東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第七話:勝ち過ぎた夜

~駒草集会所 賭場~

 

――中盆の『半!』の声が、板の間に落ちた。

 

 壺振りの手が笊を上げたその瞬間、盆茣蓙の周りから、溜め息とも呻きともつかない声が一斉に漏れた。

 茣蓙の上で、二つの賽が転がり止まっている。三と六――半だ。

 中盆の山童が、丁の側に積まれた木札を、竹の熊手で無造作に掻き寄せる。そして、半の側に置かれた木札の山の、殆どを一人の前へ押し出した。茣蓙の端に片膝を立てて座る、派手な身なりの女の前へ。

 

「はい、どうも~。――あら、また来ちゃった。困るわねぇ、今夜はツイてるわ」

 

 女は指輪だらけの指で木札をつまみ上げ、一枚ずつ、手元の山に重ねていった。その山は、もう膝の高さを越えている。

 茶色の髪を縦に巻いた二つ結び。頭の上にはサングラスを載せた黒いシルクハット。首にも、耳にも、手首にも、指にも、何かしら光るものが付いている。行灯の灯りを、そのどれもが、これ見よがしに跳ね返していた。腰の後ろ寄りには、炎のように反り返った赤い盾と、小振りの剣が負われている。

 人里ギルドの登録ハンターにして、散財の疫病神――『依神女苑』。

 

――一人勝ちはこれで、十二回目だった。

 この賭場の夜は、一晩に百回ほど壺が振られる。そのうちの十二回を、女苑は続けて当てていた。

 最初の三回は、周りの客も「運がいいね」と笑っていた。

 六回目で、笑う者が減った。

 九回目で、茣蓙を囲む天狗達の目付きが変わった。

 そして今、十二回目の木札が女苑の前に押し出されるのを、茣蓙の周りの誰もが、黙って見ている。

 

――妖怪の山の中腹、天狗の里から少し下った所に、その集会所はある。

 

――『駒草集会所』

 守矢ギルドのハンターが寝泊まりし、腹を満たし、狩りの仲間を探し、狩りの後の酒を飲む場所である。表の広間は酒場と食堂を兼ねていて、昼も夜も、大天狗も白狼天狗も、河童も山童も、時には山の神まで、同じ卓で同じ酒を飲む。

 その広間の奥、厚い暖簾を一枚くぐった先に、板の間を一つ仕切った賭場がある。

 表の広間の騒がしさが、暖簾一枚でふっと遠くなる。板の間には大きな盆茣蓙が一枚敷かれ、天井から吊るした行灯が、その白い茣蓙だけを明るく照らしていた。茣蓙を囲む客の顔は、半分が陰になっている。壁際の火鉢では炭が赤く熾っていて、その上で薬缶が細い湯気を立てていた。

 初雪が中腹まで降りてから、もう五日が経つ。北の峰の入山には哨戒班の同行が要るようになり、山の狩りは一気に減った。冬の間、山のハンターの多くは、この集会所で次の仕事を待つ。そして待つ間の手慰みに、この暖簾をくぐる。

 

――この五日、表の広間で交わされる話は、北のことばかりだった。

 『氷霧連峰』の西の崖で、山童が二人、冬の妖怪と白狼天狗に助け出された。

 山の西の裾野を、白い竜が一頭、北へ低く滑っていった。

 峰の天辺では、雲も無いのに、夜な夜な風が鳴っている――

 

 どれもこれも、哨戒班の詰所から漏れてきた話だ。哨戒班の天狗達は、それ以上のことを話さない。話さないことが、かえって広間の酒を重くしていた。

 だからこそ、暖簾の向こうの茣蓙は、この五日、いつもの冬よりも少しだけ熱くなっていたのかもしれない。

 

「……おい、中盆。賽を替えろ」

 

 茣蓙の向かいに座る鴉天狗の男が、低い声で言った。手元の木札は、もう三枚しか残っていない。

 

「賽はさっき替えたばかりですぜ、旦那」

「なら、壺振りを替えろ。――でなけりゃ、その女を表へ出せ」

 

 鴉天狗の隣で、河童の娘が小さく頷く。その隣の山童も、腕を組んだまま女苑を睨んでいた。茣蓙の周りに、ジワリと嫌な熱が溜まっていく。炭火のせいではない。負けの込んだ博打打ちの、腹の底から上がってくる怒りや妬みの熱だ。

 女苑は木札を数える手を止めずに、ちらりと鴉天狗を見上げる。

 

「なぁに?表へ出ろって、私が何かしたって言うの?」

「疫病神が、賭場で勝ち続けてる。――それだけで十分だろうが」

「あら、ひどい。私はただ、座って、張って、当ててるだけじゃない。――それとも何?天狗の旦那は、自分が負けてるのを、全部私のせいにしたいわけ?」

 

 女苑はそこで初めて木札から目を上げ、ニッコリと笑った。その笑い方が、鴉天狗の顔をもう一段赤くした。

 茣蓙の周りの何人かが、知っている。『依神女苑』は、取り憑いた相手に財産を使わせる疫病神だ。

 相手は、自分の意思で使ったと思い込んだまま、財布を空にする。

 

――この賭場で、自分達がいつもより熱くなって、いつもより大きく張っているのは、本当に自分の意思なのか。

 

