東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第十話:苦情は沢伝いに

~博麗神社 裏手の森の端~

 

――その苦情は、朝の掃除の途中に届いた。

 初雪が解けて、境内の石畳が黒く濡れている朝だった。霊夢は竹箒で、本殿の裏に吹き溜まった落ち葉を掃き寄せていた。掃いても掃いても、裏の森から次の葉が降ってくる。冬の入りの神社の掃除は、半分くらいが森との根比べである。

 

 後頭部の大きな赤いリボンが、冬の朝の風に揺れている。赤と白の巫女装束の肩と腰には、薄紅と淡い青の、滑らかな竜の鱗が、ところどころ縫い付けてある。狩りに出ない日も、霊夢はこの装束のまま掃除をする。着替えるのが面倒なのと、いつ何が来るか分からないのとで、理由は半分ずつだった。腰の縫い目は、今日も同じ所が少しほつれている。

 その森の方から、声がした。

 

『――おい。おい、そこの巫女』

 

 霊夢は、箒を止めない。

 

『聞こえておるじゃろうが。巫女。博麗の巫女。……ったく、今の若いもんは、年寄りが呼んでも返事一つせん』

「……はいはい。聞こえてるわよ」

 

 霊夢は箒を本殿の壁に立て掛けた。それから、境内の端の石垣を跨いで、裏の森へ入っていく。声は、森の奥から聞こえたのではない。森の端を流れる、細い小川の方からだった。

――小川の縁の、苔むした石の上に、それは座っていた。

 子供ほどの背丈ので、白い髪を伸ばしている。その髪の左右からは大きな獣の耳が、髪と溶け合うように生えている。額には、紅で描いた小さな印。襟元には花びらのような飾りが重なり、上衣は木の葉とも鱗ともつかない模様で覆われていた。裾には、水の流れと魚を思わせる柄。足は、裸足だ。冷たい苔の上に、平気な顔で乗せている。

 

 山林の精気から生まれた、妖怪よりも古い物の怪にして、聖域の監視者――『封獣チミ』

 

 チミは、それ以上は一歩も森を出ようとしなかった。開けた土地では、この物の怪は存在していられない。森と川がある所にしか居られないのだ。だから、用がある時は、こうして森の端まで来て、川べりから人を呼びつける。

 

「――で、何。また観光客の苦情?」

「観光客なら、まだ可愛げがあるわい。……今日は、もっと腹の立つ話じゃ」

 

 チミは短い腕を組んで、わざとらしく鼻を鳴らした。

 

「沢の気が濁っておる」

「……沢?」

「聖域の上の方の沢じゃ。十日ほど前から、気が濁っておる。山も、何やら嫌がっておる。儂の住処の前の水が、毎朝、泥の匂いをさせて流れてきよる。――まったく、儂が若い頃は、こんなことは無かったぞ」

「あんたが若い頃って、いつよ」

「妖怪が学問になる前じゃ」

 

 霊夢はそれには何も言い返さなかった。言い返したところで、聞きたくもない昔話が始まるだけだ。

 代わりに小川の水を見下ろした。神社の裏を流れるこの小川は、山の方から下りてくる沢の、ずっと末の方の一筋だ。指を浸すと、冬の水らしく冷たい。だが、底の小石の上に、薄く茶色い泥が溜まっていた。普段なら、ここの水は小石の模様が数えられるほど澄んでいる。

 

「……で。濁ってるのは、何で?」

「知らん」

「知らないの?」

「知らんから、来たんじゃろうが。儂に分かるのは、気が濁っておることと、山が嫌がっておること。それだけじゃ。何が、どこで、どれほど……なんてのは、確かめる者の仕事じゃ」

 

 チミは組んだ腕をほどいて、大きな耳をパタリと一度だけ振った。

 

「……それで、ネムノが確かめた。上の沢じゃと。ネムノは、自分一人の手には余ると言うた。長も、それを聞いて――『巫女なら、入れてもいい』、と言うた」

 

 霊夢は少しだけ目を細めた。

――聖域。『聖地ヤマンバの地』は、妖怪の山の中にある、山姥達の土地だ。守矢ギルドの手も届かず、聖域の命は聖域の者が回す。外の者は、長の許しが無ければ、一歩も入れない。そういう土地の長が、外の者を入れると言った。

 つまり、この物の怪が言う苦(・)情(・)は――

 

「……要するに、手を貸せってことよね」

「苦情じゃと言うておるに」

「はいはい。苦情ね。苦情」

 

 霊夢は溜め息を一つ吐いて、境内の方を振り返った。本殿の脇の狩具小屋の戸が、半分開いている。その中に、背に負う太刀が、鞘ごと立て掛けてあるのが見えた。

 

「……面倒だけど、沢が濁ったら、うちの手水も濁るのよねぇ。それは困る」

「手水の心配か。巫女のくせに、信心の無い理由じゃな」

「信心で水は澄まないわよ」

「……ふん。言うようになったわい」

 

 チミは苔の石からひょいと下りた。下りた先は、小川の中だった。裸足の足が、冷たい水に浸かる。だが、チミは気にした様子もなく、水の上を上流の方へと歩き出した。

 小川の水が、チミの足元だけ少しだけ澄んで見えた。

 霊夢は狩具小屋へ戻って、背の太刀の革帯を肩に掛けた。泡の文様の鞘が、背中でかすかに鳴る。それから、あうんに一言だけ留守を頼んで、小川の上流へ――チミの小さな背中を追って、森の中へ入っていった。

