東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪山岳狩猟会所 受付~
――山の会所の受付には、朝から人の声が絶えなかった。
北の尾根を季節外れの暴風が吹き抜けてから、十日が経つ。倒れた木の片付け、壊れた中継小屋の建て直し、崩れた尾根道の横に新しい道を付ける仕事。依頼の紙が掲示板に留められるそばから、河童や山童や白狼天狗のハンター達が剥がしていく。板の間の入り口には、泥の付いた草鞋の跡が幾重にも重なっていた。
その人波の真ん中で、帳場の管狐だけが静かだった。
金色の髪を肩の辺りで切り揃え、伸ばした前髪の一房で片方の目を隠した狐。守矢ギルドの主席受付書記、典だ。
筆立てに挿した硝子の管を指で弄びながら、台帳の頭に筆を走らせている。尾をユラリと振るたびに、帳場の前に並んだ者の話が、一つずつ帳面の中へ納まっていく。倒木の数、中継小屋の壊れ方、誰がどの仕事を欲しがって、誰がどの仕事を嫌がったか。帳面には書かないことまで、典は全部拾っていた。
帳場の奥には、障子戸が一枚立てられている。重い案件の依頼票は、典の手でその障子の前へ差し入れられ、しばらくすると朱の判を押されて戻ってくる。障子の向こうに誰が座っているのか、会所に出入りする者で知らない者は居ない。そして、その障子の前に何を差し入れ、何を差し入れないかを決めているのが典だということも、大抵の者は知っていた。
「はい、次の方。――あらぁ」
典の片目が、帳場の前に立った鴉天狗を見上げて細くなった。
射命丸文だった。首から写真機を下げ、脚にはまだ尾根を歩いた土が付いている。帳場に両手を付き、身を乗り出した。
「あやや、おはようございます。北の尾根の後続、何か入ってませんか?風の跡でも、倒木の向きでも、片付けに行った方の世間話でも構いませんので」
「ふふ。文さんは、いつもそれですねぇ」
「いつもそれなのが、記者というものですので」
典は筆を置き、帳面を一枚めくってみせた。
「生憎、北の尾根の方は静かなものですよぉ。倒木の数が増えて、片付けの方の腰が痛くなっただけ。風も、あれきり吹いていませんし」
「そうですか。――それはそれで、良いことなんですけどねぇ」
文は肩を落とした。記事にならない平和は、山にはありがたくても、記者には少しばかり退屈だ。帳場から手を離し、踵を返しかける。
その背中に、典の声が、生温い風のように絡み付いた。
「――そういえば。昨日、はたてさんから記録の写しの請求が来ていましたよぉ」
文の足が止まった。
「……はたてが、ですか?あの出不精が?」
「えぇ。中腹の山道の、この十日分の通行の記録。それと、同じ十日分の、怪我や調子を崩した方の届け出。――次の『花果子念報』は、一面を差し替えるそうですねぇ」
文はゆっくりと振り返った。典は、何事も無かったように筆を取り上げている。前髪に隠れていない方の目だけが、笑っていた。
「……中腹の山道で、何があったんです?」
「あらぁ。受付の口は、堅くないといけませんので」
「たった今、はたての請求を喋った口ですよね?」
典は「ふふ」と笑い、帳面の端に小さく何かを書き付けた。それから、独り言のような調子で、しかし文にははっきり聞こえる声で言った。
「ここ数日、日が暮れてから中腹の山道を通った方が、口を揃えて言うんですよぉ。杉林の奥で、青い火の玉がゆらゆら揺れていたって。――それと、荷を担いだ山童が二人、道端で痺れて倒れていたんです。後で話を聞いても、『狐火に化かされた』としか言わなくて」
「狐火、ですか」
「狐は、こうしてここに居ますけどねぇ」
典が尾を一つ振る。文は、笑う気にもなれなかった。
――青い火の玉。痺れて倒れる行商人。それを、記録を読むことにかけては山の誰よりもしつこいはたてが、もう十日分も揃えに掛かっている。そして、次の号の一面を差し替える。
「……典さん。次の『花果子念報』は、いつ出ます?」
「さぁ?ただ、『文々。新聞』と同じ日になるんじゃないかしら。――三日後の朝、ですかねぇ」
文は何も言わず、帳場に一礼した。そして、道を開けた河童の頭の上を風のように押し抜けて、会所の戸口から飛び出していった。戸口の暖簾が、しばらく外へ向かってはためいていた。
――典は、その暖簾が垂れるまで待ってから、帳場の引き出しを開けた。
中には、書きかけの依頼票が一枚、仰向けに仕舞ってあった。紙の頭に、典の整った字が並んでいる。