「……人里のギルドじゃ、お前さん、取り憑くのを禁じられてるそうじゃねぇか」

「そうよ。だから取り憑いてないわ」

「本当かどうか、どうやって分かる」

「分からないわねぇ。――分からないなら、黙って張ったら?」

 

 鴉天狗が膝を立てた。

 山童の若い男が、慌てて腰を浮かせる。河童の娘が、手元の木札を胸に抱え込む。壺振りの席に座る山童の娘が、笊を握ったまま、助けを求めるように暖簾の方を振り返った。

 

――その暖簾の向こうから、甘い煙が流れてきた。

 

 薄紫の細い煙だった。それが、板の間の床を這うように、茣蓙の周りへ広がっていく。草を燻したような、どこか甘い匂い。

――煙草だ。だが、里で嗅ぐ煙草の、喉を刺すような匂いではない。吸い込むと、胸の奥の熱が、水を一杯飲み干した後のように、スウッと引いていく。

 鴉天狗の膝が、ゆっくりと床に戻った。

 

「――騒がしいねぇ。表まで聞こえてるよ。煙草の味が濁るじゃないか」

 

――暖簾を片手で払って、一人の女が入ってきた。

 紫の髪に、黄色のリボン。赤い着物に赤い羽織を重ね、裾からは紫の袴のようなものが覗いている。素足に下駄。片手には、長い煙管。もう片方の手には、閉じた扇子。下駄の歯が板の間を鳴らすたびに、煙管の雁首から、あの薄紫の煙が、細く長く尾を引いた。赤い瞳が、茣蓙の上をゆっくりと一巡りする。

 背には、身の丈を超える長い笛を負っていた。紫がかった灰色の、獣の皮のような胴に、捻れた角のような飾りが二本。笛というより、何か大きな生き物の骨を一本、そのまま背負っているように見えた。

 この集会所の主にして、山の賭場の胴元――『駒草山如』が姿を見せた。

 

「姐さん……」

 

 壺振りの山童の娘が、ホッとしたように息を吐いた。

 山如は、その娘の頭にポンと扇子を載せただけで、茣蓙の脇に下駄を脱いで上がった。鴉天狗の後ろを通り過ぎる時、煙管の煙をその耳元へ、ふうっと一筋吹きかける。鴉天狗は何か言いかけて、それきり口を閉じた。

 山如は女苑の真向かいで立ち止まった。茣蓙の上の、女苑の前の木札の山を見下ろし、それから、女苑の顔を見下ろす。

 

「――十二回、続けて当てたんだって?」

「えぇ。今夜はツイてるの」

「ツイてる、ねぇ。――あたしの賭場じゃ、ツキってのは、一晩に五回までと決まってるんだよ。六回目からは、ツキじゃない。――何か別のもんだ」

「へぇ。じゃあ、何だっていうのよ」

「それを、今から確かめるのさ」

 

 山如は壺振りの山童の娘の肩を、扇子で軽く叩いた。娘が、心得たように席を空ける。

 山如はその席に、ストンと腰を下ろした。片膝を立て、羽織の片袖を抜いて肩を出す。そして、空いた手に笊と二つの賽を取った。煙管は咥えたまま、雁首から上る煙が、行灯の灯りの中で、ユラリと揺れる。

 

「ここから壺は、あたしが振る。――煙の中じゃ、誰も熱くはなれない。それでもあんたが勝ち続けるなら、そいつは本物さ。どうだい、疫病神の嬢ちゃん」

 

 女苑はニヤリと笑った。指輪だらけの指で、木札を三枚、茣蓙の上へ押し出す。

 

「受けて立つわよ。――私が勝ったら、あんたの賭場の上がり、少しは分けてもらうからね」

 

――山如が壺を振ると、賭場の音が変わった。

 笊に賽を放り込む。カラカラと乾いた音がして、笊が茣蓙に伏せられる。その一連の動きが、あまりにも滑らかで、笊が伏せられたことに、客が一拍遅れて気付く。中盆の『丁方ないか、半方ないか』の声が、煙の中をゆったりと渡っていく。

 

 客の張り方も変わっていた。さっきまでのように、木札を掛いて茣蓙に叩き付ける者が居ない。一枚ずつ、考えてから置く。薄紫の煙が、賭場の客の胸の奥の熱を、一人ずつ、そっと冷まして回っているようだった。

 

――女苑は、一回目を外した。

 二回目も外した。三回目は当て、四回目は外し、五回目は当てた。木札の山は少しだけ低くなった。どこの賭場にもある、当たり前の出目だった。

 それを見て、茣蓙の周りの空気が僅かに緩んだ。鴉天狗が鼻を鳴らす。

 

 だが――山如は壺を振りながら、別のものを見ていた。

 

 女苑の目だ。女苑は壺を見ていない。賽も、山如の手も見ていない。茣蓙の一番端、行灯の灯りが届かない陰に座る、一人の山童の男の手元を、ずっと見ていた。

 山童の男は五十がらみ。痩せた顔に、細い目。腰には、使い込んだ革の財布を三つも下げている。山如はその顔を知っていた。中腹の山童の集落で金を貸している、銀次という男だ。

