東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~紅魔館 正門~
――門の前で、寝息が一つと、鼻息が一つ空に消えていく。
昼下がりの日差しが、『紅魔館』の赤い煉瓦の塀を温めていた。霧の湖から吹き上がる風が、門の両脇の土塁の草をさわさわと揺らしている。
その門の真ん中に、門番が立っていた。……正確には、立ったまま眠っていた。
赤みがかった長い髪に、緑の中華風の衣装。帽子の正面には、龍星の飾り。肩と籠手と脛には、緑の甲殻に赤い棘を並べた防具を着けている。腕を組み、背筋はぴんと伸びているのに、首だけがコクリ、コックリと揺れていた。猟団『紅魔館』所属、同名の館の門番『紅美鈴』である。
その足元には、大きな犬が一頭、座っていた。
黒と赤茶の縞の虎毛に、胸元だけ白い毛。人を背に乗せて走れるほどの体を地面にぴたりと下ろし、黒い目で湖の方をじっと見ている。背には、鉄の骨を重ねた大きな番傘を負っていた。傘の縁は、美鈴の防具と同じ、緑の甲殻と赤い棘で縁取られている。
美鈴のオトモのガルク『番太』だ。
門番が眠っている間、番犬は起きている。番犬が眠っている間は、門番が起きている。『一人と一匹とで交代で門を守っている』のだと、美鈴は言う。
――どちらも寝ている時間もあるでしょう。
館のメイド長『十六夜咲夜』は、銀の盆を片手に、門の内側の石段を下りながら、そう思った。銀髪の側頭部で三つ編みが揺れる。青白いメイド服の肩と前腕と脛には、瑠璃色の甲殻を重ねた部分装甲。腰の後ろには、二振りの短い刃が交差して吊るされていた。
咲夜は門の手前で足を止め、エプロンのポケットから、銀のナイフを一本抜いた。
手首を返す。ナイフが、居眠りする門番の帽子の飾りめがけて、真っ直ぐに飛んだ。
バサッ、と布の開く音がした。
番太が、いつの間にか背の番傘を咥えて広げていた。ナイフは傘の鉄骨に当たってキンと鳴り、石畳の上に落ちた。番太は傘を畳み、何事もなかったように、また湖の方へ向き直る。
「……あなたは、本当に優秀ね」
咲夜は小さく息を吐き、落ちたナイフを拾った。番太の尾が一度だけ、パタン、と石畳を打つ。
「……ふぁ……あれ、咲夜さん?」
ナイフの音で目を覚ました美鈴が、目をしばたたかせた。
「おはよう、美鈴。もう昼過ぎよ」
「お、起きてましたよ?寝てたように見えたかもしれませんけど、目を閉じて、地面の揺れを聞いてたんです」
「そう。番太が全部聞いてくれていたようね」
美鈴は、えへへ、と頭を掻いた。咲夜は盆に載せてきた紅茶と焼き菓子を門の脇の小卓に置き、それから、盆の下に挟んできた紙束を取り出した。
湖畔の見張り台から、毎日届く観測票だ。
天候 晴れ。夜半より薄霧
水位 平常
大型の足跡 西岸湿地にて一。三本指、鳥竜と見られる
妖精メイドの欠勤 七(前日 二)
チルノの機嫌 上々。入り江の件で慧音先生に褒められた由
その他 前哨所の銀の匙三本、燭台一つ、見当たらず
咲夜の目が、二つの欄で止まった。
妖精メイドの欠勤が、七。昨日は二人だった。紅魔館の妖精メイドは、給金の代わりに紅茶を飲み放題、辞めるのも休むのも自由だ。だから欠勤そのものは珍しくない。だが、一晩で五人増える時は、決まって湖の近くに何かが居る。妖精は、自分達でも分からないまま落ち着かなくなるのだ。
それから、最後の欄。
「美鈴。前哨所の銀の匙と燭台は、誰が持ち出したのかしら」
「あ、それなんですけど」
美鈴は、焼き菓子を一つ口に放り込んでから、真面目な顔になった。
「今朝、番太と前哨所まで行ってきたんです。そしたら、匙を磨いて干しておいた棚が、外からひっくり返されてて。棚の脚の周りに、こんな足跡がありました」
美鈴は小卓の上の砂糖壺から指に砂糖を取り、卓の板に三本の筋を描いた。前に三本、後ろに一本。鳥の足のような形だ。
「大きさは、私の両手を広げたくらい。爪の先が深く刺さってました。踵は浅いです。重いのに、跳ねるように歩いたんですかね」
「そういう歩き方は大体鳥竜種ね」
