東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~人里 鈴奈庵~
――その噂は、三日で人里を一周した。
貸本屋『鈴奈庵』の帳場の奥で、小鈴は返却された本の頁を一枚ずつめくっていた。挟まった栞や、うっかり書き込まれた落書きを確かめるのが、冬の午後の小鈴の仕事だ。店の火鉢では、鉄瓶がシュンシュンと湯気を立てている。
その湯気の向こうで、本棚の陰から、ヒソヒソと話し声が聞こえてきた。
「――聞いたかい。聖域の地下の話」
「あぁ、聞いた聞いた。地の底に、でっかい古龍が眠ってるってやつだろう」
「この冬の北の嵐も、その古龍の寝息なんだとさ。夜中に耳を澄ますと、山の方から、ゴロゴロって地鳴りが聞こえるってな」
本を借りに来た二人の男だった。それを聞き留めた小鈴は、頁をめくる手を止めた。
帳場の隣では、阿求が借りていた古い記録の写しを返しに来たついでに、茶を啜っていた。その阿求もまた、湯呑みを口元で止めていた。
「……また、あの噂話ですか」
阿求が湯呑みを置いて、小さく溜め息を吐いた。
「今朝、
「誰かから聞いた、って言うだけなのよね」
「えぇ。誰かから聞いた。その先を辿ると、また誰かから聞いた、です」
小鈴は帳場の上に頬杖をついた。
「北の峰で何かが起きてるのは、本当みたいだけどね。入山制限もまだ解けてないし。……そこに『地の底の古龍』なんて話が乗っかったら、そりゃあ広まるわよね」
「広まるだけなら、まだいいのですが」
阿求は、帳場の端に置かれた一枚の紙に目をやった。
人里ギルドから回ってきた、ハンター向けの注意書きの写しだった。
――『聖域(聖地ヤマンバの地)への立ち入りは、聖域の長の許しなく行わないこと。噂を理由に聖域の囲いへ近付く者が出ている。厳に慎まれたし』
「腕に覚えのあるハンターが、古龍を一目見ようと聖域の囲いの前まで押しかけているそうです。……噂は好奇心を刺激し、人を動かす。それが一番、厄介なのです」
――その時。本棚の奥でカタン、と小さな音がした。
誰かが本を棚に戻し損ねた音だった。
小鈴と阿求が振り返ると――一番奥の本棚の前で、少女が一人立ち尽くしていた。
波打つ金色の長い髪が、背中の半ばまで流れている。髪には小さなシャコガイの殻の飾りと、黒い結び紐が三か所。虹色のフリルを幾重にも重ねた白いドレスは、冬の人里にはどう見ても寒そうだ。そして足元は裸足。板の間の冷たさを気にした様子もなく、少女は手にした本を胸に抱えたまま、黄色い目を大きく見開いていた。
『浅間浄穢山』の化石の森で生まれた蜃、自分の目で世界を確かめ始めたばかりの妖怪――『渡里ニナ』が呆然として固まっている。
「……ニナちゃん?どうしたの、そんな顔して」
小鈴が声を掛けると、ニナは、ぎこちなく首を回した。
「……ねえ、小鈴。今の話」
「今の?……地の底の古龍の噂?」
「うん。……それ――」
ニナは抱えた本をギュッと胸に押し付ける。
「――それ、私が言ったやつだ」
店の中がしんと沈黙に満ちる。本棚の陰の二人の男も口を噤む。
「……どういうこと?」
ニナはしばらく黙っていた。それから俯いたまま、ポツリポツリと話し始めた。
「まだ、私が……その、
ニナは顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいる。
「『地の底には、古龍が眠っている。いつか目覚めて、幻想郷を呑み込む。――マジだよ』って」
阿求が目を細めた。
「……覚えています。三年ほど前の冬に、似た噂が一度流れて、いつの間にか消えました。出どころが分からないまま」
「それも、私」
「随分と、あっさり認めるんだね……」
「だって、本当のことだもん」
ニナは本を元の棚に戻した。今度は、きちんと奥まで。
「でも……あの頃の私は、それが本当かどうか確かめたことなんて、一度もなかった。聞いたことを、そのまま言ってただけ。――それが、今になってまた誰かの口から出てきた」
小鈴が帳場から身を乗り出した。
「じゃあ、地の底の古龍なんて、居ないってこと?」
「……分かんない」
ニナは、首を横に振った。
「私が言ったことだから、嘘だと思う。でも、嘘だって確かめたわけでもない。地鳴りがするのは、本当かもしれないし」
それからニナは、自分の裸足の爪先をじっと見下ろした。
――昔の、
『――マジだよ』
だが、今のニナはそうは言わなかった。
「――マジか、確かめなきゃ」
