東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~幻想郷中央狩猟会館 受付~
――その荷車は、凍ったまま会館の前に着いた。
朝の受付が開いて、まだ半刻も経っていない頃である。表通りの方から、ざわめきが近付いてくる。帳場の小鈴が顔を上げると、会館の前の石畳に一台の荷車が止まるところだった。
引いていたのは、牛ではなかった。男が四人、汗と霜にまみれて、荷車の轅にしがみついている。荷台の上には、戸板に寝かされた男が一人。その周りに積まれた米俵が、一つ残らず白く凍り付いていた。
――秋の終わりの朝だ。人里の屋根には、まだ霜も降りていない。それなのに、荷車の車輪にも、轅にも、荷台の縁にも、分厚い氷がこびり付いて、朝日の中でキラキラと光っていた。それも、荷台の片側だけだ。まるで大きな筆で一息に塗ったように、左の半分だけが真っ白だった。
「――怪我をされた方は、奥の救護室へ!お話を伺える方は、どなたですか?」
小鈴は帳場を飛び出しながら、奥の救護番を手招きした。戸板の男が運び込まれていく。その足は、草鞋の上から布でぐるぐる巻かれていた。布の端から覗く指先が、紫色に変わっている。救護番が布を解こうとすると、布は肌に張り付いたまま、パリパリと音を立てた。
荷車を引いてきた男の一人が、帳場の前の床に、へたり込むように腰を下ろした。歳は四十ほど。人里の北の木戸から、妖怪の山の麓の集落までを行き来する、荷運びの組の頭だという。
「……北の街道だ。昨日の日暮れ、麓の集落まであと一里って所で――空から、白いのが降ってきやがった」
男の話は、何度も前後した。牛のことを話していたかと思えば、急に凍った仲間の足の話になり、また牛の話に戻る。小鈴はそれを一つずつ聞き取り、受付の用紙の欄に置き直していった。
場所:北の街道。麓の集落の手前、一里ほど
刻限:昨日、日の入りの少し後
荷:秋の年貢の米、麓の集落へ届ける塩
相手:白い竜、一頭。街道脇の林の上から、翼を広げたまま、羽ばたかずに滑り降りてきた
被害:牛二頭。一頭は前脚で押さえ付けられ、その場で腹を裂かれた。もう一頭は轅ごと荷車を引いて逃げようとして、竜の尾に打たれて倒れた
竜が吐いた白い息が、荷車の手前の地面に当たって渦を巻き、小さな竜巻になった。竜巻は荷車の左側をかすめて消えた
人足一名、竜巻の縁に巻き込まれ、両足に凍傷。他の者は荷を捨てて林へ逃げ、竜が去ってから戻った
竜は、牛の腹の中身だけを食べ、肉の大半を残して北へ飛び去った
「……牛のお腹の中だけ、ですか」
「あぁ。肉には、ろくに口も付けてねぇ。腹を裂いて、腸とか肝とか、柔らかい所だけ食って、それで飛んで行っちまった。――あんなに勿体ねぇ食い方をする獣は、初めて見たよ」
小鈴は筆を止めた。
――肉を残して、臓物だけを食べる。それは、腹を満たすための食べ方ではない。まず一番に力の付く所だけを、急いで取りに行く食べ方だ。会館の受付に座って何年にもなる小鈴は、そういう食べ方をする大型が、どういう時にそうするのかを、聞いたことがあった。
――腹を急いで満たしたい時だ。長く何も食べられずにいた時か、これから長く飛ぶ前か。
「承ります。――念のため、記録室にも共有しておきますね」
小鈴が写しを持って記録室へ向かおうとするが、その必要は無かった。
廊下の奥から阿求が分厚い綴りを一冊胸に抱えて、もう歩いてきていたのだ。表の騒ぎは、記録室の窓まで届いていたらしい。
阿求は小鈴の手から写しを受け取り、黙って目を通した。それから、自分の綴りを帳場の上に開く。
「この十日の間に、『白い竜』の届けは、これが二件目です。――一件目は八日前。霧の湖のわかさぎ姫さんからです」
阿求が指で示した頁には、草の根の妖怪達の届けを取り次いでいる、今泉影狼の角張った字が並んでいた。
――『霧の湖の西の岸、夜更け。白い大きな竜が葦原に降りて、水を飲んでいた。翼の棘が欠けていて、ひどく痩せていた。紅魔館の吸血鬼が、館の岸の上からそれを見ていた。吸血鬼は何もせずに、館へ戻った。姫は怖くて、岩場の陰から出られなかった』
「霧の湖の西の岸は、紅魔館の縄張りです。あちらで見付けた大型は、あちらが自分で対応して、必要なら報告を上げる決まりになっています。――ですから、この届けは、紅魔館からの報告を待つという印を付けて、綴りに挟んでおきました」
阿求は、綴りの別の頁を繰った。紅魔館の報告書の綴りだ。整った筆跡の書類が何枚も重なっている。その一番上の一枚の日付は、十日前だった。『霧の湖の水位、定時報告』。
