東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山の麓 山間の集落の芋畑~
――収穫祭の前日の朝は、畑中が甘い匂いで満ちていた。
段々畑の一番下の段では、掘り上げたばかりの芋が筵の上に山と積まれ、朝日を浴びて赤紫の皮を光らせている。畑の脇には大釜が三つ据えられ、明日の祭りで芋を蒸かすための薪が、軒の高さまで積み上げてあった。集落の茅葺きの家々の軒先には、今年の新米で作った注連飾りが、もう掛けられている。
筵の前で、穣子が腰に手を当てて芋の山を見上げていた。足元では、オトモのイナホが竹の籠を背負ったまま、芋を一つずつ数えている。
「……百二十八、百二十九――百三十ニャ!穣子、大きいのだけで百三十あるニャ!」
「でしょう?荒らされた三割を差し引いても、去年より多いのよ。――ふふん、私のお芋さん達、今年も最高の出来だわ……!」
穣子は芋の山の一番上から、一際大きな一つを取り上げて、両手で掲げた。赤ん坊の頭ほどもある。
「これは、集落の子供達の分。約束したもの。どの子にも、一番大きいのをあげるって」
「どの子にも一番大きいのは、無理ニャ。一番は一つしかないニャ」
「無理じゃないわよ。一番大きいのを、子供の数だけ揃えればいいんだから」
「……それ、どれが一番なのニャ?」
「全部よ。一番がただ一つだけなんて決まりはないわ」
イナホは首を傾げたまま、また芋を数え始める。
畑の上の斜面では、静葉がいつものように帳面を広げていた。山の紅葉は今が盛りで、楓も漆も、斜面一面を燃えるような赤に染めている。静葉の筆は、その赤の濃さを一つずつ帳面に書き留めていた。
ただ、その筆が時々止まる。
静葉の目は、紅葉ではなく、畑の東の外れを見ていた。
――あの楢の大木の幹に、爪痕が増えている。
十日前の夜、コンガを追い払った晩に見つけた爪痕は四本だった。だが今朝見ると、その上にも下にも、新しい爪痕が幾筋も重なっている。幹の皮は大きく剥がれて、白い木肌が剥き出しになっていた。――毎晩、来ているのだ。
そして――畑の真ん中には、案山子が一体立っていた。にとりが三日前に担いできた『畑の番人・三号』である。一号、二号より一回り大きく、藁の胴を鉄の輪で締め、竹の両腕の先には大きな鳴子が幾つもぶら下がっている。『燃えない案山子にしてね』という静葉の頼みは、胴の藁に泥を塗り込めるという形で叶えられていた。胸の筒には、今度は音爆弾ではなく、唐辛子と山椒を詰めた袋が仕込んであるという。熊は鼻がいいからね、とにとりは胸を張っていた。
三号は、まだ一度も鳴っていない。熊は案山子の立つ畑の真ん中までは下りてこないのだ。
「「穣子様ー!穣子様、大変だよー!」」
集落の方から、男の子が二人、坂を駆け下りてきた。息を切らして、穣子の前で止まる。
「どうしたの?そんなに慌てて」
「蜂の箱が、また倒れてた!裏の、爺ちゃんの蜂の箱!」
「それから、甘酒の樽も転がってたって!母ちゃんが、祭りの前なのに縁起が悪いって!」
穣子と静葉は顔を見合わせた。
――ここ数日、集落ではこうした
物干し竿が折れる。漬物石が転がり落ちる。
そして昨日は、祭りの幟を立てる竹が根元から割れた。どれも大した怪我には繋がっていないが、これだけ続けば人は不安になる。年寄り達は口を揃えて、祭りの前で厄が溜まっているのだと言った。
「……厄、ね」
穣子は芋を筵に戻し、少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫よ。今年も、厄神様が来てくれることになってるから。――祭りの前の日には、毎年ちゃんと来てくれるの」
「厄神様が?」
男の子達の顔が、一瞬で強張った。二人は顔を見合わせ、小さな声で囁き合う。
「……見ちゃだめなんだよ。厄神様のこと、見たら、厄が移るって」
「同じ道を歩いてもだめなんだって、婆ちゃんが言ってた」
聞き咎めた穣子は何か言いかけ――やめて口を閉じる。代わりに男の子達の頭を、両手でクシャクシャと撫でてやる。
「はいはい。じゃあ、今日は家の手伝いをしてなさい。明日は、一番大きいお芋さんが待ってるからね」
男の子達は顔を輝かせて、また坂を駆け上がっていった。
その背中を見送ってから、穣子は小さく溜め息を吐いた。静葉が、斜面から下りてきて隣に並ぶ。
「……毎年のことね」
「毎年のことだから、嫌なのよ。厄を全部引き受けてくれてるのに見ちゃだめ、なんて。……そうなるのは厄を集める以上仕方ないとはいえ、ね」
