東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 守矢神社~
――その夜も、拝殿の三方の上から供物が消えていた。
東風谷早苗は、手燭の灯りを三方へ近付けて溜め息を吐いた。
夕方に供えたばかりの干し柿が、十個。それが、一つ残らず無くなっている。隣の瓶子は倒れて、御神酒が床の板に小さな水溜まりを作っていた。甘いような、酸っぱいような匂いが冷えた拝殿の中に漂っている。
「……これで、三日目」
早苗の足元で、銀灰の縞の毛並みのアイルーが床に鼻を近付けて、ヒクヒクと匂いを嗅いでいた。早苗のオトモのソヨが匂いを嗅ぎ終えて顔を上げる。
「お酒の匂いしかしないニャ。――あと、雪の匂いと、何かの毛の匂いニャ」
「毛?」
「獣の毛ニャ。……ボクの毛じゃないニャ」
ソヨは床に落ちていたものを、肉球の先で摘まみ上げた。――白く長い、一本の毛だった。手燭の灯りに透かすと、根元の方だけが僅かに灰色がかっている。
早苗はその毛をじっと見つめた。それから、拝殿の奥の本殿へ続く廊下の方を振り返った。
「……まさか。諏訪子様じゃ、ないわよね」
~守矢神社 母屋の台所~
「――拝殿のアレ、私じゃないよ」
台所の囲炉裏端で、諏訪子は早苗の顔を見るなり、そう言った。
目玉の付いた帽子を膝の上に置いて、両手で湯呑みを包んでいる。守矢神社のもう一柱の祭神は、早苗がまだ何も言わない内から首を横に振っていた。
「……まだ、何も言ってませんけど」
「その顔を見れば分かるもん。――お供えした干し柿でしょ?」
「どうして知ってるんですか?」
「三日も続けば、誰だって気付くよ。拝殿の前の雪に毎朝、足跡が増えてるもんね」
諏訪子は湯呑みを傾けて、ズズッと啜る。
「――言っとくけど、今回は本当に私じゃないからね。干し柿は、渋いのを吊るしてる時の方が楽しいんだよ。甘くなってから食べても、悪戯にならないじゃない」
「……悪戯の基準で否定しないでください」
早苗は、囲炉裏に掛けた鍋の蓋を取った。湯気がフワリと立ち昇る。山で採れた茸と、里から分けてもらった大根と、猪の肉を少し。冬の夜の、『守矢神社』の鍋だ。
ソヨが早苗の肩によじ登って、鍋の中を覗き込む。
「早苗、大根がまだ硬いニャ」
「分かってるって。もう少し煮るわ」
その時――母屋の奥の襖が静かに開いた。
注連縄を思わせる太い輪を背に負わず、今夜は羽織を一枚だけ肩に掛けた神奈子が、ゆっくりと囲炉裏端へ歩いてきた。紫がかった青い髪を、無造作に後ろへ流している。
その歩き方が、ほんのわずかに右の脇腹を庇っていた。
「――早苗。飯はまだか」
「もう少しです。……神奈子様、脇腹の具合は」
「大したことはない」
神奈子は囲炉裏の上座に腰を下ろす。だが、下ろす時にほんの一瞬だけ、眉が動いた。
――十日ほど前、聖域の地の底で、
「大したことはない、って顔じゃないねぇ」
諏訪子が湯呑みの縁越しに、ニヤリと笑う。
「座る時に、ちょっと唸ったじゃないの」
「唸ってなどいない」
「唸ったよ。――ねぇ、早苗?」
「わ、私に振らないでくださいよ……」
神奈子は諏訪子を一睨みする。それから、早苗の手元に目を落とした。
「その手に持っているのは、何だ」
「あ……これですか」
早苗は、ソヨが拾った白い毛を神奈子の前に差し出した。
「拝殿の供物が、三日続けて消えているんです。干し柿と、御神酒が。今夜も、三方の上が空っぽでした。それで、床にこれが落ちていて」
神奈子は毛を指先で摘まんで、囲炉裏の火に透かしてしばらく、黙って見ていた。
「……猿の毛だな」
「猿、ですか?」
「白い猿だ。――この山に、白い猿は居ない。居るとすれば、北の雪の中だが」
早苗はハッと息を呑んだ。
――白い毛並み。雪山に棲む猿のような獣。北の尾根の雪の斜面。早苗の頭の中で、ひと冬前の――否、ほんの
「――ブランゴ」
季節外れの暴風が吹いた、北の尾根。倒木が渦を巻いていた森。そこで、早苗と文は雪獅子の群れと戦った。長の右の牙を折り、長は北へ帰り、群れは散り散りになった筈だ。
「あの時の、群れの……?」
「散った群れの、はぐれ者だろう」
神奈子は白い毛を囲炉裏の縁に置いた。
「牙を折られた長には、群れの者は従わぬ。長の元を離れた者が、北の峰へも戻れず、山を下りてきたかもしれん」
「北へ戻れない……どうしてでしょう?」
