東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第九話:封じが甘い鱗

~迷いの竹林 永遠亭 奥の離れ~

 

――その離れの障子は、冬でも閉め切られている。

 永遠亭の診療所の、さらに奥。竹の植え込みを一つ回り込んだ先に建つ小さな離れは、原因が分からない病と、危険な採取物を扱う時だけに使う部屋だ。兎達は用が無ければ近寄らず、仮に用があっても、縁側の手前で声を掛けて帰っていく。

――その離れの板の間に、白い布が一枚敷かれていた。布の上には黒い鱗が十二枚、等しい間を空けて並べられている。

 一枚一枚が掌ほどの大きさで、黒というより、光を吸い込むような黒紫だ。鱗の縁には細い毛のようなものが、獣の冬毛のように密に生えている。その毛の一本一本の根元には、煤のような粉が、薄く乾いて貼り付いている。

――[黒蝕竜の鱗*1]。

 『妖怪の山』の守矢ギルドから、今朝届いたものだ。木箱の蓋には守矢ギルドが承認した朱の判と、その下に細く柔らかい字で一行だけ添え書きがあった。

 

――『封じ込め済。確認をお願いします。 流雛観測所 鍵山雛』

 

 鱗の並んだ布の前に、一人の女性が膝をついていた。

 銀色の長い髪を、背で一本の太い三つ編みに編んでいる。服は、胸元から左右で赤と青に分かれ、スカートはその色を左右逆にして縫い合わせたもの。頭には、同じく赤と青に分かれた看護帽を載せ、その前には、赤い十字が一つ。肩から羽織った外套の裏地は、霞のように紫がかった灰色の、柔らかく鈍い光沢の竜の皮だった。腰の帯には、小さな薬瓶と、蓋付きの採取の容器が、幾つも下がっている。

 永遠亭の診療所の院長にして、月の頭脳と呼ばれた薬師――『八意永琳』。

 永琳は、布の脇に並べた小皿の一つを取り上げた。小皿には、薄い琥珀色の液が底が透けるほどに張ってある。永琳はそこへ竹の箸で鱗を一枚だけ摘まんで、そっと沈めた。

 鱗は沈んだまま動かない。

 縁の毛も、根元の粉も、そのまま。液の色も変わらない。永琳は小皿を光に透かして、しばらく見つめていた。そして、帳面に小さく丸を一つ付けて、次の鱗へ箸を伸ばす。

 二枚目、三枚目――丸が、一つずつ増えていく。

 

――[黒蝕竜の鱗]に残る粉は、病のもとだ。生きたまま残っていれば、この液の中で目を覚まして、粉が浮く。封じてあれば、浮かない。それだけを、十二枚、一枚ずつ確かめる。『永遠亭』が守矢ギルドから引き受けている仕事だった。

 

――そして十一枚目まで、丸が続いた。

 永琳は十二枚目の鱗を液に沈めた。

 ほんの少しの間、何も起きなかった。永琳の指が、帳面の上で丸を書こうとして――止まった。

 

――鱗の縁の毛の根元から、煤のような粉が一粒、剥がれた。

 

 粉は沈まなかった。液の中をユラリと昇っていく。一粒が二粒になり、二粒が十になって、小皿の水面の下で、黒い粉が細い煙のように渦を巻いた。その渦の芯が、ほんのわずかに紫に光る。

 

「……封じが、甘いわね」

 

 永琳はそれだけ呟いた。声は少しも荒れていない。ただ、言葉が短くなった。

 永琳は小皿に素早く蓋をして、蓋の上から別の薬を一滴垂らした。粉の渦が、すうっと沈んで、動かなくなる。それを見届けてから、帳面の十二枚目の欄に、丸ではなく、小さな黒い点を一つ打った。

 『黒蝕竜:ゴア・マガラ*2』の鱗粉に棲む病――[狂竜ウイルス*3]。

 ウイルスに取り付かれた竜は、暴れて、暴れて、止まらなくなる。人が取り付かれれば、体の中で病が育ち、傷の治りが阻害される。故に山の厄神様の武器に使われた鱗は、徹底的に病原を抜いて封じたものである。それがギルドの決まりで、以降見付かった鱗や甲殻の封じ込めを確かめるのが、永遠亭の役目だった。

 

――十二枚のうち、一枚。

 

 永琳は守矢の添え書きをもう一度見た。

 

――『封じ込め済』

 

 細く、柔らかく、迷いのない字だ。書いた者は、封じたと信じて書いている。

――廊下を、軽い足音が駆けてきた。

 

『師匠!』

 

 離れの縁側の手前で足音が止まった。障子の向こうから、聞き慣れた声が聞こえる。

 

『命蓮寺の救護所から、患者さんが一人、回されてきました。河童の行商の方です。……腕の傷が、塞がらないそうで』

 

 永琳は帳面を閉じた。

 

「――どれくらい、塞がらないの?」

『三日です。噛まれたのは三日前で、その日のうちに救護所で縫ったのに、縫(・)い(・)目(・)が(・)一(・)つ(・)も(・)寄(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)い(・)って。……それと、傷の縁が――黒(・)い(・)そうです。煤みたいに』

 

 永琳は蓋をした小皿を見下ろした。皿の底で、黒い粉が、まだ微かに紫を帯びている。

 

「……うどんげ。患者は、表の診療所じゃなくて、こっちの離れへ回して。それから、手袋と覆い布を二人分」

『えっ――は、はい!』

 

 足音が、来た時よりも速く遠ざかっていった。

 


