東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~人里 幻想郷中央狩猟会館 奥座敷~
――
『稗田阿求』が帳面と絵図を抱えて廊下を渡った時、日はもう西の山の端に掛かっていた。受付の灯りはいつもより早く落とされている。表の戸には小鈴の字で札が下がっていた。
――『本日、夕刻より奥にて会議。急ぎの依頼は受付脇の箱へ』
会場である奥座敷の襖は開け放たれていた。
畳の上に長い座卓が一つ。四隅に火鉢が置かれ、炭がチリチリと赤く熾っている。座卓の周りには座布団が並んでいた。下座の端に、阿求の文机が一つだけ据えてある。
小鈴が座卓を布巾で拭いていた。
「あ、阿求。早かったね」
「慧音先生は?」
「表で、守矢の皆さんを待ってるよ。――ねぇ阿求。座布団って、八枚で合ってるのかな。慧音先生に言われた通りに出したんだけど」
阿求は座布団を数えた。
上座に一枚。左右に三枚ずつ。下座に一枚。
それから指を折る。――神奈子、華扇、レミリア、永琳。そして慧音。
「……三枚、多いわね」
「だよね。でも慧音先生は『八枚だ』って」
阿求は上座の座布団を見た。
一番厚い座布団だった。その前にだけ、湯呑みも筆も置かれていない。
「……小鈴。上座の一枚は、そのままにしておいて」
「え?」
「誰も座らない席よ。――でも、席はあるの」
小鈴は首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。受付嬢は、訊かない方がいいことを知っている。
阿求は文机に帳面を置き、座卓の真ん中に絵図を広げた。
――妖怪の山の絵図だった。尾根と沢筋が細い墨の線で引かれ、朱の矢印が三本、北から南へ走っている。三日前より、書き込みが一つ増えていた。北の峰の肩の岩棚に、小さな朱の丸。その横に阿求の字で『脱皮の場所と予測』と添えられている。
――廊下の向こうで、足音が聞こえる。慧音が戻ってきた。両手に白い布の包みを捧げ持っている。
「阿求、絵図の真ん中を空けてくれ」
「はい」
慧音は包みを絵図の上に置き、布を開いた。
錆びた鱗の欠片だった。
三日前に早苗が持ってきた時と同じ赤茶の色。だが縁の崩れが、少し進んでいるように見えた。座卓の上に、赤い粉がほんのわずかに落ちている。
「……崩れていますね」
「あぁ。預かってから、毎朝少しずつな」
慧音は鱗から目を離さずに言った。
「三日でこれだ。――空の上の本体は、もっと崩れているだろう」
表の戸が開く音が聞こえた。
続いて、重い足音が廊下を渡ってくる。床板が一歩ごとに低く鳴った。
最初に奥座敷へ入ってきたのは『八坂神奈子』だった。背に御柱は負っていない。その代わりに、注連縄の輪を背で揺らしている。
その後ろに、もう一人。
――大天狗『飯綱丸龍』だった。片手に何も載っていない三脚を提げ、龍は座敷を一度見回すと、軽く頭を下げる。
「――天狗の頭を連れてきた」
神奈子が慧音に言う。
「空の話は、私より詳しいのでな。――空の席は、あるか」
「あぁ。用意してある」
慧音は左の列の端を示した。神奈子は満足げに頷き、その隣に腰を下ろした。龍は三脚を壁に立て掛けてから座る。
「早苗は、控えの間に置いてきた」
「会議に出るのではないのか」
「あの子は、決まったことを聞く方だ。――決めるのは、私の役目だからな」
次に来たのは『茨木華扇』だった。
包帯の右腕に、鋼龍剣盾『風導』の磨いた白銀の盾を括り付けている。華扇は座敷の入り口で足を止め、座卓中央の鱗を見た。それから、何も言わずに右の列に座った。
「久米は」
「屋根の上よ。――北の風を見てもらってるの」
華扇は慧音に答えて、盾を膝の脇に置いた。
――『八意永琳』は、華扇の少し後から一人で来た。背に弓を負い、腰の帯に小瓶を幾つも下げている。座敷に入るなり鱗の前で膝をつき、顔を近付けた。
「……匂いがするわね」
「錆の匂いですか」
阿求が訊くと、永琳は首を縦に振る。
「えぇ、鉄が酸化する時の匂いよ。――まだ、続いている」
