東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~博麗神社~
――博麗神社の石段を上りきった時、早苗の息はすっかり上がっていた。
夜明けに守矢を発って、山道を休まず下ってきた。懐の奥には封をした書状が一通。走るたびに胸に当たるその固さを、早苗は何度も手で確かめた。
境内は掃き清められていて、参道の雪だけが脇に寄せてある。拝殿の賽銭箱の前を通り過ぎると、母屋の縁側から声が飛んできた。
「――朝っぱらから、何よ。山の巫女が息を切らして」
縁側に腰掛けていたのは霊夢だった。
膝の上に布を広げ、その上に掌ほどの鱗を一枚置いている。右手には油を染み込ませた布切れ。鱗の表は大半が赤茶に錆びていたが、真ん中の辺りに一点、白く光る所があった。
「霊夢さん、おはようございます!」
「はいはい、おはよう。……で、何の用?」
「書状です。神奈子様から」
早苗は懐から書状を取り出して見せる霊夢は鱗を磨く手を止めずに、宛名に目だけを落とす。
「……『宛 茨華仙殿』?」
「はい。華扇さんのお屋敷に、取り次いでいただけないかと思って」
「取り次ぐも何も」
霊夢は顎で縁側の奥をしゃくった。
――障子の陰に、もう一人座っていた。茶を啜っている。
「――あら。早苗じゃない」
茨木華扇だった。
早苗は目を丸くした。足元のソヨも、尻尾をピンと立てたまま固まっている。
「か、華扇さん!どうしてここに」
「霊夢が磨いている鱗を見に来たのよ。毎朝ちゃんと磨いているか、確かめないとね。――案の定、昨日は磨いていなかったけれど」
「磨いたわよ。夕方に少しだけ」
「少しだけ、ね」
華扇は湯呑みを置いた。それから、早苗の手の中の書状に目を向ける。
宛名を見た途端、華扇の顔から笑みが消えた。
「……私宛て。八坂様から?」
「はい」
早苗は縁側の前に膝をつき、両手で書状を差し出した。華扇は受け取って封を切る。
中の紙は二枚だった。
一枚目は神奈子の手紙。短く、硬い字で数行だけ。二枚目は、早苗が昨夜書いた北の件の書き出しを、神奈子が清書したものだった。
華扇は一枚目を読み、二枚目を読んだ。
二枚目を読む時間の方が、ずっと長かった。
霊夢が鱗を磨く手を止めて、華扇の横顔を見る。華扇の目は紙の下の方――御神渡りの一行と、諏訪子の言葉の辺りで止まっている。
――『揺れてるのは、地面じゃない。空の方だよ』
「……華扇?」
「えぇ。――用件は把握したわ」
華扇は書状を畳んで膝の上に置いた。
「八坂様は、私に話を聞きたいそうよ。北の風の錆のことを」
「錆って……あの錆?」
霊夢が膝の上の鱗に目を落とした。
「えぇ。貴女が今磨いている鱗と、同じものの話」
華扇は少しの間、黙った。
北の空を見上げる。博麗神社の上の空は薄く晴れていた。だが、妖怪の山の稜線のずっと向こうには、灰色の雲が重く垂れ込めている。
「早苗」
「はい」
「八坂様に伝えて。――『今日の昼過ぎ、私の屋敷で待っています』、と」
「今日、ですか?」
「今日よ。――こういう話は、待たせるものではないわ」
華扇は立ち上がって、縁側の端へ歩いていく。そして指を口に当てて、短く鋭く鳴らす。
ほどなくして、神社の裏の林の上から大きな影が一つ舞い降りてきた。
翼を広げれば早苗の背丈を優に超える、茶色の大鷲が縁側の手すりに爪を掛けて、首を傾げて早苗を見る。
「久米よ。私の屋敷への道を知っているわ。――この子に付いて飛んでいらっしゃい。八坂様と一緒にね」
「わ、分かりました!」
早苗が頭を下げると、久米が一声鳴いた。ソヨが慌てて早苗の脚の陰に隠れる。
「……ボク、鷲は少し苦手ニャ」
「大丈夫よ。この子は猫を食べないわ」
「少しは食べるかもって顔ニャ……」
霊夢が小さく噴き出した。
華扇はそれには取り合わず、もう一度北の空を見た。
「霊夢。その鱗、今日は夕方まで磨いておきなさい」
「えー……何でよ」
「――今日の内に、白い所をもう少し広げておきなさい。貴女にも、見ておいてもらいたいものが出てくるかもしれないから」
霊夢は文句を言いかけて、やめた。
――華扇の声が、説教の時のそれではなかったからだ。
~妖怪の山 茨華仙の屋敷~
――昼過ぎの山の空を、大鷲の影が一つ先導していた。
久米は高くは飛ばなかった。杉の梢をかすめるほどの高さを、迷いのない羽ばたきで北西へ進んでいく。その後ろを神奈子が飛び、さらに後ろを早苗が追う。ソヨは早苗の背の荷袋から顔だけ出して、久米の尾羽を睨んでいる。