~迷いの竹林 永遠亭 診療所の裏手~

 

――患者の河童は、戸板の担架の上で青い顔をしていた。

 年は若い。水色の髪に、緑の帽子。背に負っていた行商の荷は、救護所に置いてきたらしい。左の前腕に巻かれたサラシには赤ではなく、黒ずんだ茶色の染みが滲んでいた。

 担架の脇で、薄紫の長い髪の兎が、晒しの結び目を解いていた。頭の上の長い兎耳の、片方が少し折れている。黒い上着に、赤いネクタイ。白いシャツの袖を肘までまくって、手には離れから持ってきた薄い手袋を嵌めている。

 

――鈴仙が解いたサラシの下から、傷が出てきた。

 前腕の外側に、半月の形に並んだ、小さな歯の跡が幾つも残っている。縫い目は確かにある。だが――皮膚と皮膚が、少しも寄り合っていなかった。三日も経てば、普通は傷の縁が赤く盛り上がって、塞がろうとし始める。それが、まるで噛まれたその日のまま、時が止まったように開いている。

 

 そして――傷の縁には煤のような黒い粉が、薄く貼り付いていた。

 

「……自然免疫の治癒が、止まっているわね」

 

 永琳は手袋の指先で傷の縁に触れず、その少し上の皮膚を、そっと押した。河童が「ひっ」と息を呑む。

 鈴仙は担架の反対側から、河童の肩にそっと手を置いた。赤い瞳が河童の目を、ほんの一瞬だけ覗き込む。怖がって波立っている心の波を、指先で水面を撫でるように少しだけ整える。人や妖怪にしか届かない、月の兎の力だ。河童の肩の震えが、少しずつ静まっていく。

 

「……大丈夫よ。ここは、師匠の診療所だから」

「痛むのは、傷だけ? ――体が重いとか、熱っぽいとか、頭の中がざわざわするとか」

「……か、体は、重いです。三日前から、ずっと。荷を背負っても、いつもの半分も歩けなくて……」

「噛んだのは?」

「ル、ルドロスです。『玄武の沢』の、下流の淵で。……いつもは臆病な奴らで、こっちが筌を上げに行くと、さっと水に潜っちまうのに。――あの日は、一匹だけが真っ直ぐ向かってきて……」

 

 河童は、そこで一度言葉を切って身震いする。

 

「……眼が、変だったんです。濁ってて……紫(・)っ(・)ぽ(・)く(・)て(・)」

 

 鈴仙がサラシを持ったまま、永琳の顔を見た。

 永琳はすぐには何も言わなかった。

 

――玄武の沢の下流。妖怪の山の沢筋を、河童の集落と工房の脇を抜けて、ずっと下った先。そこには、山の厄神様の拠点がある。

――『流雛観測所』。今朝の木箱の、送り元だ。

 

「うどんげ。この患者は離れの奥の部屋へ移送して隔離。傷は焼かずに、私が作った青い札の洗い薬で洗って。サラシは一度使ったら、全部焼き捨てて。あなたの手袋もね」

「は、はい。……師匠、それって」

「――まだ、分からないわ」

 

 永琳はそう言って立ち上がる。――分からないことを分からないと言う時、永琳の声はいつも一番穏やかになる。

 

「分からないからこそ、見に行くの。現場でしか分からないことが、ありそうだから」

「……行くって、師匠が、ご自分で?」

「えぇ。――ついでに、あなたもね」

「ついでの方が、大きくないですか……?」

 

 鈴仙の兎耳が、へにゃりと萎れる。永琳はそれには答えずに、離れの奥の壁に掛けてあった、一張りの弓を下ろす。

 弓幹には、霞のように紫がかった灰色の竜の皮が、幾重にも巻き締められていた。握りの上下には、折れた角の欠片を削り出した飾りが一つずつ。弦を張った弓の背には、薬瓶を差すための小さな輪が、等しい間を空けて並んでいる。姿を消し、薬ばかりを盗んでいった霞の竜を、かつて永遠亭から追い払った時に残されたもので作った弓――幻霞弓『天香』。

 永琳はその弓を背に負い、腰の帯の薬瓶を、一本ずつ指で数えた。それから、蓋をした小皿を布で包んで、採取の容器の一つにそっと納めた。

 


 

~妖怪の山 玄武の沢下流 《流雛観測所》~

 

――沢の音が、ここまで来ると低くなる。

 妖怪の山の沢筋を、河童の集落と工房の脇を抜けて、さらに下った先。両岸の杉の根が水に張り出し、川幅が広がって流れが緩む辺りに、その小屋は建っていた。苔むした杉皮の屋根。軒先には何十もの紙の流し雛が、紐に吊るされて揺れている。川下へ流されたそれを、拾い集めて干したものだ。

 厄、呪物――原因の分からない事故を見張り、危ないものを人里から遠ざけておくための小屋――『流雛観測所』

 

 昼過ぎに、二人がその小屋の前の河原に降り立った時、小屋の主は、川の中に立っていた。

 浅瀬の真ん中で、クルリ、クルリと回っている。エメラルドのような緑の髪を胸の前で一本に束ね、頭には、フリルの付いた暗い赤のリボン。赤い、フリルの多いドレスの裾が、回るたびにふわりと膨らむ。スカートの左側には、厄の字を崩したような緑の渦の模様。足元の水が、彼女の回る向きに、小さな渦を巻いていた。背には、黒紫の大きな盾と、それに収めた片刃の剣。

