東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪山岳狩猟会所 受付~
――その朝、会所の戸を開けたのは冬だった。
まだ夜が明けきらない早朝。帳場の行灯に火を入れたばかりの典は、戸口から流れ込んできた冷たい空気に、思わず尾をブルリと震わせた。秋の終わりの朝の冷えではない。鼻の奥がツンと痛む、乾いた雪の匂いだ。
――戸口の暖簾が、白く凍っていた。
その暖簾を片手で掻き分けて、一人の女が、大きなあくびをしながら入ってきた。
薄紫の柔らかな髪に、白い帽子。白と青のゆったりとした服の上から、紺と赤の分厚い毛皮を肩に掛けている。帽子のつばにも、毛皮の端にも、細かい雪が張り付いている。それが一向に溶ける様子も無く、本人も払おうともしない。
冬の間だけ現れる守矢ギルドの冬季限定ハンターにして、冬の妖怪――『レティ・ホワイトロック』は帳場の前に立つ。
「――おはよう。今年も、冬の黒幕のお出ましよ~……なんてね」
典は、帳場の奥でしばらく筆を止めたままだった。それから、帳場の引き出しをそっと開ける。
中には、封をした手紙が一通、仰向けに入っていた。宛名は『レティ様』。文面は一行だけだ。毎年、秋の終わりに、典が『氷霧連峰』の氷の洞の前へ置いてくる手紙。それを読んだ冬の妖怪が、初雪の朝に会所の戸を開ける。守矢ギルドの冬は、毎年そうして始まってきた。
その手紙は、まだ引き出しの中にある。
「……レティさん。私、まだお手紙をお届けしていませんよ?」
「えぇ、知ってるわ。だから、こうして取りに来たの」
レティは帳場の前まで歩いてくると、白い手を差し出した。典は一瞬迷ってから、引き出しの手紙をその手に載せた。レティはその場で封を切り、一行だけの文面を、ゆっくりと味わうように読んだ。
――『そろそろですよ』
「ふふ。――えぇ、そろそろね」
レティは手紙を丁寧に畳んで、毛皮の内側に仕舞う。典は、頬杖をついてその様子を眺めている。
――いつもなら、ここで少しばかり大袈裟に喜んでみせるのが、典の冬の始めの仕事だった。だが、今朝の典は、引き出しの台帳を一枚めくっただけだった。
「……例年より、半月早いですねぇ」
「えぇ。昨日の夜、北から一気に来たわ。参っちゃうわよね。氷の洞の入り口が、朝には半分埋まってたんだもの」
レティは、もう一つあくびをした。口ぶりは、何年ぶりかに早起きした子供のようにのんびりしている。ただ、その目だけが、少しも眠たそうではなかった。
「――それで、典。取りに来たのは、手紙だけじゃないの。昨日の夜から、連峰の上の方で、何かが冷えていくのが分かるのよ。雪に埋まったものが、少しずつ冷たくなっていく感じ。――誰か、連峰に上がってるんじゃない?」
典の片目が細くなる。
帳場の台帳には、昨日の昼の入山の届け出が一件だけあった。
――『氷霧連峰 南の氷室まで 雪山草の採取 山童二名 日没までに戻る』
――戻ったという印は、まだ付いていない。
典は、二日前に障子戸の奥へ差し入れた一行を思い出していた。『風の跡、中腹まで確認。山の獣、それに追われて下る痕跡あり』。その風が、今度は冬ごと下りてきたのだとしたら。――典は、台帳のその一件の横に、小さく朱の印を付けた。
――その時、暖簾がもう一度揺れた。
入ってきたのは、白髪交じりの山童だった。十日前、中腹の山道で漬物樽を一つ失った、商隊の古株だ。息を切らし、眉に霜を付けて、帳場の前で膝に手を突く。
「……狐の姉さん、頼む。うちの若いのが二人、連峰から戻らねぇんだ。昨日の昼には、空は晴れてたんだ。雪なんぞ、あと半月は降らねぇはずだったんだよ」
典は筆を置いた。
それから、振り返らずに、後ろの障子戸の前へ書き付けを一枚差し入れた。障子の向こうで、紙を取る音が聞こえ、すぐに朱の判の音が続いた。その持ち主は、もう起きていたのだ。
「――山岳哨戒班の詰所へ。椛さんとハツシモを、すぐに会所へ」
典が筆先で伝令札を書き、詰めていた若い白狼天狗に渡す。その間も、レティは古株の山童の前にしゃがみ込んで、霜の付いた眉をじっと見ていた。
「……二人は、何を採りに行ったの?」
「雪山草だ。冬が来る前の山草は、薬屋に高く売れる。南の氷室の周りなら、初雪の前は引き返せるって――毎年、そうだったんだ」
「そう。――毎年、そうだったわね」
レティはニコニコと笑ったまま、そう言った。笑っているのに、古株の山童は、なぜかそれ以上言い訳を続けられなかった。