「それが分かれば、苦労はしないよ」
神奈子は短く言い切った。囲炉裏の火が、パチリと爆ぜる。
――北の峰の入山制限は、まだ解けていない。北の尾根の上で渦を巻く雲。凍らされて落ちた天狗の伝令。風に裂かれた、レイギエナの翼膜。会所の帳場の奥の綴りには、北の件の書き付けが、少しずつ溜まり続けている。
諏訪子が湯呑みを置いた。
「で、どうするの?早苗」
「どう、とは……」
「拝殿の供物だよ。神社のお供え物を、勝手に食べちゃう猿が居るんだもんね。――守矢の風祝としては、放っておけないんじゃない?」
早苗はソヨと顔を見合わせた。ソヨが、尻尾をピンと立てる。
「――今夜、張り込むニャ」
「……うん、そうね。――今夜、張り込みます」
早苗は神奈子の方へ向き直った。
「神奈子様。――狩りますか?」
神奈子はすぐには答えなかった。囲炉裏の火を、じっと見つめている。
「……狩る必要はない。追い払いな」
「はい」
「干し柿の十や二十で、山の獣を狩る神社など、信仰を集められん。――ただし」
神奈子は早苗を真っ直ぐに見た。
「ブランゴは群れで動く。一匹と思って出ていけば、三匹に囲まれる。――ソヨから離れるな」
「分かっています」
「なら、いい」
神奈子はようやく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「――それで、飯はまだか」
「……今、よそいます」
~守矢神社 境内~
――夜半を過ぎると、境内の雪は青白く光って見えた。
月が、雲の切れ間から覗いている。拝殿の前の石畳には、早苗が夕方に掃いた跡の上へ薄く新しい雪が積もっていた。参道の脇に並ぶ灯籠は、どれも火を落としてある。鳥居の向こうの山道も、シンと黙り込んでいた。
早苗は拝殿の脇の、手水舎の陰にしゃがみ込んでいた。
厚手の羽織を風祝の装束の上から重ね、首には襟巻き。それでも吐く息は白く、指先はかじかんでいる。背に負っている白銀の操虫棍――嵐龍棍『奇跡ノ天風』が月の光を受けて、白銀の棍身が青く冷たく光っていた。
左の腕には手甲に留まった猟虫が、翅を畳んでじっとしている。寒さで少し動きが鈍い。
「……来ないわね」
「必ず来るニャ。三日続けて来たなら、四日目も来るニャ」
ソヨは早苗の膝の上に収まって、襟巻きの端に顔を埋めていた。頭の頭襟の飾りに、雪が一片乗っている。
拝殿の三方の上には、新しい干し柿を十個並べ直し、瓶子にも御神酒を注ぎ直している。下手人を誘き寄せる為の餌だ。
「……ねえ、ソヨ。ブランゴって、甘いものが好きなのかしら」
「知らないニャ。でも、寒い所の獣は甘いものが好きニャ。すぐ体が温まるからニャ」
「お酒も?」
「……お酒は、多分、こぼしただけニャ」
早苗は小さく笑った。
その笑い声が、白い息になって消えた時――ソヨの耳がピクリと立った。
「――早苗」
ソヨが囁いた。早苗の膝の上から、音もなく雪の上へ降りる。尻尾がゆっくりと低くなる。
早苗は息を殺した。
――鳥居の脇の、杉の木立の陰。月の光が届かない暗がりの中で、白いものがモゾリと動いた。
一つ。それから、もう一つ。
雪の上を、四つ足で低く這うようにして。白い毛並みが雪に溶けて、輪郭が分からない。ただ、月の光を受けた二つの目だけが、暗がりの中でギラリと光っていた。
――『ブランゴ』だった。
白い毛に覆われた、猿のような獣。頭には、たてがみのような豊かな毛。鼻の脇から、短い牙が二本、下顎に沿って覗いている。子供ほどの背丈だが、雪の上を這う手足は太く、長い。
ブランゴ達は鳥居をくぐらなかった。鳥居の脇の玉垣の切れ目から、スルリと境内へ入り込んだ。石畳の上には足を乗せず、雪の積もった植え込みの陰を伝って、拝殿の方へ近付いてくる。
「……賢いわね。目立つ場所に足跡を残さないように動いてる」
早苗は思わず呟いた。ソヨが肉球で早苗の膝を叩いて咎める。
二匹は拝殿の階段の下で止まった。一匹が階段の上を見上げ、鼻をヒクヒクと動かす。もう一匹は、階段の下に残って境内の方をグルリと見回した。見張りだ。
見上げていた一匹が階段を一段、二段と這い上がって、三方に手を伸ばした。
干し柿を一つ、摘まみ上げる。それから匂いを嗅いで、口へ放り込む。
もう一つ、もう一つ。
三つ目を口へ運んだ時――そのブランゴは何かを思い出したように、手を止めた。それから、干し柿を二つ胸に抱えて階段を下りて、見張りの一匹に一つを差し出す。