 雛だった。

 雛は二人に気付いて、回るのをやめる。それから、浅瀬を歩いて岸へ上がり――二人の、ちょうど三歩手前で、足を止めた。

 

「――永遠亭の方ね。木箱は、もう着いたのかしら」

「ええ、今朝。十二枚、確かめたわ」

「……そう」

 

 雛はそれ以上、何も聞かなかった。――『永遠亭』の院長がわざわざ竹林を出て、山の沢の下流まで来た。それだけで、答えは分かったのだろう。

 

「――何(・)枚(・)だ(・)っ(・)た(・)の(・)?」

「――一枚よ」

 

 雛は答えを聞いて目を伏せた。川の風が軒先の流し雛を一斉に鳴らす。

 鈴仙は師の半歩後ろで、そっと兎耳を伏せていた。――厄神様に近付くと、厄が移る。人里でも山でも、誰もがそう言う。だが永琳は、三歩の間合いを気にした様子もなく、雛に向かってそのまま一歩踏み出し、雛の方が慌てて一歩下がる。

 

「……近付くと、厄が移るわよ」

「厄は薬では落とせないもの。気にしても仕方がないわ。――それより、封じに使った桶を見せてもらえるかしら」

 

――封じの桶は、小屋の裏手の岩陰に据えてあった。

 人が一人膝を抱えて入れるほどの、大きな木の桶だ。蓋には『守矢神社』で作られた朱の札が貼られ、桶の脇の棚には、干し終えた黒蝕竜の鱗が、布に包まれて並んでいる。岩陰の地面には、浅く掘った穴が一つ。使い終えた液を捨てるための、隔離用の廃棄穴だ。

 雛は帳面を開いて、三歩離れた所から読み上げた。

 

「――永遠亭(そちら)から貰った書付通りにやったわ。[黒蝕竜の鱗]は、まず沸かした湯でよく洗って、毛の根元の粉を落とす。それから、永遠亭(そちら)から届いた封じ用の薬を、沢の水で百倍に割った液に、七日浸ける。七日経ったら、引き上げて三日間日に干す。干し終えたら、十二枚に一枚の割りで永遠亭へ送って、確かめてもらう」

「今度の分は、いつ浸けたの?」

「初雪の三日前。引き上げたのは、初雪の四日後よ」

 

 永琳は桶の蓋の札を剥がさずに、桶の外側に、掌を当てた。それから、桶の脇の岩に溜まった水溜まりに、指先を浸す。

――見ている鈴仙にも分かるほど、冷たかった。

 初雪の後に汲まれた山の沢の水だ。朝には、岩の水溜まりの縁に、薄い氷が張る。桶の中の液も、きっと同じだったろう。

 

「……浸けている間に、液が凍ったことは?」

「凍ってはいないわ。……でも、朝、桶の縁に薄く氷が張っていたことは、二度あったわね。割って、そのままにしたの」

 

 永琳はしばらく黙って、自分の指先を見ていた。

――雛に送った薬は、温(・)度(・)で(・)薬(・)効(・)が(・)変(・)わ(・)る(・)。温い時には七日で行き渡る薬が、冷(・)た(・)い(・)水(・)の(・)中(・)で(・)は(・)半(・)分(・)も(・)働(・)か(・)な(・)い(・)ことがある。粉の芯まで届かずに、表だけを封じて止まってしまう。外から見れば、封じたものと何も変わらない。

――そして、その書付を書いたのは夏の頃だった。

 

「……薬効について書き損じたのは、私の方ね」

 

 永琳は静かに言った。

 

「あの書付には、冬の水のことを、一行も書いていなかった。低温の水では、七日では足りないの。――あなたは、書付通りに封じただけ」

「その書付通りに封じて、確かめずに『封じ済み』と書いたのは、私よ」

 

 雛は首を振った。その声は、いつものように柔らかかった。だが、帳面を持つ指が少しだけ白くなっている。

 

「確かめてもらう為に送るのに、送る前から、封じたと書いたわ。――厄神様が、自分の厄を見落としたのよ。笑い話にもならないわね」

「師匠も、雛さんも、どっちが悪いって話じゃ――」

 

 鈴仙が思わず口を挟みかけて、師の目線に止められた。

 

「どちらが悪いかは、後でいいわ。――今は、漏(・)れ(・)出(・)た(・)も(・)の(・)が(・)ど(・)こ(・)へ(・)行(・)っ(・)た(・)か、よ」

 

 永琳は岩陰の隔離の穴を見下ろした。浅い穴の底は乾いて黒ずんでいる。

 

「使い終えた液は、この穴へ?」

「ええ。穴に捨てて、上から灰を撒いて、土を被せる。……でも」

 

 雛は穴の向こう、岩の切れ目を見た。岩の切れ目の先は斜めに下って、沢の下流の淵へ続いている。

 

「初雪の解け水が、二日続けて、岩の上を流れたの。五日前と、四日前。――朝に見た時、穴の土が半分流されていたわ」

 

 鈴仙の兎耳がピンと立った。

――穴(・)の(・)液(・)は(・)淵(・)へ(・)流(・)れ(・)た(・)。封じきれていない粉を抱えた液が、冬の解け水と一緒に。そして三日前、その淵で、河童の行商がルドロスに噛まれた。

 雛は淵の方を見たまま続ける。

 

「……この五日、淵の周りで事故が続いていたの。河童の筌が三つ破られて、網を上げに来た子が二人、岩で足を滑らせた。淵の水を汲みに来た山童の子は、桶を落として流された。――私は、それを厄によるものだと思ったの。淵に厄が溜まっているんだと。だから毎晩、淵の上で回って、集めていたのよ」