「はい。それと、棚の脇の草がそこだけ枯れてました。紫っぽく焦げたみたいに。番太が鼻を近付けて、すぐに顔を背けたんです。くしゃみもしてました」
咲夜は番太を見た。番太は、湖の方を見たまま鼻の頭に皺を寄せている。
「毒、ね」
「多分。それから、もう一つ」
美鈴は、懐から布に包んだものを取り出した。開くと、白っぽい破片が一枚、陽の光を鈍く返した。
咲夜は指で摘まんでみた。柔らかい。爪で押すと、ぐにゃりと凹んで、すぐに戻る。鱗でも甲殻でもない。厚い革のような、それでいて水を弾く、奇妙な皮の切れ端だった。
「棚の釘に引っかかってました。番太が見つけたんです」
「……ゴムみたいな皮。毒。光り物を持っていく、三本指の鳥竜」
咲夜は呟き、観測票の束を盆の上に戻した。
妖精メイドの補給班は、毎日夕方、館から前哨所へ荷を運ぶ。銀の食器も、ランタンも、光る物はいくらでもある。そして、日暮れの湿地は、妖精達が一番怖がる場所だ。
「――今日の夕方の補給は止めるわ。補給班には、館の中に居るように伝えて」
「はい。……お嬢様には?」
咲夜は、西の空を見上げた。日はまだ高い。紅魔館の主が目を覚ますのは、日が沈んでからだ。
「起きていらしたら、すぐに」
美鈴が頷き、番太の背をポンと叩く。番太は立ち上がり、美鈴を背に乗せて、前哨所の方へ駆けていった。補給を止める伝言と、見張りを一人増やすために。
咲夜は、拾ったナイフを指先で回した。銀の刃が、陽の光を弾く。
――光り物を盗む。『紅魔館』にとっては少々都合が悪い。館の中には、銀の物が多すぎる。
~紅魔館 猟団作戦室~
―――日が沈むと、館が目を覚ます。
大広間の隣の作戦室には、霧の湖の周りを細かく描いた大きな地図が広げられていた。燭台の灯りが、地図の上の色付きの駒を照らしている。壁には、幻想郷全体の地図と、今月の天候の記録。雨の日に付けられた青い丸が、三つ並んでいた。
咲夜は地図の脇に控え、観測票と、美鈴が持ち帰った皮の切れ端を、銀の皿に載せて並べていた。
扉が開いた。
「――おはよう、咲夜。今夜は何か面白いことがあるのかしら」
薄い青紫の髪に、赤いリボンを結んだ白い帽子。桃色がかった白いドレスの背には、黒い蝙蝠の翼。外見は咲夜より幼いのに、五百年を生きた者の気配を纏っている。紅魔館の主にして猟団の長、『レミリア・スカーレット』だ。
「おはようございます、お嬢様。面白いかどうかは分かりませんが、お耳に入れたいことが」
咲夜は観測票を差し出した。レミリアは椅子に腰掛け、紅茶を一口含んでから、票に目を落とした。赤い瞳が、欄を一つずつ辿っていく。欠勤の欄で一度、最後の欄でもう一度、止まった。
「……銀の匙が三本と、燭台が一つ」
「はい。前哨所の棚から」
「誰が?」
「足跡は三本指の鳥竜。棚の脇の草は、毒で枯れていました。そして、これが」
咲夜は銀の皿を押し出した。レミリアは皮の切れ端を指先でつまみ、燭台の灯りにかざした。押すと凹み、離すと戻る。レミリアの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「紅魔館の銀を盗んだ、愚かな鳥が居るのね」
その声には、怒りより先に、愉しげな響きがあった。
咲夜は内心で小さく溜め息をついた。――お嬢様は怒る前に面白がる。そして、面白がった後に、必ず
「補給班は今夜、館の中に留めました。妖精メイドの欠勤は七人。湖畔の見張りも、今夜は数を減らしています」
「怖がっているのね」
「はい」
レミリアは皮の切れ端を皿に戻した。指先を、ナプキンで丁寧に拭う。
「妖精が怖がって休むのは構わないわ。紅茶が余るだけだもの。でも、怖がったまま補給に出て、湿地で毒を浴びて倒れるのは、紅魔館の品位に関わる」
「――では」
「今夜、見に行くわ。どんな鳥か、この目で見てから決める」
咲夜は頷き、地図の上に駒を三つ置いた。西岸の湿地。前哨所。それから、湿地の奥の、背の高い葦原。
「月は半ば。雨はありません。湿地の手前までは、流れる水を渡らずに行けます」