「……それからの八日、紅魔館からの報告は
阿求の声は、いつも通りだった。ただ、その綴りの、一番上の書類の角を押さえる指に、少しだけ力が入っていた。
――廊下の奥で、床板が鳴った。
上白沢慧音が、受付の騒ぎを聞き付けて、ギルドマスター室から下りてきたところだった。慧音は小鈴の写しと阿求の綴りを、交互に二度ずつ読む。それから、表の石畳に止められたままの、凍った荷車に目をやった。荷台の左半分の氷は、朝日を浴びても、まだ少しも溶けていなかった。
「……湖の西の岸で、痩せて、水を飲んでいた竜が、八日経って、北の街道で牛の腹を食い破っている。――湖から、山へ。北へ向かって動いているな」
「はい。複数の地域をまたいで動く大型は、紅魔館の縄張りの中の話であっても、報告の義務があるはずです」
「あぁ。――小鈴、区分はまだ定めない。その前に、聞かねばならんことがある。――紅魔館へ使いを出してくれ。『十六夜咲夜』を、今日中にギルドマスター室へ」
「……レミリアさんではなく咲夜さんを、ですか?」
「昼の日中に、吸血鬼を呼び付けるわけにもいくまい。――それに、紅魔館の報告の窓口は、咲夜だ」
慧音はそれだけ言うと、凍った荷車の方へ歩いていった。荷台の縁の氷にそっと手を当てる。その指先に、氷の冷たさとは別の、何か鋭いものが触れたらしい。慧音は氷の中から、小指ほどの長さの、白く透き通った欠片を一つ、慎重に摘まみ出した。
氷柱ではない。片方の端が、獣の牙のように尖っている。翼の棘の、折れた先だった。
~紅魔館 当主執務室~
――昼の紅魔館は、夜よりも暗い。
窓という窓に、厚い緋色の帳が二重に下ろされている。廊下を照らすのは、壁の燭台の小さな火だけだ。その火の明かりの中を、十六夜咲夜は足音を立てずに歩いていた。手には、封の切られた手紙が一通。表に、人里ギルドの朱の判が押されている。
――ほんの四半刻前、門の前に人里の使い走りの少年が立った。門番の紅美鈴は、居眠りから目を覚まして手紙を受け取り、その表の判を見て、珍しく真顔で館の中まで走ってきた。
手紙の内容は、短かった。
――『宛 十六夜咲夜殿。
北の街道にて、白い竜による荷運びの被害あり。本日中に、ギルドマスター室まで来られたし。
《 right》上白沢慧音』《/right》
咲夜は、当主の間の扉の前で一度だけ足を止めた。懐中時計の蓋を開ける。昼を少し回ったところだ。日が沈むまでには、まだ四刻近くある。
――扉を二度叩く。
「――お休みのところ失礼いたします、お嬢様。人里ギルドよりお手紙が届きました」
『起きてるわ。入りなさい』
「――失礼いたします」
――部屋の中も、燭台の火だけだった。窓辺に据えた椅子に、レミリアが座っている。膝の上に開いた本は、もう長い間、同じ頁のままのようだった。背の蝙蝠の翼が、椅子の背もたれの向こうで、ゆっくりと畳まれたり開かれたりしている。
――眠れない日の、彼女の癖だ。
咲夜は黙って手紙を差し出した。レミリアはそれを受け取り、一度だけ目を走らせた。そして、本の頁の上に、パサリと伏せた。
「……そう。あの痩せた竜が、ね」
その一言で、咲夜の中で八日前の夜が、ありありと戻ってきた。
――あの夜は、月が明るかった。
霧の湖の西の岸、館の裏手の、湖を見下ろす露台。夜の散歩から戻ったレミリアが、露台の手摺りに腰掛けて湖面を眺めていた。咲夜はその少し後ろに、日傘を畳んで控えていた。
風の無い夜で、湖面には霧が薄く這っていた。
――その霧の上を白い影が一つ、滑るように渡ってきたのだ。
翼を大きく広げたまま、羽ばたかない。湖面スレスレを滑って、館から少し離れた葦原の端へ、音もなく降りる。月明かりの下で見ると、その体は、雪の白とも銀ともつかない色をしていた。前脚と一体になった翼の、ちょうど肘の辺りから、太い棘が幾本も突き出していた。上顎から、琥珀色の大きな牙が二本、下へ向かって反り返っていた。その縁は、鋸のようにギザギザだった。
竜は、湖の水を飲んだ。長い間、首を下げたまま、飲み続けていた。
「……痩せていますね」
「えぇ。肋が浮いてるわ。――それに、見なさい、咲夜。右の翼の棘、半分くらい欠けてるでしょう。どこかで、よほど硬いものと擦れ合ったのね」
咲夜は目を凝らした。確かに、右の翼の棘は、根元近くから折れたものが幾本もあった。折れ口が、月明かりにギザギザと光っている。左の翼の棘も、先が丸く削れていた。