報酬 (未定)
備考 倒木の片付けで人手なし。予算なし
典は筆を取り、『人手なし』の上に細い線を一本引いた。その横に、小さく書き足す。
――『一人、払いなしで出発』
「さて、もう一人。――どなたか、天狗の里の方へ行く方は居ませんかぁ?『花果子念報』の記者さんに、手紙を一通、届けてほしいんですよぉ」
帳場の前の列から、若い白狼天狗が一人、おずおずと手を挙げた。典は、既に封をした手紙を、その手にそっと載せてやる。
~妖怪の山 中腹の山道~
――中腹の山道は、杉林の中を縫うようにして山の肩を回り込んでいた。
麓の集落から天狗の里へ、河童の工房から山童の鍛冶場へ。荷を担いだ者が一日に何度も行き来する、山で一番人の通る道だ。道幅は荷車がやっと擦れ違えるほど。山側は苔むした岩の崖で、谷側は杉の根が山道の縁を掴むように張り出している。
文はその道を、飛ばずに歩いていた。
空から見て分かることは、もう分かっている。杉林の上には何も無い。青い火の玉が本当にあるなら、それは杉の枝の下、人が歩く高さのどこかにある。上から撮るより、目の高さを揃えて歩いた方が、整理のつく現場もある。
――最初に話を聞いたのは、痺れて倒れた山童の片方だった。
山道の下の沢べりに、山童の商隊が寝泊まりする小屋がある。その縁側で、若い山童が右の二の腕を布で巻いて座っていた。布の端から覗く肌が、赤紫色に腫れている。
小屋の軒先には、商隊の荷札を付けた籠が山と積まれていた。穴の開いた草鞋、縛り直した背負い籠、年嵩の山童が木の根っこで磨いている鍬。北の尾根の道が倒木で塞がってから、商隊は中腹の山道を大回りして荷を運んでいる。その分だけ日暮れに一人で山道を行く者が増えたと、年嵩の山童は白い眉をしかめていた。
「……ブンって音がしたんだ。耳の横で。虻にしちゃあ、大きすぎる音だった。それで、腕がチクッとしてさ。気付いたら、道端に寝てたよ」
「その時、青い火の玉は見ましたか?」
「見た見た。杉林の奥で、ユラユラしてた。綺麗だなぁって立ち止まったんだ。そしたら、ブンって」
若い山童は、痺れの残る指を開いたり閉じたりしてみせた。半日は箸も持てなかったという。もう一人は首筋をやられて、今も小屋の奥で寝ているらしい。
文は、布の上からそっと腫れの真ん中を指で示した。赤紫の腫れの中心に、針で突いたような小さな穴が一つ。周りの肌が、少しだけ焦げたように爛れている。
――狐火は、針で刺さない。
「……それは、狐に化かされたんじゃありませんねぇ」
「だよなぁ。商隊の奴らにもそう言ったんだけどさ、狐にしとけって。狐なら、狐のいる会所が何とかしてくれるだろうって」
文は思わず吹き出しそうになり、手帳で口元を隠した。その狐は今朝、帳場の引き出しに何やら仕舞いながら、生温い声で笑っていた。
――倒れていた場所は、山道が大きく曲がる角の手前だった。
草が人の形に倒れ、目印でも残したように、落とした荷の紐の切れ端が一本、草の中に残っている。二人目が倒れていた場所も、そこから十歩と離れていなかった。どちらも、曲がり角の同じ側。谷に向かって開けた方だ。
文は谷側の縁に立ち、下を覗き込んだ。
――杉が一本、捩じれて折れていた。
山道から少し下った斜面。一抱えもある杉の幹が、胸の高さで雑巾を絞ったように捩じ切られている。上半分は斜面の下へ転がり、根元には裂けた幹だけが、蒼白い木口を空へ向けて立っていた。
文は、その倒れ方を知っていた。十日前の夜、北の尾根で、渦を巻いて倒れた木を何本も撮った。北から南へ、点々と続く渦の跡。その一つが、こんな山の中腹にまで落ちていたのだ。
「……ここまで、歩いてきていたのね」
文は斜面を滑り降り、捩じれた幹の根元にしゃがみ込んだ。
裂けた木口の隙間に、小さな虫の死骸が挟まっている。一つではない。十、二十。迷子を探して集まったように、木口の縁に寄り集まっていた。指でつまむと、蛙より小さい体に、稲妻のような筋の入った背。
――雷光虫だ。
秋の北の尾根の森では、夜になると当たり前のように飛んでいる虫だ。こんな中腹に、しかもこれほど固まっているのは見たことが無い。文は写真機を構え、捩じれた幹と、木口の虫の死骸を、少しずつ向きを変えて三枚撮った。
――その時、風向きが変わった。
斜面のもう少し下から、甘酸っぱいような臭いが上がってきた。腐った果物にも似ているが、もっと重く、鼻の奥に絡み付く。文は袖で鼻を押さえ、杉の根を伝って下へ降りていった。
