東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪山岳狩猟会所 奥の間~
――その部屋の壁は、一面地図で埋まっていた。
『妖怪の山』の地図だ。尾根と沢、天狗の里と河童の工房、山童の集落と商隊の荷道。その上に、哨戒班の巡る道が赤で、空路が青で引かれ、北の端の『氷霧連峰』の根元には、新しい墨で『入山時、哨戒班の同行を要す』と書き足されている。山の腹には、細い線が、葉脈のように枝分かれして広がっていた。『虹龍洞』の坑道だ。
――その地図の前の文机で、一人の少女が帳面を繰っていた。
紺から黒へと滲む、長い髪。白い縫い目の入った青い頭巾。その下の瞳は、深い紅。紺の長い衣の上から、梵天の付いた黒いマントを羽織り、金色の肩掛けには、青い宝石のようなものが光っている。腰には細いガラスの管が一本。文机の脇には、何も載せていない三脚が一つ、部屋の角に立て掛けてある。
守矢ギルドの
神奈子が"決める者"なら、龍はその決めたことを、山の隣々まで届く形に落とし込む者だ。哨戒班の人の割り振り、空路と連絡の網、商隊の通り道。そして――虹龍洞の帳面。
今、龍が繰っているのはその帳面だった。虹龍洞で掘られた虹龍石を、天狗側の取り分と、坑の主の取り分に分けて付けたもの。字は大きく、数字はたまに書き間違えては上から塗り潰してある。それでも、数が合わなかったことは一度もない。
「……十日で、先月の半分か。初雪が早かった分、坑夫が坑に籠もって稼いでるとは思ったんだけどね」
龍は帳面を閉じて、文机の端の書付の束を引き寄せた。典が今朝、障子の奥へ差し入れたのと同じ写しだ。
人里の中央会館から回ってきた、白い竜に関する報告の写し。
山の西の裾野を北へ滑っていった『ベリオロス』の動静の監視の引き継ぎ。
『駒草集会所』の金貸しの帳面。中腹の雪原まで下りてきたバギィの群れ。
早すぎる初雪。北の尾根の嵐。
――そして、山の誰にも見せないようにと、神奈子が障子の奥に仕舞った、一枚の錆びた鱗。
山のモンスターは皆、どこかから押し出されている。
龍は書付の束を、一枚ずつ地図の上の場所と照らし合わせていく。紅い瞳が、地図の北の端でしばらく止まる。
「――典。この書付の話は、まだ文には漏れてないだろうね?」
部屋の際に控えていた典が、狐の尾を一つだけ揺らす。
「えぇ。文さんは、今は人里の紅い館の方の話を追いかけていらっしゃいますよ。――山のことは、とかく、一番近い所が一番見えないものですねぇ」
「それでいい。山のことは、山の中で片付けるものだよ。――片付くものなら、ね」
龍はそう言って、書付の束を文机の引き出しに仕舞った。
――天狗の新聞は、山の風を書く。それは山にとって大事なことだと、龍は知っている。だが、書かれた風は山の外へも吹いていく。人里へ、紅い館へ、地の底へ、そして――賢者の元へ。山のことを山の中で片付けられる内は、風は吹かせない方がいい。
――大天狗が、天狗の新聞よりも先に知っていることが、山にはいくつかある。その一つ一つを、龍は、この部屋の引き出しに仕舞ってきた。
――廊下を、重い足音が駆けてきた。
帳場の前を素通りし、引き止める白狼天狗の声も振り切って、およそ会所の者なら誰も勝手には開けないこの部屋の障子を、その足音の主は引き開けた。
山童の男だった。顔も腕も、鼻の穴の中まで、灰色の岩の粉にまみれている。腰には、虹龍洞の坑夫の印の、七色の紐を締めた入坑札を下げていた。
「――大天狗様!虹龍洞の第三坑で、天井が落ちました!」
典の尾がピタリと止まる。
龍は、立ち上がらなかった。文机に両手を置いたまま、坑夫の顔をまっすぐに見る。
「――落ちたのは、三坑のどこだ。入り口から何間か。奥に残ってるのは何人だ」
「……さ、三坑の、二つ目の柱の先です。入り口から、八十間。奥に、六人。――壁を叩く音が、十二回。六人とも、生きてる合図です」
「百々世は」
「姐御は、もう掘ってます。俺ら全員を坑口より外へ出して、一人で。――姐御が、大天狗様に伝えろって。『柱が、かじられてた』って」
龍の紅い瞳が、わずかに細くなる。
――坑の柱をかじるもの。それが何を意味するのかを、龍は知っていた。数年前のある夜にも、同じ言葉を、同じ坑夫の口から聞いたことがある。