水を飲み終えると、竜は首を上げた。そして、湖の方ではなく、北を見た。霧の湖の向こう、妖怪の山の、さらに北。夜目にも白い峰々の連なる方角だ。竜は、その方角を、じっと見つめたまま動かなかった。
「……『氷霧連峰』の竜ですね。こんな所まで下りてくるのは、珍しいかと。――お嬢様。中央会館への報告は、いかが致しましょう。北方の竜が湖まで来たとなれば、複数の地域を跨いで動く大型として――」
「――
レミリアは、湖面から目を離さないまま言った。
「大したことないわよ、あんなの。迷子の竜一頭のことで、いちいち人里に頭を下げに行く必要は無いでしょう。――あれは、帰りたがっているだけよ。北に、自分の寝床があるの。放っておけば、勝手に帰るわ」
「……かしこまりました」
やがて、竜は葦原から飛び立った。来た時と同じように、羽ばたかずに、湖面を滑って、北の霧の中へ消えていった。
――その夜、咲夜は自分の部屋で、報告書を一枚だけ書いた。日付、場所、竜の姿、棘の欠け、痩せ方、向いていた方角。いつもの書式の通りに、事実だけを並べた。そして、その一枚を、文机の一番上の引き出しに仕舞った。
――仕舞ったまま、八日が経った。
「――お嬢様」
咲夜の声で、レミリアは伏せた本から目を上げた。燭台の火が、紅い瞳の中で小さく揺れている。
「ギルドマスターの下へは、窓口として私が参ります。……
レミリアは、すぐには答えなかった。窓の方を見る。帳の合わせ目から、昼の光が、細い糸のように一筋だけ差し込んで、絨毯の上に白い線を引いている。その線の上に、彼女は手を伸ばしかけて、やめた。
「……好きになさい」
主の意向はそれだけだった。
咲夜は深く一礼して、執務室を出た。扉を閉める直前、振り返らずに、窓辺の主が、もう一度だけ本を手に取る気配を聞いた。だが、頁をめくる音は聞こえなかった。
自室に戻ると、咲夜は机の引き出しを開け、八日前の一枚を取り出した。それを懐の奥に収め、狩具庫から、月凍双刃『銀時計』を出させる。瑠璃色の甲殻を削り出した二振りの刃を、背の低い位置に交差させて負う。昼の会館へ行くのに、武器が要るとは限らない。だが、今日のうちに要るかもしれない――とは思った。
館を出る時、門の前で美鈴が、珍しく何も言わずに門扉を開けた。咲夜はその横を通り過ぎながら、短く告げる。
「――夜までには戻るわ。お嬢様が目を覚まされたら、お茶を。それから、日が落ちたら、狩具庫の鍵を開けておいて」
~幻想郷中央狩猟会館 ギルドマスター室~
――咲夜は部屋に入るなり、頭を下げた。
扉を閉め、三歩進んで、慧音の机の前で足を揃える。そこで、腰を深く折った。紅魔館のメイド長が、主以外の者に向けて、これほど深く頭を下げるのを、小鈴は初めて見た。茶を運んできた盆を持ったまま、扉の内側で動けなくなる。
「――申し訳ございません。報告の遅れは、窓口である私の落ち度でございます」
慧音は机の向こうで筆を置き、咲夜の下げた頭を、しばらく黙って見つめる。それから、机の端に置いた小さな紙包みを、指先で開いた。
中には、白く透き通った、小指ほどの欠片が一つ。朝、凍った荷車の氷の中から摘まみ出したものだ。昼を過ぎた今も、溶けていない。紙の上に、丸く霜の輪が広がっている。
「……顔を上げろ、咲夜。頭を下げたままの相手とは、話がしにくい」
咲夜は顔を上げた。そのまま、懐から一枚の紙を取り出して、机の上に置いた。慧音が引き寄せて目を落とす。整った字だ。いつも咲夜が届ける報告書と、書式も筆の運びも変わらない。
日時:八日前、夜半過ぎ
場所:霧の湖 西岸の葦原の端
相手:白銀の飛竜、一頭。琥珀色の牙一対。翼に棘
様子:著しく痩せる。右の翼の棘、半数ほど根元から折れる。左の翼の棘も先が磨り減る。湖の水を長く飲む
向き:飲み終えた後、北(妖怪の山の北、氷霧連峰の方角)を見て動かず
動き:羽ばたかずに滑空し、北の霧の中へ去る
所見:本来の縄張りを追われ、下ってきたものと見られる。北へ帰る道筋には、人里の北の街道が含まれる
慧音の指が、一番上の日付の欄で止まった。それから、一番下の『所見』の欄へ移る。慧音は報告書をゆっくりと、二度読んだ。
「……八日前に、もう書いてあったのか」
「はい」
「北へ帰る道筋に、北の街道が含まれる、とまで。――書いていて、何故届けなかった」
咲夜は、一拍だけ置いた。
「……お嬢様が、不要だとと仰いました。――決めたのはお嬢様ですが、届けなかったのは私です」
慧音はその答えを聞いても、顔色を変えなかった。ただ、報告書を机の上に置き指を組む。
