東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 麓の芋畑~
――山の秋は、朝の匂いから始まる。
夜のうちに降りた霜が、日の出と一緒に溶けていく。湿った土の匂い、刈り取りを待つ稲の匂い、落ち葉の匂い。それらに混じって、どこからともなく、甘い匂いが漂ってくる。蒸かしたての芋を割った時のような、ほくほくとした甘い匂いだ。
――妖怪の山の麓、山間の集落の外れに広がる段々の畑。その畝の間を、匂いの主が大股で歩いていた。
段々の畑の上には、茅葺きの家が十軒ほど、山肩に身を寄せ合うように並んでいる。どの家の煙出しからも朝餉の煙が細く昇り、軒先には干し柿が簾のように吊るされていた。畑の畑端には稲架が組まれ、刈り取られた稲が金色の幕のように掛け並べられている。山の空は高く、青く、どこまでも澄んでいた。
鍔の広い赤い帽子の正面には、蔓の付いたぶどうの房の飾り。前にくるりと巻いた金色の髪に、黄色の上着とオレンジの前掛け。前掛けには、稲穂を思わせる黄色の模様が染め抜かれている。黒い長いスカートの裾を土で汚しながら、裸足のまま畝を跨いでいく。
山の実りと豊穣の神――『秋穣子』
守矢ギルドの"農地・食糧管理協力員"として、山中の畑と果樹園を見て回るのが、秋の穣子の朝の仕事である。もっとも、仕事でなくても毎朝来る。実った畑を眺めるのは、豊穣の神にとって何よりの楽しみなのだから。
「よーし、今日もいい色!こっちの柿も、あと三日ってとこね!」
穣子は畑の脇の柿の木を見上げ、満足そうに腰に手を当てた。
――その足元を、小さな影がチョコチョコと付いて回っている。麦の穂のような、明るい茶色の縞のアイルーだ。背中には、自分の体ほどもある竹の籠を背負っている。
「穣子!こっちの栗、もう落ちてるニャ!拾うニャ?」
「拾う拾う!『イナホ』、全部拾って!」
「任せるニャ!アタシの籠は、まだ半分も空いてるニャ!」
――穣子のオトモ、『イナホ』である。
マヨヒガの橙が、穣子の匂いを一嗅ぎして『焼き芋の匂い』と言い、それきり迷わずに選んだ子だ。名前は、穣子が付け直した。茶トラの毛並みが、実った稲穂の色に見えたからだという。
イナホは採集が得意で、栗も、茸も、薬草も、目に付いたものは何でも籠に放り込む。そして何より、物怖じというものを知らない。大型の竜の影を見ても、まず『拾える物は無いか』と考えるアイルーだった。
――そして畑の上手の斜面には、もう一人の神が座っていた。
ウェーブのかかった金色の髪に、楓の葉の髪飾りが三枚。細身の赤い上着から、赤から黄色へ移り変わるスカートが広がり、その裾と襟には楓の葉の形の切り欠きが並んでいる。膝の上に帳面を広げ、筆を手に、山の斜面をじっと見上げていた。
穣子の姉、紅葉と落葉の神――『秋静葉』
守矢ギルドの"山林季節観測員"として、静葉は秋の間中、山の木々の色を帳面に書き付けている。どの斜面の楓が色付いたか、どの尾根の葉が落ち始めたか。木々の色の移り変わりで、山に棲む者たちの動きも分かる。
紅葉が早い年は、草食の竜が早く山を下りる。落葉が遅い年は、木の実を食べる獣が長く山に留まる――そうした兆候を観測している。
「……今年は、北の尾根の色付きが三日早いわね」
静葉は帳面に一行書き足し、筆を置いた。それから、静かに溜め息を吐く。
「綺麗ね。……綺麗なものほど、すぐに散ってしまうけれど」
「朝から何言ってるのよ、姉さん。散る前に見とけばいいじゃない」
「見ているわ。だから、散るのが分かるの」
穣子は肩を竦め、それ以上は言い返さなかった。秋の初めから終わりまで、姉はずっとこの調子だ。紅葉を誰よりも愛でるくせに、その紅葉が終わる日のことばかり考えている。
穣子は、そんな姉の帳面をちらりと覗き込んだ。細い筆の字で、山のどの斜面が何色に染まったか、見事に書き分けてある。字まで紅葉の葉のように整っていて、穣子は少しだけ口を尖らせた。
「……字、綺麗ね」
「ありがとう。穣子の字は、元気がいいわね」
「それ、褒めてないでしょ」
静葉は答えず、小さく笑った。
