東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~守矢神社 妖怪山岳狩猟会所~
――山の朝は、息が白い。
『守矢神社』の境内の外れ、鳥居の脇に建て増しされた木造の建物に、朝一番の灯りが入っていた。山の神社に間借りする格好の、狩りの会所。正しくは『妖怪山岳狩猟会所』という長い名前があるが、山の者は皆、短く『守矢ギルド』とか『会所』と呼ぶ。
受付の板間には、山の地図が三枚も貼り出されていた。中腹の岩峰、河童の沢、北の稜線。地図の上には、天狗の手による細かな書き込みがびっしりと並んでいる。今朝の風向き、昨夜の雪の深さ、通行止めの道。
「ソヨ、ほら、外套!今日は北の稜線だから、きっと寒いわ!」
『東風谷早苗』は、受付の脇の長椅子で、小さな猫の頭に毛糸の頭巾を被せようとしていた。
緑の長い髪に、蛙と白蛇の髪飾り。青と白の巫女装束の上から、肩と腰に白銀の甲殻を重ねている。守矢神社の風祝にして、守矢ギルドで一番よく現場に出る正式登録のハンター。それが早苗だった。
「ボク、毛皮があるから平気ニャ。早苗の方こそ袖が短いニャ」
頭巾から首を引っこ抜いたのは、銀灰の地に黒い縞の入ったアイルーだった。緑の目に立ち耳、縞の入った長い尻尾。頭には、山伏の頭襟に似た小さな飾り。腰には、法螺貝が一つぶら下がっている。早苗のオトモ『ソヨ』である。
「私は風祝。風は冷たくても平気なんだから!」
「それ、去年もそう言って、くしゃみを百回位してたニャ」
オトモの指摘を早苗は聞こえないふりをして、誤魔化すようにソヨの耳の後ろをワシワシと撫でる。ソヨは「仕事前ニャ、やめるニャ」と身をよじりながら、尻尾だけはまんざらでもなさそうに揺れていた。
「――おーい、早苗!ちょうど良かった!」
会所の裏口から、大きな背負い鞄を担いだ少女が転がり込んできた。青い髪を二つに結び、緑の帽子に、ポケットだらけの作業着。山の河童の技師、『河城にとり』だ。会所の工房を預かる河童達の頭で、自分で作った物を自分で試すために、ハンターの資格まで取ってしまった変わり者である。
「にとりさん、おはようございます。また何か作ったんですか?」
「作ったとも!今日は稜線だって?だったらこれ、持ってってよ」
にとりは鞄の口を開け、小さな瓶を二本取り出した。緑とも茶ともつかない、どろりとした液が入っている。栓を抜く前から、苦い匂いがした。
「試作の[元気ドリンコ*1]。河童の秘伝の苦い草を三倍入れた。眠ってても、一口で飛び起きる。……はず」
「はず、なんですね」
「試すのは早苗達ハンターの仕事さ。感想、聞かせてね」
早苗は苦笑して、瓶を一本ずつ、自分の腰袋とソヨの背負い袋に分けて入れた。
会所の表の戸が開いて、冷たい風と一緒に、白い影が二つ入ってきた。
先に入ってきたのは、白い短毛に、背筋だけ灰色の差し毛をした大きな犬。その後ろに、同じような白い髪に白い耳、赤い頭襟を載せた白狼天狗。山岳哨戒班の椛と、オトモのハツシモだった。二人共肩に薄く雪を載せている。
「おはようございます、早苗さん。北の稜線の哨戒から戻りました」
椛は頭襟の雪を払うと、受付の地図の前へまっすぐに歩いていき、北の稜線の一点を指で押さえた。
「この辺りです。奥宮へ続く登山道の、尾根の手前。雪の上に、鳥竜の足跡がありました。それも、たくさん」
「たくさん?」
「数えきれませんでした。足跡が重なっていまして。……それと、もう一つ」
椛は言いかけて、少しだけ眉を寄せた。
「千里を見通す、とよく言われますが、今朝は見えなかったんです。足跡は雪の上にはっきりあるのに、その先に、何も居ない。尾根の陰でも、藪の裏でもない。開けた雪の上なのに」
早苗は首を傾げた。
「見えない……透明な竜、とか?」
「――いえいえ、そんな大層なものじゃありませんよ」
頭の上から、明るい声が降ってきた。
会所の梁の上に、いつの間にか黒い翼の鴉天狗が腰掛けていた。首から写真機を下げた文が居て、椛の眉がピクリと吊り上がる。
「文さん。そこは梁です。降りてください」
「梁の上は、取材の特等席なんですよ。ほら、これ」
文はひらりと降りてきて、一枚の写真を地図の脇に置いた。
白い雪の斜面が写っていた。それだけだ。早苗は目を凝らし、それから、あっと声を上げた。
雪の上に、点々と、青みがかった細い縞が浮いている。よく見れば、それは雪の色にほとんど溶け込んだ、青白い生き物の背中だった。一つ、二つ、五つ、十。
