東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 天狗の里 居酒屋~
――古龍会議を明日に控えた夜。天狗の里の居酒屋はいつになく混み合っていた。
杉林の斜面に軒を連ねた里の、一番下の辻。縄暖簾の奥の土間には樽を伏せた腰掛けが並び、囲炉裏の上では大鍋が湯気を上げている。肴の焼ける匂い、熱燗の甘い匂い。普段なら哨戒明けの白狼天狗や、記事の種を探す鴉天狗が肩を並べて騒いでいる時刻だ。
だが今夜は、誰の声も低かった。
「……北の尾根、また二人引き上げたってさ」
「麓の集落の連中、もう荷をまとめ始めてるらしい」
「守矢の会所に人里の慧音殿から使いが来たって話だ。明日の晩、中央会館で――」
ひそひそ声が、土間のあちこちで交わされては途切れる。誰もが同じ方角を気にしていた。北向きの窓の障子が風で鳴るたびに、何人かの肩がピクリと跳ねる。
その窓際の隅の席で、射命丸文は手帳を開いていた。
徳利は一本。猪口は空のまま。筆の尻で手帳の紙を叩いては、書きかけの一行を睨んでいる。
――『北の峰の空、目下調査中』
その一行の下に、何度も何かを書いては消した跡があった。
「……今夜は筆が進まないわねぇ」
文は独り言のように呟いて、手帳を閉じかけた。
その時――縄暖簾が揺れた。
入ってきた客を見て、土間の喧騒がスッと引いた。腰掛けの何人かが慌てて立ち上がり、頭を下げる。
片手に何も載せていない三脚を提げた、大天狗『飯綱丸龍』だった。腰に負った天彗槌『星天鉄架』が、歩くたびに鈍く鳴る。
大天狗が里の居酒屋の暖簾をくぐることは、滅多にない。
「いい、いい。座ってな。今の私はただの客だよ」
龍は手を振って天狗達を座らせると、土間を真っ直ぐに横切る。行き先は窓際の隅の席。文の向かいの樽に、三脚を立て掛けて腰を下ろす。
「――こんばんは、龍様。珍しいですねぇ、こんな所で」
「あんたこそ。記事も書かずに猪口を乾かしてるなんて、珍しいじゃないか」
龍は文の手帳を顎で指した。
「何て書いた?」
「何も。――書けることが、ありませんので」
文は手帳を開いて一行だけを見せた。龍はその一行を読み、短く笑う。
「……ほう、『目下調査中』かい」
「えぇ。分からないことは、分からないと書くようにしてるので。分かった時にこそ、ちゃんと書けるように」
「明日の晩には、分かるかもしれないけどね」
「会議で決まるのは、どうするかでしょう?――アレが何なのかは、もう決まってますよ」
文は声を落とした。
「――『鋼龍:クシャルダオラ』。それも、脱ぐ周期を外れて錆び切った個体。――華扇さんの見立てだそうで」
龍は眉一つ動かさなかった。
「誰に聞いた」
「風に」
文は窓の障子を指で示した。北から吹く風が、障子紙をカタカタと鳴らしている。
「……というのは冗談で。守矢の会所で、典さんが少しだけ話してくれました。それと、早苗さんの顔に全部書いてありましたから」
「あの子は顔に出るからねぇ」
龍は運ばれてきた熱燗を受け取って、自分の猪口に注ぎ、文の空の猪口にもついでのように注ぐ。
「――で。書かないのかい」
「書きませんよ」
文は即座に答えた。
「書けば、里中が騒ぎます。麓の集落の避難が始まる前に、人やら妖怪やらが勝手に山道へ溢れたら――それこそ椛達の仕事が増えるだけです」
「ほう。速さに拘る天狗の新聞記者が、ずいぶん殊勝なことを言うね」
「殊勝じゃありません。――載せるなら、ちゃんと見てから載せたいだけです」
龍は猪口を口に運びかけて、止めた。
それから、腰の帳面を一冊引き抜いた。手垢で角が丸くなった小さな帳面。それは誰にも見せたことのない帳面だと、文は知っていた。
龍はそれを開いて、文の前に置いた。
――『氷霧連峰の頭上、星、一つ分、見えず。風に流れず』
――『山のモンスター、北より押され、下より押される。方角、二つ』
虹龍洞の落盤の夜に書かれた、二行だった。
「……龍様。これ、私が見ていいものですか」
「見るだけならね」
龍は猪口の酒を一息に干した。
「明日、私は天狗の頭として会議の席に座る。――天狗の哨戒をどこまで出すか。伝令の空路をどこまで開けるか。麓の集落を下ろす時に、天狗の里の誰を手伝いに出すか。全部、天狗の損得の話だよ」
「えぇ」
「その話をする前に、天狗の誰か一人くらいには、私が何を見てきたか知っておいてほしいのさ。――あんたは、見たものしか書かないからね」
