東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第十五話:死の天使の笛

~妖怪の山 妖怪山岳狩猟会所~

 

――その朝、会所の待合の火鉢にはいつもより多く炭が足されていた。

 初雪から半月が経つ。北の峰の入山制限は、未だ解けていない。制限により行き場を失った山のハンター達が待合の長椅子に並んで、火鉢に手をかざしている。誰も口を開かない。口を開けば、すぐ北の峰の話になるからだ。

 そんな会所の受付の帳場で、典は筆の尻で帳面を叩いていた。

 

「……今朝は、静かですねぇ」

 

 耳を片方だけ戸口へ向けて、典は呟いた。障子を鳴らす北の風も、今朝は少しだけ弱い。

 

――その静けさを、戸口の暖簾ごと吹き飛ばして、黒い影が飛び込んできた。

 土間に黒い翼の羽根が二、三枚、ヒラヒラと舞い落ちる。頭襟の房を揺らし、肩で息をしているのは、鴉天狗の新聞記者――文だった。

 

「――おはようございます、典さん!朝から失礼しますよ!」

「はい、おはようございます。対抗新聞同士(ダブルスポイラー)の片割れさんが、朝から血相を変えて。……何か、書けることでもありましたか?」

「書けることなら、山ほど。――でも、これは先にギルドに入れておくべき話です」

 

 文は帳場の上に、小さな帳面を開いて置く。走り書きの文字が、開かれた頁いっぱいに並んでいる。いつもの軽口が、その口元から消えていた。

 

「――昨夜のことです。北の尾根の上で、天狗の伝令が二人、落ちました」

 

 穏やかではない言葉を聞いて待合の長椅子で何人かのハンターが顔を上げた。

 

「二人とも、命に別状はありません。ただ、二人とも、片方の翼が根元まで真っ白に凍り付いていました。羽ばたけなくなって、そのまま雪の斜面へ真っ逆さま。落ちた場所が雪の吹き溜まりでなければ、今頃は――」

 

 文はそこで言葉を切った。それから、帳面の一行を指でなぞる。

 

「同じ夜、尾根の見張り小屋に詰めていた哨戒天狗の報告です。そのまま読みますよ」

 

――『月明かりの下、白い花のようなものが、尾根の上を泳いでいた。羽ばたく音は、一度も聞こえなかった』

 

 帳場の上に、一瞬だけ沈黙が落ちた。

 

「……白い花、ですか」

「えぇ。――花びらを何枚も開いたような、白くて、大きなものが。風に乗って、羽ばたかずに、尾根の上をグルリと回っていたそうです」

 

 典は帳面から顔を上げなかった。ただ、筆を置いて帳場の脇の棚から一冊の綴りを引き出した。他ギルドから回ってきた、モンスターの目撃記録の写しだ。

 その頁をめくる典の指が――ある所で止まった。

 

「――羽ばたかずに飛ぶ。翼が凍り付く。白い花。……文さん。尾根の木に、爪痕はありませんでしたか?」

「……爪痕?」

「えぇ。岩や木の幹に、同じ高さで、引っ掻いたような傷です。縄張りを見回る時にそれを付けていく竜が、居るんですよ」

 

 文は一瞬だけ目を見開いた。それから、帳面の別の頁をめくる。

 

「……えぇ、ありました。見張り小屋の裏の岩に、三本。爪の手入れでもしたのかと、哨戒の子は笑っていましたけど」

「ふふ。手入れも、半分は正解ですよ」

 

 典は綴りを帳場の上に置いた。そして、帳場の奥の障子戸の方へ、静かに声を掛けた。

 

「――神奈子様。北の尾根の件、正体の見当が付きました」

 

 障子の向こうで、ギルドマスターが身じろぎする気配がした。

 

『……見立ては』

「飛竜種です。それも、空の上でこそ強い竜。天狗の伝令が落とされたのは、空の道を竜に縄張りとして取られかけているからでしょう」

『――空は、天狗の道だ。飛竜に塞がせておくわけにはいかん』

 

 低く短い、威厳ある声で、待合の空気が、ピンと張り詰める。

 

『――典。共同依頼として出せ。区分は討伐。目的は、その竜を地に落とすこと。――ただし、空で戦おうとする者には受けさせるな。空で天狗が竜に勝てるなら、伝令は落ちておらん』

「承知しました」

 

 典は新しい依頼票に、サラサラと筆を走らせた。

 

――『共同依頼:北の尾根の空の竜 

 区分:討伐 空の竜を地に落とすこと』

 

 依頼票が掲示板に貼られても、待合の長椅子から立ち上がる者は、すぐには居なかった。

 

――空の竜を相手に、地に足をつけて戦う。

 

 言うのは易いが、空から下りてこない相手を、どうやって地に落とすのか。

 

――最初に掲示板の前に立ったのは、緑髪の風祝だった。

 

「その依頼、私が受けます!」

 

 早苗だった。足元では、銀灰の地に黒い縞のアイルー『ソヨ』が尻尾をピンと立てている。

 

「早苗、まだ依頼票の字が乾いてないニャ」

「乾く前に受けた方が速く行けるわ、ソヨ!」

「……文さんも、ご一緒ですよね?」

 

 典に水を向けられて文は肩をすくめた。

 

「あやや、私は記事を書くだけで――と言いたいところですが。落ちた伝令は、私の後輩です。空の道を塞がれたままでは、新聞も配れませんしねぇ」

 

 文はそう答えて、帳面を閉じて懐に仕舞う。

 これで二人と一匹。依頼票には、共同依頼の頭数として、あと一人分の空欄が残っている。

 

