東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第二章:風吹く山
第一話:風の出どころ


~妖怪の山 天狗の里の外れ 文の家~

 

――軒先の風鈴が、三日前から鳴り止まない。

 

 チリン、チリンと、夜も昼も細い音が続いている。風は強くない。ただ、北から下りてくる冷たい風が、一度も途切れずに杉林の斜面を撫でていくのだ。秋の妖怪の山で、これほど長く北風が吹き続けるのは珍しい。

 

 天狗の里の外れ、杉林の斜面に建つ小さな家。

 その板の間の真ん中で、文は刷り上がったばかりの新聞を一枚、両手で広げていた。墨の匂いが、まだ乾ききらずに鼻をくすぐる。

 

文々。新聞 山で季節外れの暴風

三日前の夜半、妖怪の山の北の尾根を、季節外れの暴風が吹き抜けた。

空に雲は無く、雨も降らず、霰だけが降った。

北の尾根の楢と楓は一夜で葉を落とし、倒れた木は二十余本。怪我人は無し。

風は半刻ほどで止んだ。氷霧連峰から吹き下ろす北颪は、例年なら初雪の後のことである。

風の出どころは、目下調査中。

 

 文は最後の一行を、指先でトントンと叩いた。

 何度読み返しても、その一行が気に入らない。

 

――三日前の朝、文は山の誰より早く北の尾根へ飛んだ。

 

 夜明けの空は嘘のように晴れていて、尾根の上には白い霰が薄く積もっていた。倒れた木を数え、裂けた枝を撮り、尾根の中継小屋に詰める山童に話を聞いた。そこまでは、いつもの取材だ。

――分からなかったのは、風そのものだった。

 風を操る鴉天狗にとって、風は顔見知りのようなものだ。谷を這い上がる朝の風も、尾根を越える颪も、季節の変わり目に吹き荒れる野分も、文は肌で見分けられる。どこで生まれ、どこを通り、どこで尽きるのか。大抵の風は、自分から身の上を話してくれる。

 だが、あの朝の尾根に残っていた風の跡は、何も話してくれなかった。

 空から吹き下ろした風なら、木は皆、同じ向きに倒れる。ところが北の尾根の木は、渦を巻くように倒れていた。何かが尾根の上に居座り、その周りを風がグルリと巻いて回ったように。しかもその渦の跡は一つではなく、尾根の北の端から南へ向かって、点々と続いていた。

 

――まるで、風が歩いてきたようだった。

 

 それに、もう一つ。尾根に溜まっていた風は、微かに金(・)気(・)臭(・)か(・)っ(・)た(・)。雨に濡れた鉄のような、湿った匂いだ。鍛冶場の裏ならともかく、木と土しかない尾根の上で嗅ぐ匂いではない。

 どちらも、記事には書いていない。

 文は板の間の端から、乾いた写真を一枚取り上げた。北の尾根を、空の上から撮ったものだ。倒れた楢の梢が、写真の中で大きな渦を描いている。渦の真ん中だけ、何も倒れていない。

 

「……撮れたものは、撮れたもの。でも、これが何なのかは、まだ書けないわねぇ」

 

 自分の目で確かめていないことは書かない。四年前の夏の終わり、楢の森で一枚も撮らずに写真機を下ろした日から、文はそう決めている。

 風鈴が、また鳴った。

 文は写真を紙挟みに仕舞い、新聞の束を紐で括って肩に担いだ。今朝のうちに、守矢の会所へ届けなければならない。

 

~守矢ギルド 妖怪山岳狩猟会所 受付~

 

――会所の受付には、朝から炭火の匂いが漂っていた。

 

 守矢神社の境内の外郭に建つ、守矢ギルドの会所である。土間の壁には依頼の掲示板が掛かり、その隣に、山域の封鎖を知らせる木札が並んでいる。今朝は一枚、新しい札が増えていた。墨の色もまだ濃い。

 

北の尾根、倒木の片付けにつき通行注意

 

 帳場の奥では、一人の少女が湯呑みを両手で包んでいた。

 金色の髪を肩の辺りで切り揃え、前髪の一房だけが長く垂れて、片方の目に掛かっている。頭の上には狐の耳。白いアオザイのような衣の裾から、フサフサとした狐色の尻尾が覗き、帳場の椅子の脇でゆったりと揺れていた。筆立てには筆に混じって、硝子の細い管が一本挿してある。

 守矢ギルドの主席受付書記(受付嬢)にして、大天狗『飯綱丸龍』の右腕――管狐の『菅牧典』だ。

 

「おはようございます、文さん。今朝も一番乗りですねぇ」

「あやや、典さん。おはようございます。今朝の分をお届けに」

 

 文が新聞の束を帳場に載せると、典は一番上の一枚を抜き取り、湯呑みを脇へ寄せて広げた。細い目が、見出しから本文へ、ゆっくりと下りていく。最後の一行で、その目が止まった。

 

「……『風の出どころは、目下調査中』。ふふ。文さんにしては、珍しく歯切れの悪い締めですねぇ」

「書けないことは書かない主義でして」

「存じてますよ。――だから、気になるんです」

 

 典は新聞を畳み、膝の上に置いた。口元は笑っているのに、片方だけ覗いた目は少しも笑っていない。

 受付に来る者は、依頼と一緒に、自分でも気付かないうちに色々なものを置いていく。焦り、見栄、欲しいもの。典はそれを一つずつ拾い集めて、帳場の引き出しに仕舞っておくのが得意だった。文の場合、それは今朝の新聞の最後の一行に書いてあった。