「雪と同じ色……」
「空から、上から見ても、写真に撮ってようやく、ですよ。椛の目には見えなかったのも無理はありません。……あやや、白い犬と白い天狗にも見えない白い竜、というのは、記事の見出しにいいですねぇ」
「見えなかったのではありません。見分けられなかったんです」
椛は文の写真を手に取り、じっと見つめる。それから、地図の一点に赤い印を一つ付けた。
「奥宮へのお参りの人が、今日も何組か登山道を上がります。鳥竜の群れがこのまま登山道の近くに居着けば、参拝の人と鉢合わせします」
早苗は、地図の赤い印を見た。それから、受付の奥の、会所の長の部屋の方を見た。障子の向こうから、神奈子の声が、短く一言だけ聞こえた。
「――行ってきな。だげど狩るなよ。追うだけだ」
障子は開かなかった。それで十分だった。
早苗は立ち上がり、壁に立てかけてあった棍を手に取った。
白銀の長い棍だった。乳白の甲殻に淡い金の筋が走り、柄の先には、天女の羽衣のように薄い膜が、風もないのにかすかに揺れている。両端の穂先は、嵐を纏う龍の角を模したものだ。早苗が握ると、棍全体が、ひゅう、と細く風の音を立てた。
――嵐龍棍『奇跡ノ天風』。
籠手の上では、早苗の猟虫が、細い翅を静かに震わせていた。速く飛ぶことだけを考えて育てられた、細身の猟虫だ。
「行くわよ、ソヨ!」
「早苗、一人で先に行っちゃだめニャ。ボクもいるニャ」
「分かってるって」
分かっていない顔で、早苗はもう戸口へ向かっていた。ソヨが小さな錫杖を担いで、その後ろを追いかける。椛とハツシモが、黙ってそれに続く。
「私は上から見ています。……あ、写真代は後で記事の一面で」
文がそう言って、戸口から空へ飛び出していった。
「試作品の感想、よろしくねー!」
にとりの声が、一行の背中を追いかけた。
~妖怪の山 中腹の哨戒路~
―――守矢神社の裏手から、山道は急に細くなる。
杉の林を抜け、ぶなの林を抜け、紅葉の始まった楓の斜面を登っていく。足元の落ち葉は、朝露で湿って滑りやすい。ハツシモが先頭に立ち、時々立ち止まっては、道の脇の匂いを嗅いでいた。椛が「ここまでは昨夜と同じです」と短く言うたびに、ハツシモはまた歩き出す。
中腹の見張り台で、一行は一度だけ足を止めた。
――白狼天狗の哨戒班が使う、丸太を組んだ小さな櫓だ。櫓の上では、若い白狼天狗が一人、北の空を見張っていた。椛が下から手を振ると、若い天狗は背筋を伸ばして敬礼し、首を横に振った。異常なし、の合図だ。
早苗は、櫓の陰で荷物を下ろした。
腰袋の中身を、一つずつ確かめていく。砥石が二つ。回復薬が三本。閃光玉が一つ。それから、にとりの苦い瓶が一本。ソヨの背負い袋には、もう一本の瓶と、薬草と、包帯。
「早苗、閃光玉、一つだけニャ?」
「群れを追い払うだから。それに、椛さんも持ってるし」
椛が、腰の小さな袋を軽く叩いてみせた。
「二つあります。でも、早苗さんの分の一つも、ちゃんと取っておいてください。群れ相手だと、目を眩ませたい相手が一頭とは限りませんから」
早苗は頷き、閃光玉を腰袋の一番取り出しやすい所へ入れ直した。
見張り台から先は、木がまばらになっていく。風が、北から吹き下ろしてきた。冷たい。頬に当たる風の中に、もう雪の匂いが混じっている。空を見上げると、雲が速く流れていた。山頂の方の雲は、白く、重たい。
「今日は北風ですね」
早苗が言うと、椛が頷いた。
「北風の内は、こちらが風下です。匂いは向こうから来て、こちらの匂いは向こうへ行きません。……風が回ったら、気を付けてください」
風祝の早苗にとって、風は友達のようなものだ。それでも、今日の北風は、なんとなく機嫌が悪そうに思えた。
~妖怪の山 北の稜線~
―――森林の限界を越えると、山は急に白くなった。
中腹までは紅葉が始まったばかりだというのに、北の稜線にはもう、昨夜の雪がうっすらと積もっていた。風が強い。尾根を越えてくる風が、粉雪を巻き上げて、頬を細かく刺していく。
奥宮へ続く登山道は、尾根の背を縫うように、細く白く延びていた。参拝の人が迷わないように、道の脇には天狗の手で赤い布を結んだ杭が、等間隔に立ててある。
ハツシモが先頭を歩いていた。椛はその半歩後ろ。早苗とソヨが続き、空の高いところで、文の黒い影がゆっくりと輪を描いている。
尾根の手前で、ハツシモが足を止めた。
「――ここです」
椛が膝をついた。
