東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 《妖怪山岳狩猟会所》~
――その朝は、会所の障子が、一晩中鳴り止まなかった。
北から吹き下ろす風が、山の肩を越えて会所の軒に当たる。当たって跳ね返り、障子の桟を一枚ずつ、カタカタと鳴らしていく。――初雪から十日。北の峰の入山制限は、まだ解けていない。
受付の帳場で典が耳を揺らして筆を止めた。
「……今朝も、よく鳴りますねぇ」
狐の耳を片方だけ障子の方へ向けて、典は帳面に目を落とした。昨夜の哨戒の報告が三枚。どれも書き出しは同じだ。『北の尾根より強風。雲、渦を巻く。異常なし』。
異常なし――と、三人が三人共書いている。典は、その『異常なし』の四文字を筆の尻で軽く叩いた。
――その時、戸口の暖簾が、風とは違う揺れ方をした。
風に煽られて捲れたのではない。誰かが、静かに手で分けたのだ。
暖簾の向こうから、背の高い女が一人、会所に入ってきた。黒い帽子から、触角のような長いリボンが二本垂れている。肩には、縁が緋色に光る、長い長い羽衣。風の中を来たはずなのに、髪の一筋も乱れていなかった。
竜宮の遣い、衣玖だった。
「――おはようございます。『天界』より、空模様のお知らせです」
「あら、これは珍しい。竜宮の使い様が、里の会館じゃなくて、うちの帳場にいらっしゃるなんて」
「どちらにも同じことを申し上げます。――こちらを優先すべきだと判断しましたので。里へは、この後に」
衣玖は帳場の前で足を止め、典の手元の報告書にちらりと目をやった。『異常なし』と記された三枚の報告書。
「……北の峰の上。雲の下を、
典の筆が、止まったまま動かなくなった。
「……
「はい。昨夜から、ゆっくりと。西から東へ。――種類までは、分かりかねます」
衣玖はそこで言葉を切った。右の手袋の指先が、こめかみの辺りへ一度だけ上がって、すぐに下りる。
――典は、その仕草を見逃さなかった。改めて衣玖の顔を見つめる。
「……お顔の色が、少々悪いように見受けられますが」
「お気遣いなく。少し、頭が重いだけです。――重いものを読むと、いつもこうなりますので」
典はゆっくりと筆を置いた。それから、帳場の奥の障子の方へ、首だけを向ける。
「――神奈子様」
障子の向こうは、しばらく静かだった。風が、桟を鳴らす。一度、二度――
『……感じた空気は、どれくらい重い』
――低く短い、威厳ある声が障子越しに聞こえた。
「頭がよく痛むくらいには、と申し上げておきます」
『……そうか』
それきり、障子の向こうはまた黙った。
――その沈黙を、戸口の方から破った者がいた。
「――ちょっと、衣玖!人を置いて、一人で先に降りるなんてどういうつもりよ!」
今度は暖簾を、今度は手で分けずに頭から突っ込むようにして入ってきた。青い長い髪に、桃の付いた黒い帽子。帽子は風で斜めになり、腰の青いリボンは片方が解けかけている。背には、赤い顎を刃にした、鉈を大きくしたような大剣。
不良天人の天子だ。
その後ろから、黒と青灰の毛並みのガルクが一頭、ノッソリと入ってきて、戸口の脇に伏せた。首に鋼の牙の輪。天子のオトモのカナメだった。
「総領娘様。会所、会館への届けは私一人で足りますので」
「足りる足りないの話じゃないの!――だいたい、天界の桃の木が、朝から揺れっぱなしなのよ?下で何か起きてるに決まってるじゃない。それを私に黙って……!」
天子は帳場の前まで来て、衣玖の横に並んだ。それから典の手元の報告書を、遠慮なく覗き込む。
「『北の尾根より強風。雲、渦を巻く』……異常なし?これのどこが異常なしなのよ」
「さぁ?哨戒の天狗さん達は、見たものしか書きませんので。――雲が渦を巻くのは、山ではよくあることですからねぇ」
「よくあることで、天界の桃が揺れるもんですか」
天子は鼻を鳴らして、隣の衣玖の顔を見上げた。そして、少しだけ眉を寄せる。
「……衣玖。あんた、顔色悪いわよ」
「重いものを読みましたので」
「重いもの?」
「北の峰の上。雲の下を、渡っております。――天界の、ちょうど真下の辺りを」
天子の赤い瞳がパッと見開かれた。
衣玖は、言ってから、ほんのわずかに口を閉じるのが遅れたような顔をした。――空気を読むのが仕事の竜宮の使いが、言わない方がいい空気を、頭の痛みのせいで読み損ねたのだ。
「――天界の、真下?」
天子、帳場に片手をついて、身を乗り出した。
「なら、私の庭じゃないの」
「――総領娘様」