そして神奈子は、背に御柱を負っていた。風神銃槍『八坂御柱』の紺碧の砲身が、冬の陽を鈍く返している。脇腹を庇ってか、いつもより少しだけ飛ぶ姿勢が低い。
「……神奈子様。今日は、狩りではありませんよ」
「分かっている」
「では、どうして御柱を」
「仙人の屋敷に、手ぶらで上がるわけにはいかん」
早苗は首を傾げた。御柱を手土産にするつもりなのか、と一瞬思ったが、口には出さなかった。
神奈子の懐には、手土産が別にある。油紙で幾重にも包んだ、小さな包みが一つ。今朝、早苗が『博麗神社』から戻るのと入れ違いに、神奈子が会所から持ち帰ったものだ。典が帳場の奥の棚から出してきたのだという。
中身を、早苗はまだ見ていない。
――久米が、ふいに高度を落とした。
沢筋を一つ越えた先に、霧の溜まった窪地がある。久米はその霧の中へ真っ直ぐ降りていく。神奈子が躊躇いなく後を追い早苗も息を詰めて霧へ飛び込んだ。
――白い。
ほんの数息の間、何も見えなかった。耳の奥がツンと詰まり、肌に当たる空気の冷たさが変わる。
霧が切れた時、早苗の目の前には――冬の山ではない景色が広がっていた。
苔むした石垣。手入れの行き届いた庭木。雪はどこにも積もっていない。空気は冷たいが、山の冬の刺すような冷たさではなかった。庭の奥に、檜皮葺きの屋根を載せた屋敷が一棟、静かに建っている。
仙界だった。
「――ようこそ、八坂様」
屋敷の縁側に、華扇が立っていた。
『博麗神社』で見た時と同じ姿だ。ただ、今は剣と盾――鋼龍剣盾『風導』の白銀の盾の面が、仙界の柔らかな光を映している。神奈子は庭に降り立ち、華扇の前で足を止めた。
「急な願いを聞いてもらってすまんな、茨華仙」
「いえ、そのようなことはありません。――あの手紙を読んで、断る理由はありませんでしたから」
二人は短く目を合わせる。早苗は庭の端に降り立って、二人の様子を見守っていた。
守矢の祭神と、山の仙人。顔を合わせたことは何度もあるはずだ。
神奈子は、ほんのわずかに頭を傾けた。
会釈と呼ぶにも浅い。だが、確かに下げた。
早苗は目を見張った。足元のソヨも、荷袋から首を伸ばしたまま固まっている。
華扇も、一瞬だけ目を丸くした。それから、静かに微笑んだ。
「――頭を下げに来たわけではない、と顔に書いてありますね」
「話を聞きに来ただけだ」
「えぇ。存じています」
華扇は縁側から座敷へ手を差し伸べた。
「どうぞ、お上がりください。――早苗も。貴女の書いた手紙でしょう」
「え、私もですか?」
「北の件の書き出しを書いたのは貴女だと、八坂様の手紙にあったわ。書いた者が、見立ての場に居ないでどうするの」
早苗は神奈子の顔を見た。
神奈子は振り返らなかった。ただ、小さく顎を引いただけだった。
「……は、はい!お邪魔します!」
早苗は慌てて履物を脱いだ。ソヨが荷袋から飛び降りて縁側の下に潜り込む。
「ボクは、ここで待ってるニャ。――鷲が見てる所は、落ち着かないニャ」
庭の松の枝に、久米が留まっていた。首を傾げて、縁側の下をじっと見下ろしている。
その視線に気付いたソヨは縁側の下の暗がりの、さらに奥へ引っ込んだ。
~茨華仙の屋敷 座敷~
――座敷は、薬草と油の匂いが漂っている。
床の間には刀掛け。障子の傍の文机には、磨き粉の壺と何枚もの布切れが几帳面に畳んで重ねてある。五年もの間、毎晩欠かさず鱗に油を引いてきた部屋だ。
華扇は座敷の真ん中に、黒い漆の盆を一つ置いた。
神奈子がその前に座る。早苗は少し下がって、障子の傍に正座した。
「――では、八坂様。見せていただけますか」
「あぁ」
神奈子は懐から包みを取り出した。油紙を一枚ずつ剥がしていく。最後の一枚が開かれた時――早苗は思わず身を乗り出した。
――鱗だった。
早苗の掌より一回り小さく、赤茶の錆が表面をほとんど覆い尽くしている。
冬の初め、北の雪山で遭難者の傍に落ちていた一枚。早苗が昨夜書き出した紙の、二行目に記されていた鱗だ。
――『この鱗のことは、会所の外に出すな。文にもだ』
あの時、神奈子は障子越しにそう言ったと、早苗は典から聞いていた。
その鱗が今、会所の外の、仙人の座敷にあった。
――華扇は、盆の上の鱗にしばらく手を触れなかった。
ただ、じっと見ていた。座敷の障子越しの光の中で、赤茶の錆が鈍くくすんでいる。
「……触っても、よろしいですか」
「そのために持ってきた」