扉の内側で、小鈴は息を詰めていた。この部屋で、慧音が声を荒らげるのを、小鈴は何度か聞いたことがある。報告を遅らせた狩人にも、記録をごまかした猟団にも。
――だが今日の慧音の声は、いつもの寺子屋の座学と同じように、低く、落ち着いていた。
「咲夜。お前が頭を下げて済む話なら、私は楽なんだ。――だが。昨日の日暮れ、北の街道で一人の人足が両足を凍らせた。救護班の見立てでは、足の指を二本、失う。この報告書が八日前にこの机にあれば、街道には今日まで、日暮れ以降の通行を止める札が立っていただろう」
咲夜は何も言わなかった。言い訳をしない代わりに、目も逸らさなかった。
「紅魔館には、自分の縄張りの中のことを自分で片付ける特権がある。それは人里ギルドとして認めている。
――だが、特権がお前達に与えているのは、『報告しなくていいこと』ではない。『報告した上で、自分でやっていいこと』だ。――その差は、紙一枚分しか無い。だが、その紙一枚が無ければ、私は、紅魔館をその辺の猟団と同じようには見做さんぞ」
「……肝に銘じます」
慧音は小さく息を吐いた。それでこの話は終わりだというように。
それから、机の引き出しから幻想郷の地図を広げた。
地図の上には、もう阿求の字で、小さな印が二つ付いていた。『霧の湖』の西の岸に一つ。北の街道の、山の麓の手前に一つ。その二つを結ぶと、線は北北東へ、真っ直ぐに伸びていく。その先には、『妖怪の山』の西の裾野。さらに先に――『氷霧連峰』がある。
「――区分を定める。北の街道の白い竜は、『撃退』。狩らなくていい。ただし、街道から引き剥がして、北へ追い返すこと。行き先は『氷霧連峰』だ」
「……狩らないのですか」
「痩せた竜が、人里の米を狙って街道に居着いたわけではない。家へ帰る道の途中で腹が減って、ちょうどそこに牛がいただけだろう。――それに、あの竜を連峰から追い出したものが、まだ北に居る。家主が一人減れば、その分だけ、北の奥のものの寝床が広がる。それは、人里のためにはならん」
慧音は地図の山の北の端を、指で軽く叩いた。そこは、守矢ギルドが管轄下に置く山だ。
「守矢には、私から一筆入れておく。人里側に降りた竜を山へ押し付けるのだからな。――それで、誰が行く」
慧音はそう尋ねながら、咲夜の顔を見ていなかった。答えが分かっている問いを、寺子屋の先生は、生徒の顔を見ずに尋ねる。
「――紅魔館で、お受けします。今夜、私が参ります」
「紅魔館の不始末を、紅魔館が片付ける、か。――先に言っておくが、それと報告の話は別だぞ」
「承知しております」
「ならばいい。街道には、今日の日暮れから通行止めの札を立てる。人足も荷運びも、北の木戸から先へは出さん。――それと、咲夜」
慧音は八日前の報告書を、咲夜の方へ押し戻した。
「――これは、受け取らない。八日前の日付の報告を今日綴じれば、記録が嘘を吐く。――撃退が済んだら、新しい報告書を出せ。八日前のことも、昨日のことも、今夜のことも、全部そこに書け。――誰の名で出すかは、そちらで決めろ」
咲夜の指が、押し戻された紙の端に触れて、一瞬だけ止まった。それから、その紙を丁寧に畳んで、もう一度懐に収めた。
「――かしこまりました。では、失礼いたします」
咲夜はもう一度だけ頭を下げて、部屋を出ていった。扉の所ですれ違う時、小鈴の持った盆の上の茶を、一瞬だけ見た。
「……せっかく淹れてもらったのに、ごめんなさいね。この次は、いただくわ」
小鈴が何か言う前に、咲夜の姿は廊下の先に消えていた。歩いていったのか、時を止めたのか、小鈴には分からなかった。
部屋の奥で慧音が、冷めかけた自分の茶を一口だけ飲んだ。それから、机の上の翼の棘の欠片を、もう一度紙で包んだ。
「……小鈴。日が落ちたら、紅魔館の当主も動くだろう。今夜は、受付の灯を消すな」
~北の街道 麓の集落の手前~
――日が沈む前に、咲夜は街道の北の端に立っていた。
北の木戸には、既に通行止めの札が立っていた。札の先の街道には、人影が一つも無い。轍の跡が二筋、乾いた土の上を山の方へ続いているだけだ。西の空が赤く焦げ、街道脇の林の影が、道の上に長く伸びていた。
牛の骸は、荷運びの男の言った通りの場所に、まだ横たわっていた。
咲夜はその傍らに膝を突いた。
――腹が大きく裂かれている。中は空っぽだった。腸も、肝も、心臓も無い。それなのに、肩や腰の厚い肉には、牙の跡一つ付いていなかった。裂かれた腹の縁は、白く霜を吹いて、石のように硬く凍っている。