「雲の下なら、上から降りればすぐよ。何が渡ってるのか、この目で見てくればいいんでしょう?見てくるだけ。見てくるだけよ」
言い終わる前に、天子はもう踵を返していた。カナメが、主人の動きに合わせて、伏せたまま耳を立てる。
「――なりません、総領娘様」
衣玖が、天子の背に手を伸ばした。羽衣の端が、緋色に光って、天子の腰の方へ伸びる。
だがその羽衣は、天子の腰に届く前に、フッと力を失って床へ垂れた。衣玖の指が、またこめかみへ上がる。今度は、すぐには下りなかった。
天子が暖簾に手を掛ける――
――その時、帳場の奥の障子がピシャリと開いた。
「――比那名居天子」
――障子の敷居の上に、神奈子が立っていた。紫がかった青い髪。背には、注連縄を思わせる太い輪。いつもなら障子の奥から声だけで指図をする守矢ギルドの
典が、ほんの少しだけ目を丸くする。
「庭、と言ったな」
「えぇ、言ったわよ。天界の真下は、天人の庭でしょう」
「――山の上は、守矢の祭神たるこの私の庭だ」
神奈子は短くそう言って、ツカツカと帳場の脇を回り込み、天子の前に立つ。背は神奈子の方が少しだけ高い。
「北の峰の上を、重いものが渡っている。気質を読み取る竜宮の使いが、頭を痛める程のものだ。――それが何か、お前は分かってて行くのか」
「分からないから、見に行くんじゃない」
「分からないものを、不良天人が一人で見に行って、どうなる」
「どうにもならないわよ。見るだけだもの」
「はたして見るだけで済む相手か」
天子は口を開きかけて、閉じた。
神奈子は帳場の上の哨戒の報告書を一枚、指で摘まんで持ち上げた。『異常なし』――それを、天子の目の前でヒラリと振る。
「――不確実だが、古龍かもしれん。かもしれんものは、会議にかける。守矢の決まりではない、幻想郷の決まりだ。人里の会館に登録したお前も、それは知ってるだろう」
「……知ってるわよ。慧音に、耳にタコができるくらい聞かされたもの」
「なら、話は早い」
天子は帽子の鍔をグイと下げる。
「……ふん。じゃあ、私は何をしてればいいのよ。天界に帰って、桃の木が揺れるのを、ぼーっと眺めてろって言うの?」
「誰も、そんなことは言ってないさね」
神奈子は書き付けを帳場に戻すと、典の方へ顎をしゃくった。
「典。今朝の、交易路のやつを出しな」
「はぁい。――ちょうど、どなたに回そうか、困っていたところなんですよ」
典が、帳場の引き出しから依頼票を一枚抜き出した。朱の判はまだ押されていない。
場所:石小屋の前後、およそ二町
様子:路面の陥没多数。路の下を這うものあり。空より角の付いた甲虫、数匹
荷運び三名、石小屋に留まる
目標:大型モンスターの撃退、または討伐。荷運びの下山の護衛
「交易路の石小屋の辺りで、昨日の昼から、道に穴が空き始めましてね。一つ空いて、二つ空いて、夕方には、荷車が通れないくらいに。荷運びの方が三人、石小屋から下りられなくなってるんですよぉ」
「……甲虫?」
「えぇ。空から、大きな角の付いた甲虫種のモンスターが、何匹も降りてきてるそうで。――昨夜の北の風で、尾根の方から吹き落とされてきたのかもしれません」
典は、そこで神奈子の顔をチラリと見た。神奈子は、黙って頷く。
「あの交易路は、山の北側の集落から中腹へ下りる、一番太い道だ。――もしも、北の峰の上を渡ってるものが、会議で古龍と決まったら、集落の者を逃がすのに、まずあの道を使わねばならない」
天子の眉が、ピクリと動いた。
「逃げ道に、避難を邪魔する穴を空けられたまま、ってわけね」
「そういうことだ。――暇なら、その腕を貸せ。天人の大剣なら、甲虫の殻くらい割れるだろう」
「……当然でしょう。割れるに決まってるじゃない」
天子は、典の手から依頼票をひったくるように取った。そして、受注者の欄に、大きく、乱暴に名前を書く。その下の同行者の欄にも、筆を止めずに続けて書いた。
――『比那名居天子』『永江衣玖』『カナメ』。
衣玖が、天子の手元を見下ろした。
「……私の名前も、書かれましたね」
「書いたわよ。あんた、どうせ付いてくるんでしょう」
「左様でございます」
「なら、ちょうどいいじゃない」
天子は筆を帳場に置いて、それから、神奈子の方へ顎を上げた。
「――で?ギルドマスター様は、ここで判を押して待ってるのかしら」
「いや」
神奈子は、帳場の奥の壁に供える様に掛けてある、一本の長い得物を下ろした。