だが、見張り役の一匹はそれを受け取らなかった。代わりに、杉の木立の方を振り返って短く鳴く。
〈……キキッ〉
杉の木立の暗がりから、三匹目がヨタヨタと這い出てきた。
二匹よりも一回り小さい。毛並みは白いがところどころ灰色にくすんで、脇腹の毛が薄く剥げている。歩き方もどこか覚束ない。
見張り役の一匹が、その小さな一匹に干し柿を渡した。小さな一匹は両手で干し柿を抱えて、夢中で齧り付く。
早苗は手水舎の陰で息を止めたまま、その光景を見ていた。
「……早苗」
ソヨが早苗を見上げて小声で言った。
「あの小さいの、痩せてるニャ」
「……うん」
「北から下りてくる間に、ろくに食べてないんだニャ。――多分、群れから外れて、三匹だけで下りてきたニャ」
早苗は、背中の操虫棍の柄に、そっと手を掛けた。
――『狩る必要はない。追い払いな』
神奈子の言葉が頭の中で響く。
分かっている。分かっているが――
階段の下で、最初の一匹が瓶子に手を伸ばした。倒されてこぼれた御神酒を、舌で舐める。それから顔をしかめて、ブルブルと首を振る。
ソヨが噴き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
その時――手水舎の屋根から雪の塊が一つ、ドサリと落ちた。
早苗のすぐ目の前だった。
三匹のブランゴが、一斉にこちらを向いた。
六つの目が、手水舎の陰の早苗とソヨを真っ直ぐに捉えた。
「――あ」
見張りの一匹が、鼻の脇を真っ赤に染めて甲高く鳴いた。
〈キィィッ!キキィッ!〉
次の瞬間、早苗の顔の真横を何かがヒュッと掠めた。――雪玉だった。手水舎の柱に当たって、白く砕け散る。
「――ひゃっ!?」
二つ目、三つ目。見張り役の一匹が、両手で雪を掬い取っては固めて、投げる。その手つきの速さに、早苗は目を見張った。投げるたびに後ろへ跳び退って、距離を取る。
「早苗、出るニャ!」
「わ、分かってるって!」
早苗は手水舎の陰から飛び出した。背の操虫棍を引き抜いて、片手で大きく振るう。白銀の棍身が、月の光の中で青い弧を描く。
三匹のブランゴは、戦わなかった。
最初の一匹が、小さな一匹の首根っこを掴んで背に放り上げて乗せる。そして、見張り役の一匹と並んで、雪の上を跳ねるように駆け出した。鳥居の方ではなく、拝殿の脇を回り込んで母屋の裏手――神社の裏の、湖の方へ。
「待ちなさい!」
「――早苗!一人で行っちゃだめニャ!」
「一人じゃないでしょ!ソヨも来るの!」
「分かってるニャ!」
早苗とソヨは白い背中を追って、雪の境内を駆けた。
~守矢神社の裏の湖~
――母屋の裏の林を抜けると、目の前が一面の白に開けた。
――神社の裏の湖が凍っていた。
三日前の冷え込みで、岸の方から薄く張り始めた氷は昨夜のうちに湖の真ん中まで届いたらしい。その上に積もった雪が、月の光を受けてどこまでも平らに広がっている。対岸の山の黒い影が、その白の向こうに低く連なっている。
三匹のブランゴは、迷わずに氷の上へ飛び出した。
「――あっ!」
早苗は岸の際で足を止めかけた。
凍ってから、まだ三日だ。氷の厚さが分からない。だが、ブランゴ達は雪の上を跳ねるように、湖の真ん中へ向かって駆けていく。氷は割れない。
「早苗、ボクが先に行くニャ!」
ソヨが早苗の脇をすり抜けて、氷の上へ飛び降りた。腰の錫杖の鎚で、足元の氷をコンコンと叩きながら進む。
「――大丈夫ニャ!ここは厚いニャ!」
早苗は息を吸って、氷の上に足を踏み出した。
雪の下の氷が、キシリと鳴った。だが、それ以上沈まない。早苗はソヨの後を追って、湖の上を駆け出した。
前を行くブランゴ達は、湖の真ん中あたりで足を止めて振り返る。見張りの一匹と、最初の一匹が、小さな一匹を背に庇うようにして並んだ。鼻の脇が、二匹とも真っ赤に染まっている。
〈キキィッ!〉
見張りの一匹が、氷の上の雪を両手で掬い上げた。
固める。投げる。後ろへ跳ぶ。また掬う。固める。投げる。
雪玉が、ヒュン、ヒュンと、立て続けに飛んできた。早苗は、操虫棍を体の前で回して、二つ、三つと叩き落とした。砕けた雪が、顔に降りかかる。冷たい。
四つ目が、ソヨの頭に当たった。頭襟の飾りが、雪まみれになる。
「ニャッ!?……つ、冷たいニャ!」