 

「――では、書けることを一つ、差し上げましょうか」

 

 典は帳場の引き出しを開け、依頼票を一枚取り出した。

 

依頼:北の尾根 中継小屋の荒らし

目標:荒らしたものの正体の調査、および追い払い

地点:北の尾根、山童の中継小屋とその周辺

条件:大型の恐れあり。ハンター二名以上

 

「今朝早く、中継小屋の番から使いが下りてきましてね。山童の商隊が荷を預けておく、あの小屋です。昨夜、その蔵が破られたそうですよ」

「熊ですか?」

「さぁ?蔵の干し柿と干し肉が根こそぎ無くなって、小屋の壁には、雪玉がたくさんぶつけてあったとか」

「雪玉?……今は秋ですよ」

「えぇ。でも、あの尾根の日陰には、三日前の霰がまだ残ってますから」

 

 典は帳場から少しだけ身を乗り出した。声が一段、低くなる。

 

「――それに、北の尾根は、三日前の風が通った所でしょう?」

 

 文は依頼票から目を上げた。典は、もう元の位置に座り直して、湯呑みを口に運んでいる。

 

「……典さん。私を乗せようとしてますね?」

「まさか。私は、文さんが行きたい所へ、行きやすい道を敷いて差し上げるだけですよぉ」

「それを、乗せると言うんです」

「ふふ。でも、乗るんでしょう?」

 

 文は答えず、依頼票の受注の欄に自分の名を書いた。典は満足そうに尻尾を一度だけ振り、筆の先で受注の欄の隣を指した。同行者の欄が、空いている。

 

「ハンター二名以上、ですよ。――ちょうど、待合で朝から暇を持て余している方が一人居ますし」

 

――典の声が終わるより早く、待合の衝立の向こうから、緑の髪がひょっこりと覗いた。

 

「文さん!おはようございます!北の尾根ですか?」

 

 早苗だった。その足元から、銀灰の縞のアイルーが、早苗のスカートの裾を掴んだまま顔を出す。オトモのソヨだ。

 

「早苗、まだ依頼票も見てないのに、行く気になってるニャ」

「だって気になってたのよ!三日前の夜、神社の御柱まで揺れたんだから!――文さん、行きます。行かせてください!」

「あやや。なら、断る理由がありませんねぇ」

 

 文が同行者の欄を早苗の方へ滑らせると、早苗は筆を取って勢いよく名前を書いた。その下に、ソヨが前脚で小さく丸を描き足す。

 典は依頼票を受け取ると、立ち上がって帳場の奥へ向かった。奥の間は障子で仕切られている。典が障子の前に依頼票を差し出すと、障子が細く開き、腕が一本だけ伸びてきて、票に判を押した。

 

『――行ってきな。だけど狩るなよ。追い払うだけだ』

 

 障子の向こうから、神奈子の声がした。風雨の神にして、守矢ギルドのギルドマスターの声だ。

 そして障子が閉まりかけて、もう一度だけ、細く開いた。

 

『……北へ行くなら、風下を歩け。あの晩の風は、どうも気に入らない』

 

 障子が閉まった。

 文は、閉じた障子の白い紙を少しの間だけ見ていた。風を司る神が、気に入らないと言った風。それが何の風なのかは、障子の向こうの神も口にはしなかった。

 


~妖怪の山 北の尾根 山童の中継小屋~

 

――尾根の北側だけ、秋が一足先に終わっていた。

 

 南の斜面は、楓も漆も燃えるように赤い。ところが尾根を一つ越えた途端、景色から色が抜け落ちる。楢も楓も葉を一枚残らず毟り取られ、灰色の枝だけが空に向かって突き立っていた。毟られた葉は、尾根の南の窪みに吹き溜まって、腰の高さほどの赤い山になっている。

 

 倒れた木が、あちこちで尾根の道を塞いでいた。根ごと引き抜かれたもの、幹の半ばで折れたもの。折れ口はまだ白く、木の汁の匂いがする。

 

 そして、日の当たらない岩陰や木の根元には、白いものが残っていた。三日前の霰だ。秋の日差しに溶けきらず、薄く固まって、まるで初冬の朝のように地面を覆っている。

 

「……寒い。まだ秋なのに」

「北風が、ずっと止まないニャ」

 

 早苗が二の腕をさすり、ソヨが縞の毛をフワリと膨らませる。

 文は、二人の少し前を歩いていた。飛べば一息の距離だが、今日は足で歩くと決めている。空から見えるのは倒れた木の並び方だけだ。地面に残った足跡は、地面の上を歩かなければ読めない。背の双剣が、歩くたびに小さく鳴った。

 

――中継小屋は、尾根の鞍部に建っていた。

 

 丸太を組んだ小屋と、その脇に石を積んだ蔵が一つ。山童の商隊が、麓へ下ろす荷や麓から上げる荷を、ここで一晩預けていく。小屋の軒先には、商隊の印を染めた布が掛けてあった。

 その蔵の戸が、蝶番ごと引き剥がされて、地面に転がっていた。

 小屋の戸口では、番の山童が腕を組んで待っていた。三人の姿を見ると、ホッとしたように腕を解く。

 