華扇は左手で鱗を摘まみ上げた。表を返し、裏を返す。指の腹で縁をなぞる。それから鱗を光にかざして、目を細めた。
早苗は、息をするのも忘れて見ていた。
「早苗」
「は、はいっ」
「床の間の脇の、黒い箱を取ってくれるかしら。一番上の段の」
早苗は弾かれたように立ち上がった。床の間の脇の棚に、黒塗りの小箱が三つ重ねてある。一番上を両手で抱えて、華扇の前へ運んだ。
華扇が蓋を開ける。
中には白銀の鱗が一枚、綿に包まれて収まっていた。
早苗は思わず声を漏らした。
鏡のようだった。表には細かな傷が無数に走っているが、その傷ごと冷たく光っている。障子の光を受けて、座敷の天井の木目までが映り込んでいた。
「――五年前に見付かった、抜け殻の鱗よ。脇腹の一枚」
華扇は白銀の鱗を盆の上に置いた。赤茶の鱗の、すぐ隣に。
「八坂様。この二枚、形を比べてみてください」
神奈子は二枚の鱗に顔を近付けた。
早苗も、障子の傍から首を伸ばした。
大きさは、赤茶の方が一回り小さい。だが――形はよく似ていた。片側が丸く、もう片側が尖った木の葉のような形。根元から先へ細い筋が三本、扇のように開いている。真ん中の筋だけが、途中で一度だけわずかに曲がっていた。
――二枚とも、同じ所で。
「――同じ龍だな。間違いなく」
神奈子が低く言った。
「えぇ。鱗の筋の曲がり方は、龍ごとに違う。人の指の渦と同じように。――五年間、毎晩この筋を磨いてきた私が言うのだから、間違いありません」
華扇は赤茶の鱗を手に取った。
「この鱗は、五年前に脱いだ鋼龍の、新しい鱗。五年前の夜明けに、北の空を東から西へ渡っていったあの龍が、その時に身に着けていた鱗です」
「その新しい鱗が、どうしてこんなに錆びているんですか?」
早苗の口から、問いが勝手に出た。
華扇は答えなかった。代わりに、文机から細い銀の針を一本取ってきた。磨き粉の壺の傍に置いてあったものだ。
「見ていなさい」
華扇は赤茶の鱗の表を、針の先で軽く引っ掻いた。
カリ、と乾いた音がした。
錆の粉が、盆の上にパラパラと落ちる。華扇はもう一度、同じ所を引っ掻いた。さらにもう一度。
早苗は目を凝らした。
霊夢の鱗なら、ここで白い点が出てくるはずだった。錆の下に、本来の鋼が居るはずだった。
だが、針の先が削った跡は、どこまでいっても赤茶のままだった。
「……白く、ならない」
「えぇ」
華扇は鱗を裏返した。そして、裏の真ん中を同じように引っ掻いた。
――カリ。
裏も、赤茶だった。
座敷が、シンと静まり返った。障子の外で、久米が一度だけ羽を震わせる音が聞こえる。
「鋼龍の鱗はね、普通外から内へ錆びていくの」
華扇の声は静かだった。
「表から錆び始め、時間をかけて錆が内側へ進む。五年前の抜け殻も、外はすっかり錆に食われていたのに、殻の内側だけはまだ銀色を残していたわ。錆が裏まで届く前に、あの龍は脱ぐ。だから、抜け殻の内側は最後まで錆びない」
「――その裏までもが、錆びている」
「えぇ。それも、肉に接する芯まで」
華扇は鱗を盆に戻した。
「この鱗は、本来なら十年かけて表だけが錆びるはずのものです。それが五年で芯まで、裏まで錆びた。――錆び方が速すぎる。普通より、もっと」
神奈子は腕を組んだまま黙っていた。早苗は膝の上で拳を握る。
「速過ぎると……どうなるんですか」
「鋼龍は錆びれば脱ぐ。脱がなければ身体の動きが鈍り、錆の重さで翼が上がらなくなる。風の鎧も、思うように纏えなくなる」
華扇は早苗の方へ向き直った。
「――早苗。錆に覆われて、脱ぐ時を待っている鋼龍がどうなるか、知っている?」
早苗は首を横に振った。
「
華扇は一言ずつ区切って続ける。
「脱ぐ前の鋼龍は、苛立っている。思うように風をまとえないから、まとえる風を無理やり振り回す。縄張りの外まで飛び回る。普段なら決して降りない低い所まで、降りてくることもある」
早苗は昨夜の紙を思い出していた。
季節外れの暴風。渦を巻く倒木。北の尾根の上の雲の渦。強すぎる風に裂かれた、風漂竜の翼膜。北へ帰れなくなった雪獅子のはぐれ者達。北から押された湖の氷。
――一行ずつ、全部が繋がっていく。
「本来なら、あの龍が次に脱ぐのは後五年先です。会所の帳面にも、そうあるはずね」
「あぁ、十年に一度だ。記録がその周期を示している」
神奈子が答える。
「その五年先を待たずに、あの龍は今、錆に覆われている。脱ぐ時が来ていないのに、脱がなければならない身体になっている。――八坂様」