――椛が会所へ駆け込んできたのは、線香一本が燃え尽きる前だった。その傍にオトモのハツシモが息も乱さずに従っている。椛は帳場の前で一礼しかけて、そこに立つ白い帽子に気付き、目を丸くした。
「……レティさん?もう、起きていらしたんですか」
「えぇ。おはよう、椛。今年もよろしくね〜。――ハツシモも、いい子にしてた?」
ハツシモが、房尾を一度だけ振る。椛は少しだけ複雑そうな表情を浮かべるが、すぐにそれを引っ込めた。
典が帳場の上に地図を広げる。山の北の端から先、白く塗られた峰々の根元に、小さな印が一つ。
――『南の氷室』
「連峰の上は、夜通し吹雪だったそうです。哨戒の記録では、今も止んでいません。――椛さん、千里眼は、どこまで届きそうですか?」
「吹雪の中は、届きません。雪が幕のようになりますので。尾根を越えて、吹雪の切れ間を待つしかありません」
「――切れ間なら、私が読むわ」
レティが、帽子の雪をそのままに立ち上がった。
典は帳場の下から、小さな赤い液体を満たした瓶を幾つか取り出して並べた。河童の工房から秋のうちに届いていた、今年の冬の分だ。
「――[ホットドリンク]、椛さんの分と、遭難した方の分。それから、ハツシモの分もですよぉ。――レティさんの分は、要りませんね?」
「要らないわ。にとりにも、今年も作り甲斐があるって、伝えておいて」
典は「ふふ」と笑った。それから、帳場の奥の倉の鍵を、白狼天狗に取りに行かせた。冬の間だけ会所の倉庫に預けられ、毎年秋のうちににとりが磨き上げておく、一振りの槍と大盾がある。
やがて白狼天狗が二人がかりで、それを運んできた。
――大盾の芯には、冠のような巨獣の頭殻。下の縁には、ヘラのように平たい牙が左右に一本ずつ。槍の穂先は巨獣の鼻の棘を削り出したもので、柄と盾の裏には、紺と赤の分厚い毛が巻かれている。盾の表には、雪を引っ掛けるための逆向きの小さな棘が、鱗のように並んでいた。――巨獣槍『名残雪』。
大の天狗が二人がかりで運んだその盾を、レティは片手でヒョイと持ち上げた。そして、その重さを確かめるように、一度だけ小さく首を傾げ、ガンランスを背負い、盾を持つ。
「……まだ少し重いわねぇ。まぁ、初雪ですものね。――行きましょうか、椛」
~氷霧連峰 南の登り口~
――妖怪の山の北の尾根を越えると、景色から色が消えた。
昨日までは、この斜面にも枯れ草の茶色が残っていたはずだ。それが今は、膝まで埋まる新雪に覆われている。雪の下には、まだ秋の草が立ったまま埋まっていて、足を下ろすたびに、雪の底で乾いた茎がパキパキと折れた。
空は低い。峰々の頭は灰色の雲に隠れ、その雲の下を、細かい雪が斜めに流れていく。風は北から吹いていた。
ずっと下の斜面を、茶色い影の列が、ゆっくりと南へ動いていた。長い毛に覆われた、大人しい草食の獣――『ポポ*1』の群れだ。例年なら、初雪が積もってから半月は峰の上の影に留まっている群れで、こんなに早く、こんな下まで降りてくることは無い。
その群れの中程に、一頭だけ、他よりも一回り大きな影が混じっていた。白い毛に、肩の辺りだけ、紺色が薄く差し始めている。鼻が、長い。レティはその影を、何も言わずにしばらく見ていた。それから、目を逸らした。
椛は[ホットドリンク*2]の瓶の蓋を開け、一息に飲み干した。辛さが喉を焦がし、腹の底から熱が広がっていく。残りを少しだけ掌に取って差し出すと、ハツシモがそれを静かに舐めた。
その一人と一匹の少し前を、レティが歩いている。
背に銃槍を負い、右手には盾を装備している。それでいて、その足は雪にほとんど沈まなかった。椛とハツシモが膝まで雪を漕ぐ横で、レティだけが、踏み固めた道でも歩くように、帽子の雪を乗せたままのんびりと進んでいく。足を下ろす前に、その下の雪が、彼女のためにそっと固まっているようにも見えた。
「……レティさん。この雪は、例年の初雪と同じですか?」
レティは立ち止まり、足元の雪を片手で掬う。指の間から、粉のような雪がサラサラとこぼれていく。湿った初雪なら、握れば固まる。この雪は、握っても固まらなかった。
「――違うわね。初雪は、空からそっと降りてくるものよ。これは、真冬の奥の峰の雪。――北の奥にあった冬が、後ろから押されて、一晩でここまで送られてきたみたい」
「……押されて、ですか」
「えぇ。冬は普通、自分で歩いてくるのよ。――こんな風に、一度には押し寄せて来ないわ」