雪の上に、足跡が重なっていた。鳥のような三本指が前を向き、指の先にはそれぞれ鋭い爪の跡。椛の言ったとおり、数えきれない。同じ形の足跡が、何十と踏み重なって、雪をまだらに凹ませていた。
早苗はしゃがみ込み、一つの足跡に指を当てた。人の手より、ひと回り大きい。
「ジャギィに似てますね。里の畑に最近出たとか」
「えぇ、似ています。でも、少し大きい。それに……指の間が広い」
椛が、隣の足跡を指した。
「雪の上で雪中に沈まないように、足を広げて歩く竜です。雪の山で暮らしてきた足です」
その足跡の群れの中に、一つだけ、まるで違うものが混じっていた。
形は同じ三本指だ。だが、大きさが倍はある。深さも違う。周りの足跡が雪の表面を凹ませているだけなのに、その足跡だけは、雪の下の凍った土まで踏み抜いていた。
「大きいのが一頭。群れの頭ですね」
椛が呟いた。早苗は足跡の縁に指を触れた。雪はまだ柔らかく、縁が崩れていない。足跡の底に、細かな新雪が薄く積もっているだけだ。
「昨夜の雪が止んだ後に通ってます。今朝早くですね」
ハツシモが、足跡の列から少し外れた岩の方へ、鼻を向けた。
登山道の脇に突き出した、黒い岩だった。その岩肌に、何かが飛び散っていた。
青白い、半ば凍った液だった。岩の表面に、放物線を描くように、べったりとこびりついている。雪の上にも、同じ色の滴がいくつか落ちて、そこだけ雪が小さく溶けていた。
ソヨが、液に鼻を近付けた。
「なんか……甘い匂いがするニャ……」
くん、と一度嗅いだだけで、ソヨの目がとろんと垂れた。大きなあくびが一つ。そのまま、こてんと雪の上に座り込みかける。
「そ、ソヨ!?」
早苗は慌ててソヨを抱き上げ岩から離す。ソヨは目をしばたたかせ、ブルブルと首を振った。
「……ね、眠く、なったニャ。一回嗅いだだけで」
「眠り薬……ですか」
「眠らせる液です」
椛は口元を手で覆い、岩から一歩下がった。
「吐きかけて、獲物を眠らせる。眠った獲物は逃げませんから」
早苗は腰袋の瓶に、そっと手を触れた。にとりの、苦い試作品。たまたま持たされた物が、たまたま役に立つかもしれない。神奈子なら、それをたまたまとは言わないだろうが。
足跡は、岩の脇を抜けて、尾根の向こうへ続いていた。その途中で、雪の色が変わっている所があった。
白い雪の上に、赤茶けた染みが広がっていた。
その真ん中に、一頭の獣が横たわっていた。鹿によく似た、灰褐色の毛の草食獣だ。頭には、枝分かれした立派な角。雪山に暮らす『ガウシカ*2』だった。
――ガウシカは、凍っていた。
首と脇腹に、鋭い牙の跡がいくつも残っている。肉はところどころ食いちぎられていたが、半分以上が残っていた。流れ出た血は凍りつき、毛には霜がびっしりと付いている。
早苗は、その周りの雪を見回した。
違和感があった。
「……椛さん。この鹿、暴れてないです」
「え?」
「ほら。噛まれたら、普通、暴れますよね。逃げようとして、雪を蹴って。でも、ここの雪、ほとんど乱れてない。足跡は群れのばっかりで、この子の足跡は、倒れた所でぷつっと止まってる」
椛は雪の上をじっと見た。ハツシモが、ガウシカの鼻先に鼻を寄せる。それから、さっきの岩の方を振り返って、低く一度だけ鼻を鳴らした。
ガウシカの鼻先の毛に、青白い滴が凍りついていた。
「――眠ったまま、噛まれたんですね」
椛の声が、少しだけ低くなった。
早苗は立ち上がり、腕をさすった。寒さのせいだけではなかった。
群れで追い込む。頭が眠らせる液を吐く。眠った獲物を、群れで食べる。食べきれなかった分は、雪の中に置いていく。凍った肉は、腐らない。
頭のいい竜だ。そして、手際がいい。
「早苗さん」
椛が、足跡の続く先を指差した。
群れの足跡は、尾根を越えた先で、登山道に沿って下っていた。その先、尾根の窪みに、小さな屋根が見える。雪に半ば埋もれかけた、木造の小屋だ。登山道の途中に建てられた、参拝の人のための避難小屋だった。
そして、群れの足跡のすぐ脇に、別の足跡が一列、続いていた。
草鞋の跡だった。
人間の足だ。歩幅は小刻みで、ところどころ乱れている。走ったのだろう。草鞋の跡は、まっすぐ避難小屋の戸口へ向かっていた。
――誰か、居る。
早苗の手の中で、棍が、ひゅう、と細く鳴った。
「――上から失礼します!」
空から、文の声が降ってきた。黒い翼が、雪煙を巻き上げて尾根に降り立つ。いつもの軽口が、顔から消えていた。
「小屋の周りに群れが居ます。数は二十近く。小屋を囲んでグルグル回ってます。それから、小屋の煙突から、細い煙が。――中に誰か居ます」
