東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 守矢神社~
――守矢神社の台所に、味噌汁の湯気が立ち昇る。
山の朝は早い。社殿の屋根に掛かった霧がまだ晴れきらないうちから、台所の竈にはもう火が入っている。土間の格子窓から差し込む光は青白く、鍋の湯気の向こうで、白い割烹着の背中がせわしなく行ったり来たりしていた。
守矢神社の風祝『東風谷早苗』は、包丁を握ったまま鍋の中を覗き込み、それから慌てて俎板に戻る。
「ソヨ、そっちのお鍋見てて!噴いたら火を弱めてね!」
「見てるニャ。もう噴いてるニャ」
「えっ!?」
竈の脇の踏み台の上で、銀灰に黒い縞のアイルーが前脚で鍋の蓋をずらしていた。早苗のオトモ、『ソヨ』だ。頭にちょこんと載せた山伏の頭襟のような飾りが、湯気に煽られて揺れている。
ソヨは慣れた手付きで竈の薪を一本抜き取り、灰の中に寝かせた。火が落ち着き、鍋の泡がスウッと引いていく。
「……ありがとう。助かったわ」
「早苗は、いつも一度に三つのことをやろうとするニャ」
「だって、朝は忙しいんだもの」
早苗は口を尖らせて俎板の上の大根を刻み直す。トントントン、と小気味のいい音が台所に響く。
ソヨは踏み台から降りると、板の間の隅へ歩いていった。そこには、朝露に濡れた薬草が小さな山になっている。夜明け前に、ソヨが神社の裏の斜面で摘んできたものだ。
ソヨは薬草を一本ずつ手に取り、匂いを嗅ぎ、葉の裏を確かめてから、足元の平たい器に並べていく。
器は、奇妙な物だった。
大人の両手を広げたほどの大きさの、浅く丸い皿。色は青みを帯びた灰色で、表面には細かい筋が渦を巻くように走っている。陶器でも木でもない。叩けばコツンと硬い音がするが、骨のようにも、石のようにも見える。縁の一か所が、大きく欠けていた。
――その皿の縁を、小さな指がコツンと叩いた。
「――おはよ、ソヨ。今朝も精が出るねぇ」
いつの間にか、板の間の上がり框に小柄な少女が腰掛けていた。
金色の短い髪に、目玉が二つ付いた奇妙な帽子。青と白の、膝の下まであるワンピースの裾には、鳥獣戯画のような蛙の絵があちこちに描かれている。見た目だけなら、早苗よりずっと幼い。だが、その丸い目の奥には、何千年も山を見下ろしてきた者だけが持つ、底の知れない静けさがあった。
守矢神社のもう一柱の神にして、守矢ギルドの地質顧問――土着神の頂点『洩矢諏訪子』だ。
「おはようございますニャ、諏訪子様」
「うん、おはよう。……ところで、ソヨ。これ見て」
諏訪子は、両手で包むように握っていた何かを、そっとソヨの前に差し出した。
手が開く――
――親指ほどの小さな雨蛙が、ソヨの鼻先で、ケロッと喉を膨らませた。
〈ニ゛ャッ!?〉
瞬間、ソヨの尻尾が根元から先までブワリと膨らんだ。
飛び退いた拍子に薬草の山が崩れ、ソヨ本人は土間まで転がり落ちる。雨蛙はピョン、と一跳ねで板の間を横切り、開け放した戸口から外へ逃げていった。
「――諏訪子様!朝から何してるんですか!」
「あはは。ごめんごめん。……まだ駄目かあ、蛙」
早苗が包丁を握ったまま振り返り、諏訪子はケラケラと笑って足をぶらつかせる。
土間で四つ足を踏ん張ったまま、ソヨはまだ全身の毛を逆立てていた。緑の目が、まん丸に見開かれている。
ソヨは、粘り強いアイルーだ。大型の竜に踏まれても、崖から転がり落ちても、すぐに起き上がってくる。そのソヨが、親指ほどの雨蛙一匹にだけは、こうして毛を逆立てる。山の誰に話しても笑われるが、早苗だけは笑えない。その理由を、一番よく知っているからだ。
「……蛙は、ボクの知らないところで跳ぶから嫌いニャ」
「蛇と蛙の神様の神社に住んでて、それはないんじゃないの?」
「諏訪子様は跳ばないニャ」
「跳ぶよ。跳ぼうと思えば」
諏訪子は、上がり框からひょいと飛び降りた。それから、崩れた薬草の山の中から、皿を拾い上げる。
指先で、欠けた縁をなぞった。
「ま、無理もないか。――二年前、この皿の持ち主に一番ひどい目に遭わされたのは、ソヨだもんねぇ」
「……一番ひどい目に遭ったのは、私だと思うんですけど」
早苗が、包丁を置いて言い返す。
その時――台所の奥の襖が開いた。
「――早苗が一人で飛び出したからだろう。だから一番ひどい目に遭った。そしてソヨが一番ひどい目に遭わされた。順番を間違えるな」
――低く、よく通る声だった。