レティはそれだけ言うと、また歩き出した。椛はその背中を見ながら、十日あまり前に北の尾根で見た、渦を巻いて倒れた木々のことを思い出していた。あの夜も、風は北から来ていた。
――最初の痕跡は、登り口から少し上った尾根の分かれ道にあった。
雪の中から、竹で編んだ背負い籠の縁が、半分だけ覗いている。ハツシモが先に鼻を寄せ、小さく一つだけ吠えた。椛が雪を掘ると、籠の中から、紐で束ねた緑の草が出てきた。葉の縁が白く凍り付いた、雪山草だ。束は三つ。籠の底には、空っぽの竹筒が一本転がっていた。
「……採り終えて、帰りかけた所で籠を下ろしています。吹雪に足を取られて、荷を捨てたんでしょう」
椛は籠の周りの雪を、もう一度見回した。新しい雪が積もって、足跡はほとんど消えている。ただ、一度踏み固められた雪は、上に新しい雪が積もっても、周りよりわずかに凹んで残る。その凹みが、分かれ道の西へ、穴を穿つように続いていた。横に長い楕円の形。かんじきの跡だ。
かんじきの跡は二つ。歩幅がバラバラだ。片方の跡が、もう片方の跡に寄り添うように並んでいる。一人が、もう一人を支えて歩いていたのだ。
少し先で、その二つの跡が一つに乱れていた。雪の上に、両手を突いたような凹みが二つ。転んだのだ。その凹みの周りの雪を、椛は指先でそっと辿った。新しい雪の下に、少しだけ赤い色が混じっている。血だ。多くはない。ただ、そこから先の跡は、片方が、もう片方にほとんど引きずられるように続いていた。
「西へ、ですね。氷室の方ではありません」
「西の崖の下には、氷の洞があるわ。風を避けるなら、そこを選ぶでしょうね。――いい子達。
レティの『そこまでは』が、椛の耳に引っ掛かった。
ハツシモが、かんじきの跡に鼻を付けて歩き出した。新しい雪の下の匂いを、一歩ずつ拾っていく。尾は下げたままだ。吠えもしない。ただ、ときどき立ち止まって、椛の方を振り返る。付いてきているかどうかを確かめるように。
――崖の手前で、ハツシモが足を止めた。
鼻に皺を寄せ、一歩、後ろへ下がる。下がったまま、前の雪をじっと見ている。平和主義のガルクが、前へ出るのを嫌がっていた。
椛はハツシモの横へ出て、その雪を見下ろした。
雪の上に、太い帯のような跡が一筋、崖の方へ向かって続いていた。足跡ではない。何か大きなものが、腹を引きずって、そこを通った跡だ。幅は、大人が二人並んで寝転べるほど。その帯の縁が、ヌラリと光っている。引きずった体から滲み出た粘り気が、そのまま雪の上で凍っているのだ。
帯のそこかしこに、紫色の染みが落ちていた。染みの周りだけ、雪が形を失って溶け、小さな穴が空いている。鼻を近付けると、嗅いだことの無い、甘ったるい臭いがした。椛は、反射的に息を止めて顔を背けた。
――毒だ。
「……触らないで。椛、それは、暖かいものを欲しがる子の跡よ」
レティの声は、穏やかなままだった。ただ、その片手が、いつの間にか背のガンランスの柄に掛かっている。
帯の跡の先、崖の根元の吹き溜まりに、何かが半分埋まっていた。椛が雪を払うと、『ガウシカ*3』の骸が出てきた。角の生えた頭が不自然にねじれ、胴が、中身を抜き取られたようにペシャンコに凹んでいる。喉元に、大きな丸い噛み跡が一つ。牙の列ではなく、吸い付いたような輪の形だった。
そして、その骸は、芯まで凍っていた。昨夜の寒さで凍ったのではない。毛皮の上から、丁寧に氷を張り付けたように、全身が半透明の膜で覆われている。
「……食べ残しを、とって置いているんですね」
「えぇ。冬の間の蓄えよ。――だから、この崖の下は、もうあの子の寝床なの。……昨日までは、もっと北の奥の洞に居たはずなのに」
椛は崖を見上げた。
崖は、灰色の岩に分厚い氷が幾重にも張り付いた壁だ。その根元に、横長の暗い口が開いている。氷の洞だ。だが、吹雪が崖の前を横切って、入り口の形は、見えたり消えたりしていた。椛は目を凝らした。千里を見通す白狼天狗の目も、空中に満ちた雪の粒を一つ一つ数えてしまって、奥へ届かない。
「……駄目です。入り口の中が見えません」
「そう。――なら、少し待ちましょうか」
レティ盾の下部を雪に突き、目を閉じた。
椛には、彼女が何をしているのか分からない。ただ、頬に当たる風の冷たさが、少しずつ変わっていくのだけは分かった。北から来る冷たい空気と、谷から上がってくるまだ秋の残る空気。その二つが、レティの周りで、縞模様のように入れ替わっている。
「――三つ数えたら、切れるわ。その後は、五つ数える間だけ。――一つ。二つ」
――三つ。
吹雪が、崖の前から幕を引くように退いた。椛の目が、一瞬で氷の洞の奥へ届く。