小鈴と阿求が顔を見合わせた。
「確かめるって……聖域の地下に?」
「うん。私は、あそこで生まれたから。入れてもらえると思う。……たぶん」
阿求はしばらくニナの顔を見ていた。それから、帳場の上の紙と筆をニナの方へ滑らせた。
「では、確かめたらここへ報告に来てください。『分からなかった』という結果も、立派な報告です」
「……うん!」
「それと、ニナさん。――確かめる前に、誰にも話さないこと」
ニナはピタリと動きを止めた。それから、真剣な顔でコクリと頷いた。
「うん。――マジで、話さない」
ニナは裸足のまま鈴奈庵の戸口を出ていった。冷たい北の風に、虹色のフリルがヒラヒラと揺れた。
~妖怪の山 聖地ヤマンバの地 森の境~
――聖域の囲いの前は、珍しく騒がしかった。
「だから、ちょっと見るだけだって言ってるだろ!」
「狩りに来たんじゃない。一目でいいんだ、一目で!」
若い男が二人、背中に真新しい片手剣と弓を負って、見えない囲いの前で声を張り上げていた。人里のギルドで登録を済ませたばかり、といった風の揃いの軽装の防具。その前に、腕を組んで仁王立ちしているのはウバメだった。
「一目でも、二目でも同じだよ。――
「でも、古龍が眠ってるって……」
「誰に聞いた」
「誰って……里じゃ、皆言ってる」
「皆、ねぇ」
ウバメは鼻で笑った。そして、空中の何かを指で摘まむと、クイと手首を返した。男達の足元の枯れ葉がザワリと逆巻いて、見えない壁にぶつかったように舞い上がる。
「――帰りな。次に来たら、ネムノに言って開きにさせるよ」
男達は顔を見合わせた。それから捨て台詞を吐く度胸もなく、そそくさと山道を下っていった。
――その二人と、山道ですれ違った者が居た。
裸足で、虹色のフリルを揺らしながら、雪の残る山道を登ってくる少女――ニナだった。
ウバメはニナの顔を見るなり、眉間に深い皺を寄せた。
「……あんたかい」
「こ、こんにちは。長」
「聖域の中で噂話をしたら叩き出す。――前にそう言ったのを、覚えてるかい」
「覚えてる。……だから、話しに来たんじゃないの」
ニナはウバメの前で立ち止まった。そして、両手をギュッと握りしめる。
「さっきの人達が言ってた、地の底の古龍の噂。――あれ、昔、私が撒いた噂なの」
ウバメの目がスウッと細くなった。
「……ほう?」
「だから、確かめに来た。地の底に、本当に何か居るのか。或いは居ないのか。自分の目で見て、確かめたいの。――確かめないと、あの噂は消えないと思うから」
ウバメは、しばらく黙ってニナを見下ろしていた。北の風が二人の間を吹き抜けていく。
「……噂ってのはね」
ウバメが、ようやく口を開いた。
「撒いた奴にしか刈り取れないんだよ。――
ウバメは空中の何かを摘まみ、手首を捻じった。囲いの一か所が、人一人分だけ音もなく割れる。
「ありがとう、長!」
「礼を言う暇があったら、さっさと行きな。……それと、ネムノを連れていけ。あいつも、下が気になってるらしいからね」
――囲いの内側の森を、ニナは裸足で歩いた。
落ち葉の下の土は冷たく、湿っている。雪の残る斜面を回り込み、細い沢を跳び越えた時、沢の向こうの苔むした石の上から、甲高い声が飛んできた。
「――なんじゃ。また騒がしいのが来おったわ」
子供ほどの背丈の白い髪の少女だった。髪と溶け合うような大きな獣の耳を、ピンと立てている。聖域の監視者――チミだった。
「チミ!こんにちは!」
「こんにちはではないわ。お主が来ると、ろくなことにならん。儂が若い頃はの、山に入る者は、まず山に頭を下げたもんじゃ」
「それ、マジ?」
「マジじゃ」
「何年くらい前?」
「……数えるのも面倒なほど昔じゃ」
チミは、プイとそっぽを向いた。それから、横目でニナを見た。
「――下の音を、聞きに来たんじゃろう」
「え、チミも知ってるの?」
「儂を誰だと思うておる。山の音は、全部聞こえておるわ」
チミは苔むした石の上で、膝を抱えた。
「下の音はうるさいが、新しい。古い匂いはせん。――古い匂いがするのは、北の方じゃ。儂らよりも、ずっと古い匂いがな」
「北……?」
「下のことは、下で確かめてこい。――北のことは、お主の手には余る」
チミはそれだけ言って、フイと石の向こうへ姿を消した。後には、苔の上の小さな足跡だけが残っていた。
~聖域 ネムノの小屋~
――杉の皮で葺いた低い屋根の小屋の前で、ネムノは大きな出刃包丁を研いでいた。