吸血鬼は、流れる水を渡れない。雨の夜は外へ出られない。だから紅魔館の狩りの日取りは、いつも天候の記録と地図の水の流れから逆算して組まれる。それを組むのが、咲夜の仕事だった。
「中央会館への報告は、いかがいたしますか」
咲夜が尋ねると、レミリアは鼻で笑った。
「西岸の、ただの鳥でしょう?私の庭の話よ。中央に許しを請うほど、紅魔館の庭は狭くないわ」
「では、事後に私から」
「好きになさい。ただし、私の言葉は格好良く書いておくのよ」
「事実とお嬢様のご意見は、分けて書いておきます」
レミリアは不満げに頬を膨らませ、それから、ふふ、と笑った。
担当区域の中の、ありふれた大型なら、紅魔館は自分達で片を付けられる。古龍や、見たこともない個体なら話は別だ。その線の上に、いつも咲夜が立っている。主の誇りと、中央会館の決まりのちょうど真ん中に。
~紅魔館 正門~
―――門の前には、篝火が焚かれていた。
美鈴は、昼間とは別人のようにしゃんと立っていた。手には、緑の甲殻を幾重にも重ねた長大な槍。穂先の付け根からは赤い棘がずらりと伸び、左手には、同じ甲殻を張った大盾を構えている。よく眠る竜の甲殻と棘から打ち出した槍――棘門槍『彩華守』。
「夜は起きてますよ、私」
咲夜の視線に気付いたのか、美鈴が先回りして言った。
「昼も起きていてほしいのだけれど」
「昼は番太が起きてますから」
足元の番太がフスンと鼻を鳴らす。
――そんな時。館の扉から、レミリアが出てきた。
ドレスの肩と前腕、腰と脛には、銀白の鱗と深紅の甲殻を重ねた装甲が着けられていた。帽子のつばの内側には、薄い翼膜が張ってある。いつかの夜、館の皆で迎え撃った爵銀の龍の素材だ。
その手には、一本の棍が握られていた。銀白の柄に、深紅と金の装飾。棍の両端には、翼を畳んだような刃と、薔薇の蔓のような意匠が絡みついている。柄頭は、槍の穂先を思わせる鋭い形をしていた。爵蝙棍『紅魔ノ運命』。
レミリアの肩に、黒い影がふわりと舞い降りた。
掌ほどの大きさの、蝙蝠に似た生き物だ。黒い翼膜の縁が、篝火の灯りで細く銀に光る。小さな赤い目が二つ、闇の中できらりと瞬いた。
レミリアの猟虫、眷蝠『ノクス』。操虫棍の使い手と組む[猟虫]として届けを出してあるが、虫ではない。レミリアに言わせれば、「虫と一緒にされるのは心外」だそうだ。
レミリアは門の前で足を止め、番太の頭に手を置いた。
「留守を頼むわよ、館の番犬」
番太は目を細め、尾を一度だけ振った。
「――番太も同行しますよ、お嬢様」
「知ってるわ。言ってみたかっただけよ」
レミリアは翼を広げ、地面すれすれに浮かび上がった。高くは飛ばない。夜の空でも、高く飛べば飛竜に狙われる。
美鈴が番太の背に跨がり、咲夜がその隣に並ぶ。四つの影が、湖の西岸の闇へ向かって、門を出ていった。
~霧の湖 西岸の湿地~
―――夜の湿地は、レミリアにとって昼より明るい。
人間の目には、薄霧の中にぼんやりと葦の影が浮かぶだけだろう。だが吸血鬼の目には、泥の上の水溜まりの一つ一つが、月の光を受けて銀色に光って見える。葦の葉の先で露が膨らみ、落ちていく様まで、はっきりと分かった。
前哨所の棚は、美鈴の言ったとおり、外から押し倒されていた。
レミリアは棚の脇に降り立ち、泥に残った足跡を見下ろした。三本の指が前を向き、一本が後ろへ伸びている。指の先は深く刺さり、踵の跡はほとんど残っていない。足跡と足跡の間が、妙に広かった。
「……跳ねるように歩く、ね。美鈴の言ったとおりだわ」
レミリアは屈み込み、足跡の縁に指を触れた。泥はまだ柔らかく、縁が崩れていない。指先を鼻に近付けると、泥の匂いに混じって、舌の奥が痺れるような苦い匂いがした。
「新しいわね。今夜のうちに、ここを通ってる」
足跡は、前哨所から湿地の奥へ点々と続いていた。その脇の草が、ところどころ紫がかって萎れている。一か所だけではない。足跡の列に沿って、帯のように。
「歩きながら、毒を垂らしているのですね」
咲夜が言った。人間の咲夜は、手に提げた小さなランタンで足元を照らしている。灯りは絞りに絞ってあった。