「群れの頭は」
椛が短く尋ねた。
「小屋の屋根の向こうの岩の上に。……あれは、見間違えようがありません。他の倍はある」
椛は頷き、早苗を見た。
「群れは、獲物が疲れて出てくるのを待っています。小屋の中の人が、怖くなって外へ逃げ出したら――」
――ガウシカと同じになる。
椛は、その先を言わなかった。言わなくても、分かった。
椛の決断は早かった。
「私とハツシモで、小屋の中の人を連れ出します。ハツシモの巻物で気配を消して、裏手の窓から」
「じゃあ、私とソヨで群れを引き付けます。小屋から離して、北の雪原の方へ」
早苗が言うと、椛は少しだけ眉を寄せた。
「早苗さん。引き付けるだけです。前に出すぎないでください。あの頭の液を浴びたら、早苗さんも眠ります」
「分かってます」
「――早苗。一人で前に出ちゃだめニャ」
「だから、分かってるって」
ソヨと椛が、同時に溜め息をついた。
文は翼を広げ、空へ浮かび上がる。
「私は上から、群れの動きを見ています。逃げる方向が分かったら、すぐ知らせますよ」
椛とハツシモが、尾根の陰を回り込んでいく。小屋の裏手まで、雪の窪みを伝って。ハツシモが首に結わえた巻物を口で引き抜き、雪に叩きつける。薄い煙がふわりと広がり、白い犬と白い天狗の姿が、雪の中にすっと溶けて見えなくなった。
早苗は、尾根の上に立った。
眼下の窪みに、避難小屋がある。その周りを、青白い影がぐるぐると回っていた。
今なら見える。雪の上を滑るように走る、細身の鳥竜。青白い皮に、背から尾にかけて紫がかった縞が走っている。頭の後ろには、扇のような小さな襟。人の背丈ほどの竜が、二十近く。小屋の戸口の前を通るたびに、戸に鼻を押し付けて、匂いを嗅いでいく。
『バギィ*3』の群れだった。
そして、小屋の屋根の向こうの、黒い岩の上。
――一頭の竜が、群れを見下ろしていた。
群れのどれよりも、倍は大きい。青白い皮は雪の照り返しを吸って、ほとんど景色に溶けていた。ただ、頭の上に大きく盛り上がったトサカだけが、紫と青の縞を鮮やかに浮かび上がらせている。太い尾の先が、ゆっくりと左右に揺れていた。
早苗は、尾根の陰に身を伏せた。すぐには動かない。まず、見る。
群れは、ただ闇雲に小屋を回っているのではなかった。
よく見ると、小屋の周りを回っているのは群れの半分ほどだけだった。残りの半分は、小屋から少し離れた雪の上に伏せて体を丸めて休んでいる。しばらくすると、回っていた組が雪の上に伏せ、休んでいた組が起き上がって、代わりに回り始めた。――交代しているのだ。
群れのうちの一頭が、戸口の前で足を止め、前脚で戸を引っ掻き始めた。ガリ、ガリ、と板を削る音が、尾根の上まで聞こえてくる。
岩の上の長が、短く鳴いた。
戸を引っ掻いていた一頭が、ぴたりと止まった。それから、尾を下げて、群れの輪の中へ戻っていった。
――無理に、こじ開けさせない。
早苗は、息を詰めた。
戸を壊して中へ入れば、中の人は暴れる。暴れる獲物は、群れにも怪我をさせる。だから、待つ。獲物が疲れて、怖くなって、自分から外へ出てくるのを。出てきたら、長が眠らせる。眠った獲物は、暴れない。
凍ったガウシカのことを、早苗は思い出した。
頭がいい、なんて言葉では足りない。あの長は、狩りを知っている。自分の群れを一頭も傷付けずに、獲物を手に入れる方法を知っている。
早苗の脇に、ソヨが這い寄ってきた。
「……早苗。あの長、怖いニャ」
「うん。でも、だから、あの長を引っ張れば群れは全部ついてくる。長の指図で動いてるんだから」
ソヨは少し考えて、髭をぴんと立てた。
「つまり、長を怒らせればいいってことニャ?」
「怒らせて、こっちを追いかけさせる。小屋から十分に離れたら、北の雪原へ押し返す」
それが、早苗の決めた段取りだった。その段取りが、自分のせいでもう少しで崩れることを、この時の早苗はまだ知らない。
早苗は棍を構え、籠手の猟虫に囁いた。
「行って。尻尾」
細身の猟虫が、風を切って飛んだ。岩の上の長の尾に取り付き、一刺しして、すぐに戻ってくる。赤い滴が沁みて腕に熱いものがこもる。
「次、後ろ脚」
二度目の滴は橙色だった。体が、内側から硬く締まっていくような感覚。
長が、首を巡らせた。
猟虫に刺されたことに、気付いたのだ。紫と青のトサカが、早苗の方を向く。
長は胸を反らし、喉を震わせた。
短く区切った、鋭い鳴き声だった。
小屋の周りを回っていた群れが一斉に止まった。そして、一斉に早苗の方を向いた。