「それで、集まった?」

「えぇ、予想通りに集まったわ。……集めても、集めても、次(・)の(・)朝(・)に(・)は(・)ま(・)た(・)溜(・)ま(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)けれど」

 

 雛はそこでフッと息を吐いた。

 

「――厄じゃなかったのね。厄なら、集めれば減るはずだもの」

 

 永琳は小さく頷いた。それから、腰の帯の採取の容器を一つ外し、鈴仙に渡した。

 

「うどんげ。淵の水を、三か所から汲んで。岸寄りと、真ん中と、流れ出し。それから――淵へ下りる前に、これを一粒ずつ」

 

 永琳が掌に転がしたのは、小さな青い実だった。皮は固く、表に白い筋が三本走っている。

 

「[ウチケシの実*4]よ。黒い粉が――ウイルスが体に付いても、病が育ち切る前なら、打ち消してくれる。――育ち切ってしまったら、もう効かないけれどね」

 

 雛は三歩向こうから青い実を一粒、指で受け取った。それから背の盾の縁を、もう片方の手でそっと撫でる。

 黒紫の盾。黒蝕竜の鱗を幾重にも張り合わせ、表には、雛の裾と同じ緑の渦の模様が刻まれている。今、桶の脇で干されている鱗と、同じ竜の鱗だ。

 

「――この盾の鱗は、確かめてもらったものよ。何年も前に。……だから、この盾で行くわ」

 


~妖怪の山 玄武の沢下流 下の淵~

 

――淵は、観測所から沢を二町ほど下った所にあった。

 小さな滝が岩の段を一つ落ちて、その下に深い緑の水を湛えている。淵の周りは、苔の付いた大きな岩と、杉の根と、冬枯れの葦。河童達が魚を獲るための筌が、岸の岩の間に幾つも沈めてあるはずの場所だった。

 

――その筌が、岸に打ち上げられていた。

 竹で編んだ口が、内側から食い破られている。数は三つ。雛が言ったとおりだった。岸の岩には、何かが這いずった跡が、ぬめった筋になって残っている。筋の上には、薄く紫がかった粘り気のある水が、乾ききらずに光っていた。

 鈴仙はその筋の脇にしゃがみ込んだ。

 這いずった跡の幅は、両手を広げたほど。筋の両側には、爪が岩を掻いた白い傷が、四つずつ等しい間を空けて並んでいる。筋の真ん中には、濡れた布を押し付けたような、網の目の形の跡が、点々と残っていた。水を含んだ鬣が、岩に擦れて付けた跡だ。

 岸の杉の根元では、樹皮が鈴仙の胸の高さで帯のように剥がれていた。大きな体が、横ざまに転がりながらぶつかった跡。その剥がれた樹皮にも、網の目の跡と、紫がかった粘りが付いている。

 そして――跡は、どこへも行っていなかった。

 滝壺から岸へ上がり、岸の岩を這い、杉にぶつかって、また滝壺へ戻る。その輪が、幾重にも重なっている。古い跡の上に新しい跡、その上に、もっと新しい跡。休んだ跡も、獲物を食べた跡も、寝床へ帰った跡も無い。ただ、同じ輪を、グルグルと回り続けている。

 

「……落ち着く場所が、無いみたい」

 

 鈴仙は思わずそう呟いて、自分の言葉に、少しだけ背筋が冷えた。

 鈴仙は口の中で[ウチケシの実]を噛み潰しながら、顔を顰めた。

――苦い。舌の奥まで痺れるほど苦い。師が渡すものはいつも、覿面に効く代わりに苦い。

 鈴仙は、背に負ったライトボウガンの位置を直してから、岸の岩の間に屈み込んだ。

 黒と濃い紫の竜の毛皮を張った、身軽なボウガン。銃身の両脇には、薄く研いだ刃翼の板が沿い、照準の周りには、赤い残光のような細い飾り。竹林の夜に棲む黒い竜の素材から組んだ、鈴仙の軽弩――月兎軽弩『狂視』が背中で揺れる。

 鈴仙は採取の容器の蓋を開け、岸寄りの水を一つ汲んだ。それから、岩伝いに淵の真ん中へ跳んで、もう一つ。最後に、淵の水が下へ流れ出す口で、三つ目。

 三つ目を汲んで振り返った時、鈴仙の足が止まった。

 流れ出しの浅瀬の、砂利の上。そこに――一頭の小さな竜が、横たわっていた。

 

「……師匠!」

 

――ルドロスだった。

 人の背丈ほどの、細身の竜。黄土色の滑らかな体に、頭から首にかけて、黄色い海綿のような鬣が付いている。淵の主の群れに加わる、雌の個体だ。普段は群れごと水の中に身を潜め、人が近付けば、音も無く深みへ潜っていく。

 そのルドロスの鬣が、カラカラに乾いていた。

 水の中に棲む竜の鬣は、いつも水を含んで、しっとりと重い。それが、枯れた茸のように縮んでひび割れている。開いたままの口の端には、黒い粉がこびり付いていた。そして、命の気配が無い薄く開いた目は――濁(・)っ(・)た(・)紫(・)だった。

 永琳は手袋を嵌め直して、ルドロスの傍に膝をついた。雛は、三歩離れた岩の上に立って、黙ってそれを見ていた。

 

「……病に、負けた子ね」

 