「あの子は、それでいいって言うわ。きっと今年も」
静葉は帳面を閉じ、東の楢の方へ目を向けた。
「それより、穣子。――蜂の箱が倒れたのは、厄のせいじゃないと思うわ」
~集落の外れ 沢沿いの道~
――昼過ぎ、沢沿いの道を、赤い影がクルクルと回りながら上ってきた。
風に舞う落ち葉ではない。人の背丈ほどの影が、爪先で地面を軽く蹴るたびに、独楽のように一回り、また一回りと回りながら進んでくる。回るたびに、赤いスカートの裾がフワリと広がった。
エメラルドのような緑の髪を、胸の前で一本に束ねている。頭には、フリルの付いた暗い赤のリボン。赤を基調にしたフリルの多いドレスには黒紫色の防具を纏い、スカートの左側には、厄の字を崩したような緑の渦の模様が描かれていた。足元は黒いブーツ。背には、黒紫の大きな盾と、それに収めた片刃の剣を負っている。
人間の厄を集めて引き受ける厄神様であり、守矢ギルドの厄災管理ハンター――『鍵山雛』だ。
雛が集落の入り口に差し掛かると、沢で洗い物をしていた女達が、そそくさと桶を抱えて立ち上がる。目を伏せ、雛の方を見ないようにして、家へ戻っていく。道の脇で遊んでいた子供が、母親に腕を引かれて戸の中へ消える。そして戸が閉まる。隣の家の戸も、その隣の戸も。
雛は、それを咎めなかった。回るのをやめて、道の真ん中に立ち止まる。閉まっていく戸の一つ一つに、小さく頭を下げた。
見かけても見ないふりをする。同じ道を歩かない。それが、厄神と行き合った時の昔からの決まりだった。厄神の傍に居れば、集めた厄がこぼれて降りかかる。雛自身が誰よりもそれを知っていて、故に自分から人には近付かず、傍に住まない。
「――雛ー!こっちこっち!」
そんな閉まった戸の並びの向こうから、遠慮の無い大声が飛んできた。
穣子が、段々畑の坂の上で手を振っていた。その足元でイナホがピョンピョン跳ね、少し後ろでは静葉がゆっくりと会釈する。
雛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……穣子。そんな大声で呼んだら、皆が出てこられなくなるわ」
「どうせ出てこないわよ。それより、ほら!今年のお芋さん!見て見て!」
雛は畑へ下りる坂の途中で立ち止まる。穣子との間に、大人の背丈三つ分ほどの間を空けている。それ以上は近付かない。
「綺麗に実ったのね。見事だわ。――でも、私はここから見るわ」
「もう!毎年それなんだから」
「毎年それでいいのよ。……穣子のお芋さんに、私の厄を移すわけにはいかないもの」
穣子は頬を膨らませたが、それ以上は言わなかった。代わりに、静葉が一歩前へ出て、雛と同じだけの間を空けたまま、静かに口を開いた。
「来てくれてありがとう、雛。……今年は、少し早めに見てほしいものがあるの」
「――集落のことね。来る途中で、川下の雛人形を拾ってきたわ。今年は、流れてきた人形がいつもより多かった」
雛は背負った籠を少しだけ持ち上げて見せる。籠の中には、紙や布で作った小さな雛人形が幾つも重なっている。集落の者達が、川へ流した人形だ。厄を乗せて流された人形は、川下で雛の手に拾われる。そうして、厄は人里へ戻らずに済む。
雛は籠を下ろし、それから目を閉じた。
しばらく、雛は何も言わなかった。秋の風が、雛の緑の髪を揺らす。閉じた瞼の下で、目がゆっくりと集落の家並みを、畑を、山の斜面を辿っていくように動いた。
「……おかしいわね」
「何が?」
「集落の厄は、確かに溜まってる。祭りの前だもの、毎年そう。でも、物干し竿が折れたり、樽が転がったりするほどじゃないわ。人の厄なら、もっと人の傍でその禍が起きるの。転んだり、指を切ったり、喧嘩をしたりね」
雛は目を開け、集落の裏手の方を見た。
「――壊れているのは全部、家の外。それも、山の側ばかり」
――雛の仕事は、厄を集めることだけではない。原因の分からない事故が続く場所を調べ、それが本当に厄なのか、厄ではない何かなのかを見分ける。厄だと思い込んで放っておけば、本当の原因は見過ごされたまま、もっと大きな事故になる。
静葉が小さく頷く。
「私もそう思ってたの。……爪痕があるのよ。畑の東の楢と、集落の裏に」
「なら、見に行きましょう。――穣子、案内してくれる?私の三歩前を歩いて」
「三歩前ね。分かってるわよ」
雛が背負った盾が、肩の上でカタリと鳴った。