華扇は背筋を伸ばした。
声の調子が変わった。柔らかな女言葉から、確信を持った仙人の言葉へ。
「これが、私の見立てです。――今、北の空に居るのは
座敷に、その言葉だけが残った。
神奈子は長いこと黙っていた。
腕を解いて膝の上に手を置く。盆の上の二枚の鱗を――白銀の鱗と、芯まで錆びた鱗を順に見る。
「……一つ、聞く」
「どうぞ」
「なぜ、こうも速く錆びた」
華扇は首を横に振った。
「分かりません」
その答えには迷いがなかった。
「水か、風か、食べたものか。思い当たることを並べることはできます。けれど、どれも確かめていない。――分からないことを分かったように言うのは、見立てではありません」
神奈子はフッと息を吐いた。それから、口の端を少しだけ上げた。
「――見立ては、足りた」
早苗は神奈子の横顔を見た。
昨夜、囲炉裏端で『まだ足りない』と言った時と同じ顔だった。違うのは、その目が北の方角を真っ直ぐに見据えていることだけだった。
~茨華仙の屋敷 裏の物見台~
――日が傾き始めた頃、華扇は二人を屋敷の裏へ連れ出した。
裏庭の奥に、苔むした石段が細く上へ続いている。上りきった先は、岩の上に板を渡しただけの小さな物見台だった。手すりの向こうは、切り立った崖になっている。
早苗は手すりに手を掛けて、思わず息を呑んだ。
――眼下に、冬の『妖怪の山』が広がっていた。
さっき通ってきた霧の窪地も、沢筋も、杉の森も見える。仙界の柔らかな空気の内側から、雪に覆われた現の山を見下ろしているのだ。そのずっと先、北の方角では『氷霧連峰』の白い峰々が夕陽を受けて薄紅に染まっている。
「ここは、仙界の縁なの。こちらからは見えるけれど、向こうからは見えない」
華扇は手すりの前に立つ。
「五年前も、私はここから北の空を見ていたわ。――あの龍が脱いだ夜の、前の晩にね」
ソヨが早苗の脚にしがみ付いたまま、恐る恐る手すりの隙間から顔を出した。
神奈子は黙って北を見ていた。
北の峰々の上には、灰色の雲が厚く垂れ込めている。雲はゆっくりと渦を巻いていた。渦の芯だけが、他よりも暗い。
鉄の色だ――と、早苗は思った。
「……来るわ」
華扇が呟いた。
その時――雲の渦の芯が、内側から割れた。
何かが雲を突き抜けて、空へ躍り出た。
――大きい。遠く離れた峰の上にいるのに、翼を広げたその影は、峰の一つを覆い隠すほどに見えた。四本の脚。長い首と尾。背から伸びる一対の大きな翼。頭には、後ろへ反り返った角が二本。
その全身が――褐色に染まっていた。
鋼の色ではない。夕陽のせいでもない。乾いた血のような、赤茶けた錆の色だった。
――クシャルダオラが、北の空で大きく翼を打った。
ただの一打ちだった。
だが、その一打ちで峰の上の雪が一斉に舞い上がった。白い粉雪が渦を巻き、見えない壁にぶつかったように龍の周りで弾ける。龍の身体を包む風の鎧が、雪を吹き散らしていた。
しかし――その風は乱れていた。
早苗にも分かった。龍の周りの雪煙は、丸くまとまらない。右へ流れて左へ千切れ、時折ふいに途切れては、また荒れる。思うようにまとえない風を、力任せに振り回している。
――『脱ぐ前の鋼龍は、苛立っている』
華扇の言葉が、頭の中で響いた。
――遠い咆哮が、山々を渡ってきた。
仙界の縁まで届くほどの声だった。物見台の板が、足の下で細かく震える。ソヨが早苗の脚にしがみ付いたまま、毛を逆立てた。
クシャルダオラは首を巡らせる。そして、北の峰から南へ――こちらの方へ、滑るように降りてきた。
「――降りてくる」
神奈子が低く言った。
龍は峰を一つ越え、二つ越えた。高度が下がる。『氷霧連峰』の麓の、なだらかな尾根の上まで。尾根の裾には、小さな灯りがいくつか瞬いている。北の峰の麓の集落だ。
早苗は手すりを握る手に力を込めた。
龍は集落の真上を通り過ぎた。
その瞬間、龍の真下の森が、波打った。木々が一斉に同じ向きへ傾ぐ。屋根の雪が煙のように吹き飛ぶ。灯りが一つ、フッと消えた。
龍はそのまま尾根に沿って東へ流れ、こちらへ大きく弧を描いた。物見台の真正面を遠く横切る。崖の下の森の梢が、次々と傾いでいくのが見えた。
――風が来る。
「――伏せなさい!」
華扇が叫んだ。
早苗はソヨを抱えて板の上に伏せた。華扇が右腕の盾を前に構える。神奈子が背の御柱を抜いて、華扇の前へ大盾を突き立てた。
――風が物見台を叩いた。