もう一匹も、雪玉を投げ始めた。こちらは大きい。両手で抱えるほどの雪玉を、下からすくい上げるように放ってくる。早苗は横へ跳んで躱す。雪玉は氷の上で弾んで、ゴロゴロと転がっていった。
「――行って!」
早苗は左の腕を突き出した。
手甲に留まっていた猟虫が、翅を広げて飛び立った。寒さで鈍っていた羽音が、一度羽ばたくごとに少しずつ速くなる。猟虫は月光の中を一直線に飛んで、大きな雪玉を投げた方のブランゴの肩を掠め、白い毛を数本むしり取って早苗の腕へ戻ってきた。
猟虫の体が、くぼんやりと光っている。
早苗は猟虫の体から滲んだ光を、手甲越しに受け取った。足が軽くなる。
ブランゴ達が後ろへ下がり始めた。早苗とソヨを睨みながら、雪玉を投げては一歩ずつ、対岸の方へ。
「……このまま、向こう岸へ逃がせばいいのよね」
早苗は呟いた。
――追い払え。狩るな。
神社から遠ざければ、それでいい。対岸の山へ入ってしまえば、もう供物を盗りには来ないだろう。
だが――早苗は、その先を考えてしまった。
対岸の山の、その奥は北へ続いている。北の峰。入山制限が続く雪の尾根。牙を折られた長が帰っていった場所。目の前の三匹が、戻れずに下りてきた場所。
「――早苗!前ニャ!」
ソヨの声で早苗は我に返った。
小さな一匹が、二匹の背中からずり落ちていた。
氷の上で足を滑らせたのだ。痩せた手足で、懸命に起き上がろうとしてまた滑る。前の二匹は、雪玉を投げるのに夢中で、気付いていない。小さな一匹は這うようにして、湖の真ん中の方へ動く――
早苗は息を呑んだ。
小さな一匹が這っていく先の雪の表面が――
「――ソヨ!あそこ!」
「氷が薄いニャ!」
湖の底から湧き水が出ている所だ。夏はそこだけ水が冷たいのを、早苗も知っていた。故に冬は、そこだけ氷が張りにくい。
小さな一匹の手が、湿った雪の上に乗った。
――ミシリ。
氷が鳴った。
早苗は操虫棍の先を氷に突き立てた。
棍の先から柄を伝って、体が高く跳ね上がる。風祝装束の袖が、夜の空気を切った。前を塞ぐ二匹のブランゴの頭の上を、早苗は大きく跳び越える。
見張り役だった一匹が、真上を見上げてポカンと口を開けた。
早苗は、小さな一匹のすぐ手前に着地した。足の下の氷がギシリと沈む。
「――っ」
小さな一匹の手元で、雪の表に黒い筋が走った。氷の割れ目だ。筋は見る間に枝分かれして、蜘蛛の巣のように広がっていく。その下から、暗い水がジワリと滲み出してきた。
小さな一匹が、早苗を見上げた。
怯えた目だった。牙を剥くことも、鼻の脇を赤くすることもできずに、ただ、氷の上で震えている。
早苗は操虫棍を寝かせて、氷の上に差し出した。
「……掴まって」
〈……キィ〉
言葉が通じるとは思わなかった。だが、小さな一匹は震える手を伸ばして、白銀の棍の端を、両手で掴んだ。
早苗は棍を引いた。
その瞬間――小さな一匹のいた場所の氷が、音もなく黒い水の中へ沈んだ。
小さな一匹は、棍にしがみついたまま氷の上を滑って、早苗の胸の中へ転がり込んできた。軽い。驚くほど、軽かった。
早苗の足の下で、また氷がギシリと鳴った。割れ目が早苗の足元まで伸びてきている。
「――早苗!下がるニャ!」
「下がれないの!今動いたら――」
割れる。早苗は小さな一匹を抱えたまま、身動きが取れなくなった。後ろには、牙を剥いた二匹のブランゴ。前には湖の黒い水。足の下には、罅の入った氷。
その時――岸の方からのんびりとした声が聞こえてきた。
「――あーあ。だから、凍って三日の湖に乗っちゃ駄目だって、毎年言ってるじゃない」
早苗は首だけで振り返った。
岸の雪の上に、小さな人影がしゃがみ込んでいた。目玉の付いた帽子。膝下までの、蛙の絵の入ったワンピースの裾。
諏訪子だった。
「す、諏訪子様……!」
「ちょっと待ってな。――動かないでよ、早苗」
諏訪子はしゃがんだまま、岸の雪の上に右の掌をペタリと付けた。
何も、起きないように見えた。
だが、早苗の足の下で――氷の軋みがフッと止んだ。
罅が入った氷の、そのずっと下。湖の底の泥がほんのわずかに盛り上がって、氷の裏を下から支えているのが分かった。足の裏に、固い地面を踏んでいるような感触がジワリと伝わってくる。
「水は私の領分じゃないけど。湖の底は、
諏訪子は岸でニッと笑った。
「――ほら。今のうちに、ゆっくり下がりな。一歩ずつね」
――早苗は小さな一匹を胸に抱えたまま、一歩ずつ後ろへ下がった。