――指図だ。あの長は、鳴き声で群れを動かしている。
群れが、雪を蹴って斜面を駆け上がってくる。早苗は尾根の上で棍を突き立て、跳んだ。
高く。風を纏った棍が、早苗の体を空へ押し上げる。真下を、バギィの群れが駆け抜けていく。早苗は宙で体を捻り、北の雪原の方へ着地した。
「――こっちです!こっちに来なさい!」
群れが、向きを変えて追ってくる。小屋から離れていく。うまくいっている。
先頭の二頭が、左右に分かれた。
真っ直ぐ追ってくるのではない。斜面の両側から、雪を蹴って回り込んでくる。早苗の前へ出ようとしているのだ。囲まれる。早苗は足を止めずに、右から来た一頭に棍を振るった。棍の穂先が鼻面を叩き、バギィは雪の上を転がる。左から来た一頭が、低く跳びかかってきた。早苗は棍を雪に突き立て、その反動で横へ跳ぶ。牙が、外套の裾をかすめた。
着地した足元が、ツルリと滑った。
新雪の下に、薄い氷が張っていたのだ。早苗の体が傾く。そこへ、三頭目が飛び込んでくる。
「――させないニャ!」
横から、銀灰の影が跳んだ。ソヨが錫杖の鎚を振りかぶり、三頭目の横っ面を力いっぱい叩いた。カン、と高い音。バギィが雪の上でもんどり打った。
早苗は棍を支えに体勢を立て直し、また走り出した。走りながら、棍の柄に砥石を一度だけ滑らせる。刃のない棍でも、両端の穂先は研いでおかなければ、青白い皮に弾かれる。シャッ、と短い音。
「ソヨ、ありがとう!」
「お礼は後ニャ!前、前!」
群れは、まだついてくる。長も、その後ろからついてくる。小屋は、もう尾根の向こうに隠れて見えなくなっていた。
早苗は北へ走った。走りながら振り返る。群れの後ろから、長がゆっくりと岩を下りてくるのが見えた。群れの真後ろに、ぴたりと付いて。
――あの長を、もう少し小屋から離さないと。
早苗は、足を止めた。
そして、群れの方へ、向き直った。
「早苗!だめニャ、前に出すぎ――」
ソヨの声が、後ろで聞こえた。早苗はもう、跳んでいた。
群れの頭を越えて、真っ直ぐに長の方へ。棍の穂先で、紫と青のトサカを狙う。
長が、首を低く下げた。
喉が、大きく膨らんだ。
――しまった。
青白い液が、放物線を描いて飛んできた。宙にいる早苗には、避ける場所がなかった。液は早苗の胸元に当たり、甘い匂いが、ぶわりと鼻の奥まで広がった。
着地した足が、ふらついた。
瞼が、重い。棍を握る指に、力が入らない。雪が、柔らかい布団のように見える。いけない、と思ったのが最後だった。早苗の体は、ふわりと、雪の上に倒れ込んだ。
――遠くで、誰かが叫んでいる。
――猫の声。
――何か、苦いものが、口の中に。
「――っぶほぉっ!?」
早苗は、雪の上で跳ね起きた。
口の中が、苦い。苦いなんてものではない。舌が痺れ、鼻の奥がつんと痛み、涙が勝手に溢れてくる。生まれてから飲んだどんな薬より、何倍も苦かった。
「げほっ、げほっ……な、何これ……!」
「起きたニャ!にとりの、ドリンコニャ!」
目の前に、ソヨが居た。
空になった小瓶を口に咥えたまま、小さな錫杖の鎚を構えて、早苗の前に仁王立ちしている。そのソヨの前で、三頭のバギィが牙を剥いていた。一頭が飛びかかる。ソヨが錫杖を振り回し、鼻面をカンと叩いて追い返す。もう一頭。また叩く。ソヨの頬にも、引っ掻かれた赤い筋が一本、走っていた。
早苗が眠っていたのは、ほんの数呼吸の間だったのだろう。その数呼吸の間、ソヨはずっと、こうしていたのだ。
「……ソヨ」
「だから言ったニャ」
ソヨは振り返らずに言った。
「一人で行っちゃだめニャ。ボクもいるニャ。……早苗は、一人で行ったつもりでも、一人じゃないニャ」
早苗は、口の中の苦さを、ぐっと飲み込んだ。
それから、棍を拾い上げた。
「――うん。ごめん、ソヨ。一緒に行こう」
「最初からそう言うニャ」
ソヨが、腰の法螺貝を手に取った。小さな胸いっぱいに息を吸い込み、吹き鳴らす。
ボォォォ――、と、低く長い音が、雪の稜線に響き渡った。
法螺貝の音を聞いた途端、体の奥から、じわりと温かいものが湧き上がってきた。凍えた指先に血が戻り、眠気の残りが、すっと消えていく。ソヨの頬の赤い筋も、見る間に薄くなっていた。
長が、また首を低く下げた。喉が膨らむ。二度目の催眠液だ。
早苗は、今度は跳ばなかった。棍を雪に突き立て、目を閉じた。
短く、口の中で唱える。山の風に、少しだけお願いをする。大きな奇跡は要らない。ほんの一呼吸の間、向きを変えてくれればいい。