「来てくれたか。見ての通りですよ。蔵の干し柿も干し肉も、全部持っていかれちまった」

「姿は見ましたか?」

「白いのが、何匹も。夜中にギャアギャア騒ぐ声がして、窓の隙間から覗いたら、蔵の前で白いのが跳ね回ってた。こっちに気付いたら、雪玉を投げてきやがって」

「白い、何です?」

「暗くてよく分からねぇ。猿みたいだったが……一匹だけ、とんでもなくデカいのが居た」

 

 文は手帳を開き、山童の言葉をそのまま書き付けた。それから、小屋の壁を見上げる。

 

――壁一面に、雪玉の跡がこびり付いていた。

 

 霰を固めた雪玉が、丸太にぶつかって潰れ、半ば凍ったまま張り付いている。その一つを、早苗が指でそっと剥がした。手の中に残った雪玉の欠片を見て、早苗は目を丸くする。

 

「文さん。これ……模様が描いてあります」

 

 雪玉の表に、指で引いたような筋が、渦を巻いて刻まれていた。潰れていない雪玉を探すと、壁の下に一つ転がっている。そちらにも、同じ渦の筋。別の雪玉には、渦ではなく、細い筋が何本も平行に引かれていた。

 

「……遊んでるんですかねぇ。投げる前に、わざわざ描くなんて」

「そんな暇な猿、聞いたことないです」

「えぇ。山の猿じゃありませんね」

 

 文は雪玉を壁の下に戻し、蔵の前の地面にしゃがみ込んだ。

 蔵の前は日陰で、霰がまだ白く残っている。その上に、足跡が幾つも重なって刻まれていた。

 前の足の跡は、掌ではなかった。握った拳を、指の背で地面に突いた跡だ。拳の跡が四つ並び、その少し後ろに、人の手のように指の開いた後ろ足の跡が付いている。拳で歩く獣の足跡だった。

 小さな拳の跡が、蔵の周りをグルグルと回っている。数えると、六つか七つ分。そしてその輪の外側に、一つだけ、桁の違う拳の跡があった。

 文は自分の手を広げ、その拳の跡の一つに重ねてみた。文の手が、拳の指の背の一本分にしかならない。跡の深さは、文の指の第二関節まで沈む。

 

――大きくて、重い。それに、群れの外側に居る。

 

 群れの真ん中で騒ぐのは子分だ。長は、外側で全体を見ている。

 

「コンガでしょうか?穣子さんの畑を荒らしたのは、拳じゃなくて手の跡だったって聞きましたけど」

「コンガなら、臭いが残ります。――ここ、何か臭いますか?」

 

 早苗が鼻をひくつかせて、首を横に振る。冷たい北風の匂いしかしない。

 文は立ち上がり、引き剥がされた蔵の戸を検めた。戸の蝶番の金具に、白いものが絡み付いている。毛だ。一本、指で摘まんで引くと、毛は抜けずに金具ごと戸を揺らした。

 

「早苗さん、これ、千切れます?」

 

 早苗が毛を受け取り、両手の指に巻き付けて引いた。顔を赤くして引いた。それでも毛は千切れず、早苗の指の方に赤い筋が残った。

 

「い、痛っ……!何ですかこれ、針金みたいです」

 

 文はその毛を指の間で擦った。冷たい風の中なのに、毛の芯にほんのりと温もりが残っている。脂を含んで、しっとりと重い。この毛は、吹雪の中で体の熱を逃がさないための毛だ。秋の山の獣の毛ではない。

 

――雪山の獣の毛だ。

 

「早苗!こっちにも何かあるニャ!」

 

 小屋の裏手で、ソヨが前脚で地面を掻いていた。霰の残る日陰の土が、こんもりと小さく盛り上がっている。ソヨが土を掘り返すと、中から黒っぽい塊が出てきた。

 

「……糞(フン)ニャ。でも、くさくないニャ。それに、わざわざ埋めてあるニャ」

 

 文はソヨの隣に屈み込んだ。塊の外側は霰の冷たさで固いが、割ると中はまだ柔らかい。昨夜のものだ。小屋の裏手を見回すと、同じような小さな盛り土が、小屋を囲むように、等しい間を空けて並んでいた。一つ、二つ、三つ……蔵の前から尾根の北の方へ、点々と続いている。

 ただ食い散らかしていく獣は、糞を埋めたりしない。埋めて、しかも並べるのは、ここが自分の場所だと示すためだ。

 

「……縄張りの印、ですかね」

「えっ。じゃあ、ここに住み着くつもりなんですか?」

 

 文は手帳を閉じた。

 拳で歩く獣。群れの外側で全体を見ている、桁違いに大きな長。脂を含んだ、千切れない白い毛。模様を刻んだ雪玉。縄張りに埋めて並べた糞。

 

――去年の冬、文は一度だけ、それを見たことがあった。毎年、『氷霧連峰』へ黒幕の写真を撮りに行く。その帰り道の雪原で、白い群れと、その真ん中に座る大きな白い影を、遠くから一枚だけ撮った。あの時、連峰の冬を知り尽くした雪の妖怪は、のんびりとこう言っていた。

 

――『あの子は、この峰から一歩も出ないのよ。誰が来ても、自分の山だけは譲らないの』

 

「――『雪獅子』。氷霧連峰の、白い猿の群れの長ですよ」

「雪獅子……」

「またの名を『ドドブランゴ』。去年の冬、連峰で一度だけ撮りました。……ただ、ここに居るのがおかしいんです」

 

 文は、小屋の北を振り返った。

 盛り土の並びは、尾根の北の端から下りてきている。そして、その並びに沿うように、渦を巻いて倒れた木々が点々と続いていた。三日前に文が空から撮った、あの渦の跡だ。

 