斜面が屏風のように窪んだ所に、ブルファンゴが一頭、横たわっていた。
倒れた杉の上半分に、下敷きになっている。十日前の風の夜に、杉ごと斜面を転がり落ちたのだろう。それだけなら、山では珍しくない。だが、その骸は、十日とは思えないほど崩れていた。毛皮はどろりと溶けたように垂れ、腹には拳ほどの穴が幾つも空いている。穴の縁は、牙で食い千切った跡ではなかった。焼けた紙のように、縁から茶色く縮れている。
――食べたのではない。何かが、溶かしたのだ。
文はそれ以上近付かず、写真を一枚だけ撮った。骸の周りに、小さな白い粒が、いくつもいくつも落ちている。米粒より少し大きく、濡れたように光っていた。
窪みの上の崖には、苔が引き剥がされた跡が、広げた扇ほどの大きさで、二つ三つ並んでいた。何かが崖に張り付いていて、そこから飛び立ったような形だ。
文は、日の傾きを確かめた。杉林の奥が、もう薄らと青い。
「……火の玉が出るのは日が暮れてから、だったわね」
文は山道へ戻り、曲がり角の上の岩に腰を下ろした。写真機の蓋を閉じ、双剣の紐を締め直す。暖かい茶も、替えの乾板も持ってきていない。それでも、今夜はここから動く気は無かった。三日後の朝までに、一面の写真を撮らなければならない。
~天狗の里の外れ はたての部屋~
――はたての部屋には、紙の山が幾つもあった。
哨戒の白狼天狗が書き留めた日誌の写し。河童の工房の入出帳。山童の商隊の荷の届け出。よその地方のギルドから回ってきた、狩猟記録の写し。普通の天狗なら一度読んで捨てるような紙ばかりを、月と日付の順に紐で結んで、壁際に積み上げてある。
その紙の山に囲まれて、栗色の髪を二つに結った鴉天狗が、封を切ったばかりの手紙を穴の開くほど眺めていた。『花果子念報』の記者、はたてだ。
――ご参考までに。 典
「……は?」
はたては、手紙をもう一度頭から読んだ。何度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
「青い火の玉って何よ。知らないんだけど。――っていうか、なんで典がわざわざ私に教えてくれるのよ。……絶対、何か企んでるでしょ」
大天狗の一角、龍の側近であり、会所の受付に座る管狐が常々何かを企んでいるのは、山の誰もが知っている。そして、企みが分かっていても乗ってしまう真実性をある程度帯びているのが、典の噂の怪しい所だった。
はたては手紙を放り出し、首に下げた小さな折り畳み式の写真機を開いた。右の親指で、細かい釦を素早く押していく。
――『中腹 山道 青い火』
念写は、誰かが既に撮った写真を写し出す。誰も撮らなかったものは、何度釦を押しても出てこない。小さな画面の上を、灰色の光がしばらく渦を巻いて、やがて一枚目が浮かび上がった。
だから、はたては、念写が空振りすることには慣れている。『該当なし』という画面を、山の誰よりもたくさん見てきた。誰も撮らなかったなら、記録を読む。記録も無ければ、そこは本当に何も起きていないか、さもなければ誰も見ていない。そのどちらかを見分けるのが、はたての仕事だった。
大きくぶれた、暗い写真だ。杉の幹と幹の間に、青白い光の尾が何本も曳いている。伏せて構えて、手が震えたのだろう。端に、河童の写真機が紙に入れる日付の印があった。三日前の夜。
二枚目は、明るい時刻の写真だった。斜面に立つ、雑巾を絞ったように捩じれた杉の幹。その木口に寄り集まった、小さな虫の死骸。三枚目は、窪みに横たわる獣の骸と、その周りに散らばった白い粒。光の当て方も、一番言いたい物を画面の少し右に寄せる構図も、はたてはよく知っていた。
「……この撮り方、文じゃん」
画面の光は、まだ暖かい。たった今日、撮られたばかりの写真だ。文はもう現場に居て、もうここまで撮っている。
はたては唇を尖らせ、紙の山に手を伸ばした。哨戒の日誌を、十日前の風の夜から今日まで、一枚ずつ床に並べていく。並べながら、日誌の端に書かれた、哨戒の白狼天狗の何でもない一行を拾っていく。
――『尾根の中継小屋の周り、今年は雷光虫が多い』。風の夜の二日前。
――『沢の上の崖に、青い光』。風の夜の三日後。
――『中腹の山道の杉林、青い光。通行人より騒ぎの届け出』。風の夜の七日後。
「……下りてきてる。尾根から、沢、中腹。風の通った跡を、そのままなぞってるじゃん」