「垂らしてるのか、わざと撒いてるのか。……どちらにしても、行儀の悪い鳥ね」
レミリアは肩の上のノクスに目をやった。
「――ノクス。先に行って」
黒い翼が、音もなく夜気を打った。
ノクスは足跡の続く方へ、湿地の上を低く滑っていく。人間の耳には何も聞こえない。だがレミリアの耳には、ノクスが鋭く短く鳴くたびに、葦や水面や泥から跳ね返ってくる、細かな音の粒が聞こえていた。見えない網を投げて、手繰り寄せるように。
ノクスは百歩ほど先の葦の上で、くるりと一度輪を描いた。それから、こちらへ戻ってくる。
――何か、ある。
四人は、ノクスの輪の下へ進んだ。番太が先頭に立ち、鼻を泥に近付けて歩く。美鈴はその背から下り、槍を低く構えて、番太の半歩後ろに付いていた。
先に気付いたのは、番太だった。
番太が足を止め、低く唸った。鼻の頭に、深い皺が寄っている。
レミリアにも分かった。夜風に乗って、鉄の匂いが流れてくる。
――血だ。
葦の根元に、何かが横たわっていた。
小さな鹿のような草食獣――『ケルビ』の死骸だった。首から肩にかけて、嘴で突いたような丸い穴がいくつも空いている。穴のまわりの毛は、紫がかった黒に変色していた。肉はところどころ啄まれていたが、ほとんど残っている。
咲夜がランタンを近付け、膝をついた。白い手袋の指で、傷口の脇をそっと押す。
「血がまだ固まりきっていません。半刻も経っていないでしょう。……傷は浅いのに、変色が広い。毒で弱らせてから、突いたのでしょうか」
「食べかけのまま、置いていったのね」
レミリアは死骸を見下ろした。
「お腹が空いていたのなら、全部食べるはずよ。食べるより先に、何か気になることがあった。……いえ、何か、もっと欲しいものがあったのね」
美鈴が、ケルビの死骸の脇の泥を指差した。
「お嬢様。これを」
泥の中で、何かがきらりと光っていた。
レミリアが拾い上げると、それは銀の匙だった。柄に、紅魔館の紋が刻まれている。前哨所の棚から消えた三本のうちの一本だ。
「落としていったのね。獲物より、匙の方が大事だったみたいじゃない」
レミリアは匙を指先でくるりと回し、咲夜に放った。咲夜は片手で受け止め、エプロンのポケットにしまった。
その時、湿地の奥で、重い羽音がした。
バサッ、と一度。間を置いて、もう一度。鳥の羽ばたきにしては鈍い。濡れた革の帆を、無理やり振り回したような音だ。羽音は二度だけで止み、それきり、湿地は静かになった。
静かすぎた。
さっきまで葦の間で鳴いていた蛙が、一匹も鳴いていない。夜の湿地を飛び交っていた羽虫の羽音も消えている。
「……飛んだのは、ほんの少しだけですね」
美鈴が囁いた。
「遠くへ行くなら、羽音は続きます。短く飛んで、すぐ降りた。この先に、降りる場所があるんです」
「巣、かしら」
「恐らくは」
四人は、風下へ回った。レミリアが先に立ち、葦の陰から陰へ、音を立てずに進む。番太は腹を泥に擦るほど身を低くし、美鈴はその隣で盾を構えていた。咲夜はランタンの覆いを完全に下ろし、闇の中に溶けた。
葦原が、ぽっかりと開けた。
湿地の中に盛り上がった、小さな島のような土の高まりだった。そこだけ葦が踏み倒され、円く平らになっている。その真ん中に――
――居た。
月の光の中に、大きな鳥のようなものが立っていた。
体の大きさは、館の馬車ほどもある。青灰色の体は、鱗でも羽毛でもない、ぬめりのある厚い皮に覆われていた。月の光を吸い込んで、鈍く濡れたように光っている。太い二本の脚で立ち、背には皮を張ったような翼を畳んでいた。太い嘴の上、頭のてっぺんには、白く丸い瘤のような鶏冠が載っている。尾は長く、だらりと泥の上に垂れていた。
ゲリョスは、レミリア達には気付いていない。己の足元に、何かを積み上げていた。
レミリアは目を凝らした。銀の匙が二本。燭台が一つ。人里の漁師が落としたらしい釣り針の束。誰かのガラス玉。それに、小さな鈴の付いたリボン。妖精の髪飾りだろう。月の光を受けて、それらがチカチカと光っていた。