 永琳はルドロスの口の端の粉を、竹の箆で掻き取って、小さな容器に納めた。それから、鬣の付け根を指で押して確かめる。

 

「暴れて、暴れて、自分の体の水が無くなるまで暴れたのよ。水棲の竜は、溜めた水分を消費して乾くと疲れる。でも――それだけ疲れても、病が休ませてくれなかったの」

「師匠、この子が、あの患者さんを……?」

「かもしれないし、違うかもしれないわ。――群れは、一頭だけじゃないもの」

 

 永琳は掻き取った粉の容器を、光に透かして、しばらく見ていた。何かを言いかけて、やめたようにも見えた。それから、容器の蓋を閉めて、腰の帯の一番奥へ納めた。

 鈴仙は汲んだ三つの水を、師匠の前に並べた。永琳が、離れで使ったものと同じ琥珀色の液を、一滴ずつ垂らしていく。

 流れ出しの水は、何も起きなかった。

 淵の真ん中の水には、黒い粉が二粒、ゆらりと浮いた。

 岸寄りの水――観測所の岩の切れ目から、解け水が流れ込んでいた辺りの水には、黒い粉が、細い煙のように渦を巻いて昇った。

 

「……思っていたより、少ないわね」

「少ないんですか、これで?」

「淵の水の量に比べて、よ。流れ込んだ病の量にしては、水の中に残っている粉が、少なすぎるの。――何かが、吸い取ったのよ」

 

 永琳は淵の奥の、滝の落ち口を見上げた。

 

「ルドロスの群れの主は、雌の倍も、三倍も大きな鬣を背負っている。あの鬣は、水を蓄えるためのもの。陸に上がっても干上がらないように、体に水を溜めておくの。――淵の水を病ごと、たっぷりと吸ってしまったのでしょうね」

「……じゃあ、淵の主が」

「病の、一番濃い所にいるわ」

 

 雛が岩の上から、淵の奥へ目を向けた。

 滝の音に紛れて、それは聞こえていた。――低い、喉を鳴らすような声。それに応えるように、淵のあちこちの岩陰から、細い声が、ばらばらに返る。群れの主が群れを呼ぶ声だ。だが、返す声に、揃いが無かった。呼ばれた雌達が、主の方へ寄っていかない。むしろ、遠ざかっている。

 雛は目を細めた。淵の上に、うっすらと溜まっているものがある。人の目には映らない、黒い靄のようなもの。五日の間、雛が毎晩集めては、次の朝にはまた溜まっていたもの。

 

「――今朝より、濃くなっているわ」

「病に犯されたモンスターは、暴れて、暴れ尽くして、最後は病が燃え尽きるか、モンスターの方が燃え尽きるか。そのどちらかよ。燃え尽きるまでの間に、群れの子を噛めば、その子も病む。人を噛めば、人も病む」

 

 永琳は背の弓を下ろして、弦を指で一度弾いた。ビィン――と低く澄んだ音が、淵の上を渡る。

 

「だから、燃え尽きるまでの間、誰も噛ませない。――それが、今日の仕事よ」

「狩るんですか?」

「病んだモンスターは、狩るべき相手である前に、病の手がかりよ、うどんげ。――燃え尽きた後に、どちらが残るかを見てから、決めましょう」

 

 永琳は腰の帯から薬瓶を三本外した。青い札の瓶だった。それを、自分の外套の内側に、肌に沿わせるようにして差し込む。

 

「師匠、それは……」

「封じの薬よ。冷たいままでは、半分も働かないのでしょう?――だから、温めておくの」

 

 鈴仙はぽかんと口を開けた。雛は三歩離れた岩の上で、その横顔を、少しだけ不思議そうに見ていた。

 

――日が、尾根の向こうへ傾き始めた頃だった。

 滝壺の水が内側から盛り上がった。

 盛り上がった水が割れ、その下からまず、黄色い山が出てきた。水を吸って重く垂れた、巨大な海綿の塊。それが後ろ頭から背中を伝い、後ろ脚の付け根まで、波打つように続いている。山が岸へ寄るにつれて、その前に、大きな頭が持ち上がった。頭の上には、五本の角が、鶏冠のように扇の形に開いている。

 一頭の竜が、水を滝のように零しながら、淵の岸の岩へ這い上がってきた。

 ルドロスの群れの主。雌達の三倍はある体。太い四つの脚が、爪で岩を掴む。そして――その鬣は、もう黄色ではなかった。黄色い海綿の網目の奥に、墨を吸わせたような黒紫が、根を張るように広がっている。網目の一つ一つから、黒い靄が、冬の朝の湯気のように滲み出していた。

 

――『水獣:ロアルドロス』

 

 ロアルドロスは、首を振り上げた。鶏冠の五本の角が、ぎしぎしと軋んで逆立つ。濁った紫の目が、岸の三人を捉えた。

 

〈グォロロロォォォッ!!〉

 

 咆哮と一緒に、鬣から黒い靄が、ぶわりと吹き上がった。淵の上の空気がそこだけ薄紫に煙る。岩陰に身を潜めていた雌のルドロス達が、悲鳴のような声を上げて、ばらばらに水へ逃げ込んでいく。――狂竜化状態だ。

 

「覆い布を!飛沫を吸わないで!」

 

 永琳の声が飛んだ。鈴仙は首に巻いていた布を鼻の上まで引き上げた。雛は布の代わりに、背の盾を下ろした。

――黒紫の盾が雛の左腕でゴウ、と重い音を立てた。

 ロアルドロスが、跳ねるように地面を蹴った。

 大きな体からは思いもつかない速さだった。四つの脚の爪が岩を捉え、体を低く這わせたまま、真っ直ぐに突っ込んでくる。狙いは三人の誰でもなかった。逃げ遅れて岩の上で縮こまっていた、一頭の雌だ。

 雛がその間へ、クルリと回り込んだ。

 

――ガギィンッ!