襖の向こうから現れたのは、注連縄の輪を思わせる太い輪を背に負い、紫がかった青い髪を朝の光に揺らしている。守矢神社の
神奈子は湯気の立つ鍋をちらりと覗き、それから早苗の顔を見た。
「朝餉はまだか」
「……もうすぐですよ、神奈子様」
早苗は小さく肩を竦め、大根を鍋に放り込んだ。
ソヨが、ようやく尻尾の毛を寝かせて、板の間へ這い上がってくる。諏訪子から皿を受け取ると、ソヨは何も言わずに、それをいつもの場所へ戻した。崩れた薬草を、また一本ずつ並べ直していく。
その背中を見ながら、早苗は思い出していた。
――あの皿が、まだ持ち主の頭の上にあった日のことを。
――二年前の初夏。早苗がハンターになって、まだ半年も経たない頃のことだった。
~マヨヒガ~
――マヨヒガへの道は、猫が知っている。
夜明け前、守矢神社の鳥居の下に、一匹の三毛猫が座っていた。早苗が石段を下りていくと、猫はチラリと振り返り、尻尾を一度だけ振って山道へ歩き出す。付いて来い、ということらしい。
早苗は、背に負った鉄の操虫棍の位置を直して、その後を追った。工房で誂えてもらったばかりの、何の変哲もない操虫棍だ。腕には、まだ名も付けていない猟虫が一匹、大人しく留まっている。
――守矢ギルドに登録して、半年になる。
早苗は、その半年の殆どを一人で狩りに出ていた。小型モンスターの撃退、薬草の採取、迷子の探索。どれも一人でこなせた。――こなせてしまった。だから次も一人で行き、その次も一人で行った。
先月、崖の下で足を挫いて半日動けなくなった時も、早苗は誰も呼ばなかった。自力で這い上がり、何事もなかった顔で会所に戻って報告を済ませた。
そして――その夜、神奈子に呼ばれた。
――『一人で行くな。せめてオトモを連れていけ』
それだけだった。叱られたわけではない。だが早苗には、それが一番堪えた。
――尤も、オトモと聞いた事で、堪えていたのは半日程で済んだのだが。
霧の中を、三毛猫は迷いもせずに進んでいく。沢を一本渡り、尾根を一つ越え、また沢へ下りる。早苗がどこを歩いているのか分からなくなった頃、霧の向こうに、茅葺きの屋根が浮かび上がった。
――古い大きな家だった。軒先では、二本足で立つ猫――アイルー達が、薪を抱えて忙しそうに行き来している。庭の向こうの犬舎では、大きなガルク達が寝そべったまま、片目だけ開けて早苗を見ていた。
早苗の目が、キラキラと輝いた。
「……猫が、こんなにいっぱい……!」
三毛猫は、もうどこにも居なかった。
――台所で朝餉をふるまわれた後、早苗は帳場へ通された。
台所では、小さな割烹着を着たアイルー達が、竈と流しの間を忙しく駆け回っていた。出された朝餉は、炊き立ての麦飯と、茸の汁と、焼いた川魚が一尾。魚の皮が香ばしく焦げていて、早苗は思わずお代わりを頼みかけ、慌てて口をつぐんだ。給仕のアイルーが、ニヤリと笑って黙って二杯目をよそってくれる。
帳場の文机の向こうに、二本の尻尾の化け猫が座っている。緑の帽子を被った、小柄な少女だ。マヨヒガのまとめ役で、オトモ達の育ての親――『橙』である。
橙は分厚い台帳を広げたまま、鼻をスンスンと鳴らして早苗の匂いを嗅いだ。
「……うーん。風の匂い。あと、じっとしてない匂い」
「じっとしてない、ですか?」
「だって、さっきから三回も立ったり座ったりしてるじゃん」
早苗は、ちょうど四回目に腰を浮かせかけたところだった。顔を赤くして、そっと座布団の上に座り直す。
橙は台帳をパラパラとめくり、ある頁で指を止めた。それから、帳場の奥の暖簾に向かって声を張る。
「ソヨー!ちょっと来てー!」
――暖簾の向こうで、何かがガシャン、と派手な音を立てた。
続いて、ドタドタという足音。暖簾を押し分けて飛び出してきたのは、銀灰の地に黒い縞のアイルーだった。両腕いっぱいに薬草の束を抱えている。
アイルーは帳場の上がり框に足を引っ掛け、薬草ごと、見事に前のめりに転んだ。
――そして、転んだのと同じ勢いで起き上がった。
散らばった薬草を拾い集め、抱え直し、何事もなかったように早苗の前にちょこんと座る。緑の目が、真っ直ぐに早苗を見上げた。
「――呼ばれたニャ。『ソヨ』だニャ」
橙が、台帳を早苗の方へ向けて押し出した。その頁には、橙の丸っこい字で、こう書かれていた。
種族:アイルー
毛並み:アメショー 目:緑 耳:立ち耳
性格:ねばり上手
得意:ヒーラー(薬草の見分け、里で二番目に早し)