はたては、文の写真の捩じれた杉をもう一度見た。尾根の森をなぎ倒した風が、虫の棲み処を一緒に吹き飛ばしたのだ。家を失った雷光虫が、風の跡を下りてきて、折れた杉の木口に寄り集まっている。それが、通行人の見た青い火の玉の正体だろう。
だが、それだけでは、痺れの説明が付かない。雷光虫は触れればパチリと来るが、半日も箸が持てなくなるほどではない。それに、杉林の奥の火の玉が、わざわざ道の上まで飛んできて人を刺す理由が無い。
はたては三枚目の写真、獣の骸に目を戻した。溶けたように崩れた毛皮。縁の縮れた穴。骸を囲んで光る、米粒ほどの白い粒。
それから、壁際の一番古い紙の束――よそのギルドから回ってきた狩猟記録の写しを、上から順にめくっていった。指が、ある一枚で止まる。
群れは、風倒れの獣の骸に卵を産み付け、その周りの崖に張り付いて縄張りとしていた。
火を向けると、突っ込んでくる。松明を持っての通行を禁ずる。
記録の終わりに、その群れの名が書かれていた。甲虫種の小型――『ブナハブラ』。
「……火の玉に見とれて立ち止まった所を、崖からブンって訳ね。――文のやつ、写真は撮っても、崖の上までは撮ってないじゃん」
窓の外は、もう暮れかけていた。文はきっと、あの曲がり角の辺りで、火の玉が出るのを待っている。崖の上に張り付いたものも、同じように。
はたては、壁に掛けた弓を見た。それから、腰に下げた小瓶の帯を。部屋を出るのは、山の誰よりも気が重い。山の誰よりも出不精だと、自分でも分かっている。
「……別に、文を助けに行くんじゃないわよ。一面のネタを取られたくないだけなんだから」
己以外誰も居ない部屋にそう言い捨てて、はたては弓を腰に提げる。
~中腹の山道 曲がり角の夜~
――日が落ちると、杉林は一息に黒くなった。
山道の上にだけ、細い帯のような空が残っている。その空も、やがて杉の穂先に飲まれていった。沢の音が、昼よりも近くに聞こえる。岩の上の文の尻の下から、夜の冷えがじわじわと上がってきた。
文は写真機を膝の上に乗せ、息を殺していた。
写真機の閃光は使わないと決めている。山童の腕の針の穴も、窪みの骸の溶けた穴も、崖の苔の剥がれた跡も、どれも明るいものを好む相手には見えなかった。それに、写真のために光を焚いて、その光で現場が逃げたら元も子も無い。
杉林のどこかで、梟が一声鳴いた。沢べりの小屋の灯りが、谷の底でひとつ、またひとつと消えていく。風は無い。文は、頬に当たる空気の動きを、自分でも気付かないうちに確かめていた。十日前の夜から、それが癖になっている。北から吹く微かな風を感じるたびに、肩が少しだけ強張るのだ。今夜は、その風も吹いていなかった。
――杉林の奥で、何かがふっと灯った。
青白い、小さな光だ。灯って、消えて、また灯る。その隣にもう一つ。さらにもう一つ。杉の幹の影から、光は糸を手繰るように数を増やし、やがて捩じれた杉の木口の上で、一つの大きな光の塊になった。
塊は、息をするようにゆっくりと明滅していた。明るくなるたびに、木口の白い縁が闇の中に浮かび、暗くなるたびに、輪郭だけを残して空へ溶ける。そこから少しはぐれた光が、杉の枝の下をゆらゆらと漂って、また塊へ戻っていく。
山道から見れば、たしかに火の玉だ。狐火とも、人魂とも言える。そして――引き込まれるほど綺麗だった。
「……あやや。これは、立ち止まりたくもなるわね」
文は写真機を構え、光の塊が一番明るくなる瞬間を待って、シャッターを切った。一枚、二枚。三枚目を切ろうとした時、背中の後ろで、パキリと小枝を踏む音が聞こえた。
――文は振り向きざまに、腰の双剣の柄に手を掛けた。
「……ちょっと。双剣、しまいなさいよ」
山道の曲がり角の上に、弓を腰に提げた鴉天狗が立っていた。二つに結った髪が、夜風に少し揺れている。弓の背に並んだ目玉のような斑の模様が、遠い青い光を拾って、一つずつこちらを見ていた。
「……はたて?」
「何よ、その顔」
「だって、あんたが部屋から出てきたんだもの。明日は山に槍が降るわねぇ」
「うっさい……!あんたの写真、念写で見たんだから。捩じれた杉と、虫の死骸と、獣の骸。――先に撮られると、こっちは席を立たされた気になるんだけど」
はたては、文の座る岩の隅に勝手に腰を下ろした。そして、懐から折り畳んだ紙を一枚取り出し、文の鼻先に突き付けた。典の整った字だ。
文はその紙をたっぷり二度読んだ。それから、青い光の中で、ゆっくりと顔を上げた。
「……はたて。あんた、中腹の山道の通行の記録、会所に請求した?」