 

 小川を遡る道すがら、チミは水の上を歩きながら、ずっと愚痴を言い続けていた。春の観光客のこと。山の新しい神様のこと。聖域の外で騒いでいる天狗の新聞のこと。そして――モンスター(竜)のこと。

 

「……あの外から来た竜どもはな。儂を、ちっとも怖がらんのじゃ」

「へぇ」

「へぇ、ではない。儂は、妖怪が妖怪と呼ばれる前から、山で人を迷わせてきたんじゃぞ。人も獣も、儂の気配を感じれば、足を止めたもんじゃ。――それが、あの連中は、儂の目の前で平気で水を飲みよる。儂がどれだけ山の気を濁らせても、尻尾一つ動かさん」

「それ、腹が立つの?」

「立つ。……じゃがな」

 

 チミはそこで一度言葉を切って、大きな耳を後ろへ寝かせた。

 

「大きな嵐の竜――古い龍とかいう連中だけは、別じゃ。あれは、儂らよりも古い匂いがする。儂が怖がられんのとは、わけが違う。――儂の方が、足を止めてしまうんじゃ」

 

 霊夢は何も言わなかった。妖怪より古い物の怪が、足を止めるもの。そんな存在に、この幻想郷では何度か出会っている。

 


~妖怪の山 聖地ヤマンバの地 森の境~

 

――その境には、縄も柵も無かった。

 小川を遡り、沢を上り、妖怪の山の麓の深い森へ入って、半刻ほど歩いた所だった。苔むした岩と、古い杉と、落ち葉に埋もれた獣道。その獣道の先で、霊夢の足が、ふと止まった。

 何も無い。道は続いている。だが、その先へ一歩も足を出したくない。人の家の敷居を、断りも無く跨ごうとした時のような、背中の居心地の悪さ。それが、当たり前のようにそこにあった。

――聖域の囲いだった。

 先を歩いていたチミは、その敷居の向こう側に、もう立っていた。そして、その隣に、二人の女と、一頭の大きな犬がいた。

 一人は、青みがかった長い髪を、前髪ごと後ろへ掛き上げていた。頭には、古びた小さな冠。端切れを縫い合わせたような上衣と袴は、上下に分かれていて、その間から臍がのぞいている。袴と腕には、太い紐が幾重にも巻かれていた。足は、裸足。組んだ腕の下から、霊夢をじろりと見ている。

 聖域に棲む山姥達の長にして、聖域の決まりを定める者――『塵塚ウバメ』が霊夢を見つめる。

 

「――来たね、博麗の巫女」

「そうよ。苦情を聞きに来たわ」

「苦情ねぇ。……まあいい。先に言っとくよ」

 

 ウバメは組んだ腕をほどいて、霊夢の鼻先に、指を一本ずつ立てていった。

 

「聖域(ここ)は、うちらの住処だ。外の道具を持ち込むな。外の噂も持ち込むな。狩ったものは、一つも外へ持ち出すな。――それと、獲物には、ネムノがいいと言うまで手を出すな」

「……厳しいわね、相変わらず」

「土足で上がり込もうって奴には、もっと厳しいよ。――それと、犬も猫も連れてないだろうね。外の者のオトモは、聖域には入れないよ」

「うちの神社に、そんな余裕があるように見える?」

「……確かに、見えないね」

 

 ウバメは霊夢の、縫い目のほつれた腰の辺りを、じろりと眺めた。それから初めて、片方の口の端だけを、わずかに持ち上げた。

 

 ウバメは霊夢の足元の、何も無い地面へ、片手を向けた。そして、空中の何かを――指で摘まんで引き裂くように、一度だけ手首を捕じった。

 霊夢の背中の居心地の悪さが、フッと消えた。

 敷居の、そこだけが割れた。人一人が通れるほどの幅で。『聖域を壊す程度の能力』を、一か所だけ、ほんの少しの間だけ使う。それが、山姥の長の門(・)の開け方だった。

 

「――早く入れ。開けっ放しは好かん」

 

 霊夢が敷居を跨ぐと、もう一人の女が、霊夢の背中の後ろで、空を撫でるように手を動かした。割れていた敷居が、音も無く閉じる。振り返ると、今来た獣道が、もう、少しだけ遠くに見えた。

 腰まである、癖の強い灰色の長い髪。黄土色の片肩の衣に、橙色の帯。赤い袴の裏地には、桜に似た花の模様がちらりと見える。二の腕には青い袖。裾と袖先には、目の粗い菱形の穴が幾つも開いている。端切れを縄で括ったような、山姥の衣だ。その上から、白い獣の毛皮を肩掛けにして、前腕には分厚い腕甲。腰には、捕獲用の縄の束。足は、薄い革を巻いただけの、ほとんど裸足だった。

 背には、一振りの大きな刃物を負っていた。

 幅の広い片刃の大剣。いや、形だけを見れば、それは人の背丈ほどもある、巨大な出刃包丁だった。峰には、分厚い獣の腕甲をそのまま使っている。刃は、白く透けていた。氷を研いだような刃の縁から、冷気が、薄い白い息になって零れている。柄と鍔元は、衣と同じ縄でぐるぐる巻き。刃の根元には、濃い獣の毛が、房のように残してある。北の雪の山から下りてきた、氷の包丁を握る雪の鬼の獣――その腕と氷の刃から打った大剣――雪鬼大剣『浮世ノ関』。