 山如が壺を振り始めてから、銀次は五回続けて外していた。それも、大きく張って、大きく。

 

「……ちょいと、厠へ」

 

 銀次が、木札を懐に掻き集めて立ち上がった。その背が暖簾の向こうに消えるのを、女苑の目が、最後まで追っていた。

 山如は笊を茣蓙に伏せたまま、手を止めた。

 

「――今夜の壺はここまでだ。お客人方は、表で一杯やっておくれ。今の一杯は、あたしの奢りだよ」

 

 茣蓙の周りから、不満とも安堵ともつかない声が上がった。だが、胴元の奢りの一杯を断る者は居ない。客達が暖簾の向こうへ出ていくと、山如は、壺振りの席を譲った山童の娘と、木札の山を抱えた女苑を、扇子で手招きした。

 

「――二人とも、奥へおいで」

 

~駒草集会所 帳場の奥~

 

――帳場の奥の六畳間は、煙草の匂いが柱にまで染みついていた。

 壁には、乾かした煙草の葉が束ねて吊るされている。山のどこかで山如が自分で育てている葉だという。

 長火鉢の端に煙管をコツンと叩きつけ、山如は灰を落とした。それから、新しい葉をゆっくりと雁首に詰める。

 山童の娘は、畳の上で小さくなっていた。十五になるかならないか。山如の壺の振り方を、去年の春から教わっている見習いだ。

 

「――『小梅』。あたしは、お前さんに何を教えた?」

「……壺の、振り方です」

「そうだ。振り方を教えた。――それと、もう一つ。これだけは教えるが、決して賭場では使うなと言った振り方があったね」

 

 小梅の肩がビクリと跳ねた。

 山如は、火を付けた煙管を一服だけ吸った。それから、煙を小梅の方へは吐かずに、天井へ細く長く吹き上げた。煙で口を割らせるのは、簡単だ。だが、山如はそれをしなかった。

 

「……ごめんなさい。姐さん、ごめんなさい……」

 

 小梅は畳に額を擦り付けた。そして、途切れ途切れに話し始めた。

 

――父親が、秋の終わりに銀次から金を借りたこと。北の尾根の嵐で中継小屋が荒らされ、商いの荷が駄目になったせいだったこと。初雪が早くて、返す当てにしていた山草採りができなくなったこと。

 銀次に『娘が壺を振る夜、合図どおりの目を出せば、利息は待つ』と言われたこと。銀次が財布を右の腰へ移したら丁、左へ移したら半。――小梅は、山如に『使うな』と言われた振り方で、その目を出していた。

 

「……三日前から、です。今夜で、三度目でした」

 

 山如は何も言わなかった。煙管を咥えたまま、女苑の方を見た。

 女苑は壁にもたれて、木札の山を膝の上で弄んでいた。

 

「……で、あんたは、いつ気付いたんだい」

「座って、三回目くらいかしら。――あんたならよく分かってるでしょうけど、賭場ってのは金が流れる場所よ。普通は、川みたいにあっちへ行ったりこっちへ来たりするの。

 なのに、あの山童の前にだけ、木札が坂を転がるみたいに寄っていく。――曲がってるのよ、流れが。そういうの、私、苦労もしないで嗅ぎ分けちゃうのよね」

「それで、後はその山童の財布を見て、同じ方へ張った。――それも、銀次より大きく」

「えぇ。だって、そうしたらあの山童、片方の木札が足りなくて、自分の取り分が減るでしょ?じわじわ焦れてくるのが、見てて楽しかったわ。――それに私には、取り返さなきゃいけない金があったしね」

 

 女苑はそこで初めて、少しだけ顔を顰めた。

 

――今回の女苑の仕事は、人里の薬種問屋からの依頼だった。

 

――『冬の風邪薬に使う雪山草を、山で直に買い付けたい。その仕入れに一人息子を山へ行かせるので、行き帰りを護衛してほしい』

 

 依頼料は、女苑が一目で引き受けるぐらいに高かった。

 所が山へ上がってみれば、北の峰の入山には哨戒班の同行が要るようになっていて、雪山草はどこにも出回っていなかった。哨戒班の手が空くまで、三日。若旦那はその三日を、この集会所で持て余した。

 そして二日目の夜、女苑が表の広間で天狗達と飲んでいる間に、暖簾をくぐった。――銀次の隣に座らされて。

 

――仕入れの金は、一晩で半分になっていた。

 

「若旦那の尻拭いなんて、依頼には入ってないのよ。――でも、仕入れの金を山でなくしたって知れたら、あの問屋の親父、依頼料を渋るに決まってるじゃない。それは困るのよ」

「……それで、取り返したのかい」

「取り返したわよ。――少しばかり取り返しすぎたけど、ね」

 

 女苑は膝の上の木札の山を、ポンと叩いた。若旦那が失くした金の、優に三倍はある。

 山如はその山をじっと見ていた。それから、煙管を口から離した。

 

「――賭場の掟だ。イカサマの壺で動いた金は、一(・)文(・)残(・)ら(・)ず(・)場(・)に(・)返(・)す(・)。あんたが勝った分も、だよ」

「……はぁ?!ちょっと、私はイカサマなんてしてないわよ。乗っただけじゃない!」

「曲がってると分かってて、その流れに乗ったんだ。――それを、この山じゃあ同(・)じ(・)穴(・)の(・)狢(・)って言うんだよ」

 