人の背丈ほどもある、片刃の大剣だ。峰には雪鬼獣の分厚い腕甲。白く透ける刃を砥石に当てるたび、刃から冷気が零れて、白い息のように立ち昇る。
――雪鬼大剣『浮世ノ関』。山姥の手で研がれる、巨大な出刃包丁。
その足元では、赤胡麻の毛並みのガルクが、腹這いになって目を閉じている。――オトモのトチが、ニナの足音を聞いて片方の耳だけがピクリと動く。
「――なんだ、蜃でねぇか」
ネムノは、砥石から顔も上げずに言った。
「里の噂なら、うちの耳にも入ってるべ。地の底の古龍、だったべか」
「……うん。知ってるの?」
「知ってるも何も。――うちの小屋の床下からも、聞こえるんだ」
ネムノはようやく研ぐ手を止めた。そして、小屋の土間を刃の先で指す。
「この十日ばかり、夜中になると地の底から、ゴロゴロ、ゴロゴロ……ってな。雷みてぇな音が、足の裏に響いてくる。――こいつも、毎晩唸ってるべ」
〈……ガル〉
トチが目を開けた。そして低く、喉の奥で一度だけ唸った。
「寝息だって……みんな、言ってる」
「寝息にしちゃ、動き回りすぎだべ。音が、毎晩違う所から聞こえる。――寝てる奴は、そったらに動かねぇ」
ネムノは大剣を背負い、縄で括った柄がギシリと鳴る。
「地上と地下をまたぐ大型なら、うちと、下の番と、蛇の姫さんの仕事だ。どのみち、明日あたり降りるつもりだった」
ネムノは、ニナを上から下まで眺めた。裸足。薄いドレス。武器も、道具も、何一つ持っていない。
「……おめえ、狩りはできねぇんだべ」
「できない。でも、見ることはできる」
「見るだけだべな?」
「見るだけ。――あと、確かめるだけ」
ネムノは鼻を鳴らした。それから、小屋の壁に掛けてあった、毛皮の肩掛けを一枚、ニナに放り投げる。
「着とけ。地の底は冷えるべ。――裸足で歩く奴を、もう一人、地の底で凍らせるわけにゃいかねぇ」
「もう一人?」
「蛇の姫さんも、裸足だべさ」
ネムノはそれだけ言って、森の奥へ歩き出した。トチが音もなく立ち上がってその後に続く。
ニナは受け取った毛皮を肩に羽織り、歩き出す。獣の匂いがした。ネムノの小屋の土間と、干し草と、山の匂いだった。
~聖域 下りの洞窟の入口~
――苔むした岩の斜面の洞窟の脇で、馴子が四角い大盾を地面に立てていた。
「――あら。今日は珍しい組み合わせね」
馴子は、ネムノとトチと、その後ろで毛皮に埋もれるようにしているニナを順に見て、少しだけ目を丸くした。
「――下さ降りる。地鳴りの元を見に行くべ」
「やっぱり、ネムノさんの所まで聞こえていたのね。……私も、夜になると下から聞こえていたの。ゴロゴロ、ゴロゴロって。
「転がる?」
ニナが身を乗り出した。
「眠ってる音じゃなくて?」
「眠っている者は、転がらないでしょう」
馴子はクスリと笑った。それから、ニナの顔を覗き込んだ。
「――ニナさん。下りるのは、出ていった時以来じゃないかしら」
「……うん」
「入るのは自由。問答は、出る時だけ。――覚えているわよね」
ニナの肩が、ビクリと跳ねた。
地上へ出ようとした日。ニナは、この洞窟の出口で、馴子の謎の答えを何度も、何度も間違えた。答えを言うたびに『違います』と言われ、言い直すたびに『それも違います』と言われ、日が暮れかけた頃に、ようやく通してもらえたのだ。
「お、覚えてる……」
「ふふ。帰りを楽しみにしているわ」
馴子は大盾を少し脇へずらして、道を空けた。
~浅間浄穢山 地下空間~
――洞窟を抜けると、冷たく湿った闇が広がっていた。
ネムノが掲げた松明の火が、黒い岩の床を照らす。遠くで、水の滴る音。そして闇の奥に、四角錐の巨大な影――ピラミッドが黙って座っている。
ニナはその影を見上げて、足を止めた。
――あの中で、ニナは生まれた。化石の森で、流れ着く情報を浴び続けて、貝の化石から
「……ニナ」
ネムノが低い声で呼んだ。
「中には入らねぇ。音は、下からだべ」
「……うん。分かってる」
ニナはピラミッドから目を逸らした。そして、ネムノの松明の後を追った。
トチが先頭を歩いている。鼻を地面すれすれに下げ、時折立ち止まっては、空気の匂いを嗅ぐ。ピラミッドの裾を回り込み、地下空間の奥――地面が緩やかに下っていく方へ向かう。
下るにつれて、足元の様子が変わっていった。
岩の床に、何かが散らばっている。白く乾いた、細長いもの。
「……骨?」
ニナが、しゃがみ込んで拾い上げた。獣の骨だった。鹿か、猪か。何年も前のものなのか、すっかり白く乾いている。その隣には、もっと大きな骨。さらにその向こうには、石のように硬くなった、骨とも岩ともつかない欠片。