 聖域の均衡を保つために狩り、捕らえる山姥の狩人――『坂田ネムノ』がついて来る。

 

 そのネムノの足元には、人を背に乗せて走れるほどの、大きな犬が伏せていた。赤茶に黒い差し毛の混じった、赤胡麻の毛並み。立ち耳に、クルリと巻いた尾。背には白い毛皮の胴当てを着け、首にはネムノの衣と同じ縄を巻いている。落ち葉の上に伏せていると、山の地面と見分けが付かない。

 ネムノのオトモの『ガルク』――『トチ』だ。

 

「――博麗の巫女、あの時ぶりだな」

「そうね。……どうも、今日はそればっかり聞かれるわね」

「あん時とは状況が違ぇんだ。うちの後ろを歩いてくんろ。先に立つな。勝手に獲物さ手ぇ出したら、その場で開きにして、天日干しにしてやっからな」

「……どうぞお手柔らかに」

 

 トチが伏せたまま、霊夢の足元の匂いを嗅ぐ。それから、尾を一度だけゆっくりと振った。それを見たネムノが、少しだけ眉を上げる。

 

「……ふん。トチが余所者に尾さ振るなんて、珍しいこともあるもんだべ」

「――ネムノ。沢の話をしてやりな」

「分かってる。――巫女。上の沢に、猪どもが溜まっておる。泥に身体さ擦りつけて、水さ濁らせてるのは、そいつらだべ。数が、大分と多すぎる」

「猪なら、あんたの仕事じゃないの?間引きってやつ」

「間引くだけなら、うち一人で足りる。――けんど、それで済みそうにねぐてな」

 

 ネムノはウバメの方を、顔で示しす。ウバメは、もう一度腕を組んでそっぽを向く。

 

「……何頭間引くかで、この頑固な長と揉めてる。外の者の目が要る。それで、おめえを呼んだんだべ」

 

 霊夢は横目でチミを見た。チミは、苔の岩の上で、とっくにそっぽを向いていた。山も、聖域の者達も、嫌がっているのだ――苦情の中身は、どうやら、沢だけではないらしい。

 


~聖域 上の沢~

 

――上の沢は、聖域の森を一刻ほど登った先にあった。

 岩の段を幾つも越えて、水が細く速く流れ下る沢。その両岸に、少しだけ平らな窪地が開けている。湧き水が染み出して、いつも湿っている場所だ。本来なら、苔と羊歯と、冬でも青い下草に覆われているはずの場所だった。

 

――その窪地が、泥の池になっていた。

 下草は一本も残っていない。土は掘り返され、湧き水と混ざって、どろりとした茶色の泥になっている。泥の表には、大きな体を擦り付けて転げ回った跡が、幾つも重なって窪んでいた。その窪みから溢れた泥水が、沢へ、筋になって流れ込んでいる。

 チミの言う濁(・)り(・)の出どころだった。

 

「……ヌタ場ね」

「あぁ。猪どもは、泥浴びが好きだべ。体さ付いた虫を落として、泥を鎧にする。――けんど、こったら広いヌタ場は、うちも初めて見た」

 

 ネムノは泥の縁をゆっくりと歩く。足の裏で、土の柔らかさと、踏み固められた跡を読んでいる。トチが、その半歩後ろを、鼻を地面に付けたまま付いていく。

 霊夢も泥の縁にしゃがみ込んだ。

 泥の窪地の周りは、もっと酷かった。森の土が、あちこちで、鍬で耕したように掘り返されている。掘り返された穴の底には、白い菌糸の切れ端が残っていた。土の中の茸を、牙で掘り出して食べた跡だ。

 窪地の脇の若木は、樹皮を根元からグルリと剥がされて白い肌を晒している。剥がれた樹皮には、牙で抉った溝が、二本ずつ並んで残っていた。

 その溝の、左右の深さが違っていた。

 右の溝は深く長い。左の溝は浅く短い。どの木の溝も、同じだった。

 

「……牙の長さが、左右で違うのね。左が短い」

「土を掘る時に使う方の牙が、擦り減るんだ。左で掘る癖のある奴だべさ。――長い右の牙は、喧嘩に使う」

「一頭だけ、ってこと?」

「いんや。溝の高さを見てくんろ」

 

 霊夢は木の溝の高さを見比べた。ほとんどの溝は、霊夢の膝ほどの高さにある。だが、窪地の一番奥の、一番太い杉の木だけは違った。溝は霊夢の腰より高く、溝の幅も倍はある。その溝の縁の樹皮に、白く硬い毛が、何本も絡み付いていた。

 霊夢はその毛を一本、指で摘まみ取った。獣の毛にしては太く、針金のように硬い。そして、雪のように白い。

 

「――群れの長ね。『ドスファンゴ』」

「あぁ。鬣が白くなるまで、群れの中で一番強くなった奴だ。――長の居る群れだから、こったらに数が増える」

 

 霊夢は泥の縁の足跡に、目を移した。

 ここからが、霊夢の仕事だった。勘で狩る巫女だと、華扇には毎度のように叱られる。だが、『勘でも、見てから出た勘なら、それは見立てだ』――と、言ったのもあの仙人だった。