 

 盾の表で竜の頭が止まった。雛の足が、砂利を抉って半歩下がる。だが、それ以上は下がらない。盾の表の緑の渦が、受けた力を飲み込むように、じわりと紫に光った。盾の縁に収めた瓶の一つが、ことりと鳴る。

 雌のルドロスが、雛の背中の向こうで、慌てて水へ飛び込んだ。

 ロアルドロスが首を引いた。喉がグッと膨れる。鬣の海綿が、絞られるように縮んだ。

 

「――水よ!」

 

 雛の声と竜の口が開くのは同時だった。

 吐き出されたのは水の塊だった。ただの水ではない。鬣に溜めた水を体の中で練った、ぬめる水の弾だ。それが、薄紫に濁っていた。弾は、雛の盾を逸れて、その後ろの鈴仙へ迫り――鈴仙の姿が半歩、横にずれた。

 否、ずれたように見えた。水の弾は、鈴仙の居(・)る(・)は(・)ず(・)の(・)場(・)所(・)を突き抜け、背後の岩に当たって、ベシャリと弾けた。紫に濁ったぬめりが、岩肌を伝って垂れていく。光の波を、ほんの少しずらす。月の兎の、小さな手品だった。

 鈴仙もうライトボウガンを構えていた。

 

「――弾種、[通常弾]」

 

 声が低くなった。竜の肩口の鱗の継ぎ目へ、三発。タン、タン、タン、と乾いた音が、滝の音を縫った。ロアルドロスが、煩わしそうに首を振って、鈴仙の方へ向き直ろうとする。

 その首の向きが変わる隙に、雛が盾から剣を抜いた。

 片刃の剣が竜の前脚を斬り上げる。斬り返して、もう一度。剣が肉を斬るたびに、盾の渦が、紫を濃くした。受けた力も、斬った力も、雛の盾は溜めていく。集める、溜める――それから、放つ。厄を集める厄神様に、よく似た武器だった。

――その時、淵の下手の岩陰で小さな悲鳴が上がった。

 河童の子供が二人、筌を抱えたまま、岩に張り付いて固まっていた。網を上げに来たのだろう。雛が止めたはずの淵へ、止められる前に下りてきていたのだ。

 ロアルドロスの頭が、悲鳴の方へグルリと回った。

 鈴仙は迷わなかった。ライトボウガンの筒先を、子供達とは反対の、滝の脇の岩壁へ向ける。引き金を引く瞬間、兎耳が、ほんの少しだけ震えた。

 タン、と弾が岩を叩いた。その音が――滝の側からではなく、竜のすぐ後ろから、聞こえたように響いた。音の波を、ほんの少しずらしたのだ。ロアルドロスは、弾かれたように首を後ろへ振り向けた。

 

「――沢を上って、帰りなさい。観測所の前は通らずにね。振り返らないで」

 

 雛の静かな声に、子供達は弾かれたように岩を離れ、沢を駆け上がっていく。

――ロアルドロスが、後脚で立ち上がった。

 水を含んだ巨体が、雛の頭の上に、壁のように覆い被さる。そしてそのまま――全身で岩へ倒れ込んできた。

 

――ドッパァァン!

 

 岸の岩が、水ごと叩き潰された。鬣に溜まっていた水が、一斉に絞り出されて、辺り一面に飛沫が散る。雛は、盾を斜めに構えて押し潰しを受け流した。だが、飛沫は、受け流せない。薄紫の飛沫が、雛の頬に、腕に、髪に、ばらばらと降りかかった。

 ロアルドロスは、倒れ込んだ姿勢から、首を高く持ち上げ――そのまま、体ごと横へ転がった。

 転がる巨体が、雛の盾の縁を掠めた。前脚の爪が一本、盾の陰から出ていた雛の左の前腕を、浅く引き裂いていく。

 

「雛さん!」

 

 雛は転がりの勢いに弾かれて、砂利の上を一間ほど滑った。それでも、盾は手放さなかった。片膝をついて起き上がる。

 左の前腕に、三本の赤い筋。浅い傷だ。いつもなら、もう血が止まりかけている。だが――止まらなかった。

 血は少しも固まろうとせず、細い筋のまま流れ続けている。その傷の縁に、飛沫に混じっていた黒い粉が、煤のように貼り付いていた。

――腕が重い。体の芯が、熱い。頭の奥で、何かがざわざわと騒いでいる。

 雛は、それが何かを知っていた。今朝、木箱に添え書きを書いた、その手で、封じたはずのものだ。

 

「――雛!手を止めないで!」

 

 永琳の声が飛ぶ。永琳は、岸の高い岩の上に立って、もう弓を引き絞っていた。

 

「その病は、まだあなたの中で育ち切っていない!攻め続けなさい!――その病は、攻め続ける者には勝てない!」

 

 雛は何も答えなかった。答える代わりに、立ち上がって、踏み込んだ。

 斬る。盾で受ける。斬り返す。重い腕を、無理に振るう。一太刀ごとに、体の芯の熱が、刃と一緒に外へ押し出されていくような気がした。ざわめきが、遠のいていく。盾の渦が、紫を通り越して、黒紫に光り始めた。瓶が、一つ、また一つと満ちていく。