――黒蝕盾斧『厄籠廻輪』。黒紫の鱗を幾重にも重ねた大盾に、翼を思わせる反った刃の剣を収めたチャージアックスだ。盾の表には、雛の裾と同じ渦の模様が刻まれている。素材は黒蝕竜の鱗と翼。病を運ぶとされる竜の素材を、毒気をすっかり抜いて封じたものだという。厄を集めて溜め、溜めたものを管理して放つ――その武器の造りが、雛の仕事とよく似ていた。
~集落の裏手 蜂の巣箱の並ぶ斜面~
――集落の裏手は、山へ続く斜面になっていた。
斜面の下の方には、木をくり抜いた蜂の巣箱が五つ、石の台の上に並んでいる。集落の古老が、何十年も守ってきた巣箱だという。その一番端の一つが、石の台から転げ落ち、斜面の草の上に横倒しになっていた。
蓋は剥ぎ取られ、中の巣は抉り取られて何も残っていない。巣箱の周りでは、住処を失った蜂がブンブンと低く唸りながら、まだ未練がましく飛び回っていた。
穣子は巣箱から少し離れて立ち止まった。蜂の羽音が近い。イナホが穣子の前掛けの陰に隠れる。雛は約束どおり、穣子の三歩後ろで足を止めた。静葉だけが、蜂を気にする様子もなく、巣箱の脇へしゃがみ込む。
「……蓋に、爪の跡があるわ」
巣箱の蓋の板に、太い溝が四本斜めに刻まれていた。溝の幅は静葉の小指ほどもある。板は溝の所で裂け、中の巣を掬い出すために、何度も同じ所を掻いたらしかった。巣箱の縁には、琥珀色の蜜が垂れて固まっている。その蜜の上に、青い毛が数本貼り付いていた。
静葉は毛を一本摘まみ上げ、秋の日に透かした。太く、硬い。指で曲げると針金のように元の形に戻ろうとする。
「……楢の木に付いてたのと同じ毛ね」
――足跡は、巣箱の下の柔らかい土に残っていた。
人の足跡を、横に倍ほども広げたような跡だ。指は五本。指の先には、深く刺さった爪の穴が並んでいる。踵までべったりと地面に付いていて、跡の真ん中がいちばん深い。重い体を、足の裏全体で支えて歩いているのだ。
足跡の並びは、四つ足で歩いた跡と、後ろ足だけで立った跡が入り混じっていた。巣箱の前で、二本の後ろ足の跡が深く並んでいる。ここで立ち上がって、巣箱に手を伸ばしたのだ。
穣子がその足跡を覗き込んで、ゴクリと唾を呑んだ。
「……大きいわね。私の笛の素材になったあの熊より、一回り大きいかもしれない」
「笛の熊って……あのアオアシラのこと?」
「そうよ。昔、この畑に下りてきた子。あの子の足跡も、こんな形だった。――でも、こんなに深くはなかったわ」
穣子は背に負った青い毛の笛に、無意識に手を触れていた。
足跡を辿って斜面を上ると、集落の家の裏庭に出た。物干しの竹竿が、真ん中から折れて地面に転がっている。竿を支えていた杭の一本には、青い毛が絡み付いていた。杭の表の皮が、背中を擦り付けたように、肩の高さで磨り減っている。
「……物干し竿が折れたのは、これね。痒い所を、杭で掻いたのよ」
雛が三歩後ろから覗き込み、ホッとしたように息を吐いた。
「なら、これは厄じゃないわ。アオアシラの背中が痒かっただけ」
その先の家の裏には、甘酒の樽が置いてあった。祭りに振る舞うために仕込んだ樽だ。樽は転がされ、木の蓋に、鼻先を押し付けたような丸い跡と、涎の乾いた跡が残っている。蓋が固く締まっていたおかげで、中身は無事だった様だ。
穣子が樽の蓋の匂いを嗅いで顔をしかめた。
「甘酒の匂いに釣られたのね。蜂蜜を食べて、甘酒を嗅いで、それでも足りなくて……」
「――お芋さんの匂いも、嗅いでいるわ。きっと」
静葉が静かに推測を挙げる。
斜面の上から見下ろすと、集落の家並みの向こうに、段々畑の一番下の段が見えた。筵の上に積み上げた芋の山と、大釜と、薪の山。明日の朝には、あの大釜で百を越す芋が蒸かされ、甘い湯気が山の斜面を這い上がっていく。
イナホが静葉の足元で地面を嗅ぐ。何かを見つけたらしく、前脚でそれをつつく。
「……これ、熊のフンニャ。中に、蜂の羽がいっぱい入ってるニャ。あと、魚の骨もニャ」
糞は、まだ新しかった。蜂の羽と、巣の蝋の欠片と、細い魚の骨が混じっている。静葉は木の枝で糞を崩し、中から光る小さな鱗を一枚拾い上げた。沢に棲む川魚の鱗だ。
「沢で魚を獲って、夜になると蜜と甘い物を探しに下りてくる。……昼の寝床は、沢の上ね」
足跡は裏庭から斜面を斜めに上り、林の縁を回って、沢の方へ消えていた。その道筋を目で追いながら、雛がふと首を傾げる。
「……不思議ね。壊れた所を全部繋ぐと、一本の道になるの。巣箱、物干し竿、樽。それから、畑の東の楢。――毎晩、同じ道を通ってる」
「毎晩、同じ道……」
「えぇ。でも、その道は畑の真ん中へは入ってないわ。いつも畑の外を回って、楢で止まってる」