龍は立ち上がる。そして、部屋の奥の壁の前で、一度だけ足を止めた。
――そこには、一振りの槌が掛かっていた。
黒銀の槌頭は、轟音と共に空を裂く彗星の龍の甲殻を張り合わせたもの。槌頭の後ろには、翼の付け根を写した三本の脚のような飾りが突き出していて、それが何も載せていないあの三脚とよく似た形をしている。槌頭の表には、星図のような細い線が刻まれ、その線の後を追うように、赤い光が、息をするようにゆっくりと明滅していた。――天彗槌『星天鉄架』。
龍が自らこの槌を担いで現場に出るのは、山での単なる大事ではない――と、山の者は皆知っている。そして、その槌が虹龍洞へ降りたのは、これまででたった一度きりだった。
「……龍様。百々世さんは、あの時、坑口で待ってろと仰ったそうですけどねぇ」
「だから、今度も坑口で待つよ。――待つのに、素手で待つ理由は無いでしょ?」
龍は槌を壁から下ろし、腰に負う。槌頭が肩の上で黒いマントの梵天を揺らす。それから、一筆だけ書付を書いて、典の方へ放った。
「――典。にとりの工房に、坑の送風機を三台と、救難用の空気袋をあるだけ用意させな。哨戒班には、虹龍洞の坑口から三町、人を入れるなと伝えな。――それと、障子の奥には『坑で落盤、龍が出た』とだけ。それで、伝わるよ」
「……それで、伝わりすぎますよぉ」
典は投げられた書付を片手で捕まえて、狐の尾を羽織りのように翻す。龍は既に廊下へ出ていた。灰まみれの坑夫が、その後を転がるように追いかけていく。
~虹龍洞 坑口~
――坑口の前の選り分け場には、坑夫達が黒い塊になって座り込んでいた。
山童や山の妖怪。十五、六人はいる。皆、岩の粉で灰色になって、一言も喋らずに、山の腹に空いた黒い口を見つめている。坑口の上には、七色の紐を締めた注連縄が張られていた。その縄が、坑の奥から吹き出してくる温い風に、微かに揺れている。
――初雪の後の山の風ではなかった。坑の奥から来る風は、冬でも温い。それはこの坑では当たり前のことだと、坑夫達は知っている。だが、今朝の風は、それにしても少し温すぎた。
龍が坑口に着いた時、坑の中から一人の女が、岩の塊を抱えて出てきたところだった。
灰色がかった水色の、ぼさぼさの長い髪。その髪にも、暗い色の服にも、岩の粉が真っ白に積もっている。腕と脚には、橙色のリボンが幾つも結ばれ、腰には緑の鎖が揺れている。袖と襟とズボンの裾には、緑の輪が通してある。腰の鎖には、許可札の束と、手垂れで黒ずんだ帳面が揺れていた。足は、裸足だった。脛当てはしているが、足の裏と甲だけが、岩をそのまま踏んでいる。
背には、一振りの大きな斧を負っていた。否――斧というより、巨大なツルハシに近い。鈍い金色の甲殻を削り出した頭に、ところどころ、虹色の欠片が埋まっている。柄には緑の輪が等しい間を空けてはめられ、その輪に橙色の短い紐が何十本も結ばれていた。歩くたびにその紐が揺れて、大きな百足の足のように見える。
虹龍洞の管理人にして、坑夫を率いる採掘頭――『姫虫百々世』は抱えてきた岩の塊を、選り分け場の台の上にドサリと置いた。それから、龍の背の槌を見て、粉だらけの眉を大きく顰める。
「……お前、何で槌なんか担いでんだ。坑口で待ってろって、前にも言っただろうが」
「だから、坑口で待ってるよ。――待つのに、素手で待つ理由は無いでしょ?」
「……ちっ。口の減らない天狗だ」
「――それで、今日も私を食べずに済んでるかい。百々世」
「珠が足りてるうちはな。――今日は、少しばかり腹が減ってるけどよ」
坑夫達は、そのやり取りを聞いても笑わなかった。いつもなら、誰か一人は笑う挨拶だ。百々世の声はいつもより少し低く、龍の声はいつもより少しだけゆっくりだった。
龍は台の上の岩の塊を覗き込んだ。
坑の柱の欠片だった。坑道の天井を支えるために、掘り残しておく岩盤の柱。その表面が、大きく抉られていた。穴を穿つように叩き割られたのではない。幅の広いものが、岩の表を少しずつ削り取っていったような、浅く、広い、幾重にも重なった跡だ。その削り跡には、横に並んだ、太く短い溝――歯の跡がある。