――その空欄が埋まったのは、それから間もなくのことだった。

 会所の戸口の暖簾が、音もなく内側へ分けられた。

 北の風がヒヤリと土間を這う。待合のハンター達が、一斉に戸口を振り返った。そして、誰からともなく口をつぐんだ。

 入ってきたのは、背の高い女性だった。

 足首まで届く、白に近い淡い青の長い髪。青白い肌に、飾り気のない白い衣と青い上衣。そして、その背に――六枚の、大きな白い翼。翼は鴨居に触れないよう、きっちりと畳まれていた。

 背中には身の丈ほどもある、古びた骨の笛を携えている。

 『魔界』の最奥『堕ちたる神殿』を守る番にして、死を司る天使――『サリエル』は、待合の視線を気にした様子もなく、ゆっくりと掲示板の前まで歩いてきた。そして、貼られたばかりの依頼票を、しばらく黙って見上げた。

 

「……『空の竜を、地に落とす』、か」

 

 低く、静かな声だった。大きな声ではないのに、会所の隅々まで、はっきりと届く。

 

「博麗の方の祠の門番から聞いた。山で、空の竜が天狗を落としていると。――この欄は、まだ空いているか」

「は、はい!空いてます!」

 

 答えたのは、早苗だった。答えてから、相手が誰なのかを思い出したように、ピンと背筋を伸ばした。

 障子の向こうから、声がした。

 

『――サリエル殿か。魔界の客人が、山の空の竜に何の用だ』

「用というほどのことはない、八坂殿」

 

 サリエルは障子の方へ向き直り、小さく頭を下げた。

 

「地に落ちた者のことなら、少しは分かる。――それだけだ」

 

 会所の中が、しんと静まった。

 文は手帳を取り出しかけて、やめた。その一言に込められた重さが、記事にするには重すぎる気がしたからだった。

 

『……受けさせな、典』

「はい。――では、サリエルさん。お名前をこちらに」

 

 典が差し出した筆で、サリエルは依頼票の最後の空欄に、細い字で己の名を書いた。

 


~妖怪の山 北の尾根~

 

――尾根の木々は、北側だけが白かった。

 霜ではない。幹も、枝も、葉の落ちた梢の一本一本までもが、北から吹き付けられた何かに撫でられたように、薄い氷の膜を纏っている。南側の樹皮は、いつもの冬の茶色のままだ。一本の木が、北と南で、二つの季節に引き裂かれていた。

 

「……雪が積もったんじゃないですね、これ」

 

 早苗は、白い幹に手袋の指先を当てた。指の腹に、氷の膜がパリパリと割れる手応えが伝わってくる。

 

「――吹き付けられたんですよ。冷たい風に乗って、一息に」

 

 答えたのは、隣の木の枝の上にしゃがんだ文だった。黒い翼を畳み、高い所から尾根の北を見渡している。腰の後ろで交差させて背負った二振りの黒い双剣が、冬の薄日を吸い込むように鈍く光った。

――疾風双刃『文々旋羽』。刃翼をそのまま打ち直した、振っても風を切る音のほとんどしない双剣だ。

 早苗は、背の棍を担ぎ直した。白銀の長い柄に、乳白と淡い金の飾り。穂先の付け根には、羽衣のような青い飾り布が、風もないのにかすかに揺れている。

――嵐龍棍『奇跡ノ天風』。早苗の操虫棍だ。腕に付けた小さな籠の中で、猟虫が、カサリと羽を鳴らす。

 

「早苗、こっちニャ!」

 

 ソヨの声が、尾根の上の方から飛んできた。

――見張り小屋の裏手。灰色の大きな岩の前で、ソヨが短い錫杖の形の鎚を振って、二人を呼んでいた。

 岩には三本の傷が刻まれていた。

 早苗の背丈よりも高い所から、斜めに、深く。刃物で付けたように鋭いのに、縁はささくれ立っている。傷の溝の奥には、うっすらと白い氷が詰まっていた。

 

「典ちゃんが言っていた、爪痕……」

「縄張りを見回るついでに、爪を研いでいく。――そう、綴りには書いてありましたね」

 

 文がフワリと枝から降りてきて、岩の傷に顔を寄せる。

 

「同じ高さの傷が、尾根の向こうの岩にもありました。その向こうの岩にも。……グルリと、輪を描くように」

「輪、ですか」

「えぇ。この尾根を真ん中に、グルリと。――自分の空はここからここまで、と刻んで回っているんですよ」

 

 早苗は、尾根の北を振り返った。灰色の雲の下に、『氷霧連峰』の白い峰々が遠く霞んで連なっている。

 

「……北の峰から、下りてきたんでしょうか」

「多分、そうでしょうね」

 

――その時、尾根の下の方から、乾いた音が聞こえてきた。

 コツ、コツ――と。硬いものが石を打つ音だ。

 振り返ると、サリエルが、雪の斜面をゆっくりと登ってくるところだった。背から下ろした骨の笛を杖のように突いて、一歩ずつ、確かめるように足を運んでいる。背の六枚の翼は、きっちりと畳まれたままだった。

 骨の笛は、大型の竜の骨を削り出して、いくつもの穴を穿っただけの、飾り気のない狩猟笛――『ボーンホルン]*1』だった。白い骨は長い年月の手擦れで飴色に変わり、吹き口の周りは、すっかり滑らかに磨り減っている。

 腰には、小さな素焼きの壺が一つ、紐で括り付けられていた。

 

「……飛んでくれば、よかったのに」

 

 早苗が思わず口にした。サリエルは、斜面の途中で足を止めて、早苗を見上げた。

 