足の下の氷は、もう鳴らなかった。一歩下がるたびに、湖の底から見えない手が氷の裏を支えてくれているのが分かる。ソヨが早苗の背中にピッタリと寄り添って、一緒に下がっていく。
二匹のブランゴは、動かなかった。
鼻の脇を赤く染めたまま、早苗の胸の中の小さな一匹をじっと見ている。雪玉を掬った手が、宙で止まっていた。
割れ目から十歩ほど離れた所で、早苗は足を止めた。
氷の上にそっとしゃがみ込む。そして、胸の中の小さな一匹を雪の上に下ろした。
小さな一匹は、しばらく早苗の袖を掴んだまま、離さなかった。それから、二匹の方を振り返ってか細く鳴いた。
〈キュウ……〉
見張り役だった一匹が、雪玉を落とした。
一歩、また一歩。低く這うようにして、早苗の方へ近付いてくる。早苗は操虫棍を氷の上に置いたまま、動かなかった。ソヨも錫杖の鎚を下ろして、じっとしている。
見張りの一匹が、小さな一匹の首根っこをそっと咥えた。
その眼が一瞬だけ、早苗の目と合った。
――その時だった。
湖の、ずっと北の岸の方から低い音が聞こえてきた。
ゴゴ――と。
腹の底に響くような、重い音が、氷の上に置いた早苗の掌に細かな震えとして伝わってくる。震動は北の岸から、湖の真ん中へ向かって真っ直ぐに近付いてきた。
「……え?」
「早苗!氷が、鳴ってるニャ!」
――ゴゴゴ、ゴゴゴゴ……!
音が近付き、速くなる。月明かりの下、北の岸から雪の表が一筋、盛り上がりながらこちらへ走ってくるのが見えた。まるで氷の下を、何か大きなものが通り抜けていくように。
早苗は息を呑んだ。
隆起は、早苗達のほんの十数歩先を横切っていった。
――氷が裂けた。
裂けた氷が左右から押し合って、空へ向かって迫り上がる。板のような氷の塊が何枚も、何枚も重なり合いながら立ち上がる。早苗の背丈ほどもある氷の山脈。それが北の岸から南の岸へ、湖を真っ二つに割るように一本の線を描いていた。
砕けた氷の欠片が、月の光を受けてキラキラと宙に舞う。
〈〈キキィ!?〉〉
二匹のブランゴが、甲高い悲鳴を上げた。
見張りの一匹は小さな一匹を咥えたまま、氷の山脈から跳び退った。もう一匹もそれに続く。三匹は一度だけ早苗の方を振り返って、それから西岸の黒い林の中へ、雪煙を上げて駆け込んでいった。
北ではなかった。
早苗は氷の上にへたり込んだまま、三匹が消えた林を見つめていた。それから、目の前にそびえる氷の山脈を見上げた。
「……な、何、これ」
「――
岸の方から諏訪子の声が聞こえた。
諏訪子は、いつの間にか氷の上をペタペタと歩いて、早苗のすぐ後ろまで来ていた。帽子の目玉が、月の光を受けて氷の山脈を見上げている。
「
「湖が凍って冷えて、氷が縮んで裂ける。暖かい昼に緩んで、冷える夜にまた冷えて、裂け目に張った氷が左右から押し合って、こうして迫り上がる。――
「は、はい。……でも、
早苗は恐る恐る、氷の山脈に手を伸ばした。
――冷たい。板のような氷が斜めに重なり合って、鋭い縁を夜空に向けている。一枚一枚が、早苗の掌よりもずっと厚い。
「諏訪の湖じゃ、昔から――男の神様が、向こう岸の女神様の所へ、氷の上を渡っていった跡だって言われてるんだよ」
諏訪子はそこで、意地の悪い笑みを浮かべて岸の方を振り返った。
「――ねぇ、神奈子?」
岸の林の際で、手燭の灯りが一つ揺れていた。
羽織を肩に掛けた神奈子が、右の脇腹に手を添えて雪の上に立っていた。いつからそこに居たのかは分からない。
「……私は、渡っていない」
神奈子は短く言った。
「私は、ここに居る」
「あはは。知ってるよ。――渡ったのは、神様じゃないもんねぇ」
諏訪子はケラケラと笑った。だが、その笑みはすぐに消える。
諏訪子は氷の山脈の前にしゃがみ込んで、迫り上がった氷の根元に掌をそっと当てた。それから、山脈が走ってきた方――北の岸の方をじっと見つめる。
「……でもね、早苗。――今夜のは、おかしい」
「おかしい、ですか?」
「
諏訪子は立ち上がって、北の岸の方へ顎をしゃくった。
「それに……この向きだ。諏訪の湖じゃ御神渡りは、南の岸から北の岸へ走るものだった。今夜のは、北から来たでしょ」
早苗は思い出した。
ゴゴ――という音。北の岸から、真っ直ぐに近付いてきた振動。
「北から、押された……?」
「氷が縮んで裂けたんじゃない。――北の岸から、
神奈子が雪を踏んで、岸から氷の上へ降りてきた。