文は帳面を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。
北の窓の障子がまた鳴った。
――縄暖簾が、もう一度揺れた。
今度は、土間の空気そのものが凍り付いた。
入ってきたのは、背に蝙蝠の翼を畳んだ小柄な少女だった。夜の山の冷気を纏ったまま土間の真ん中で足を止め、店の中をゆっくりと見回す。
その後ろにメイドが一人、音もなく控えている。
「――あら。天狗の酒場というのは、もっと賑やかなものだと聞いていたのだけれど」
吸血鬼『レミリア・スカーレット』だった。
樽の腰掛けの天狗達が、一斉に顔を伏せた。誰かの猪口が、カタンと土間に転がる。
――『紅魔館』の主が、夜の山に居る。それも天狗の里の、一番下の辻の居酒屋に。
「……あやや。これは珍しい方が」
文は思わず手帳を閉じた。龍は猪口を置いて、ゆっくりと顔を上げる。
「――これはこれは。『紅魔館』の
「飲みに来たのよ。――それと、少し見物にね」
レミリアはそう答え、不快な素振りも見せず空いている樽に腰を下ろすように動く。文と龍の隣の席だった。後ろのメイドが、すかさず樽の上に白い手巾を敷く。
従者の咲夜だ。
「咲夜。この店で一番いいお酒を」
「お嬢様。山の居酒屋に、紅魔館のワインはございませんよ」
「なら、一番いい熱燗を」
「……かしこまりました」
咲夜は小さく溜め息をついて、帳場の方へ歩いていく。帳場の天狗の店主が、青い顔で徳利を選び始める。
文は、レミリアの横顔をそっと窺った。
「……『紅魔館』の主が、明日の会議の前の晩に、わざわざ山まで。――何の見物ですか」
「天狗の新聞記者は、質問が率直でいいわね」
レミリアは帽子の鍔を指で弾いた。
「慧音から使いが来たわ。明日の晩の
「嵐の中では、吸血鬼でも無理ということか」
「出られないわよ。猛烈な雨と風の中で翼を広げるほど、私は愚かじゃないわ」
レミリアは、あっさりと言った。
「でもね。私は、自分が戦えない相手のことを、会議の席で聞いた話だけで決めるのは嫌なの。見たこともない龍を、どう狩るか、どう追い返すか。――そんなこと、紙の上の文字だけで決められるものですか」
文は目を瞬いた。
それから、隣の龍の顔を見た。龍は猪口の縁を指でなぞりながら、黙ってレミリアを見ていた。
「……つまり、見に来たと」
「えぇ。この目で見ておきたいの。――明日、自分が何を決めるのかをね」
咲夜が熱燗を盆に載せて戻ってきた。レミリアの前に猪口を置いて、酒を注ぐ。
レミリアは猪口を持ち上げて、匂いを嗅いだ。眉が少しだけ寄る。それから、一口だけ含んだ。
「……悪くないわね。山の酒は、湖のより辛いわ」
「お嬢様のお口には、少し強うございますか」
「だから一口しか飲んでないでしょう」
咲夜は何も言わずに、レミリアの手元に水の湯呑みを置いた。
龍が、ようやく口を開いた。
「――見たいって言ってもね。アレは北の雲の中だよ。夜の山を、吸血鬼に案内するほど天狗も暇じゃない」
「案内は要らないわ。飛べるもの」
「北の尾根の上は、今は天狗の哨戒も引き上げてる。そこへ『紅魔館』の主が一人で飛んでいって、何かあれば――明日の会議の席に、空いた椅子が一つ増えるだけだ」
「一人じゃないわ。咲夜が居るもの」
「お嬢様。私は、尾根の上までお供するつもりはございませんよ」
「……」
レミリアは、咲夜の方を振り返った。咲夜は涼しい顔で場を離れ、帳場の天狗の下で代金を払っていた。
文は、思わず噴き出しそうになって口元を押さえ、龍は肩をすくめる。
「――ま、そういうことなら」
龍は、樽に立て掛けていた三脚を手に取った。何も載っていない、ただの三本脚。それを肩に担いで、立ち上がる。
「飛ばなくていい。――見るだけなら、星を見る方が早いよ」
「……星?」
「この里の裏に、物見の岩場がある。北の空が一番よく見える所だ」
龍は文の方を見た。
「あんたも来な。見たものしか書かないんだろう」
文は手帳を懐に仕舞って立ち上がる。
「――えぇ。お供しますよ。大天狗様のご命令とあらば何処へでも」
~天狗の里の裏 物見の岩場~
――里の裏手の杉林を抜けると、斜面の上に平らな岩が張り出していた。
風に削られて丸くなった、大きな一枚岩だ。岩の縁から先には何も遮るものがなく、北の空が一面に広がっている。足元を覗けば、天狗の里の灯りが杉の梢の間に点々と瞬いている。
龍は、その岩の真ん中に三脚を立てた。