入り口の氷柱に、赤い手拭いが一枚、結び付けられていた。その奥、青白い氷の壁に囲まれた洞の底に、小さな影が二つ、寄り添ってうずくまっている。片方が、弱々しく片手を上げた。
そして――その二つの影の、真上。
洞の天井から、白く、大きなものが、垂れ下がっていた。
――四つ、五つ。吹雪が、また崖の前を塗り潰した。
~氷霧連峰 西の崖の氷の洞~
――洞の中は風が無かった。
入り口を一歩くぐっただけで、吹雪の音が、厚い壁の向こうのように遠くなる。壁も天井も、幾重にも重なった氷だ。外の灰色の光が氷の中を通ってくるうちに青く染まり、洞の中を、水の底のような薄明るさで満たしていた。
どこかで、水の滴る音がしていた。いや、滴る前に凍るのだろう。ピシリ、と、氷の軋む、小さな音だけが、間を置いて響く。椛の吐く息が、顔の前で白く渦を巻いて、そのまま、動かない空気の中に溶けていく。
壁の窪みのあちこちに、氷漬けになった影がある。丸い背中。短い脚。長い毛。ポポだ。一つ、二つ、三つ。外のガウシカと同じように、半透明の膜で包まれて、氷の棚に並べられている。蓄えの蔵だった。
椛は、足音を消して進んだ。ハツシモがその斜め後ろを付いてくる。口には、既に巻物を一本咥えていた。氷の洞の入り口で、椛が何か言う前に自分で選んだ巻物だ。
洞の奥の、一段低くなった底。そこに、山童が二人、肩を寄せ合って蹲っていた。
片方は、壁に背を預けて目を閉じている。右の脛が、股引の上からでも分かるほど紫色に腫れ上がっていた。もう片方が、その体を自分の蓑で包み、両腕で抱え込んでいる。二人とも唇が青い。足元には、火打ち石と、燃えかけて消したらしい小枝の山があった。
起きている方の山童が、椛の姿に気付いて口を開けた。椛は、立てた指をそっと唇に当てた。それから、その指をゆっくりと上へ向ける。
山童は、根が生えたように動かなかった。その目だけが、小刻みに震えながら、椛の指の先を追う。
――天井に、それは張り付いていた。
白い。氷の白さとは違う、ブヨブヨとした、濡れた皮膚の白さだ。大きさは、中腹の山道を塗り塞ぐほど。その全身が、天井の氷にぴたりと腹を向けて張り付き、垂れ下がった腹の下で、赤いひだが、息をするようにゆっくりと波打っていた。翼は、体に沿って薄く広げたまま、氷に貼り付いている。
頭がどちらなのか、椛にはすぐには分からなかった。体の両端が、どちらも同じように丸く、太く、先へ向かって細っている。その両端にも、肩の辺りにも、紫色の斑の模様が浮き出していて、氷の洞の青い薄明るさの中で、ぼうっと光っていた。
いくら見ても、目が無い。
――眠っている。
椛は、溜めていた息を、そっと細く吐いた。
後ろで、レティが、洞の入り口に立ったまま天井を見上げていた。白い帽子の下で、その目が、少しだけ細くなっている。彼女は、音を立てずに槍を氷の壁に立て掛け、両手を空けた。
「――あの子は目じゃなくて、熱で物を見るのよ」
レティの耳打ちは、よく聞こえるのに息よりも小さかった。
「熱いものを追いかけて、熱いものを食べるの。――あの子達、火を燃やしたでしょう。きっと暖まろうとして。それで天井が動いて、慌てて消したのね。――いい子達よ。消さなかったら、今頃はもう、あの子のお腹の中だったわ」
椛は、起きている山童の青い唇を見た。火を消してから、一晩。この氷の洞の底で、体の熱だけを寄せ合って、天井の下で息を殺していたのだ。
――そして、その体の熱も、もう尽きかけている。
「……[ホットドリンク]を飲ませたら、体が温まります。そうしたら――」
「えぇ。あの子が、起きるわね」
温めなければ、二人はこのまま凍える。温めれば、天井のモンスターが、その熱を嗅ぎ付ける。椛の指が、剣の柄の上で強張った。
レティは、ふんわりと微笑んだ。
「――中は、[ホットドリンク]で温めて。外は、私が冬で包むわ。あの子には、二人がただの氷に見えるように。――あんまり長くは、保たないけどね」
椛は頷いた。
ハツシモが、咥えていた巻物をそっと雪の上に置き、前足で広げた。[隠れ身の巻物]だ。紙の間から、匂いの無い薄い煙のようなものが広がり、椛とハツシモの体にまとわり付く。気配と匂いが、洞の氷の中へ溶けていく。
それと同時に――洞の中の空気が変わった。
始めは、頬でしか分からなかった。やがて、吐く息が白くなり、その白い息が、吐いた先から細かい氷の粒になって落ちていく。ホットドリンクで温まったはずの椛の指先が、たちまちかじかんでくる。底に居る二人の山童の周りに、山のどんな夜よりも深い、真冬の寒さが、幕を下ろすように降りていた。