山の誰もが知っている。秋姉妹は、互いに少しずつ張り合っている。妹は甘い実りの香りで、姉は燃えるような紅葉の景色で。しかしどちらが秋の主役か、毎年決着は付かない。
――十日後には、この畑で収穫祭がある。
山間の集落の者たちが、一年の実りを持ち寄って祝う祭りだ。天狗も河童も山童も顔を出し、守矢神社の三人も呼ばれる。もちろん、主役は豊穣の神――つまり穣子である。少なくとも、本人はそう思っている。
その収穫祭の目玉が、畑の一番下の段の芋畑だった。今年の芋は特に出来がいい。穣子が春から手塩にかけ、夏の日照りの間も水を運び続けた自慢の畑だ。
集落の子供たちは、毎年この芋で焼いた焼き芋を何より楽しみにしている。今朝も畑へ来る途中、穣子は集落の入り口で子供たちに取り囲まれ、「祭りの日には、一番大きいのをあげるわよ」と約束してきたばかりだった。どの子にも、一番大きいのを。穣子はそういう約束の仕方をする。
「さーて、最後に芋畑を見て――」
穣子は鼻歌まじりに畑の段を下りていき、一番下の段に足を下ろしたところで――ピタリと止まった。
イナホが、栗を抱えたまま、その背中にぶつかる。
「……穣子?」
穣子は答えない。帽子のぶどうの飾りが、小さく震えている。
イナホは穣子の脇から、ひょいと畑を覗き込んだ。
――芋畑が、無残に掘り返されていた。
――穣子の悲鳴が、山間の段々畑に響き渡った。
一番下の段の芋畑は、見る影も無かった。綺麗に盛り上げてあった畝があちこちで崩され、黒い土が掘り返されて山になっている。掘り出された芋が畝の間に転がり、蔓は引き千切られて、乾いた土の上に萎れていた。
斜面の上から、静葉が帳面を抱えて下りてくる。そして畑の惨状を見て、静葉は小さく目を細めた。
「……あらあら。随分と、派手に散ったわね」
「散ったんじゃないわよ!散らかされたのよ!」
穣子は畝の間に飛び込み、転がった芋を一つ拾い上げた。
芋には、大きな歯形が一つだけ付いていた。一口かじって、そのまま放り出したらしい。隣の芋も、その隣の芋も同じだった。どれも一口ずつ齧られて、無造作に土の上に捨てられている。
「一口齧って、捨てて……一口齧って、また捨てて……!せめて食べるなら全部食べなさいよ!」
「怒る所、そこなのね」
静葉は帳面を脇に挟み、崩れた畝の縁にしゃがみ込んだ。指先で、土の穴の縁をなぞる。
――穴の縁に、深い筋が五本、並んで残っていた。
鼻先で掘った跡ではない。鼻で土を押し退けたなら、穴の縁は丸く崩れる。この穴の縁は、長い爪で何度も掻いたように、細く深い筋が刻まれていた。
「ブルファンゴじゃないわね。猪なら、牙で畝を割った跡が一直線に付くもの」
「じゃあ何なのよ!」
「それを、今から見るの」
静葉は立ち上がり、畝の間をゆっくりと歩き始めた。
足跡はすぐに見付かった。柔らかい土の上に、大人の掌ほどの跡が幾つも残っている。人の手のように五本の指が開いていて、その指先に、長い爪の刺さった小さな穴が並んでいた。前の足も、後ろの足も、どちらも手の形をしている。
そして、足跡の並び方がおかしかった。四つ並んだかと思えば、次の四つは大きく離れた先に飛んでいる。歩いたのではない。跳ねたのだ。それも、自分の背丈より高く。
静葉は、掘り返された土の山の一つに指を差し入れた。表は乾き始めているが、少し掘れば、まだしっとりと冷たい。土の山の上には、霜が降りた跡が無い。霜が降りた後、夜明けの少し前に掘られたのだ。ついさっきまで、ここに居たのだろう。
「手で掘って、手で歩いて、跳ねる……猿かしら」
――その時、イナホがくしゃみをした。
一度。二度。三度目は、栗を抱えたまま尻餅をつくほどの大きさだった。
「……くっっっさいニャ!!」
イナホは片方の前脚で鼻を押さえ、もう片方で畑の隅を指差した。
穣子と静葉がそちらへ近付くと、確かに臭った。腐った茸と、獣の糞と、何か酸っぱいものを一緒に煮込んだような、鼻の奥を刺す酷い臭いだ。畑の隅の一角だけ、そこに何かが溜まっているかのように、空気が淀んでいる。
穣子の周りに漂う甘い芋の香りが、その臭いに押されて、みるみる霞んでいく。
「わ、私の香りが……負けてる……!?」