風が、止んだ。
次の瞬間、北から吹いていた風が、くるりと向きを変えた。早苗の背中から、長の方へ。
長の吐いた青白い液が、放物線の頂で風に煽られ、細かな霧になって散った。霧は早苗の方ではなく、長の周りへと流れていく。長の脇で牙を剥いていた二頭のバギィが、霧をまともに吸い込んだ。
二頭は、ふらりとよろめき、雪の上にこてんと横になった。
すやすやと、寝息を立て始める。
「……奇跡、ってほどじゃないですけど」
早苗は目を開けて、少しだけ笑った。
長が、トサカを震わせた。自分の液で眠った子分を見下ろし、それから、早苗を見る。怒っていた。紫と青のトサカが、ぐっと膨らんでいる。
長の体が、ぐにゃりとくねった。
首から尾まで、蛇のように左右に一度うねる。それが、溜めだった。
「――来るニャ!」
ソヨの声と同時に、長が雪を蹴った。体ごとぶつかってくる、速い体当たり。早苗は横へ跳び、棍で長の脇腹を薙いだ。赤いエキスの力が乗った一撃が、青白い皮を打ち据える。長がよろめく。
長は踏みとどまり、体を半分捻った。太い尾が、横から振り抜かれる。一度。早苗は身を沈めて躱す。体勢を戻して、もう一度。反対側から。早苗は棍を立てて受けた。橙のエキスで締まった体が、重い衝撃をしっかりと受け止める。
尾を振り切った長の後ろから、白い影が飛び込んできた。
「――早苗さん、目を閉じて!」
椛の声だった。
早苗が目を閉じた瞬間、瞼の裏が真っ白になった。椛の投げた[閃光玉]が、長の目の前で弾けたのだ。
目を開けると、長が頭を振ってよろめいていた。目が眩んで、前が見えていない。その長の懐へ、椛が盾を構えて踏み込んだ。
雷狼竜の甲殻を張った盾が、紫と青のトサカを、真正面から殴りつけた。
――バキッ、と乾いた音がした。
トサカの縁が欠け、青い破片が雪の上に散らばる。
〈ギャウゥッ!〉
長が、大きく後ずさった。
頭を振り、欠けたトサカを震わせる。目はまだ眩んでいる。群れの子分達が、長の周りで落ち着きなく右往左往していた。雪の上では、自分の液を吸った二頭がまだ寝息を立てている。
長は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
それから、喉を震わせた。
さっきの指図とは違う、長く尾を引く声だった。
群れが、一斉に向きを変えた。北へ。雪原の向こうの、さらに高い尾根の方へ。眠っていた二頭も、声に揺り起こされたように跳ね起き、慌てて群れの後を追う。最後に長が、もう一度だけ早苗と椛を振り返り、青白い背中を雪煙の中に消していった。
「――群れは北の雪原を越えていきます!奥宮の道とは反対の方角です!」
空の上から、文の声が降ってきた。
早苗は、雪の上にへたり込んだ。
口の中が、まだ苦かった。
~妖怪の山 避難小屋~
避難小屋の戸口の前で、ハツシモが一人の若者を背に乗せて待っていた。
人里の炭屋の若い衆だった。奥宮へ商売繁盛のお参りに来た帰り、昨夜の雪で道を見失い、明け方にこの小屋へ逃げ込んだのだという。窓の外を回る青白い影に一晩中怯え、それでも外へは出なかった。
「出たら、終わりだと思ったんで……」
若者はハツシモの首にしがみついたまま、震える声で言った。椛はその肩に、自分の外套を掛けてやった。
「出なかったからこそ、助かったんです。よく我慢しましたね」
ハツシモが、若者を背に乗せたまま、尾を一度だけ振った。
早苗は、ソヨの頬の傷に、自分の手で薬を塗っていた。法螺貝の音でほとんど塞がってはいたが、それでも。ソヨは、仕事中だから、とは言わなかった。黙って、早苗の指の下で目を細めていた。
小屋の中は、思っていたより荒れていなかった。
土間の囲炉裏には、燃え残りの薪が一本。若者は一晩中、この一本を少しずつ燃やして、寒さを凌いでいたのだという。戸の内側には、つっかい棒の代わりに、小屋に置いてあった薪がびっしりと積み上げてあった。外側の板には、引っ掻かれた爪の跡が、白く何本も残っている。
椛は戸の傷を指でなぞり、それから若者に尋ねた。
「群れが小屋を囲んだのは、いつ頃ですか」
「明け方っす。外が白み始めた頃に、窓の外を、青っぽいのがすうっと横切って……最初は、雪が動いたのかと思いました」
「数は」
「数えらんなかったっす。でも、でかいのが一頭、岩の上からずっとこっちを見てて。あれと目が合うたびに、なんか、眠くなるような気がして……」
若者は身震いした。椛は手帳に短く書き付け、それを閉じた。