「――これが、二つ目の柱の根元だ。昨日の夕方には、何も無かった。それが一晩で、三分の一やられてた。それで今朝、坑夫が三坑に入って、鉄槌を一つ振っただけで、上から落ちた」
「……爆鎚竜じゃないね。あれの顎なら、柱ごと粉にしてる」
「あぁ。――それに、味が違う」
百々世は柱の欠片の角を、そのまま口へ運んだ。
ガリッ――と硬い音がして、岩の角が欠ける。百々世はそれを飴玉でも舐めるように、口の中でしばらく転がす。坑夫達は誰もそれを気にしない。
――百々世は、岩を歯で目利きする。坑では当たり前のことだった。
「……鉄だけが抜かれてる。岩の中の一番旨いところだけ、舌で舐め取ったみてぇにな。――甲殻を作ってる途中の、若い奴の食い方だ」
「若い……ね。岩に化ける、アレかい」
「多分な。この温い風も、ソイツのせいだろうよ。――三坑の奥は古い坑で、最深部の割れ目に繋がってる。そこの熱い層から、何かが上がって来やがったんだ」
龍は紅い瞳で、坑口の黒い口を見やる。そして、坑の奥から吹いてくる温い風に、微かにツンと鼻を刺す、硫黄のような匂いが混じっていることに気付いた。
「……六人は、崩れた天井の向こうだね。そいつも、向こう側だ」
「あぁ。坑夫達が最後に叩いた合図は、『全員無事、空気が薄い』。――それと、もう一つ。『岩が、動いた』だ」
選り分け場の坑夫達が息を呑んだ。
百々世は、もう一つ岩の欠片を噛み砕いてから、粉を台の上に吐き出す。
「真っ直ぐに掘れば、半日で届く。だが、崩れた岩を鉄槌で叩き続ける音は、奥の奴を叩き起こす。それに、崩れた岩を下手に動かすと、残ってる三つ目の柱まで持って行かれる。――山の重さは、一番弱った所へ流れるもんだ」
「じゃあ、どうするんだい」
「横から入る。三坑の脇に、二十年前に掘りかけて、途中で止めた古い坑がある。そいつを三間だけ掘り進めれば、崩れた天井の向こうに出る。――ただし、一人しか通れねぇ細さだ」
百々世は、腰の鎖から帳面を外して、龍の前で開く。坑道の図だ。枝分かれした細い線が、幾重にも重なっている。会所の地図の坑道よりも、ずっと細かい。この図を持っているのは、幻想郷で百々世と龍の二人だけだ。
龍はその図を、一目だけ見た。紅い瞳が、線と線の交わる点を、一つずつ辿っていく。夜空の星を結んで星座を読むのと、同じ目の使い方だった。
「――三坑の脇の古い坑から入ると、六人の居る所より、少し奥に出るね。奥の奴の、手前だ。――出たら、六人と奥の奴の間に、お前が立つことになる」
「あぁ。ちょうどいいだろ」
「……ちょうどいい、じゃないよ。坑の中でガスを吐かれたら、六人もお前も終わりだ。……それでも、行くんだろうが」
「当たり前だ。――洞の中は、俺の縄張りだ」
百々世は帳面を閉じて、鎖に掛け直す。それから、選り分け場の坑夫達を、一人ずつ見て回る。
「いいか。俺が古い坑を抜けたら、六人を一人ずつ押し出す。お前らは、坑のこっち側で、縄を引いて受け取れ。――縄が一度だけ引かれたら、それは合図じゃねえ。引くのをやめて、坑口から外へ出ろ」
「……姐御は。その時は、姐御はどうするんですか」
「俺は、奥の奴と遊ぶ。――それだけだ」
百々世は粉だらけの顔で、ニイッと尖った歯を見せた。坑夫達は、その笑い方を知っている。強い相手を前にした時の、姐御の笑い方だ。
――その時、坑の奥から、微かな音が届いた。
コツン、コツン――間を置いて、もう一度。坑夫が岩を叩く、生きている合図だ。
――だが、十二回ではなかった。十回だった。
選り分け場が静まり返った。百々世の笑いが、少しだけ引く。それから、背の斧の柄に片手を掛ける。
「――龍。空気を入れろ。にとりの奴の送風機が届いたら、古い坑の口から俺の後を追わせろ」
「わかったよ。――百々世」
「何だ」
龍は一拍だけ黙った。それから、背の槌の柄を片手で一度だけ叩く。
「……坑口で、待ってるよ」
百々世は返事をしなかった。ただ、裸足で坑口の岩を踏んで、暖簾でもくぐるように注連縄の下を潜っていった。その背の斧に結ばれた橙色の紐が、闇の中で、何十本もの百足の足のように揺れて――消えた。
――河童の送風機が坑口に着いたのは、それから四半刻も経たない内だった。
山の斜面を、三台の荷車が、轅を軜ませながら上ってくる。荷台には、輪のような羽根を内に抱えた大きな鉄の筒。その後ろに、蛇を丸めたような長い管の束。先頭の荷車を押しているのは、緑の帽子に大きなリュックサックを背負う河童――にとりだった。