ゲリョスは、銀の燭台を嘴でつまみ上げた。首を傾げ、月にかざすようにして眺める。それから、山の一番上に、そっと置き直した。少し離れて、また首を傾げる。気に入らなかったらしい。燭台をもう一度つまみ、山の反対側に置き直した。
頭の鶏冠が、ぼう、と淡く光った。
ほんの一瞬だ。満足したのか、それとも、何かを確かめたのか。光はすぐに消え、ゲリョスは片脚で立ったまま、宝の山を見下ろしていた。
レミリアは、喉の奥で笑いを噛み殺した。
「……あの鳥、私と趣味が合いそうね」
「お嬢様」
咲夜が、闇の中から小声で窘めた。
「分かってるわ。……見て、咲夜。巣は前哨所から二百歩もない。補給の道は、あの葦原のすぐ脇を通る。ケルビを毒で倒して、食べもせずに置いていく鳥よ。光る物を見つけるたびに、あの道へ出てくるわ」
レミリアの声から、笑いが消えていた。
「妖精メイドの手提げランタンも、銀の食器も、あの鳥には全部、光る物よ。……ここに巣を作られた以上、追い払っても戻ってくる。戻ってくるたびに、誰かが毒を浴びる」
咲夜は黙っていた。黙って、主の言葉の続きを待っていた。
――本当に狩る必要があるか。
中央会館のギルドマスターがいつも口にするというその問いを、レミリアは嫌いではなかった。答えを出すのが、主の仕事だからだ。
「――狩るわ」
レミリアは言った。
「美鈴と番太は、巣と道の間。あの鳥を、前哨所の方へは一歩も行かせないで。咲夜は横から。私は上から行く」
「鶏冠は、いかがいたしますか」
咲夜が尋ねた。
「さっき、光ったでしょう。あれを真正面から浴びれば、夜目の利く者ほど目が眩みます」
「――つまり、私が一番危ないということね」
レミリアは、楽しそうに口の端を上げた。
「だからこそ、真っ先に壊すわ」
美鈴と番太が、葦の陰を回り込んでいく。巣と前哨所の道を結ぶ線の上、少し湿地が固くなった所で、美鈴は盾を立てて腰を落とした。番太はその右に陣取り、背の番傘の留め具を口で外す。
咲夜の気配は、もう分からなくなっていた。
レミリアは翼を広げ、葦の上へ、ふわりと浮かんだ。
高くは上がらない。巣の真上、ゲリョスの頭より少し高いところで、月を背にして止まる。宝の山を眺めていたゲリョスが、ふと首を傾げた。月の光を遮った小さな影に、気付いたのだ。
太い首が、ゆっくりと上を向いた。
目が合った。
甲高く、耳障りな叫びが、湿地の夜を引き裂いた。ゲリョスは翼を半ば広げ、太い嘴を大きく開けて、威嚇するように首を振る。
レミリアは降下した。
翼を畳み、まっすぐに落ちる。巣の手前の泥に片足を突き、その反力で斜めに跳ぶ。棍の穂先が、ゲリョスの白い鶏冠めがけて走った。
その瞬間、ゲリョスの頭が、ぐっと仰け反った。
嘴が、鶏冠に向かって打ち鳴らされる。カチッ、と乾いた音。鶏冠の奥で、白い光が膨れ上がった。
――光る。
分かった時には、遅かった。レミリアの目は、もう鶏冠を真っ直ぐに見ていた。
世界が、止まった。
膨れ上がった光も、跳んだままのレミリアの体も、風に揺れる葦も、すべてが灰色に凍りついていた。その凍った世界の中を、咲夜だけが歩いていた。
咲夜は葦の陰から出て、宙に浮いたままの主の前に回り込んだ。白い手袋の手を、主の目の上にそっと重ねる。自分は鶏冠に背を向け、固く目を閉じた。
息を一つ吐き――時が動き出した。
光が弾ける。
湿地中が、真昼よりも白くなった。葦の一本一本の影が、泥の上に焼き付いたように黒く伸びる。閉じた瞼の裏まで、白い光が透けて見えた。
それでも、レミリアの目は無事だった。目の上に、ひんやりとした手の感触がある。
「――お嬢様。目を閉じていらしてください」
すぐ耳元で、咲夜の声がした。
「……あなた、いつの間に」
「いつの間にか、です」
光が消えると同時に手が離れた。目を開けると、咲夜はもうレミリアの隣には居なかった。ゲリョスの脇腹へ、低く滑り込んでいる。
両手には、いつの間にか二振りの短い刃が握られていた。
瑠璃色の甲殻を研ぎ出した刀身に、氷の結晶のような筋が浮かんでいる。柄頭には、懐中時計の文字盤を思わせる銀の飾り。氷狼竜の素材から打ち出した双剣――月凍双刃『銀時計』。