 女苑の口が、何か言い返す形のまま止まった。煙は吹きかけられていない。ただ、山如の赤い瞳が、女苑のサングラスの向こうをまっすぐに見ていた。

 

――その時、帳場の障子が、乱暴に開いた。

 

「姐さん!銀次の野郎が、厠の窓から抜け出しやがった!提灯を一つ勝手に持って――それと、人里から来た人間の若旦那もだ!あの野郎を追っかけて、そのまま外へ!」

 

 駆け込んできた中盆の山童が、息を切らして叫んだ。開いた障子の向こうから、表の広間の替わりに、冷たい風が流れ込んでくる。厠の窓が開けっ放しになっているのだ。

 

「……外って、どっちよ」

「北の山道だ。銀次の野郎の小屋は、雪原の向こうの沢にある。――若旦那は、『金を返せ!』って叫びながら、草鞋のまま追いかけてった」

 

 女苑は木札の山を畳の上に放り出した。バラバラと崩れた木札には目もくれず、障子の向こうの闇を睨む。

「……冗談でしょ。――今の外、雪よ」

 

 そう言いながら、女苑はもう立ち上がっていた。腰の後ろの剣の位置を、指輪の当たる手で確かめる。山如も、煙管を長火鉢の縁で一つ叩いて、立ち上がった。

 

「小梅。表の客には、何も言うんじゃないよ。――それと、会所の狐に、北の雪原で灯りを探してるってだけ、伝えておきな」

 


~妖怪の山 中腹の雪原~

 

――集会所の裏口を出た瞬間、女苑の鼻の奥が、ツンと痛んだ。

 雲の無い夜だった。半分に欠けた月が、中腹の雪原を青白く照らしている。五日前の初雪の上に、昼間に少し溶けてまた凍った硬い皮が張っていて、踏むたびに、パリンと薄い音が聞こえる。

 女苑は毛皮の襟巻きの中で肩を縮めた。指輪が、指の肉に冷たく食い込んでくる。外して山如の帳場に預けてくるべきだった――とは、一瞬も思わなかった。

 

「……だから、寒い所は嫌いなのよ。氷も、雪も、全部」

「なら、これを飲みな」

 

 山如が、懐から小さな瓶を一つ放って寄越した。[ホットドリンク]――その赤い液体を満たした瓶だ。女苑はそれを片手で受け取り、蓋を開けて、鼻を近付けた。そして、顔をしかめた。

 

「……辛いやつじゃない。これ、いくら?」

「集会所の値で、三文だね」

「……ふうん。安いじゃない」

「この三文すら惜しむ、どうしようもない愚か者も居るけどね。――冬山の寒さを舐めてるんじゃ、賭け以前の問題だ」

 

 女苑は[ホットドリンク]を一息に飲み干した。喉が焦げ、腹の底から熱が広がっていく。空いた瓶を、山如の手へ返す。

 一方、山如は飲まなかった。煙管を咥えたまま、雪の上を下駄で歩いていく。素足の指が、少しも赤くなっていない。山の高い所で暮らす山女郎にとって、初雪くらいは寒さの内に入らないのだろう。雁首から上る薄紫の煙が、夜気の中で凍りもせず、細く長く後ろへ流れていた。

 背の長い笛が、月明かりにヌラリと光る。

 

――足跡は、二つあった。

 一つは、草鞋の跡。歩幅が狭く、足を引きずる癖がある。その跡に沿って、点々と黒い滴が落ちていた。提灯の油だ。銀次が、集会所の提灯を急いで掴んで、傾けたまま走ったのだ。

 もう一つは、里の草履の跡。歩幅がバラバラで、何度も雪に手を突いた跡がある。山の雪を歩いたことの無い足だ。

 

「……馬鹿ね。金を取り返したいなら、私に言えばいいのに」

「あんたが取り返してたって、若旦那は知らないんだろう?」

「……言ってないわ。言ったら、また賭場に入るに決まってるもの」

 

 二つの足跡は雪原を斜めに横切って、北の沢の方へ続いていた。

 だが、雪原の半ばを過ぎた辺りで、その二つの跡の周りに、別の跡が混じり始めた。

――三つ叉の爪の跡だ。大きさは人の拳より一回り大きい。それが、一つや二つではない。――十、二十。二つの足跡を遠巻きにするように、弧を描いて並んでいる。その弧は、少しずつ、少しずつ、狭まっていた。

 山如の足が止まった。

 

「……バギィだね。群れで獲物を囲んで、少しずつ追い込んでいく。――追い込む先には、群れの首領が待ってる」

「……そんなの、こんな下に居たかしら」

「いや、居なかったよ。例年なら、まだ北の峰の上さ。――今年は初雪と一緒に、ポポの群れが半月も早く下ってきた。バギィ共は、そのポポを追ってきたんだ」

 少し先の雪の上に、茶色い塊が一つ蹲っていた。

 長い毛に覆われた、大人しい草食の獣。ポポだ。群れからはぐれたのか、一頭きりで、短い足を折って雪に腹を付けている。女苑が近付いても首を上げない。

 