 

 足跡は二種類あった。

 一つは、窪地の南の縁から入って、南へ帰っていく足跡。蹄の跡は小さく、数も多くない。蹄の縁は丸く崩れて、古いものも新しいものも、同じ獣道を、同じように踏んでいる。毎日、同じ道を通っている群れの足跡だった。中に、ひどく小さな蹄の跡も混じっている。

 もう一つは、窪地の北の、尾根の方から下りてきた足跡だった。蹄の跡は大きく、縁が鋭い。獣道を使わず、下草も若木も踏み倒して、真っ直ぐに下ってきている。数が、多い。

 

 そしてその足跡は――北へ帰っていく跡が、一つも無かった。

 

 北の足跡の脇には、糞がまだ湿りを帯びて転がっていた。霊夢は落ちていた枝の先で、それを少しだけ崩した。中から出てきたのは、砕けた団栗の殻と、よく分からない草の根と、白い茸の欠片。そして――一切れの、干したように硬い苔だった。この窪地の苔ではない。山のもっと上の、寒い岩場にしか生えない、短くて分厚い苔だ。

 トチがその糞に鼻を寄せて、すぐに引く。そして、北の尾根の方を向いて、鼻を小さく鳴らした。この犬にも、この獣達の匂いは、聖域の匂いではないのだ。

 

「……ネムノ。この沢の猪って、前から居たの?」

「南の群れは、居た。春に仔を産んだ、小さい群れだべ。毎年、この窪地で泥浴びして、南の茸の森で食って、それで回ってた。――うちが毎年、二、三頭間引いて、それで釣り合ってたんだ」

「じゃあ、北のは」

「十日前からだ。尾根の向こうから、長に連れられて、二十頭ばかり。いきなり下りてきて、この窪地を取ったんだ」

 

 ネムノは、北の尾根を刃物のような目で見上げた。

 

「――北の山から、何かに押し出されて来たんだべな。食い物が無ぇのか、もっと強ぇもんが来たのか。うちには分からん。分かるのは……あいつらが、ここの森の食い方を知らねえってことだけだ。土を掘りすぎる。木を剥ぎすぎる。南の群れの食う分まで、全部食っちまう」

 

 霊夢は黙って頷いた。山の獣が、北から押し出されている。この冬、山のあちこちで、同じ話を聞いていた。

――その時、背後で落ち葉を踏む音がした。

 ウバメだった。腕を組んだまま、窪地の縁に立って、泥の池を見下ろしている。その顔に、はっきりと嫌悪が浮かんでいた。

 

「――見たかい、巫女。これが、外から来たもんのやり方だよ」

「……長。また、その話だべか」

「何度でもするさ。――よそ者は、よそ者だ。北から来た二十頭、一頭残らず間引きな。聖域の土をこんなにした奴らを、聖域に置いとく理由は無いよ」

「二十頭も狩ったら、それは間引きじゃねえ。皆殺しだべ。――十頭。それ以上は狩らねぇ」

「十頭残して、また土を掘らせるのかい」

「掘らせねえように、うちが毎日見張るべ」

「毎日見張るって、あんた一人でかい」

 

 二人の山姥は、泥の池を挟んで睨み合う。どちらも、それ以上は口を開かない。言うべきことは、もう、十日の間に言い尽くしたのだろう。

 トチが霊夢の足元で低く唸る。二人のどちらにでもなく、北の尾根に向かって。

 霊夢はもう一度、北から下りてきた足跡を見た。真っ直ぐに下ってきて、北へは一つも帰っていない足跡。獣道を知らない足跡。――そして、その全部の足跡の先頭を、一頭分の、一番大きな蹄の跡が歩いていた。

 

「……ねえ。この群れ、帰り道を知らないんじゃない?」

 

 二人の山姥が同時に霊夢を見た。

 

「北から押し出されて、長に付いてここまで下りてきた。長が止まったから、止まった。――群れの連中は、長の匂いしか追ってない。だったら」

 

 霊夢は杉の幹の、一番高い溝を指で叩いた。

 

「長を捕まえて、聖域の外へ運べばいい。群れは、長の匂いを追って、勝手に出ていくわ。――狩るのは、付いていけないくらい弱った奴と、怪我した奴だけ。多分、三頭か、四頭ってところね」

 

 ネムノが北の足跡をもう一度、足の裏で踏んで確かめた。足を引きずった跡が二つ。歩幅の狭い、痩せた蹄の跡が二つ。トチがその四つの跡の上で、一つずつ鼻を止める。

 

「……四頭だべ。うちの見立てでも、そんなもんだ」

 

 ウバメが眉を寄せた。

 

「……長を、外へ持ち出すってのかい。持ち出すなって、さっき言ったはずだよ」

「持ち出すんじゃなくて、返すのよ。外(よそ)から来たものを、外(よそ)へ。――あんたの決まりにも、合ってるでしょ」

 

 ウバメはしばらく黙っていた。それから、組んだ腕をゆっくりとほどいた。

 

「……ネムノ。運ぶ間の囲いは、あんたが作りな。外への口は、うちが開ける。――巫女。長に傷を付けすぎるんじゃないよ。外の山で、また群れを率いてもらわなきゃならないんだからね」