レティは、入り口で目を閉じたまま立っている。帽子の雪が、少しも溶けていない。
――椛は、底へ下りた。
起きている山童の口に、ホットドリンクの缶を当てる。山童はむせそうになるのを必死で堪えて、ゆっくりと飲み下した。それから、目を閉じた方の山童の顎を支え、少しずつ唇の間へ流し込む。脛の腫れは、近くで見ると、丸い輪の形をしていた。外のガウシカの喉元と同じ、吸い付かれた跡だ。
椛は腰の袋から[解毒薬]を取り出し、それも少しずつ飲ませた。天井の白いものは、赤いひだをゆっくりと波打たせたまま、動かない。
「……助かった。――恐れ入ります、天狗様」
山童の声は、息よりも小さかった。その片手が、さっきから少しも開かれていないことに、椛は気付いた。何かを、固く握りしめている。
「……それは?」
「……崖の上の岩棚で、拾ったんでさ。雪山草を採ってたら、岩の隙間に挟まってた。鉄じゃねえかと思ってよ。――売れると思ったんだ。それで、寄り道をしちまって……気付いたら、吹雪だった」
山童はかじかんだ指を一本ずつ引き剥がすようにして、掌を開いた。
――見た目は鱗だった。
大人の掌ほどの大きさの、ゆるく反った一枚。縁は刃物のように薄く、山童の掌には、その縁の形の細い切り傷が、何本も付いていた。表は、磨いていない鋼のような、鼠色の鈍い光だ。その鼠色を、赤茶けた粉が、斑に覆っている。
裏返すと、裏側には幾筋もの細い稜が、老いた木の年輪のように重なっていた。甲殻とも、竜の鱗とも違う。椛は哨戒で、山に棲むものの鱗を何度も拾ってきた。火竜の鱗、雷狼竜の鱗、迅竜の鱗。そのどれにも似ていなかった。これは、生き物の体から剥がれたというより、鍛冶場の片隅で打ち捨てられた、鋼の一枚に近い。
茶色の斑は、放置されて出始めた錆のようだった。
椛は山童の掌からその鱗をつまみ上げた。重い。同じ大きさの鉄の板と、ほとんど変わらない。指先に、赤茶けた錆が、ザラリと付いた。そして――微かに、金気臭い匂いがした。
十日あまり前、北の尾根の風の中に、文が記事には書かなかった匂いがあった。その話を、椛は、哨戒の後の詰所で、一度だけ文から聞いていた。
「……レティさん」
入り口のレティが、目を開けた。椛の指の間の鱗を見て、その穏やかな顔から、ほんの少しだけ笑みが引いた。
「……それ、冷たそうね。――冬の冷たさじゃないわ。それは、もっと遠くから来た冷たさよ」
椛は何も言わず、鱗を手拭いで三重に包んで、懐の奥へ仕舞った。それから、目を閉じた山童の体を、そっと抱き起こす。
ハツシモが、その横で伏せた。背を低くし、じっと待っている。椛は山童をその背に乗せ、蓑の紐で体を縛り付けた。もう一人の山童の腕を自分の肩に掛けて、ゆっくりと立たせる。
入り口まで、二十歩、十歩。
「……ケホッ」
――その時、山童が小さく咳を零した。
咳そのものは、風に消えるほどの音だった。だが、咳と一緒に吐き出された白い息は、体の奥の熱を帯びて、レティの冬の幕の外へ、ふわりと漂い出ていた。
天井で――赤いひだの波が、止まった。
――白い体の片方の端が、ゆっくりと、天井から垂れ下がってきた。
頭だった。紫の斑の浮いた、目の無い頭。その先が、山童の吐いた息の残りをなぞるように、ゆらりと左右に揺れる。その先には、丸い口が、ゆっくりと開いていった。
「――走って!」
レティの声が氷の洞に響いた。
椛は山童の腕を肩に掛けたまま、入り口へ駆けた。ハツシモがその横を、背の山童を揺らさないように、低く走る。後ろで、湿ったものが氷から引き剥がされる、嫌な音がした。
――そして、重いものが、底へ落ちた。
氷の床が揺れ、天井から細かい氷の欠片が降ってきた。椛は振り返らなかった。振り返らなくても、さっきまで山童達がうずくまっていた底に、何が落ちたのかは分かっていた。
入り口を抜ける。吹雪の切れ間は、まだ続いていた。灰色の空の下、崖の前の雪原が、広く白く開けている。
外の光の中で見ると、肩の山童の顔は、洞の中で見たよりもずっと青かった。それでも、その足は、一歩ずつ雪を踏んでいる。ホットドリンクの熱が、ようやく体の奥まで届き始めたのだ。椛はその腕を、自分の肩に掛け直した。
入れ替わるように、レティが洞の入り口の前へ歩み出た。氷の壁に立て掛けていた槍を右手に取り、背の大盾を左の腕に通す。そして、その盾を、洞の口へ向けて雪に据えた。