穣子があっと声を上げた。
「――火よ!コンガを追い払ってから、毎晩、畑の端で火を焚いてるの。だから、畑の中までは来なかったんだわ」
「それに、案山子の三号もね」
「……三号は、まだ一度も鳴ってないけど」
静葉は帳面を開き、今日見つけたものを一つずつ書き付けた。それから、最後に一行書き足して、二人に見せた。
穣子の顔から血の気が引いた。
――毎晩焚いてきた畑の端の火は、今夜に限って焚けない。祭りの大釜を据えるために、焚き火の場所を空けてしまったのだ。そして明日の朝には山中に、蒸かした芋の甘い匂いが広がる。
「……今夜ね。今夜、あの子は畑の中まで来るわ」
静葉が結論を挙げると、穣子は唇を噛んだ。
「なら、今夜私達で止めるわよ。――子供達に約束したの。一番大きいお芋さんを、全部の子にって」
「……狩るの?」
「狩らない。追い払う。――あの子と同じ熊の笛で、あの子と同じように、畑の外へ」
穣子は背の笛の胴を拳でトンと叩く。雛はその様子を三歩後ろから見て、小さく頷いた。
「なら、私も今夜はここに居るわ。祭りの前の夜の厄を集めるのは、どうせ私の仕事だもの」
~芋畑 収穫祭の前の夜~
――日が落ちると、山の斜面は一息に冷えた。
月は東の尾根から昇ったばかりで、段々畑を青白く照らしている。畑の一番下の段には、祭りの大釜が三つ、黒い影になって並んでいた。その脇の筵の上に、芋の山。毎晩畑の端で焚いてきた火は、今夜は無い。代わりに、集落の家々の窓から漏れる灯りが、遠くでチラチラと瞬いていた。祭りの前の夜で、どの家も遅くまで支度をしている。
――三人と一匹は、それぞれの持ち場に散っていた。
穣子とイナホは、芋の山の陰。筵を一枚被って、笛を膝の上に抱えている。静葉は畑の上の段の、柿の木の根元。帳面を懐に仕舞い、弓を膝に立てて、斜面全体を見下ろしていた。雛は、畑の東の外れ。爪痕の残る楢の大木から、少し離れた藪の陰に、一人で立っていた。熊の通り道の、真ん前だった。
雛が自分でそこを選んだ。誰かの近くに居るより、一人の方がいい。厄を集めた神の傍に居れば、狩りの最中にこそ、思わぬ事故が起こる。
畑の真ん中には、案山子の三号が月に照らされて立っていた。泥を塗った藁の胴が、夜目には人影のように見える。
「……来るかニャ?」
「来るわよ。あの子は、毎晩同じ道を通ってるんだもの」
芋の山の陰で、イナホと穣子がヒソヒソと囁き合う。
それきり、二人とも黙る。虫の声が畑を満たしている。どこかで梟が鳴いた。月が少しずつ高くなり、楢の影が畑の上を短くなっていく。
――虫の声が、東から順に止んでいく。
楢の大木の向こう、林の暗がりで、枯れ枝を踏み折る音が聞こえる。一度、二度。重い物が、落ち葉を押し潰しながら近付いてくる。獣の匂いが、夜風に乗って畑の上を流れてきた。湿った毛と、川の水と、蜂蜜の甘い匂いが混じった匂いだ。
雛は藪の陰で息を殺した。
――楢の木の陰から、青い影がのっそりと現れた。
四つ足で歩いている。それでも、背の高さは雛の肩を越えていた。月の光を受けて、全身の毛が深い青に光る。頭と背中は硬い甲殻に覆われ、太い前脚には、棍棒のような甲殻がびっしりと生え揃っていた。その先から、湾曲した長い爪が四本、土を掴んでいる。
アオアシラは楢の大木の前で立ち止まった。
後ろ足でゆっくりと立ち上がる。立ち上がると、背丈は大人の倍を越えた。太い前脚で楢の幹を抱えるようにして、爪を幹に立てる。ガリ、ガリリ、と皮を掻く音が夜の畑に響く。剥がれた皮の下から、白い木肌が覗く。それから、アオアシラは幹に背中を押し付けて、体を左右に揺する。――痒い背中を、木で掻いているのだ。
満足したらしく、アオアシラは四つ足に戻り、鼻を高く上げた。
鼻先が、ヒクヒクと動く。夜風の匂いを嗅いでいる。その鼻先が、少しずつ、畑の方へ向いていった。
毎晩、ここで止まっていた筈の熊は――今夜は止まらなかった。
畑の端には火が無い。代わりに、芋の山の甘い匂いと、筵の脇に置いた蒸籠の甘い湯の匂いがする。アオアシラは鼻を鳴らし、一歩、また一歩と、段々畑の一番下の段へ下りてきた。
――畑の真ん中で、三号が待っていた。
アオアシラの前脚が、畝の境に張った細い紐を踏んだ。
鳴子が一斉に鳴った。泥を塗った胴の中で歯車が回り、竹の両腕がグルングルンと風車のように回り出す。河童の面の目玉がギョロギョロと動き、胸の蓋がパカッと開き――ボフッ、と赤い煙が吹き出した。
唐辛子と山椒の粉だ。煙は夜風に乗って、真っ直ぐにアオアシラの鼻先へ流れていく。