覚えた技:癒しの果実栽培の技
組ませた理由:じっとしていない主人には、何度でも起き上がる猫を
「この子ね、何回転んでもすぐ起きるの。稽古で吹っ飛ばされても、走り込みで崖から落ちても、気付いたらもう立ってる。――七転八起、って言ったっけ。じっとしてない人には、何度でも起き上がる子がいいでしょ」
早苗は、橙の言葉を半分も聞いていなかった。
膝の前にちょこんと座ったアイルーを、両腕でギュッと抱き上げていたからだ。
「――かっ、可愛い……!フワフワ……!」
「……苦しいニャ。薬草が潰れるニャ」
「名前、ソヨって言うのね!ソヨ!私は早苗!『東風谷早苗』っていうの!」
「そよ風のソヨだよ。マヨヒガで付けた名前」
「そよ風……!私、風祝なんです!風の!」
「……知ってる。でも名前は、たまたまだよ」
橙は、少し呆れたように二本の尻尾を揺らした。
ソヨは早苗の腕の中で、抱えた薬草を守るように丸まっていた。嫌がって暴れはしない。ただ、緑の目で、じっと早苗の顔を見ている。
「……早苗は、一人で狩りに行く人ニャ?」
早苗の腕が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……どうして分かるの?」
「匂いが一人分しかしないニャ。仲間の匂いが付いてないニャ」
早苗は、何も言えなかった。
ソヨは腕の中からスルリと抜け出し、床に降りた。散らばりかけた薬草をもう一度抱え直すと、早苗の顔を見上げて言う。
「ボクは何回でも起きるニャ。――だから早苗、一人で行っちゃだめニャ。これからはボクもいるニャ」
――帰り際、橙は台所の棚から木の飯椀を一つ選んで、ソヨに手渡した。
縁に小さな青い葉の絵が描かれた椀だった。ソヨはそれを大事そうに背嚢に仕舞い、早苗の隣に並んで歩き出す。
霧の山道を、来た時と同じ三毛猫が先導していく。今度は、早苗の足音の他に、もう一つ小さな足音が付いてきていた。
~妖怪の山 守矢神社の湖~
――その依頼は、ソヨが守矢神社に来て三日目に、湖の方からやって来た。
社務所の戸を叩いたのは、ずぶ濡れの河童だった。神社の裏手の湖に筌を沈めて、魚を獲っている漁師の一人だという。
「筌が、根こそぎやられたんです。十二沈めて、一つも残ってない。それに夕べ、湖の真ん中で……こう、何かでっかいのが、水を吹き上げて……」
河童は両手を広げて、そのでっかさを示そうとし、広げきれずに諸手を下ろした。
奥の襖の向こうから、神奈子の声が飛んでくる。
『早苗。行ってきな。――だけど、一人で行くなよ』
「一人じゃありません!ソヨがいます!」
『……アイルーを数に入れて、二人か。いや、一人と一匹か』
「そうです!」
襖の向こうで、神奈子が小さく息を吐くのが聞こえた。
その後ろから、諏訪子がヒョイと顔を出す。
「じゃあ、私も付いていこうかな。あの湖は私の庭みたいなもんだし。――あ、でも手は出さないよ。あくまで、早苗の狩りだもんね」
――守矢神社の裏手には、山の上とは思えないほど広い湖が広がっている。
数年前。守矢神社が外の世界から、社ごと引っ越してきた時に、一緒に付いてきた湖だ。水面は初夏の空を映して青く、そのあちこちから、古びた太い御柱が何本も突き出している。水に浸かった柱の根元は、どれも深い緑の苔に覆われていた。
外の世界に居た頃、早苗はこの湖で泳いだことが無かった。山の上の湖は冷たく、深く、底が見えない。子供の頃、岸から覗き込んだ水の暗さが怖くて、諏訪子の裾にしがみ付いたことを、早苗はぼんやりと覚えている。――もっとも、当の諏訪子がそれを覚えているのかどうかは、分からないが。
岸は丸い砂利で、水際には薄く藻が寄っている。
早苗は、その砂利の岸に立ったまま、しばらく動けなかった。
「……何ですか、これ」
――岸が、大きく抉れていた。
水際から陸の方へ、砂利が半円にごっそりと消えている。掻き出したのではない。掻き出したなら、どこかに砂利の山ができているはずだ。それがどこにも無い。岸の一角が、大きな匙で掬い取られたように、ただ穴になっていた。
その穴の縁を、水がチャプチャプと洗っている。
「砂利ごと、水ごと、呑んだんだよ。筌も一緒にね」
諏訪子が、岸の大岩にちょこんと腰掛けて言った。本当に手を出す気は無いらしい。目玉の付いた帽子の下で、丸い目だけが湖を眺めている。
早苗は穴の周りを歩いてみた。