「穣子。張り合うところじゃないわ」
静葉は袖で鼻を覆いながら、畑を囲う柵へ目を向けた。
柵の杭の一本に、毛が絡み付いていた。指で摘まんで、朝の光に透かしてみる。桃色の、少し縮れた獣の毛だ。その中に、赤や黄色や緑の、やけに鮮やかな毛が数本だけ混じっている。
畑の脇の柿の木も、低い枝が何本も折られていた。まだ青い柿が一口ずつかじられ、根元にばら撒かれている。芋と同じだ。一口かじって、捨てている。
――足跡は、柿の木の先から斜面を上り、山の奥へ続いていた。
落ち葉が、一筋の道のようにめくり返されている。静葉はその道を目で追った。斜面の上の、湿った雑木林。秋になると、茸が一番よく出る林だ。
「……茸の林ね。あそこから下りてきて、畑を荒らして、また帰っていったんだわ」
「茸?」
「茸が好きなの。何でも食べるけれど、一番の好物は茸。芋は、ついでよ」
「つ、ついで……!?わ、私のお芋さんが、ついで……!?」
静葉は、摘まんだ桃色の毛を穣子の目の前に差し出した。
「桃色の毛に、派手な色の飾り毛。手のような足で跳ね回って、何でも一口かじって捨てる。それに、この臭い。――『コンガ』ね」
――桃色の毛に覆われた、大きな猿。牙獣種の小型、『コンガ*1』の群れだ。
頭の天辺に色とりどりの毛を生やし、腕には長く鋭い爪を持つ。腹の出た体は小型にしては大柄で、そのくせ自分の背丈より高く跳ねる。群れで山を渡り歩き、茸の出る林を見付けては食い荒らしていく。そして何より、追い詰められると、身を守るために強烈な臭いの屁を放つ。至近で浴びれば、大の大人が吹き飛ばされるほどの勢いだという。
「足跡の大きさが、五つか六つ。小さな群れね。親分の大きな個体は居ないみたい」
「――狩るわよ、姉さん。一匹残らず」
「穣子」
「狩るの!私のお芋さんを、一口かじって捨てたのよ!」
静葉は、溜め息をついた。
「小型の群れよ。追い払えば、この畑には二度と近寄らないわ。コンガは、怖い目に遭った場所を覚えているもの。――それに、あの子たちは火が嫌いなの。夜に畑の端で火を焚いておけば、それだけで寄り付かなくなる」
「……それじゃあ、私の気が済まない」
「気を済ませるのは、狩りの仕事じゃないわ」
穣子は頬を膨らませた。言い返そうとして、言い返す言葉が見付からず、それでも膨らませた頬を戻さない。
静葉は帳面を開き、畑の惨状を一つずつ書き付けていく。掘り返された畝の数、かじられた芋の数、折られた柿の枝の数。穣子はその横で、指折り数えながら一つずつ口に出しては、そのたびに肩を落とした。
やがて静葉は、書き終えた行の末に、一つだけ書き添えた。
「……三割」
「七割は残っているわ。収穫祭には十分よ」
「そういう問題じゃないのよ、姉さん」
足元で、イナホが鼻を押さえたまま胸を張った。
「アタシが追い払ってやるニャ!猿なんか、何匹来ても怖くないニャ!」
――その時、畑の下の道から、ガラガラと車輪の音が近付いてきた。
「おーい、穣子ー!頼まれてたやつ、出来たよー!」
荷車を引いて坂道を上ってきたのは、青い髪を二つに結った河童だった。背中には、体より大きな背嚢。にとりである。
荷車の後ろでは、茶色の毛並みのアイルーが、全身で荷車を押していた。前掛けには油の染みが点々と付き、耳の先が少し焦げて縮れている。にとりのオトモ『ネジ』だ。
荷車の上には、筵を被せた何か大きな物が載っていた。
「……頼まれてたやつ?」
静葉が首を傾げると、穣子はハッとしたように顔を上げた。
「――あっ、そうだったわ!収穫祭の前に、畑の番をしてくれる道具を作ってって、にとりに頼んでたのよ!」
「そうとも!河童の技術の粋を集めた、畑の番人さ!」
にとりは胸を張り、荷車の筵を勢いよく引き剥がした。
――筵の下から現れたのは、一体の案山子だった。
藁を束ねた胴体に、竹の両腕。頭には緑の帽子を被せ、顔には大きな目を描いた河童の面が付けてある。そこまでは、ただの案山子だ。
――その胴体の中には、歯車と発条がびっしりと詰まっていた。胸のあたりには丸い蓋の付いた筒が一つ。脚の根元からは、何本もの細い紐が放射状に伸びていて、その先には乾いた木の札が一つずつ結び付けられていた。鳴子だ。