――洞の奥から、白いものが這い出してきた。
床を引きずるようにして、入り口の光の中へ、その姿を現す。天井に張り付いていた時よりも、ずっと大きく見えた。ぶよぶよとした白い背。床に着いた両の翼の先に、太い爪。頭と尾の見分けが付かない体の両端が、別々の生き物のようにゆらゆらと揺れて、空気を探っている。
ギギネブラの頭が、レティの盾の方を向いた。そして、そこを通り過ぎる。冬そのもののようなレティには、温もりが無い。目の無い頭が探しているのは、その後ろ、雪原を尾根の方へ過ぎていく、三つの温かい影だった。
頭が大きく反った。白い体が膨らみ、両の翼が雪を押さえ付ける。
金属を擦り合わせたような高い叫びが、崖にぶつかって跳ね返った。椛の耳の奥で、何かが破れそうになる。足が、雪に縫い付けられたように動かない。山童の腕を肩に掛けたまま、椛は片手で耳を押さえ、歯を食いしばった。
ハツシモだけが耳を伏せたまま、雪の上を走り続けていた。
レティは盾の後ろで、帽子のつばを少し下げただけだった。叫びは盾の表にぶつかって、張り付いた雪を細かく震わせ、そこで尽きる。巨獣の頭殻を芯に据えた大盾は、音も風も、前から来るものは何もかも、その表で受け止めるために作られていた。
「――ハツシモ!二人を連れて、尾根の向こうへ!」
叫びが止んだ瞬間、椛は肩の山童をハツシモの方へ押し出した。山童はよろけながらも、ハツシモの背の仲間の体にしがみ付き、一緒に雪を漕いでいく。ハツシモは一度も振り返らない。大型には牙を向けない。その代わりに、動けない者を背に乗せて、どこまででも逃がす。それが、椛の『部下』の仕事だった。
だがギギネブラの頭は、その三つの温かい影を、まだ追っていた。
「――椛。熱いものを追うなら、もっと熱いものを、見せてあげましょうか」
レティが、盾の後ろから言った。椛は、その一言で分かった。
腰の袋から、洞に入るために用意していた松明を引き抜く。火打ち石を一度、二度打つ。油を含ませた布に、橙色の火が立ち上がった。椛はその松明を高く掲げ、ハツシモ達とは反対の、崖沿いの雪原へと駆け出した。
レティが盾を掲げたまま目を細める。尾根へ向かうハツシモ達の周りで、雪の粒が、宙に浮いたまま動かなくなる。三つの温かい影を、冬がそっと包み込んだ。
――ギギネブラの頭が、グルリと向きを変えた。
白い体が、雪の上を滑るようにして、松明の火を追う。体を縮め、伸ばし、また縮める。そのたびに、巨体が思いもよらない速さで前へ出た。椛は雪を蹴って横へ跳んだ。一瞬前まで椛が居た所を、白い体の伸びた先が、雪ごと引きずって通り過ぎる。
頭が前へ突き出された。口から紫色の液が、弧を描いて飛んでくる。椛は盾でそれを弾いた。雪の上に落ちた液が、たちまち紫色の煙を吹き上げる。甘ったるい、あの崖の前の帯の跡と同じ臭いだ。椛は息を止め、煙の外へ転がり出た。
「――椛、こっちよ」
レティがいつの間にか、煙の向こう側に立っていた。雪を漕ぐ音も立てずに。大盾を前へ迷いなく掲げ、槍の穂先をその縁から低く突き出している。椛はその盾の影へ飛び込み、松明を盾の横から高く掲げた。
――白い体が火を目がけて、真っ直ぐに突っ込んできた。
レティは動かなかった。
盾の表に張り付いた雪が、ギギネブラの頭を受けて、粉のように砕けて飛んだ。その下から現れた、逆向きの小さな棘が、ぶよぶよとした白い皮膚に食い込む。レティの脚が、雪を押して、半歩だけ下がった。それだけだった。
槍の穂先が、盾の縁から伸びた。
受け、そのまま突く。巨獣の鼻の棘を削り出した穂先が、白い頭の付け根に深く刺さった。ギギネブラの体が、後ろへ大きく跳ねた。
〈ギィィッ……!〉
「……ふふ。いい子ね。――でも、初雪の盾じゃ、まだ薄いわね」
レティが、盾の表を見て小さく呟いた。砕けた雪の下の盾は、もう半分ほど地の色を見せている。真冬なら、受けるたびに新しい雪が張り付き、盾はどんどん厚くなる。今はまだ、そうはいかない。
それでも、レティは前へ出ようとはしなかった。受けて、受けて、受けながら、相手の息の間合いと癖を、一つずつ体に刻んでいく。狩りが長ければ長いほど、盾は相手の次の一手を先に待つようになる。『冬は長いほうがいい』。それは、狩りでも同じだと、レティは前に椛に言ったことがある。
――ギギネブラが、雪の上で体を丸めた。