穴の横の砂利に、足跡が一つだけ残っていた。早苗が両腕を広げても収まらないほど大きな、指の間に薄い膜を張った足跡だ。水かきだ。その少し前には、人の掌を幾倍にも大きくしたような、丸い手の形が二つ、砂利に深く押し印されている。
前は手。後ろは水かき。
早苗は首を傾げた。そんな生き物を、早苗は、外の世界の絵本でしか見たことが無い。
――穴から少し離れた水際に、筌の残骸があった。
竹を編んだ筒が、形も無く潰れている。砂利と、溶けかけた藻と、生臭いぬめりに塗れていた。一度は呑み込んで、食えないと分かって吐き出したのだろう。
ソヨが、その残骸に鼻を近付けた。
「……生臭いニャ。魚と、泥と、それから……」
ソヨの尻尾が、根元からブワリと膨らんだ。
「……蛙の匂いニャ」
「蛙?」
「――『ヨツミワドウ』。その特徴を持ってるのは『河童蛙』だね、たぶん」
大岩の上から、諏訪子が退屈そうに言った。
「水も砂利も何でも呑んじゃう、食いしん坊の大きな蛙。水辺に縄張りを作って、普段は水の中に潜ってる。――後、うるさいのが大嫌い。獲物が逃げるからね」
「諏訪子様、知ってるんですか?」
「蛙のことなら、大抵はね。……正確には両生種だけど」
諏訪子はそれきり口を閉じ、また湖を眺め始めた。それ以上は教える気が無いらしい。
早苗は砂利の岸を、もう一度見回した。
水際から少し上がった所に、大きな穴がもう一つ。こちらは砂利ではなく、土の穴だ。湿った底に、丸い形に苔が剥がれた跡がある。大岩が一つ、そこから根こそぎ引き抜かれていた。
引き抜かれた大岩は、どこにも見当たらない。
水面から突き出した柱の一本を見上げると、その中程――大人の背丈の二倍ほどの高さに、切れた藻がだらりと垂れ下がっていた。水からあの高さまで、何かが跳び上がったのだ。
――重たい体で、大岩を引き抜き、人の背丈の二倍まで跳ぶ。
早苗は、ゴクリと喉を鳴らした。
それから、背の操虫棍を引き抜く。
「……よし。じゃあ、探しましょう!」
「早苗、ちょっと待つニャ。諏訪子様が、うるさいのは嫌いって――」
ソヨの言葉は、終わりまで届かなかった。
早苗はもう、腕の猟虫を湖の上へ飛ばしていた。猟虫は羽を鳴らして水面すれすれを飛び、早苗はそれを追って浅瀬へザブザブと踏み込んでいく。
水しぶきが上がり、羽音が響く。早苗は操虫棍を水底に突き立て、その反動で身を宙へ跳ね上げた。棒を支えに宙を舞う、操虫棍の跳躍だ。そのまま水面の柱の一本の天辺に降り立ち、湖を見渡す。
「――どこですかー!河童蛙さーん!」
大岩の上で、諏訪子が額に手を当てた。
岸でソヨが、錫杖の形をした短い鎚を握りしめる。
――湖の真ん中で、水面が盛り上がった。
波ではない。水の下から、何か大きなものが、水を押し上げながら急いで浮かんでくる。盛り上がった水の山は、まっすぐ早苗の柱の方へ近付いてきた。
そして――弾けた。
水しぶきの向こうから、それは水を蹴って跳び上がり、早苗の立つ柱のすぐ隣の浅瀬へ、地響きを立てて降り立った。
――ヨツミワドウ。その大きさは、小さな小屋ほどもあった。
背中は亀の甲羅のような分厚い甲殻に覆われ、その上を苔が毛氈のように分厚く覆っている。頭にも、太い前脚にも、緑の藻が絡み付いて垂れ下がっていた。口は平たい嘴で、上の嘴が三つの瘤のように盛り上がっている。
そして頭の天辺には――青みを帯びた、丸く硬そうな皿が載っていた。
甲羅と、嘴と、頭の皿。早苗が外の世界の絵本で見た河童そのものだ。ただ、その体つきは、蛙を力士ほどにも膨らませたように、丸く、重たく、分厚い。太い前脚は、砂利の岸に残っていた丸い手の形そのままだった。
ヨツミワドウは、柱の上の早苗を見上げた。
小さな目が、嫌そうに細められている。せっかくの獲物を逃がした、うるさい者を見る目だ。
――河童蛙が、吼えた。
水面が一面にさざ波立ち、柱がビリビリと震える。早苗は咄嗟に耳を塞いだ。塞いでしまった。
その一拍の間に、ヨツミワドウは右の前脚を大きく振りかぶっていた。力士が土俵で相手を突き飛ばす、突っ張りの形だ。
分厚い掌が、柱を真横から叩いた。
「――きゃあっ!?」
柱が撓る。早苗の足が天辺から滑り、体が宙に放り出される。
初夏の空が、クルリと回った。そして早苗は、背中から湖に落ちた。
――水の中は、冷たくて暗い。
耳の中で、ゴボゴボと泡の音が鳴っている。早苗は水を蹴って身を捻り、光の差す方へ浮かび上がった。水面に顔を出し、咳き込みながら浅瀬へ足を着く。初夏とはいえ、山の上の湖の水は冷たい。