「――お待たせ、大天狗様!坑用の送風機三台、空気袋、あるだけだよ。――で、百々世は?」
「中だよ。三坑の脇の古い坑から、一人で。――にとり、風はどこまで届く」
「管を全部繋いで、八十間ちょっと。古い坑なら、奥まで届くよ。――ただ、三台とも同じ坑に向けると、奥で風が大きくなりすぎて、崩れた岩の粉を全部吹き上げちゃう。だから二台を古い坑、一台は坑口の換気だね」
にとりはそう言いながら、もう荷台の鉄の筒の脚を、坑口の岩に釘で打ち付け始めていた。龍は、百々世の坑道の図を思い出しながら、古い坑の口の位置を指で一つ指す。管の束が坑夫達の手で解かれ、坑口の闇の中へ、蛇のように這い込んでいく。
やがて、鉄の筒の中の羽根が、ブゥンと低い音を立てて回り始めた。山の冷たい空気が、管の口から坑の奥へと吸い込まれていく。
「……それにしても、大天狗様が槌を担いでるの、二度目だね。一度目は、七巻半の素材の夜だったっけ」
「……よく覚えてるね。あの夜も、私は坑口で待ってたよ」
にとりは、釘を打つ手を一瞬だけ止めて、坑口の闇を見た。それから、何も言わずにまた釘を打ち始めた。
~虹龍洞 第三坑の脇の古い坑~
――古い坑の中は、人一人が、肩を縮めてようやく通れる細さだった。
二十年前、百々世が掘りかけて、岩の目が悪いと言って止めた坑だ。壁には、その時の百々世のツルハシの跡が、今よりも少し乱暴な角度でいくつも残っている。
百々世は腰に下げた小さな坑灯りを、一度だけ掛げて見た。火はまだ真っ直ぐに立っている。後ろからは、河童の送風機の長い管が、蛇のように岩の上を這って付いてきていた。管の口から、外の冷たい空気が絶え間なく背中を押してくる。坑口で龍が、にとりの工房から届いた送風機の口を、この坑へ向けさせたのだ。
前からは、温い風。
後ろからは、冷たい風。
その二つの風の境目で、百々世は、岩の壁にそっと掌を当てた。
裸足の裏から、山の微かな震えが伝わってくる。誰かの息のように、ゆっくりと、規則正しく。坑夫達の叩く合図よりもずっと低く、ずっと重い。
――山の腹の奥で、何かが寝息を立てている。
百々世は背の斧を下ろした。
細い坑の中では、振りかぶれない。斧を体の前で短く持ち、ツルハシの頭の先を、岩の一点へそっと当てる。それから、手首だけで置くように叩いた。
コツ――と小さな音がして、岩が一枚剥がれるように割れて落ちた。
――岩には
二十年前の百々世には、それが分からなかった。だから、この坑を止めたのだ。
コツ、コツ。一間、二間。
――その岩の向こうから、微かに、返事があった。
コツン。コツン――崩れた天井の向こうで、坑夫の誰かが、岩を叩いている。小さく、息を殺すように。百々世は掘る手を止めて、斧の柄の尻で岩を三つ、ゆっくりと叩き返す。
――『待ってろ。今行く』
この坑の坑夫なら、誰でも知っている合図だ。
向こうから、一つだけ、返事があった。
――『分かった』
それきり、叩く音は止んだ。止んだのではない。止めたのだ。岩の向こうに居るものを、起こさないように。
百々世はまた、置くように岩を叩き始めた。
――坑灯りの火が、少し細くなった。
入坑の決まりの二つ目――『灯りの火が細くなったら、理由を考えずに引き返す』
その決まりを作ったのは百々世自身だ。百々世は細くなった火を一瞬だけ見て、それから口の端で笑った。
「……決まりを作った奴が、決まりを破るのは、今日が初めてじゃねえよな」
――三間。
最後の一枚を剥がした瞬間、岩の向こうから、濁った温い空気が、ムワッと顔に吹き付けた。そして、その空気の向こうの闇の底から、掠れた声が届いた。
「……姐、御……?」
~虹龍洞 第三坑の奥~
――崩れた天井の向こうは、横に長い、低い穴だった。
坑の三つ目の柱と、四つ目の柱の間。その底に、六人の坑夫が肩を寄せ合ってうずくまっていた。皆、岩の粉で白く、一様に口を開けて、浅い息を繰り返している。
一人は、崩れた岩に脚を挟まれたらしく、仲間に抱えられたまま脛を押さえていた。
百々世は、穴の中を一度だけ見回した。