骸の周りの地面には、丸い霜の輪が幾つも残っていた。大きさは、ちょうど荷車の車輪を平らに寝かせたほど。輪の内側だけが、彫刀で彫ったように白く、縁は渦を巻いた形に滲んでいる。息が地面に当たって、そこで小さな竜巻になった跡だ。
咲夜は立ち上がり、街道脇の林へ目を移した。
太い杉の幹に、引っ掻いた跡があった。それも、人の背丈の三倍ほどの高さに。幹の皮が、左右一対の深い穴の形に抓れ、そこから下へ向かって、太い溝が何本も走っている。翼の棘を幹に突き立てて張り付き、そこから滑り落ちた跡だ。――いや、滑り落ちたのではない。反対側の幹にも、同じ高さに同じ跡がある。幹から幹へ、蹴って飛んだのだ。
ただし、右の幹の跡だけが浅い。欠けた棘では、幹に深くは食い込めないのだろう。
咲夜は、懐中時計の蓋を開けた。日の入りまで、半刻ほど。お嬢様が館を出られるのは、日が落ち切ってからだ。――もっとも、お嬢様がここへ来られるかどうかは、分からない。咲夜はそれについて、何も尋ねずに館を出てきた。
骸から十歩ほど離れた道端の草の中に、咲夜は身を沈めた。白い竜は、食べ残しがある場所へ戻る。腹を急いで満たしたい獣なら、なおさらだ。
――日が、山の端に掛かった。
風が止んだ。林の中で鳴いていた秋の虫の声が、奥の方から順に途切れていく。咲夜の吐く息が、フッと白くなった。日暮れの冷え方ではない。頭の上から、冷たい水をそっと注がれたような冷え方だった。
――頭上を、大きな影が音もなく滑っていく。
影は街道の上で大きく一つ旋回し、翼を広げたまま、牛の骸の傘らに降り立った。着地の瞬間、前脚と一体になった翼が地面を突き、後ろ脚が土を掛いて止まる。その足元から、乾いた土が、みるみる白く霜を吹いていく。
夕焼けの最後の光の中で、その体は白銀に光っていた。背から尾へ、霜を置いたような白い毛が甲殻の隙間を覚っている。
翼の肘の辺りからは、太く短い棘が何本も突き出していた。右の翼の棘は、半分が根元から折れている。尾の先は、二股に分かれていた。
そして、顔。上顎から下へ、琥珀色の巨きな牙が二本、弓のように反り返っている。その牙の内側は、鋸のようにギザギザだった。
八日前の夜よりも、さらに痩せていた。白銀の甲殻の下で、肋の形が、息をするたびに浮き上がる。
ベリオロスは、牛の骸の裂かれた腹に鼻先を突っ込んだ。もう何も残っていない腹の中を、一度、二度と探る。それから、首を上げた。肉には口も付けずに。
その頭が、ゆっくりと、道端の草の方へ向いた。
――気付かれている。
咲夜は草の中から立ち上がった。背の低い位置に交差させた二振りの柄に、左右の手をそれぞれ掛け、一息に抜き放つ。瑠璃色の刃が、夕闇の中で青く光る。
ベリオロスの体が、街道の土を翼で押さえ付けた。胸が膝らみ、琥珀色の牙の間から、白い息が漏れる。
咆哮が街道の両側の林を揺らす。杉の枝から、休んでいた鳥が一斉に飛び立ち、咲夜の耳の奥で、花火でも爆ぜたような鳴りが尾を引いた。咲夜は両肘を締めたまま、その鳴りが引くのをじっと待った。
咲夜の仕事は、この竜を狩ることではない。街道から引き剥がして、北へ帰すことだ。――そのためには、まず、ここは食べ物のある場所ではなく、痛い目を見る場所だと、教えなければならない。
――ベリオロスが地面を蹴った。
翼を低く広げたまま、土を削りながら真っ直ぐに突っ込んでくる。翼の棘が、街道の乾いた土に食い込んで、巨体を前へ前へと引き寄せる。速い。その速さを、咲夜は一歩も動かずに測った。
琥珀色の牙が、目の前に迫る。
――そこで、世界が止まった。
翼が巻き上げた土が、宙に浮いたまま動かない。牙の先から漏れた白い息も、形を保ったまま止まっている。咲夜はその息の横を、三歩だけ歩いて、竜の左の脊の横に立った。三歩。それ以上は要らない。
――時が動き出す。
ベリオロスの牙が、誰も居ない空を噛んだ。その左の後ろ脚の膝裏へ、咲夜は双刃を左右から交互に叩き込んだ。一つ、二つ、三つ、四つ。甲殻の継ぎ目の、白い毛の下の柔らかい所だけを、浅く、速く、何度も刻む。双剣は一つ一つの傷が浅い分だけ、数で痛みを積み上げる。
ベリオロスが後ろ脚を引きずって振り返った。
――尾が来る。
咲夜は体を低く沈めた。二股の尾の先が、頭の上を高い音を立てて薄いでいく。その風だけで、結んだ髪の先に、細かい霜が付いた。
ベリオロスが頭を引いた。琥珀色の牙の間で、白い息が渦を巻いて膝らんでいく。