「名付けて『畑の番人・試作一号』!――いいかい、この鳴子の紐を畝の周りに張っておくんだ。誰かが紐に足を引っ掛けるとだね――」
にとりは、荷車の縁に張った試しの紐を、指でクイと引いた。
カラカラカラ、と鳴子が鳴る。同時に、案山子の竹の両腕が、グルングルンと風車のように回り出した。河童の面の目玉が、ギョロギョロと左右に動く。
「――と、こうなる。そして仕上げに、胸の筒から[音爆弾]が一つ飛び出して、パーン。小型モンスターなんて、一目散に逃げていくって寸法さ!」
「すごいじゃない!これなら、あの猿共も一発よ!」
穣子は手を叩いて喜んだ。さっきまでの膨れっ面は、もうどこにも無い。
静葉は、回り続ける案山子の腕をじっと見つめる。
「……音で逃げる子達かしら。あの子たち、自分たちが一番うるさいのに」
「そこは試してみないと分からないさ。試すのはハンターの仕事だよ、静葉」
にとりは胸を張ったまま、荷車の後ろを振り返った。
「――ところでネジ。胸の筒には、音爆弾しか入れてないよね?」
「……入れてない、ニャ」
ネジの焦げた耳の先が、ピクリと動いた。
にとりはそれに気付かなかった。静葉だけが気付いたが、何も言わなかった。
――その日の夕方、畑の番人は芋畑の真ん中に立った。
鳴子の紐は、畑の周りを一周するように張り巡らされた。追い払うなら、狩りと同じで待ち伏せるのが一番だ。コンガは今夜も来る。畑にはまだ、かじり掛けの芋が山ほど残っているのだから。
紐を張るのは、にとりとネジ、それにイナホの仕事だった。にとりが畝の境に杭を打ち、イナホが紐を引いて走り、ネジが鳴子の札を一つずつ結び付けていく。途中で一度、ネジが自分で張った紐に足を引っ掛け、案山子の腕がグルンと回って、一同をヒヤリとさせた。さいわい、その時は胸の筒が開く前に、にとりが留め金を掛け直した。
静葉は畑の端で、竹箒を使って落ち葉を掻き集めていた。穣子に頼まれたのだ。追い払ったら、焼き芋をするのだという。齧られた芋も、齧られた所だけ切り落とせば焼ける。豊穣の神は、実ったものを一つも無駄にしない。
紅、朱、黄、茶。掻き集められた落ち葉が、人の背丈ほどの山になっていく。紅葉の神の掻き集めた落ち葉は、山になっても色の並びが整っていて、それだけで一つの景色のようだった。
四人と二匹は、その落ち葉の山の陰に身を潜めた。
「……来るかしら」
「来るわよ。あの子たちコンガは、食い意地が張ってるもの」
「穣子に言われたくないと思うわよ」
日が尾根の向こうへ落ち、畑が茄子色に沈んでいく。
金色の光が消え、風が冷たくなる。落ち葉の山の陰で、イナホが栗を一つ、こっそりかじった。
「……そういえば穣子のその笛って、何の素材だったっけ?」
待ちくたびれたにとりが、小声で尋ねた。穣子は背に負った大きな楽器を、得意そうに指で叩いてみせる。
「青い熊――『アオアシラ』よ。昔、収穫祭の前の夜に、この畑に下りてきたの。蜜と芋の匂いに釣られてね」
「へえ。それで、穣子が狩ったのかい?」
「……狩ったのは、私と姉さんと――それに、守矢の皆よ。私は、笛を吹いてただけ」
穣子は少しだけ声を落とした。
その時の笛は、まだ狩猟笛ではなかった。収穫祭で吹く、ただの祭り笛だった。それでも穣子は、畝の前に立ちはだかり、熊に向かって笛を吹き続けた。実りを守るのは、豊穣の神の仕事。笛の音で皆の拍子を揃え、その間に姉と守矢の者たちが、熊を畑の外へ追い詰めた。
その熊の毛と甲殻で作ったのが、今の狩猟笛だった。
「だからこの笛は、畑を守るための笛なのよ」
「……あの時の穣子は、笛を吹きながら泣いていたわね」
「な、泣いてないわよ!!」
穣子の声が少し大きくなり、静葉がその口をそっと手で塞いだ。
日の名残りが消えていくにつれて、落ち葉の山の陰は冷えていった。空には一つ、また一つと星が灯り、山の稜線が黒く沈んでいく。
イナホとネジは、落ち葉の山に潜り込んで身を寄せ合っていた。茶トラとブラウンの二匹が、落ち葉の中から耳だけを出している。
「……ネジの耳、なんで焦げてるニャ?」