――ポポは、眠っていた。鼻先の毛に、紫がかった白い液が、凍り付いたままこびり付いている。その周りの雪には、三つ叉の爪の跡が、ポポを囲んでぐるりと輪を描いていた。獲物は、眠らせておいて、すぐには食べない。首領が来るまで、そこに置いておくのだ。

 女苑は、眠るポポの横を、足音を殺して通り過ぎた。そして、二つの足跡の続く先を、初めて少し急いで追い始めた。

 

 山如は、煙管を口から離して、雪原の先を扇子で指した。

 月明かりの中、沢の手前の窪みに、赤い火が一つ、雪の上に転がっていた。提灯だ。横倒しになって、雪を溶かしながら、まだ細々と燃えている。

 その火の周りを、低い影がいくつも回っていた。

 

――影の輪の中で、人影が二人、雪に倒れていた。

 一人は、痩せた山童の男。銀次だ。腰の三つの財布を両腕で抱え込んだまま、雪に顔を伏せている。もう一人は、人里の絹の羽織を着た若い男。薬種問屋の若旦那だ。銀次の足首を掴んだまま、仰向けに倒れていた。

 

 二人とも動かない。だが、若旦那の胸は、ゆっくりと上下していた。その顔に、紫がかった白い液が、べったりと張り付いている。月明かりに、その液が甘い匂いを立てていた。

 

「……寝てるの?こんな所で?」

「眠らされたんだよ。バギィが吐く液の催眠効果は強力だ。浴びると立っていられない。――眠らせておいて、首領が来るのを待つんだ」

 

 輪の外側を回っていた影の一つが、こちらを向いた。

 犬ほどの大きさの、二本足の獣だった。青紫の鱗に、柔らかそうな毛が縞のように生えている。細い口先から、白い息が一つ。それを合図にしたように、輪の影が一斉にこちらを向いた。十は下らない。

 『バギィ』の群れだ。

 

――そして、窪みの奥の雪の影から、一頭だけ、大きさの違うものが立ち上がった。

 周りのバギィの、優に倍はある。同じ青紫の体に、もっと厚い毛。そして頭には、角のように前へ突き出した、大きなトサカがあった。月明かりの下で、そのトサカだけが、刀の刃のように白く光っている。

 口の端から、紫がかった液が、糸を引いて垂れていた。

 

――『眠狗竜:ドスバギィ』

 

 ドスバギィが胸を反らした。

 

〈ガアァァアアッ!!〉

 

 咆哮が雪原を渡る。それに応えて、バギィ達が一斉に喉を鳴らす。輪が崩れた。雪を蹴る乾いた音が、四方から一度に近付いてくる。

 女苑は右手を背に回して盾を取り、そのまま腕に通した。そして左手で、腰の後ろの低い位置に負った剣を、一息に抜き放つ。赫猿獣の赤い甲殻を研いだ小振りの刃と、炎のように反り返った盾。――赫猿剣盾『大盤振舞』を構える。

 

「――そっちの二人、どうすんのよ!」

「あたしが起こす。あんたは、首領をこっちへ近付けるな」

「簡単に言ってくれるじゃない……!」

 

 女苑は雪を蹴った。

 正面から飛び付いてきたバギィを、盾で横っ面から殴り飛ばす。続く一頭の喉元を、剣で斜めに裂く。片手剣は軽い。盾で殴り、剣で斬り、また盾で殴る。その流れは、女苑が狩りを覚えるずっと前から、体に染み付いている喧嘩の拳と同じだった。

 

 左右から、二頭のバギィが同時に口を開いた。紫がかった白い液が、弧を描いて飛んでくる。女苑は体を沈めて一つをかわし、もう一つを盾で弾いた。盾の表に張り付いた液から、甘い匂いが立ち昇る。吸い込んだだけで、瞼が、少しだけ重くなった。

 

――その後ろで、山如が、倒れた若旦那の傍らにしゃがみ込んでいた。

 煙管を深く一服吸い、若旦那の顔の上へ、煙をそっと吹きかける。賭場で客の熱を冷ました煙とは、色が違った。もっと濃い、朱の混じった紫。煙が若旦那の鼻と口に吸い込まれていく。

 若旦那の瞼が、ピクリと動いた。それから、むせた。むせながら、体を起こした。

 

「……こ、ここは……?」

「雪の上さ。――人間の旦那。立てるなら、その山童を引きずって、沢の下の小屋へ入りな。戸を閉めて、つっかえ棒を掛けるんだ。何が聞こえても、開けるんじゃないよ」

 

 若旦那は山如の赤い瞳を見て、それから、雪原の向こうで盾を振るう女苑を見た。口を開け、何も言わずに閉じ、そして、銀次の襟首を掴んだ。財布を抱えたまま眠る山童の体を、雪の上を引きずっていく。

 

――その引きずる音を、ドスバギィの頭が追った。

 女苑はその前へ割って入る。盾の縁で、剣の刃を一度、二度、擦り上げる。甲殻と甲殻が擦れ合う音と一緒に火花が散る。僅かな摩擦でも激しい火花を散らす、赫猿獣の甲殻だ。刃が、根元から赤く熱を帯びていく。雪の上に垂れた火花が、ジュッと小さく鳴る。

 ドスバギィの頭が、その火の方へ向きを変えた。

 