――御柱をそのまま削り出したような太い砲身が、紺碧の、硬く弾力のある皮で幾重にも巻き締められ、その上から、注連縄が蛇のように螺旋を描いて巻き付いている。砲口の周りには、尖った碧い棘が、風に梳かれたような紋を描いて並んでいる。添えられた大盾は、楕円の鏡を嵌め込んだような形で、縁には風袋を思わせる膨らみがある。
――季節ごとに山を渡る風の古龍、その抜け落ちた皮と棘で鍛えたガンランス――風神銃槍『八坂御柱』の下に神奈子は向かい、得物を手に取る。
「――私も行く」
「……は?」
「避難経路の話だ。私の目で見ておかねばならない。――それに」
神奈子はガンランスを背に負い直しながら、天子の顔を見た。
「お前から目を離すと、勢いそのまま北へ飛んで行きそうだからな」
天子は何か言い返そうとして、結局、帽子の鍔をもう一度下げただけだった。
帳場の脇で、典が朱の判を依頼票にポンと押す。それから、衣玖の方へ小さな湯呑みを一つ差し出す。
「――竜宮の使い様。出立前に、白湯を一杯どうぞ。気休め程度ですが、頭痛には一先ず温かいのが一番かと」
「……ありがとうございます」
衣玖は湯呑みを両手で受け取って、少しずつ口に運んだ。その間も、衣玖の目は、一度も北の方の障子から離れなかった。
障子の桟が、またカタカタと鳴った。
~妖怪の山 中腹 山岳交易路~
――交易路は、崩れかけた岩山の肩を、蔦に縋るようにして巻いていた。
右手は切り立った岩壁。左手は、霧の底まで落ちていく谷。岩と岩の継ぎ目を、太い蔦が何本も縫い合わせていて、その蔦が無ければ、この山の上の方はとうに崩れていただろう、と思わせる。時々、遥か頭の上から小石がパラパラと降ってくる。
その道を、三人と一頭が一列になって上っていく。
先頭は神奈子。その後ろに天子とカナメ。殿は衣玖だった。北の風が谷の方から吹き上げて、衣玖の長い羽衣を、旗のように横へなびかせている。
「――で、甲虫って、どれくらいの大きさなのよ」
天子が前を行く神奈子の背中に尋ねる。
「空から降ってきてるのは、雌雄の片割れ、角の付いた奴だろう。人の背丈の倍くらいはある」
「倍くらい?大したことないじゃない」
「空から降ってくる奴は、な」
神奈子はそれ以上は言わずに、足を止めた。
――道が無くなっていた。
正確には、道に大穴が空いていた。荷車の轍が刻まれた石畳の真ん中に、人が三人並んで入れるほどの丸い穴が、ポッカリと口を開けている。穴の縁の石畳は、下から押し上げられたように盛り上がって、割れていた。穴の奥は暗く、湿った土の匂いが、ムワリと上がってくる。
その先にも、もう一つ。さらにその先にも一つ。
穴は道に沿って、点々と続いていた。石小屋のある岩棚の方へ向かって。
「……穴の縁が、外へ捲れてるわね」
天子が穴の脇にしゃがみ込んだ。割れた石畳の欠片を一つ拾って、裏を返す。
「下から、突き上げて出てきたのよ。上から掘ったんじゃない。――それに、これ」
天子は、穴の縁の土を指でなぞった。土の上に、深い溝が三本ずつ、平行に刻まれている。
「爪の跡ね。……一本一本が、私の腕より太い」
「人の背丈の倍、ってのは、空から降ってくる方の話だって言っただろう」
神奈子が、穴の中を覗き込みながら言った。
「――穴を掘る方は、もっと大きい」
衣玖が天子の隣に並んで、穴の中を見下ろした。羽衣の縁の緋色が、穴の暗がりの縁を薄く照らす。
「……下は、読めません」
「分かってるわよ。あんた、地面の下は苦手なんでしょう」
「申し訳ございません」
「謝るところじゃないわ。――地面の下なら、私の方が分かるもの」
天子は、そう言って立ち上がり、穴の脇の割れていない石畳の上にブーツの底をピタリと着け、目を閉じる。
風が谷から吹き上げてくる。蔦が鳴る。遠くで、小石が落ちる。
天子は、その音を全部、聞かないことにした。聞くのは、足の裏だけだ。
――何かが這っている。
足の裏の、ずっと下。岩と岩の継ぎ目の、さらに奥。重いものが、ゆっくりと、だが確かに、土を掻き分けて進んでいる。その揺れが、石畳を伝って、ブーツの底に、トン、トン、と微かに当たる。
「……居るわ」
天子は目を開けた。
「下を這ってる。重いのが一つ。石小屋の方へ、ゆっくり。――地震じゃないわよ。念のため言っておくけど」
「誰も、お前を疑ってなどいない」
神奈子が微かに笑う。天子はふん、と鼻を鳴らしたが、帽子の鍔は下げなかった。
――その時、頭の上から、ブゥゥン、と低い羽音が降ってきた。
三人と一頭が、一斉に見上げる。
岩壁の上方、蔦の絡んだ岩棚の縁に、緑色のモンスターが一匹、張り付いていた。人の背丈の倍ほどもある、流れるような形の甲虫。頭の後ろから、槍の穂先のような巨大な角が、前へ突き出している。前脚の先は、鎌のように曲がった鋭い爪。背の硬い甲殻が二枚に割れて、その下から薄い翅が広がり、震えている。