永琳はそう言って、右の列の真ん中に座った。
――やがて、日が沈む。縁側の障子の向こうが暗くなるのと同時に、廊下の空気が一度だけ冷たくなった。
『レミリア・スカーレット』が咲夜を連れて入ってきた。咲夜は主が右の列の端に座るのを見届けると、その斜め後ろに膝をついて控えた。座布団には座らない。
「――あら。空いている席が、二つあるわね」
レミリアが上座と、左の列の最後の一枚を見た。
「一つは、もうすぐ埋まる」
慧音が答えた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、廊下の向こうで衣擦れの音がした。
金色の九本の尾が、狭い廊下の幅に合わせて畳まれている。
――八雲藍だった。
「――失礼致します」
藍は座敷の入り口で一礼して、左の列の最後の一枚に座った。上座の座布団の、すぐ右手である。
「グランドマスターの名代として、参りました。――紫様は、長くは居られませんので」
「知っている」
慧音が短く言った。
阿求は上座の座布団をもう一度見た。
誰も座らない席。それでも、誰かのための席。
小鈴が全員の前に湯呑みを置いて回り、最後に一礼して襖を閉めた。
八枚の座布団のうち、七枚が埋まった。
――慧音が、座卓の端に両手を置いた。
「――これより、
声は大きくなかった。それでも奥座敷の隅々まで届く。火鉢の炭が、パチリと一つ爆ぜる。
「案件は一つ。北の峰の空の件だ。守矢ギルドの神奈子殿から意見書が上がっている。――阿求」
「はい。本件は――」
阿求は文机の上の写しを読み上げる。
――三日前の朝、慧音の執務室で読んだのと同じ文面だった。北の峰の上空に古龍一頭。『鋼龍:クシャルダオラ』と特定。脱皮の周期から外れた個体。脱皮の場所は北の岩棚と予測。急速に錆びた理由は不明。
――読み終えると、座敷の中が静かになった。
「――見立ての主に、改めて聞きたい」
慧音は右の列の華扇を見た。
「茨華仙。この見立てに、三日経って変わったところはあるか」
「えぇ。一つだけ」
華扇は座卓の真ん中の鱗に目を落とした。
「――早くなっています」
「何がだ」
「錆が鱗を浮かせる速さです。三日前、仙界の物見台で見た時は、剥がれかけの鱗は背と脇腹の一部だけでした。今朝、久米を北へ飛ばしました。――首の付け根まで、浮いていたそうです」
華扇の声は柔らかかった。だが言葉は硬い。
「脱ぐ時は、もう近いかと。早ければ――数日のうちに」
阿求は筆を走らせた。
――『錆、首の付け根まで侵食。脱皮は早ければ数日のうち。茨華仙の見立て』。
「天狗の側からも、一つ」
龍が口を開き、座卓の上に腰の帳面を一冊置く。開きはしなかった。
「昨夜、『天狗の里』の物見の岩場から北の空を見た。――あの龍の居る辺りだけ、星が見えなくなる。風が吹いても雲が流れても、その暗がりだけは動かない」
「星が?」
永琳が興味深そうに龍を見る。
「暗がりの広さは、『虹龍洞』の落盤の夜は一つ分だった。昨夜は三つ分。夜半に四つ目が消えた。――それに、低い。前は峰の頭上だったが、今は峰の肩の岩棚の上に居る」
「――その岩棚の上で、件の龍が丸まっていたわ」
右の列の端から、レミリアが言った。
座敷の視線がそちらへ集まった。
「昨夜、私も同じ岩場に居たのよ。吸血鬼の目は夜を見通す。――翼を畳んで、首を胴に巻き付けて。錆の色で、所々剥げかけていたわ」
レミリアは湯呑みを手に取らずに続けた。
「疲れているわ、あの龍は。眠っているんじゃない。動けば身体が軋むから、じっとしているだけ」
慧音は黙って頷いた。阿求の筆が、一行増える。
――『猟団"紅魔館"猟団長、夜目にて岩棚の上に伏す個体を確認』
「――永琳殿」
慧音が永琳を見る。
「医の者として、この鱗をどう見る」
永琳は鱗の前に膝を進めた。
腰の帯から細い銀の匙を抜き、鱗の縁の赤い粉をほんの少しだけ掬う。それを白い紙の上に落とし、指先で薄く広げた。紙を火鉢の明かりにかざす。
「人の身体で言うなら、皮膚の代謝が追い付いていない――と、表するべきでしょうね」