双刃が、ゲリョスの脚の付け根を立て続けに斬りつけた。一、二、三、四。刃が触れるたびに、白い霜が散る。だが、ぬめりのある厚い皮は、刃をぐにゃりと受け止め、深くは通さなかった。
「……斬りにくいわね、この皮」
咲夜が呟いて跳び退く。
ゲリョスが、首をぐるりと巡らせた。嘴を大きく開け、喉を膨らませ――吐き出した。
紫色の液が、扇のように三方向へ飛び散った。泥に落ちた所から、ジュウッと白い煙が上がる。草が見る間に萎れ、液はそのまま泥の上に紫の水溜まりになって残った。
咲夜は左へ、レミリアは上へ躱した。三つ目の毒液が、美鈴の盾の縁を叩いた。
「――っと!」
美鈴は盾を傾け、毒を泥へ流した。足元に広がる紫の水溜まりを、一歩横へ踏んで避ける。その足の運びに迷いはない。昼の居眠りが嘘のようだ。
ゲリョスが、体を大きくひねった。
泥の上に垂れていた長い尾が、持ち上がる。いや、伸びた。だらりと垂れていたはずの尾が、ゴムの紐を引き絞ったように細く長く伸び、鞭のようにしなって、横薙ぎに振り抜かれた。
バサッ、と傘の開く音。
番太が、美鈴の前に飛び出していた。口に咥えた番傘を大きく広げ、伸びてきた尾を正面から受け止める。鉄の骨が軋み、番太の四つ足が泥に深く沈んだ。それでも、番太は一歩も下がらなかった。
〈ワウッ!〉
番太が、太く短く吠えた。
レミリアは肩の上のノクスに囁いた。
「頭よ」
ノクスが飛んだ。黒い影が、毒液を吐き終えたゲリョスの頭へ取り付き、鶏冠の付け根を鋭い牙で一噛みして、すぐに離れる。戻ってきたノクスの口元に、赤い滴が光っていた。
ノクスがレミリアの手の甲に止まる。赤い滴が、レミリアの肌に吸い込まれていく。棍を握る腕に、熱いものがこもった。
「次、脚」
二度目。ノクスがゲリョスの太い脚の間をすり抜け、戻ってくる。今度の滴は、白かった。体が、羽のように軽くなる。
レミリアは棍を泥に突き立て、跳んだ。
飛ぶのではない。跳ぶ。ゲリョスの背中を足場に蹴り、さらに高く。宙で身を翻し、落ちる勢いのまま、棍を鶏冠へ叩き付ける。手応えは、ぐにゃりと鈍い。それでも、白い鶏冠に、細いひびが一本走った。
ゲリョスが首を振り回し、レミリアを振り落とそうとする。レミリアは泥に降り立ち、すぐにまた跳ぶ。降りて、踏み込んで、跳んで、打つ。飛ぶ。降りる。打つ。
その時、ゲリョスが、ふっと低く身を沈めた。
太い脚が、地を蹴った。
ゲリョスの巨体が、咲夜に向かって飛びかかった。嘴が斜め上から突き下ろされる。咲夜は半身になって躱した。嘴は咲夜の腰の脇を掠め、泥に突き刺さる。
――掠めた、だけのはずだった。
ゲリョスが首を引き抜いた時、その嘴の先に――何かが銀色に光っていた。
――咲夜の腰に提げてあった、銀のナイフだ。
ゲリョスは嘴にナイフを咥えたまま、得意げに首を振った。それから、宝の山の方へ、跳ねるように駆け戻ろうとする。
レミリアの中で、何かがプツリと切れた。
「――私のメイドの銀にまで、手を出すのね」
低い声だった。
ゲリョスが、宝の山の手前で振り返った。盗った物を守るように、山の前に立ち塞がる。嘴からナイフをぽとりと落とし、翼を大きく広げた。顔の皮が赤黒く充血し、口の端から、紫の泡がブクブクと溢れ出す。――怒り状態。
ゲリョスが、また嘴を鶏冠へ打ち鳴らそうとした。
レミリアは、既に跳んでいた。
白いエキスの軽さに乗って、真っ直ぐに。嘴が鶏冠に届くより先に、棍の穂先が、ひびの入った鶏冠のど真ん中を捉えた。
――パキン、と乾いた音がした。
白い鶏冠が、真っ二つに割れて弾け飛んだ。
ゲリョスが嘴を打ち鳴らす。カチッ。カチッ。だが、何も光らない。割れた鶏冠の残りから、白い汁がだらだらと垂れるだけだった。
〈クェッ……!?〉
ゲリョスは、戸惑ったように首を振った。それから、グルリと向きを変えた。
その目が、湿地の向こうの、ぼんやりとした小さな灯りを捉えていた。
前哨所の見張り台の、ランタンだ。
「美鈴!」