アルセルタスは、甲虫セルタス種の雄個体である。空を飛ぶのが得意で、角を前に突き出したまま、矢のように突っ込んでくる。その角は、岩盤にさえ突き刺さる程に硬く鋭い。
一匹ではなかった。岩棚の陰から、もう一匹。さらにその上の、別の岩棚からも、羽音が重なる。
「三匹ね」
「……いえ。四匹です」
衣玖が谷の向こうの空を見ていた。霧の切れ間に、緑の影が一つ、風に煽られなが、こちらへ流れてくる。
「――北の風に、吹き流されてきています。自分で飛んでいる空気ではありません」
「やっぱり、尾根からの風で吹き落とされてきたってわけね」
天子が、背の大剣の柄に手を掛けた。
「――上の虫は放っておけ」
神奈子が言った。
「降りてきたら追い払えばいい。――用があるのは、下の方だ。石小屋まで行くぞ」
神奈子が穴と穴の間の、まだ残っている石畳の上を選んで、大股に歩き出す。天子とカナメが続き、衣玖が最後に、一度だけ北の空を振り返ってから、後を追った。
北の空の雲は、低く、重く、ゆっくりと渦を巻いていた。
~妖怪の山 中腹 山岳交易路 石小屋~
――石小屋は、岩棚の上に、石を積んで建てた小さな小屋だった。
交易路を行き来する荷運びが、雨や雪や、大型の通り過ぎるのを待つための小屋だ。分厚い石の壁に、小さな窓が一つ。戸は、内側から何かで押さえられているらしく、神奈子が叩くと、中で物の動く音がした。
「――守矢の会所の者だ。迎えに来た」
『……か、神奈子様ですか!?』
戸の向こうから、掠れた男の声がした。戸が、ほんの少しだけ開く。髭の伸びた荷運びの男が、恐る恐る顔を出した。その後ろに、もう二人。三人とも、目の下に濃い隈を作っていた。
「怪我は」
「あ、ありません。三人とも。……ただ、一晩中、床の下が鳴ってて、一睡も出来ず」
「床の下?」
「は、はい。ゴリゴリ、ゴリゴリって。……何かが、小屋の下を、グルッと回ってるみたいで。朝になって、少し静かになったんですが」
天子が小屋の前の岩棚に、もう一度ブーツの底を着けた。
――さっきより近い。
トン、トン……と当たっていた揺れが、今は、ドン、ドン――と重い。足の裏から、膝まで響いてくる。
「……真下よ」
天子の声が低くなった。
「この岩棚の、真下。――上がってくるわ」
「――三人を小屋の中へ」
神奈子が、背のガンランスを下ろしながら指示する。
「衣玖、戸口を頼む。――比那名居は前だ」
「言われなくても……!」
天子は背の大剣の柄を肩越しに掴んだ。そして――岩棚が下から持ち上がった。
――岩棚の縁が、内側から弾け飛んだ。
石の塊が、谷の方へ転がり落ちていく。その後に開いた大きな穴から、土煙と一緒に、緑の壁がせり上がってきた。
壁ではなかった。――甲殻だ。
深緑の分厚い甲殻。それが、何枚も何枚も、城の石垣のように重なり合って、小屋ほどもある体を覆っている。光の加減で、その緑の表に、玉虫のような七色の斑が、ユラリと浮かんでは消える。頭の前には、左右に大きく開く二本の大顎。その手前で、太く短い前脚の爪が二本、顔の前に盾のように揃えて構えられている。そして、体の後ろから高く持ち上がった長い尾の先には――三日月の形をした、一対の巨大な鋏。
空から降ってきた甲虫とは、比べものにならない。同じ種でも、こちらは飛ぶための形ではなく、地を掘り進み、押し潰すための形をしていた。
ゲネル・セルタスは、セルタス種の雌個体だ。雌は雄よりずっと大きく、ずっと重い。飛ぶための翅を捨てた代わりに、要塞のような甲殻と、地面を掘り進む力を手に入れた。そして、空を飛ぶ雄達は――雌にとっては、単なる繁殖相手と
大顎が、左右にガバリと開く。
――鳴き声というより、金属の軋むような轟音だった。
河童の工房で、錆びた歯車を無理に回した時のような、金属の擦れる音。それが、岩棚の上の空気を、ビリビリと震わせる。
「……生き物の声なの、これ」
「甲虫だからな」
神奈子が左手にガンランス、右手に大盾を構えて、天子の半歩前に出る。
「――来るぞ。正面は私が受ける。比那名居、脇から脚の継ぎ目を叩け。殻の上からじゃ刃が滑る」
「指図しないで。分かってるわよ」
天子は背から大剣を引き抜いた。赤い顎を研いだ、厚く幅広い刀身。その刀身の背に並ぶ青い殻が、曇り空の下で、鈍く七色に光る。
ゲネル・セルタスの太い脚が、岩棚を蹴った。
――重い。