「空は、飛竜の縄張りだ。――それに、地に足をつけて歩く稽古を、怠りたくない」

「稽古、ですか?」

「私は見ての通り天使。空では多少マシに動ける。だが、地に降りると、途端に鈍くなる。

 加えて、翼が六枚もあると走るにも、得物を振るうにも邪魔になるのだ。三対の翼は高位の証であり、威厳でもある。――だが、モンスターに死の天使としての威厳は通じないからな」

 

 サリエルはそう答え、また一歩斜面を登る。

 

「空で強く、地で弱い。――今日狩るべき竜も、おそらくは同じだろう」

 

 尾根の上に着いたサリエルは、岩の三本の爪痕の前に立った。そして、氷が詰まった溝を、しばらく黙って見つめていた。

 

「……この爪は、『風漂竜:レイギエナ』か」

「レイギエナ?」

「北の冷たい空に棲む飛竜だ。翼膜が大きく何枚もあり、広げると、遠目には白い花のように見えるだろう。風に乗って舞い、羽ばたく音をほとんど立てず、軽やかに飛ぶ」

 

 サリエルは白い指で、溝の縁の氷を一片だけ摘まみ取った。氷はサリエルの指先で、溶けずに白く光っている。

 

「そして――体中から冷気を出す。それを、翼や尾を振るう際に巻き起こす風に乗せて叩きつける。天狗の翼が凍ったのは、それを浴びたからだろう」

「詳しいんですね……」

「生憎『魔界』にはモンスターは居ない。だから、門を通って、こちらの竜の記録を読んだ。――空に棲む種の記録は、特に」

 

 文が手帳を取り出しかけて、またやめた。

 

「サリエルさん。貴女なら……空で強く、地で弱い竜を、どうやって地に落とします?」

 

 サリエルは、すぐには答えなかった。代わりに、早苗の腰の道具袋に目をやった。

 

「――東風谷殿。[閃光玉]は」

「あ、はい!三つ持ってきてます!」

「レイギエナは、目が良い。遠くの獲物を、空の上から見つけるためだ。そして――目が良い者ほど、大抵強い光には弱い」

 

 サリエルは、それから文の方を向いた。

 

「射命丸殿。竜が低く舞った時に、目の前で光を炸かせられるか」

「あやや。竜の目の前まで飛んでいって、光を投げつけて、逃げてこいと」

「そうだ」

「……簡単に言ってくれますねぇ」

 

 文は肩をすくめて笑った。だが、その目は笑っていなかった。

 

「でも、それ位ならできます。――速さ比べをするわけじゃありませんからね」

「ならばいい。――東風谷殿は、猟虫で竜に印を付けてほしい。雲に紛れても、見失わないように」

「分かりました!」

「落ちたら、翼を狙う。翼の膜が大きく破れれば、空に戻っても、風を掴めず上手く舞えなくなる」

 

 サリエルは骨の笛を握り直す。

 

「私は、この笛で皆を支える。――冷気を浴びた者は、私の所へ来い。壺の中で、温める為の薬を練っておく」

 

 腰の素焼きの壺が、かすかにコトリと鳴った。

 早苗は、文と顔を見合わせた。それから、ソヨと頷き合った。

 

「――竜が来るのは、いつでしょう?」

「十中八九、明け方だ」

 

 サリエルは尾根の北の空を見上げた。

 

「レイギエナは少食だ。飛行能力の為に身体を軽く保ちたいのだろう。一日に一度しか食べない。明け方に狩りをして、あとは偶に休みながら、縄張りを見回る。――明日の朝から、この尾根の上で待つ」

 


~妖怪の山 北の尾根 見張り小屋 夜~

 

――見張り小屋の囲炉裏に、小さな火が揺れていた。

 狭い板の間に、四人と一匹が身を寄せ合っている。外では、北の風が小屋の壁を叩き、隙間から入り込んだ冷気が、囲炉裏の火を横に寝かせた。

 サリエルは板の間の隅に座り、腰の素焼きの壺を膝の上に抱えていた。

 壺の中に、乾いた草の葉と、赤い木の実と、小さな瓶から垂らした数滴の液を入れる。蓋をして両手で包み、ゆっくりと振る。カラカラ、と中で何かが転がる音が、次第にトロリとした水音に変わっていく。

 

「それ、何を作ってるんですか?」

 

 早苗が、身を乗り出した。

 

「モンスター、環境による極度の冷えを払う薬だ。[ホットドリンク]に近い。――以前、『永遠亭』の薬師に練り方を教わった」

「戦いの最中に、壺を振って薬を作るんですか?」

「全員で前に出て戦うよりは、その方が、皆を長く生かせる」

 

 サリエルはそう答えて壺を振り続ける。振る手つきは、淡々としていて、乱れがない。

 文が囲炉裏の向こうから、遠慮がちに口を開いた。

 

「……あの、サリエルさん。一つだけ、伺っても?記事にはしませんので」

「何だろうか」

「死の天使には、睨むだけで相手をすくませる魔性の眼がある、と聞いたことがあります。――その眼は竜にも、効くんですか?」

 

 壺を振る手が止まる。

 

「……効かなかった」

 

 サリエルは答えてまた壺を振り始める。

 

「初めて狩りに出た時に、試した。――竜は、眉一つ動かさなかった。私の眼は、心ある者をすくませる。竜の心は、私の眼の届く所には無いらしい」

「あやや。……それは、悔しかったでしょうねぇ」

「少しだけな」

 

 サリエルの口の端が、ほんのわずかに持ち上がったように見えた。

 