三本の脚を開き、雪の下の岩の窪みに一本ずつ据える。脚の上には何も載っていない。龍は三脚の頭の空っぽの輪に、片目を当てた。
レミリアが、怪訝そうに首を傾げた。
「……何も載っていないじゃない」
「載ってなくていいんだよ。私に要るのは、目を当てる場所だけさ」
龍は輪を覗いたまま答えた。
「星の名なら全部言える。どの星が、どの時期に、どこにあるはずかも、全部分かる。――だから、あるはずの星が無ければ、すぐに分かる」
文は、龍の隣にしゃがみ込んだ。
北の空には、雲がところどころ浮かんでいた。だが、その切れ間からは冬の星がよく見える。冷たい空気の中で、星は瞬かずにじっと光っていた。
「……龍様。『虹龍洞』での夜に書いた、星一つ分というのは」
「『氷霧連峰』の頭上。あの峰の、ちょうど真上だった」
龍は三脚から目を離さずに、北の空の一点を指差した。文はその指の先を目で追う。
『氷霧連峰』の白い稜線。その上に、灰色の雲が重く渦を巻いている。渦の周りには星がいくつも見えた。
だが――渦の芯の辺りだけ、星が一つもない。
「……ありませんね」
「あの夜は、星一つ分だった」
龍の声が低くなった。
「今夜は、三つ分だ。――それも、あの夜よりずっと低い。峰の頭上じゃない。峰の肩の、岩棚の辺りだ」
文は息を呑んだ。
星の消えた暗がりは、雲の渦に重なるようにして、北の峰の中腹にじっと留まっていた。風が吹いても動かない。周りの雲だけが、その暗がりを避けるように回っている。
「――見えるわ」
レミリアが言った。
文が振り返ると、レミリアは岩の縁に立って、北の空を真っ直ぐに見つめていた。紅い瞳が、闇の中で微かに光っている。吸血鬼の目は夜の闇を見通す程に鋭い。
「岩棚の上に、何か居る。……大きいわね。今は丸まっている。翼を畳んで、首を胴に巻き付けて」
「色はどうだい」
龍が短く訊いた。
「赤茶。――錆の色ね。それも、ところどころ剥げかけている」
レミリアは、しばらく黙って見ていた。
風が岩場の上を吹き抜け、レミリアの帽子のリボンが揺れる。咲夜がそっと後ろに立って、主の背の翼に外套を掛けた。
「……疲れているわ。あの龍」
レミリアの声は、居酒屋の時とは違っていた。
「眠っているんじゃない。じっとしているだけ。――動けばそれだけ身体が軋むから、じっとしているの。私も昔、日の光を浴びすぎた次の晩は、ああして寝台から出られなかったわ」
文は、レミリアの横顔を見た。
皮肉も、気取りもなかった。五百年を生きた吸血鬼が、ただ遠くの龍を見ていた。
レミリアはそっと右手を持ち上げ、何かを摘まむように指先を北の空へ向ける。
――『運命を操る程度の能力』。文は、その噂を聞いたことがあった。『紅魔館』の主が指先を傾けると、場の流れがいつの間にか彼女の側へ傾く、と。
レミリアの指がほんのわずかに動き――それから、止まった。
「……重いわね」
レミリアは手を下ろした。指先を、自分の掌で包むようにしている。
「……お嬢様?」
「何でもないわ、咲夜。――ただ、あちらの運命は、少し傾けたくらいでは動きそうにないというだけ」
レミリアは、北の空から目を逸らさなかった。
「天候そのものみたいな龍よ。傾ければ、傾けた分だけ押し返してくる。――明日の会議で『運命を傾けて追い返せ』なんて言われたら、断るわ」
「誰もそんなことは言いませんよ、お嬢様」
「言いそうな顔をした神様が一柱、居るでしょう」
咲夜は答えなかった。文は、思わず笑いそうになった。
龍が、三脚から顔を上げた。
「――レミリア・スカーレット」
「――何かしら」
「あんた、明日の会議でどこに座るつもりだい」
レミリアは、ようやく北の空から目を離した。龍の方を振り返って、口の端を上げる。
「決まっているでしょう。――私の席よ」
――その時、杉林の下の方から悲鳴が上がった。
「――出たぞ!里の外れだ!」
白狼天狗の声だった。続いて、何かが崩れる音。犬の吠える声。甲高い、喉を絞るような鳴き声が、いくつも重なって聞こえてくる。
〈ギャッ!ギャギャッ!〉
文は弾かれたように立ち上がった。
「――この声」
「うん。ギアノスだね」
龍が三脚を畳みながら言った。その手つきには、少しも慌てた風もない。
「北の雪山の小さいのが、群れで下りてきたんだろう。――干し肉の棚を狙ってるのだろうね」
文はもう岩場を蹴っていた。
杉の梢をかすめて、里の外れへ一直線に降りる。背の双刃の柄に手を掛けながら。疾風双刃『文々旋羽』が、月の光の中で黒く光る。