「――化石だべ」
ネムノが、松明を近付けた。
「この辺りは、地下空間の底だ。上から流れてきた獣の骨やら、ピラミッドから零れた化石やらが、何百年も溜まってる。――溜まってる、はずだべ」
ネムノの声が、途中で低くなった。
骨の積もった床の真ん中を、一本の道が通っていた。
道、と言っていいのかは分からない。人一人が両腕を広げたよりも、ずっと幅の広い帯。その帯の上だけ、骨が一本残らず砕かれて、粉々になって押し固められている。そして、その帯の表には、点々と穴が空いていた。槍の石突きを何本も並べて突き立てたような、丸く深い穴。それが帯に沿って、ずっと闇の奥まで続いている。
「……穴だらけの、轍」
ニナが呟いた。
トチが、轍の匂いを嗅いで低く唸り、尾がゆっくりと下がる。
「大型モンスターだべ。それも、転がる奴だ。――体中に、何か尖ったもんを付けて転がって通った跡だべさ」
「転がる……古龍が、転がるの?」
ニナは、轍の先の闇を見つめた。
幅の広い帯。穴だらけの跡。何百年分の骨を砕いて進む、大きな何か。頭の中で、その「何か」が、勝手に形を取り始めた。山のように大きな体。闇を裂く角。目覚めれば幻想郷を呑み込む、地の底の古龍――。
ニナの足元から、薄い靄が、ユラユラと立ち昇り始めていた。
靄が、闇の中で、巨大な竜の影を結びかける。
「――っ」
ニナは慌てて頭を振った。靄は形になる前に、フッと掻き消える。
「……おめぇ、今何か出しかけたべ」
「出してない。……出しかけたけど、やめた」
ニナは、自分の頬を両手でパチンと叩く。
「見てないものを、見せちゃいけないの。昔の私は、それをやってた。――今は、見たものしか見せない」
ネムノは黙ってニナを見つめる。それから、轍の方へ向き直った。
「古龍かどうかは、見なきゃ分かんねぇ」
ネムノは轍の縁に膝をついて、砕けた骨の粉を指で摘まんだ。粉は、黒く粘ったものに絡まっていた。ネムノはその指を鼻に近付けて、顔をしかめた。
「……油だべ。黒い、ネバネバした油だ。骨を、これで体に貼り付けてんだべ」
――その時、闇の奥から声が聞こえた。
「――あ、ネムノだ。それと、トチ。それから……ニナ?」
松明の光の輪の中に、裸足の少女がヒョッコリと顔を出した。
白い髪。体に巻き付いた平べったい蛇達。背には、青から紫へ色を移ろわせる甲殻の弓。ユイマンだった。
「わあ、ニナだ。久しぶりー。鹿狩り、行く気になった?」
「ゆ、ユイマン……ううん、今日は鹿じゃなくて」
ニナは慌てて首を横に振った。
ユイマンは、ニナがかつてピラミッドで何をしていたのかを、覚えていない。月に使われていた頃の、その終わりに、自分がニナを何と呼んだのかも。だから今のユイマンにとって、ニナは『時々遊びに来る貝の子』でしかなかった。
ニナは、それを知っていた。――知っていて、何も言わなかった。
「蛇の姫さん。この轍の主、知ってるべか」
ネムノが轍を指す。ユイマンは轍を見下ろして、「ああ」と笑った。
「ゴロゴロする子でしょ?知ってるよ。ちょっと前から、この辺りに棲んでるの」
「棲んでる?」
「うん。下の亀裂の方から上ってきたみたい。毎晩骨を食べに、ここを転がって回ってるの」
「骨を……食べる?」
ニナの目が丸くなった。
「うん。古い骨とか、化石とかをゴリゴリ噛んで、食べちゃうの。それで、食べきれない分は、体に貼り付けて着てるんだよ。――お洒落だよね」
ユイマンはそれから、少しだけ真面目な顔になってネムノを見た。
「――でもね、狩っちゃ駄目だよ。あの子は、掃除をしてくれてるから。この辺りに溜まってた骨、ずいぶん減ったもん」
「……見るだけだべ」
「なら、いいよ。案内してあげる。――ちょうど今くらいが、ご飯の時間なの」
ユイマンはクルリと背を向けて、轍に沿って闇の奥へ歩き出した。
――轍の先は、すり鉢のように窪んだ、広い窪地になっていた。
窪地の底一面に、骨が積もっていた。白い骨、黄ばんだ骨、石のように黒ずんだ化石。何百年もの間、地下空間の底へ流れ落ちてきたものが、雪のように降り積もっている。
その骨の雪原の真ん中で、何かが動いていた。
――ゴリ、ゴリ……バキリ。
硬いものを噛み砕く音が、窪地の壁に跳ね返って、何重にも響いてくる。ユイマンが、岩陰にしゃがんで、口の前に指を一本立てた。ネムノが松明を低く下げる。トチが、地面に腹を付けて伏せる。