アオアシラが大きなくしゃみを立て続けにした。前脚で鼻を擦り、首を振り、後ずさる。『熊は鼻がいいからね』、というにとりの言葉は、正しかった。
「……効いてる!三号、効いてるわ!」
芋の山の陰で、穣子が小さく拳を握った。
だが――アオアシラは逃げなかった。くしゃみを三つ、四つと繰り返した後、涙目のまま、回り続ける案山子を睨み付けた。鼻の頭に皺が寄り、喉の奥から低い唸り声が漏れる。
アオアシラは後ろ足で立ち上がると、太い前脚を振り下ろした。
甲殻の生えた腕が、三号の泥の胴を横殴りに薙ぎ払う。藁が飛び散り、歯車が転がり、竹の腕が回りながら畝の上に落ちた。河童の面が、月の光の中でクルクルと舞い上がり、芋の山のすぐ脇に、カランと落ちた。
面の目玉がまだギョロギョロと動いている。
アオアシラはその面を見下ろした。それから、面の向こうに積まれた芋の山を見た。鼻をひくつかせる。もう、くしゃみはしていない。
――芋の山の陰で、穣子が笛を握り直した。
「――そこまでよ!」
――穣子が筵を跳ね除けて立ち上がった。
背から青熊笛を引き抜き、口元に当てる。太く短い音が三つ、夜の畑に響き渡った。収穫祭の囃子の、出だしの拍子だ。その音を聞いた途端、穣子の足も、イナホの足も、ふっと軽くなる。上の段の柿の木の下で、静葉の指先にも、弦を引く力が満ちていった。
アオアシラが穣子を見た。
同じ青い毛を巻いた笛を、じっと見ている。それから、後ろ足でゆっくりと立ち上がり、胸を大きく反らした。
咆哮が段々畑の斜面を這い上がっていく。集落の家々の灯りが、一つ、また一つと消える。
「イナホ、お芋さんの前から動かないで!」
「分かってるニャ!アタシの穣子の芋には、指一本触らせないニャ!」
アオアシラが四つ足に戻って走り出した。
重い体が、畝を踏み潰しながら真っ直ぐに芋の山へ突っ込んでくる。
――速い。熊は、普段ノソノソ歩く姿からは想像も付かないほど速く走る。
穣子は芋の山の前から一歩踏み出し、笛を大きく振りかぶった。狩猟笛は、吹いて鳴らす楽器であると同時に、振り回して殴る鎚でもある。突っ込んできたアオアシラの横っ面に、太い胴がドンとぶつかる。振り抜く勢いで、笛がボォンと鳴る。
アオアシラの突進が、わずかに逸れた。芋の山の角を掠めて、大釜の脇で止まる。
――そこへ、上の段から、矢が降ってくる。
一本、二本、三本。静葉の矢は、アオアシラの体ではなく、その足元に並んで突き立っていく。前脚の前へ、横へ、紐を張るように。芋の山へ向き直ろうとしたアオアシラが、足元の矢に阻まれて、その場でたたらを踏む。
「――穣子、正面に立たないで。熊の腕は横に振られるのよ」
「分かってるわよ、姉さん!」
アオアシラが立ち上がった。
甲殻の生えた右の前脚を振り上げ、振り下ろす。左、右、また左。湾曲した爪が、三度続けて空を裂いた。穣子は一撃目を後ろへ跳んで躱し、二撃目を笛の胴で受け流し、三撃目を畝の陰に転がって避けた。爪が畝を抉り、黒い土が雨のように降る。
イナホが、その隙にアオアシラの足元へ滑り込んでいた。青い毛を巻いた小槌で、太い脛を思い切り叩く。
「芋泥棒には、お仕置きニャ!」
アオアシラが、鬱陶しそうに足を振る。イナホはゴロゴロと畝の間を転がり、それでもすぐに起き上がって、また走り出す。
――悪いことをした相手には、何度でも叱りに行く。イナホにとっては、それが当たり前だった。
その時。アオアシラの太い両腕が、穣子の方へ大きく広げられた。
――抱き付く気だ。
穣子が気付いた時には、もう遅かった。アオアシラが前へ倒れ込むように覆い被さり、穣子の体を両腕でがっしりと抱え込む。足が地面から浮く。熊の胸の毛が顔に押し付けられ、獣の匂いと蜂蜜の匂いで息が詰まる。腕の甲殻が、肋をギリギリと締め上げた。
「――穣子!」
静葉の弓が、続けざまに鳴った。
今度は足元ではない。矢がアオアシラの右の前脚、甲殻と甲殻の継ぎ目に、正確に突き刺さる。一本、二本。アオアシラが痛みに唸り、右腕の力が一瞬緩んだ。
そこへイナホが跳び付く。アオアシラの左の前脚にしがみ付き、小槌で爪の付け根を何度も、何度も叩く。
「穣子を離すニャー!!」
アオアシラが腕を振った。穣子の体が宙に放り出され、畝の上を転がる。イナホも一緒に振り落とされて、筵の上に落ちた。
穣子は咳き込みながら、笛を杖にして起き上がった。肋が痛む。息を吸うたびに、胸の奥がズキリと疼いた。
「……げほっ……。大丈夫、まだやれるわ……!」