早苗が止める間もなかった。神奈子は氷の山脈の前で足を止め、北の岸の方へ顔を向けた。
その時――北から風が吹いた。
湖の上を、遮るもののない冷たい風が真っ直ぐに吹き抜けていく。早苗の襟巻きがバタバタとはためいた。氷の山脈の縁から細かな雪が、白い煙のように吹き飛ばされていく。
早苗は思わず顔を背けた。
――その風の中に、何かの匂いが混じっていた。冷たい雪の匂い。凍った湖の水の匂い。それから――ほんのかすかに、錆びた鉄のような匂い。
「……神奈子様。今の、風……」
「――あぁ」
神奈子は北の空を見上げたまま、短く答えた。
北の空。対岸の山のそのずっと向こう。月の光に照らされた雲が、ゆっくりと渦を巻いていた。
~守矢神社 母屋の囲炉裏端~
――母屋に戻ると、囲炉裏の火はほとんど熾火になっていた。
早苗は炭を足して、火吹き竹で火を起こし直す。ソヨが凍えた肉球を火にかざして、小さく震えている。頭襟の飾りに付いた雪が溶けて、ポタリと灰に落ちて数秒シミを作る。
神奈子は上座に腰を下ろさなかった。
奥の部屋から黒い漆の文箱を一つ抱えてきて、囲炉裏の縁に置いて蓋を取る。中には紙の束が紐で綴じられて入っていた。
「――早苗。筆と紙を」
「は、はい」
早苗は慌てて文机から筆と硯と紙を持ってきた。神奈子は綴りをめくりながら、早苗の手元の紙を顎で指した。
「書け。内容は私が言う」
早苗は筆に墨を含ませた。
神奈子は綴りの一枚目を指でなぞって、静かに読み上げた。
「――秋の終わり。北の尾根に、雲も雨もない季節外れの暴風。倒木が渦を巻いて倒れていた。風の中に、金気の匂い」
早苗は、筆を走らせる。
――覚えている。文と、ソヨと、自分で見た景色だ。雪獅子の長の右の牙を折った、あの尾根の森。
「――冬の初め。北の雪山で、遭難者の傍に、錆びた鱗片が一枚」
「――湖から山へ移った雪の飛竜。翼の古い棘の欠片に、錆」
「――虹龍洞での落盤発生の夜。北の空に、星の見えない一点」
「――北の尾根の上に、雲の渦発生。渦の芯が、鉄の色を帯びていた」
神奈子の声は低く、淡々としていた。一つ読み上げるたびに、囲炉裏の火がパチリと爆ぜる。
早苗の筆が、少しずつ遅くなる。
――自分が知らない話もあった。人里の会館から回ってきた報告。天狗の哨戒の記録。河童の坑の見回りの書き付け。どれも、一つ一つは繋がりが見えないバラバラの出来事だった。季節も、場所も、見た者も違う。
だが、こうして一枚の紙に並べると――
「――北の尾根で、天狗の伝令が二人、翼を凍らされて落ちた。討ったレイギエナの翼膜に、古い傷。北の空の、強すぎる風に裂かれた跡」
サリエルと文と三人で落とした、蒼が差した白い花のような竜。早苗は、あの翼膜の古傷をこの目で見た。
「――人里ギルドから回ってきた、稗田の記録の写しだ」
神奈子は綴りの中の一番新しい一枚を、早苗の前に置いた。
聖域の地下の地鳴りを確かめた、
その下に、阿求の字で小さく一行が書き足されていた。
――『追記:北の嵐は未確認事項多数』
「地の底の地鳴りは、
神奈子は綴りを閉じた。
「それから、今夜の分だ。書け」
早苗は、筆を握り直した。
「――牙を折られた
神奈子はそこで、諏訪子の方を見た。
諏訪子は囲炉裏の隅で膝を抱えて、帽子の鍔を指で弄んでいた。神奈子の目に気付くと肩をすくめる。
「――御神渡り発生。凍って三日目の湖に、北の岸から押されて時期より早すぎる御神渡りが出た。風に、錆の匂いあり」
諏訪子が言い添える。
「それと、もう一つ書いときな、早苗。――北の峰の下の地面は、静かなもんだよ。山は揺れてない」
「え……?」
「私が触って分かるのは、地面だけだからね。地面の方は何ともない。……何ともないのに、湖の氷は北から押されたんだ」
諏訪子は帽子を被り直して、天井の梁の方を見上げる。
「だから揺れてるのは、地面じゃない。――空の方だよ」
早苗はその言葉を、そのまま紙に書き写した。
書き終えて、筆を置く。
一枚の紙に、季節も場所も見た者も違う出来事が、上から下までビッシリと並んでいた。その全部が、同じ一つの方角を含んでいる。
早苗は紙から顔を上げて、神奈子を見た。
「……神奈子様。これは」
「見立ては、まだ足りない」
神奈子は短く言った。
障子越しに会所の典へ言う時と、同じ言葉だった。だが、今夜の神奈子は障子の向こうではなく、早苗の目の前に座っている。