「ありがとうございます。会所への報告に使います」
文が、小屋の戸口から外を覗いていた。北の雪原の方角を、目を細めて見ている。
「群れの足跡ですが、見事に一本の筋になって雪原を越えていきましたねぇ。乱れてもいない。あの長、子分達をしっかり掌握してますよ」
「……それを写真に撮りに行こう、なんて言いませんよね」
椛が言うと、文は大げさに肩をすくめた。
「言いませんよ。今日のところは」
「今日のところは、ですか」
「明日のことは、明日の私が決めます」
椛の眉が吊り上がり、文は涼しい顔で空を見上げた。いつもの二人だった。早苗は、それを見て、なぜだか少しだけ安心した。
若者が、ハツシモの背の上から、恐る恐る早苗の方を見た。
「あの、巫女さん。……奥宮のお参り、やっぱり来年は、やめといた方がいいっすかね」
早苗は、少し考えてから首を振った。
「いいえ。是非来てください。その代わり、会所に一声かけてからにしてくださいね。誰かが一緒に登りますから」
「……へい」
若者は、ようやく少しだけ笑った。
~妖怪の山 北の稜線 帰路~
―――帰り道は、登山道を下った。
ハツシモが若者を背に乗せて先頭を歩き、椛がその隣に付く。早苗とソヨが続き、文は今度は、空ではなく早苗の隣を歩いていた。翼を畳んで、珍しく地面の上を。
「文さんが歩いてるの、初めて見たかもしれません」
「たまには取材対象と同じ目線で、ってやつですよ」
文はそう言って、ちらりと空を見上げた。
その時、山の上の空気が、変わった。
風の音とは違う、低い唸りが、頭上から降ってきた。ゴウ、と大きな布を打ち振るような音。一度。また一度。雪の稜線に、大きな影が落ちる。影は登山道を横切り、尾根を越え、ゆっくりと谷の向こうへ滑っていく。
見上げた空に、赤い翼があった。
遥か高く、鷹よりもずっと高い所を、一頭の飛竜が渡っていた。赤い鱗が陽を弾き、大きく広げた翼の縁が、透けて金色に光っている。尾の先が、悠然と左右に揺れていた。山の上を、まるで自分の庭を見回るように。
――『リオレウス』。空の王者と呼ばれる火竜だった。
誰も、動かなかった。
椛は足を止めて、空を見上げていた。ハツシモは若者を背に乗せたまま、低く身を伏せている。ソヨは早苗の脚の後ろに隠れ、尻尾を体に巻き付けていた。
文が、そっと早苗の袖を引いた。
「……早苗さん。帰りは、飛んで帰ろうと思ってたでしょう」
「え。……はい。ちょっとだけ」
「やめておきましょう。今日は」
文の声は、いつになく静かだった。
「空は、あの方々の縄張りですから。私達天狗でも、あの高さを飛ぶ時は、王の機嫌を見てからにします。……今日は、歩いて帰るのが正解です」
赤い翼は、一度も羽ばたきを乱さず、北の稜線の向こうへ消えていった。早苗がバギィの群れを追い払った、あの雪原の方角だった。
群れは、あそこへ逃げていった。空の王の真下へ。
早苗は、なんとなく、あの欠けたトサカの長のことを思った。
「……あの群れ、大丈夫でしょうか」
椛が、空を見上げたまま答えた。
「あの長は頭がいい。空の王の通り道くらい、知っているはずです。知っていて、そこで暮らしてきたんです」
山には、山の決まりがある。人が作ったのではない決まりが。
早苗は、空から目を下ろした。それから、自分の足で、雪の上を一歩ずつ下り始めた。
~妖怪の山 北稜の高山キャンプ~
―――高山キャンプは、尾根を下りきった窪地に張られていた。
風を避けた岩陰に、守矢ギルドの天幕が三つ。中央の天幕の前には、補給の箱と、雪を溶かすための大鍋。会所の工房の河童達が、季節ごとに張り直している天幕だ。
天幕の前の焚き火のそばに、小さな影が座っていた。
茶色の髪に、緑の帽子。猫の耳が二つ、帽子の脇からぴょこんと飛び出している。背中の後ろで、先の割れた二本の尻尾がゆらゆらと揺れていた。
「あっ、来た来た!遅いよー!」
化け猫の『橙』は、焚き火のそばから跳ね起きた。その足元に、大きなガルクが一頭、寝そべっている。橙を背に乗せて里を走る、たった一頭のガルクだ。
「橙ちゃん!どうしてここに?」
「里帰りのお迎えだよ。もうすぐ季節の変わり目でしょ。ソヨも、ハツシモも、そろそろ稽古の受け直し」
ソヨが、早苗の脚の後ろから顔を出した。
「……もう、そんな時期ニャ?」
「そんな時期だよ。……あれ、ソヨ。ほっぺ、どうしたの」
橙はソヨの頬に顔を近付け、すんすんと匂いを嗅いだ。薬の匂い。それから、早苗の手の匂いも嗅いだ。同じ薬の匂い。