アオアシラの毛が逆立っていた。矢の刺さった右の前脚を舐め、牙を剥き出しにして唸る。鼻息が荒い。立ち上がった時の目が、さっきまでの食い意地の張った目ではなかった。――怒り状態だ。
――その時、畑の西の端で小さな影が動いた。
大釜の陰から男の子が一人、顔を覗かせていた。朝、坂を駆け下りてきた二人のうちの、小さい方だ。寝間着のまま裸足で、目を真ん丸に見開いている。
――咆哮で目を覚まして、家を抜け出してきたのだ。『厄神様を見ちゃだめ』と口では言いながら、本当は見てみたかったのかもしれない。或いは、熊を見てみたかったのかもしれない。――どちらにしても、今、その子は熊のすぐ近くに居た。
アオアシラの鼻先が、男の子の方へ向いた。
「――駄目っ!逃げて!」
穣子が叫んだ。だが男の子は竦んで動けない。アオアシラが四つ足に戻り、大釜の方へ一歩踏み出した。
――畑の東から、赤い影が回りながら駆けてきた。
雛だった。藪の陰を飛び出し、畝を跳び越え、熊と男の子の間へ滑り込む。背の盾を引き抜き、地面に叩き付けるように据えた。
アオアシラの爪が、黒紫の盾に叩き付けられて火花が散る。雛の足が、地面の上を半歩ずり下がる。それでも盾は退かない。二撃目、三撃目。爪が盾を打つたびに、盾の表の渦の模様が、ぼんやりと紫に光っていく。
チャージアックスは、受けた力と斬った力を、盾の中の瓶に溜めていく武器である。溜めて、溜めて、溜めたものを管理して――一度に放つ。雛はアオアシラの爪を受けながら、剣で浅く斬り返し、そのたびに盾の中の瓶が、低い唸りを上げて満ちていく。
その背中で、男の子が震えていた。
「……厄神、様……」
「――振り返らないで、走りなさい。家に帰ったら、えんがちょをするのよ。――私に会ったことは、忘れてね」
男の子は、一瞬だけ雛の背中を見た。それから、言われた通りに振り返らず、裸足で坂を駆け上がっていった。
雛は、その足音が遠ざかるのを背中で聞いていた。
――盾の中の瓶にエネルギーが、満ちた。
雛は剣を盾に差し込んだ。ガシャン――と金具が噛み合い、盾と剣が一つになって、大きな斧へと形を変える。黒紫の刃が、夜の中で鈍く光る。
アオアシラが立ち上がり、両腕を大きく振りかぶる。右の前脚には、静葉の矢がまだ二本、甲殻の継ぎ目に刺さったままだった。
「――静葉の矢が狙い目ね」
雛は呟き、斧を下から振り上げた。
溜め込んだ瓶の力が、盾から刃へ流れ込む。紫の光が刃を包み、振り上げた勢いのまま、アオアシラの右の前脚へ叩き込まれた。属性解放斬り――溜めたものを、一度に放つ一撃だ。
矢の刺さった継ぎ目から、前脚の甲殻が砕け飛んだ。
アオアシラが悲鳴を上げて仰け反った。砕けた甲殻の欠片が、月の光を受けて青く光りながら畝の上に散らばる。
その背後から、太い笛の音が鳴り響いた。
――穣子だった。肋の痛みを堪えて、笛を高く掲げている。収穫祭の囃子。太く、短く、それから長く。何十年も、この畑で奏で続けてきた祭りの音だ。熊は大きな音を嫌う。穣子は肺の空気を全部吐き出すように、囃子を吹き続けた。
上の段から静葉の矢が、アオアシラの足元へもう一列、並んで突き立つ。イナホが筵の上から起き上がり、小槌を振り回して叫ぶ。
「帰るニャ!さっさと諦めて山に帰るニャ!」
アオアシラは、三人と一匹を順に見回す。
砕けた右の前脚を、地面から少し浮かせている。それから、穣子の笛を、もう一度見た。同じ青い毛を巻いた、祭りの笛を。
――アオアシラは、背を向けた。
畝を踏み越え、楢の大木の脇を抜けて、林の暗がりへ入っていく。枯れ枝を踏み折る音が、少しずつ遠ざかっていった。沢の方へ。昼の寝床がある、沢の上の方へ。
穣子は、その音が聞こえなくなるまで、笛を吹き続けた。
~芋畑 収穫祭の当日~
――朝の畑に、大釜の湯気が白く立ち昇っていた。
段々畑の一番下の段、昨夜アオアシラが止まった大釜の脇で、薪がパチパチと爆ぜている。釜の上には蒸籠が三段重ねられ、その隙間から、芋を蒸かす甘い匂いが山の上へと流れていった。今朝の匂いを嗅ぎ付けて来る熊は、もう居ない。
畑には、集落の人間が殆ど全員集まっていた。
――昨夜の咆哮は、どの家にも聞こえていた。戸を閉め、灯りを消し、布団の中で息を潜めていた者ばかりだ。朝になって恐る恐る畑へ下りてきた者達は、抉られた畝と、その上に散らばった青い甲殻の欠片を見て、しばらく言葉を失っていた。それから、無傷のまま積まれた芋の山を見て、ようやく息を吐いた。