尾の方の端が、雪に押し付けられる。そこから、泡のような白い塊が、ぶくぶくと絞り出された。泡の一つ一つの中で、何かが蠢いている。やがて泡が弾け、中から、白く細長いものが、五つ、六つと、雪の上へこぼれ出た。猫ほどの大きさの、目の無い蛭のような生き物。その頭の先に、丸い口が開いている。
幼体の『ギィギ*5』だ。
ギィギ達は、雪の上で一斉に頭をもたげ、松明を掲げた椛の方へ、体をくねらせて這い寄ってきた。
「……邪魔を、しないでッ!」
椛は松明を左手に持ち替え、右手で雷狼剣盾『千里白狼』の剣を抜いた。片手剣の短い刃が、一匹目のギィギを雪ごと貫く。二匹目、三匹目。片手剣は、振りが小さい分だけ、小さな相手を小さく捕えるのが得意だ。
だが、四匹目が、椛の脛に飛び付いていた。
脛当ての上から、冷たい口が、ぴたりと吸い付く。その先で、何かが、脛当ての紐の隙間を探っている。椛は盾の縁でそのギィギを叩き落とし、落ちた所を剣で突く。
――その向こうで、白い巨体の色が、変わり始めていた。
肩の辺りから、墨を流したように、黒が広がっていく。ぶよぶよとした白い皮膚が、みるみる黒ずんで、その上に、紫の斑の模様だけが、毒々しく浮かび上がる。口の端から、紫の液が、糸を引いて垂れていた。――怒り状態だ。
「……黒くなると、頭が硬くなるのよね。代わりに、尾が柔らかくなるわ。――椛、尾をお願い。頭は、私が受ける」
「……どちらが尾か分かりません!」
「口が開かない方よ」
レティの答えは、いつものようにのんびりしていた。椛は、思わず笑いそうになった。
黒くなったギギネブラが、後ろの崖へ向かって飛び付いた。岩と氷の壁に、両の翼の爪を引っ掛け、そのまま、重さなど無いもののように、崖を上へと這い上がっていく。崖の中程で、反対側の端――頭が、こちらを向いた。
椛の掲げた松明の火が、風に揺れた。
――来る。
崖を蹴った黒い巨体が、空中で体を大きく広げた。翼も、胴も、頭も、尾も。全身で空を覆うようにして、松明の火の真上へ、落ちてくる。
レティが、椛の前へ出た。
盾を頭上へ、斜めに掲げる。槍をその裏へ引き寄せ、両足を雪に深く沈めた。その足元の雪が、彼女のために、石のように固まる。
雪が、崖の前の雪原ごと白い幕になって吹き上がった。風圧で、椛の体が後ろへ押し流される。その白い幕の真ん中で、レティの盾だけが、元の場所に立っていた。
盾の上に、黒い巨体が、覆い被さったまま一瞬だけ止まる。
――その一瞬で、十分だった。
椛は、押し流された勢いのまま雪を蹴り、盾の横を回り込んでいた。黒い体の、口が開かない方の端。その付け根へ、片手剣を一閃。二閃。さっきまでの白い皮膚とはまるで違う、柔らかな手応えが、剣を深く飲み込んだ。
同時に、盾の下から、レティの槍が、真上へ突き上げられていた。
黒い巨体が、盾の上から転がり落ちた。雪の上で、両端をばたつかせてもがく。その頭が、もう一度だけ、椛の左手の松明へ向いた。
椛は松明を引かなかった。
開いた丸い口が、火を飲み込もうと突き出される。その口の中へ、椛は燃える松明をそのまま――力一杯押し込んだ。
濡れたものが焼ける嫌な音と、白い湯気。ギギネブラの頭が、火を吐き出すように大きく振られた。それから、黒い巨体が、雪を蹴散らして後ろへ下がる。翼の爪が崖の氷を掃い、体が、氷の洞の口へと吸い込まれていく。
やがて、その白と黒の不吉な色が、洞の奥の青い薄明るさの中に溶けた。氷を引きずる音が、奥へ、さらに奥へ、北の方へと遠ざかっていく。
――崖の前に、吹雪が戻ってきた。
椛は雪の上に尻もちをついたまま、しばらく動けなかった。右手の剣には、紫と白の体液が、凍りながら糸を引いている。左手には、燃え尽きた松明の柄だけが残っていた。
レティが盾を下ろして、ゆっくりと歩いてきた。帽子の雪は、やはり少しも溶けていない。
「……追わないのですか?」
「追わないわ。今日の仕事は、あの子達を連れて帰ることよ。――それにあの子も、自分の寝床から追い出されて、ここまで来たのよ」
レティは氷の洞の口を見やった。その向こう、吹雪の奥の、さらに北を。穏やかなその顔から、また少しだけ、笑みが引いていた。
「――北の奥で何かが、寝床を取っているのよ。あの子のも、山の子達のも、――冬そのものも」
~妖怪山岳狩猟会所 受付~
――会所に戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。
尾根の向こうでハツシモは、二人の山童を背に乗せたまま、雪の上に伏せて待っていた。椛が駆け寄ると、房尾を一度だけ振った。それ以上は何もしない。椛も『よくやった』とは言わなかった。ただ、その白い頭を、一度だけ、黙って撫でる。