「爆弾の稽古で、一回吹き飛んだニャ。マヨヒガで」
「一回だけニャ?」
「……十回くらいニャ」
イナホは尊敬のまなざしでネジを見つめ、ネジは得意そうに焦げた耳をぴくぴくと動かした。その二匹を、にとりが微妙な顔で見下ろしていた。
――斜面の上の雑木林で、落ち葉を踏む音がした。
ガサリ、ガサリと、音はだんだん近付いてくる。それに混じって、甘えるような、唸るような、言いようの無い鳴き声が聞こえた。
〈ウキャッ、ウキャキャッ!〉
――柿の木の向こうから、桃色の影が跳ね出した。
一匹、二匹、三匹――全部で五匹。大人の胸ほどもある大きな猿が、前の手を地面に突いて、ポーン、ポーンと跳ねながら畑へ下りてくる。全身は桃色の毛に覆われ、頭の天辺にだけ、赤や黄色や緑の毛が、彼岸花のように逆立っている。
先頭の一匹は、一回り大きかった。頭の飾り毛も、他より派手だ。その一匹は畑の端で立ち止まると、毛むくじゃらの腹をボリボリと掻き、鼻をひくつかせてから、畝の間へ飛び込んだ。残りの四匹も、先を争うようにそれに続く。
長い爪が畝に突き刺さり、黒い土が宙を舞う。芋が掘り出され、一口かじられ、放り投げられる。
「…………」
落ち葉の山の陰で、穣子がブルブルと震えていた。その肩を、静葉の手がそっと押さえている。
イナホは栗を放り出し、今にも飛び出しそうに尻尾を立てていた。その尻尾を、ネジが両手で掴んでいる。
「まだだよ。紐を踏むまで、待つんだ……」
にとりが、小声で言った。
先頭の大きなコンガが、芋を抱えたまま畝を跨ぐ。その後ろ足が、畝の境に張られた細い紐に、引っ掛かった。
夕闇の畑に、鳴子の音が一斉に鳴り響いた。
畑の真ん中で、案山子の両腕がグルングルンと回り出す。河童の面の目玉が、ギョロギョロと動く。
コンガ達が、一斉に動きを止めた。芋を抱えたまま、口を半開きにして、回る案山子を見上げている。
案山子の胸の蓋が、パカッと開いた。
[音爆弾]が、夕闇の中で弾けた。耳を刺す甲高い音が、畑中に広がる。
コンガ達が飛び上がった。やった、と穣子が拳を握る。
――だが、案山子の胸の筒の中で、何かが、まだジリジリと火花を散らしていた。
「……あ」
「……ネジ?」
「音は、大きい方がよく逃げるニャ。だから……[小タル爆弾*2]、一個だけ入れたニャ」
――瞬間。[小タル爆弾]が炸裂し、『畑の番人・試作一号』は、畑の真ん中で景気よく弾け飛んだ。
藁が舞い、歯車が飛び、竹の腕が回りながら夕空へ吹き上がる。爆風が畑を走り、落ち葉の山の陰に潜んでいたにとりとネジを、まとめて後ろへ吹き飛ばした。
落ち葉の山が崩れた。
静葉が丁寧に色を揃えて掻き集めた紅、朱、黄、茶の葉が、夕闇の畑の上に、雨のように降り注いだ。
「……私の、落ち葉……」
静葉の呟きが、葉の雨の中に溶けていく。
爆音を受け、コンガ達は散り散りに逃げ出した。三匹は転がるように斜面を駆け上がり、茸の林へ飛び込んでいく。
だが、残る二匹は逃げなかった。
先頭の大きな一匹と、その隣の一匹だ。二匹は全身の桃色の毛を逆立て、牙を剥き出していた。うるさいのは大好きでも、自分たちよりうるさいものは気に入らないらしい。その目が、崩れた落ち葉の山の方を――そこに居る者たちを、まっすぐに捉えていた。
〈ウキャアアアッ!!〉
――先に飛び出したのは、イナホだった。
ネジの手が爆風で外れた瞬間、イナホは弾かれたように駆け出していた。背中の籠を放り出し、腰から小さな槌を抜く。穣子の笛を作った余りの、青い毛を巻いた槌だ。
「アタシの穣子の芋に、何するニャーッ!!」
イナホは先頭の大きなコンガの足元に滑り込み、その脛を槌で思い切り叩いた。
コンガが飛び上がる。そのまま長い爪で、足元の小さな猫を薙ぎ払う。イナホはゴロゴロと畝の間を転がり――そして、ただその勢いで起き上がって、また駆け出した。悪いことをしたら、何度でも叱りに行く。イナホにとっては、それが当たり前だった。
「――もう!イナホだけにやらせないわよ!」
穣子が、落ち葉の雨の中から立ち上がった。
背に負っていた大きな楽器を、両手で引き抜いて担ぐ。