突進というより、壁がそのまま迫ってくる。一歩ごとに岩棚が揺れ、小屋の屋根の石が一枚ずり落ちる。
神奈子は退かなかった。大盾を斜めに構え、肩から体ごと押し当てる。
盾と甲殻がぶつかった衝撃で、神奈子の足が、岩棚の上を一尺ほど後ろへ滑った。だが、それ以上は下がらない。神奈子は、盾の陰から銃槍の砲口を突き出し、甲殻の継ぎ目に押し当てて――撃った。
砲口の根元から火が噴いた。ゲネル・セルタスの巨体が、ほんのわずかに、右へ傾ぐ。小屋の方ではなく、岩壁の方へ。
神奈子は、正面から止めたのではなかった。突進の向きを、ずらしたのだ。
ゲネル・セルタスの頭が、岩壁に突っ込んだ。蔦がブチブチと千切れ、岩の破片が降り注ぐ。
「――今だ!」
天子は既に走り出していた。
岩壁に頭を突っ込んで止まった巨体の、左の側面へ回り込む。
――前脚と胴の継ぎ目。そこだけ、甲殻が途切れて、灰色の柔らかい肉が覗いている。
天子は、大剣を担いだまま、踏み込んだ足に体重を乗せた。刀身に力、溜める。顎を研いだ赤い刃が、天子の力を吸い込むように、ジワリと熱を帯びていく。
ゲネル・セルタスが、岩壁から頭を引き抜いた。
振り向きざまに、長い尾が天子の方へ薙いでくる。三日月の鋏が、口を開けたまま、横から迫る。
天子は、溜めを解かなかった。大剣の腹を盾にして、肩から尾にぶつかっていく。『タックル』――金剛身の吶喊により鋏の付け根が、刀身の腹に当たって弾かれる。天子のブーツが、岩棚の上を滑る。だが、倒れない。
――溜まった。
「ハァァァッ!」
天子の大剣が振り下ろされる。
赤い刃が、前脚の継ぎ目に真上から食い込んだ。ゲネル・セルタスの体が、大きく傾く。脚が一本、岩棚の上で折れたように曲がって、巨体が膝をつくように沈んだ。
「どうよ!」
「――まだだ。尾を見ろ!」
神奈子の声に、天子は顔を上げた。
ゲネル・セルタスの高く持ち上げた尾の、三日月の鋏の付け根から、白っぽい靄が、細く立ち上っていた。靄は、谷から吹き上げる風に乗って、岩壁の上の方へ流れていく。
甘いような、饐えたような、奇妙な匂いがした。
――そして、羽音が一斉に変わった。
岩壁の上の岩棚で、それまで張り付いていたアルセルタス達が翅を震わせて、次々に飛び立つ。風に煽られてふらついていた四匹目も、靄の流れを辿るように、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「――呼んでるのね」
「雄を呼ぶフェロモンの匂いだ。――来るぞ、上だ!」
一匹目のアルセルタスが、角を前に突き出して、真上から降ってきた。狙いは天子ではなく――膝をついたゲネル・セルタスの背中だ。
アルセルタスの体が、雌の背に落ちる。その瞬間、高く持ち上がっていた三日月の鋏が、雄の胴をガシリと挟んだ。挟んだまま、自分の背の上に押さえ付ける。雄の角が、雌の頭の上を越えて、前へ突き出される。
――一つの体になった。
雌の重さと、雄の角と爪。地を這う要塞の頭の上に、岩盤を貫く槍と剣が載ったのだ。
「……虫のくせに、合体なんて洒落た真似を」
天子が大剣を担ぎ直す。
ゲネル・セルタスが、折れた脚を引きずりながら立ち上がった。背の上で、アルセルタスの腹が、グイと持ち上がる。その腹の先から、黄色い液が霧のように噴き出した。
「――下がって!」
天子は横へ跳んだ。液が、天子の居た岩棚に降りかかる。ジュウッ、と嫌な音がして岩の表面が泡立つ。
「腐食液だ。防具が溶けるぞ。浴びるなよ」
「浴びてないわよ!」
カナメが低く唸って、ゲネル・セルタスの後ろ脚へ回り込んだ。首の鋼の牙の輪が、ガチリと鳴る。カナメは、後ろ脚の継ぎ目に、[鋼鉄牙]の牙を噛ませた。巨体が一瞬、そちらへ気を取られる。
――その一瞬、ゲネル・セルタスの頭が、石小屋の方を向いた。
大顎が限界まで開いた。その奥で、何かが、ゴボゴボと音を立てて膨らんでいく。腹の中の体液を、喉へ押し上げている音だ。
「――衣玖!」
天子が叫ぶより早く、ゲネル・セルタスの口から、液が撃ち出された。
水の砲弾だった。白く濁った液の塊が、一直線に小屋の戸口へ向かう。
戸口の前には、衣玖が立っていた。
衣玖は、右手の盾と、左手の細く長い槍を静かに構えていた。槍の柄に巻かれた皮膜が、螺旋を描いて、青緑の鱗を光らせている。――飛雷槍『龍魚』を構えて相対する。
一発目が、盾に当たった。
衣玖は、受けた瞬間には既に穂先を突いていた。盾で受けた衝撃を逃がしながら、槍の穂先を前へ。突きが空を切って、液の飛沫が、盾の縁から左右へ散る。