「……長」

「何だい」

「何でもねえ。――ありがと、だべ」

「礼を言う暇があったら、さっさと縄を出しな」

 

 ウバメはプイと背を向けて、森の中へ戻っていった。ネムノはその背中を見送ってから、腰の縄の束を、一つ解いた。

 苔の岩の上で、チミが誰にともなく呟く。

 

「……やれやれ。今の若いもんは、揉めるのに十日、片付けるのに一言じゃ」

 

 ネムノは縄の束を解きながら、横目で霊夢を見た。

 

「……おめえ、何で来た。聖域の猪なんて、遥か東の博麗の巫女の知ったことじゃねえべ」

「苦情が来たからよ。――それに、この沢はうちの裏の小川まで続いてるのよ。ここが濁れば、うちの手水も濁る」

「……手水が動機か」

「手水よ。参拝客が来なくても、手水は澄んでなきゃ困るの」

 

 ネムノは、しばらく黙って霊夢の顔を見ていた。それから、詳しくは聞かずに、縄を一本、霊夢の手に押し付けた。太く粗く、山姥の衣と同じ匂いがした。

 

――群れは、日が傾きかけた頃に、窪地へ戻ってきた。

 霊夢とネムノは、窪地の風下の、倒れた杉の陰に伏せていた。トチは、二人から少し離れた落ち葉の中に、匂いを消す[隠れ身の巻物]の匂いを纏って、地面と見分けが付かないほどに伏せている。

 

 北の尾根の方から、ドスドスと地鳴りのような足音が下りてきた。

 先に現れたのは、茶色い剛毛の猪達だった。人の胸ほどもある背丈の、重たそうな体。口の端から、反り返った牙が二本、突き出している。一頭、また一頭と、泥の池へ飛び込んで、泥の中で体をよじり、転げ回る。泥の飛沫が、窪地の脇の若木にまで飛んだ。

 

――ブルファンゴだ。霊夢は、脳裡で数えた。十五、十六、二十。

 

 その後ろから――一頭だけ、ゆっくりと歩いてくるものがあった。

 二回りは大きい。肩から背へかけて、雪のように白いたてがみが、鬣のように逆立っている。口の端の牙は、右が長く、半月のように弧を描いて反り返っている。左は、土を掘りすぎて擦り減り、右の半分ほどしか無い。鼻先には、掘り返した土が、分厚くこびり付いていた。

 

――『大猪:ドスファンゴ』

 

 群れの長は、泥の池の縁で足を止め、鼻を高く上げた。風を嗅いでいる。そして――その鼻先が、倒れた杉の方を、ぴたりと向いた。

 

「……風が、巻いただべ」

「ちょうどいいわ。――長だけ、こっちへ呼ぶ」

 

 霊夢は倒木の陰から、ゆらりと立ち上がった。背の太刀の柄を肩越しに掴む。

 

〈ブギィィィィィッ!!〉

 

 大猪が吼えた。泥の池の猪達が、一斉に顔を上げる。大猪は前脚で地面を、一度、二度と掻く。蹄が土を抉り、落ち葉が後ろへ飛ぶ。掻くたびに、頭が下がり、長い右の牙の先が、霊夢の胸を真っ直ぐに指していく。

 

――三度目を掻く前に、大猪は走り出した。

 

 重い体が、平らな窪地を一直線に駆ける。地面が、霊夢の足の裏で震えた。霊夢は、太刀を抜かなかった。代わりに、左手の指の間から、御札を二枚、大猪の鼻先の斜め前へ放った。

 御札が、空中で薄い壁になった。大猪の右の牙が、その壁の端を掛けて、砕いた。壁は、一瞬も保たなかった。だが、その一瞬で、大猪の頭が、ほんの少しだけ左へ振られた。

 霊夢は右へ、半歩だけ浮いた。止めるのではなく、逸らす。巨体が、霊夢の袴の裾を掠めて、すぐ後ろの倒木に――

 

――ドガァァァン!!

 

――倒れた杉の幹が、真ん中から、へし折れた。木っ端と樹皮が、雨のように降ってくる。大猪は、へし折れた幹の上で踏ん張って、そのまま体を翻した。振り向きざまに、長い牙が、弧を描いて周りを薙ぎ払う。霊夢は、その弧の外へ、空へ抜けた。

 

――着地し、抜く。

 

 肩越しに、太刀を背から抜き放つ。薄紅と淡い青の溶け合う刀身が、夕方の森の光を受けて、泡の膜のような虹を流した。――泡狐刀『夢現ノ縁』を構える。

 霊夢は大猪の前脚ではなく、後ろ脚の外側を、浅く、一太刀だけ斬った。傷を付けすぎるな。長の言いつけだ。大猪の足が、わずかにたたらを踏む。

 その後ろ脚に、赤胡麻の影が、風のように飛び込んだ。

 トチだった。口に咥えた太い骨の牙を、大猪の足の付け根に、体ごとぶつけるように噛ませる。牙は、トチが口を離しても、大猪の足に食い込んだまま、離れない。[強骨牙*1]だ。

 

「――ようやった、おめえ」

 

 ネムノが既に大猪の横にいた。背の大剣を、肩越しに引き抜き、巨大な出刃包丁の刃を、下段に構える。刃の縁から、白い冷気が、息のように零れる。ネムノの腕が、力を溜めて、ギリリと鳴る。

 狙いは、トチの牙が食い込んだ、その後ろ脚だった。仕留めるためではなく、走れなくするための一太刀。刃ではなく、峰の分厚い腕甲の方を、叩き付けるように振り下ろす。

 

――ズゴォッ!