レミリアが叫ぶより早く、美鈴は動いていた。
「――番太、巻物!」
番太が、首に結わえた巻物を咥えて引き抜き、泥に叩きつけた。ツンと鼻を刺す、甘く濃い匂いが、ぶわりと広がる。[陽動の巻物*2]だ。
ゲリョスの鼻先が、ランタンから逸れた。匂いの元――番太と美鈴の方へ、太い首が引き寄せられる。ゲリョスは低く身を沈め、真っ直ぐに美鈴へ突っ込んだ。
美鈴は盾を構えて待ち受け、受け止める。ゲリョスの嘴が盾を叩き、重い衝撃が美鈴の腕を突き抜ける。美鈴の踵が泥を削って半歩下がる。
そのまま、ゲリョスを流す。盾を斜めに傾け、突っ込んでくる巨体の勢いを、横へ逃がす。止めようとはしない。行きたい方へ、少しだけ押してやる。
崩され、勢いを逸らされたゲリョスの太い脚が、泥の中の自分の毒の水溜まりを踏んでズルリと滑る。巨体が大きく傾いた。
返す刀で美鈴の槍が、傾いたゲリョスの脇腹を突いた。赤い棘の並んだ穂先が、ぬめる皮を押し割って、深く沈む。
〈クェエエエッ……!〉
ゲリョスが、よろめいた。
二歩、三歩と後ずさる。脚がもつれる。嘴の端から紫の泡を垂らしながら、宝の山の前まで戻ると――そのまま、どさりと横倒しに倒れた。
動かない。
翼がだらりと泥に落ち、長い尾も伸びきったまま。嘴の間から、紫がかった舌がべろりと垂れ下がっていた。目も、閉じている。
湿地が、しんと静まり返った。
レミリアは、ゆっくりと泥の上に降り立った。倒れたゲリョスへ、一歩、また一歩と近付いていく。
「あら。もうおしまい?」
「――お嬢様」
背後で、美鈴が低く言った。槍を構えたまま、目を細めている。
「まだ、息が通ってます。気が、未だに弱っていません」
「知ってるわ」
レミリアは振り返らずに答えた。肩の上で、ノクスが小さく細かく鳴いている。人間の耳には聞こえない音で、倒れた巨体の中の音を拾っているのだ。ドクン、ドクン、と。弱るどころか、さっきより速くなっている心臓の音を。
レミリアは、あと三歩の所で足を止めた。
棍を肩に担ぎ、倒れたゲリョスを、じっと見下ろす。
「芝居が上手だこと。でも――私は五百年も生きているのよ。死んだフリなら、館の妖精メイドの方がよほど上手だわ」
倒れていたゲリョスの目が、カッと開いた。
跳ね起きる。嘴が、真下からレミリアの喉元へ突き上げられる――。
その時、ゲリョスの太い脚が、宝の山の一番上に乗っていた何かを踏んだ。
銀の燭台だった。ついさっき、ゲリョス自身が何度も置き直していた燭台。それが、跳ね起きた脚の下でツルリと転がり、巨体の踏ん張りを奪った。
嘴は、レミリアの喉の、ほんの手前で空を切った。
偶然だったのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。運命の転がり方を、レミリア自身も全部は知らない。
レミリアは、もう跳んでいた。
宙で翼を一度だけ打ち、真上から。銀白の棍に、深紅の光が纏わりつく。とある異変で相対した、爵銀の龍から受け継いだ名前の付けようのない力が、穂先に集まっていく。
「――終わりよ」
棍の穂先が、割れた鶏冠のすぐ後ろ、ゲリョスの頭の付け根を、真上から貫いた。
ゲリョスの体が、一度だけ大きく震えた。
それから、ゆっくりと、今度は本当に動かなくなった。
レミリアは、棍を引き抜いた。
しばらくの間、誰も口をきかなかった。湿地の夜風が、葦をさわさわと鳴らす。どこか遠くで、一匹の蛙が、恐る恐る鳴き始めた。それにつられたように、もう一匹。また一匹。
レミリアは、倒れたゲリョスを見下ろしていた。手は合わせない。祈りの言葉も口にしない。ただ、宝の山と、その前で動かなくなった青灰色の体を、しばらくの間、黙って眺めていた。
「……いい趣味だったわ。燭台の置き方以外はね」
それだけ言うと、レミリアは背を向けた。
咲夜が膝をつき、腰の剥ぎ取り用の小刀を抜いた。ゴムのような皮に刃を入れ、喉の奥の、毒を溜める袋を慎重に切り出す。袋は布で三重に包み、蝋で口を封じた。図書館の魔女への土産だ。厚い皮は何枚かに分けて剥がしていく。雷を通さないこの皮は、狩具庫で防具の裏地に使える。