「してないけど。そんなの、自分とこの資料で全部揃うし」
「……でしょうねぇ」
二人は、黙って顔を見合わせた。
典は、文にははたてが一面を差し替えると吹き込み、はたてには文が一面を狙っていると吹き込んだ。二人とも、その一言で、誰にも頼まれていない取材に、双剣と弓を抱えて飛び出してきたのだ。
「……典に、乗せられたわね」
「乗せられたのは分かってるわよ。――だからって、今更帰れるわけないでしょ。事実、被害は出てるんだし」
「それは、そうね」
文は紙を畳んで、はたてに返した。どちらが先に面を取るかは、まだ決まっていない。ただ、ここで帰った方が負けなのは、二人とも分かっていた。
「……で、はたて。あんた、ここに何が居るか、もう分かってるんでしょう?」
「分かってる。よそのギルドの記録で、同じ刺され方をした件が三つあった。――『ブナハブラ』よ。甲虫種の羽虫。あの骸に卵を産み付けて、周りの崖に張り付いてるの」
はたては、曲がり角の上の崖を弓の先で示した。
文は目を凝らした。青い光の塊が一番明るくなる瞬間だけ、崖の苔の上に、何かが浮かび上がる。翼を畳んだ、人の子供ほどの大きさの影。一つではない。崖のあちこちに、十、十五。どれも崖にぴたりと腹を付けて、動かない。
その影の一つ一つに、左右一対の赤い斑があった。青い光を受けて、それが一斉に、じっとこちらを見ている目のように光った。
「……あの赤いの、目?」
「胸よ。本当の頭は、その奥の黒くて小さいの。――山童が倒れてたの、この曲がり角の谷側でしょ。火の玉に見とれて立ち止まった所が、ちょうどあの崖の真下。後ろからブンって来たら、振り向く前に刺されるわよ」
文は、昼に見たものを一つずつ思い出していた。崖の苔の、扇を広げたほどの剥がれ跡。骸の周りの、濡れたように光る米粒ほどの白い粒。縁から縮れた穴。山童の腕の、針の穴と、焦げたような爛れ。一つ一つは、どれも小さな引っ掛かりだった。それが、はたての一言で、一枚の絵になる。
「……なるほど。じゃあ、あの白い粒は、卵だったのね」
「たぶんね。――あと、もう一つ。記録には、火を向けると突っ込んでくるって書いてあった。松明なんか山道で点けたら、一斉に上から来るわよ」
「火は無いわ。写真機の明かりも使ってない。あんたも無いでしょう?」
「当たり前じゃん。私を誰だと思ってんの」
はたてが鼻を鳴らした。文は小さく笑い、写真機を膝の上に戻した。
これで何も起きなければ、明るくなってから崖の上を撮り、骸の卵を撮り、会所へ届ければいい。一面は一つしか無いが、記事にはなる。そう思った、その時だった。
――曲がり角の下から、轍の音が上がってきた。
ガラガラと石を踏む、荷車の音だ。それに混じって、わざと大きな声で、誰かが鼻歌を歌っている。一人で夜道を行く者が、怖いのを紛らすときの歌い方だった。
そして、その歌と一緒に、橙色の灯りがゆらゆらと揺れながら上がってくる。
「……松明よ、あれ」
はたての声が、少しだけ震えていた。
崖の上で、赤い斑の列が、一斉に向きを変えた。
――赤い斑が、崖を離れた。
〈ブブブブブブブ……!!〉
羽音が、杉林中に広がった。虻の羽音を何十倍にも重ねたような、腹の底に響く低い音だ。薄い翼が青い光を拾い、崖から剥がれた影が、曲がり角の下の橙色の灯りへ向かって、滑るように落ちていく。
――文は、岩を蹴っていた。
翼を一度だけ打ち、杉の枝の下をくぐって、羽虫の群れより先に曲がり角の下へ回り込む。風が文の後ろで渦を巻き、落ち葉を一気に吹き上げた。
荷車を引いていたのは、白髪交じりの山童だった。荷台には漬物の樽が三つ。右手に掲げた松明の火が、突然目の前に降りてきた鴉天狗の風で、ぶわりと横になびいた。
「松明を捨ててください!荷車の下へ、伏せて!」
山童は目を剥いたが、問い返さなかった。山で長く商いをしている者は、天狗が本気の声を出した時に何をするべきか知っている。松明を道の真ん中へ放り投げ、荷車の下へ身を滑り込ませる。
――羽虫の群れが、松明へ降り注いだ。
地面で燃える火の周りを、人の子供ほどもある羽虫が、何匹も何匹も回る。紺地に赤い斑のある胸。その奥に、小さな黒い頭。腹の先を前へ曲げ、尾の針を火に向けて、突っ込んでは離れ、また突っ込む。針の先から飛んだ雫が石に落ち、ジュッと白い煙を上げた。