膝まで水に浸かったまま顔を上げると、ヨツミワドウは浅瀬をノシノシと岸へ上がっていくところだった。
「早苗!」
岸からソヨが駆けてくる。水が嫌いなはずのアイルーが、胸まで水に浸かりながら早苗の袖を掴んだ。
「大丈夫ニャ!?」
「平気、平気!ちょっと濡れただけよ!」
早苗は濡れた髪を払い、操虫棍を握り直した。腕に戻ってきた猟虫が、羽を震わせて水滴を飛ばす。
ヨツミワドウは砂利の岸の真ん中に陣取り、こちらに向き直っていた。分厚い体を低く構え、四つの足でしっかりと砂利を踏みしめている。逃げる気は無いらしい。ここは自分の縄張りだ、と言わんばかりだった。
――早苗は猟虫を放った。
猟虫は一直線に飛び、ヨツミワドウの頭を掠めて戻ってくる。持ち帰ったエキスは赤。体の奥に熱が灯り、操虫棍が軽くなる。
早苗は岸を駆けた。ヨツミワドウの脇へ回り込み、太い前脚に棍を打ち込む。藻と苔が飛び散った。すかさず飛び退いて、反対の脇へ回る。また打ち込む。
ヨツミワドウの動きは鈍かった。重たい体を巡らせて早苗を追うが、そのたびに早苗はもう反対側に居る。
――と、ヨツミワドウが、水際の浅瀬に前脚を突っ込んだ。
ザバリと水を割って持ち上げられたのは、苔の剥がれた大岩だった。岸の土の穴から引き抜かれていた、あの大岩だ。ヨツミワドウはそれを両の前脚で抱え上げ、体ごと捻って、早苗の方へ放り投げる。
早苗は操虫棍を砂利に突き立て、宙へ跳んだ。足の下を大岩が唸りを上げて通り過ぎ、水面から突き出た柱の一本に激突する。古い柱が軋み、大岩は砕けて湖へ沈んでいった。
砂利の上に降り立ちながら、早苗は思わず息を吐く。あの大岩は、投げるために抜いてあったのだ。
「――遅いわ!」
早苗が三度目に脇へ回り込んだ時、ヨツミワドウは向き直るのをやめた。
その場で、両の前脚を左右へ大きく広げる。
「早苗、離れるニャ――!」
――分厚い掌が、早苗の目の前で打ち合わされた。
音が、頭の中で弾ける。目の前が白くなり、湖と空と砂利がグルグルと回り出した。膝から力が抜け、早苗は砂利の上にへたり込む。立たなければ、と思うのに、足がどこにあるのか分からない。
霞んだ目の端で、ヨツミワドウが右の前脚を振りかぶるのが見えた。
――その前に、小さな影が飛び込んだ。
ソヨだ。錫杖の形をした短い鎚で、ヨツミワドウの足の指をカンカンと叩いている。叩いたところで、相手にはほとんど効いていない。だがヨツミワドウは鬱陶しそうに足を引き、振りかぶった前脚の狙いが逸れた。分厚い掌は、早苗の頭の少し横の砂利を叩き潰した。
その隙に、ソヨは背嚢から小さな鉢植えを取り出し、早苗の脇の砂利にドンと据えた。
鉢から、見る間に青い芽が伸びる。芽は小さな枝になり、枝の先に緑の実が一つ、プクリと膨らんだ。[癒しの果実栽培の技*2]だ。
「早苗、その実に触るニャ!」
早苗は、震える指先で実に触れた。
実がポンと弾け、甘い香りが鼻を抜ける。回っていた景色が、少しずつ元の場所に戻っていった。膝に力が戻り、早苗は操虫棍を杖にして立ち上がる。
「……ありがとう、ソヨ」
「お礼は後ニャ。――来るニャ!」
ヨツミワドウが、のっそりと向き直る。
早苗は、奥歯を噛んだ。
――このままでは、駄目だ。速さで回り込んでも、あの手で叩かれればお終いになる。もっと大きな力が要る。
早苗は操虫棍を脇に立て、両手を胸の前で合わせた。
「――掛けまくも畏き、守矢の大神の御前に……」
祝詞を唱える声が、湖の上に流れていく。風祝の祈りに応えて、湖面を渡る風が少しずつ向きを変え始めた。もう少し祈れば、風はもっと強くなる。あの重たい体を、湖の向こうまで押し返せるほどに。
――もう少し。あと、もう少し。
大きな奇跡ほど、祈りと時間が要る。
そして、祈る者は動けない。
「早苗っ!!」
ソヨの叫びに目を開けた時には、もう遅かった。
ヨツミワドウの両の前脚が、早苗の体を左右から掴んでいた。足が砂利を離れる。目の前に、平たい嘴がパカリと開いた。暗く、生臭い、大きな口の中が見える。
――早苗は、丸呑みにされた。
真っ暗だった。
ぬるぬるした肉の壁が四方から体を押し包み、砂利と水と、何かの魚の骨が顔に当たる。息が出来ない。手足を突っ張ろうにも、どこにも力の入る場所が無い。