――里の外れの斜面には、干し肉を吊るした棚が並んでいた。冬を越すための、天狗の里の蓄えだ。
その棚の周りを、白い影が跳ね回っていた。
――『ギアノス』。白と淡い水色の鱗に覆われた、細身の鳥竜が数えれば六匹。棚の支柱に噛み付き、吊るされた干し肉を引きずり下ろそうとしている。
棚の前では、白狼天狗が二人、刀を構えて立ち往生していた。どちらも若い。哨戒明けで防具も脱いでいる。
「――下がりなさい!」
文は二人の前に降り立った。一匹のギアノスが、文の方を振り向いた。首を大きく反らせて、口を開く。
〈ギャッ!〉
――冷たい液が、文の顔へ向かって吐き出される。
対する文は、左手の刃を一閃させた。刃が起こした風が、吐き出された液を横へ逸らす。液は棚の支柱にかかって、ピシピシと音を立てて白く凍り付く。
「――あやや。危ないですねぇ」
〈ギャッ!ギャギャッ!〉
ギアノスが、甲高く鳴いた。
残りの五匹が、一斉に文の方を向く。冠を振り立てて、跳ねるように間合いを詰めてくる。
文は双刃を逆手に握り直した。
だが、斬らなかった。
北から下りてきた群れだ。北へは帰れずに、ここまで来た群れだ。――守矢神社の裏の林で冬を越すことになった、白い猿の三匹と同じように。
文は、身体を低く沈めた。
正面から跳びかかってきた一匹の脇をすり抜け、二匹目の顎の下をくぐる。すれ違いざまに、刃の背で脚を軽く払った。ギアノスが雪の上に転がって悲鳴を上げる。
その時、頭上で羽ばたきの音がした。
文が見上げると、月を背にして、小さな影が一つ舞い降りてくるところだった。
――蝙蝠だった。
ただの蝙蝠ではない。翼を広げれば猫ほどもある、黒い蝙蝠。その蝙蝠が、ギアノス達の頭の上を、円を描くように低く飛び回り始めた。
ギアノス達が、一斉に頭上を見上げた。冠を振り回し、蝙蝠へ向かって跳び上がる。だが蝙蝠は、ヒラリヒラリとそれをかわしていく。
「――ノクス。そのまま、あちらへ連れていきなさい」
――岩場の方から、涼しい声が降ってきた。レミリアが、杉の梢の上に立っていた。右手には銀白と深紅の棍――爵蝙棍『紅魔ノ運命』の柄頭が、月の光を冷たく返している。
「……いつの間に」
「咲夜が持ってきていたのよ。――あの子は、いつも持ってくるの」
レミリアの後ろで、咲夜が澄ました顔で一礼した。
蝙蝠――ノクスは、ギアノス達の頭上を一度大きく回った。それから、西の沢筋の方へ、ゆっくりと飛んでいく。ギアノス達は、その影を追って跳ねた。一匹、また一匹と、干し肉の棚から離れていく。
だが、最後の一匹が離れなかった。
一番大きな一匹だった。冠の氷柱も、他より太い。その一匹は棚の支柱に齧り付いたまま、文を睨んで唸り声を上げていた。
文が一歩踏み出そうとした時、その横を、重い足音が通り過ぎた。
――龍だった。
腰から槌を抜いている。黒銀の鉄の塊。星図を刻んだ打面が、月の光の下で鈍く光っていた。
龍はギアノスの真正面で足を止め、槌を高く振り上げる。
ギアノスが、首を反らせて液を吐こうとして――龍は、そこに槌を振り下ろした。
――ギアノスの目の前の雪が、爆ぜた。
槌はギアノスには当たっていなかった。その足元の、ほんの一歩手前の岩を打っていた。凍った岩が砕け、雪と氷の欠片が噴水のように舞い上がる。斜面の杉が、一斉にザワリと揺れた。
〈ギャッ!?〉
ギアノスは、跳び上がった。
悲鳴を上げて、支柱から離れる。雪の上を転がるように跳ねて、仲間の後を追って西の沢筋の方へ逃げていった。それを見届けた龍は槌を肩に担ぎ直す。
「――西の沢筋の下には、狩り残しの鹿の骨が溜まってる。今夜はあっちで我慢しな」
逃げていくギアノスの背に、龍は独り言のように言った。
白狼天狗の二人が、刀を下ろしてへたり込んだ。
~天狗の里 居酒屋 夜更け~
――居酒屋に戻ると、土間の空気は少しだけ柔らかくなっていた。
ギアノスの群れを追い払った話は、三人が戻るより先に里を回っていた。樽の腰掛けの天狗達がチラチラとこちらを窺っては、目が合うと慌てて猪口に口を付ける。
窓際の隅の席には、新しい徳利が三本並んでいた。店主からの礼だという。
「……あやや。高く付きましたねぇ」
「干し肉の棚一つ分さ。安いもんだよ」
龍は三脚を樽に立て掛けて腰を下ろした。槌はもう腰に戻している。レミリアは文の隣の樽に座り、咲夜がまた白い手巾を敷いた。
しばらく誰も口を開かなかった。
囲炉裏の大鍋がコトコトと鳴っている。北の窓の障子は、さっきより静かだった。