永琳はゆっくりと言った。
「古い皮が剥がれる前に、下から新しい皮が押し上げてくる。だから表皮が剥がれる。――それ自体は、どの生き物にもある当たり前の仕組みよ」
「では、何が当たり前ではない?」
「速さね。茨華仙の見立てのとおり」
永琳は紙を下ろした。
「金属の腐食を早めるものは、幾つかあるわ。水分、温度。それから塩化物――塩ね」
「塩……」
阿求は思わず筆を止めた。
「ただし、どれがこの龍に当てはまるのかは分からないわ。山の上の雪解け水かもしれないし、もっと別の何かかもしれない」
永琳は匙を拭って帯に戻した。
「――確かめるまでは、何も言えないわ」
阿求は止めていた筆を動かした。
――『錆を早める要因は水分・温度・塩化物の類。当該個体に何が働いたかは未確認。八意永琳の所見』
書き終えてから、阿求は自分の字をもう一度見た。
――塩。
山の上に、塩。
それがどういう意味なのかは分からなかった。分からないことは、分からないまま書いておく。それが記録だった。
「数を一つ、伺いたい」
左の列の端から、静かな声が聞こえた。皆が藍に注目する。
「脱ぐまでの日数を、もう少し詰めてほしい。紫様にお伝えする時に、具体的な数がないと困る」
龍が藍の方を向く。
「星の暗がりが下りる速さから言えば、三日から五日。――それより早まることはあっても、遅れることはないだろうね」
「三日から五日、か。承知した」
藍は膝の上の小さな帳面に何かを書き付ける。阿求の帳面と同じくらいの、細かい字だった。
慧音が、座卓の上の鱗から顔を上げた。
「――情報は揃った」
その声で、座敷の空気が一段締まった。
「では、本題に入る」
――慧音は、座卓を囲む顔を一つずつ見回す。阿求は筆を置いた。
「
慧音がそう言いかけた時――
――宙が、裂けた。
上座の座布団の真上だった。細い裂け目の両端に赤いリボンが結ばれ、その奥に無数の目が覗いている。
火鉢の炎が、一斉に横へ靡く。
気付いた時には、上座の座布団に一人の女性が腰を下ろしていた。誰も、座る瞬間を見ていなかった。閉じた扇子を膝の上に置き、日傘は肩に立て掛けている。
――幻想郷の賢者にして、全ギルドを纏めるグランドマスター『八雲紫』だった。
藍が、膝の上で静かに頭を下げる。他の誰も動かなかった。神奈子でさえ、腕を組んだまま目だけを上座へ向けていた。
紫は座卓を囲む顔を、一つずつ眺めた。最後に、座卓の真ん中の鱗の欠片に目を落とす。
「――
柔らかい声だった。だが、奥座敷の誰もがその一言を聞き逃さなかった。紫は扇子を手に取り、ゆっくりと開く。
「狩るかどうかを決めるのは、あなた達ですわ。私は訊くだけ」
それだけ言うと、紫は扇子で口元を隠した。
次の瞬間――上座の宙がもう一度裂けた。紫の姿は、その裂け目の中へ沈むように消えていった。リボンの結び目が閉じる。
上座の座布団には、もう誰も座っていなかった。
阿求は筆を握ったまま、その座布団を見ていた。
誰も座らない席だと思っていた。――だが、席は確かにあったのだ。
火鉢の炭が、また一つパチリと爆ぜる。
誰もすぐには答えなかった。慧音は上座から目を戻し、自分の手元に目を落とした。
「――先に、人里ギルドとして言わねばならないことがある」
慧音の声が、少し低くなった。
「錆びた鋼龍は気が荒い。三日前の夕刻、麓の集落の真上を低く飛び、灯りが一つ消えた。――脱ぐ前の鋼龍が人の住む所まで降りてくることは、古い記録にもある。山を下りれば、次は人里かもしれない」
慧音は鱗の欠片を指で示した。
「討伐すれば、それで終わる。人里の者を預かる身としては、その道を最初から外すわけにはいかない」
座敷が静まり返った。
――阿求には分かっていた。慧音は討伐を望んでいるのではない。誰かが言わねばならないことを、ギルドマスターとして先に言っているだけだ。
最初に口を開いたのは龍だった。
「――仮に狩るなら、嵐の中に何人入れる気だい」
龍は帳面の上に手を置いたまま言った。