二発目。衣玖は、半歩も退かずに受けた。また、受けた瞬間に突く。
ゲネル・セルタスが、反動で仰け反りながら、三発目を溜めた。
――その時、北の風が一際強く吹いた。
谷の底から、山の肩を越えて、岩棚の上へ叩き付けるような風だった。小屋の屋根の石が、ガタガタと鳴る。蔦が千切れて飛んでいく。
そして、その風の向こう――北の峰の上の、低く渦を巻く雲の、さらに奥から――何かが、ゆっくりと身じろぎをした。
衣玖には、それが見えたわけではなかった。聞こえたのでもない。ただ――空気が重くなった。頭の中に、冷たい鉄の塊を押し込まれたように。
衣玖の盾が、ほんの一寸下がった。
そこに――三発目が、撃ち出された。
――液の砲弾と衣玖の盾の間に、青い影が割り込んだ。
天子だった。
大剣の腹を、横に寝かせて盾にしている。砲弾が、刀身の腹に正面から当たった。天子の体が、ブーツごと後ろへ押されて、衣玖の盾に背中からぶつかる。
白く濁った液が、天子の肩から腕へ、ザブリと降りかかった。
「――総領娘様!」
「……冷たっ」
天子は顔に掛かった液を、腕で乱暴に拭う。肩の青い殻の防具は、少し濡れて光っているだけで、溶けてはいない。腐食液ではなく、ただの水の砲弾だった。
「平気よ。ちょっと汚いだけの水よ、ただの。――あんたこそ、何よ、今の」
「……申し訳ございません。空気が、急に」
衣玖の顔は、さっき会所で見た時よりも、さらに白くなっていた。槍を握る左手の指先が、ほんのかすかに震えている。
天子はそれを見た。
そして何も言わずに、衣玖の前に、もう一歩出た。
「――ここは、私が受けるわ。あんたは、戸口を塞いでなさい。座っててもいいから」
「総領娘様、それは」
「いいから!」
天子は振り向かなかった。
――ゲネル・セルタスの体から、白い蒸気が噴き出した。
甲殻の継ぎ目という継ぎ目から、シュウシュウと音を立てて。三発を撃ち尽くした反動で仰け反っていた巨体が、ゆっくりと前へ傾き直る。下腹から噴き出した蒸気が、岩棚の上を這うように広がった。
軋むような鳴き声が、さっきよりも、高く、速くなっている。錆びた歯車が、無理に速く回されているような音。
――怒り状態だ。
「――比那名居。衣玖を後ろに置いたまま、受け切れるか」
神奈子が天子の隣に並んだ。大盾を、天子の盾代わりの大剣と肩を並べるように構える。
「受け切るわよ。誰に言ってるの」
「なら、二人で受ける。――あの背中の雄が、雌を持ち上げて飛んだら、上から落ちてくる。落ちてくる先は、私が変える」
「変えるって、どうやって」
「風の神の面目躍如だ。――見てな」
ゲネル・セルタスの背の上で、アルセルタスの翅が、唸りを上げて震え始めた。薄い翅が、見えなくなるほどの速さで羽ばたく。
小屋ほどもある雌の巨体が――フワリと浮いた。
雄が、雌を抱えたまま岩棚の上の空へ、重たげに昇っていく。三日月の鋏が、雄の胴を締め上げたまま。雌の太い脚が、宙を掻く。
高く、小屋の屋根を越えて。岩壁の、蔦の絡む高さまで。
そこで――羽音が止まった。
巨体が真っ直ぐにに落ちて来る。真下には、石小屋の屋根がある。
――神奈子が、無言で右手の大盾を高く掲げた。
その盾の縁の、風袋のような膨らみがブワリと膨らむ。神奈子の周りの空気が、急に乾いた。谷から吹き上げていた湿った風が、そこだけピタリと止まる。そして、止まった風の代わりに乾いた風が一筋、神奈子の盾から斜め上へ吹き上がった。
ほんの一筋だ。巨体を押し返すほどの力は無い。
だが――落ちてくる巨体の、背の上の雄の翅を、ほんのわずかに煽るだけの力はあった。
雄の翅が、乾いた風を受けて、斜めに傾いだ。落ちてくる巨体の向きが、小屋の屋根からほんの数歩分、岩棚の端の方へ、ずれた。
ゲネル・セルタスが、小屋の屋根を掠めて、岩棚の上に落ちた。岩棚に、蜘蛛の巣のような罅が走る。小屋の屋根の石が何枚か弾け飛ぶ。だが、屋根は落ちなかった。
落ちた衝撃で、雄の体が雌の背の上で大きく跳ねた。三日月の鋏が一瞬緩む。
「――今だ、比那名居!」
神奈子は既に走っていた。ガンランスの砲口を、雌の背の上の雄へ向ける。柄尻を岩棚に突き立てて、体ごと踏ん張った。砲身の奥で、何かが、低く唸り始める。
――[竜撃砲]だ。
砲口から噴いた炎が、アルセルタスの体を、雌の背の上から真横へ吹き飛ばした。雄の体が、岩棚の上をゴロゴロと転がって、岩壁にぶつかって止まる。翅が一枚、根元から折れていた。
三日月の鋏が空を挟む。
背の上の雄を失った雌が、尾を高く振り上げたまま、一瞬、動きを止めた。
――その尾の付け根に、天子が居た。