 その時――永琳が矢を放った。

 一本、二本、三本。矢は、竜の目でも鱗の継ぎ目でもなく、黒紫に染まった鬣の、一番厚いところへ、トス、トス、トスと埋まる。矢の根元には、青い札の薬瓶が括り付けてあった。永琳が外套の内側で、肌で温めていた、あの瓶だ。

 鬣の海綿が、矢の薬瓶から零れる薬を、水と同じように吸い込んでいく。

 鬣の網目から滲む黒い靄が、ほんの僅かに薄くなった。

 

「水を吸う鬣なら――水溶性の薬も吸うでしょう」

 

 永琳はそれだけ呟いて、次の矢を番えた。

 

〈ギュオォォォッ!〉

 

 ロアルドロスが、身をよじって吼える。鬣を震わせ、体を横に向ける。四つの脚を踏ん張り、横向きのまま、全身で突っ込んでくる構えだ。その先にいるのは――ライトボウガンを構えた鈴仙だった。

 鈴仙は逃げなかった。照準の中の竜の前脚を、まっすぐに見ている。

 

「――弾種、[麻痺弾]」

 

 ズドン、と重い音。竜の前脚の付け根に、黄色い光が弾けた。踏み出しかけた前脚が、ぴくりと痙攣して、止まる。続けて、もう一発。

 

〈ギュオォッ!?〉

 

――巨体が横向きの構えのまま、ガクガクと震えて動けなくなった。

 

「雛さん、今です!」

 

 雛は既に竜の頭の前にいた。

 剣を盾に差し込む。ガシャン――と重い音がして、剣と盾が一つになり、一振りの大きな斧に変形する。盾の渦が、満ちた瓶の全てを吸い上げて、眩しいほどの紫に輝く。斧の刃に、黒紫の光が走る。

 雛は、斧を頭の上へ振り上げた。フッと、体が軽くなった。腕の重さも、芯の熱も、どこかへ消えている。狙った場所が、狙った以上にはっきりと見えた。

 鶏冠の五本の角の、付け根へ。

 

――ズドォォォンッ!!

 

――『属性解放斬り』。溜めに溜めた力が、斧の刃から竜の頭へ、一息に解き放たれた。紫の光が、竜の鶏冠から背の鬣へ、稲妻のように走り抜ける。五本の角のうち、二本が、根元から砕けて宙を舞った。

 

〈ギャオオオォォッ……!!〉

 

 ロアルドロスが仰け反って絶叫した。

 そして――その絶叫が途中で細くなった。

 鬣の網目から噴き出していた黒い靄が、潮が引くように、スウッと薄れていく。黒紫に染まっていた海綿の奥に、くすんだ黄色が、少しずつ戻ってくる。竜の巨体が、ぐらりと傾いた。四つの脚が、一本ずつ力を失って、折れるように崩れる。

 ロアルドロスは、浅瀬の水の中に、どさりと腹を落とした。

 荒い息が、竜の鼻と口から、白く吹き出している。口の端から、泡の混じった涎が、とろとろと水へ垂れた。体中の鱗から、湯気が立ち昇っていた。暴れて、暴れて、暴れ尽くした体だった。

 永琳は弓を下ろして、浅瀬へ降りる。鈴仙が慌てて後を追う。

 永琳は倒れた竜の頭の一間手前で足を止めた。そして、その目を覗き込んだ。

 濁っていた紫が、消えていた。深い、濡れた色の眼が、半分だけ開いて、永琳を見返している。その目には、もう、何かに引きずられるような光は無かった。ただ、ひどく疲れているだけだった。

 

「……病の方が、燃え尽きたわね」

「師匠。――捕まえますか?今なら、麻酔も効きますけど」

「いいえ。この子は、病に勝ったのよ。勝った子を、わざわざ竹林まで連れて行くことはないわ。――それに」

 

 永琳は淵の方を顔で示した。

 淵の水面に、小さな頭が、一つ、また一つと浮かび上がっていた。――ルドロス達だった。さっきまで主から遠ざかっていた群れが、おずおずと、浅瀬へ寄ってくる。一頭が、倒れた主の鼻先を、自分の鼻先でそっと突いた。主が、低く喉を鳴らす。今度は、返す声に揃いがあった。

 雛は、斧を盾と剣に戻して、その様子を岸から見ていた。左の前腕の三本の筋はいつの間にか、血が固まり始めていた。

 鈴仙がサラシを手に駆け寄って来る。雛がいつものように一歩下がろうとする。鈴仙は、その一歩を自分の一歩で詰めた。

 

「……近付くと、厄が移るわよ」

「手当てが先です。厄は、後で師匠に何とかしてもらいますから」

「厄は、薬では落とせないって言ったでしょう、うどんげ」

「うっ……そ――それでも、先です!」

 

 鈴仙の兎耳が赤くなって立ち上がる。雛は、一瞬だけ目を丸くして、それから、口元に小さな笑みを浮かべた。そして、黙って左腕を差し出した。

 


~妖怪の山 玄武の沢下流 《流雛観測所》 夜~

 

――その夜、封じの桶の脇で、焚き火が燃えていた。

 岩を組んだ竈に、大きな鍋が一つ掛かっている。鍋の中には、永琳が組み直した封じの液が、湯気も立たないほどの、ほんのりとした温かさで張られていた。永琳は時々、鍋の液に指の背を触れさせて、竈の薪を一本ずつ抜いたり、足したりしている。