「錆の匂いがする風。空の渦。強すぎる風に裂かれた翼。北から押された氷。――どれも、北に何かが居ると言っている。だが、それが何なのか、どれほどのものなのか、何を見ればそれと分かるのか。――その一枚が、足りない」
神奈子は早苗の書いた紙を手に取って、火に透かして墨を乾かす。
「……古龍かもしれん。そう言うのは容易い。だが、
「足りない一枚を……どうやって」
「――持っている者に、聞く」
神奈子は紙を文箱に仕舞った。
「これまで見付かった錆びた鱗を、長いこと拾っては磨いている仙人が居る。北の尾根の風が錆びて匂うことも、その錆が何の錆なのかも、あれは――茨華仙は知っているはずだ」
諏訪子がヒュウ、と口笛を吹いた。
「あの説教臭い仙人さん?神奈子が頭を下げに行くの?」
「頭など下げるか。話を聞きに行くだけだ」
「同じことだと思うけどねぇ」
「……諏訪子」
「はいはい」
神奈子は早苗の方へ向き直った。
「明日、書状を書く。茨華仙の屋敷は山の中にあるが、仙界故に山の地図には載っていない。招かれた者しか辿り着けない。――だから、博麗の巫女に取り次がせる」
「では、神奈子様が博麗神社へ……?」
「あぁ。――私が行く」
早苗は思わず、背筋を伸ばした。
膝の上で握った手に力が入る。神奈子の右の脇腹。座る時に動いた眉。御柱を背に負わずに、羽織一枚で湖の氷の上へ降りてきた姿。
「――神奈子様」
「何だ」
「どうか……一人で、行かないでください」
囲炉裏の火がパチリと爆ぜた。
ソヨが火にかざしていた肉球を、そっと下ろした。諏訪子が帽子の鍔の下から、目だけで早苗を見た。
神奈子はしばらく黙って、早苗の顔を見ていた。
「……一人で行くな。と、お前に言ったのは私だったな」
「はい。二年前の初夏に。崖の下で足を挫いた夜です」
「――覚えていたか」
「忘れません」
早苗は神奈子の目を、真っ直ぐに見返した。
「書状は、私が『博麗神社』まで届けます。霊夢さんに取り次いでもらいます。神奈子様は、茨華仙――華扇さんの所へ行く日まで、脇腹を休めていてください。――ソヨの薬草の湿布、まだ残ってますから」
「……ボクの薬は、よく効くニャ」
ソヨが小さな声で言い添えた。
神奈子は長いこと、何も言わなかった。それから、フッと息を吐いて口の端を上げた。
「――オトモの方が、よく分かっているな」
「え?」
「いや。……任せる、早苗」
神奈子は囲炉裏の上座に、ゆっくりと腰を下ろした。下ろす時にまた、ほんの一瞬だけ眉が動いた。今度は隠そうとしなかった。
諏訪子が膝を抱えたまま、ケラケラと笑った。
「良かったねぇ、神奈子。風祝がちゃんと一人前になってきたじゃない」
「……うるさい」
~守矢神社の裏の湖 明け方~
――結局、早苗は一睡もできなかった。
布団に入っても、目を閉じると氷の裂ける音が耳の奥で鳴った。北から押されて迫り上がった、氷の山脈。風の中の錆びた鉄の匂い。一枚の紙に並んだ、北を向いた出来事の列。
空が白み始めた頃、早苗はそっと布団を抜け出した。
厚手の羽織を重ねて、母屋の裏口から外へ出る。ソヨは囲炉裏端で、早苗の襟巻きにくるまって丸くなっていた。起こさないように、そっと戸を閉める。
――音はできる限り立てなかった筈だった。
「……早苗。一人で行っちゃだめって、言ったニャ」
戸口の陰から、襟巻きを引きずったソヨが眠そうな目をこすりながら出てきた。
「……起きてたの?」
「早苗が起きたなら、ボクも起きるニャ」
早苗は小さく笑って、ソヨを抱き上げた。
裏の林を抜けると、湖が明け方の青い光の中に広がっていた。
夜のうちに、また雪が少し降ったらしい。氷の上の雪は、まっさらに均されていた。早苗とブランゴ達の足跡も、割れた氷の跡も、薄い雪の下に隠れている。
ただ、湖を北から南へ真っ二つに割る氷の山脈だけが、そのまま残っていた。
朝日が、東の稜線から最初の光を投げた。
氷の山脈が一斉に輝いた。斜めに重なり合った板のような氷の一枚一枚が、朝日を受けて透き通った青と、淡い金色に光る。
まるで――湖の上に光の道が一本、通ったようだった。
「……綺麗」
早苗は思わず呟いた。
「きれいニャ……」
ソヨも、早苗の腕の中で目を丸くしていた。
その光の道の、ちょうど真ん中あたりで小さな人影が一つ、腰掛けていた。
目玉の付いた帽子が、朝日を受けてこちらを向く。