仙界の縁の、見えない壁ごと揺さぶられた気がした。床板が軋み、手すりが鳴る。早苗の髪と袖が、千切れんばかりに後ろへ引かれる。
神奈子の大盾の縁で、風袋がふくらんだ。乾いた風が一筋、盾の前へ吹き出して、押し寄せる風の芯をわずかに逸らす。逸れた風が、物見台の脇を唸りを上げて抜けていった。
ほんの数息のことだった。
風が過ぎた時、早苗は恐る恐る顔を上げた。
――龍は、もう遠くにいた。北の雲の渦へ向かって、ゆっくりと昇っていく。褐色の身体が雲の中へ溶けて、やがて見えなくなった。
物見台の上に、何かが落ちていた。
早苗の目の前の板の上だった。風に運ばれてきた、小さな欠片。
早苗は手を伸ばして拾い上げた。掌の半分ほどの、薄い板のような欠片。赤茶の錆が、表も裏も覆い尽くしている。縁は、ボロボロに崩れかけていた。――剥がれた鱗の、欠片だった。
「……剥がれ始めている」
華扇が早苗の手の中を覗き込んだ。
「錆が、鱗を内側から浮かせているのよ。――脱ぐ時が、近い」
神奈子は御柱を背に戻した。右の脇腹を押さえて、一度だけ短く息を吐く。それから、北の雲の渦を見据えた。
「どこで脱ぐ」
「五年前と同じ所です。鋼龍は、脱ぐ場所を決めている。――『氷霧連峰』の先の、北の岩棚」
華扇は、さっき龍が通り過ぎた尾根の、さらに上を指差した。
「あの尾根の、真上よ」
早苗は尾根の裾を見た。集落の灯りは、さっきより一つ少なくなっていた。
~茨華仙の屋敷 座敷 夜~
――座敷に戻ると、障子の外はすっかり暗くなっていた。
華扇が行灯に火を入れる。仙界の夜は、山の夜ほど冷えなかった。それでも早苗の指先は、まだ物見台の風の冷たさを覚えていた。
神奈子は文机を借りて、硯に向かっていた。墨を磨る音だけが、しばらく座敷に響いた。
「――『古龍会議』開催の意見書だ」
神奈子は筆を取りながら言った。
「山の、守矢ギルドの長として、人里の中央会館へ出す。会議を開くかどうかは、中央が決める。だが、これを読んで開かぬ者は居ないだろう」
早苗は障子の傍で、膝の上に剥がれた鱗の欠片を載せていた。物見台で拾った一枚だ。華扇に『貴女が拾ったのだから、貴女が持っていなさい』と言われて、そのまま持っている。
神奈子の筆が紙の上を走り始めた。迷いのない、硬い字だった。早苗の昨夜の書き出しとは違う。一行ずつ、言い切って書いていく。
書き終えるまで、誰も口を開かなかった。
やがて神奈子は筆を置いて、紙を華扇の方へ向けた。
「目を通してくれ。私の見立てではなく、お前の見立てを書いた。違っていれば直す」
華扇は紙を受け取って、行灯の灯りにかざした。
――『上申。北の峰の空の件。
一、北の峰の上空に古龍一頭。『鋼龍:クシャルダオラ』。五年前の春に北の岩棚で脱皮した個体と、鱗の筋により同一個体と見立てる
一、当該個体の鱗、五年にして芯まで錆びる。本来の十年周期より著しく早い。脱皮の周期から外れた個体と推測。見立て、茨華仙』
一、錆に覆われ、気が荒い。風の鎧乱れ、低空まで降りる。北の峰の麓の集落の上を、本日夕刻に通過。灯りが一つ消える』
一、脱皮の場所は、五年前と同じ北の岩棚と予測。集落の真上に当たる
一、錆びた理由は不明。推測以上の情報はなし
華扇は最後の一行で目を止めた。それから、小さく笑った。
「……私の言葉を、そのまま書きましたね」
「それが一番、正しかったのでな」
華扇は紙を神奈子に返した。
「直すところはありません。――でも、八坂様。一つ、書いていないことがあります」
「何だ」
「――八坂様が、この龍をどうしたいのか」
神奈子は、すぐには答えなかった。行灯の灯りが揺れる。障子に映る神奈子の影が、少しだけ大きくなった。
「――それを決めるのは、会議だ」
「えぇ。存じています」
華扇は静かに続けた。
「会議では、最初に『本当に狩る必要があるか』を話し合うことになる。八坂様は、守矢の長としてその席に座ることでしょう。その時、何と言うつもりですか」
早苗は息を詰めた。神奈子は膝の上に両手を置いた。そして、北の方角――障子の向こうの闇を見た。
「……あの龍は、すぐにでも脱ぎたいのだ」
低い声だった。
「錆びて、重くて、風が纏えない。だから苛立って、低い所まで降りてくる。――脱いでしまえば、新しい鋼の鱗で、また高い空へ帰る。五年前に、お前が見送ったようにな」
「えぇ」
「――ならば、脱がせてやればいい」
神奈子は、言い切った。