「今は、狩場で取り乱した者を落ち着かせるのに使っている。――明日、もし東風谷殿が取り乱したら、使うつもりだ」

「と、取り乱しませんよ!……たぶん」

 

 ソヨが早苗の膝の上で、ケラケラと笑った。囲炉裏の火が、また横に寝て、四人の影を、板壁の上で大きく揺らした。

 


~妖怪の山 北の尾根 鞍部~

 

――夜明け前の尾根は、音という音が凍り付いたように静かだった。

 尾根と尾根の間の、浅く窪んだ鞍部。雪に覆われた広い平らな場所で、四人は岩陰に身を潜めていた。ソヨの吐く白い息だけが、ゆっくりと立ち昇っては消えていく。

 東の空の端が、わずかに白み始めた。

 鞍部の真ん中では、一頭のケルビが雪を掘って草を探していた。小さな角を振り、時折顔を上げて辺りを窺う。昨夜、文が谷の下から追い上げてきた一頭だった。

 

「……可哀想な気もしますね」

 

 早苗が小声で呟く。

 

「囮じゃありませんよ。あの子は、ここに草があるのを知っていただけです」

 

 文が同じく小声で返す。

 

「そして――アレも、それを知っている」

 

――その時。ケルビがピクリと耳を立てた。

 次の瞬間、ケルビは雪を蹴って谷の方へ一目散に駆け出した。

 早苗は空を見上げた。

 何も見えない。音もしない。ただ、尾根の上を渡る風が――フッと止んだ。止んだのではない。何か大きなものが、風の通り道を塞いだのだ。

 白み始めた東の空を背に――それは舞っていた。

 

――白い、花だった。

 

 花びらを何枚も重ねて大きく開いた、白い花。それが、羽ばたきもせずに、風に乗って鞍部の上空をゆっくりと回っている。夜明けの光を受けた花びらの縁が、薄く透けて青く光る。

 そんな花が、ゆっくりと傾いた。そして――音もなく、鞍部へ向かって滑り降りてくる。

 近付くにつれて、それが花ではないことが分かった。

 細身のしなやかな胴。背は深い海のような濃紺で、腹は雪のように白い。広げた翼は、骨の間に膜を張ったものではなかった。大きな一枚の膜の真ん中を、細い骨が通っている。その膜が、腕だけでなく、頭の両脇からも、長い尻尾の先からも、花びらのように広がっていた。

 逃げるケルビの真上で、竜が後ろ脚を下ろしけ一瞬で掴み上げる。ケルビの体が、雪の上からフワリと浮いた。

 

――『風漂竜:レイギエナ』*2

 

 レイギエナは、北の冷たい空を縄張りとする飛竜である。一日の大半を空の上で過ごし、縄張りを見回り、岩に爪の痕を残していく。獲物を狩るのは一日に一度、明け方だけ。体を軽く保ち、速く舞うために。

 その一日に一度の狩りの瞬間に、レイギエナの眼は、獲物だけを見ている。

 

「――今です!」

 

 早苗が岩陰から跳び出した。

 腕の籠を開き、操虫棍の先で空を指す。猟虫が、羽音を立てて飛び出した。真っ直ぐに、竜の胴へ。猟虫の針が、翼の付け根の膜を掠め、白いエキスを吸い取って戻ってくる。その一瞬に、竜の鱗の上に早苗にしか分からない匂いの印が残った。

 レイギエナの首が、こちらを向いた。

 後ろ脚の爪からケルビがこぼれ落ちる。雪の上に落ちたケルビは転がるように起き上がって、谷の方へ逃げていった。

 竜は既にケルビを見ていなかった。頭の両脇の膜が、ザワリと逆立つ。

 

〈キュオオオオオオォォォンッ!!〉

 

――咆哮が、凍った尾根の空気をガラスのように震わせた。

 高く、細く、耳の奥を錐で突かれるような甲高い声だった。早苗は思わず耳を押さえる。尾根の木々の氷の膜が、一斉にパリパリと鳴る。

 咆哮が止むのと同時に、レイギエナは高く舞い上がった。

 

「――上へ逃げましたね」

 

 文が岩陰から飛び立った。黒い翼を一打ちして、鞍部の上空へ飛ぶ。双剣はまだ抜いていない。腰の帯に、早苗から借りた[閃光玉]が一つ、括り付けてある。

 だが――レイギエナの方がずっと高かった。

 白い花が、灰色の雲の下でゆっくりと回る。羽ばたかない。それなのに、少しも落ちてこない。風を掴んで、その上に寝そべっているかのようだった。

 

「……高すぎます!ここから投げても、届きません!」

 

 文の声が空から降ってきた。

 その時――レイギエナの体の青い色が、スウッと白く褪せていった。

 背の青が、腹の白と同じ色に。翼の膜の縁から、細かい氷の粒が、粉雪のように零れ落ち始める。

 

「――冷気が来るぞ!」

 

 サリエルの声が飛ぶ。

 レイギエナが、空の上で大きく翼を振った。

 

――白い風が、斜めに落ちてきた。風ではない。凍り付いた空気の塊が雪の上を扇の形に吹き付け、白い霜が一瞬で走る。早苗は横へ跳んだ。跳んだつもりだった。

――左の脚が、遅れた。

 

「――っ、冷たっ……!」

 

 白い風に撫でられた左の脛当てが、真っ白に凍り付いていた。

 

――脚が重い。膝が、上手く曲がらない。冷たさが、骨の芯まで染み込んでくる。『氷やられ状態』だった。

 

「早苗!」

 

 ソヨが、雪の上を転がるように駆けてきた。小さな手で、背の荷から素焼きの壺を一つ下ろし、早苗の足元にドンと据える。

 