翼は大きいが、障子紙のように薄い。火の熱に煽られて、端からくるりと縮れる。それでも羽虫達は火から離れようとしない。崖で動かずに待っていたのが嘘のような、気の触れたような飛び方だった。
文は腰の黒い双剣を抜き放った。
――風を起こせば、火は消える。
だが、文はそうしなかった。松明が転がったのは、乾いた杉の落ち葉が厚く積もった道の端だ。一陣でも吹き付ければ、火の粉は杉林へ入る。羽虫を追い払おうとして、山を焼いたら元も子も無い。
「――水はありませんか!」
「漬物の樽だ!塩水なら、山ほどある!」
荷車の下から山童が叫ぶ。文は荷台に跳び乗り、双剣の柄で一番手前の樽の竹のたがを叩き切った。蓋が外れ、塩水の汁が溢れる。その樽を両腕で抱え上げて、松明の上へ、中身ごとぶちまけた。
白い湯気と、野沢菜の匂いが、一緒に吹き上がった。火が消える。曲がり角の下が、青い光だけに戻る。
羽虫の群れが、乱れた。
狙うべき
「文!全部そっちへ行く!」
曲がり角の上から、はたての弓が鳴った。
一度に三本。弓の背の目玉の斑の模様が、引き絞るたびに青い光を拾って瞬く。扇のように開いて飛んだ矢が、荷車へ向かう羽虫を横から貫いた。甲殻が、素焼きの皿のようにパキンと砕ける。二匹、三匹。砕けた殻の欠片と薄い翼が、青い光の中をひらひらと落ちていく。
文も荷台を蹴っていた。
空へは上がらない。人の胸の高さを、杉の幹と幹の間を縫って、羽虫の群れの脇を駆け抜ける。双剣が一度閃くたびに、一匹の翼が千切れ、胸の甲殻が割れる。迅竜の刃翼を打ち直した刃は、振っても、風を切る音がほとんどしない。羽音に紛れて、羽虫達は、何に切られたのかも分からないまま落ちていった。
割れた甲殻から飛び散った体液が、山道の石をジリジリと焼く。後で山童に道を掃いてもらわなければならない。文は頭の片隅でそう思った。
――その時、後ろで羽音が止んだ。
気付いた時には、右の肩に熱いものが突き刺さっていた。
はたての言った通りだ。後ろから、振り向く前に。山童の言った『チクッ』という痛みが、肩から腕へ、腕から指先へ、冷たい水が染みるように広がっていく。右の双剣が、指の間から滑り落ちそうになる。膝から力が抜け、文は山道に片膝を突いた。
肩の上で、羽虫が腹の針をもう一度、曲げ直している。今度は、首筋へ。
「――このバカ!」
矢が一本、文の耳の横を掠めて通り過ぎた。
肩の上の重さが、パキンという音と一緒に消える。砕けた殻が、文の頭の上にぱらぱらと降った。
はたてが、曲がり角の上から飛び降りていた。文の背中に自分の背中を合わせるように立ち、矢を番える。その手は、部屋で釦を押す時と同じように、少しも迷わなかった。一度も外に出ずに、何年分もの狩猟記録を読んできた手だ。どの距離で、どこを射れば羽虫が落ちるのか、その手は知っていた。
「振り向く前に刺されるって、言ったでしょ!」
「……聞いてたわよ。――聞いてたけど、あんたの方を向いてたのよ」
「言い訳してないで、指を動かしなさいよ!」
文は、痺れた指を一本ずつ折り曲げた。針は、迅竜の黒毛を重ねた肩当ての縁を少しだけ通っていた。深くは入っていない。山童のように半日寝込むほどではない。三つ、四つと息を数えるうちに、指先に双剣の柄の硬さが戻ってきた。
羽虫は、まだ六匹、二人の周りを回っている。
「……はたて。少しだけ、頭を下げていて」
「はぁ?何する気よ」
「――回るの」
文は双剣を交差させ、息を一つ吸った。鬼人の力を己が身に宿した。
痺れの残りが、熱に押し流されて消えていく。文は、低く屈んだはたての頭の上で、後ろを向いたまま一回転した。双剣の黒い刃が、二人を囲む輪の形に閃く。もう一回転。さらに一回転。羽虫の翼が、輪の縁で次々に千切れていった。
屈んだはたては、頭の上を刃が通り過ぎる風を感じながら、輪の外へ逃げた一匹を、下から射抜いた。
〈ブブッ……ブ……〉
残った数匹の羽音が、崖の上へ、そして崖を越えて杉林の奥の闇へと遠ざかっていった。
山道には、砕けた甲殻と千切れた翼が、落ち葉のように散らばっていた。文は双剣を下ろし、鬼人の力を解いて、その場に尻もちをついた。はたても、弓を抱えたまま、その隣にへたり込んだ。
「……数えた?」
「落ちたのが十一。逃げたのが四つ。――あんた、写真は?」
「……一枚も撮れてないわ」
「でしょうね。私もよ」
荷車の下から、白髪交じりの山童が、そろそろと顔を出した。塩水でびしょ濡れになった松明と、空になった漬物樽と、山道に散らばった野沢菜を、順に眺める。