「狩る必要はない。北の岩棚で脱ぐまで、集落から人を下ろす。脱ぐ前に龍が里の方へ降りてくるなら、その時だけ押し返す。――押し返して、岩棚へ帰す」
華扇は、黙って神奈子の顔を見ていた。やがて、ゆっくりと頷いた。
「――撃退、ですね」
「対応は会議が決めることだ。だが、私はそう提案するつもりだ」
「では、私もそう提案ましょう。会議の席で」
神奈子がわずかに眉を上げた。
「出てくれるのか」
「呼ばれれば出ます。――あの鋼龍の鱗を、一番長く見てきたのは私ですから」
華扇は刀掛けの『
「それに、あの龍の脱いだ殻から作った剣と盾。――本人が困っているのに、知らぬ顔はできないわ」
神奈子は短く息を吐いた。それは笑ったようにも、溜め息のようにも聞こえた。
「……比那名居にも、約束をしている」
「天人の娘に?」
「会議で決まったら、前に立たせてやると言った。――押し返すなら、あの娘の要石は役に立つ」
華扇は、少し呆れたような表情を浮かべる。
「本当に、色々な所に約束をしてくる神様ね」
「守矢の祭神だからな。
神奈子は上申書を畳んで、封をした。
表に宛名を書く。墨の字で、一行添える。
――『宛 人里ギルド ギルドマスター 上白沢慧音殿』
神奈子は封書を早苗の前に置いた。
「――早苗」
「は、はい」
「明朝、これを人里の中央会館へ届けろ。――慧音の手に、直に渡せ」
早苗は封書を見下ろした。
昨日の夜は、書き出しの一枚だった。今朝は、華扇への書状だった。そして今、目の前にあるのは、幻想郷じゅうのギルドの長を一つの席に集めるための封書だった。早苗は両手で封書を取り上げる。
「――はい。必ず、届けます」
「一人で行くなよ」
神奈子は口の端を上げた。
「ソヨを連れていけ」
縁側の下の暗がりから、くぐもった声がした。
「……ずっと連れていかれてるニャ」
~茨華仙の屋敷 縁側 夜更け~
――その夜、早苗はなかなか寝付けなかった。
客間の布団を抜け出して縁側へ出ると、庭の松の下に灯りが一つ見えた。
――華扇だった。縁側の端に腰掛けて、膝の上に白銀の盾を載せている。右腕の包帯から外した『風導』の盾だ。華扇は布切れに油を含ませて、盾の面をゆっくりと拭っていた。
「……あら、眠れないの?」
華扇は、顔を上げずに言った。
「は、はい。すみません。お邪魔でしたら――」
「いいえ。座りなさい」
早苗は、華扇から少し離れて縁側に腰を下ろした。
布切れが盾の面を滑る音だけが、静かな庭に響く。行灯の灯りが盾に映り込んで、小さな月のように光っていた。
「毎晩、こうして磨いているんですか」
「えぇ。五年間、一晩も欠かしたことはないわ。――一度でも欠かすと、すぐに錆が戻ってくるの」
華扇は盾の面を早苗の方へ向けた。
鏡のような白銀の中に、早苗の顔が映る。目の下にうっすらと隈ができている。
「この面は、抜け殻の内側の欠片なの。錆が届かなかった所。――初めて磨き上げた時、ここに映った自分の顔を見て、少し驚いたわ。思っていたより、錆びていない顔だったから」
「錆びていない、顔……」
「長く生きていると、色々なものが錆びるのよ。考え方とか、やり方とか。――それを毎晩少しずつ磨いて、戻らないかどうか確かめている。仙人の修行なんて、そんなものよ」
華扇は盾を膝の上に戻した。
「早苗。今日、八坂様が言ったことを覚えている?」
「……『脱がせてやればいい』、ですか」
「えぇ」
華扇は北の空を見上げた。仙界の夜空には星が出ていた。だが、北の方角だけは雲に覆われている。
「五年前、私はあの龍が脱いだ後の殻しか見ていない。脱ぐところは、誰も見たことがない。どれほど苦しいのかも、どれほど暴れるのかも。――だから本当は、脱がせればいいと言い切れるほど、私は何も知らない」
早苗は華扇の横顔を見た。
「でも、八坂様は言い切ったわ。会議の前に、私の前で。――言い切った以上、あの方は、それを通すために前に立つでしょう」
「……脇腹、まだ痛いのに」
「えぇ。だからこそ――」
華扇は早苗の方を見た。
「貴女が後ろに付いていなさい。――一人で行かせないように」
早苗は膝の上で拳を握る。それから、強く頷いた。
「――はい」
華扇は少しだけ笑った。そして、また盾を拭い始めた。布切れの音が、夜更けの庭に静かに続いた。
~人里 幻想郷中央狩猟会館~
――翌朝の人里は、北から吹く風が冷たかった。
中央会館の受付に灯りが入ったばかりの頃、早苗は表の戸を叩いた。ソヨは背の荷袋の中で、眠そうに目をこすっている。