帳場の奥から、店主の天狗が皿を一枚運んできた。炙った干し肉が薄く切って並べてある。店主は皿を置くと、龍に向かって深々と頭を下げた。
「大天狗様。――うちの棚の干し肉です。今夜の礼に、どうか」
「礼なら徳利で十分だよ。それより、棚の支柱は無事だったかい」
「一本凍り付いただけで。明日、日が当たれば溶けましょう」
「そうかい。なら、凍った所は叩くんじゃないよ。叩けば割れる。日が当たるまで待ちな」
店主はもう一度頭を下げて、帳場へ戻っていった。
レミリアは皿の干し肉を一切れ摘まんで、しげしげと眺めた。
「……これ、食べられるの?」
「食べられますよ。天狗の里の冬の味です。保存の為に塩気が強いですが」
文が先に一切れ口に入れてみせた。レミリアは少し迷ってから、端の方を小さく齧った。
「――塩辛いわね」
「お嬢様。お水を」
咲夜がすかさず湯呑みを差し出し、レミリアは黙って受け取った。
それからしばらく、干し肉を齧る音だけが続いた。
「――斬らなかったわね」
レミリアが言った。文の方は見ずに、猪口の縁を眺めたまま。
「え?」
「あの白い蜥蜴達よ。貴女ならあの六匹とも、容易く斬れたでしょう」
文は少し黙ってから肩をすくめた。
「えぇ、斬れましたよ。でもあれは北から逃げてきた群れです。北へ帰れないから、ここまで下りてきたんです」
「そうね」
「斬ったら記事が一つ減るんですよ。――北で何が起きているのかを示す、生きた証拠が」
レミリアは小さく笑った。
「記者らしい言い訳ね」
「言い訳じゃありません。本音です」
龍が猪口を置く。コトリと乾いた音が雰囲気を切り替える。
「――明日の話をしようか」
二人が龍の方を向いた。
「私は天狗の損得で座る。さっき言った通りだ」
龍は指を一本ずつ折っていった。
「哨戒は北の尾根から全部引き上げる。代わりに麓の集落の上の空を交代で張らせる。伝令の空路は人里と守矢の間に一本。それと集落の荷を下ろす手伝いに、白狼の若いのを二十程かな」
文は目を見開いた。
「……二十も、ですか」
「今夜の二人を見たろう。防具を脱いでたって、棚の前から一歩も退かなかった。――ああいうのを、麓に下ろすのさ」
「それは天狗の得になりますか」
「なるさ。麓の連中が無事に下りれば、春に山の荷を運ぶ手が残る。天狗の里の干し肉だって、半分は麓の塩で漬けてるんだ」
龍はそれ以上は言わなかった。
「……ですが、龍様。嵐の中では、我々鴉天狗も飛べませんよ」
文は声を落とした。
「『虹龍洞』の夜の風でさえ、尾根の上では翼が煽られました。あれの真下の風なら、私でも真っ直ぐには飛べません」
「分かってるよ」
龍はあっさりと頷いた。
「だから空を張らせるのは、嵐の縁の外までだ。縁から先には一人も入れない。――鋼龍の風の中で翼を広げる天狗なんて、吸血鬼よりよっぽど愚かさ」
レミリアが、ほんの少しだけ眉を上げた。
「あら。それなら私と同じ席ね」
「同じ席さ。明日の奥座敷で、嵐の中へ出られる顔が幾つあるか。――数えてみると、案外少ないよ」
龍は猪口を指先で回した。
「守矢の神様方と風祝。博麗の巫女。それと茨華仙。……飛ぶ者ほど、あの風には弱い」
文は手帳の端に、龍の挙げた数を小さく書き留めた。哨戒、空路、二十人の人工。どれも記事にはならない数だった。だが会議の席で誰かが『天狗は何を出すのか』と訊いた時、龍はこの数を一つも迷わずに並べるのだろう。
レミリアが湯呑みの水を一口飲んだ。
「なら、私も言っておくわ」
「どうぞ」
「私は嵐の中には出られない。それは会議の席でも認めるわ。――でも紅魔館が何も出さないとは言わせない」
レミリアは咲夜の方を一度だけ見た。
「――ハンターとして、咲夜と美鈴を出すわ。咲夜は嵐の中でも、退くべき時に退ける子よ。美鈴は門番。何かの前に立つのが仕事よ。前衛に向くでしょう」
「お嬢様」
「何かしら」
「私も美鈴も、まだ何も伺っておりませんが」
「今、言ったでしょう」
咲夜はほんの少しだけ目を伏せた。それから『かしこまりました』と頭を下げる。その声は、熱燗を頼まれた時よりずっと柔らかかった。
「……美鈴には、私から伝えておきます。あの子は喜ぶでしょう。嵐の中に立てと言われて喜ぶ門番は、幻想郷中を探してもあの子くらいでしょうけれど」
「だからこそ、門番なのよ」
レミリアは事もなげに言った。
文は手帳の頁をめくった。少し迷ってから、レミリアの方へ身体を向ける。