三つ目の柱は、根元が半分ほど削り取られて、砂時計のように細くなっている。四つ目の柱も、少し削られていた。そして――その四つ目の柱の根元に、大きな岩が一つ、蹲るように寄り掛かっていた。
灰色の、ゴツゴツとした岩だ。坑の壁の岩と、色も、肩の荒さも、何一つ変わらない。坑夫なら、誰もそれを不審には思わないだろう。ただ、その岩の周りの地面だけが、周りよりも一段、温かい。そして――その岩は、間を置いて、ほんの僅かに、膨らんでは萎んでいた。
「……姐御。岩が……動いたんです。天井が落ちる前も、後も……」
「分かってる。――声を落とせ。息も、浅くだ。一人ずつ、あっちの穴へ入れ。縄を掛んだら、外の連中が引いてくれる」
六人の中で一番年寄りの山童が、震える指で岩を指す。
――昨日の夕方、この穴にあんな岩は無かった。今朝、坑に入った時には、もうあった。岩が一つ増えているなど、坑夫なら誰も気にしない。大抵、些細な落盤の岩だと思うからだ。
――天井が落ちた後、闇の中で、その岩が、一度だけギシリと向きを変えた。年寄りの山童は、それからずっと、壁を叩く合図の音を、小さく、小さくしてきたのだという。十二回が十回になったのは、そのせいだった。
百々世は、その山童の肩を、一度だけ掴んだ。それが、姐御の『よくやった』だと、坑夫達は知っていた。
百々世は崩れた天井の岩の山と、件の岩の間にゆっくりと身を入れた。斧を短く握ったまま、岩の方を向く。
その背中で、一人目の坑夫が、腹這いになって古い坑へ這い込んでいく。縄が張り、引かれ、坑夫の足が闇の中へ消える。
二人目、三人目、四人目。
岩は、動かない。ただ、膨らんでは萎む。
五人目が、脚を挟まれた坑夫の肩を抱えて、古い坑の口まで引きずっていく。脚を挟まれた坑夫は、痛みを堪えて、歯を食いしばっていた。その体が、古い坑の口の岩の角に、少しだけ引っ掛かった。
「……っ、う、あっ……!」
堪えていた声が、一つだけ漏れた。
――岩の膨らみが、止まった。
岩の片端に、小さな眼が一つ開いた。
粒のように小さい。坑灯りの火を映して、そこだけが、濡れたように光っている。続いて、岩の形が崩れるように変わっていく。片方の端が持ち上がり、その下から太い脚が二本せり上がって地面を踏みしめる。背から、退化しかけた小さな翼が岩の片を振り落としながら、穴の天井を擦るほどに広がる。
――岩ではなかった。全身を岩のような甲殻で覆った、一頭の飛竜だった。その腹だけが、周りの甲殻よりも薄く、灰色の中に、熾火のような赤い筋が、幾つも透けて見えている。
「――行けっ!」
百々世は五人目と六人目を、古い坑の口へ二人まとめて肩で押し込んだ。縄が、狂ったように引かれ、二人の足が闇の中へ消える。
その背後で、バサルモスが頭を天井へ向けた。
咆哮が狭い穴の中で跳ね返る。壁から天井へ、天井から床へ。崩れた天井の岩の山から、小石がパラパラと転がり落ちる。百々世の耳の奥で何かが爆ぜて、それきり鳴り止まなくなった。
百々世は笑っていた。
「――喜び震えよ。山が、お前の墓場だ!」
百々世は斧を構えた。
鈍い金色の甲殻を削り出した、ツルハシの形の斧だ。爆鎚竜の下顎の先、鉱石を塗り固めてできた顎そのものを、そのまま頭にしている。岩盤も甲殻も、同じように砕く。この坑では、これで掘る。仕事道具と武器が、同じ一振りだった。――爆鎚剣斧『七巻半』。
バサルモスの腹の赤い筋が、息を吸うように、一方に明るくなった。
――腹から、紫のガスが噴き出した。
毒だ。重いガスが穴の底を這うように広がり、百々世の足元へ、古い坑の口へ、坑夫達が逃げていった方へと、流れ込もうとする。
――だが、古い坑の口からは、外の冷たい風が、絶え間なく吹き込んでいた。
龍が入れた風だ。紫のガスは、古い坑の口の手前で押し戻され、渦を巻いて、穴の奥へ、第三坑のさらに奥へと流れていく。
百々世は風上に立っていた。そのために、崩れた天井の岩の山と、古い坑の口の間に、自分を置いたのだ。
「……へっ。風の入れ方だけは、上手い天狗だ」
――バサルモスが、地面を蹴った。
狭い穴の中で、岩の塊が、頭を下げて真っ直ぐに突っ込んでくる。百々世は、横へ跳ばなかった。跳ぶ所が無い。代わりに、三つ目の柱の陰へ、半歩だけ身を入れた。
バサルモスの肩が、柱を掛める。