「――えぇ、こっちよ。眠らせて食うなんて、せこいやり方してんじゃないわよ」

 

〈ガアァッ!〉

 

 ドスバギィが雪を蹴った。――速い。低く頭を下げ、トサカを前にして突っ込んでくる。女苑は、盾でそれを受けた。受けた瞬間、腕の骨まで響く重さに、体ごと雪の上を一間ほど押し戻される。片手剣の小さな盾は、受けるためではなく、咄嗟に凌ぐためのものだ。

 

 だが、女苑は下がらなかった。押し戻された勢いのまま、雪を踏ん張って踏み込む。熱を帯びた刃で、ドスバギィの首の付け根を一筋、二筋と裂く。毛が焦げる匂いがして、ドスバギィが大きく身を捩った。寒い所で暮らす獣は、火を嫌う。

 ドスバギィの喉の奥で、低い唸りが続く。それに応えて、周りのバギィ達の動きが、一斉に速くなった。首領が気を立てれば、群れの全部が気を立てる。――怒り状態だ。

 

――ドスバギィが、後ろへ跳んだ。

 跳びながら、口を開ける。女苑が踏み込んだ、その足の先へ。距離を取ったと思った瞬間に、紫がかった液の塊が、正面から女苑の顔に当たった。

 

――甘い。

 

 そう思った時には、もう膝が折れていた。雪が、女苑の頬に当たる。冷たいはずの雪が、柔らかい布団のように感じられた。指輪の光が、目の前で、ユラユラと滲んでいく。

――その向こうで、ドスバギィが、肩を低く沈めた。眠った獲物に叩き込む、体当たりの構えだ。

 

――それを見た山如が、背の笛を下ろした。

 身の丈を超える、紫がかった灰色の笛。胴は、山の霊の中に姿を溶かす古い龍の皮で張られ、その片端には、捻れた角の飾りが二本。笛の吹き口は、煙管の雁首のように曲がっている。――煙霞笛『駒草遊戯』。

 山如は、その笛を、大きく振りかぶった。そして、眠っている女苑の背中を、力一杯叩いた。

 

――バシィンッ!

「――いったぁぁい!?」

 

 女苑の体が、雪の上を転がった。その、今まで女苑が倒れていた場所を、ドスバギィの肩が、雪ごと引き裂くように通り過ぎていく。

 女苑は、雪の中から跳ね起きた。眠気は、背中の痛みと一緒に吹き飛んでいた。

 

「――ちょっと、あんた!今の、本気で叩いたでしょ!」

「寝てる方が、よっぽど高くつくよ。――次が来る。一曲、付き合いな」

 

 山如は、笛の吹き口に唇を当てた。

 笛を振り、雪を打ち、また振る。一振りごとに、低い音と高い音が、夜の雪原に一つずつ置かれていく。その音が三つ揃った時、山如は笛を天へ掲げ、吹き口へ深く息を吹き込んだ。

 煙のように尾を引く、長く、低い音だった。その音を浴びた瞬間、女苑は、自分の足が、雪の上で妙に軽くなったのを感じた。

 

「――ふうん。悪くないじゃない」

 

 女苑は盾の縁でもう一度刃を擦り上げる。さっきよりも強く、さっきよりも長く。火花が小判をばら撒いたように、月明かりの中へ散る。

 ドスバギィが雪の上で振り返る。その頭が女苑の方を向く。

 女苑は既に走っていた。軽い足で雪を蹴り、飛び込んでくるバギィを一頭、盾で横へ頂いてそのまま走り抜ける。ドスバギィの頭が後ろへ反る。口が開いて、またあの睡眠液を――

 

「――二度は飲まないわ、よッ!」

〈ギャァッ!?〉

 

――吐き出される前に女苑は盾を口元へ叩き付けた。そのまま、盾でドスバギィの頭を雪へ押さえ付ける。胸ぐらを掴むように。熱を溜めた刃を、至近から、一つ、二つ、三つ、四つ。刃が突き刺さるたびに、火花が金貨のように散る。

 

「――取り立てよ。利息も付けて、きっちり払いなさい!」

 

 最後の一つを女苑は、前へ突き出したトサカの根元へ、盾ごと叩き込む。

 

――バキィッ!!

〈ゴアァァッ!?〉

 

 刀のように白く光っていたトサカが、根元から罅割れて、斜めにかしいだ。

 ドスバギィが雪を蹴って後ろへ跳び退く。

 

〈ゴァァァァ……〉

 

 そして――低く一つだけ鳴いた。その声を合図に、周りのバギィ達が一斉に向きを変える。青紫の影の群れが首領を先頭に、雪原の奥へ、北の峰の方へ紐を引くように遠ざかっていった。

 女苑は追わなかった。追う気も無かった。ただ息を切らして、雪の上に尻もちをついた。刃に残った熱が、足元の雪を溶かして、ジュウジュウと湯気を上げている。

 

「……追わなくて、いいのよね?」

「いいさ。あいつらは、早く下りてきたポポを追ってきただけだ。――冬がちゃんと落ち着けば、群れも峰へ戻るよ」

 

 山如は笛を背に負い直して、煙管を咥えた。北の峰の方を、しばらく黙って見つめる。その峰の頭では風が雪を巻き上げて、月の光の中で白い煙のように渦を巻いていた。

 