「あの長は、自分の峰から出ない筈なんです。何年も、何十年も。――それが、風の通った道をそっくり辿って、ここまで下りてきている」

「……追い出された、ってことですか?」

「さて。追い出したのが何なのかも、まだ書けませんねぇ」

 

 北風が、尾根を吹き下りてきた。

 その風の中に、文はまた、あの微かな金気の匂いを嗅いだ気がした。だが、振り返った北の空はただ青く、どこまでも晴れていた。

 

~北の尾根 霰の窪地~

 

――盛り土の並びは、小屋から尾根を西へ下りていた。

 

 文は、神奈子の言葉どおりに風下を選んだ。北風は尾根の上を北から南へ吹き下りている。獣が北や西に居るなら、南から近付けば、こちらの匂いは風に乗って後ろへ流れていく。三人は尾根の南の肩を回り込み、倒木を跨ぎ、盛り土を一つずつ確かめながら進んだ。

 

 四つ目の盛り土を過ぎた辺りで、森の音が変わった。

 尾根の南側では、まだ鵯が騒がしく鳴き交わしていた。それが、いつの間にか聞こえない。風に鳴る枯れ枝の音と、三人の足音だけになっている。

 

「……鳥が、黙りましたね」

「えぇ。――近いですよ」

 

――倒れた楢の陰に、ケルビが一頭、横たわっていた。

 

 首を捻じ折られ、腹が裂かれている。周りの霰が赤黒く染まり、まだ乾ききっていない。早苗が息を呑んで顔を背け、ソヨが早苗の脚にピタリと寄り添った。

 文は骸の傍に膝を付いた。肉は、食い千切られた跡が二種類ある。大きく抉り取った深い跡が幾つか。その周りに、小さな歯で啄むように齧った跡がびっしり。大きな歯が先に食べ、小さな歯が残りを分け合ったのだ。食べ方に、順番がある。

 

――長が先に食べて、残りを子分に分けている。

 

 ただの猿の群れではない。上と下がハッキリ決まった群れだ。

 骸から先は、もう盛り土を探す必要が無かった。拳の跡が、霰の上に何列も重なって、尾根の西の窪みへ真っ直ぐ続いている。

 

――そして、その窪地だけが白かった。

 尾根の北西の、岩壁に抱かれた深い窪み。日が一日中差さないのだろう。三日前の暴風が運んできた霰が、そこにだけ膝の深さまで吹き溜まり、窪地をまるごと冬の雪原に変えていた。紅葉の山の真ん中に、白い冬がひと切れだけ落ちている。

 三人は窪地の縁の岩陰に身を伏せた。文が先に頭を出し、その脇から早苗とソヨが恐る恐る覗く。

 

――はたして窪地の真ん中に、白い猿の群れが居た。

 大人の背丈ほどの、白い毛の猿が六匹。頭の天辺から肩にかけて、丸い房のような鬣が二つ、こんもりと盛り上がっている。顔は赤く、鼻の脇に青い筋が走っていた。雪の山に棲む小型の猿、『ブランゴ*1』だ。

 二匹は、取り返した干し柿を奪い合っていた。一匹は霰を両手で丸めて雪玉を作り、指先でその表に何かを一心に描いている。渦の模様だ。描き終えると、出来栄えを確かめるように雪玉を目の高さに掲げ、満足そうに足元へ並べた。そこには既に、模様入りの雪玉が十も並んでいる。

 そして――その群れの奥。

 

――岩壁を背にして、白い山が一つ座っていた。

 その体躯はブランゴの倍はある。肩と腕の肉が異様なまでに盛り上がり、全身を覆う白い毛が、北風を受けて波のようにうねっていた。頭の天辺は毛が無く、瘤のように丸く突き出している。頬からは、長く白い髭が垂れ下がっていた。そして口の端から、大人の腕ほどもある牙が二本、下顎を突き破るように上へ反り返って覗いている。

 

――『雪獅子:ドドブランゴ*2』

 

 ドドブランゴは、毛繕いをしていた。

 太い指を熊手のように広げ、腕の毛を梳いては、絡んだ枯れ葉や泥を摘まみ取って捨てていく。頬の髭も、指で一本ずつ揃えるように撫で付けていた。白い毛並みが、梳かれた所から艶を取り戻していく。のんびりとした仕草だった。強い長は、急がない。

 

「……綺麗好きなんですね」

 

 早苗がヒソヒソと囁く。

 ドドブランゴは毛繕いを終えると、脇に置いていた獣の腿肉を一つ拾い上げた。さっきのケルビの残りだろう。それを、一番近くに居た小さなブランゴの前に放る。小さなブランゴは肉に飛び付き、他の者に取られないよう、胸に抱えて背を丸めた。長はそれを見届けると、また岩壁にもたれた。

 長が獲物を分けてやる。子分は長を囲んで眠る。ここが氷霧連峰の雪原なら、何も珍しくない光景なのだろう。

 

――その時、北から風が吹いた。

 

 尾根を越えてきた強い一陣だった。枯れ枝がザァッと鳴り、窪地の霰が細かく舞い上がる。

 ドドブランゴの動きが、止まった。

 岩壁にもたれていた巨体が、ゆっくりと身を起こす。白い毛が、根元から一斉に逆立った。長は北の空へ顔を向け、鼻を大きくひくつかせた。風の匂いを嗅いでいる。牙を剥き出しにした口から、喉の奥で擦れるような唸り声が漏れた。

 