「……レミリアさん。さっき岩場で『重い』と仰いましたね」
「えぇ、言ったわ」
「あれは、どういう重さだったんですか。――記事にはしません。ただ、知っておきたいんです」
レミリアは猪口を置いた。しばらく指先を眺めてから、口を開く。
「そうね。……満ちた潮を、指一本で押し返そうとした時の重さ、かしら」
「潮、ですか」
「潮は、誰かが押しているから満ちるのではないの。月があって、海があるから満ちるのよ。――あの龍の運命も同じ。誰かが傾けたから北に居るのではないわ。――龍だから、あそこに居るの」
レミリアは自分の掌を見下ろした。
「そういうものを傾けようとすれば、傾けた私の方が傾くわ。だから、やめたの」
文は何も書かずに、手帳を閉じた。レミリアは北の窓へ目を向ける。
「あの龍は疲れているわ。疲れた者を追い返す話をするのに、自分は館で寝ているだけ。――そんな主の席なら要らないもの」
「だから――私の席、ですか」
「えぇ。――座る以上は、出すものを出すわ」
龍が口の端を上げた。
「――あんたの方が、私よりずっと殊勝だね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
龍は少し黙ってから、徳利を傾けた。レミリアの猪口に、ほんの一口分だけ注ぐ。
「――一つ教えておこうか。
「追い返す?」
「狩るんじゃない。――脱がせてやればいい、だとさ」
レミリアが首を傾げ、文は手帳を持つ手を止める。
「あの龍は、本来の脱ぐ周期を外して錆びてるらしい。錆びた鱗や甲殻が重くて、北へ帰る力も残ってない。――なら、脱ぐのを手伝ってやればいい。脱いで身軽になれば、勝手に北へ帰る。そういう考えさ」
「……疲れた者の上着を、こちらで脱がせてやるのね」
レミリアは注がれた酒を見下ろした。囲炉裏の火が、猪口の中で小さく揺れている。
「――悪くない考えだわ。少なくとも、運命を傾けて追い返せと言われるよりはずっと」
「だろう?」
「でも、上着を脱ぐ時が一番無防備なのよ。人も吸血鬼も。そして――龍もね」
龍は答えなかった。ただ口の端を、ほんのわずかに下げた。
文はその顔を見て、手帳に一行だけ書き付けた。
――『脱ぐ時は一番無防備な状況』
誰の言葉かは書かなかった。
二人の視線が文の方へ向いた。
文は手帳を開いた。『北の峰の空、目下調査中』の一行が、まだそこにある。
「……私は席には着きませんよ。呼ばれていませんから」
「知ってるよ」
「でも会議が終わったら書きます。決まったことを、決まった通りに。――麓の人達がどの道を、いつ下りればいいのか」
文は筆を取った。
「それが分かる記事なら、里中が騒いでも構いません。騒いだ分だけ情報が広まって早く下りられますから」
龍は黙って頷いた。
レミリアは文の手帳を横から覗き込んだ。
「その記事、『紅魔館』にも届けてちょうだい。――パチェが読みたがるわ」
「えぇ。号外で、真っ先に届けましょう」
龍が徳利を持ち上げた。文の猪口に注ぎ、レミリアの猪口に注ぐ。最後に自分の猪口を満たした。
咲夜の前には湯呑みしかない。龍はちらりとそちらを見て、何も言わずに徳利を置いた。
「――じゃあ、明日の席に」
龍が猪口を掲げた。
「明日の席に」
文が倣い、レミリアは少しだけ間を置いてから、猪口を持ち上げた。
「私の席に、よ」
「はいはい」
三つの猪口が、囲炉裏の火の上で小さく触れ合った。
カチリ――と澄んだ音が鳴る。
土間の天狗達が、その音にそっと顔を上げた。誰も何も言わなかった。だが何人かが、自分の猪口を目の高さまで持ち上げて、黙って口へ運んだ。
北の窓の障子は、もう鳴っていなかった。
~天狗の里 深夜~
――レミリアが帰ったのは、日付が変わる少し前だった。
居酒屋の前の辻で、咲夜が主の背に外套を掛け直す。レミリアは翼を広げかけて、一度だけ振り返った。
「明日の晩、また会いましょう。――私の席でね」
それだけ言うと、レミリアは夜空へ飛び立った。咲夜が一礼してその後を追う。二つの影は南の湖の方へ、すぐに見えなくなった。
文も辻で龍と別れた。
自分の家へ帰る途中、文は杉の梢の上で一度だけ足を止めた。手帳を開いて『目下調査中』の一行の下に一行だけ書き足す。
――『明日、古龍会議開催』
それ以上は書かなかった。
文は手帳を懐に仕舞った。
その時、杉の梢の下から低い声がした。
「――射命丸さん。こんな時間に何をしているんですか」
見下ろすと、雪の上に白い影が二つ立っていた。