橙は、何も言わずに、にっと笑った。
「――ふうん。ちゃんと、組めてるじゃん」
早苗には、その意味がよく分からなかった。ソヨは、少しだけ得意げに尻尾を立てた。
ハツシモは、橙のガルクの前で、鼻先を一度だけ触れ合わせた。橙が「ハツシモー、元気だったー?」と抱きつこうとすると、ハツシモは椛の後ろへ一歩スッと下がり、橙は少し傷付いた表情を浮かべる。
「里帰りは、明日でいいですか。今日は、この人を里まで送らなければならないので」
椛が、ハツシモの背の若者を目で示した。橙は「うん、いいよー」と頷き、それから、中央の天幕の裏手を指差した。
「じゃあ、早く裏口使っちゃいなよ。会所のキャンプまで、すぐだから」
天幕の裏手に回ると、岩陰に、粗末な木の戸が一枚、立てかけるように据えてあった。
一見すると、どこにも繋がっていないように見える戸だった。後ろは岩だ。それでも、山のハンター達は皆、この戸を「キャンプの裏口」と呼んでいる。ここを開けて潜れば、別のキャンプの天幕の裏へ抜けられる。会所のある神社の裏手のキャンプへも、麓のキャンプへも。昔から、そういうものだった。
「……いつ使っても、不思議ですよね、これ」
早苗が呟くと、文が肩をすくめた。
「不思議ですけど、便利ですからねぇ。誰が作ったのかは、天狗の古い記録にも残ってないんですよ」
「使えるうちに使っときなよー」
橙が、焚き火のそばから言った。
「もうすぐ土用でしょ。土用の間は、決まって裏口は閉まるんだから。そしたら、みんな歩いて山を下りるんだよ。にとりの荷車も、ハツシモの背中も、大忙し」
「土用の裏口は閉まる、ですか」
早苗は、その言い伝えを口の中で繰り返した。山の者なら誰でも知っている言い伝えだ。どうして閉まるのかは、誰も知らない。橙も、たぶん知らない。
椛が戸を開けた。
戸の向こうは、真っ暗だった。だが、一歩踏み込むと、ふわりと、嗅ぎ慣れた匂いがした。杉の葉と、線香と、それから、会所の工房の油の匂い。
ハツシモが、若者を乗せたまま、迷わず暗がりへ入っていく。椛が続き、文が続いた。
早苗はソヨを抱き上げ、最後に一度だけ、振り返った。
焚き火のそばで、橙が手を振っていた。その向こうの、高い北の空には、もう赤い翼の影はなかった。
~守矢神社 妖怪山岳狩猟会所~
―――戸をくぐり抜けた先は、もう守矢神社の裏手だった。
夕暮れの境内に、紅葉がはらはらと舞っていた。北の稜線の雪が、嘘のようだ。
会所の受付に戻ると、にとりが待ち構えていた。
「おかえり、盟友!で、で、試作品は?使った?」
早苗は、腰袋から空の瓶を取り出して、受付の板の上に置いた。それから、深く、深く息を吸い込んだ。
「――苦すぎます」
「効いた?」
「……覿面に効きました。眠ってたのに、一口で飛び起きました」
「よしっ!」
にとりは拳を握り、手帳に何かを書き込み始めた。早苗は、まだ口の中に残っている苦さを思い出して、顔をしかめた。
「でも、もう少し、何とかなりませんか。せめて、飲める味に」
「飲める味にしたら、眠ったままの人が起きないじゃないか。苦いから起きるんだよ」
にとりは、何でもないことのように言った。
ソヨが、受付の長椅子の上で丸くなっていた。疲れたのだろう。早苗はその隣に腰を下ろし、銀灰の背中を撫でた。ソヨは、今度は嫌がらなかった。
障子の向こうから、神奈子様の声がした。
「――追い払ったか」
「はい。群れは北の雪原へ。登山道の人も、無事です」
「そうか。……よく、一人で行かなかったな」
早苗は、ソヨの背中を撫でる手を止めた。
障子は、開かなかった。神奈子が、自身が仕えている祭神がどこまで見ていたのかは分からない。もしかしたら、何も見ていなかったのかもしれない。それでも、早苗は小さく笑った。
「――いいえ。一人では、行けませんでした」
会所の外では、日が山の端に沈もうとしていた。夕焼けの空の高い所を、鳥の群れが、ねぐらへ帰っていく。もっと高い所には、もう何も飛んでいなかった。
――空は飛竜の縄張りだ。山は、山を知る者達が守っている。
橙はいわゆる猫嬢のポジションです。
『東風谷早苗』
所属:守矢ギルド
役職:守矢神社の風祝。山岳機動・救助担当
武器:嵐龍棍『奇跡ノ天風』(操虫棍)
オトモ:『ソヨ』(アイルー)
『河城にとり』
所属:守矢ギルド
役職:『妖怪山狩猟技術連』主任技師
武器:試製重弩『玄武工廠式・河童筒』(ヘビィボウガン)
『橙』
所属:マヨヒガ
役職:オトモの里のまとめ役。オトモの育成担当