 干し終えていた[黒蝕竜の鱗]は、一枚残らず、その鍋の液に浸け直されていた。竹林に届いた十二枚も、後でここへ戻すことになっている。岩陰の隔離の穴は、雛が夕方のうちに深く掘り直して、周りを石で囲い、上に厚い板で蓋をした。もう、解け水が上を流れても、中の土は流れない。

 永琳は炎の光で、[黒蝕竜の鱗]の封じ方の書付に、筆で二行を書き足した。

 

――『冬は、液を人肌に温め、十四日浸けること』

――『朝に桶の氷を割った日は、一日足すこと』

 

 それから、書付の端に小さく自分の名を入れた。――書き損じた者の名を、書き直した者の名として。

 雛は、炎から三歩離れた岩に腰を下ろして、守矢ギルドへの報告を書いていた。左腕には、鈴仙が巻いたサラシがキッチリと巻かれている。報告の終わりの一行を、雛は一度書いて消し、もう一度、同じように書いた。

 

――『封じが甘かったのは、確かめずに封じたと書いた、私の手落ちです。 鍵山雛』

 

「……あなたは、どうして先に謝ったの?書付を書いたのは自分だって」

「書付を書いた者が先に謝らないと、書付を読む者は、次から書付を信じなくなるからよ。――信じてもらえない処方ほど、危ない薬は無いわ」

「……薬師の理屈ね」

「ええ。けど――厄神様の理屈も、そう違わないでしょう?」

 

 雛は答えなかった。ただ、消した一行の跡の上に書き直した文字を、もう一度指でなぞった。

 鈴仙は小屋の壁に背を預けて、ライトボウガンを抱いたまま、うつらうつらと船を漕いでいた。軒先の流し雛が、夜の川風に揺れて、かさかさと乾いた音を立てている。

 雛は、日が暮れてから一度だけ淵へ下りていた。

 淵の上の岩で、クルリ、クルリと回る。裾が膨らむたびに、淵の上に溜まっていた黒い靄のようなものが、糸を巻き取るように、雛の周りへ寄ってくる。筌を壊された河童達の口惜しさ。滑って擦りむいた膝の痛み。桶を流して叱られた山童の子の、悲しい気持ち。それを全部、裾の渦へ巻き取って、雛は回り終えた。淵の水面では、群れの主と雌達が、寄り添って眠っていた。

 

「――淵の厄は、どうだったの?」

「今夜は、集めた分だけ減ったわ。あとは、筌を壊された河童達の、本当の厄が少しだけ」

「そう。――竹林の患者の薬も、これで作れるわ。何に効く薬を作ればいいか、今日、分かったから」

 

 永琳は筆を置いて、腰の帯の一番奥から、小さな容器を一つ取り出した。淵の流れ出しで、病に負けたルドロスの口から掻き取った、あの粉だ。

 永琳は、それを炎に透かした。粉の粒が、炎の光を受けて、ちらちらと光っている。

 

「……雛。あなたの鱗に残っていた粉は、何年も前に剥ぎ取られた鱗の粉。液の中で目を覚ましても、もう色は鈍かったわ。――でも、この粉は少しだけ新しいの」

 

 雛は筆を止めた。

 

「あのルドロスが倒れていたのは、淵の流れ出しよ。観測所の岩の切れ目から、一番遠いところ。――それに、あの子の鬣は、淵の主のより、ずっと乾いていたわ。淵の主よりも前から、病んでいたのかもしれない」

「……上の方から、下りてきた子だと言うの?」

「確かめるまでは、何も言えないわ。――分からないことを、分かったようには言いたくないの」

 

 雛はゆっくりと顔を上げた。

――沢の上。杉林の黒い影の向こうに、妖怪の山の中腹が、星明かりの中に、のっそりと横たわっている。

 

――山の中腹には、眼が無い黒い竜が棲んでいる。翼を広げるたびに黒い粉を撒いて、その粉で周りを見る亜竜。雛の盾の鱗は、その竜の一頭から何年も前に得たものだ。

 

――そして中腹には、今も、別個体の一頭がいる。誰も、その竜がどこへ行こうとしているのかを知らない。

 

「――見張っておくわ。厄神の仕事の、ついでに」

「ついで、ね」

 

 永琳は小さく笑った。それから、壁にもたれて眠る弟子の方を、ちらりと見た。

 

「ついでの方が、大きくならないといいわね」

 

 炎がパチリと爆ぜた。鍋の中で十二枚の、そして十二枚よりずっと多い黒い鱗が、人肌の温かさの液に沈んだまま、もう一粒の粉も浮かべていなかった。

 

*1:
『黒蝕竜:ゴア・マガラ』から剥ぎ取った鱗。縁に毛のような細い鱗が生え、そこから鱗粉が撒かれる。

*2:
古龍に近い竜の一種。眼が無く、全身から撒く黒い鱗粉で周りを感じ取る。鱗粉には、生き物を狂わせる病のもとが含まれている。

*3:
黒蝕竜の鱗粉に含まれる病のもと。取り付かれたモンスターは凶暴になって暴れ続ける。人が病むと傷の治りが止まるが、攻め続けて病に打ち勝てば治まる。

*4:
体に取り付いた病の兆しを打ち消すと言われる木の実。病が体の中で育ち切ってしまってからでは、効かない。




『八意永琳』
所属:永遠亭(《幻想生態医療院》・ギルド公認の協力医療機関)
役職:院長(医師・薬師・研究者)
武器:幻霞弓『天香』(弓)
防具:幻霞装【思兼】
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