ニナは、岩陰からそっと顔を出した。
――骨の塊だった。
最初はそう見えた。窪地の底に転がる、骨の山の一つ。だが――その山が、ゆっくりと持ち上がった。
太く短い二本の脚。その上に、ずんぐりと丸い胴。そして、胴から突き出した、大きな顎。その体中が、骨で覆われていた。背中には鋭い骨が櫛の歯のように連なり、尻尾の先まで続いている。顎には、大きく湾曲した骨が貼り付き、右の眼の上には、穴の空いた骨が仮面のように覆い被さっていた。左右で顔の形が違う。片方は獣、片方は髑髏のようだった。
骨と骨の隙間からは、黒い甲殻が覗いている。その甲殻の表が、松明の光を受けて、ヌラリと鈍く光った。黒く粘る油で、骨を体に貼り付けているのだ。
――ラドバルキンは、骨を食べる。死んだ獣の骨を砕き、噛み、飲み込む。食べきれない骨は、黒い油で体に貼り付けて身を守る鎧にする。他のモンスターが残した骨を片付けて回る、骨の谷の掃除屋である。
ラドバルキンは、ニナ達に気付いた様子もなく、また頭を下げた。顎で骨の山を掻き分け、大きな化石を一つ咥えて、バキリと噛み砕く。
「……あれが」
ニナが震える声で呟いた。
「あれが、地の底の、古龍……?」
「古龍じゃねぇべ。獣竜だ」
ネムノが小声で言った。
「あったら骨だらけの奴は、うちも初めて見た。……でも、古龍の気配じゃねぇ。古龍なら、こいつはこったらに落ち着いてねぇべ」
トチは伏せたまま、耳を立ててラドバルキンを見ていた。唸ってもいない。
ニナは岩陰から、もう少しだけ身を乗り出した。
――そして、見つけた。
ラドバルキンの背中に連なる鋭い骨の、その間に――別のものが貼り付いていた。
平たく、丸く、扇のような形をした、石。表には細い筋が放射状に何本も走っている。一つではない。背中のあちこちに、いくつも。
――貝の化石だった。
「……あれ」
ニナの声が、掠れた。
「私と、同じだ」
化石の森の、貝の化石。流れ着く情報を浴び続けて妖怪になった、あの貝と同じもの。それが、ラドバルキンの背中で、黒い油に貼り付けられてただの鎧の一枚になっていた。
ニナは気付けば、岩陰から立ち上がっていた。
「――ニナ……!」
ネムノの手が、ニナの肩を掴むより先に。
ニナの裸足が、足元の骨を踏み砕いた。
パキリ――乾いた音が窪地に響いた。
ラドバルキンの頭が、跳ね上がった。
髑髏のような右の顔と、獣のような左の顔が真っ直ぐにニナを向く。顎の骨がガチリと鳴った。
――咆哮が骨の窪地を揺らした。
積もった骨が、カラカラと音を立てて崩れ落ちる。ニナは、その場に立ち竦んだ。耳が痛い。足が、動かない。
ラドバルキンが、大きく首を振り上げた。
顎に纏った、湾曲した巨大な骨。それが高く、高く持ち上がって――。
「――伏せろ!」
ネムノがニナの体を横から抱きかかえて、骨の上に転がった。
ラドバルキンの顎が、ニナの立っていた場所に叩き付けられた。
足元の骨が一斉に砕けて宙に舞う。白い破片が、雨のように降り注ぐ。ネムノは、ニナを抱えたまま背の大剣を引き抜いて、自分達の前に立てた。降ってくる骨の破片が、大剣の広い刃の腹に当たって、カンカンと跳ね返る。
「――手を出しちゃ駄目!」
ユイマンの声が、窪地に響く。
「怒ってるんじゃないの、びっくりしてるだけ!こっちから叩いたら、本当に怒っちゃう!」
「分かってるべ!」
ネムノは大剣を盾にしたまま、ジリジリと後ろへ下がった。刃は向けない。ただ、刃の腹を前に立てて、骨の破片を受けるだけ。
ラドバルキンは、尻尾を高く振り上げた。
そのまま――体を横倒しにするように捻る。骨の鎧に覆われた巨体が、骨の雪原の上を、横向きに滑った。振り回された尻尾の骨が、扇形で積もった骨を薙ぎ払う。
体を起こした勢いで、ラドバルキンは大きく身震いした。背中に貼り付いていた骨が何本か、遠心力で弾き飛ばされる。白い骨の槍が唸りを上げて宙を飛んだ。
一本が、ネムノの大剣の腹に当たって粉々に砕ける。もう一本が、ニナの頭のすぐ上の岩を叩いて、白い粉を降らせる。
「ひゃっ……!」
「頭、下げとけ!」
――ラドバルキンが、低く唸った。
そして――体を、丸めた。
頭を胸に埋め、尻尾を腹に巻き込み、骨の鎧に覆われた体が一つの大きな球になる。背中の鋭い骨が、球体の表に棘のように突き出す。
「転がるぞ……!」
――球が動いた。
ゴロ、と。最初は、ゆっくりと。積もった骨を押し潰しながら、窪地の底を、ニナ達の方へ。ゴロ、ゴロ。速くなる。
ゴロゴロゴロゴロ――!