戸を開けたのは、受付の小鈴だった。
「は、はい!おはようございます――あら、早苗さん。こんな朝早くにどうされましたか?」
「おはようございます、小鈴さん。慧音さんは、もういらっしゃいますか」
「慧音先生なら、奥の執務室に。……何か、急ぎですか?」
早苗は懐から封書を取り出した。宛名を見せる。
小鈴の顔つきが、フッと変わった。受付の娘の顔から、ギルドの書記の顔へ。
「――承ります。ご案内しますね」
会館の奥の廊下はまだ薄暗い。小鈴の持つ手燭の灯りが、壁に掛けられた古い狩猟記録の額を順に照らしていく。
執務室の襖の前で、小鈴が膝をついた。
「慧音先生。守矢ギルドの東風谷早苗さんが、八坂様からの封書をお持ちです」
『――入ってくれ』
襖の向こうから落ち着いた声が返ってきた。
執務室の中には、文机が一つと、書類の束が壁際に積み上げられていた。文机の前に座っているギルドマスターが二人を見る。朝餉の前らしく、机上には湯呑み一つ置いていない。
「朝早くにすまないな、早苗。――神奈子殿から、と聞いたが」
「はい。――これを、慧音さんの手に直に渡すようにと」
早苗は両手で封書を差し出した。
慧音は宛名に目を落とし、封の印を確かめてから封を切って中の紙を広げる。
一行目を読んだ所で、慧音の目がわずかに細くなった。そこから先は、一度も止まらずに最後まで読んだ。それから、もう一度最初から読み直した。
二度目は、ずっとゆっくりだった。
執務室の中に、紙をめくる音だけが響く。小鈴は襖の傍に控えたまま、息を潜めていた。
やがて、慧音が顔を上げた。
「早苗。――この見立て、お前もその場に居たのか」
「はい。華扇さんのお屋敷で、全部見ていました」
「鋼龍の姿も、見たのか」
「見ました。昨日の夕方、北の峰の麓の集落の真上を、低く飛んでいきました。――身体中が、錆の色でした」
早苗は懐から、もう一つの小さな包みを取り出した。布を解いて、文机の上に置く。
剥がれた鱗の欠片だった。
慧音は欠片を手に取らなかった。ただ、じっと見ていた。表も裏も赤茶に覆われた、縁の崩れかけた欠片を。
「……昨日、物見台に落ちてきたものです。華扇さんは『剥がれ始めている』と。脱ぐ時が近い、とも言っていました」
「――そうか」
慧音は短く言って、上申書を文机の上に置いた。
その手は、少しも震えていなかった。
「小鈴」
「は、はい!」
「阿求を呼んでくれ。今すぐにだ。――
「――はい、すぐに!」
小鈴が、手燭を置いたまま廊下へ駆け出していった。慧音は、もう一度上申書の最後の一行に目を落とした。
――『錆びた理由は不明。推測以上の情報はなし』
「……神奈子殿らしいな」
慧音はわずかに口元を緩めた。
「いや。――これは、茨華仙の言葉か」
「はい。そのまま、書いておられました」
「成程な」
ほどなくして、廊下を急ぐ足音が近付いてきた。
襖が開く。息を弾ませた稗田阿求が、帳面と筆を抱えて立っていた。
「――お呼びと伺いました、慧音先生」
「入ってくれ。座っていい」
阿求は文机の脇に膝をつき、上申書を受け取って目を通した。読み進めるうちに、阿求の顔から血の気が引いていく。
最後まで読んで、阿求は文机の上の欠片を見た。
「……北の嵐の件、ですね」
「あぁ、そうだ」
「人里でも、ここ数日、北から吹く風の日が増えています。――鈴奈庵の記録に、『未だ誰も確かめていない』と書いた件が」
「確かめた者が出た、ということだ」
阿求は、抱えてきた帳面の間から一枚の紙を抜き出した。文机の上に広げる。
『妖怪の山』の絵図だった。尾根と沢筋が細い墨の線で描かれ、ところどころに小さな書き込みと、朱の矢印が入っている。
「――この冬に山から届いた報告を、書き込んできたものです」
阿求の指が、絵図の上をなぞった。
「聖域の上の沢へ下りてきた大猪の群れ。地底湖へ来た水蛇竜の二頭目。そして、守矢神社の供物を盗った雪獅子のはぐれ者。――いずれも、北から来ています」
朱の矢印は三本。どれも北の峰の方から、南へ向かって引かれていた。
早苗は息を呑んだ。
――昨夜、神奈子が読み上げた一行一行と同じだった。早苗が囲炉裏端の紙に書いたものを、阿求は人里で、別の報告から一本ずつ引いていたのだ。
「……皆、押し出されているのです」
阿求は、静かに言った。
「北に居る何かから、離れようとして。――その何か、これら矢印の元が、ようやく分かりました」
慧音は絵図を見下ろして短く頷き、阿求の帳面を顎で指した。