――一人で飛び出したからだ。祈っている間、周りを見ていなかったからだ。神奈子の声が、頭の中で低く響く。『一人で行くな』。あの夜、あんなに堪えたはずの言葉を、早苗はもう忘れかけていた。
その外から、くぐもった音が聞こえた。
カン、カン、カン――と、小さな何かが、外から腹を叩いている音だった。
『早苗を返すニャ!返すニャー!!』
ソヨが、ヨツミワドウの腹に錫杖の鎚を叩き付けている。何度も、何度も。
ヨツミワドウの腹が大きく波打った。次の瞬間、早苗の体は、来た時と同じ口から外へ吐き出された。
空が見えた、と思った。早苗の体は宙を舞い、砂利の上にベシャリと落ちる。全身が粘液まみれで、目もろくに開かない。
その頭上に、影が差した。
ヨツミワドウが、跳んでいた。自分の背丈よりも高く。重たい体ごと、早苗の上へ落ちてくる。
――ドン、と。誰かが早苗の脇腹を、力いっぱい押した。
早苗の体が砂利の上を転がる。
その、たった今まで早苗の居た場所に、ヨツミワドウの腹が落ちた。地面が揺れ、砂利が雨のように飛び散る。
そして、その腹の下から、銀灰の縞の尻尾が一本だけ覗いていた。
「――ソヨ!!」
ヨツミワドウが、のっそりと体を起こす。
平たく潰れたソヨが、砂利にめり込んでいた。早苗の喉が、ヒュッと鳴る。
――その平たいソヨが、ピクリと動いた。
手を突き、膝を突き、ソヨは砂利の中から体を引き抜く。頭襟の飾りがひしゃげ、毛並みは砂利と泥だらけだ。それでもソヨは、四つ足で踏ん張って立ち上がり、ブルブルと全身を振るった。
「……起きたニャ」
ソヨは何でもないような顔で、また鉢植えを砂利に据えた。緑の実が膨らむ。
早苗は、粘液まみれのまま、その実に手を伸ばした。
「……ごめん、ソヨ」
「謝るのも後ニャ。――あいつ、何か食べに行くニャ」
――ヨツミワドウが、水際へ這っていく。
そして、砂利の岸に嘴を突っ込んだ。
ゴクリ、ゴクリと、喉が大きく動く。砂利が、水が、藻が、まとめてその口の中へ吸い込まれていく。岸がまた一つ、大きな匙で抉られたように消えた。
ヨツミワドウの腹が、見る間に膨らんでいった。
はち切れそうなほど丸くなった腹を抱えて、ヨツミワドウは前脚を砂利から離した。後ろ脚だけで、ゆっくりと立ち上がる。腹を前に突き出し、前脚を左右に開いて腰を落とした、その姿は――土俵に上がった力士そのものだった。
――満腹の河童蛙が、四股を踏んだ。
右の後ろ脚が、高々と持ち上がる。そして、振り下ろされた。
砂利の岸が、割れた。踏まれた所を中心に、砂利と土が噴き上がり、地面がうねるように盛り上がる。早苗とソヨの体が、足元ごと宙へ跳ね上げられた。
砂利の上に叩き付けられ、早苗は息を詰まらせる。
――ふと見れば、岸の大岩の上で、諏訪子が膝に頬杖を突いていた。周りの地面がどれだけ揺れても、諏訪子の座る大岩だけは、ピクリとも動いていない。丸い目は、湖でも河童蛙でもなく、ずっと早苗だけを見ていた。
手は出さない、と言った通りに。
――ヨツミワドウの膨らんだ腹が、大きく波打つ。
平たい嘴が開き、大量の水がドッと吐き出された。滝のような水の塊が、立ち上がりかけた早苗を真正面から呑み込み、砂利の上を押し流していく。
ようやく止まった所で顔を上げると、ヨツミワドウはまた跳んでいた。
狙いは、早苗ではない。早苗を追って駆けてきた、小さな影の方だった。
「ソヨ、逃げて!」
ヨツミワドウの腹が、ソヨの上に落ちた。
今度は、背中からだった。苔むした甲羅が砂利を押し潰し、鈍い音が岸に響く。
ヨツミワドウが転がり起きた後、そこには、砂利に埋もれたソヨが横たわっていた。
――今度は、動かない。
「ソヨ……ソヨ!!」
早苗は這うようにしてソヨに駆け寄った。
抱き起こすと、小さな体はぐったりと重かった。銀灰の毛並みが、砂利と泥と血で汚れている。息はある。だが浅く、細い。緑の目は、閉じたままだった。
早苗の手が、勝手に動いていた。
両手を胸の前で合わせる。祈れば。奇跡を起こせば。この子の傷くらい、きっと――
「掛けまくも、畏き……」
背後で、砂利を踏む重たい音がした。
ヨツミワドウが、また四股を踏もうとしている。ゆっくりと、だが確実に、こちらへ近付いてくる。
早苗の祝詞が、途中で止まった。
――奇跡は、待ってくれない。祈りが届くまでに、あの足が落ちてくる。そしてソヨは今、この腕の中で、細い息をしている。
――早苗は、合わせた手を解いた。