砂時計のように細くなった柱が、天井ごと軋んだ。穴中に、砂が雨のように降る。百々世の裸足の裏が、山の重さがどこへ流れようとしているのかを、一瞬で読み取った。
――まだ、保つ。後一度だけなら。
柱に肩をぶつけたバサルモスの体が、わずかに傾いていた。その下、岩のような甲殻の切れ目に、赤い筋の透けた腹が覗いている。
百々世は、斧を穴の底へ突き立てた。そして、柄を捻じるようにして一気に引き押しす。
ガシャン――!と重い音がして、ツルハシの頭が二つに割れるように開く。その内側から、爆鎚竜の背中の甲殻を張り合わせた幅の広い刃が、前へとせり出してくる。先の尖った、スコップの形。
――斧から剣へ。柄の緑の輪に結ばれた橙色の紐が、一斉に跳ねた。
「――狩符・採掘『マインブラスト』!」
剣の先が、腹の甲殻の切れ目に、穴を穿つように突き刺さった。
剣の根元で、液を詰めた小さな瓶が弾けるように鳴る。[滅龍ビン*2]だ。刃の内側を赤黒い光が、弓の弦を弾いたように駆け抜けていく。その光が、刃の先からバサルモスの腹の中へ、一点になって流れ込んだ。
岩のような甲殻に守られた竜にとって、それは、甲殻の内側で爆ぜた稲妻のようなものだった。腹の甲殻に、ピシリと罅が走る。その罅から、岩の表が剥がれ落ちて、下から、赤い肉が覗いた。
バサルモスが後ろへよろめいた。そして、上体を起こしながら、ゆっくりと向き直る。小さな目が、坑灯りの火を映して、さっきよりもずっと赤く光っている。
喉の奥から、煮えたたった岩のような、ゴボゴボという音が上がってくる。――怒り状態だ。
喉が、内側から赤く光り始めた。口の奥に、細い白い光の線が、一筋。
百々世は笑ったまま、剣を体の前に立てた。この狭い穴で、熱の線を吐かれたら、逃げ場は無い。
――だが、光の線は、口の端で、プスッと気の抜けた音を立てて、消えた。
口から灰色の煙がブスブスと漏れる。それだけだった。
「……はっ。まだ熱も吐けねぇか。岩にもなりきれてねぇ、まだ若いのだな」
バサルモスが頭を振る。そして、百々世に背を向け、崩れた天井の岩の山へ頭から突っ込んだ。
岩の山がドドド――と崩れる。その崩れた岩を、岩を食う竜は、顎と肩で掻き分けて越えていく。
坑夫達が半日掛けても叩き続けられなかった岩の山を、たった一拍で。
その向こうにあるのは、第三坑の本坑だ。真っ直ぐに、八十間。その先に――坑口がある。
「――龍!そっちへ行ったぞ!」
百々世の声が、本坑の闇を坑口の方へと駆けていく。その声を追うように百々世自身も、剣を斧に戻しながら、裸足で岩を蹴った。
~虹龍洞 坑口~
――百々世の声は、坑口まで届いていた。
その声よりも先に、坑口の岩が、足の裏から震えていた。重いものが、岩を蹴り、岩を掻き分け、本坑の闇の奥から、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
古い坑から引き出された六人の坑夫は、仲間達に抱えられて、選り分け場の端に寝かされていた。脚を挟まれた一人も、息はしっかりしている。周りの坑夫達が、一斉に坑口の方を振り返った。
「――選り分け場の裏へ下がれ。怪我人も一緒に。坑口の正面に、立つんじゃないよ」
龍は坑口の脇の岩の陰に、一人で立った。
腰に負った槌の柄を、両手で掴む。そして、肩越しに引き抜く。黒銀の槌頭が、頭上で弧を描いて、腰の高さで止まる。槌頭の表の星図のような線を、赤い光が、息をするように辿っていく。
龍は槌を構えたまま、息を一つ、深く吸った。腕に力を溜めていく。赤い光が、息に合わせて、少しずつ強くなる。空を裂くかの彗星の龍は、翼から赤い龍気を噴き出して、天の果てまで駆け上るという。その甲殻は、力を溜めて一度に放つためにある。
――坑口の注連縄が、内側から吹き飛んだ。
灰色の岩の塊が、坑口から転がるように飛び出してきた。その瞬間、坑口の前の雪の照り返しが、小さな目を真正面から打った。地の底の闇に慣れた目に、初雪の後の昼の光は、浴びせられた熱い湯のようなものだった。
バサルモスの頭が大きく下がる。脚が雪に取られてたたらを踏む。
龍は岩の陰から一歩、踏み出した。
溜めた力を、下がった頭へ。槌頭の赤い光が彗星の尾のように弧を引く。
岩を割る音が、山の斜面を谷の底まで転がり落ちていく。