 

 大猪の後ろ脚が、ガクリと折れた。巨体が、泥の中へ横ざまに倒れ込む。

 

〈ブルル……!〉

 

 だが、大猪はすぐに起き上がった。白い鬣が全部逆立ち、鼻から白い息が蒸気のように噴き出す。小さな眼が、血走って赤い。――怒り状態だ。

 

 今度は、地面を掻かなかった。

 起き上がった勢いそのままに、いきなり霊夢へ突っ込んでくる。一直線ではない。途中で、弧を描いて切り返し、霊夢が避けた先へ、もう一度頭を向けてくる。霊夢は、着いて、浮いて、また着いた。三度目の切り返しで、牙の先が、霊夢の腕の白い袖を浅く裂いた。

 

 四度目の切り返しの前に、霊夢は逃げるのをやめた。

 大猪は弧を描いて切り返すたびに、外側の長い牙を、外へ外へと振っている。左の短い牙の側は、内側になる。だったら、一番危なくないのは、弧の外ではなく、弧の内側――大猪の左の肩の、すぐ傍だ。

 

 近い所が、一番安全――理屈より先に、体がそう覚えている。

 

 霊夢は突っ込んでくる巨体の左へ、半歩だけ踏み込んだ。白い鬣が霊夢の鬢を掠めていく。泥と獣と、湿った落ち葉の匂い。長い右の牙は、霊夢の背中の、ずっと外を、空しく薙いでいった。弧の内側から、太刀が、通り過ぎる前足の外側を、また浅く、一つだけ添えるように斬った。

 泥の池の猪達が、長の怒りにつられて、騒ぎ始めていた。一頭が、霊夢の背中へ突っ込んでくる。更に二頭、三頭と続く。

 

「――おめえは、長だけ見てろ!小さいのは、うちが引き受ける!」

 

 ネムノの声と一緒に、大剣が幅の広い刃の腹で、突っ込んできた猪の横っ面を叩いた。

――斬らない。叩いて、向きを変えるだけ。猪は叩かれた勢いで泥の中へ転がり、泥だらけになって逃げていく。トチが、その後ろを唸りながら追い立て、群れを窪地の北の端へと分けていく。犬を使う山の狩人の、古いやり方だった。

 

 霊夢はネムノに背後を任せ、大猪だけを見る。

 大猪の口の端から、泡の混じった涎が糸を引いて垂れていた。後ろ脚を引きずるようにして、切り返しの弧が、少しずつ大きくなっている。息が、荒い。大きな体は、疲れを隠すのが下手だ。

――叩くなら今だ。だが、叩きすぎたら、この猪は外の山で群れを率いられない。

 

「――ネムノ!罠は!」

「もう張ってある!そっちの杉の根元だ!」

 

 霊夢は杉の根元を一瞬だけ見た。落ち葉の下に、小さな金属の光がある。[シビレ罠]だ。ネムノは猪を叩いて向きを変えながら、その合間に張っていたのだ。

 霊夢は罠の向こう側に着く。そして、太刀の切っ先で、大猪の鼻先を指した。

 

〈ブルルル……!〉

 

 大猪が赤い目で霊夢を捉える。後ろ脚を引きずりながら、それでも群れの長らしく、真っ直ぐに突っ込んできた。

――その前脚が、落ち葉の下の罠を踏んだ。

 

〈ブォォッ!?〉

 

 バチバチ――!と青白い光が弾けた。巨体が突っ込んだ姿勢のまま、痙れて固まる。白い鬣が一本残らず逆立って震える。

 霊夢は腰の袋から、小さな玉を二つ取り出した。[捕獲用麻酔玉]。一つ、大猪の鼻先へ投げつける。玉が割れて、甘い匂いの煙が広がる。もう一つ投げつける。

 

〈……ブル……フゴ……〉

 

 大猪の赤い目が、ゆっくりと重たくなっていく。痙れが解けるのと、膝が折れるのが、同時だった。巨体が落ち葉の上にドウと横たわる。鼻から漏れる息が、もう荒くはなかった。――深く遅く、眠る獣の息だった。

 

 霊夢は、眠る大猪の傍らにしゃがみ込んだ。

 白い鬣の、肩から背へかけて。泥にまみれたその毛の下に、一筋の古い傷が走っていた。牙の傷ではない。爪の傷でもない。幅の広い、粗いものに、上から押し潰され、擦り剥がされたような跡。傷の縁には、細かい木っ端が、まだ幾つも刺さったままだった。

 霊夢はその木っ端を一つ、指で抜き取った。杉ではない。もっと硬く、色の濃い、山の高い所に生える木だ。

 

「……ネムノ。これ」

「倒れた木に、下敷きになりかけた傷だべ。――尾根の向こうの林で、木さ倒れるほどの風が吹いたんだ」

「風、ね」

 

 霊夢は木っ端を懐紙に包んで、懐へしまった。山の北で、季節外れの風が吹いている。そんな話を、天狗の新聞で、一度だけ読んだ気がした。

 霊夢は太刀の刃を一度振って、背の鞘へ納めた。裂けた袖を見下ろして、小さく溜め息を吐く。

 