〈グルルルル……〉

 

 群れのブランゴ達も、干し柿を取り落として身を縮めた。何匹かは、膝まで積もった霰の中へ、頭から潜り込んでいく。

 風が止んでも、長はしばらく北を睨んでいた。それから、岩壁の陰へ、北から隠れるように一歩下がって座り直した。

 

――あの群れは、北を怖がっている。

 

 雪の峰の長が、峰から吹いてくる風を怖がっている。

 文は、手帳を握る指に力が入るのを感じた。

 

――追い出されたのだ。誰が来ても自分の山だけは譲らない長が、何かに峰を追われ、風の道を辿って、ここまで逃げてきた。そして紅葉の山の中で、三日前の霰が残したひと切れの冬に、しがみ付いている。

 

「……文さん。追い払うって、どっちへ追い払えばいいんでしょう」

 

 早苗が、小さな声で訊いた。

 

「北へは、帰らないでしょうね。でも、ここに居着かれたら、中継小屋も尾根の道も使えなくなります。蔵が空になったら、次は麓の集落ですよ」

「それは……困ります」

「えぇ。だから、ここが居心地の悪い場所だと分かってもらうしかありません。――それでも退かない時は、牙を狙います」

「牙、ですか?」

「あの二本の大きな牙は、長の証なんです。冬の連峰で、雪の妖怪――レティさんがそう言ってました。牙を折られた長には、群れが付いていかない」

 

 早苗は、岩陰からもう一度窪地を見た。小さなブランゴが、長の足元で腿肉を齧っている。

 

「……それって、可哀想じゃないですか」

「狩るよりは、ずっとマシです」

 

 文の声は平らだった。早苗は何か言いかけて、唇を結んだ。

 ソヨが、早苗の袖をクイと引いた。

 

「早苗。決めるのは後ニャ。――こっち、見てるニャ」

 

 窪地の手前で、雪玉を並べていたブランゴが、顔を上げていた。その赤い目が、岩陰から覗いた銀灰の縞の尻尾を、真っ直ぐに捉えている。

 

〈ギャッ!ギャギャッ!〉

 

 ブランゴが甲高く叫び、模様入りの雪玉を掴んで投げ付けてきた。雪玉は岩の縁に当たって砕け、ソヨの頭に霰の粉を降らせる。

 窪地の奥で、白い山が立ち上がった。

 ドドブランゴは拳を地面に突き、ゆっくりと窪地の縁へ向き直る。岩陰の三人を見据え、胸を大きく反らした。

 

〈ゴアアアアァァッ!!〉

 

――咆哮と同時に、窪地の霰が弾けた。

 

 さっき霰の中へ潜り込んでいたブランゴ達が、雪煙を上げて一斉に飛び出してくる。長の声を合図に、雪の下で待っていたのだ。白い影が四方へ散り、窪地の縁をグルリと囲むように跳ね上がった。

 

「早苗さん、小さい方をお願いします!長は私が!」

「は、はい!――ソヨ、行くわよ!」

「行くニャ!」

 

 文は岩陰から跳び出し、背の双剣を引き抜いた。黒い刃が二振り、両手に収まる。

 早苗も、背から白銀の操虫棍を抜いた。腕に掴まっていた猟虫が、棍の先の合図で飛び立つ。羽音を立てて窪地の上を一回りすると、雪玉を振りかぶったブランゴの顔の前を掠め、その鬣から白いエキスを吸い取って戻ってきた。早苗の体が、ふっと軽くなる。

 

――ドドブランゴが、跳んだ。

 

 巨体からは考えられない跳躍だった。太い片腕を真横に振り上げたまま、窪地の真ん中から文の居る縁まで、一息に飛び込んでくる。

 文は横へ跳んだ。風を切る音すらしない速さで、腕の届かない所へ。巨大な腕が、文の居た場所の岩を薙ぎ、岩の角が砕けて飛ぶ。

 着地したドドブランゴの背中に、文が回り込む。脇腹へ二振りの刃を走らせた。

 浅い。刃は確かに入ったが、白い毛に絡め取られて、肉まで届かない。千切れない毛の鎧だ。

 

――毛の薄い所を狙うしかない。顔か、腹か。

 

 文がもう一太刀入れようとした瞬間、ドドブランゴの巨体が、こちらを向かないまま後ろへ跳ねた。

 背中から。後ろ足を揃えて、真後ろに。

 

「――文さん!」

 

 早苗の叫びが届くより先に、白い背中が文の体を撥ね飛ばしていた。文は霰の上を三度転がり、岩壁にぶつかって止まる。息が、肺から全部押し出された。

 

――振り向かずに、後ろへ蹴る。そういう戦い方をする。

 

 速さ比べなら負けない。だが、相手は目で追うより先に、文が居る所へ体を投げてくる。四年前の楢の森の黒い迅竜と同じだ。速さの勝負ではない。

 

「――[回復しゃぼん]、飛ばすニャ!」

 

 ソヨが腰の袋から大きなしゃぼん玉を吹き出した。[回復しゃぼんの技*3]だ。ふわふわと漂ったしゃぼん玉が文の肩に当たって弾け、温かい雫が打ち身に沁みる。文は咳き込みながら立ち上がった。

 

「……ありがとうございます、ソヨさん。いい腕ですねぇ」

「お礼は後ニャ!」

 