白狼天狗の犬走椛だった。肩と脛に雷狼竜の甲殻を据えた哨戒の装束のまま、腰の片手剣に手を掛けている。その足元で、オトモのハツシモが文を見上げて鼻を鳴らす。
「あやや。椛こそ。今夜は哨戒明けじゃなかった?」
「北の尾根から引き上げた分、里の周りを回っています。――ギアノスが出たと聞いたので」
「それならもう西の沢筋へ帰ったわよ。龍様が、鹿の骨のある所を教えてやったから」
椛は少しだけ目を細めた。
「……斬らなかったんですか」
「えぇ、斬らなかったわ」
「そうですか」
椛はそれだけ言った。責めるでも褒めるでもない、いつもの事務的な声だった。
文は梢の上にしゃがみ込む。
「椛。明日から、白狼天狗の若い者が二十人ほど、麓へ下りることになりそうよ。集落の荷下ろしの手伝いでね」
「……聞いていませんが」
「明日の晩に決まるのよ。今のは、私が先に聞いた話」
椛は眉をひそめた。
「射命丸さん。決まっていないことを、哨戒の者に先に言わないでください」
「記事にはしてないわ。椛にだけ、よ」
「余計に悪いです」
ハツシモが、二人の顔を交互に見上げて首を傾げた。
椛は小さく溜め息をついた。それから北の空を見上げた。千里を見通す白狼天狗の目が、雲の渦の芯へ向いている。
「……あの暗がり。夕方より下りてきています」
「視えるのね。流石は千里眼」
「形までですが。でも、昨日の夕方はもっと上でした」
椛は剣の柄から手を離した。
「麓の道の雪は、明日の朝に私の班で踏み固めておきます。二十人が荷を背負って下りるなら、それくらいは要るでしょう」
「……決まっていないことを、先に聞いたのではなかった?」
「聞いていません。私は、道の雪を踏むだけです」
椛はそう言って踵を返した。ハツシモがその後ろを跳ねるようについていく。白い二つの影は、杉林の闇の中へすぐに溶けていった。
文は梢の上で、少しの間だけ笑っていた。
それから北の空を一度だけ振り返って、家の方へ降りていった。
杉林の斜面の小さな家は、出てきた時のまま冷え切っていた。
土間には刷り損じの紙が散らばっている。板の間には乾かしかけの写真。軒先の風鈴が、北から吹く風にチリンと鳴った。
文は灯りを一つだけ点けて、文机の前に座った。
手帳を開く。『目下調査中』『明日、古龍会議』『脱ぐ時、一番無防備』。三行並んだ文字を、しばらく眺めた。
それから新しい紙を一枚広げて、筆を取った。
――『号外 北の峰の』
そこまで書いて、筆が止まった。
北の峰の――何と書けばいいのか。鋼龍と書くには、まだ自分の目で見ていない。見たのは星の消えた暗がりだけだ。レミリアの目は岩棚の上の錆の色を見たが、それはレミリアの見たものだった。
文は紙を丸めて土間の刷り損じの山の上へ放り、奥の壁を見上げる。迅竜の黒い刃を打ち直した双剣が、二振り並んで掛けてある。四年前の夏の終わりに、一枚も写真を撮らなかった狩猟で打った双剣だった。
「……撮れなかったものは、撮れなかった。――書けないものは、書けない、ね」
文は小さく呟いて、灯りを吹き消した。
北向きの窓の障子が、一度だけカタリと鳴った。
~天狗の里の裏 物見の岩場~
――龍は一人で物見の岩場へ戻っていた。
三脚をもう一度立てる。雪の下の窪みに脚を一本ずつ据えて、空っぽの輪に片目を当てる。
北の空の雲は、さっきより厚くなっていた。『氷霧連峰』の稜線はもう半分も見えない。
だが星の消えた暗がりは、まだ岩棚の上にあった。
――さっきと同じ場所。動いていない。
龍は輪から目を離して、腰の帳面を引き抜いた。手垢で角の丸くなった帳面の、虹龍洞の夜の二行の下に筆を走らせる。
――『氷霧連峰の肩、岩棚の上。星、三つ分、見えず。高度は低い』
筆を止める。少し考えてから、もう一行加える。
――『紅魔館の吸血鬼曰く、疲れている』
龍は自分で書いた一行を見下ろして、短く笑った。
「……星見の帳面に、吸血鬼の言葉を書く日が来るとはね」
その時、背後の杉林で雪を踏む音が聞こえた。
振り返ると、白狼天狗が二人岩場の端に立っていた。干し肉の棚の前で刀を構えていた二人だった。今は防具を着込んでいる。片方が、紐で括った包みを両手で抱えていた。
「――龍様。夜分に失礼致します」
「何だい。哨戒明けだろう。寝てな」
「棚の主から、これを。今夜の礼だそうです」
包みの中身は干し肉だった。冬の蓄えの中でも、一番上の棚に吊るしてあった上物だ。しかし龍は包みを受け取らずに、二人の顔を見る。