ネムノの小屋の床下で、毎晩聞こえていた音だった。
「――トチ!」
ネムノの声でトチが跳ね起きた。
トチは球が進む先へ飛び出すと、その鼻先を横切るように走り抜けた。球の向きが、ほんのわずかにトチの方へ逸れる。
その隙に、ネムノはニナを抱えたまま球の通り道から転がり出た。
球がネムノのすぐ脇を、轟音を立てて通り過ぎていく。棘のように突き出した背中の骨が、地面を穿ち、点々と穴を空けていく。
穴だらけの轍が伸びる。
球はそのまま窪地の壁にぶつかって、止まった。骨の山がドッと崩れて球の上に降り注ぐ。
――降り積もった骨の山の下で、球がゆっくりと解けた。
丸めていた首が持ち上がり、尻尾が伸び、短い脚が骨を踏みしめる。ラドバルキンは背中に降り積もった骨を、ブルリと身震いして払い落とす。そして、またネムノ達へ向いた。
ネムノはニナを下ろして、大剣を構え直した。刃ではなく、峰を前に。
「……次来たら、峰で脚を叩くしかねぇべ」
「――待って、ネムノ」
ユイマンが、ネムノの前に出た。
弓は、背に負ったままだった。代わりに、足元の骨の山から、太い獣のものらしき骨を一本、拾い上げる。ユイマンはその骨を両手で持って、ラドバルキンの方へゆっくりと歩き出した。
「ユイマン……!」
「大丈夫。――びっくりさせて、ごめんね」
ユイマンはラドバルキンの顎の届く少し手前で、足を止めた。そして手にした骨を、そっと骨の雪原の上に転がした。
ラドバルキンは鼻先を下げて、転がってきた骨の匂いを嗅いだ。
しばらく匂いを嗅ぐ。それから――大きな顎で骨を咥えて、ゴリ――と噛み砕いた。
ゴリ、ゴリ……バキリ。
――ラドバルキンは、既にネムノ達を見ていなかった。ユイマンが転がした骨を食べ終えると、また頭を下げて、骨の雪原を掻き分け始めた。最初に見た時と同じ、静かな食事の音が、窪地に戻ってきた。
ユイマンが振り返って、ニコリと笑った。
「ね?いい子でしょ」
ネムノは大きく息を吐いて、大剣を背に戻した。ニナはその場にへたり込む。
「……ご、ごめんなさい。私、近くで見たくて、つい……」
「見るだけって、言ったべ」
「見ようとしたの……」
「近過ぎだったべ」
ネムノはそれ以上は叱らなかった。ただ、ニナの頭の上に毛皮の肩掛けをバサリと被せ直した。
――その時、ラドバルキンが顎を大きく開けた。
欠伸のように見えた。
開いた口の奥から、白い靄がフワリと吐き出される。靄は窪地の底に低く広がって、ゆっくりと――ニナ達の方へ漂ってきた。甘いような、乾いた草のような匂いが鼻を突く。
「――あ」
ユイマンが声を上げた。
「それ、吸っちゃ駄目なやつ――」
――遅かった。
へたり込んだままのニナの顔の前を、白い靄がフワリと撫でていった。ニナの瞼がストンと落ちる。
「……ニナ?」
ネムノが袖で口元を覆いながら、ニナの肩を揺すった。返事はない。ニナは、毛皮に包まれたまま、骨の上でコテンと横倒しになってスウスウと寝息を立てていた。
ネムノは天を仰いだ。
「……眠りの息だべ。噂の寝息ってのは、こいつのことだべか」
「あはは。ニナ、寝ちゃった」
ユイマンが口元を押さえて笑った。トチが、眠ったニナの頬を鼻先でつつく。ニナは、ムニャムニャと何か言って、寝返りを打った。
――ニナが目を覚ましたのは、ネムノの背中の上だった。
揺れている。ネムノがニナを背負って、骨の窪地の縁を歩いていた。毛皮の肩掛けの温かさと、ネムノの背中の温かさ。そして、どこか遠くで何かがゴロゴロと鳴る音。
「……転がってる?」
「寝てるべ」
ネムノが顎で窪地の底を指し示す。
骨の雪原の真ん中で、ラドバルキンが体を丸めて眠っていた。骨の鎧に覆われた大きな球が、ゆっくりと膨らんでは、しぼむ。そのたびに、喉の奥からゴロゴロ、ゴロゴロと低い音が漏れてくる。
それが、地下空間の岩を伝って遠く、遠く響いていく。
「……寝息だ」
ニナが呟いた。
「本当に、寝息だったんだ」
「転がる音も混じってたべ。夜中に骨を探して転がり回って、食って腹がふくれたら、ああやって寝る。――転がる音と、寝息と。両方が、上まで響いてたんだべさ」
ニナはネムノの背中から、窪地の底のラドバルキンをじっと見つめた。
眠るラドバルキンの傍に、何かが落ちていた。
背中から剥がれ落ちた、骨の鎧の欠片。その中に、扇の形をした平たい石が一枚、混じっていた。――貝の化石だった。
「……ネムノ。下ろして」
「また近付く気だべか」
