分の首に下げた折り畳みの写真機に、一度だけ手を伸ばして――そのまま、開かずに手を下ろした。

 

――夜が白み始める頃、二人は森を出た。

 

 文の背には、刃翼と黒毛を包んだ布袋。はたての肩には、断ち切った尾が担がれている。二人とも、夜通しの狩りで足取りが重い。

 楢の森の外れに差し掛かった時、背後の梢で、小さな鳥が一羽鳴いた。続いて、もう一羽。やがて森のあちこちから、囀りが重なって聞こえ始める。

 何日も黙り込んでいた森が、朝と一緒に、ようやく声を取り戻していた。

 

「……鳥、戻ってきたわね」

「えぇ。明日からは、伝令もまた森の上を飛べるわね」

 

 文は振り返らずに言った。はたても振り返らなかった。ただ背中で囀りを聞きながら、麓の詰所への道を黙って下っていった。

 


~妖怪の山 河童の工房~

 

――それから半月の後。

 

 河童の工房の作業台の上に、二振りの双剣が並んでいた。

 一方は、刃こぼれだらけになった鉄の双剣。もう一方は、研ぎ上がったばかりの、黒い双剣だ。

 黒い双剣の刃は、迅竜の刃翼を削り出して打ち直したものだ。にとりに言わせれば、『あんなに素直に刃の形をしてる素材は珍しい』らしい。研ぎ澄ますというより、元からある刃を整えてやるだけで済んだ、と。

 

「……うわ。こっちの借り物、刃が鍋の底みたいになってるじゃん」

 

 工房の主、河童のにとりが、鉄の双剣を照明に翳して嘆いた。

 

「素直に返しに来ただけ、褒めてほしいものですねぇ」

「褒めないよ。研ぎ代は別だからね。……で、こっちがあんたのね」

 

 にとりは、黒い双剣を文の前に押し出した。

 迅竜の刃翼をそのまま刃に打ち直した、黒い刀身。その一振りずつに、赤い筋が一本、根元から切っ先まで通っている。柄には迅竜の黒毛が巻かれ、鍔の代わりに、鴉の羽を思わせる刃の飾りが付いていた。

 

「その赤い筋、頼んだ覚えは無いんですが」

「あんたが頼んだんじゃないよ。はたてがさ。あいつの目、怒ると赤い光が尾を引くんでしょ。あの色を入れてくれって」

「……はたてが、ですか」

「そ。あと、余った黒毛で装束も仕立てとくよ。今のボロボロの天狗装束じゃ、次は袖だけじゃ済まないだろうし」

「おや、気が利きますねぇ」

「研ぎ代と一緒に請求するからね」

 

 にとりはそう言って、作業台の隅に積まれた黒毛の束を叩いた。後に迅竜装【烏羽】と呼ばれる、文の狩りの装束の、それが始まりだった。

 

 文は、双剣を手に取った。

 軽い。借り物の鉄の双剣の、半分も無いように感じる。軽く振ると、刃が風を切る音すら、ほとんどしなかった。

 

「……音がしませんね」

「そりゃ、音を立てない竜の翼だもん。で、銘はどうする?」

 

 文は、しばらく黒い刀身を眺めていた。それから、いつもの軽い口調で答える。

 

「――『文々旋羽』。ということで」

 

――疾風双刃『文々旋羽』。音も無く夜の森を駆けた黒い風の刃翼は、以来、山で一番速い鴉天狗の背にある。

 

「……自分の新聞の名前、入れただけじゃん」

「おっと、旋羽の方はちゃんと考えましたよ。あの竜は、羽ばたかずに旋っていましたからね」

 

 にとりは肩を竦めたが、帳面の銘の欄に、その通りに書き込んだ。

 


~妖怪の山 天狗の里 文の家~

 

――風鈴が、また一度だけ鳴った。

 

 話し終えると、文は文机の上の双剣を、二振り揃えて壁に掛け直した。黒い刀身の赤い筋が、障子越しの光の中で、細く光っている。

 はたては、座布団の上で、膝を抱えていた。

 いつもなら、人の話の途中で三回は茶々を入れる。そのはたてが、最後まで一度も口を挟まなかった。

 しばらく黙っていたが、やがて首から下げた写真機を開き、指先で何かを打ち込む。『迅竜』『北東の森』『夜』。それから、画面を覗き込んだ。

 真っ暗な画面に、やはり『該当なし』の文字だけが浮かんでいた。

 

「……そっか。そりゃ、出てこないわよね」

 

 はたての写真機が写し出せるのは、誰かが撮った写真だけだ。誰も撮らなかったものは、どれだけ言葉を打ち込んでも、この画面には映らない。

 あの夜の黒い風は、どの写真にも残っていない。残っているのは――

 

「……ずるいなぁ。文の頭の中にしか無いんじゃ、私の写真機じゃ絶対に写せないじゃん」

「あやや。それはご愁傷様」

「……でもさ」

 

 はたては、写真機の蓋を閉じた。そして、自分の膝の上に置いた。

 

「あの夜、私も居たのよね。枝の上から、全部見てた。……念写じゃなくて、自分の目で」

 

 文は、筆を取りかけた手を止めた。

 枝の上から全部見ていた――はたての言う通りだった。あの夜、文が見ていたのは迅竜だけだ。だが、はたては、迅竜と、それに斬り掛かる文と、写真機を構えて落とされかけた文と、動くのをやめた文を、全部見ていた。

 文の頭の中にしか無い夜と、はたての目の中にしか無い夜。同じ夜でも、それは別々の夜だった。

 

「特集の迅竜の欄、写真無しで書くわ。私が見たまんま」

「……記事にはしないでと、言ったわよね」

「あんたの話は書かないわよ。私が見た話を書くの。文句ある?」

 

 はたては、つんと顔を上げてみせる。

 文は一瞬だけ目を丸くして――それから、可笑しそうに肩を揺らした。

 

「おっと、これは一本取られたわねぇ。……それならどうぞご自由に。ただし、締め切りは守ってね」

「あんたにだけは言われたくないんだけど!」

 

 はたては立ち上がり、来た時と同じように、挨拶も無しに戸を開けた。そして扉の向こうで一度だけ振り返り、壁の双剣をちらりと見てから、風のように飛び去っていった。

 文は、開け放しの戸をしばらく眺めていた。それから文机に向き直り、団子の行列の写真を一枚、割り付けの端へずらす。空いた所に、何を置くともなく。

 軒先で、風鈴がもう一度だけ鳴った。

 

*1:
弓の矢に塗って使う瓶の一つ。当たったモンスターの体を痺れさせ、しばらく動けなくする。

*2:
迅竜の体を覆う、毛のように細く柔らかい鱗。軽くしなやかで、武具の素材になる。




『姫海棠はたて』
所属:守矢ギルド
役職:『花果子念報』記者
武器:念写弓『花果鏡写』(弓)
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