「――[ネコ式活力壺の技]*3ニャ!壺に触るニャ!」

 

 早苗は凍えた手で壺に触れた。壺の口から温かい湯気のようなものが立ち昇り、凍った脛当てを包む。白い霜が、少しずつ溶けていく。

 

「ありがとう、ソヨ!……でも、まだ少し重いかも」

「――こちらへ」

 

 岩陰から、サリエルが歩み出ていた。

 骨の笛を両手で構えている。鞍部の雪の上に、一歩、二歩。六枚の翼を畳んだまま、足を踏みしめる。

 サリエルは、骨の笛を振った。

 雪の上の岩を、笛の先で打つ。ゴウン、と低い音が鳴った。打った勢いのまま、笛を振り戻して、もう一度。今度は、少し高い音。そして、笛の柄の吹き口に唇を当てて、息を吹き込む。

――骨の笛が鳴った。

 低く、深く、遠くまで伸びる音だった。寒い朝の空気の中を、音は真っ直ぐに尾根を渡っていく。早苗は、その音を聞いた途端、凍えた脚の芯に、小さな火が灯ったような気がした。

 

「……温かい」

「冷気に耐える旋律だ。長くは続かない。――その間に、動け」

 

 サリエルは笛を下ろさなかった。演奏の間、サリエルの足は止まり、笛を構えた体は無防備になる。それでも、サリエルは雪の上から一歩も退かなかった。

 空の上で、竜が旋回の輪を縮めた。

 白い花が傾く。高度が、少しずつ下がっていく。狙っているのは――笛を吹く、白い翼の天使。

 

――ゴオッ!

 

――白い花が、真っ逆さまに落ちてきた。

 翼の膜を畳み、細い体を一本の槍のようにして、空の上から一直線に。後ろ脚の爪を、真下に突き出している。狙いは、雪の上で笛を構えたまま動かないサリエルの頭上。

 

「――サリエルさん!上です!」

 

 早苗が叫んだ。

 サリエルは、笛を下ろした。だが、跳ばない。跳べない。六枚の翼を畳んだ体は、雪の上で重く沈んでいる。

 

――その頭上へ、黒い影が横から飛び込んだ。

 

 文だった。

 落ちてくるレイギエナと、サリエルの間。そのわずかな隙間に、文は黒い翼を広げて割り込んだ。竜の眼と、文の目が、同じ高さで見つめ合う。

 

「――ごめんなさいね。今朝は、目を閉じていただきます」

 

 文の手から丸い玉が放たれた。

 

――カッ!!

〈キァァァァッ!?〉

 

 白い光が、鞍部を真っ白に塗り潰す。

 早苗は腕で目を覆っていた。それでも、瞼の裏まで白く焼ける。光が引いた時、早苗の耳に飛び込んできたのは、雪の上に重いものが叩き付けられる、鈍い音だった。

 

――レイギエナが、落ちていた。

 

 鞍部の雪の上に、翼の膜を乱雑に広げたまま、横倒しに。長い首を振り、目を固く閉じて、甲高く鳴いている。空の上であれほど優雅に舞っていた竜が、雪の上では脚の置き場所も分からないように、もがいていた。

 文はレイギエナのすぐ脇の雪の上に、片膝をついて着地していた。

 

「……あやや。ちょっと、近すぎましたかね」

 

 文の左の袖が、竜の翼の膜に掠められて白く凍り付いていた。

 

「――今が好機!翼を斬れ!」

 

 サリエルが、笛を構え直していた。

 

「空へ戻る前に、少しでも翼膜を破れ!」

 

 早苗は雪を蹴った。

 操虫棍の先を雪に突き立て、棍を支えにして、高く跳ぶ。凍えの解けかけた脚が、ズキリと痛む。それでも、跳んだ。宙で体を捻り、竜の左の翼の付け根へ、棍の刃を振り下ろす。

 

――手応えは柔らかかった。

 硬い甲殻ではない。薄くしなやかで、それでいて破れにくい強い翼膜。棍の刃がその膜に食い込み、引き裂く。裂け目から、冷たい息のような白い靄が、シュウッと噴き出した。

 早苗はレイギエナの背の上を転がって、反対側の雪へ降りた。

 

――その時、早苗の目にそれが映った。

 レイギエナの左翼の膜。早苗が今付けた裂け目の、すぐ隣に――もう一本、古い裂け目があった。縁が黒ずんで、硬く縮れている。膜の端の方には、他にもいくつも。破れて塞がりかけ、また破れたような跡が、膜の縁に沿って並んでいた。

 

「……あれ、私達が付けた傷じゃない――」

「早苗、どくニャ!」

 

 ソヨの声に、早苗は振り返った。

 

〈クルルル……!〉

 

 レイギエナが、起き上がろうとしていた。

 眼はまだ閉じたままだ。だが、長い尻尾が高く持ち上がっていた。尻尾の先の膜が、扇のように広がる。その膜の表から、白い冷気がユラリと立ち昇った。

――その尻尾が、振り下ろされる。

 

「――伏せて!」

 

 雪の上に尻尾が叩き付けられた。

 ゴシャッ――と。雪の下の岩が割れる音が、足の裏から伝わってきた。叩き付けられた所から、雪の上を、白い霜の線が何本も走る。早苗はソヨを抱えて、雪の上を転がった。霜の線が早苗の背のすぐ後ろを走り抜けていく。

 

――割れていた。雪の下の平らな岩が。レイギエナの尻尾の幅そのまま、真っ二つに。

 

「地面を叩き割る尻尾……!」

 

――その尻尾の付け根へ、黒い風が走った。

 