咲夜は後ろへ跳んだ。白い息の塊が、咲夜の居た場所の地面に叩き付けられ、そこで、弾けた。弾けた息は渦を巻いて立ち上がり、咲夜の背丈を越える白い竜巻になった。竜巻はその場に留まったまま、周りの砂と枯れ草を巻き上げ、触れたものを端から凍らせていく。街道の土の上に、また一つ、丸い霜の輪が刻まれた。
竜巻が消えるよりも早く、ベリオロスの体が横へ跳んだ。
街道脇の杉の幹へ。左の翼の棘が、幹に深々と突き刺さる。巨体が一瞬、幹の上に張り付き、杉が大きくしなる。そして、その幹を蹴って、反対側へ移る。斜め上から、咲夜の頭上へ、牙を先にして落ちてくる。
咲夜はまた時を止めた。二歩、落ちてくる牙の下から体を抜いた。時が戻ると牙が街道の土を深く抓った。
咲夜はその頭の横を駆け抜けながら、双刃で右の翼の折れた棘の根元を斬りつけた。欠けた棘の断面から、白い欠片が飛んだ。
――息が、少し上がっている。
止めた時の中で歩いた分だけ、体はその分を覚えている。三歩と二歩。たった五歩だ。だが、咲夜は朝から、館と会館と街道を行き来している。人間の体は、その全部をしっかり覚えていた。
ベリオロスが街道の土の上で、翼を広げたままクルリと向きを変えた。その口の端から、白い冷気が、煮えた鍋の湯気のように絶え間なく漏れ出している。低く唸る声が、喉の奥で鳴り続けていた。――怒り状態だ。
咲夜は竜の後ろに回りながら、左手で腰の投げナイフを三本抜いた。狙うのは竜ではない。牛の骸の向こう、街道の南側の地面だ。三本のナイフが、南の土を紐で縫うように突き刺さる。その紐の先に結んだ小さな袋が、引かれて破れた。
蹴飛ばされたものを嗅いだ竜の頭が、一瞬だけ南へ向く。その一瞬に、咲夜は竜の北側へ回った。北から斬れば、竜は南へ引く。南から斬れば、北へ引く。咲夜は、竜の南側に立ち続けなければならない。
――だが、竜は北へ引かなかった。
咲夜が何度南から斬り付けても、ベリオロスは牛の骸の傍から離れない。何も残っていない腹を守るように、その周りを回り続ける。――痩せた獣は、食べ物のあった場所から、逃げられないのだ。
――幾度目かの時を止めた後。咲夜の足が、半歩だけ遅れた。
二股の尾が、街道の土を薄いで来る。咲夜は双刃を交差させて受けた。受けたつもりだった。だが、尾の重さは、人間の腕二本で受けられるものではなかった。咲夜の体が、街道の土の上を横へ飛んだ。
肩から地面に叩き付けられ、二度、三度と転がる。立ち上がろうとして、咲夜は、自分の体がおかしいことに気付いた。
――重い。尾に打たれた左の肩から、冷たさが体の奥へ、じわじわと染み込んでくる。メイド服の肩には、白い霜が張り付いていた。息を吸っても、吐いても、胸の奥に熱が戻ってこない。上がった息が、いつまで経っても整わない。――氷やられだ。
ベリオロスが咲夜の方へ、ゆっくりと歩いてくる。琥珀色の牙が、後から後から白い冷気を滴らせている。咲夜は片膝を突いたまま、懐中時計の重さを、胸の上で確かめた。
――あと一度なら、止められる。その一度を、どこで使うか。
西の空から最後の赤い光が――消えた。
――その瞬間、咲夜の頭上を、小さな黒い影が、矢のように通り過ぎた。
蝙蝠だった。ただの蝙蝠よりも一回り大きく、翼の縁に、紅い光の粉を散らしている。その蝙蝠は、ベリオロスの顔に真正面から突っ込んだ。琥珀色の牙の間をすり抜け、鼻先を打ち、勢いが前へ乗った巨体が、思わず頭を振ってのけ反る。
――眷蝠『ノクス』
咲夜がその名を心の中で呼ぶよりも早く、空から声が降ってきた。
「――随分と、惨めな格好をしているじゃない。咲夜」
夕闇の空から、小さな影が翼を畳んで落ちてきた。
地面に足が着く直前、その影は、背から一本の長い棍を抜いた。銀と紅と黒。風切りのように両端へ広がった、竜の翼のような刃を備えた棍。
――爵蝙棍『紅魔ノ運命』。その棍の先で、街道の土を一度だけ突く。それだけで、小さな体は落ちてきた勢いを、そのままもう一度、空へ跳ね上げた。
己が主――レミリアだった。
空中でレミリアの背の翼が大きく開く。レミリアに向いたベリオロスの上を、一つの弧を描いて通り過ぎる。通り過ぎながら、棍の刃が竜の左の翼の棘を、上から一つずつ拾っていく。
空に上がっては、落ちながら打ち、竜の背を踏み台にして、また上がる。地面には一度も足を付けない。――《翔天ノ型》。空を狩り場にする型だ。
ノクスが、その周りを飛びながら、竜の翼の上を掛け抜け、主の左腕に戻る。その翼の縁の紅い光が、先ほどよりも濃くなっている。竜の体から吸い取ってきたエネルギーがノクスを介して、レミリアの体へ流れ込んでいく。空中の小さな体の動きが、もう一段、途方もなく軽くなる。