「……尤も、このまま落ち着けば、だけどね」

 

――帰りの雪原は行きよりも長かった。

 沢の下の小屋から、若旦那と銀次を連れ出して、四人で雪を踏む。銀次はまだ足がふらついていて、若旦那の肩を借りていた。金を巻き上げた男と、巻き上げられた男が、一つの提灯の下で寄り添って歩いている。その後ろを、女苑と山如が、少し間を空けて付いていった。

 

「……ねぇ。一つ、聞いていい?」

「何だい」

「あんたの煙なら、もっと早くに片付いたんじゃないの?銀次に吹きかけて、洗いざらい吐かせればいい。小梅にだって。――なのに、あんたは壺を振って、話を聞いて、それだけだったじゃない」

 

 山如はすぐには答えなかった。煙管を一服吸って、雪の上へゆっくりと煙を吹き下ろす。

 

「……煙は、熱くなった頭を冷ますためのもんさ。寝てる奴を叩き起こすのにも、使う。――だけどね、煙で口を割らせたり、煙で勝ち負けを決めたりしたら、そいつはもう賭場じゃない。ただの、あたしの庭だよ」

「……あんたも、誰かと使わない約束してんの?」

「誰ともしちゃいないさ。あたしが、あたしとして決めてるだけだ」

 

 女苑は何も言わなかった。

 提灯の灯りの端で、自分の指輪が光っている。

――ハンターになった時、人里の寺子屋の先生(慧音)に約束を結ばされた。

 

――『取り憑かない。財布を開かせない』

 

 あの時、女苑は、約束というのは人に結ばされるものだと思っていた。――自分と結ぶ約束というのもあるらしい。

 女苑は指輪の光を拳の中に握り込んだ。そして、毛皮の襟巻きに顔を埋めて「寒い。早く帰りたい」とだけ言った。

 


~駒草集会所 帳場の奥~

 

――集会所に戻ったのは夜半を回った頃だった。

 沢の下の小屋で、若旦那は言い付けどおりつっかえ棒を掛け、銀次の隣で震えていた。銀次が目を覚ましたのは、山如が小屋の戸を叩いた後だ。自分がどこに居て、誰に引きずられてきたのかを知ると、銀次は三つの財布を抱えたまま、一言も口を利かなくなった。

 

 帳場の奥の六畳間には先客が居た。

 長火鉢の前に、狐の尾を丸めて座る女。片目を前髪で隠し、膝の上に分厚い台帳を一冊広げている。小梅が会所へ走ったのを受けて、上から下りてきたのだ。守矢ギルドの会所の受付、典が四人を見ることなく台帳を見ている。

 

「――お帰りなさいませ。入山の届け出も無しに、北の雪原へお散歩に出られた方が、お二人ほどいらっしゃると伺いましてぇ」

 

 そんな典は台帳から目を上げずに笑った。銀次の痩せた肩が小さく跳ねる。

 山如は長火鉢の向かいに腰を下ろした。煙管に新しい葉を詰め、火を付ける。一服吸い、その煙を、今度は銀次の顔へ真っ直ぐに吹きかける。賭場の煙よりも、雪原の煙よりも濃く、重い紫の煙が漂う。

 

「――銀次。あたしの賭場で、あたしの振り方を、あたしの弟子に使わせた。それがどういうことか、分かってるよな」

 

 銀次は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ただ、煙の中で、細い目をゆっくりと瞬かせている。

 

「今夜、この部屋であんたが見たものは、何も無い。小梅の壺も、小梅の親父の借金の証文も、だ。――判ってるよな。判らないなら、二(・)度(・)と(・)何(・)も(・)見(・)ら(・)れ(・)な(・)い(・)よ(・)う(・)に(・)してやるよ」

 

 山如の声は、穏やかだった。煙管の雁首から上る煙も、少しも乱れていない。それでも、女苑は、壁にもたれたまま、思わず背を伸ばしていた。

 銀次は、懐から紙を一枚取り出した。小梅の父親の名の入った、借金の証文だ。それを、長火鉢の灰の上に置く。紙の端に、炭火の赤が、ゆっくりと広がっていった。

 

「――ふふ。それでは、金貸しの帳面は、会所の方で一度、拝見させていただきますねぇ。山の集落で金が曲がって流れているなら、それはもう賭場だけのお話じゃありませんので」

 

 典が台帳をパタンと閉じた。それから、初めて女苑の方を見た。前髪に隠れていない方の目が、女苑の指輪を一つずつ数えるように、ゆっくりと移っていく。

 

「――それと、人里の疫病神さん。金の流れが曲がっているのを、一目で嗅ぎ当てたと伺いましたけど」

「……それが何よ」

「いえ、ね?ただ、そういうお鼻をお持ちの方は、山では大変に重宝いたしますので。――また何かありましたら、お声を掛けさせていただきますねぇ」

「……タダじゃ使わせないわよ」

「さぁ、それはどうでしょうかねぇ?」

 

 典は狐の尾を一つだけ揺らして、銀次を伴って六畳間を出ていった。障子が閉まると、女苑は大きな溜め息を一つ吐いた。

 