美鈴は、盾を握っていた左腕をさすっていた。籠手の隙間から、毒の飛沫が一滴だけ入ったらしい。肌が赤く腫れている。咲夜が無言で解毒薬の瓶を差し出すと、美鈴は「えへへ」と笑ってそれを一息に飲み干した。
番太は、宝の山の前に座っていた。
鼻先で、山の中から何かを一つ咥え上げる。小さな鈴の付いたリボンだった。番太はそれを、咲夜の膝の上に、ぽとりと落とした。
「……妖精メイドの誰かのね」
咲夜はリボンの泥を払い、エプロンのポケットにしまった。それから、山を一つずつ検めていく。銀の匙が二本。燭台が一つ。漁師の釣り針の束。ガラス玉。そして、泥にまみれた、咲夜の銀のナイフ。
咲夜はナイフを拾い上げ、泥を拭った。月の光の下で、刃がまた白く光る。
「釣り針は、人里の漁師組合へ。ガラス玉は……持ち主が分かりませんね」
「館に置いておきなさい。大事なものなら、いつか取りに来るでしょう」
レミリアが、振り返らずに言った。
泥の上には、ケルビの死骸がまだ横たわっていた。美鈴と番太が、死骸を葦原の奥へ引いていく。毒の染みた肉を、他の獣が食べないように。前哨所の補給の道には、紫に萎れた草の帯が残っていた。明日の朝、妖精メイドの整備班が土を入れ替えに来るだろう。
~紅魔館 正門~
―――東の空が、うっすらと白み始めていた。
咲夜は門の内側の小部屋で、ランタンの灯りを頼りに、報告書の筆を走らせていた。中央会館の窓口への、事後の届けだ。
レミリアは、もう館の奥へ引き上げていた。夜明けまでに戻らなければ、帽子の翼膜の陰だけでは足りない。出掛けに『格好良く書くのよ』と念を押していったが、咲夜は、いつもどおりに書いた。
霧の湖西岸の湿地にて、ゲリョス一頭を討伐。前哨所付近に巣を作り、補給路を荒らしていたため
出動 レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、紅美鈴(オトモ一)
負傷 紅美鈴、左腕に軽い毒。手当て済み
回収品 銀の匙三、燭台一、漁師の釣り針一束、ガラス玉一、妖精の髪飾り一
お嬢様のご意見 「なかなか良い趣味の鳥だった」
最後の一行を書き終えて、咲夜は筆を置いた。ギルドマスターは、きっと最後の一行を読んで眉をひそめるだろう。それでも、お嬢様のご意見を削ったことは、一度もない。
報告書を封筒に収め、咲夜は門の外へ出た。
門の前に、門番が立っていた。
正確には――立ったまま眠っていた。腕を組み、背筋をぴんと伸ばし、首だけがコクリ、コックリと揺れている。左腕には、咲夜が巻いてやった白い包帯。
その足元に、番太が座っていた。
黒い目で、白み始めた湖の方をじっと見ている。夜通し走り回ったはずなのに、少しも眠そうではなかった。
咲夜は、エプロンのポケットに手を入れた。銀のナイフに指が触れる。しばらくそのまま考えて、それから、手を出した。
ナイフではなく、鈴の付いたリボンを。
咲夜はリボンを番太の首輪に結び付けた。チリン、と小さな音が鳴る。
「持ち主が見つかるまで、預かっておいて。……門番さんが起きたら、館の中で寝るように伝えてちょうだい」
番太は、尾を一度だけ振った。
咲夜は門をくぐり、霧の湖の岸へ続く道を歩き出した。夜が明ければ、中央会館の受付に灯りが入る。報告書を一番に届けるのが、窓口の仕事だ。
背中の方で、湖の風が鳴った。妖精メイド達の笑い声が、館の窓から漏れてくる。もう誰かが起きて、紅茶を淹れているのだろう。今朝の観測票の、欠勤の欄は、きっと少しだけ数が減る。
――門の前には、寝息が一つと、鼻息が一つ。
それが、紅魔館のいつもの朝だった。
『紅美鈴』
所属:特別独立猟団『紅魔館』
役職:紅魔館の門番、外周防衛の責任者
武器:棘門槍『彩華守』(ランス)
防具:棘守装【彩華】
オトモ:『番太』(ガルク)
『レミリア・スカーレット』
所属:特別独立猟団『紅魔館』
役職:紅魔館の主、猟団長
武器:爵蝙棍『紅魔ノ運命』(操虫棍)
防具:爵銀装【紅月】
猟虫:眷蝠『ノクス』