バサルモスの頭の甲殻に、槌頭の形の穴が穿たれたように窪み、そこから岩の片が爆ぜ飛んだ。岩の塊が一歩、二歩とよろめき、雪の上に、横ざまに転がる。太い脚が、宙を掻く。小さな眼が、どこも見ていない。――眼を回しているのだ。
割れた腹の赤い肉に、雪が触れて、ジュウジュウと白い湯気が上がる。
選り分け場の裏から、坑夫達が息を止めてその様子を見ていた。
――大天狗が槌を担いで来るのは、山の普通の大事ではない。
その意味を、坑夫達は今日、初めて自分の目で見たのだった。
――そして、坑口から百々世が飛び出してきた。
裸足で雪を踏んで、横ざまに転がった岩の塊を見下ろし、それから、槌を下ろした龍を見た。粉だらけの顔を、大きく顰める。
「……お前なぁ。坑口で待ってろとは言ったがよ。坑口でぶん殴れとは、言ってねぇぞ」
「坑口で待ってたよ。――待ってたら、向こうから来たんだ。仕方ないでしょ?」
龍は槌を腰に負い直して、横たわったバサルモスを見下ろす。紅い瞳には、勝ち誇る色はない。帳面の数字を読む時と同じ、平らな目だった。
「――さて、百々世。狩るかい」
「いや。――坑の柱を食う奴は、坑に居なけりゃいい。こいつは、下の熱い層で岩を食ってる分には、誰にも迷惑を掛けちゃいねえんだ。――それにコイツは、もう少しで岩になりきる」
「岩になりきる、ねぇ……」
「熱を吐けるようになって、甲殻が分厚くなって、もっとでかい奴になる。――そいつをその内、齧ってみたいんだよ」
百々世はそう言ってニイッと笑う。龍は、何も言わなかった。ただ、選り分け場の台の方を顔で示した。台の上には、今朝までに掘り出された鉱石が、山になっている。鉄を多く含んだ、赤錆びた石だ。
「――じゃあ、餌で道を作ろうか。坑の中へ、奥へ、下へ。こいつが自分で帰りたくなるように」
「……それだけで、今月の取り分の半分は消えちまうぞ」
「帳面には私が付けておくよ。……天狗側の取り分から、だけどね」
百々世は一瞬だけ目を丸くした。それから、大きな声で笑った。坑夫達が今日初めて聞いた、姐御の笑い声だった。
――坑夫達は籠を抱え、坑の中へ鉱石を撒いていった。
坑口から本坑へ、本坑から第三坑へ、第三坑の崩れた岩の山の向こうへ。そして、そのさらに奥、古い坑が最深部の割れ目へと下りていく、温い風の吹き上がってくる坑へ。百々世が先頭に立ち、一間ごとに、一つずつ。
目を回していたバサルモスは、やがて、ゆっくりと起き上がった。雪の上で一度、身震いする。
割れた腹に付着した雪が冷たいのだろう。そして、坑口の奥から吹いてくる温い風と、その風に乗ってくる鉄の匂いの方へ、頭を向けた。
岩の塊が、坑の中へ一つ目の鉱石を齧りながら、戻っていった。
――その後を、百々世が、一人で追いかける。
半刻の後。
山の腹の奥で、一度だけ低い音が鳴った。
坑口から、粉の煙がモワリと吹き出した。そして――それきり、坑の奥から来ていた温い風が――ピタリと止まった。
しばらくして、粉の煙の中から百々世が歩いて出てきた。頭の天辺から裸足の先まで、さっきよりももう一段白くなっている。
「――古い坑の一番奥で塁いできた。あいつが割れ目へ下りていったのを見届けてから、岩の目に一つだけ刃を入れた。――落盤には、落盤で蓋をするもんだ」
「……三坑は、もう使えないね」
「あぁ。二十年前の俺が止めた坑を、今日の俺が掘って、今日の俺が塁いだ。――帳尻は、合ってるだろ」
――そこへ、山の上の方から狐の尾が下りてきた。
典だった。片手に、朱の判が押された書付を一枚携えている。哨戒班に張らせた三町の縄を、一人だけ気にも留めずにくぐってきたらしい。典は、粉だらけの百々世と、槌を負った龍を交互に見て小さく笑った。
「――障子の奥から、ですよぉ。
――『第三坑の閉鎖を認める。坑夫の怪我の手当は、会所の勘定で』
――それと、もう一つ。
――『龍には、槌を担いだ分だけ、今夜は早く寝ろと伝えろ』
……だ、そうですよ」
「……山の神は、全部お見通しか」
「全部ではございませんよぉ。私が、全部はお伝えしていませんので。――百々世さんも、お疲れ様でした。三坑の代わりの坑の話は、また会所でゆっくりと」
「お前の『ゆっくり』は、大抵俺の取り分が減る話だろうが」