腰の袋を探り、[回復薬]の瓶を掴み出す。栓を歯で引き抜き、中身を自分の掌に空けた。その掌で、ソヨの傷を一つずつ撫でていく。脇腹の擦り傷、潰れた前脚、裂けた耳の付け根。薬がしみたのか、ソヨの体が小さく震えた。
残った薬を、ソヨの口元に少しずつ流し込む。
神の力ではない。風祝の祈りでもない。工房で買った薬と、自分の手だった。
「……起きて。お願い、ソヨ。何回でも起きるんでしょ……!」
――緑の目が、ゆっくりと開いた。
「……早苗の手、冷たいニャ」
「……ごめんね」
「それに、早苗……また一人で、行こうとしたニャ……」
ソヨは、早苗の腕の中で身を捩った。砂利に手を突き、膝を突き、もう一度、自分の足で立ち上がる。
「一人で行っちゃ、だめニャ。――ボクもいるニャ」
「……うん。行かないわ。一緒に行こう」
早苗は、操虫棍を拾い上げた。
ソヨが、早苗の背中の後ろに鉢植えを据える。赤い実が、また一つ膨らんだ。
――そこからの早苗は、もう祈らなかった。
猟虫を放ち、エキスを纏い、膨らんだ腹を狙う。満腹の腹は、張り詰めている分だけ柔らかかった。操虫棍の先が、ズブリとめり込む。ヨツミワドウが嫌がって身を捩れば、そこにはソヨが居て、錫杖の鎚で足の指を叩いている。腹を突き出して水を吐こうとすれば、早苗は柱を蹴って宙へ跳び、その真上から腹へ棍を叩き下ろす。
猟虫が持ち帰るエキスに、赤に続いて白が加わった。足が軽くなり、跳躍が一段高くなる。早苗は跳ぶたびに、柱の上から湖と岸を見渡した。ソヨがどこに居るか。鉢植えがどこにあるか。ヨツミワドウの前脚が、次にどちらへ振りかぶられるか。一人で狩っていた半年の間、一度も見ようとしなかったものが、柱の上からはよく見えた。
四股の揺れに足を取られて倒れても、背中の後ろには赤い実がある。触れて、立ち上がる。また打つ。ソヨが倒れても、ソヨはまた起きる。
一人では、一度倒れたらそれまでだった。二人なら、何度でも立ち上がれる。
砂利の岸には、いつの間にか鉢植えが五つも並んでいた。どれも早苗の背中の、手の届く所に。大岩の上の諏訪子が、その鉢を一つずつ数えて、小さく口の端を上げた。
ヨツミワドウの腹が、大きく引き攣った。
「――吐くニャ!」
ソヨの叫びと同時に、ヨツミワドウは前のめりに体を折った。
平たい嘴から、呑み込んでいた砂利と水が、ゴボゴボと音を立てて溢れ出す。はち切れそうだった腹が、見る間にしぼんでいく。後ろ脚だけで立っていた体が崩れ、前脚がドスンと砂利を突いた。
吐き出された砂利の中から、丸い物が一つ、コロコロと転がり出た。ソヨの足元で止まる。手鞠ほどの大きさの、ぬめりと光る珠だった。
「……何か出たニャ」
「あ、[尻子玉*3]だね、それ」
大岩の上から、諏訪子がのんびりと言った。ソヨは珠を見下ろし、そっと一歩後ずさる。
ヨツミワドウは、四つ足のまま肩で息をしていた。頭が、下がっている。
その頭の天辺で、青みを帯びた皿が、湖の光を受けて光っていた。
――早苗は、柱へ向かって駆け出した。
操虫棍を水底に突き立て、跳ぶ。水面から突き出た古い柱の、苔むした側面を蹴って、もう一段高く。初夏の空が、目の前いっぱいに広がった。
その空の下に、河童蛙の頭の皿が見える。
早苗は棍を両手で振りかぶり、落ちる勢いのまま、皿の真ん中へ叩き下ろした。
皿が、割れた。
縁の一か所が大きく欠け、皿そのものが頭から剥がれて宙へ跳ね上がる。クルクルと回りながら湖の上を飛び、砂利の岸に、カランと音を立てて落ちた。
ヨツミワドウが、両の前脚で頭の天辺を押さえた。
小さな目が、落ちた皿と、早苗と、ソヨとを順に見る。それから、くるりと背を向け、這うようにして湖へ戻っていった。
ザブン、と大きな水音が立つ。
波紋の真ん中から、泡が一筋、湖の向こうの流れ出し口の方へと遠ざかっていく。泡はやがて見えなくなり、湖面には、初夏の空だけが残った。
――諏訪子が、大岩からヒョイと飛び降りた。
砂利をザクザクと踏んで岸を歩き、落ちていた皿を拾い上げる。裏返し、表に返し、欠けた縁を指でなぞった。
「頭の皿を割られるとね、アイツはしばらく大人しくなるもんなんだ。あの子も、もうこの湖の筌には手を出さないだろうね」
早苗は、砂利の上に大の字に寝転がっていた。全身が粘液と泥と砂利まみれで、指一本動かすのも億劫だ。その胸の上には、同じく泥まみれのソヨが、ぐったりと伸びている。
「……諏訪子様。見てたなら、助けてくださいよ……」
「言ったじゃない。――早苗の狩りだって」