 文だった。

 凍った左の袖を振り払い、背の双剣を逆手に抜き放つ。二振りの黒い刃が、冬の朝の光の中で、赤い筋を光らせた。

 文は双剣を胸の前で交差させた。その瞬間、文が纏う気配が変わった。――鬼人の力を、己が身に宿したのだ。

 

「――空では、きっとそちらの方が速いのでしょうけどね」

 

 双剣がレイギエナの右翼の膜を、続けざまに斬り裂いた。一太刀、二太刀、三太刀――羽ばたかずに舞うための膜が、文の刃の下で、端から千切れていく。

 

「――どうやら地の上なら、私の方が速いようで」

 

〈……キュルル……!〉

 

 レイギエナが、ようやく眼を開けた。

 首を巡らせ、自分の翼を斬る黒い影を探す。だが――文はもうそこに居なかった。反対側の雪の上に跳んで、次の太刀筋を構えている。

 レイギエナの頭が、文の方を向いた。

 

――その頭の真横に、サリエルが立っていた。

 いつの間に、そこまで歩いてきたのか――早苗には分からなかった。サリエルは六枚の翼を畳んだまま、骨の笛を大きく後ろへ振りかぶっていた。

 

「……はっ!」

〈キュアァッ!?〉

 

 笛の先が竜の頭を打った。

 ゴウン――と。低く重い音が、鞍部に響いた。笛が鳴ったのか、レイギエナの頭が鳴ったのか、分からない音だった。レイギエナの頭が大きく揺らぎ、頭の脇の膜がビクリと震える。

 

 サリエルは振り抜いた勢いのまま、もう一度振り戻した。今度は、反対側から。ゴウン――!そして、三度目。笛を振り上げ、真上から、レイギエナの額へ叩き付ける。

 

〈キュアァァッ!?〉

 

 レイギエナの頭が雪に沈んだ。

 サリエルの息が、白く荒くなっていた。重い笛を三度振っただけで、肩が上下している。翼の重さが、地の上のサリエルの体をずっと引っ張っているのだ。

 

「――まだ、だ」

 

 サリエルが呟く。

 レイギエナが、雪の中から頭を引き抜いた。その眼が、怒りに燃えていた。

 レイギエナは、雪の上で体を捻った。後ろ脚が、雪を蹴って跳ね上がる。空の上で獲物を掴み、自分と同じほどのモンスターさえ投げ飛ばす脚だ。その爪が、文が居た雪の上を空を切って抉り、文は紙一重で跳び退いて躱す。

 

「――おっと。掴まれたら、それこそ記事になりませんね」

 

 レイギエナは止まらなかった。雪の上で、長い体を独楽のように回す。冷気を纏った尻尾の膜が、白い弧を描いて、鞍部の雪を薙ぎ払った。早苗は棍を雪に突き立てて跳び越え、ソヨは雪に潜るように身を伏せる。

 尻尾が通った跡の雪が一筋、ガラスのように凍り付いていた。

 翼の膜が大きく広がる。千切れ、裂けた膜を、それでも力任せに広げて――レイギエナは、雪を叩いて空へ跳んだ。

 重い羽ばたきの音が、初めて鞍部に響いた。

――風に乗れない。破れた膜では、風を掴み損ねるのだ。レイギエナは、ふらつきながら、それでも少しずつ、空へ上っていった。

 

――レイギエナは、鞍部の真上で上るのを止めた。

 破れた翼を、それでも大きく広げる。広げたまま、空の一点に留まる。羽ばたきの音が、止んだ。

 レイギエナの体から、残っていた青がスウッと消えていく。

 背も、腹も、翼の膜も、尻尾の先まで。全身が、雪よりも白く染まっていく。膜の縁から零れる氷の粒が、粉雪どころではなくなった。吹雪のように、レイギエナの周りを渦巻き始める。

 

――鞍部の空気が、急に重くなった。

 吐いた息が、白くならない。白くなる前に、凍って、細かい氷の粒になって、パラパラと落ちていく。早苗の睫毛に、霜が降りる。

 

「……何、これ」

「――内なる冷気の全てを、吐き出す気だ」

 

 サリエルの声が低く響いた。

 

「残った冷気を、この窪地へ、全て叩き付けるつもりだ。……我々に逃げ場は、無い」

 

 早苗は辺りを見回した。鞍部は浅い窪地だ。周りの尾根まで駆け上がるには、遠すぎる。岩陰は、ある。だが、あの白く染まった竜の真下から、冷気を遮れるほどの岩陰は無い。

 文が翼を広げかける。

 

「――私が、風を逸らします!一陣だけなら――」

「一陣では足りない。射命丸殿、東風谷殿。――私の後ろへ」

 

 サリエルが骨の笛を雪に突き立て――背の翼を広げた。

 一枚、二枚――会所でも、尾根でも決して開かなかった翼が一枚ずつ、ゆっくりと広がっていく。三枚、四枚――白い羽根の一本一本が、夜明けの光を受けて、淡く光った。五枚、六枚――

 

――六枚の白い翼が、鞍部の雪の上に大きく開いた。

 その瞬間――早苗は冷たいと思った。

 レイギエナの冷気ではない。サリエルの体から立ち昇る、何か別の冷たさだった。肌ではなく、胸の奥が冷える冷たさ。音が遠くなり、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。死というものに、手が届くほど近付いたような――そんな冷たさだった。

 

 文が、息を呑む音が聞こえた。ソヨが、早苗の脚にしがみつく。

 

「――来るぞ」

 

 サリエルが翼を前へ回した。六枚の翼が、早苗と文とソヨを、覆い隠すように包み込む。

 