――針妙丸に、また小言を言われるわね。

 


~聖域 北東の境~

 

――眠った大猪は、縄で組んだ橇に乗せられた。

 橇の前を引くのは、ネムノとトチだった。トチの胴当てには太い縄が掛けられ、ネムノはその隣で、裸足に近い足で、一歩ずつ森の土を踏んでいく。霊夢は、橇の後ろを押している。

 

 橇の周りには、何も無い。だが、霊夢には分かった。橇をぐるりと囲むように、あの居心地の悪い敷居が、小さく張られている。

 

――『聖域を作る程度の能力』

 

 運ぶ間、聖域の住人も獣も、この橇に近寄らないように。――だが、群れの猪達はそんなものは少しも気にしなかった。

 橇の後ろ、十間ほど離れて、泥だらけの猪達が付いてきていた。

 一頭、また一頭。鼻を地面に付け、橇の滑った跡に残る長の匂いを、黙って追ってくる。近付けば、トチに唸られる。だが唸られても、離れない。尾根を下りてきた時と同じように、先頭を行く長の後ろだけを、ただ追ってくる。

 窪地には、四頭が残った。脚を痛めたものと、痩せて、群れに付いていけないもの。ネムノは、群れが窪地を離れるのを待ってから、一頭ずつ、素早く、苦しませずに片を付けた。霊夢はそれを見ていた。見ていろ、とは言われなかった。見るな、とも言われなかった。

 四頭の肉と皮は、聖域の住人達で分ける。一つも外へは出さない。

 

――聖域の北東の境で、ウバメが待っていた。

 境の向こうは、妖怪の山の中腹へ続く、深い森だ。守矢の者達も、天狗も、滅多に入らない。山の獣が、山の獣として暮らす森。ウバメは、片手を上げて、空中の何かを、また摘まんで捕じった。今度の口は、人一人分ではなかった。橇と、その後ろの群れが、丸ごと通れるほどの幅だった。

 

「――さっさと通しな。こんなに開けたのは、何十年ぶりだか分かんないよ」

「……長。無理させちまったべ」

「無理なんかしてないよ。よそ者を追い出すのは、うちの一番好きな仕事だ」

 

 橇が境を越えた。ネムノは境の外の、杉の根元の窪みに、大猪をそっと下ろした。後ろ脚に食い込んでいたトチの牙は、とっくに外してある。霊夢がつけた浅い傷と、ネムノが峰で叩いた脚は、しばらく痛むだろう。だが、折れてはいない。数日もすれば、また群れの先頭を歩ける。

 ネムノは眠る大猪の頭の傍に、しゃがみ込んだ。白い鬣にこびり付いた泥を、大きな手で一度だけザッと払う。

 

「……おめぇも、北から追い立てられて、必死だったんだべ。おめぇらも生きるのに必死だってのは、分かってる。――けんど、ここはおめぇらの森じゃねえ。外の山で、また群れさ率いてくんろ」

 

 眠る大猪は、もちろん答えなかった。ただ、深く、遅く、白い息を吐いただけだった。ネムノは、それで満足したように立ち上がった。

 群れの猪達が境を越えて、眠る長の周りに集まってきた。鼻で長の体を突き、匂いを嗅ぎ、それから、落ち葉の上に、一頭ずつ身を横たえていく。

 最後の一頭が境を越えたのを見届けて、ウバメは、開けていた口から手を離した。ネムノが、その口を、空を撫でるようにして閉じる。境の向こうの猪達の姿が、少しだけ、遠くに見えた。

 

「……守矢には、うちから知らせる。山の中腹に、群れが一つ増えたってな」

「私も、人里の会館に報告を書くわ。北から獣が押し出されてる話も、一緒に。――面倒だけど、流石にこれは報告しなきゃまずい」

「……巫女」

「何よ」

「聖域のことは、書きすぎるんじゃないよ。外の噂になったら、また観光客が来る」

「……書かないわよ。どうせ誰も読まないし」

 

 ウバメはふん、と鼻を鳴らして、それきり何も言わずに森の奥へ帰っていった。だが、帰り際に一度だけ、霊夢の裂けた袖を、ちらりと見た。

 ネムノは、大剣を背に負い直して、霊夢の方を向いた。山姥の目が、少しだけ、和らいでいた。

 

「――巫女。今日の肉、少し持ってけ。……いや、持ち出しちゃなんねぇんだったな」

「じゃあ、ここで食べていくわ」

「……それなら、うちの小屋だ。開きにして、天日干しにしてやるべ。――肉の方をな」

 

 トチが霊夢の足元で、尾を一度だけ振った。

 


~聖域 上の沢 夕暮れ~

 

――帰り道の沢の水は、もう澄み始めていた。

 泥の窪地には、もう新しい泥水は溢れていない。湧き水が、溜まった泥を少しずつ洗い流していくだけだ。下草が生え揃うのは、来年の春だろう。窪地の南の縁では、小さな群れの猪達が、過ぎていった嵐を確かめるように、恐る恐る鼻を出していた。その中に、春に生まれた、まだ縞の残る仔が一頭混じっている。

 