――青熊笛『豊穣祭囃子』。太い胴に青熊獣の青い毛を巻き付け、打ち付ける面には黄褐色の甲殻を張った、祭り太鼓と笛を一つにしたような狩猟笛だ。胴の縁には、蜂蜜色の飾り紐が何本も垂れている。
穣子は笛を口元に当て、太く短い音を三つ鳴らした。収穫祭の囃子の、出だしの拍子だ。その音を聞いた途端、穣子の足も、イナホの足も、フッと軽くなる。笛の旋律が、体の奥の拍子を揃えていく。
「さあ、お祭りよ!――そーれっ!」
穣子は笛を大きく振りかぶった。狩猟笛は、ハンターやオトモを強化する旋律を吹いて鳴らす楽器であると同時に、振り回して殴る鎚でもある。太い胴が、イナホに追いすがろうとしていたコンガの横っ面を、ドンと叩いた。振り抜く勢いで、笛がボォンと響く。
コンガはよろめいて、畝の上に尻餅をついた。頭の上の飾り毛が、悲しそうに垂れる。
その隙に、もう一匹は柿の木へ跳び上がっていた。枝の上から青い柿をもいでは、穣子めがけて投げ付けてくる。一つが帽子のぶどうの飾りを掠め、一つがイナホの頭に当たってコツンと跳ねた。
「痛いニャ!アタシの穣子の柿を、投げるなニャ!」
「そうよ!まだ渋いんだから!」
そのコンガが、枝から音も無く飛び降りる。着地したのは、穣子のちょうど背後だった。
――もう一匹のコンガが、穣子の背後から跳び掛かろうと身を沈めた。
――その足元に、一本の矢がトスッと突き立った。
続けて、二本、三本。矢はコンガの体には一本も当たらない。ただ、跳び掛かろうとするその足の、前へ、横へ、紐を張るように突き立っていく。コンガは跳び上がる所を失って、その場でたたらを踏んだ。
それでも無理に跳ぼうとしたコンガの頭を、四本目の矢が掠めた。矢は頭の天辺の飾り毛だけを縫い取り、そのまま背後の柿の幹にトンと突き刺さる。幹には、赤と黄色の飾り毛が一房、旗のようにたなびいた。コンガは、少し寂しくなった頭を両手で押さえて立ち尽くした。
崩れた落ち葉の山の前で、静葉が弓を引き絞っていた。
――傘鳥弓『紅葉一筆』。傘鳥の赤い羽を扇のように幾重にも重ねた弓で、羽の縁には金と白の筋が走っている。引き絞ると、和傘を開いたように羽が広がり、その影が夕闇の中で一枚の大きな紅葉のように見えた。
「――穣子。後ろを向いた子には、近付かないで」
「え?」
静葉の声に振り返った時には、もう遅かった。
尻餅をついていた先頭のコンガが、ゆっくりと立ち上がり、穣子に尻を向けていた。毛むくじゃらの尻が、小刻みに震えている。
――ブバッ。
穣子の体が、後ろへ吹き飛んだ。
――爆風よりも強烈な、黄色い臭いの塊だった。穣子はまだ崩れきらずに残っていた落ち葉の山に背中から突っ込み、葉を撒き散らしながら埋もれた。甘い芋の香りが、跡形も無く吹き消されていく。
「……く、くさぁい……」
落ち葉の中から、穣子の細い声が聞こえた。
二匹のコンガは、勝ち誇ったように胸を叩いた。そして、次はお前だと言わんばかりに、弓を構えた静葉の方へ向き直る。
対する静葉は弓を下ろした。
そして、足元に転がっていた竹を一本、拾い上げた。弾け飛んだ案山子の竹の腕だ。その先に絡んだ藁が、爆発の火をもらって、赤々と燃えていた。
「――火は、嫌いでしょう?」
静葉は、燃える竹の腕を、二匹の鼻先へゆっくりと突き出した。
コンガ達の目が、まん丸になる。逆立っていた桃色の毛が、一瞬で寝た。
〈ウキャッ!?ウキャキャキャッ!!〉
二匹は踵を返し、前の手を地面に突いて、ポン、ポーンと跳ねながら斜面を駆け上っていった。先に逃げた三匹の後を追って、茸の林の闇へと消えていく。
落ち葉を踏む音が、だんだんと遠ざかる。
やがてそれも聞こえなくなり、畑には、燃える藁のパチパチという音だけが残った。
――崩れた落ち葉の山が、モゾモゾと動いた。
葉を掻き分けて最初に顔を出したのは、にとりだった。緑の帽子はどこかへ飛んでいって、青い髪には紅葉が何枚も刺さっている。顔は煤で真っ黒だ。体中から、機械油と火薬の焼けた匂いが立ち昇っていた。
続いて、その小脇に抱えられたネジが顔を出す。もともと焦げて縮れていた耳の先が、もう一回り、チリチリに縮れていた。
「……耳が、また縮れたニャ」
「……ネジ」
「……何ニャ」