大剣は既に力を溜め終わっていた。神奈子の竜撃砲の轟音の間ずっと、天子は、刀身を担いだまま、体の中で力を溜め続けていたのだ。赤い刃は、焼けた鉄のように赤く、刀身の周りには、陽炎が立っている。刃の輪郭が、揺らいで見えた。
「――天人の、庭先で……!」
天子は大剣を振り下ろした。
「好き勝手してんじゃないわよ!」
揺らぐ赤い刃が、三日月の鋏の付け根に真上から叩き込まれた。
甲殻が割れた。鋏の付け根の、継ぎ目から。三日月の鋏が、尾の先から千切れて、岩棚の上に転がり落ちる。
ゲネル・セルタスが、軋むような悲鳴を上げた。
――それで、終わりだった。
ゲネル・セルタスは、鋏を失った尾を引きずって、岩棚の上をノロノロと後ずさる。そして、岩壁にぶつかって転がっていたアルセルタスの側まで下がると――短くなった尾で、動けない雄の体をグイと抱え込んだ。
雄の足が弱々しく宙を掻く。
雌はそれを抱えたまま、岩棚に開いた大きな穴の中へ、頭から潜っていった。緑の甲殻が、土の中へ沈んでいく。尾が沈み、抱えられた雄の、折れた翅の先が沈んで――見えなくなった。
しばらくの間、穴の奥から、ゴリゴリと土を掻く音が聞こえていた。それも、やがて遠ざかっていく。
「……連れて行ったわね、あの雄」
天子が穴の縁を覗き込みながら言った。
「連れて行ったんじゃない。――
神奈子が、銃槍の砲身を中折れに開いて、空薬莢を弾き出しながら続ける。
「疲れ、飢えた雌は、雄を食って精を付ける。ゲネル・セルタスにとって、アルセルタスは武器であり、食料であり、繁殖の手段――そういう虫だ。火竜のような仲睦まじさとは正反対にな」
「……」
天子は、黙って穴を見下ろしていた。それから、ブーツの底を、穴の脇の岩棚に着けた。目を閉じる。
「……遠ざかってるわ。山の腹の、ずっと下の方へ。――もう、上がってこない」
「なら、撃退成功だ」
空を見上げると、残りのアルセルタス達も、もう岩棚の上には居なかった。匂いの靄が消えて、呼ばれる理由が無くなったのだろう。谷の向こうの霧の中へ、北の風に流されるようにして、散っていくのが見えた。
岩棚の上には千切れた三日月の鋏が、一つだけ残されていた。
――荷運びの三人が、小屋の戸口から恐る恐る顔を出したのは、それから少し後のことだった。
「……お、終わったんですか」
「終わった。道は穴だらけだが、歩けないほどじゃない。――下まで送る。今は、荷は置いていけ。後で天狗に運ばせる」
神奈子が言うと三人は顔を見合わせて、それから一斉に深く頭を下げた。
衣玖は、戸口の脇の石壁に背を預けて座っていた。盾を膝に立て掛け、槍を肩に寄せて、目を閉じている。羽衣の縁の緋色が、いつもより少しだけ暗い。
天子がその前にしゃがみ込む。
「……衣玖」
「はい、総領娘様」
「頭は」
「少し、重いだけです。――慣れたことです」
「慣れたこと、ねぇ」
天子は衣玖の顔を、じぃっと覗き込んだ。それから、腰の袋の中を探って、桃を一つ取り出した。帽子に付いているのと同じ、天界の仙桃だ。
「食べなさい。体が丈夫になるやつだから」
「……味は、期待しない方がよろしいのでしたね」
「余計なことは覚えてなくていいのよ」
衣玖は桃を受け取った。両手で包むように持つが、それきり、口には運ばなかった。
カナメが衣玖の足元に寄ってきて、静かに伏せる。尻尾は、振らなかった。
――北の風が、また強くなった。
今度のは、さっきよりも長かった。谷の底から吹き上げて、岩棚の上の土埃を巻き上げ、千切れた蔦を空へ攫っていく。荷運びの男の一人が、帽子を押さえて「うわっ?!」と声を上げた。
天子は立ち上がって北を見上げた。
岩棚の縁の向こう。谷を挟んで、北の尾根が、霧の中に黒く連なっている。その尾根のさらに上――低く垂れ込めた雲が、ゆっくりと大きく渦を巻いていた。
会所の障子越しに見た時よりも、近い。渦の芯の辺りだけ、雲の色がほんの少し違って見えた。灰色の中に、もっと冷たい、鉄のような色が混じっている。
渦の、さらに上には――天界がある。
天子は、岩棚の縁に向かって一歩、踏み出した。
「……あそこね」
もう一歩。ブーツの底が、岩棚の縁の、罅の入った石を踏む。その先は、霧の底まで落ちていく谷だ。だが、天子は天人だった。谷に落ちる前に、空へ上がれる。
「……見るだけよ。上から、ちょっと覗くだけ。――天界の真下なんだから、私が見に行かなくて、誰が――」
天子の踵が岩棚を蹴ろうとした――
「――止めろ、比那名居!」
神奈子の声が風を割った。