「書いておけ。『北の峰の空の件、守矢ギルドより上申。鋼龍一頭。脱皮の周期から外れた個体。見立て、茨華仙』」
阿求が筆を走らせる。
慧音は文机の前から立ち上がった。背筋を伸ばし、早苗と阿求を順に見る。
「――これから忙しくなるぞ」
執務室の空気が、ピンと張り詰める。
「――『古龍会議』を招集する。日取りは三日後の夜。場所はこの会館の奥座敷だ」
「三日後、ですか」
「脱ぐ時が近いなら、一日でも早い方がいい。だが、集めるべき者を集めるには最低でも三日は要る」
慧音は指を折った。
「守矢からは神奈子殿。見立ての主として茨華仙。紅魔館のレミリアには、今日中に使いを出す。――嵐の古龍なら、あの館の主は出られないだろう。だが、席には着いてもらう」
阿求が筆を止めずに頷く。
「永遠亭の永琳殿にも。古龍が人里の近くまで降りるなら、怪我人が出た時の備えが要る。――それから、守矢には先に伝えておけ。『会議を待たず、北の峰の麓の集落の避難の支度だけは始めておくように』、と」
「は、はい!」
早苗は思わず背筋を伸ばした。
「区分は会議で定める。だが、人を下ろすのに会議を待つ必要はない。――分かったな」
「分かりました。神奈子様にそのまま伝えます」
「頼む」
慧音は、文机の上の欠片にもう一度だけ目を落とした。
「……この欠片は、会議まで会館で預かっていいか」
早苗は少し迷った。それから頷く。
「はい。――会議の席で、皆さんに見ていただきたいので」
「あぁ。そのつもりだ」
~博麗神社 夕方~
――人里からの帰り道、早苗は博麗神社に寄った。
夕暮れの縁側で、霊夢が背を丸めて鱗を磨いていた。華扇に言われたとおり、本当に夕方まで磨いていたらしい。膝の周りには、錆の粉が赤茶の円を描いて散っている。
「……あら、また来たの」
「霊夢さん。――三日後に、『古龍会議』だそうです」
霊夢の手が止まった。
「……ふうん。北の、アレのこと?」
「はい」
早苗は霊夢の隣に腰を下ろした。霊夢の膝の上の鱗を、覗き込む。
昨日の朝、一点だけだった白い所が、親指の爪ほどに広がっていた。夕陽を受けて、そこだけが鏡のように光っている。
「……白くなってますね」
「なってるわよ。でも手が痛いのよ、本当」
霊夢は鱗を夕陽にかざした。
「華扇が言ってたわね。見ておいてもらいたいものが出てくるかもって。――何だったのかしら」
早苗は、しばらく霊夢の鱗を見ていた。
それから、昨日の座敷のことを思い出した。華扇の針が引っ掻いても、どこまでも赤茶のままだった鱗。物見台に落ちてきた、表も裏も錆びた欠片。
「……霊夢さんの鱗は、磨けば白くなるんですね」
「は?当たり前でしょ。そういうものなんだから」
「――当たり前じゃない鱗も、あるんです」
霊夢は眉をひそめて、早苗の顔を見た。
早苗は北の空を見上げた。妖怪の山の稜線の向こうで、灰色の雲が渦を巻いている。夕陽を受けて、渦の縁だけが赤く染まっていた。
錆の色だった。
「――霊夢さん。その鱗、毎日磨いてくださいね」
「……何よ、急に。華扇みたいなこと言って」
「――あら。その華扇みたいで、悪かったわね」
頭の上から声が降ってきた。
二人が見上げると、鳥居の上に大鷲の久米が留まっていた。その脇の石段を、華扇が上ってくる。
「……げっ」
「『げっ』とは何ですか。――手は、止めていないわね」
華扇は縁側の前に立って、霊夢の膝の上の鱗を覗き込んだ。白く光る所を見て目を細める。
「……居たわね」
「居たわよ。本来の鋼とやらが。おかげで手が痛いわ」
「えぇ。よく頑張りました」
華扇の声は柔らかかった。霊夢は何か言い返そうとして、口を閉じた。褒められ慣れていない顔だった。
華扇は早苗の方へ向き直る。
「早苗。慧音には、届けてくれた?」
「はい。三日後の夜に
「えぇ。――ありがとう」
華扇は霊夢の方を見た。
「霊夢。――会議で何が決まっても、貴女は必ず呼ばれるわ。人里ギルドのハンターとしてね」
「……面倒だけど、そうでしょうね」
霊夢は鱗を夕陽にかざしたまま、北の空へ目を向けた。
「――流石に、アレは放っとけないわ」
華扇は小さく頷いた。
「だから、磨いておきなさい。その鱗が白く光るうちは、貴女の目は錆びないわ。――
霊夢はブツブツ文句を言いながら、また布切れで鱗を擦り始めた。
――カリ、カリ。
小さな音が夕暮れの境内に響く。
北から吹く風が、三人の間を抜けていった。
風は、錆の匂いがした。