「[小タル爆弾]は、試作品には入れないって、あれほど言ったよね?」
「『あれほど』じゃないニャ。一回だけニャ」
にとりは何か言い返そうとして――口を開けたまま止まった。それから、腰の袋から煮しめたような帳面を引っ張り出し、煤だらけの指で頁をめくる。
「……でも、待てよ。音爆弾だけの時は、あいつらは止まっただけだった。逃げ出したのは、爆発の後だ。つまり、音の大きさが足りなかったってことで……」
「ネジの言った通りニャ」
「……データとしては、悪くないけどねぇ」
にとりは煤だらけの顔で、むっつりと帳面に書き込んだ。ネジは縮れた耳のまま、得意そうに尻尾を立てた。吹き飛ばされても平気な子を――橙の選んだ通りの、わるびれない猫だった。
――少し離れた落ち葉の中から、穣子がヨロヨロと立ち上がった。
帽子のぶどうの飾りが少し傾き、金色の髪には落ち葉が絡まっている。そして何より、臭かった。いつも穣子の周りを包んでいた甘い芋の香りは跡形も無く、代わりに、コンガの残した黄色い臭いが、もうもうと絡み付いている。
穣子は自分の袖を嗅ぎ、前掛けを嗅ぎ、そして、その場に膝から崩れ落ちた。
「……私の……香りが……」
静葉が、燃える竹の腕を手にしたまま、穣子の傍らに屈み込んだ。そして、そっと妹の髪の匂いを嗅いだ。
「……落ち葉の匂いがするわね、今の穣子」
「……嬉しそうに言わないでよ!!」
「嬉しくなんてないわ、別に」
静葉はそう言ったが、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
畑の向こうから、イナホが歩いてきた。右の足を少し引きずっているが、胸を張って、両手には戦利品を掲げている。片手には、コンガから毟った桃色の毛を一掴み。もう片手には、一口かじられただけで救い出した芋を一つ。
「穣子!芋、取り返したニャ!」
穣子はイナホの差し出した芋を受け取り、しばらくそれを見つめていた。それから、その芋ごと、イナホを胸にぶら下げるように抱きしめた。
それから穣子は、イナホの右の足をそっと取って確かめた。爪で薙がれた所が、少しだけ腫れている。穣子は前掛けの裾を細く裂き、その足にくるくると巻き付けた。稲穂の模様の切れ端が、茶トラの足に収まっている。
「……穣子、くさいニャ」
「知ってるわよ!」
――それから、四人と二匹で、畑を片付けた。
にとりとネジは、畑中に飛び散った歯車と発条を拾い集めた。穣子とイナホは、齧られた芋を一つずつ拾い、齧られた所を小刀で削り取っていく。どんなに美しく実った芋が無造作に齧られたものでも、豊穣の神は一つも無駄にしない。
静葉は、竹箒でもう一度落ち葉を掻き集めていた。小さく溜め息をつきながら。それでも掻き集めた葉は、やはり色の並びが整っていた。
畑の真ん中では、爆発で燃え移った案山子の藁が、まだチロチロと燃えている。静葉はその火をかき集めた落ち葉に移し、小さな焚き火にした。穣子が、削った芋をその灰の中に一つずつ埋めていく。
にとりは焚き火の明かりで、拾い集めた歯車を一つずつ調べていた。欠けたもの、曲がったもの、焦げたもの。それでも半分以上は、まだ使えるという。河童の技術は、壊れてからが腕の見せ所だと、にとりは煤だらけの顔で胸を張った。
「……収穫祭までの十日、夜ごとにこうして火を焚いておきましょう。それだけで、あの子たちはもう来ないわ」
「じゃあ、番人の二号は、火を焚く案山子だね!」
「……燃えない案山子にしてね、にとり」
「そこは、試してみないと分からないさ」
「そんなの試さなくていいわ」
にとりが肩を竦め、ネジがその隣で小さく手を上げた。
「火を焚くなら、火薬も入れるニャ?」
「入れない」
「……一個だけでも、ダメニャ?」
「一個だけでもダメ」
――芋が焼けるのを待つ間、静葉は一人で、畑の東の端を歩いていた。
燃える竹の腕を松明の代わりに掲げ、畑と林の境を照らしていく。コンガが他の場所から畑へ入り込んでいないか。紅葉を見るのと同じように、山の端を一つずつ確かめていくのが、静葉の癖だった。
畑の東の外れに、一本の楢の大木が立っている。