「咲夜、そこで大人しくしていなさい。――大したことないと言ったのは、私よ。だから――その言葉の後始末も、私が付ける」
ベリオロスが空の小さな影を追って、街道脇の杉の幹へ飛び付いた。空の影に牙を届かせるには、幹を蹴って高く跳ぶしかない。
左の翼の棘が幹を打った。――だが、その棘は、もう半分も残っていなかった。欠けた棘は幹の皮を空しく削り、巨体が幹の上で滑った。右の翼の棘も、先ほど咲夜が斬り付けた根元から、また一本折れて飛んだ。張り付くための爪を失った竜は、幹を蹴ることもできず、ただズルズルと、根元へ向かってずり落ちていく。
――その真上に、レミリアが居た。
棍を両手で頭上に振りかぶり、翼を畳んで、影は落ちた。狙いは、滑り落ちてくる竜の、左の翼の肘。最後に残った、一番太い棘の根元だ。
影と竜が、一つの塊になって街道の土へ落ちた。土煿が上がり、その土煿の中から、白い欠片が幾つも、夕闇の空へと回りながら弾け飛んだ。翼の棘だ。根元から折れた太い棘が一本、咲夜の足元へ転がってきて、止まった。
ベリオロスが、街道の土の上で身を捩った。立ち上がろうとして、翼を地に突く。だが、その翼には、土を捕える棘が、もう残っていない。巨体が、自分の息で凍らせた街道の霜の輪の上で、ぶざまに滑って、横ざまに転んだ。
レミリアは、その竜の頭の前に、棍を身に寄せて立っていた。紅い瞳が、夕闇の中で、竜の琥珀色の牙を、その先の北の空を見ている。
「――帰りなさい。あなたの寝床は、あちらでしょう」
竜に言葉が解るはずはない。だがレミリアは、棍の先で北を指した。
ベリオロスは、しばらくその小さな影を見上げていた。口の端から漏れていた白い冷気が、少しずつ細くなって、消えていく。
――それからベリオロスは、折れた棘の翼をソロソロと広げ、地面を蹴る。一度、二度。重い羽ばたきが、街道の土を山の方へ吹き飛ばした。
白銀の体が、夕闇の空へ浮かび上がった。そして、羽ばたくのをやめ、翼を広げたまま、妖怪の山の西の裾野へ、低く、長く、滑っていった。
――街道に、秋の虫の声が戻ってきた。
咲夜は片膝を突いたまま、懐中時計から手を離した。最後の一度は、使わずに済んだ。
レミリアが棍を背に負いながら歩いてくる。咲夜の左の肩の霜を、一瞬だけ見る。そして、足元に転がった太い棘を、つまらなさそうに指先で拾い上げた。
「……お嬢様。日が落ちて、すぐにいらしたのですね」
「美鈴が、狩具庫の鍵を開けて待っていたわ。あなたの言い付け通りにね。
――全く。主に断りもなく、主の分まで片付けに行くなんて、生意気なメイドだこと」
レミリアはそう言って、拾い上げた棘を咲夜の手に押し付ける。それから、竜の消えた北の空を、しばらく黙って見上げていた。
「……あれは、帰りたがっているだけだと、言ったわね」
「はい」
「それは、間違っていなかったわ。――でも、帰り道に何があるかまでは、見ていなかった」
咲夜は何も答えなかった。答える代わりに、氷やられが残る左の手で、主の押し付けた棘を、そっと握り直した。
棘はまだ、冷たかった。
~幻想郷中央狩猟会館 受付~
――受付の灯は、夜通し消えなかった。
小鈴は帳場の椅子の上で、何度か船を漕ぎかけては、その度に頭を振って目を覚ました。行灯の油を二度足している。記録室の窓にも、小さな灯が、ずっと点いている。阿求もまた、帰らずに待っているのだ。
東の空の端が、うっすらと青くなり始めた頃だった。
――会館の戸が、音もなく開いた。
「――随分と待たせたみたいね。ご苦労様、受付さん」
小鈴は椅子から飛び上がった。
――戸口に立っていたのは、咲夜ではなかった。白い帽子に、紅いリボン。背に蝙蝠の翼を畳んだ、小さな体。その背には、銀と紅と黒の棍を負い、左の腕に、蝙蝠の形をした小さな眷属を、今は大人しく止まらせている。
――『レミリア・スカーレット』は、人里の狩猟会館の受付を、まるで自分の館の廊下でも歩くように横切って帳場の前まで来る。その半歩後ろに、咲夜が従っている。左の肩に、新しい包帯が巻かれていた。
「……れ、レミリアさん。ご無事で何よりです。――承ります」
「報告書よ。――咲夜、出しなさい」
咲夜が懐から紙を一枚取り出して、帳場の上に置いた。八日前の紙ではない。字はいつも通り整っているが、墨の色が新しい。館へ戻らず、街道の北の木戸の番屋で、筆を借りて書いたのだという。