 窪地の縁では、早苗がブランゴ二匹を相手にしていた。棍を地面に突き立て、その反動で宙へ跳ぶ。跳び上がった早苗の足元を、雪玉が三つ、四つと素通りしていく。空中で体を捻り、落ちざまに棍でブランゴの頭を叩いた。ブランゴは悲鳴を上げて霰の中を転がり、這うようにして岩陰へ逃げ込んだ。

 

――ドドブランゴが、拳を霰に突っ込んだ。

 

 

 霰と、その下の凍った土ごと、地面を大きく抉り取る。人の頭ほどもある塊を、両腕で抱え上げ、振りかぶり――早苗へ投げ付けた。

 

「早苗、上ニャ!」

 

 早苗は咄嗟に棍を突いて跳んだ。塊は早苗の足の下を通り過ぎ、背後の倒木に当たって、木の皮ごと砕け散る。凍った土の欠片が、雨のように降り注いだ。

 着地した早苗が息を吐く間も無く、ドドブランゴは霰の吹き溜まりへ頭から跳び込んだ。

 白い巨体が、霰の下へ消える。

 

「えっ……消え――」

 

 窪地の霰が、盛り上がった。

 盛り上がりは、モグラが土の下を進むように、霰の表を割りながら真っ直ぐ早苗の方へ走ってくる。速い。

 

「――下です!跳んで!」

 

 文の声と、早苗が棍を突くのが同時だった。早苗の足が地面を離れた次の瞬間、その真下の霰が爆ぜて、白い巨体が両腕を振り上げて飛び出してきた。指先が、早苗の靴の裏を掠める。

 早苗は宙で一回転して、どうにか窪地の縁に着地した。顔が真っ青になっている。

 

「い、今の、雪の下から……!?」

「雪の山の獣ですから。雪の下は、あれの庭ですよ」

 

 飛び出したドドブランゴは、窪地の真ん中で後ろ足立ちになった。

 天を仰ぐ。白い胸が大きく膨らむ。鼻の脇の青い筋が、見る間に赤く染まっていった。

 

〈ゴアアアッ!ゴアアアアッ!!〉

 

 空へ向けた怒号が、岩壁に跳ね返って窪地じゅうに響く。周りのブランゴ達の鼻筋も、一斉に赤くなった。逃げ込んでいた一匹まで、岩陰から跳び出してくる。群れ全体が、長の怒りに染まっていく。――怒り状態だ。

 

 ドドブランゴの動きが、目に見えて速くなった。跳ぶ。殴る。後ろへ跳ね、横へ跳ね、また跳び込んでくる。文は巨体の脇をすり抜け、腕の下を潜り、刃を返す。何度か刃が通ったが、どれも毛の上を滑るばかりで、深くは入らない。

 ドドブランゴが、また胸を大きく反らした。

 今度は咆哮ではない。巨体が仰け反り、喉を鳴らして、息を吸い込んでいく。足元の霰が、ズズズ……と、その口の方へ吸い寄せられていく。

 

「早苗さん!正面から退いて!」

 

――遅かった。

 ドドブランゴが首を振り下ろし、溜め込んだ息を一気に吐き出した。肺の力だけで巻き上げた霰が、吹雪の塊になって窪地を薙ぐ。その白い奔流が、ブランゴを追っていた早苗を真正面から呑み込んだ。

 吹雪が抜けた後、早苗が居た所には、白い雪の塊が立っていた。

 頭の上から足の先まで霰に固められ、雪だるまのようになった早苗が、塊の中でもがいている。手も足も、思うように動かない。

 

「さ、寒い寒い寒いっ……!う、動けない……!」

 

 ソヨが駆け寄り、腰の袋から小瓶を取り出して、雪の塊に中身を振り掛けた。[消散剤]だ。凍った霰がジュワリと溶け崩れ、早苗が雪の殻を破って転がり出てくる。

 その二人めがけて、ドドブランゴが拳を振り上げて跳んだ。

 

――文は、二人の前に跳び込んでいた。

 刃では止まらない。文は双剣を交差させて、振り下ろされる腕の付け根に刃を当て、体ごと横へ受け流した。腕が文の肩を掠めて、霰の地面に叩き付けられる。肩の防具の黒い毛が、何本か千切れて舞った。

 ドドブランゴは、その場で後ろ足立ちになった。

 両腕を大きく振り上げ、全身の重みを乗せて、前のめりに倒れ込んでくる。

 

――ズゥンッ!

 

 腹から地面に叩き付けられた巨体に、窪地全体が揺れた。足元が跳ね、文も早苗も膝を突く。岩壁の上で、何かがパキリと鳴った。岩の庇から垂れていた霰の氷柱が、揺れで折れて、鋭い先を下にして降ってくる。

 文は早苗の襟首を掴んで、横へ跳んだ。氷柱が二人の居た所に、三本、四本と突き刺さる。

 

「……あ、ありがとうございます……!」

「どういたしまして。――早苗さん、まだ跳べますか?」

「はい、跳べます!」

「なら、次にあれが息を吸ったら、真上から頭を叩いてください。正面には、私が立ちます」

「正面って……文さんも雪だるまになりますよ!?」

「なりませんよ。この『射命丸文』が、幻想郷最速の鴉天狗が、風で負けるわけにはいきませんからね」

 

 軽口とは裏腹に、文の頬を冷たい汗が伝っていた。早苗は文の顔を見て、それから黙って頷いた。

 ドドブランゴが身を起こす。牙の生えた口が、荒い息を吐いている。赤く染まった鼻筋の上で、小さな目が文を見据えた。目の前の黒い天狗が、群れを荒らしに来た一番の敵だと、長はもう分かっている。