「――おはよう、早苗。早いねぇ」
「諏訪子様……そこ、危なくないですか」
「私の足の下は、どこでも地面だよ」
諏訪子は氷の山脈の上で、足をブラブラと揺らした。それから、手招きをした。
「おいで。――
「はいかん?」
「
早苗はソヨを抱えたまま、恐る恐る氷の上に降りた。諏訪子が支えているのだろう。足の下の氷は、昨夜よりもずっと固く感じられた。
山脈の傍まで歩いていって、諏訪子の隣に立つ。
近くで見ると、氷の山脈は、真っ直ぐではなかった。北の岸から真っ直ぐに走ってきて、湖の真ん中で、一度だけ大きく西へ折れている。それから、また南へ走っている。
「……ここで、曲がってますね」
「うん。早苗がブランゴを抱えてた所の、ちょっと手前でね」
諏訪子は曲がり角の氷を、掌でポンポンと叩いた。
「――で、占うと、こう出る」
諏訪子は目を細めて、北の空を見上げた。
「――今年の冬は、北から大きな風が来る。山も、里も、ずいぶん揺さぶられる。――でも、真ん中で一度、曲がる。曲がって、また南へ抜ける。抜けた先の作物は、悪くない」
早苗は諏訪子の横顔を見つめた。
「……それ、本当に占いですか?」
「さぁね。――でも、神様の言うことだ。信じるかどうかは、風祝次第だよ」
諏訪子はケロケロと笑った。その時、ソヨが早苗の腕の中で身を乗り出した。
「――早苗。あそこ、何かあるニャ」
ソヨが指したのは、西の岸だった。
昨夜、三匹のブランゴが駆け込んでいった黒い林。その林の際の湖の岸の雪の上に――何か白いものが、ポツンと置かれていた。
早苗は氷の上を渡って、西の岸へ向かった。
近付くにつれて、それが何なのか分かった。
――雪玉だった。
早苗の両手でも抱えきれないほどの、大きな雪玉が一つ。その上に、一回り小さな雪玉がチョコンと乗っている。そして、その表面には指でなぞったような細い筋が、渦を巻くようにグルグルと何本も刻まれていた。
不思議な模様だった。雪の結晶のようにも、風の渦のようにも見える。
「……これ」
「ブランゴの雪玉ニャ」
ソヨが、早苗の腕から飛び降りて、雪玉の周りを、クルリと一周した。
「ブランゴは変な模様の雪玉を作るって、『マヨヒガ』で聞いたことがあるニャ。――なんで作るのかは、誰も知らないニャ」
雪玉の周りの雪には、大きな手の跡が二つ。それから、小さな手の跡が、一つ。
小さな手の跡は、一番上の小さな雪玉に何度も触った跡が残っていた。
早苗は雪玉の前にしゃがみ込んだ。
林の奥は静かだった。白い毛並みは、どこにも見えない。だが、雪の上の足跡は林の奥へ続いていて、北へは向いていなかった。
「――早苗」
背後から、声が聞こえた。
振り返ると、林の際の雪の上に神奈子が立っていた。
羽織の下にもう一枚、外出用の上衣を重ねている。手には、封をした書状が一通。紙の上に、墨の字で宛名が一行。
――『宛 茨華仙殿』
神奈子は、早苗の前の雪玉を見下ろした。しばらく、不思議な雪玉を黙って見ていた。
「……今日から、供物は拝殿に供えなくていい」
「え?」
「この林の際に置け。干し柿でも、芋でも、余りの飯でもいい。――春までだ」
早苗は目を瞬いた。
「……それって」
「元居た縄張り――北へ戻れぬ者を追い払う先は無い。山を下りて里に出れば、里のハンターに狩られる。――ならばいっそのこと、春までこの林に居させておきな。春になれば、北の峰も少しは静かになっているだろうからね」
神奈子はそう言って北の空を見上げた。
「――静かに、ならねばならないんだ」
その言葉は早苗に言ったのではなかった。誰に向けて言ったのか、早苗には分からなかった。
神奈子は書状を早苗の手に渡す。
「行け、早苗。『博麗神社』の巫女の下までだ。――ソヨを連れてな」
「はい」
早苗は書状を懐の奥に仕舞った。ソヨが早苗の足元で、尻尾をピンと立てる。
「行くわよ、ソヨ。――一緒に行こう」
「分かってるニャ」
早苗は雪の山道を麓へ向かって駆け出した。
鳥居をくぐる時、一度だけ振り返った。
朝日の中。凍った湖の上を、光の道が一本北から南へ走っていた。その真ん中で、小さな神様が足をブラブラと揺らしている。岸の林の際ではもう一柱の神様が、北の空を見上げたまま動いていない。
北から、また風が吹いた。
早苗の襟巻きをハタハタと揺らして、山の上へ吹き抜けていく。
その風は、昨夜よりもほんの少しだけ――錆の匂いが濃かった。