集落で一番の年寄りが欠片を一つ拾い上げて、目を細めた。青い甲殻の縁に、異様に硬い毛が一本、引っ掛かっている。穣子の笛に巻かれているのと同じ、青い熊の毛だった。笛に言い聞かせるように、年寄りはその毛を指先で撫で、畑の方へ小さく手を合わせた。収穫祭の朝に畑が無事であることを、この集落の者は一年で一番の祝い事だと知っている。
――穣子はその芋の山の前に立っていた。
前掛けの下で、胸に晒を固く巻いている。息を深く吸うと、まだ肋がズキリと痛む。それでも、顔だけはいつもの通りに笑っていた。収穫祭の朝に、豊穣の神が痛そうな顔をしているわけにはいかない。
「穣子、本当に大丈夫ニャ?」
「大丈夫よ。今日はお芋さんを配るだけだもの。笛を吹くのは、少しだけにしておくわ」
イナホは疑わしそうに穣子の胸元を見上げ、それから、自分の頭の芋の葉を両手で直した。昨夜、筵の上に振り落とされた時に、葉っぱが一枚千切れてしまったのだ。代わりに、今朝の畑から一番形のいい葉を選んで差し込んである。
その隣で、静葉が帳面を開いていた。
夜が明けるやいなや、静葉は一人で畑を歩いて回っていた。抉られた畝を数え、突き立てた矢を一本ずつ抜き、熊の足跡を林の入り口まで辿ったのだ。足跡は、右の前足だけが浅かった。破れた前脚を庇って、三本足で歩いていたのだろう。その足跡は、沢に沿って、真っ直ぐに山の上へ続いていた。
「……沢の上の寝床、ね。あの子、これからもあそこに居るのかしら」
「居るわ。山の熊だもの。……でも、もう畑には下りてこないと思うの。前脚が治るまでは、沢の魚と山の蜂蜜で、十分に足りるはずよ」
静葉は帳面を閉じた。――それらの報告を守矢ギルドへ届けるのは、明日の仕事だ。
坂の上から、カラカラと何かが転がる音が下りてきた。
「――やあやあ!昨夜は大活躍だったって聞いたよ!」
にとりだった。背の大きなリュックとは別に、手には竹の籠を提げている。籠の中には、ひしゃげた木の板と、千切れた麻袋と、真ん中で二つに割れた泥塗りの面が、きちんと揃えて入れてある。
――『畑の番人・三号』の、成れの果てだった。
「……ごめんね、にとり。三号、壊れちゃった」
「何言ってるのさ。三号はちゃんと仕事をしたんだよ。熊にくしゃみをさせて、足を止めて、それから一撃で叩き割られた。それで十分さ。名誉の戦死ってやつだね」
にとりは籠を地面に置き、割れた面の片方を拾い上げて、しげしげと眺める。面の目玉は、まだギョロリと上を向いている。
割れ口を指でなぞりながら、にとりはぶつぶつと何かを唱えている。板の厚み、泥の塗り方、袋の紐の結び目。三号がどう壊れたかは、そのまま四号をどう作るかの答えだ。壊れたものを悲しむより先に、壊れ方を調べる。河童の技師とは、そういうものらしい。
「……ただ、唐辛子の袋は一回破れたらお終いなんだよねぇ。二回目が無い。四号は、袋を三つに分けて、順番に破れるようにしないと。――それと、穣子」
「何?」
「畝の上に落ちてる、あの青い甲殻の欠片。いくつか、貰ってもいいかな?四号の胴に貼ったら、熊の爪でも一発じゃ割れなくなると思うんだよね」
穣子が静葉を見ると、静葉は小さく頷いた。にとりは『やったね!』と声を上げ、籠を抱えて畝の間へ駆けていく。欠片を一つ拾うたびに、日に透かして、満足そうに笑っている。
――大釜の蓋が、ゴトリと持ち上がった。
白い湯気が一息に噴き上がり、畑の上に甘い匂いが満ちる。集落の女衆が、蒸かし上がった芋を蒸籠から笊へ移していく。皮が弾けて、黄金色の中身が覗いていた。
子供達が穣子の前に並ぶ。
「はい、一番大きいお芋さん。熱いから、気を付けてね」
「ありがとう、穣子様!」
一人、また一人。穣子は笊の中から、一番大きな芋を選んで、子供達の手に一つずつ載せていった。一番大きい芋は、本当は一つしか無い。それでも子供達は、自分の芋が一番大きいと信じて、両手で抱えて走っていく。それでいいのだ。収穫祭の芋は、毎年そういうものだった。
畑の上の段では、若者達が太鼓を据え始めていた。柿の木の枝には、静葉が朝のうちに運んできた紅葉の枝が幾つも結び付けられ、風が吹くたびに赤と黄の葉がちらちらと舗う。茶屋から運ばれてきた甘酒の樽の前には、もう大人達が列を作っている。数日前、熊に蓋を開けられた、あの樽だ。中身は新しく仕込み直したのだと、茶屋の主人が胸を張っていた。
――子供達の列の一番最後に、あの男の子が並んでいた。
今朝はちゃんと草履を履いている。昨夜の寝間着ではなく、祭りのための洗い立ての着物を着ていた。足の裏に、小さな擦り傷がいくつか見える。