それでも天子は、止まらなかった。止まらずに、振り返りもせずに言い返す。
「会議にかけるんでしょう!?かけてる間に、あれが天界に上がってきたらどうするのよ!」
「上がってこない!――あれは、北の峰の上を渡ってるだけだ。今はな……!」
「今は、でしょう!」
「ああ、今はだ!――だから、今は行くな」
天子の踵が、岩棚の縁で宙に浮きかけた。
神奈子は追わなかった。手を伸ばしもしなかった。ただ、静かな声でもう一言だけ言った。
「――振り返ってみな」
天子の背中が、ほんの一瞬強張った。
そして、天子は振り返った。
戸口の脇の石壁に、衣玖がまだ座っていた。
いや――座ってはいなかった。立ち上がろうとしていた。盾を杖にして、片膝を立てて。羽衣の端が、緋色に光って、天子の方へ伸びかけている。だが、その羽衣は、天子の腰には到底届かない長さのところで、ユラユラと揺れているだけだった。
衣玖の顔は真っ白だった。こめかみに当てた右手の指が、帽子の触角のリボンを、ギュッと握り込んでいる。
衣玖は、天子と目が合うと、唇を動かした。
「……なりません、総領娘様」
いつもの、あの静かな声だった。だが、天子のところまでは、ほとんど届かなかった。北の風が、半分以上を攫っていった。
天子は岩棚の縁に立ったまま、動かなかった。
いつもなら――天子が無茶をして、谷へでも竜の前へでも飛び出せば、衣玖の羽衣が腰に巻き付いて、引き戻してくれる。天子は毎回それに怒る。怒りながら、本当は、それを分かっていて飛び出している。
――だが今は、その羽衣が届かない。
北の空の、あの重いものが、衣玖の頭の中を押し潰している。押し潰されながら、衣玖はそれでも、天子を止めようとして、立ち上がろうとしている。
「――あいつはな」
神奈子が、天子の隣まで歩いてきた。北の渦を、天子と並んで見上げる。
「あれが渡ってる限り、ずっとあの状態だ。頭の中に、あれを抱えたまま立ってる。――お前が一人で上へ行けば、あいつは、あの頭のまま、お前を追って上へ行くだろうな」
天子は、何も言わなかった。
「……会議で判断と対処が決まったら、前に立たせてやる。古龍の前に、正面からな。私がそう上申する。――だからそれまでは、一人で行くな」
神奈子はそれだけ言って、天子の肩を一度だけ軽く叩く。それから、荷運び達の方へ戻っていった。
天子は、北の渦をもう一度だけ見上げた。
それから――岩棚の縁から足を引いて、踵を返した。ツカツカと、衣玖の前まで戻ってしゃがみ込む。
「……座ってなさいって、言ったでしょう」
「総領娘様が、座っていらっしゃいませんでしたので」
「……ふん」
天子は、衣玖の手から杖にしていた盾を取り上げた。そして、自分の大剣と一緒に背負う。――重い。それでも、天子は顔色一つ変えなかった。
「帰るわよ。――下りの道は、私が前。あんたは、私の後ろ」
「それでは、いつもと逆でございます」
「いいのよ。今日は、逆の日なの」
衣玖は少しだけ目を細めた。それから、桃を片手に持ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
~妖怪の山 妖怪山岳狩猟会所~
――その夜。会所の障子は、もう鳴っていなかった。
北の風が、日暮れと共にパタリと止んだのだ。止む前の最後の一吹きで、会所の軒の風鈴が一つ、チリン、と鳴った。それきりだった。
帳場の奥の障子の向こうで、神奈子は、書き付けを一枚、書き終えたところだった。
交易路でのモンスター撃退の報告ではない。それは、典が昼のうちにまとめてある。神奈子が書いていたのは、もっと短いものだった。
尾根の雲、渦を巻く。芯に、鉄の色
見立て、未だ足らず
神奈子は、最後の一行をしばらく見下ろしていた。そしてその書き付けを、帳場の奥の文箱の、一番底に仕舞った。先頃の、錆びた鱗片の包みの、すぐ隣に。
典が障子の向こうから声を掛けた。
『――神奈子様。天人様と竜宮の使い様、集会所の奥の部屋で、お休みになってますよぉ。天人様の方が、竜宮の使い様の枕元で、桃を剥いてらっしゃるそうで』
「……桃か」
「えぇ。剥くのが下手で、皮が分厚いって、山如さんが笑ってましたよ」
障子を隔て、神奈子が短く笑う。
「――比那名居は、天界には帰ったか」
『いいえ?今夜は、集会所に泊まるそうです。――北の方は、見向きもしないで』
神奈子が静かになる。
「……そうか」
やがて出た返答は、それきりだった。
会所の外では、風の止んだ夜空に星が出ていた。だが――北の尾根の上だけ、星が一つも見えなかった。