――白く凍り付いた竜が、翼を振り下ろした。

 音は無かった。

 ただ、白かった。翼の隙間から見える鞍部の雪が、一瞬で、凍り付いた白い靄に呑み込まれる。木々の氷の膜が、白から、更に白く。サリエルの翼の外側に、何かが叩き付けられる重い感触が、翼越しに伝わってきた。

 

 対するサリエルは、一言も発しなかった。

 ただ、翼を広げたまま雪の上に立ち続けていた。

――どれほど経ったのか、分からない。白い靄が晴れた時、鞍部は全てが凍り付いていた。雪の表は、ガラスのように固く光り、岩という岩が白い氷の殻を被っている。

 

――サリエルの六枚の翼も、真っ白に凍り付いていた。

 羽根の一本一本に、細かな霜がびっしりと。翼の縁からは氷柱が何本も垂れ下がっている。サリエルが、ゆっくりと翼を下ろそうとした。しかし凍った翼は、半分までしか畳めない。

 

「サリエルさん……!翼が――」

「――構わない。今日は、もう飛ばない」

 

 サリエルはそう答え、雪に突き立てた骨の笛を引き抜く。凍った指が上手く握れない。それでも、柄を握った。

 

「――レイギエナを見ろ」

 

 早苗は空を見上げた。

 白い竜は、まだ空に居た。

 だが、さっきまでのレイギエナとは違っていた。白く染まっていた体に、元の青がまだらに戻り始めている。破れた翼の膜は、最早一枚の帆のようには張れていない。千切れた端が風に煽られて、バタバタと音を立てている。

 

――冷気を、全て吐き出したのだ。レイギエナの体は、もう空に浮いているだけで精一杯だった。

 フラリ、フラリとレイギエナが傾く。だが、落ちない。落ちまいとして、破れた翼で必死に風を掴もうとしている。

 

――早苗は、操虫棍を胸の前で立てた。

 目を閉じる。風祝の祝詞を小さく、早口で唱える。長い祝詞ではない。大きな奇跡は要らない。ほんの一瞬、ほんの少しだけ――。

 

「――風よ」

 

 鞍部を渡る北の風が、ほんの一瞬だけ向きを変えた。

 レイギエナの破れた右翼の下から、吹き上げていた風が、フッと消える。代わりに、上からほんのわずかに押さえ付けるように。

 レイギエナの体が、ガクリと右へ傾いだ。

 破れた膜では、崩れかけた体勢を立て直せなかった。白い花が、片側の花びらを失ったように、クルクルと回りながら、鞍部へ落ちてくる。

 

〈クアァァッ!?〉

 

――レイギエナが、凍った雪の上に叩き付けられた。

 凍り付いた雪の表がレイギエナの重みで割れて、白い破片が飛び散る。レイギエナは、起き上がろうとしてもがく。脚が、凍った雪の上で滑る。破れた翼が、地面を叩く。だが――もう、空へは上がれなかった。

 

 サリエルが凍った雪の上を、レイギエナの方へ歩き出した。

 一歩、二歩。半分しか畳めない翼が、重そうに雪の上を引きずられていく。

 レイギエナの頭の前で、サリエルは足を止めた。そして、竜の眼を、静かに見下ろした。レイギエナも、サリエルを見上げる。

 

――レイギエナの眼は、青く、澄んでいた。

 怒りの色は、もう消えていた。荒い息が、凍った雪の上に、白く、短く、途切れ途切れに吐き出されている。破れた翼の膜が、息に合わせてかすかに震えていた。

 サリエルはレイギエナの頭の脇に膝をついた。そして、凍った指で、レイギエナの左の翼膜の、古い裂け目の縁に触れた。

 

「……北の空で、何度も裂かれているな」

 

 早苗と文が、サリエルの後ろに並んだ。

 

「古い傷だ。私達の刃の跡ではない。爪の跡でも、牙の跡でもない。――風だ。この竜でも乗ることができない、強すぎる風に、膜を何度も引き裂かれている」

「風に乗る竜が……風に?」

「その風に追われて、ここまで来たのだろう。――北の空に、この竜が住めなくなるほどの風が吹いている」

 

 文が北の空を振り返った。

 灰色の雲の向こうに、『氷霧連峰』の白い峰々が霞んで連なっている。――その峰の上で今も、渦を巻く雲がゆっくりと形を変えていた。

 文は手帳を取り出した。そして、短く一行だけ書き付けた。何を書いたのかは早苗には見えなかった。

 サリエルはレイギエナの眼を見つめたまま、静かに言った。

 

「……この竜は、もう長くない」

「分かるんですか?」

「分かるのは、近いということだけだ。――その先は、私の仕事ではない」

 

 サリエルはゆっくりと立ち上がった。半分しか畳めない凍った翼が、雪の上でジャリ、と音を立てる。

 

「死は、何人にでも来る。人間も、妖怪も、モンスターも、生あるものに死は平等に来る。私は、それを急がせたくはない。――だが、急がせる理由がある時は、私が鳴らす。死の天使が――告げる」

 

 サリエルは骨の笛を両手で握った。

 

「この竜は、もう北の空へは帰れない。ここに留まれば、天狗の空の道で、天狗を落とし続ける。そして、破れた翼で、地の上を這い回って、長く苦しむ。……それは、見たくない」

 

 早苗は何も言えなかった。ただ、操虫棍を握る手に、力が入った。

 ソヨが、早苗の脚にそっと頭を擦り付けた。

 サリエルは――骨の笛を高く振りかぶった。

 飴色の古い骨が、夜明けの光を受けて鈍く光る。レイギエナは、眼を閉じなかった。最期まで、荒く息を吐きながらサリエルを見上げている。

 