諏訪子は、早苗の頭の傍にしゃがみ込んだ。目玉の付いた帽子が、早苗の顔を上から覗き込む。
その丸い目が、少しだけ細められた。
「それに。私が手を出すまでもなかったよ。――あのね、早苗。今日一番の奇跡は、祝詞じゃなかったよ」
「……え?」
「何度潰されても起き上がるアイルーと、祈るのをやめて薬を塗った手。――神様の出る幕なんて、どこにも無かったねぇ」
早苗は、何も言えなかった。
風祝は、神の力を借りて奇跡を起こす者だ。だから早苗は、困った時は祈ればいいと思っていた。祈れば、いつかは届く。いつかは風が吹く。――だが今日、その「いつか」を待ってくれる者は、砂利の岸のどこにも居なかった。
胸の上のソヨが、耳だけをピクリと動かした。
諏訪子は立ち上がると、拾った皿をソヨの鼻先に差し出した。
「はい、これ。ソヨにあげる」
「……蛙の皿ニャ」
「一番頑張った子が貰うのが、狩りの決まりでしょ。薬草を入れるのに、丁度いい大きさだよ」
ソヨの尻尾が、一瞬だけブワリと膨らんだ。
だがソヨは、両手を伸ばして、その皿を受け取った。重たそうに抱え、欠けた縁をじっと見つめる。
諏訪子は砂利の上から例の丸い珠も拾い上げると、それを自分の袖の中に放り込んだ。
「こっちは、神奈子へのお土産にしようかな」
「……絶対、嫌がられますよ」
「だからだよ」
諏訪子はケラケラと笑い、先に神社の方へ歩き出した。
――日が傾きかける頃、早苗とソヨは守矢神社の鳥居をくぐった。
二人とも、泥と粘液が乾いて、体中がパリパリになっている。早苗は操虫棍を杖にし、ソヨは皿を頭の上に載せて歩いていた。
石畳の先、拝殿の前に、神奈子が腕を組んで立っていた。
神奈子は、二人の頭の先から足の先までを、一度だけ眺めた。
「……二人で帰ってきたな」
「はい。二人です」
「なら、いい。――風呂を沸かしてある。入ってきな」
それだけ言うと、神奈子は踵を返した。その背中に、先に帰っていた諏訪子が、袖の中から何かを取り出して駆け寄っていく。――程なくして、社殿の奥から神奈子の怒鳴り声が響いてきた。
風呂から上がると、ソヨはもう台所の隅で丸くなって眠っていた。枕元には、橙から渡された木の飯椀と、湖で貰った皿が、並べて置いてある。早苗はしばらくその寝顔を眺めてから、そっと自分の羽織を掛けてやった。
その夜、守矢ギルドの会所の狩猟記録に、一つの記録が書き足された。
結果:撃退。頭部の皿を破壊。湖の流れ出し口より下流へ去るのを確認
担当:東風谷早苗、ソヨ(アイルー)
備考:筌十二、全損。岸の砂利、二か所で流失
早苗の狩猟記録の担当の欄に、二つ目の名が書かれたのは、それが初めてだった。
~妖怪の山 守矢神社~
――味噌汁の匂いが、板の間まで届いている。
竈の鍋は、もう噴いていなかった。早苗は汁を椀によそい、神奈子と諏訪子の前に並べていく。ソヨの分は、縁に小さな青い葉の絵が描かれた、木の飯椀だ。
ソヨは例の皿の前に座り、最後の薬草を並べ終えたところだった。その腰には、二年前には無かった小さな法螺貝が下がっている。あの後の狩りで、ソヨが一つずつ覚えていった技の、最後の一つだった。
――あれから二年。早苗の背の操虫棍は、あの鉄の棍から、白銀の棍に替わった。狩りの数も、守矢の顔として山の外へ出る仕事も増えた。それでも、早苗の狩猟記録の担当の欄に、名が一つだけで書かれたことは、あの日から一度も無い。
「早苗。今日は北の尾根の哨戒だったな」
「はい、神奈子様。朝ご飯を済ませたら、すぐに出ます」
早苗は自分の椀を持ち、ソヨの隣に腰を下ろした。
「――ソヨ、食べたら行くわよ」
「一人で行かないニャ?」
「行かないわよ。もう二年も言われてるんだから」
「早苗は、言わないとすぐ忘れるニャ」
諏訪子が、吹き出すように笑った。神奈子は黙って汁を啜り、それから一言だけ言う。
「――アイルーの方が、よく分かってるじゃないか」
早苗は顔を赤くして、汁を一口すすった。
ソヨは、皿の中から一番よく乾いた薬草を三本選び、そっと早苗の腰の袋に差し込んだ。早苗は気付いていない。気付いていないふりをしているのかもしれない。
欠けた皿の縁が、格子窓から差し込む朝の光を拾って、青く光っていた。
山の風が台所の暖簾を、そよと揺らしていく。
『洩矢諏訪子』
所属:守矢ギルド
役職:古参ハンター。山岳地質・地底地形顧問
武器:鬼蛙槌『洩矢ノ鉄輪』(ハンマー)