「……天狗様。それ、商い物だったんだがなぁ」
文とはたては、一緒に顔を見合わせた。
――夜が明けるまで、二人は曲がり角を離れなかった。
山童には、火を点けずに山道を下りて、沢べりの商隊の小屋へ戻ってもらった。空の漬物樽を一つと、鍬を一本、荷車から借りておく。樽の代金は、どちらが払うかで少し揉めた。
杉の穂先が白み始めると、捩じれた杉の青い光は、一つずつ弱くなって消えていった。崖には、もう何も張り付いていない。二人は斜面を下りて窪みへ入り、鼻と口を手拭いで巻いて、獣の骸の周りの白い粒を、一つ残らず鍬で掻き集めた。粒は漬物樽に詰めて蓋をし、縄で固く縛る。山で焼くわけにはいかない。会所へ運んで、羽虫の居ない所で、明るいうちに焼いてもらう。
骸は、窪みの奥に深く穴を掘って埋めた。掘るのは文で、もう少し深くと口を出すのははたてだった。記録によれば、浅いと狐や狸が掘り返すらしい。
埋め終えた土の上に、文は斜面から拾ってきた平らな石を一つ載せた。はたてはその石を見て何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。十日前の風の夜、杉ごと斜面を転がり落ちたブルファンゴも、風に追われたものの一つだった。
「……こんな所かしらね。――はたて、あの雷光虫は、どうする?」
「放っといていいんじゃない。あれは刺さないし。羽虫を引き寄せたのは、あの光じゃなくて骸の方だし」
「そうね。――それに、あの子達も、風に家を追われたんだものね」
文は、朝の光の中で、ようやく写真機を構えた。空になった崖。埋め戻した窪み。捩じれた杉の木口で、羽を畳んで眠る小さな虫達。
はたては、その後ろで帳面を開き、落ちた羽虫の数と、逃げた方角と、刺された文の痺れが引いたまでの息の数を書き付けていた。
「……一面は、渡さないわよ」
「こっちの台詞よ。――締め切り、明後日の朝でしょ」
二人は、それぞれ反対の方角へ飛び立った。漬物樽だけが、曲がり角に、ちょこんと取り残されていた。
~妖怪山岳狩猟会所 掲示板の前~
――二日後の朝、会所の掲示板の前には、ちょっとした人だかりができていた。
依頼の紙の隣に、新聞が二つ、並んで貼り出されている。左に『文々。新聞』。右に『花果子念報』。どちらも、墨の匂いがまだ残る刷りたてだった。
『文々。新聞』の一面は、写真が半分を占めていた。闇の中、捩じれた杉の木口の上に寄り集まった青い光の塊。その下に、朝の光で撮った空の崖と、埋め戻した窪みの写真が小さく二つ。
――尾根の風に栖み処を追われ、折れた杉に身を寄せる
刺したのは狐にあらず、崖の羽虫。群れは記者が追い払い済み
対する『花果子念報』の一面には、写真が一枚も無かった。代わりに、山の絵図が大きく刷られている。北の尾根から沢、沢から中腹へ、青い光の報せが日を追って下りてくる道筋。その横に、十日分の哨戒の日誌の抜き書きが、日付の順に置かれていた。
山道の羽虫は火に突っ込む。曲がり角で松明を点けるな
火の玉に見とれて立ち止まるな。後ろから来る
掲示板の前で、依頼を探しに来た河童が、二つの新聞を見比べて首を捻っていた。写真で分かる方と、絵図で分かる方。どちらかだけでは、何かが足りない。両方読んで、ようやく山道の絵が一枚になる。
その横では、哨戒明けの白狼天狗が二人、『花果子念報』の抜き書きを指で辿っていた。『あ、これ、俺の書いたやつだ』と片方が言い、もう片方が『日誌の端の落書きまで読んでるのかよ』と呆れる。そこから少し離れた所では、白髪交じりの山童が、『文々。新聞』の写真の端に写った自分の荷車を見つけて、『漬物樽の代金、まだ貰ってないんだがなぁ』と、誰にともなくぼやいていた。
会所の裏手からは、細い煙が一筋、秋の空へ上がっている。二人が山道から運んだ漬物樽の中身を、昼のうちに焼いているのだ。焼く前に、河童の技師が粒を一つだけ摘まんで、砂の入った小瓶に仕舞っていったという話もあった。
その河童の後ろを、二つの影が、ほとんど同時に通り過ぎた。右の肩にまだ小さな腫れを残した鴉天狗と、目の下にたっぷり隈を作った鴉天狗。二人は掲示板には目もくれず、真っ直ぐに帳場へ向かっていく。
~妖怪山岳狩猟会所 受付~
――帳場の前の列が、二人の鴉天狗の前で左右に割れた。
「――典さん。お話があります」
「――典。ちょっと話があるんだけど」