「さぁ、それはどうでしょうかね?」
典は狐の尾を一つ揺らして、書付を龍の手に渡した。百々世は、粉だらけの顔で歯を剥いて典を睨む。典は、百々世にだけは大きな嘘をつかない。
――バレたら、食べられるが故に。
~虹龍洞 夜の坑口~
――その夜、坑口の前で、小さな焚き火が燃えていた。
坑夫達は皆、既に山の集落へ帰っている。脚を挟まれた一人は、仲間の背に負われて、崩れた天井の下で何時間も堪えていた声を、ようやく安心したように上げていた。駒草集会所からは、山如の使いの山童が、酒を一樽担いできて、坑口の前に置いていった。地上に出たがらない姐御には、坑口まで酒を届ける。それが、集会所の主の決まりだった。
焚き火の前に二人が座っていた。
百々世は、何かの岩の欠片を口の中で転がしている。バサルモスの割れた腹から剥がれ落ちた、甲殻の欠片だった。
「……熱いな」
「そりゃあ、岩を食う竜の腹だからね」
「そうじゃねえよ。――アイツが食ってた下の岩が、いつもより熱い味がするんだ。下の層が、少しずつ熱くなってる。だからアイツは、上へ上へと、涼しい所を探して上がって来たんだろうよ」
龍は焚き火の光の中で、百々世の横顔を見た。岩を歯で目利きする大百足は、岩の味で嘘をついたことがない。
――山のモンスターは、皆、どこかから押し出されている。
北からは、早すぎる冬に。
下からは、熱くなる層に。
龍は何も言わずに立ち上がり、坑口の脇に立て掛けていた、何も載せていない三脚を取る。それを、坑口の前の岩の上に立てた。三脚の先には、やはり何も載っていない。それでも、龍はその三脚の頭の上に、片目を当てるようにして、北の空を見上げた。
――山の夜空は、冬の星で埋まっていた。その星の一つ一つを、龍は名前で呼べる。山のどの尾根から、どの季節のどの刻限に、どの星が昇るのかも分かる。
「……百々世。北の空、見えるかい」
「俺は穴の底の生き物だぞ。空なんて、黒い天井にしか見えねえよ」
「――『氷霧連峰』の上に、
百々世は、口の中の岩を転がすのをやめた。
龍の紅い瞳は、北の峰の頭の上の一点を、まっすぐに見ている。そこだけ、星が無い。丸く、拳を一つ空へ突き出したほどの大きさで、夜空が塗り潰されたように黒い。
「……雲だろ。山の天辺には、冬はいつも雲が掛かってる」
「雲なら、流れるよ。それに今夜は、西から東へ風が吹いてる。周りの星の瞬き方で、分かるんだ。――なのに、あの黒い所だけは、日が暮れてから一度も動いてない」
焚き火がパチリと爆ぜた。
龍は、三脚から片目を離して、腰の帳面を開いた。坑の取り分の帳面ではない。書付の束を綴じた、会所の誰にも見せない方の帳面だ。その一番新しい頁に、龍は焚き火の光で一行だけ書き足した。
――『氷霧連峰の上空、星一つ分見えず。風に流れず』
そして、その下に、もう一行。
――『山のモンスター、北と下層より移動。方角、二つ』
百々世は、岩の欠片を噛もうとして、やめた。それから、山如の酒樽の蓋を拳で叩き割って、龍の前に、一杯注いで置く。
「――食うのは、今日もやめとく。その代わり、飲め」
「……ふふ。それはどうも」
二人は、しばらく黙って盃を傾けた。それから、百々世が、焚き火の向こうから、低く尋ねた。
「……なあ、龍。何で、槌を持ってきたんだ。俺は、坑口で待ってろって言ったぞ」
「――お前が『坑口で待ってろ』って言う時は、大抵、一人で奥に残るつもりの時だからね」
百々世は何も言い返さなかった。ただ、盃の酒を一息に干して、空になった盃を龍の盃にコツンと一度だけ当てた。
「……山で一番嫌われてる大百足に、山で一番偉い天狗が待ちぼうけかよ。山の連中が知ったら、笑うぞ」
「笑わせておきなよ。――それに、山で一番偉いのは私じゃない。
龍は帳面を閉じて、盃を取った。北の空の黒い一点は、二人が一樽を空けるまで、とうとう一度も動かなかった。
『飯綱丸龍』
所属:守矢ギルド(天狗社会・大天狗)
役職:山岳運営管理官(守矢ギルド・マネージャー)
武器:天彗槌『星天鉄架』(ハンマー)
防具:天彗装【星天魔】
『姫虫百々世』
所属:守矢ギルド(坑道専任の登録ハンター)
役職:虹龍洞の管理人・採掘頭
武器:爆鎚剣斧『七巻半』(スラッシュアックス)
防具:爆鎚装【龍殺】