 苔の岩の上に、チミが座っていた。沢の水に、裸足の足を浸けている。

 南の群れの、縞の残る仔が一頭、恐る恐る沢べりへ下りてきて、チミの足元の水を、平気な顔で飲み始めた。チミは、それをじろりと見下ろした。仔は、少しも気にしない。飲むだけ飲むと、尻尾を振りながら、親の方へ駆け戻っていった。

――ここにも、物の怪を怖がらない生き物が、一頭。チミの頬が、わずかに膨らんだ。だが、その頬はすぐに、仕方なさそうにしぼんだ。

 

「……ふん。気が、少しだけ澄んだわい」

「少しだけ?」

「少しだけじゃ。――まったく、今の若いもんは仕事が遅い。儂が若い頃は、猪の一群れくらい、朝飯前に片付いたもんじゃ」

「あんた、何もしてないじゃない」

「儂は、苦情を言いに行った。それが儂の仕事じゃ」

「……それ、ありがとうって意味よね」

「苦情じゃと言うておる」

 

 霊夢は小さく笑った。チミはそっぽを向いて、大きな耳を、パタリと振った。

 そして――その耳が、ふと止まった。

 チミは、沢の上流の、さらに向こうを見ていた。聖域の森を越えて、妖怪の山の尾根を越えて――そのもっと北。夕暮れの空の端に『氷霧連峰』の白い山の背が、かすかに浮かんでいる。

 

「……ただな、巫女。沢は澄んだが、山は、まだ嫌がっておる」

「……山が?」

「北の山じゃ。猪どもを押し出したもんが、まだ居る。儂には、それが何じゃかは分からん。――じゃが……儂(・)ら(・)よ(・)り(・)古(・)い(・)匂(・)い(・)がする」

 夕暮れの風が、沢を下っていく。冬の風にしては、妙に乾いていた。

 霊夢は何も言わずに、北の空をしばらく見ていた。それから、背の太刀の革帯を掛け直して、ネムノの小屋へと歩き出した。なんだかんだと言って、猪の肉は、ちゃんと食べていくつもりだった。

 


~聖域 ネムノの小屋~

 

――山姥の小屋の囲炉裏で、猪肉の鍋が煙っていた。

 杉の皮で葺いた低い屋根。土間には、稲藁を敷いたトチの寝床。壁には、縄と、干した草と、何枚もの獣の皮が掛かっている。その一枚だけが、分厚く、白く、他のどの皮とも違う毛並みをしていた。ネムノの肩掛けと、トチの胴当てと、同じ毛だ。

 ネムノは、鍋の猪の肉の、一番いい所を切り分けて、稲藁の上のトチの前に置いた。それから、二番目にいい所を、霊夢の木の椀に盛った。

 

「……ガルクが先なのね」

「今日、一番働いたのはこいつだべ」

「……それは、そうね」

 

 霊夢は椀の汁を啜る。味噌と、山の草と、猪の脂の味が口内に広がる。手捌きは粗いが、美味い。

 ネムノは自分の椀を手にしたまま、壁の白い皮を、しばらく黙って見ていた。それから、ぽつりと言った。

 

「……うちはな、巫女。北から下りてきたもんを、一度だけ、捕まえずに狩ったことがある。雪の鬼みてえな獣だった。山姥の小屋さ襲って、住人さ大勢怪我させた。だから、狩った」

「……そう」

「狩る必要があったか。今でも、うちには分からん。――だから、今日は、外の者の目が要ったんだべ」

「私は、当てずっぽうで言っただけよ」

「当てずっぽうで、あの足跡さ読めるかよ」

 

 ネムノはそう言ってふん、と小さく鼻を鳴らした。それが、この山姥の笑い方らしかった。

――小屋の戸口で、何かがコトリと小さな音を立てた。

 トチが耳を立てたが、唸りはしなかった。ネムノが、椀を置いて戸を開ける。

 外には誰も居なかった。ただ、戸口の平らな石の上に、干した茸の束が一つ、置かれていた。紐で括った、太い紐だった。ウバメの腕に巻かれていたそれと、同じ。

 

「……長だべ」

「……言えばいいのに」

「言わねえのが、あの長だべさ。外の者には、特にな」

 

 ネムノは茸の束を拾い上げて、その半分を無造作に鍋へ放り込んだ。南の森の茸だった。猪達に、まだ食い尽くされていなかった分だ。鍋から、土と秋の終わりの匂いが、ふわりと立ち昇った。

 稲藁の上で、トチが肉を平らげて、伏せたまま尾を一度だけ振った。外では冬の風が、北の方から小屋の屋根を乾いた音で撫でていく。霊夢はその音を聞きながら、椀の二杯目を受け取るべく、黙ってネムノに差し出した。

 

*1:
ガルクが使う猟犬具の一つ。獲物に噛ませるとガルクから離れても噛み付き続け、その場所を攻めると力が増す。




『封獣チミ』
所属:聖地ヤマンバの地(聖域の住人)
役職:聖域の監視者

『塵塚ウバメ』
所属:聖地ヤマンバの地(聖域の住人)
役職:聖域の山姥達の長

『坂田ネムノ』
所属:聖地ヤマンバの地(聖域の住人)
役職:聖域の均衡を保つ狩人
武器:雪鬼大剣『浮世ノ関』(大剣)
防具:雪鬼装【合歓】
オトモ:『トチ』(ガルク)
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