帳場の前の板の間では、白髪交じりの古株の山童が、二人の若い山童を両腕に抱え込んでいた。脛をやられた方も、[解毒薬]と炭火で、ようやく目を開けている。古株は二人の頭を、少しばかり強すぎるくらいに叩いた。
板の間の片隅には、炭火を入れた火鉢が二つ、山童達の周りに寄せられていた。典が、一行が戻る前に用意させておいたものだ。ハツシモはその火鉢の横で伏せ、雪に濡れた背の毛を、ゆっくりと乾かしている。その鼻先を、若い山童の一人がおずおずと撫でていた。
「……馬鹿野郎。雪山草なんぞ、また来年採りゃあいいんだ。――天狗様、冬の姉さん。この恩は、一生忘れねぇ」
古株が板の間に額を擦り付ける。レティは、その前にしゃがみ込んで、若い山童の額にそっと白い指を当てた。
「火を消したのは、あなたでしょう?」
「……へ、へい。天井が動いたんで、つい……」
「そう。――いい子ね。でも、初雪の前の山は、今年からは信じちゃ駄目よ。冬は、今年は自分で歩いて来ないみたいだから」
若い山童は、分かったような分からないような顔で、何度も頷いた。
典は、そのやり取りを帳場の奥から聞きながら、台帳の入山の届け出に、戻ったという印を付けた。その下に、小さく書き足す。『氷霧連峰の入山、当分の間、哨戒班の同行を要す』。それから、商隊の古株に、その一行を読んで聞かせた。古株は何も言わずに、深く頷いた。
――椛は帳場の前に立っていた。
懐から取り出した手拭いの包みを、帳場の上に置く。典は筆を止め、その包みを一枚ずつ、片方の目だけで見ながら解いていった。
行灯の灯りの下で、鼠色の鱗が鈍い光を返した。その表を覆う赤茶けた錆が、帳場の白い紙の上に、ぱらぱらと落ちる。乾いた血のような色だった。
「……『氷霧連峰』の西の崖の上。岩棚の隙間に挟まっていたそうです。鉄の板のように重い。――それと、微かに、金気臭い匂いがします」
「……金気臭い、ですかぁ」
典はその一言を、口の中でもう一度転がすように繰り返す。それから、引き出しの奥から少しシワがある新聞を一枚取り出して、鱗の横に並べた。十日あまり前の『文々。新聞』の、北の尾根の暴風の記事だ。その隣に、二日前の二つの新聞。風の跡を下る青い灯の記事だ。
帳場の上に、三つの新聞と、一枚の錆びた鱗が並んだ。
椛は、その並びを黙って見下ろしていた。錆は、一晩や二晩、雪の中に置かれただけで付くような薄いものではなかった。鱗の縁の隙間の奥まで、赤茶けた色が、幾重にも染み込んでいる。長い間、風と雪と水に晒され続けてきたものの錆だ。
――だとしたら、この鱗の持ち主はその長い間、どこに居たのだろう。
「……椛さん。この件は、哨戒帳に『岩棚にて不明の鱗片一枚、回収』とだけ、書いておいてください。――それ以上は、まだ書かないでくださいねぇ」
「……承知しました」
典は鱗を、二つめの新しい手拭いで包み直した。それから、三つの新聞をその上に重ねて、振り返り、障子戸の前へと差し入れた。
障子の向こうで、包みを取る音がした。そして、それきり、何の音もしなくなった。紙をめくる音も、朱の判の音も。帳場の前で待つ椛にとっては、その静けさが、どんな声よりも重かった。
やがて、障子の向こうから低い声が一つだけ出て来た。
『――典。この鱗のことは、会所の外に出すな。文にもだ』
「……ふふ。承知しておりますよぉ」
典はいつもの軽薄な調子で答えた。ただ、前髪に隠れていない方の目は、笑っていなかった。
――戸口の暖簾が、また白く凍り始めていた。
レティは、会所の倉庫に槍と盾を置きに行った帰りに、暖簾の前で一度だけ立ち止まった。外では、日の落ちた空から、初めての雪が、山の中腹にまで、ちらちらと降り始めている。十日前までは、収穫祭の囃子が聞こえていた山だ。
「……レティさん。今年の冬は、長くなりそうですか?」
後ろから、椛が尋ねた。レティは振り返らずに、空を見上げたまま、少しだけ首を傾げた。
「さぁ。冬が長いのは、嬉しいけどね。――でも、今年の冬は、自分で歩いて来た冬じゃないわ。こういう不自然な冬は、あんまり好きじゃないの」
それだけ言うと、レティは暖簾をくぐった。白い帽子の上に、新しい雪が一つ、また一つと載っていく。その雪はやはり、少しも溶けなかった。
『レティ・ホワイトロック』
所属:守矢ギルド
役職:冬季限定の登録ハンター。初雪から雪解けまで、雪山救助と寒冷地の大型個体の対応を担う
武器:巨獣槍『名残雪』(ランス)