帳場の向こうで、典は「あらぁ」と顔を上げた。二人が並んで帳場の前に立つのを、それはそれは嬉しそうに眺めている。尾が、ユラリと一つ揺れた。
「
「その珍しいことを、仕組んだのはどなたでしたっけ?」
「私、記録の請求なんかしてないんだけど。あんた、文に嘘吹いたでしょ」
典は「ふふ」と笑った。否とも応とも言わず、帳場の引き出しを開ける。
中から出てきたのは、三日前に仰向けに仕舞われていた、あの依頼票だった。『人手なし』の字には線が引かれ、その横の書き足しは、三日のうちに二行に増えている。そして紙の一番下に、新しい一行が書き加えられ、守矢の朱の判が押されていた。
備考 一人、払いなしで出発。一人、払いなしで出発
結果 羽虫の群れ、追い払い済み。卵は会所にて焼却。報告は、『文々。新聞』『花果子念報』各一部を添付
「……各一部を、添付」
文は、その一行を声に出して読んだ。はたてが、文の肩越しに依頼票を覗き込んで、口をあんぐりと開けた。
「……ちょっと。これ、私達の記事を、そのままギルドの報告書にしたってこと?」
「えぇ。羽虫の数も、崖の場所も、卵の始末も、松明を点けない注意も、全部書いてありますから。――写真が付いていて、且つ十日分の記録まで添えてある報告書なんて、うちの調査の方でも一人じゃ書けませんよぉ」
「……一人じゃ」
「えぇ。一人じゃ、ねぇ。ふふ」
文とはたては、同時に黙った。
――典の言いたいことは、二人とも分かっていた。文だけを行かせたら、写真は撮れても、風の跡の絵図は描けない。はたてだけを向かわせようにも、はたてはそもそも部屋から出ない。二人を同じ夜に同じ曲がり角へ行かせるには、一面の取り合いほど確かな種は無かったのだ。
「……それで。予算なし、と書いてあった気がしますけど。報酬は、未定のままですか?」
「そうよ。こっちは一晩、崖の下で弓を引いてたんだから。このバカが刺されたせいで」
「……はたて。その話は今じゃないでしょう」
典は、依頼票の『報酬』の欄を指先でとんとんと叩いた。そこには、『(未定)』の字の上に線が引かれ、小さく書き直してあった。
――『各紙、三十部買い上げ』
「お二人の新聞、三十部ずつ、ギルドで買い取らせていただきますねぇ。山道の茶屋と、山童の商隊の小屋と、河童の工房の入り口と、通る方の目につく所に貼り出して、松明を点けないように。――報告書と一緒に、注意の貼り紙までできちゃうんですよぉ」
文は口を開きかけ、閉じた。はたても、同じような反応を見せる。
――三十部。天狗の新聞屋にとって、それを断る理由は、山のどこを探しても無い。それに、山道の曲がり角で、誰かが松明を点けなくなるなら、それは二人が一晩、崖の下で身を屈めていた理由そのものだった。
「……典さん。一つだけ、聞いても?」
「どうぞぉ」
「結局、一面を取ったのは、どちらですか?」
はたてが、文の横で身を乗り出した。典は、二人の顔を交互に見て、それから、片方の目だけでにっこりと笑った。
「あらぁ。お二人とも、一面でしたよぉ。――それぞれの新聞の」
文とはたては、もう一度、同時に黙った。
それから、どちらからともなく、帳場に背を向けた。文は肩を竦め、はたては『うっさい』とも言わずに、ただ一つ鼻を鳴らした。暖簾をくぐる二人の背中を、典は尾を一つ振って見送った。
――暖簾が垂れると、典の片目から、笑いが消えた。
典は、掲示板から剥がしてきた二つの新聞を帳場に並べた。『文々。新聞』の見出しの二行目。『花果子念報』の絵図の、北の尾根から引かれた矢印。二人の記者が別々の道で辿り着いたものは、一つだけ同じだった。
それから、引き出しの奥から、十日前の『文々。新聞』を一枚取り出して、その隣に置いた。北の尾根の暴風の記事だ。渦を巻いて倒れた木の写真と、『風の出どころは、目下調査中』の一行。三つの新聞を並べると、尾根から中腹までの山の斜面が、帳場の上で一つに繋がった。
――風は、北から来ている。そして、山の上から順に、山のものを追い立てている。
典は筆を取り、依頼票の裏に、小さく一行を書き付けた。
――『風の跡、中腹まで確認。山の獣、それに追われて下る痕跡あり』
それから、依頼票と二つの新聞を重ねて、帳場の奥の障子の前へと、そっと差し入れた。障子の向こうで、紙をめくる音がした。
典は帳場に戻り、前髪を一房、指で直した。それから、何事も無かったように、いつもの生温い声で、列の頭に立つ河童へ笑いかけた。
「はい、次の方どうぞ。――今日はどんな噂をお持ちですかぁ?」