「はい。一番大きいお芋さん」
男の子は、両手で芋を受け取った。それから、熱さに顔をしかめながら、穣子の顔を見上げた。何か言いたそうに口を開き、閉じ、また開く。
「……穣子様。おいら、昨日の夜のこと、忘れたよ」
「……そう」
「えんがちょも、ちゃんとした。母ちゃんには、内緒にしてる」
穣子は少しだけ目を丸くし、それから、男の子の頭をくしゃりと撫でる。
「それでいいのよ。忘れたなら、ずっと忘れておきなさい。――でも、お芋さんは冷めないうちに食べるのよ」
男の子は大きく頷いて、坂の上へ駆けていった。途中で一度だけ足を止め、沢の方をちらりと見る。それから、振り返らずに、また走り出した。
~集落の外れ 沢の川下~
――祭りの囃子は、沢の川下まで聞こえていた。
昼を過ぎても、山の上の芋畑からは、笛と太鼓の音が途切れずに流れてくる。集落の人間は皆、畑に集まっている。沢沿いの道には、人の影は一つも無かった。
その沢の岸で、赤い影がゆっくりと回っていた。
雛だった。両手を広げ、裾のフリルを風にはためかせて、流れの上をクルクルと回る。回るたびに、山の上から、常人では目に見えない何かが少しずつ、雛の周りへ引き寄せられていく。
――祭りの日には、人が集まる。人が集まれば、厄も集まる。喧嘩の種も、食べ過ぎの腹痛も、浮かれて転んだ膝の擦り傷も、皆、祭りの賑わいの陰で、知らず知らずのうちに溜まっていく。
それを、一つ残らず集めて引き受ける――祭りの日の雛の仕事は、毎年それだけだった。
岸の平らな岩には、黒紫の盾斧が立て掛けてあった。昨夜、属性解放斬りで一度空になった盾の中の瓶が、今はまた、ぼんやりと紫に光っている。雛が集めた厄は、雛の周りに溜まり、そして盾の渦の模様へ、少しずつ吸い込まれていく。溜めたものを、溜めたままにしておかない。いつ、どこで、どう放つかを決めるのが、厄神のもう一つの仕事だった。
「――やっぱり、ここに居た」
雛は回るのを止めて声が聞こえた方に顔を向ける。
沢沿いの道に、穣子が立っていた。手には、大きな朴の葉で包んだものを提げている。葉の隙間から、湯気がうっすらと立ち昇っていた。
「……穣子。私に近付くと厄が移るわよ。今日は特に、たくさん集めているんだから」
「知ってるわ。だから、そこまでは行かない」
穣子は、雛から三歩手前の平らな岩の上に、朴の葉の包みを置いた。それから、自分は三歩後ろへ下がる。
「蒸かしたてのお芋さん。今年の畑で、二番目に大きいのよ。一番大きいのは、子供達にあげちゃったから」
雛は、しばらく岩の上の包みを見ていた。それから、ゆっくりと三歩進んで、包みを両手で持ち上げた。朴の葉の上から、芋の熱さが手のひらに伝わってくる。
「……ありがとう。毎年、律儀ね」
「毎年、畑の厄を持っていってもらってるもの。お礼はしなきゃ。――それに、昨夜は、あの子を守ってくれたし」
「あの子、ちゃんと家に帰った?」
「帰ったわ。今朝、一番大きいお芋さんを渡したの。昨夜のことは、忘れたって」
雛は葉の包みを胸に抱えたまま、少しだけ笑った。
「そう。なら、それでいいわ。――あの熊の厄も、少し集めておいたの。沢の上で、前脚が治るまで、静かにしていられるように。守矢には、私から報告しておくわね」
「助かるわ。姉さんの帳面も、明日届けるから」
山の上で、囃子の調子が変わった。太く、短く、それから長く。昨夜、熊を山へ帰した、あの祭りの音だ。
「……あ。イナホったら、私の替わりに笛を吹いてるわね。あの子、吹き方が全然違うのよ」
「戻ってあげなさい。豊穣の神様が祭りに居ないなんて、厄の元だわ」
穣子は笑って頷き、沢沿いの道を上っていった。一度も振り返らなかった。それが、雛との約束だったからだ。
雛は、岩に腰を下ろして、朴の葉の包みを開いた。
黄金色の芋から、甘い湯気が立ち昇る。一口齧ると、口の中に秋の畑の味が広がった。山の上からは、少し調子外れの囃子が、まだ聞こえてくる。
沢の流れに、紅い葉が一枚、また一枚と落ちてきた。上の段の柿の木の下で、誰かが帳面を閉じたのかもしれない。紅葉は流れに乗って、くるくると回りながら、雛の足元を通り過ぎていった。
雛は芋を食べ終えると、立ち上がって、もう一度両手を広げた。
山の上の囃子に合わせて、ゆっくりと、クルリと回る。祭りの日の厄は、まだたくさん残っている。日が暮れるまで、雛の仕事は終わらない。
『鍵山雛』
所属:守矢ギルド
役職:厄災管理ハンター。『流雛観測所』を拠点とする
武器:黒蝕盾斧『厄籠廻輪』(チャージアックス)