「近付かない。ここから見るだけ」
ネムノは小さく息を吐き、渋々ニナを下ろした。ニナは窪地の縁にしゃがみ込んで、遠くの貝の化石を見つめた。
――あの化石も、もしかしたら自分のようになっていたのかもしれない。化石の森で、流れ着く情報を浴び続けていたら。
でも、あの化石はラドバルキンの背中に貼り付いて、鎧になって、そして剥がれ落ちた。それだけだった。何も信じず、何も吸い込まず、ただの化石として。
「……拾わねぇのか」
「拾わない。あれは、あの子の鎧の欠片だもん。――それに、聖域のものは、外へ持ち出しちゃいけないんでしょ」
ネムノは少しだけ目を見開いた。それからフン、と鼻を鳴らした。
「……長に、聞かせてやりてぇな」
ユイマンが二人の隣に来て、しゃがみ込んだ。
「ニナ、どうだった?確かめられた?」
「……うん」
ニナはゆっくりと頷いた。
「地の底に、古龍は居なかった。居たのは、骨を食べて、骨を着て、転がって、眠る子だった」
「うん。いい子でしょ」
「……うん。いい子だった」
ニナは立ち上がった。そして、窪地の底で眠るラドバルキンに小さく頭を下げる。
「――起こして、ごめんね」
~浅間浄穢山 ピラミッドの南の壁~
――帰り道、ニナは一人でピラミッドの南の壁の前に立ち寄った。
巨石の壁には蜘蛛の巣のような罅が、変わらず走っている。壁の裾に、丸く穿たれた穴の跡。少し前に、ここで大きな蛇の竜が狩られたのだと、ユイマンが教えてくれた。
その壁の前に――阿梨夜が立っていた。
「……おかえりなさい、ニナ」
「た、ただいま……阿梨夜」
阿梨夜は、仮面に覆われていない右の目でニナを静かに見た。翼の目玉の模様が、ギョロリと動いてニナの肩の毛皮に向く。
「地の底の古龍の話。――ユイマンから聞いたわ。確かめに来たのね」
「うん。……昔、私が撒いた噂だったから」
ニナは壁の罅を見上げた。
「骨を食べる子だった。転がって、眠って。寝息が上まで響いてた。古龍なんて、どこにも居なかった」
「そう」
「……ねえ、阿梨夜。私、あそこで生まれたじゃない。化石の森で、捨てられて溜まってた情報を何でも信じて」
ニナは、ピラミッドの奥の方をちらりと見る。
「あの子の背中に、私と同じ貝の化石が付いてたの。でも、その貝は何も信じてなかった。ただの石で、ただの鎧だった。――私も、ああなってたかもしれないし、ならなかったかもしれない。それって……どっちが良かったのかな」
阿梨夜はしばらく答えなかった。地の底の静けさの中で、遠く、ラドバルキンの寝息が、ゴロゴロと響いていた。
「……私は石の女神。変わらないものよ」
阿梨夜がようやく口を開いた。
「だから、変わることの良し悪しは、私には分からない。――でも、貴女は確かめに行って、帰ってきた。それは、化石の森に居た時の貴女にはできなかったことでしょう」
ニナは目を瞬いた。それから、少しだけ照れたように笑った。
「……うん。マジで、そう思う」
~聖域 下りの洞窟の出口~
――洞窟の出口で、馴子が大盾を構えて待っていた。
「おかえりなさい、ニナさん。――それでは、問答を」
ニナの喉がゴクリと鳴った。後ろでネムノが腕を組み、トチが伏せて成り行きを見守っている。
馴子は咳払いをして厳かに問う。
「――持ち主が居ないのに、口から口へ渡るたびに、大きくなっていくもの。これは、何でしょう?」
ニナは目を閉じた。
鈴奈庵の本棚の陰で、男達が話していたこと。聖域の囲いの前で、若いハンター達が叫んでいたこと。三年前の冬、自分が人里で言いふらしたこと。
「……噂」
ニナは目を開けて、はっきりと答えた。
「噂。――誰のものでもないのに、渡るたびに、どんどん大きくなるから」
馴子は少しだけ目を細める。そして――大盾を脇へずらして、道を空けた。
「――ふふ、正解です。一度で通したのは、狛犬さん以来二人目ね」
「……一度で?」
ニナはポカンと口を開けた。それから、パッと顔を輝かせてネムノに振り返る。
「ネムノ!一度で通った!マジで!」
「聞いてたべ」
ネムノはそっけなく言って、ニナの横を通り過ぎた。だが、その口の端はほんの少しだけ上がっていた。トチが、ニナの脇を通り過ぎる時に、尾を一度だけユラリと振った。
~妖怪の山 聖地ヤマンバの地 森の境~
――森の境の囲いの前では、ウバメが相変わらず腕を組んで立っていた。
ネムノが、ウバメの隣で足を止めた。そして、顎でニナを指した。