 文は、窪地の真ん中に立った。双剣を下げ、構えもせずに、真正面から長を見返す。

 

――待つ。動かずに、待つ。

 

 四年前の夜に覚えたことだ。相手が動くまで、こちらは動かない。

 ドドブランゴが、胸を反らした。仰け反った巨体が、喉を鳴らして息を吸い込んでいく。霰が、その口へ吸い寄せられる。

 文は、空いた左手を前へ差し出した。

 風を操る程度の能力。強い風ではない。ほんの一陣、向きを変えるだけの風だ。ドドブランゴの肺から吐き出された吹雪が、窪地を薙ぐその寸前、文の掌の前で、風がクルリと向きを返した。

 

――吹雪が、吐いた者の顔に跳ね返る。

 

 自分の吐いた霰を、目にも鼻にも口にも真正面から浴びて、ドドブランゴが仰け反った。両手で顔を掻き、首を激しく振る。毛繕いをしていた時の、あの指の動きだ。だが顔に張り付いた霰は、すぐには落ちない。

 その真上に、白銀の影が舞っていた。

 棍を突いて高く跳んだ早苗が、窪地の上で体を返す。猟虫が早苗の腕へ戻り、また飛び立ち、その度に早苗の体に赤と白と橙の光が灯っていった。三つの力を全部揃えた早苗が、宙から真っ直ぐに落ちてくる。

 

「――えいっ!」

 

 棍が、ドドブランゴの禿げた頭の瘤を、真上から打ち据えた。

 巨体がよろめく。膝が折れ、顎が落ちる。牙の生えた口が、文の目の高さまで下りてきた。

 

――牙に、刃が届く。

 

 文は鬼人の力を己が身に宿した。双剣を握る腕に熱が奔り、体が軽くなる。黒い刃が二振り、文の手の中で旋風のように回り出した。

 狙うのは、口の端の牙。右の一本だけを。

 一太刀。二太刀。三太刀。刃が牙の根元を打つたびに、硬い音が窪地に響く。牙は硬い。刃が欠けそうなほどに硬い。それでも文は手を止めず、同じ一点へ、刃を叩き込み続けた。

 

――バキィンッ!!

 

 右の牙が、根元から折れ飛んだ。

 白い牙がクルクルと宙を舞い、霰の上に突き刺さる。ドドブランゴが顔を押さえて、甲高い悲鳴を上げた。

 

〈ギャアアアッ!?〉

 

――窪地が、静かになった。

 

 ブランゴ達が、動きを止めていた。雪玉を振りかぶったまま、跳ね上がる途中で、霰の中から顔を出したまま。六匹の赤い顔が、一斉に長の口元を見ている。片方だけになった、牙を。

 ドドブランゴが顔を上げ、群れへ向かって吼えた。

 

〈ゴアァァッ!〉

 

 いつもなら、この声で群れは一つになる。

 一匹目のブランゴが、雪玉を足元に落とした。そして――長に背を向けた。二匹目も、三匹目も。干し柿を抱えていた小さなブランゴも、長に肉を貰っていた一番小さなブランゴも。

 誰も鳴かず、誰も振り返らず、白い猿達は一匹ずつ窪地の縁を越え、紅葉の森の中へバラバラに散っていった。

 

〈ゴアァァァァァッ!〉

 

 ドドブランゴはもう一度吼えた。しかし、誰も戻ってこなかった。

 

〈ゴァ……ァァ……〉

 

 三度目の声は、ほとんど掠れていた。

 赤く染まっていた鼻筋の色が、少しずつ引いていく。群れの長だ(・)っ(・)た(・)雪獅子は、窪地の真ん中に一頭だけで立っていた。

 早苗が、棍を下ろした。ソヨが、早苗の脚にしがみ付く。誰も、何も言わなかった。

 

 ドドブランゴが、ゆっくりと文の方を向いた。片方だけ残った牙の口で、荒い息を吐いている。文は双剣を下げたまま、その目を見返した。

 長いような、短いような間があった。

 ドドブランゴは、文から目を外した。そして、拳を地面に突いて、北を向いた。

 

――長が向いたのは、北の峰だった。

 

 窪地の縁を、北へ上っていく。尾根の上に出ると、北風がまともにその体を打った。白い毛が、根元から逆立つ。さっき岩壁の陰へ逃げ込んだ時と同じように、巨体が一瞬、怯んで止まった。

 

――それでも、ドドブランゴは歩き出した。

 風に向かって、一歩ずつ。拳を突き、後ろ足を引き寄せ、また拳を突く。尾根の上を、渦を巻いて倒れた木々の跡を逆に辿るように、北の峰の方へ。その背中が、灰色の枝の向こうへ小さくなっていく。

 

「……あっちは、北ですよね。怖がってた方です」

 

 早苗の声が、少し震えていた。

 

「えぇ。――群れを失っても、長は自分の山を捨てないんですよ。追い出されても、取り返しに戻る。そういう牙獣なんです」

「取り返しにって……何から、ですか?」

 

 文は答えなかった。

 北風が、また尾根を吹き下りてきた。その風の中に、あの微かな金気の匂いが混じっていた。今度は、気のせいではなかった。

 

~北の尾根 山童の中継小屋~

 

――中継小屋に戻った頃には、日が西の尾根に掛かっていた。

 番の山童は、三人の話を聞くと、腕を組んで唸った。長が北へ帰ったと聞いて胸を撫で下ろし、群れが散ったと聞いて眉を寄せる。

 