「――あんた達、明日から麓へ下りてもらうよ」
「麓、ですか」
「集落の荷下ろしの手伝いさ。年寄り達の荷を背負って、山道を下りる。刀を抜く仕事じゃない」
二人は顔を見合わせた。それから揃って頭を下げた。
「……承知致しました」
「その干し肉は持っていきな。麓の連中に配るといい。半分は麓の塩で漬けたもんだ。返してやるのが筋だろう」
二人はもう一度頭を下げて、杉林の中へ戻っていった。足音が遠ざかって消える。
龍は帳面に目を戻した。
二行の下に、もう一行だけ書き足しかけて――やめた。天狗の損得は帳面には書かない。それは明日、会議の席で口で言えばいい話である。
龍は岩場の縁に腰を下ろした。
足元に天狗の里の灯りが見える。居酒屋の灯りはもう落ちていた。杉林の中を、小さな灯りが一つだけ動いている。哨戒の灯りだろう。北の尾根から引き上げた分だけ、里の周りを回る灯りが増えていた。
大天狗が星を見るのは、空の道を読むためだ。どの風がどの尾根を越えるのか。どの雲がどの谷に溜まるのか。それを読んで、伝令の空路を決める。天狗の翼を落とさないために。
だが明日の空には、天狗の翼が入れない所がある。
読めても飛べない空。龍が星を数え始めてから、そんな空は数えるほどしかなかった。
「――龍様。こんな所にいらしたんですね」
背後から柔らかい声が聞こえた。
振り返るまでもなかった。岩場の端の杉の根元に、狐色の尻尾がふさりと揺れている。腹心の典が、白い衣の上に綿入れを一枚羽織って、手燭も持たずに立っていた。
「典。会所の方はいいのかい」
「ふふ。神奈子様がお休みになられたので、帳場を閉めてまいりました」
典は雪の上を音もなく歩いてきて、龍の隣に膝をついた。龍の帳面には目を向けない。見ないふりをするのが、この管狐の礼儀だった。
「――お耳に入れておきたいことが、三つほど」
「――言いな」
「一つ。麓の集落は、今日の昼から荷をまとめ始めました。早苗さんが慧音さんのお言葉を、そのまま持ち帰られましたので。――年寄りの多い家から、先に」
「うん」
「二つ。人里の会館で預かっている鱗の欠片ですが、慧音さんは会議の席の真ん中に置くおつもりだそうです。阿求さんの絵図と一緒に」
「……そうかい」
「三つ――」
典はそこで一度言葉を切った。覗いた片目が、北の空へ向く。
「――哨戒の白狼の方々から聞きました。夕方より、北の暗がりが下りてきていると。――椛さんも、同じことを哨戒帳に書いておられました」
龍は黙って頷いた。
「明日の会議には、天狗の頭として何をお持ちになりますか」
「数だよ。哨戒、空路、手伝いの
「ふふ。それなら、もう帳場に書いてありますよ」
龍は、思わず典の顔を見た。
「……まだ誰にも言ってないはずだけどね」
「さぁ、それはどうでしょうかね?」
典は笑った。口元は笑っていたが、片目は笑っていなかった。
「龍様が星を見にいらっしゃる夜は、大抵明日の事をお決めになる夜ですから。――では、私はこれで。会所の灯りは、朝まで一つ残しておきます」
典は立ち上がって一礼すると、来た時と同じように音もなく杉林の中へ消えていった。
龍は短く息を吐いた。
「……余計なことをする狐だ、まったく」
その声は、少しも怒っていなかった。
龍はもう一度だけ輪に目を当てた。
――北の空。岩棚の上の暗がり。その縁に、小さな星が一つ瞬いていた。
見ているうちに、その星がスッと消えた。
雲に隠れたのではなかった。周りの雲は、その場所を避けて回っている。
「……四つ目、か」
龍は帳面を閉じた。
三脚を畳んで肩に担ぐ。もう一度だけ北の空を振り返ってから、龍は岩場を下り始めた。
杉林を抜けると、天狗の里の屋根が雪の下に並んでいた。灯りはほとんど落ちている。
その中に一つだけ、山の上の方で灯りが残っていた。守矢の会所の方角だった。典が朝まで残しておくと言った灯りだ。
龍はその灯りを見上げて、足を止めた。
会所の灯りの更に向こう。妖怪の山の北の麓の方にも、小さな灯りが点々と灯っていた。この時刻にはとうに眠っているはずの集落だった。
荷をまとめているのだ。年寄りの多い家から、先に。
「……明日の数、一つ増やすか」
龍は独り言のように呟いた。
手伝いとして動かすには、二十では足りないかもしれない。三十――哨戒の交代を一つ削れば、出せない数ではない。
龍は帳面を開かなかった。数はもう頭の中にある。
北から吹く風が、杉の梢の雪を巻き上げる。
――風は、夜明けまで止まなかった。