「……何よあの狐。気味が悪いわね」

「山じゃ、あの狐に目を付けられたら、おしまいだよ。……良くも悪くも、ね」

 

――山如は煙管を長火鉢の縁でコツンと叩いた。

 畳の上には、まだ女苑の木札の山が崩れたまま散らばっている。その横に、銀次の財布から出てきた、若旦那の仕入れの金の包みが一つ置かれている。山如はその包みを若旦那の前へ、扇子で押し出す。

 

「若旦那。これは、あんたが失くした分だ。――それから、こっちは……」

 

 山如の扇子が、木札の山の上で止まった。

 女苑はその扇子の先をじっと見ていた。それからサングラスを頭から下ろして、指でトントンと叩く。

 

――賭場の掟。『イカサマの壺で動いた金は、一文残らず場に返す』

 

――だったら、場に返せばいい。

 

「……分かったわよ。場に返せばいいんでしょう。――ただし、返し方は私が決めるわ」

 

~駒草集会所 表の広間~

 

――表の広間では、まだ夜の酒が続いていた。

 山如の奢りの一杯が二杯に、三杯になり、賭場を追い出された客達は、そのまま広間に居着いていた。鴉天狗は卓に顎を乗せて不貞腐れている。河童の娘は、空の財布を逆さにして振っている。山童の若い衆は、酒よりも湯を飲んでいた。

 

 その広間の真ん中の卓の上に、女苑がヒョイと飛び乗った。

 指輪だらけの手に、木札の山を抱えている。それを卓の上から、帳場の交換の箱へ一枚残らず放り込んだ。カラカラと、木札が箱の底を叩く音が広間に響く。客達が何事かとその卓を見上げる。

 

「――今夜の勘定は全部、私持ちよ!飲んで食って、好きなだけ使いなさい!」

 

 一拍広間が静まり返った。それから、誰かが「おおっ!」と声を上げた。その声が広間の端から端まで波のように広がっていく。不貞腐れていた鴉天狗が、一番先に盃を突き出した。

 女苑は卓の上からその盃に酒を注いでやりながら、ニッコリと笑った。

 

「――さっきは悪かったわね、天狗の旦那。私、取り憑いてないわよ。――これは、ただの大盤振舞」

 

 帳場の奥から山如がその様子を眺めていた。その後ろで小梅が、女苑から渡された包みを両手で抱えている。父親の借金を、会所の狐を通して筋を通して片付けるための金だ。女苑は『銀次に返すんじゃないわよ。狐に預けなさい』とだけ言って、小梅の礼も聞かずに広間へ出ていった。

 

「……姐さん。あの人、勝った分、一晩で全部使っちゃうんですね」

「ああ。――それでいいのさ。不義理で取った金ってのは、場に返すのが一番いい。曲がって流れたもんは、一度みんなの腹の中を通してやりゃ、またまっすぐに流れるもんだよ」

 

 山如は煙管を一服吸う。広間の天井へ吹き上げた煙は、今度は薄紫でも、濃い紫でもない。ただの、甘い煙草の煙だ。

――広間の隅で若旦那が女苑の袖を引いた。

 湯を一杯飲まされ、頬にようやく血の色が戻っている。それでも、その目は、まだ雪原の月明かりを見ているようだった。

 

「……依神さん。俺、親父に何て言えば……」

「雪山草は、三日後に哨戒班と一緒に採りに行くの。仕入れの金はちゃんとある。依頼料は満額。――それだけ言えばいいのよ」

「……賭場のことは」

「そんなの私は知らないわよ。――護衛の依頼には、若旦那の博打の見張りは入ってなかったもの」

 

 若旦那はしばらく黙っていた。それから、もう一つだけ尋ねた。

 

「……じゃあ、どうして雪の中まで来てくれたんですか」

「――依頼人の息子に死なれたら、依頼料が取れないじゃない。……それだけよ」

 

 女苑は若旦那の手に盃を押し付けて、酒を並々と注ぐ。若旦那が何か言いかけるのを、その盃で塞ぐように。そして、次の卓の天狗に大きな声で何かを言い返していた。

 

――その夜、駒草集会所の灯りは、夜明け近くまで消えなかった。

 若旦那は、仕入れの金の包みを懐に押し込んだまま、広間の隅で丸くなって眠っていた。今度は、バギィに眠らされたのではない。天狗達に五杯飲まされただけだ。

 東の空が白む頃、女苑は、空になった財布を逆さにして、一度だけ振った。何も落ちてこない。人里で阿求から受け取る三回払いの一回目は、そういえば、山へ登る前の夜に、もう使い切っていた。

 

「……上の部屋、一つ空いてるよ。――一番安い部屋だけどね」

 

 山如が帳場の奥から声を掛けた。女苑は卓に顎を乗せたまま、しばらく黙っていた。それから、狩りの後の疲れた体をゆっくりと起こす。

 

「……今日はそれでいいわ」

 

 そう言って、女苑は階段を上っていった。その背の小さな盾に窓から入る雪明かりが、うっすらと赤く映っていた。

 




『駒草山如』
所属:守矢ギルド(契約による民間の運営者)
役職:《駒草集会所》管理役。山の賭場の胴元
武器:煙霞笛『駒草遊戯』(狩猟笛)
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