「散ったってことは、白いのが森のあちこちに居るってことですかい?」

「長の居ない群れは、もう纏まりません。一匹ずつなら、蔵の戸を破るほどの力も無いですよ。冬が来れば、皆どこかの雪の下に潜るでしょう」

「なら、いいんだが……」

「念のため、山岳哨戒班にも伝えておきます。白狼天狗は、そういう見回りが得意ですから」

 

 早苗がそう言うと、山童はようやく腕を解いた。

 ソヨは小屋の板の間で、早苗の腕の擦り傷に薬草を擦り込んでいた。雪だるまにされた時に、凍った霰で擦り剥いたのだ。早苗が顔をしかめるたびに、ソヨは「我慢ニャ」と言って、もう一度擦り込んだ。

 文は、小屋の外の切り株に腰掛けて、膝の上に白い牙を載せていた。

 窪地の霰から抜いてきた、ドドブランゴの右の牙だ。[雪獅子の牙*4]。根元の折れ口はザラザラとして、先は短剣のように鋭い。持ち上げると、見た目よりずっと重かった。

 文は早苗から狩猟記録の帳面を借りて、最後の頁に書き付けた。

 

狩猟記録:北の尾根 霰の窪地

対象:雪獅子一頭、ブランゴ六匹

結果:撃退。雪獅子の右の牙を破壊。群れは散る

所見:雪獅子は北へ帰る。三日前の暴風の通り道を辿って下りてきた疑い

担当:射命丸文、東風谷早苗、ソヨ(アイルー)

 

 所見の欄の『疑い』の二文字を、文は少しの間見つめた。それから、そのまま帳面を閉じた。疑いは、疑いのまま書いておく。

 

「……文さん」

 

 腕に布を巻かれた早苗が、小屋の戸口から出てきて、文の隣に立った。夕日を背にして、北の尾根を見上げている。

 

「あのドドブランゴ、帰れたと思いますか?自分の山に」

「さぁ。帰れたかどうかまでは、見ていませんから」

「……文さんって、そういう時、絶対に分からないって言いますよね」

「えぇ。分からないことは、分からないと書くんです。――分かった時に、ちゃんと書けるように」

 

 早苗は少し黙って、それから小さく頷いた。足元では、ソヨが二人の顔を交互に見上げていた。

 

「早苗、帰ったら神奈子様に報告ニャ。それから、晩ご飯ニャ」

「分かってるって。――文さん、また一緒に行きましょうね」

「あやや。次は、もう少し楽な取材だといいんですけどねぇ」

 

 文は立ち上がって、写真機を構えた。

 夕日に照らされた北の尾根。渦を巻いて倒れた木々の跡。その間を、北へ向かって点々と続いていく拳の跡。文はその景色を、一枚だけ撮った。

 


~妖怪の山 天狗の里の外れ 文の家~

 

――その夜も、風鈴は鳴り止まなかった。

 

 行灯の明かりの下で、文は続報の原稿を書いていた。板の間には、今日の写真がまだ現像から乾かずに並んでいる。文机の端には、白い牙が一本、文鎮の代わりに置いてあった。

 筆は、なかなか進まなかった。北の尾根の窪地のこと。模様の雪玉のこと。長の牙が折れた時、群れが一匹ずつ背を向けていったこと。それから、群れを失った長が、怖がっていた北の風に向かって歩いていったこと。書けることは、書いた。

 最後の一行で、筆が止まる。

 文は、今朝の新聞を手に取った。『風の出どころは、目下調査中』。その一行を、もう一度読んだ。

 

――あの長を峰から追い出したものは、まだ峰に居る。

 

 それは、書けない。見ていないのだから。

 文は筆に墨を含ませ直し、続報の最後に、二行だけ書き足した。

 

北の尾根の獣は、風の来た方から逃げてきた。

そして一頭だけ、風の来た方へ帰っていった。

 

 筆を置くと、風鈴がチリンと鳴った。

 文は立ち上がり、北向きの窓の障子を細く開けた。冷たい風が、行灯の火を揺らして吹き込んでくる。杉林の向こう、北の空は真っ暗で、星の光の下に、氷霧連峰の白い稜線が薄く浮かんでいた。

 

――風は、まだ北から吹いている。

 

 その風の匂いを、文は目を閉じて嗅いだ。秋の夜の杉の匂い。乾いた落ち葉の匂い。そしてその奥に、雨に濡れた鉄のような、微かな匂い。

 文は、窓を閉めなかった。

 風鈴がまた鳴った。

 

 北の峰から下りてくる風は、今夜も一度も途切れずに、杉林の斜面を撫でていく。

*1:
牙獣種の小型モンスター。白い毛の猿に似て、雪山でドドブランゴを長とする群れを作る。長への忠誠が厚く、雪の中に潜んで獲物を待ち伏せる。

*2:
牙獣種の大型モンスター。雪山でブランゴの群れを率いる長で、知恵が回り、雪や地形を戦いに使う。口元の二本の牙は長の証とされる。

*3:
アイルーの技の一つ。割れると傷を癒やすしゃぼん玉を作って飛ばす。

*4:
ドドブランゴの口元に生える牙。群れの長の証とされ、短剣のように鋭く硬い。




『菅牧典』
所属:守矢ギルド
役職:主席受付書記(受付嬢)。大天狗『飯綱丸龍』の右腕
武器:管狐軽弩『囁耳の管』(ライトボウガン)
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