「長。地の底の古龍の正体、こいつが確かめてきたべ。骨食いの獣竜だ。蛇の姫さん曰く、狩らねぇでいい奴だそうだ」
「……ふん」
「それと、こいつ。獣竜の背中から落ちた貝の化石は拾わなかったべ。『聖域のものは、外へ持ち出しちゃいけないんでしょ』……だと」
ウバメの眉がほんのわずかに動いた。
ウバメは、ニナを上から下まで眺めた。裸足の足。ネムノの毛皮の肩掛け。泥と骨の粉で汚れた、虹色のフリル。
「……噂を刈り取ったなら、もう用はないね。そら、さっさと帰りな」
ウバメは空中の何かを摘まみ、手首を捻じった。囲いの一か所が人一人分だけ割れる。
ニナは、肩の毛皮を脱いでネムノに返そうとするが、ネムノは首を横に振った。
「持ってけ。人里の方もまだ冷えるべ」
「でも、聖域のものは――」
「
ウバメがそっぽを向いたまま、言う。
「……それは、私が許した。早く行きな。囲いが閉じる前に」
ニナは毛皮の肩掛けを胸の前でギュッと合わせて、二人に深く頭を下げた。それから、囲いの割れ目をくぐって山道を駆け下りていった。
その背中が見えなくなってから、ウバメはポツリと呟いた。
「……噂ってのは、撒いた奴ごと変わるもんなんだね」
「だったら長も、変わったべさ」
「……うるさい」
~人里 鈴奈庵~
――翌日の昼、鈴奈庵の帳場の前に、ニナは毛皮の肩掛けを羽織ったまま立っていた。
「――確かめてきた」
小鈴と阿求が顔を上げた。阿求はすぐに帳面を開いて、筆を取る。
「伺います」
ニナは、見てきたことを一つずつ話した。
穴だらけの轍。骨の積もった窪地。骨を食べ、骨を纏い、体を丸めて転がる獣竜。驚かせて怒らせかけたこと。
ユイマンが骨を一本転がして、落ち着かせたこと。眠りの息で、自分が眠ってしまったこと。
そして、喉の奥から響くゴロゴロという寝息。
「……それで、最後に、これ」
ニナは帳場の前の板の間に、そっと手のひらを向けた。
ニナの足元から、薄い靄が立ち昇る。靄は板の間の上で、ぼんやりと形を結んでいく。骨の鎧に覆われた、ずんぐりと丸い獣竜の姿。左右で違う顔。背中に貼り付いた、扇の形の貝の化石。
――幻を見せる貝の妖怪が立ち上げた、蜃気楼。
店の奥で本を選んでいた客が、思わず声を上げた。小鈴も身を乗り出して覗き込む。
「わぁ……これが、地の底の古龍の正体?」
「うん。でも、細かい所は、ちょっと違うかも。私が見たまま、だから。――これは、参考くらいにしてね」
ニナは手のひらを下ろす。蜃気楼が湯気のように薄れて消えていく。
阿求は筆を走らせていた。そして、書き終えた一行をニナの方へ向けて見せた。
――『聖域の地下の地鳴り。獣竜種、『骨鎚竜:ラドバルキン』一頭。骨と化石を纏い、転がって移動する。夜に骨を食み、腹が満ちれば眠る。地鳴りはその転がる音と寝息。おとなしく、狩らぬもの。古龍に非ず。――確認者:渡里ニナ』
「……私の名前、書くの?」
「確かめた者の名を書くのが、記録です。――稗田の記録に名が載るのは、悪くないことですよ」
ニナは、その一行をじっと見つめていた。それから両手で頬を押さえて、俯いた。耳まで赤くなっていた。
「……マジか」
「えぇ、マジです」
阿求が真顔で答え、小鈴が思わず帳場の向こうで噴き出す。
阿求は記録を書き写した紙を一枚、帳場の脇に貼り出した。人里ギルドにも、写しを回す為だ。噂を上書きするのは、新しい噂ではなく――直接確かめた記録だ。
「でも、ニナちゃん」
小鈴が、ふと思い出したように言った。
「北の嵐の方は?あれも、その子の寝息だったの?」
ニナは顔を上げた。
鈴奈庵の戸口の向こうに、冬の人里の空が見えた。北の方角。山の稜線の、そのずっと向こう。灰色の雲がゆっくりと渦を巻いている。
「……それは、まだ確かめてない」
ニナは静かに言った。
「地の底の子は、北の嵐とは関係なかった。だから――北で吹いてる風は、まだ、誰にも確かめられてない」
ニナは北の空を見つめたまま、戸口の方へ一歩踏み出しかけた。
「だから、あれも私が確かめて――」
「――北の峰は、入山制限中です」
阿求が筆を置いてピシャリと言った。
「……はい」
ニナは踏み出しかけた足を、そっと戻した。
北の稜線の上で雲はまだ、ゆっくりと渦を巻いていた。
『渡里ニナ』
所属:なし(聖地ヤマンバの地・人里に出入り)
役職:噂を確かめる者。浅間浄穢山の化石の森で生まれた蜃
武器:なし(ハンターではない)
防具:なし