――笛が、振り下ろされた。

 ゴウン――と。低く重い音が鳴った。その音の終わりに、ピシリ――と。乾いた、小さな音が混じった。

 

〈キュオォォォ……ォン……〉

 

 レイギエナが、最期の声を上げた。

 高く、細く、そして長く。凍った尾根の空気の中を、その声は北の空へ向かって伸びていった。帰れなかった空へ、届けようとするかのように。

 

――最期の声が、途切れた。

 

 レイギエナの首が、凍った雪の上にゆっくりと横たわった。破れた翼の膜から、最後の冷気が白い靄になって立ち昇り、朝の光の中へ溶けて消えていった。

 

 

――静かになった。

 サリエルは、手の中の骨の笛を見下ろした。

 飴色の骨の、吹き口から三つ目の穴の所に、細いひびが一本、走っていた。長い年月の手擦れで磨り減った骨が、凍えた中で振るわれて、ついに耐えきれなかったのだ。

 

「……長く、使いすぎたか」

 

 サリエルはそう呟いた。それから、ひびの入った笛の吹き口に、唇を当て――息を、吹き込む。

 

 笛が鳴った。

 掠れた音だった。ひびから息が漏れて、音が割れる。旋律の途中で、二度、音が途切れかけた。それでも、サリエルは、吹くのを止めなかった。ほんの一節の短く低い、どこか遠くを指差すような旋律を、最後まで吹き切った。

 笛を下ろしたサリエルに、文が小さく尋ねる。

 

「……今のは?」

「狩りの後には、必ず一節だけ吹くことにしている。――一つの命が終わったことを知らせる、死告の喇叭だ」

「……誰に、知らせるんです?」

 

 サリエルは答えなかった。ただ、北の空をしばらく見上げていた。

 文は手帳を開きかけて、やめた。そして、懐に仕舞った。

 


~妖怪の山 妖怪山岳狩猟会所~

 

――その日の夕方。会所の帳場に、一枚の狩猟記録が置かれた。

 

――『狩猟記録:北の尾根 風漂竜一頭/結果:討伐。左右の翼膜を破壊』

――『担当:東風谷早苗、ソヨ(アイルー)、射命丸文、サリエル』

 

 典はその記録に目を通してから、末尾に添えられた文の走り書きの一行を、指でなぞった。

 

――『竜の翼膜に、古い裂け目多数。北の空で、強い風に裂かれたものと見られる。目下調査中』

 

「……北の空、ですか」

 

 典はその一行を書き写して、帳場の奥の障子戸の隙間から、そっと差し入れた。

 障子の向こうで、長い沈黙があった。

 

『――典。この書き付けは、北の件の綴りに入れておけ』

「錆びた鱗の包みの隣に、ですね」

『そうだ。……見立ては、まだ足りない。だが、足りぬものは、少しずつ揃ってきている』

 

 神奈子の声はそれきり途切れた。

 帳場の前では、サリエルが典が差し出した剥ぎ取り素材の割り当ての帳面に、名を書いていた。サリエルが望んだのは、翼膜を六枚と、尻尾の甲殻を少しだけだった。

 

「笛を、誂え直したい。――守矢の工房に、頼めるか」

「えぇ、河童の職人に回しておきますよ。……笛の銘は、もうお決まりですか?」

 

 サリエルは帳場の脇に立て掛けた、ひびの入った骨の笛に目をやった。そして、静かに口を開く。

 

「――『終ノ喇叭』」

 

 典はその銘を、帳面に書き留めた。それから、少しだけ首を傾げた。

 

「終とは、随分と物騒な銘ですねぇ」

「命の終わりを告げる喇叭だ。……だが、仲間を終わらせないために鳴らす」

 

 サリエルはそれだけ言って、凍った翼を引きずるように、会所の戸口へ歩いていった。

 

――戸口では、早苗が待っていた。

 

「サリエルさん!『博麗神社』の祠まで、お送りします!翼、まだ凍ったままですし……」

「……飛ばずに歩いて帰るつもりだが。北端(山)から東端(祠)は遠いぞ」

「歩くのは得意です!ね、ソヨ!」

「得意ニャ!」

 

 サリエルは少しだけ目を細め、それから小さく頷いた。

 

「――では、頼む。東風谷殿」

 

 

――夕暮れの山道を、背の高い白い天使と、緑の髪の風祝と、銀灰色のアイルーが、並んで下っていった。

 半分しか畳めない六枚の翼から、解け始めた氷の雫がポタリ、ポタリと山道の石の上に落ちていく。

 

 北の尾根の上では、渦を巻く雲が、まだゆっくりと形を変えていた。

 

*1:
骨を素材とした狩猟笛。狩猟笛を扱う者が最初に手にすることの多い。扱い易い素朴な作り。

*2:
飛竜種の大型モンスター。全身に何枚もの翼膜が発達し、気流に乗って舞うように飛ぶ。体内で作った冷気を全身の分泌腺から放ち、翼や尾を振るう風圧に乗せて叩きつける。空中戦に特化しすぎたため、地上での戦いを苦手とする。

*3:
オトモアイルーの技。属性やられや毒を治す壺を置く。




『サリエル』
所属:分かれ門の番(人里ギルド正規登録)
役職:魔界道の最奥『堕ちたる神殿』の番。魔界道の三人のまとめ役
武器:狩猟笛[ボーンホルン](本話で手にした風漂竜の素材から、風漂笛『終ノ喇叭』を誂える)
防具:白い衣(同じく、風漂装【死天使】を誂える)
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