松明の火が、その幹を下から照らした。
――幹の皮が、大きく剥がれていた。
静葉の背丈よりもずっと高い所に、太い爪痕が四本、斜めに走っている。コンガの細い爪ではない。もっと分厚く、もっと重いものの爪だ。剥がれた皮の切れ口はまだ白く、湿っている。
その爪痕の上の枝の股では、野生の蜂の巣が半分ほどもぎ取られ、崩れた巣の縁から、琥珀色の蜜が一筋、樹皮を伝って垂れていた。
幹の片側に、毛が絡み付いている。静葉はそれを指で摘まみ、松明の火にかざした。
青い毛だった。太く、硬く、獣の匂いのする。
「……『アオアシラ』ね」
静葉は身を屈め、幹の根元を照らした。柔らかい土の上に、大きな足跡が一つ。畑の方には向かっていない。山の方へ、引き返している。今夜は、蜂蜜だけで満足したらしい。
静葉は帳面を開き、松明の火の下で一行だけ書き付けた。
――焚き火に戻ると、穣子が灰の中から芋を掘り出しているところだった。
「……姉さん、何かあった?」
「熊が来てたわ。蜂蜜だけ食べて、山に帰ったみたい」
「熊?」
「収穫祭の頃になると、毎年下りてくるでしょう。蜂蜜の匂いと、実りの匂いに釣られて」
穣子は、焦げた芋を手の上で転がしながら、フンと鼻を鳴らした。
「あの熊が来たら、私が笛でぶっ飛ばしてあげるわよ」
「……あなたのその笛、その熊の素材でできてるのよ」
「だからよ!」
穣子は胸を張った。何が「だから」なのかは、本人にも分かっていないらしい。
にとりが帳面を開き、煤だらけの指でまた何かを書き足した。
「熊が来るなら、番人の三号は熊用だね。収穫祭までに間に合うかな……」
「[大タル爆弾]、使うニャ?」
「やめなさい」
――穣子が、焼けた芋を二つに割った。
黒く焦げた皮の下から、金色の実が湯気と一緒に立ち昇った。甘い香りが、焚き火の周りにふわりと広がる。落ち葉の燃える匂いも、煤と油の匂いも、畑の隅に淀んでいたコンガの臭いも、全部まとめて包み込んでしまうような、ほくほくとした甘い香りだった。
穣子はその湯気を胸いっぱいに吸い込み、それから自分の袖をもう一度嗅いだ。
「……戻ってきた。私の香り」
穣子は嬉しそうに笑うと、割った芋の片方をイナホに、もう片方を静葉に差し出した。それから次の芋を割って、にとりとネジにも渡す。
にとりは煤だらけの手で芋を受け取り、大きく一口かぶりついた。
「ん、甘い!……ちょっと油の味がするけど」
「それは、にとりの手の味でしょ!」
穣子が叫び、イナホとネジが、並んで芋にかぶりつく。
静葉は、受け取った芋を少しずつ、黙って食べていた。
「……美味しいわ」
「でしょう?」
穣子は、とびきり得意そうな顔をした。静葉は、何も言い返さなかった。
焚き火の上を、風に乗って紅葉が一枚、ヒラヒラと舞い降りてくる。静葉はその一枚を目で追いながら、小さく呟いた。
「……綺麗なものほど、すぐに散ってしまうけれど」
「散ったら、焼き芋の焚き付けになるのよ」
穣子が芋を頬張ったまま、当たり前のように言った。
静葉は少しだけ目を丸くして、それから、口元を袖で隠して笑った。
「……ねえ、姉さん。どうしていつも、紅葉の終わる日のことばっかり考えてるの?」
穣子が、芋を頬張ったまま尋ねた。静葉はしばらく焚き火を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「終わりが分かっていれば、それまでの間を、ちゃんと見ていられるでしょう。――山の色も、畑の実りも、あなたが子供達と交わした約束も」
「……何よそれ。難しいわ」
「ええ。だから私は、帳面に書くの」
静葉はそれ以上言わず、残りの芋を口に運んだ。穣子は少し考えるように首を傾げ、それから、焼けた芋をもう一つ、姉の手に押し付けた。言葉の代わりのように。
舞い降りた紅葉が焚き火の縁に落ち、一瞬だけ赤く光って、灰になった。
『秋穣子』
所属:守矢ギルド
役職:山麓農地・食糧管理協力員。登録ハンター兼任
武器:青熊笛『豊穣祭囃子』(狩猟笛)
オトモ:『イナホ』(アイルー)
『秋静葉』
所属:守矢ギルド
役職:山林季節観測員。登録ハンター兼任
武器:傘鳥弓『紅葉一筆』(弓)