小鈴は、受付の印を押す前に、いつもの通り、上から下まで目を通した。八日前の夜のこと。昨日の日暮れのこと。今夜のこと。竜の翼の棘が、左右ともにほとんど折れたこと。竜が山の西の裾野へ向かって滑空していったこと。事実だけが、一つずつ、置かれている。八日前の報告を、なぜこの日まで届けなかったのかも。『当主の判断により届けず。窓口、これを止めず』。
――ただ、一番下の、報告者の欄だけが、空いていた。
「……あの、報告者のお名前が」
「筆を貸しなさい」
小鈴が筆を差し出すより早く、レミリアは帳場の筆立てから一本を抜き取っていた。咲夜が一歩動く。
「お嬢様。そこは、窓口である私の名で――」
「咲夜。あの石頭は『誰の名で出すかはそちらで決めろ』、と言ったのでしょう。――紅魔館で何かを決めるのは、誰?」
咲夜は口を閉じた。
レミリアは、筆先を墨壺に浸す。そして、報告者の欄に、小さな体に似合わない、大きく、少しばかり古風な字で書き付けた。
――『報告者 レミリア・スカーレット』
「――これでいいわ。受け取りなさい」
小鈴はしばらくその字を見つめていた。それから、受付の印を、その横に、丁寧に押した。
――廊下の奥で、床板が鳴った。
慧音だった。ギルドマスター室で、やはり一眠りもせずに待っていたのだろう。その後ろには、綴りを抱えた阿求も続いている。慧音は小鈴の手から報告書を受け取ると、立ったまま、上から下まで読んだ。そして、一番下の欄で、目を止めた。
「……成程な」
慧音が言ったのは、それだけだった。その一言を、レミリアは帳場の前で、胸を張ったまま聞いていた。
「紅魔館の当主が、自分の名で、自分の遅れを報告した。――記録には、そう残るぞ。いいのか」
「えぇ。その代わり、次に紅魔館の報告が早かった時も、ちゃんとそう残しなさい。――それと、今日のうちに、うちのメイドを怒鳴りつけなかったことについては、礼を言っておくわ」
「怒鳴る必要が無かっただけだ。咲夜は何が悪かったか、私が言う前に全部分かっていた」
レミリアは「ふん」と小さく鼻を鳴らした。それが誰に向けたものなのかは、小鈴には分からなかった。
阿求が帳場の上に幻想郷の地図を広げた。『霧の湖』の西の岸の印。北の街道の印。その二つを結ぶ線の先へ、阿求は朱の筆で、矢印を一本書き足した。山の西の裾野を通って、北へ。『氷霧連峰』の方へ。その矢印の先には、何も書かれていない。
「――写しを一通、守矢へ。山の会所の、管狐さん宛てでよろしいでしょうか、慧音先生」
「あぁ。ベリオロスの動静監視は、もう山の管轄だ。――それと、阿求。その矢印の先に、小さく『?』を付けておけ。あの竜を寝床から追い出したものが、まだそこに居る」
阿求の朱の筆が、地図の北の端に小さな印を一つ書き置いた。
咲夜が帳場の上に、翼の棘を一本置いた。街道でレミリアが折った、一番太い棘だ。
対する慧音は朝の荷車から摘まみ出した欠片の紙包みを懐から出して、その横に並べた。
新しい棘の折れ口は、白く、まだ濡れたように光っている。だが、荷車の氷の中から出てきた古い欠片の折れ口は、丸く磨り減っていた。その磨り減った縁に、行灯の火を当てると――粒のように細かい、赤茶けた粉が、うっすらと残っていた。
小鈴には、それが何なのかは分からなかった。竜の翼の棘が、岩や氷でその様な色が着くのを、見たことがない。
「……よほど硬いものと、擦れ合ったのね。八日前の夜にも、そう思ったわ」
レミリアが、古い欠片を見下ろして言った。慧音は答えずに、二つの欠片を一つの紙で丁寧に包み直した。その包みは、守矢ギルドへ送る写しの束ではなく、中央生態研究室へ回す箱の方へ、そっと置かれた。
――東の空が、白み始めていた。
咲夜が懐から折り畳んだ日傘を取り出し、主の頭の上で開いた。レミリアは何も言わずにその影の中へ入り、会館の戸口へ向かう。その背で、左の腕のノクスが、眠たそうに一度だけ翼を伸ばした。
戸口でレミリアは一度だけ足を止めた。振り返らずに、後ろの帳場へ言う。
「――受付さん。あなたの淹れたお茶、うちのメイドが飲み損ねたそうね。今度、館へいらっしゃい。咲夜の淹れる紅茶は、ここのお茶よりは、少しだけ美味しいわよ」
日傘の影が、白み始めた通りへ消えていった。その半歩後ろを、包帯を巻いた左の肩を少しだけ庇いながら、咲夜が歩いていく。日傘は、一度も主の頭の上からずれなかった。
小鈴はしばらくその戸口を見ていた。それから、報告書の一番下の、大きすぎる署名をもう一度見て、小さく笑った。そして、夜通し点していた行灯の火を、そっと吹き消した。