「鋼龍の風の中では、天狗も飛べない。縁から先には一人も入れられない。狩るなら、地べたを這って岩棚まで登ることになる。――錆びていようが、恐るべき古龍の嵐だ。登る途中で何人が谷へ落ちるか、私には数えられないね」
「怪我人の数なら、私が数えるわ」
永琳が静かに続けた。
「嵐の中の負傷は、打撲と骨折が主になるでしょう。それに低体温。風に晒され続けると、体温は思うより早く奪われる。――討伐を選ぶなら、怪我人の数を先に数えておかないといけないわ。その数は……撃退の比ではないはずよ」
慧音は黙って聞いていた。
レミリアが湯呑みを座卓に置いた。コトリと小さな音が鳴る。
「――狩りというのはね、相手が全力で抗う時にするものよ」
紅い瞳が、鱗の欠片を見下ろした。
「あの龍は今、全力では抗えない。疲れていて、錆びて重い上着を脱ぎたがっているだけ。――そういう相手を狩るのは、私の流儀ではないわ」
「流儀で人は守れんぞ」
神奈子が言った。からかうような調子ではなかった。
「えぇ。だから、流儀だけを言っているのではないわ」
レミリアは神奈子の方を見ずに続ける。
「疲れた龍を、わざわざ全力にさせるようなことをしてどうするの。――追い詰めれば、あの龍は残った力を全部振り絞るわ。錆びて鈍っていても古龍は古龍――生きた自然そのものよ。その時に嵐の真下に居るのは、麓の集落でしょう」
慧音の目が、わずかに細くなった。
華扇が、膝の脇の盾にそっと手を置く。
「倒すのは、他に取り得る道が全部塞がってからです」
柔らかい声だった。だが、ハッキリした言い方だった。
「五年前。私は、あの岩棚で脱いだ後の鋼龍を見送りました。新しい鱗で、東から西へ渡っていきました。――脱げば、あの龍は帰ります。帰る先がある龍です」
「帰る先がある龍、か」
慧音が繰り返した。
その言葉に、左の列の藍がほんのわずかに顔を上げた。阿求はそれに気付いたが、藍はすぐに目を伏せて、何も言わなかった。
「――神奈子殿」
慧音が神奈子を見る。
「意見書を出したのは守矢だ。――守矢の考えを聞こう」
神奈子は座卓の上で腕を組んだ。
「――狩る必要はない」
短い答えだった。
「あの龍は、すぐにでも脱ぎたいのだ。錆びた皮が重くて、思うように風を纏えず、苛立っている。――ならばいっそ、脱がせてやればいい」
「脱がせる、とは」
「北の岩棚で脱皮を成し遂げるまで、集落から人を下ろす。脱ぐ前に龍が里の方へ降りてくるなら、その時だけ押し返す。――押し返して、岩棚へ帰す」
神奈子は組んでいた腕を解いた。
「――
慧音はしばらく黙っていた。
それから、座卓の上の鱗の欠片を見た。赤い粉が、またほんの少しだけ零れている。
「……押し返したとして、龍が岩棚へ帰らなかったら」
「その時は、改めてここで決めればいい」
神奈子は即座に答えた。
「最初から一番重い道を選ぶ理由はない。――それが、この会議の決まりだろう」
慧音は長く息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……あぁ。そうだったな」
阿求は、そこで初めて筆を取った。
――『本当に狩る必要があるか。――出席者の内、討伐を求める者なし』
慧音が神奈子に向き直る。
「脱がせる、と言ったな。人を下ろすのは分かる。だが、人を下ろせば龍が脱ぐという理由は何だ。人が居ようが居まいが、脱ぐ時が来れば脱ぐのではないのか」
「それは、茨華仙の方が詳しいだろう」
神奈子が右の列へ顎を向けた。華扇は少しの間、盾の白銀の面に目を落としていた。それから顔を上げる。
「――脱皮を行う時の鋼龍は、無防備です」
座敷の誰もが、その一言で口を閉じた。
「古い鱗を脱いで、その下の新しい鱗が固まるまでの間。あの龍は風の鎧も纏えません。爪も牙も柔らかい。古龍とて――生まれたての雛と、ほとんど変わらない」
華扇は座卓の上の絵図に指を伸ばした。北の峰の肩の朱の丸に、そっと触れる。
「だから鋼龍は、周りに生き物が居るうちは脱ぎません。大きなものも、小さなものも。――周りが空になるまで、脱ぐのを待つんです」
「待つ……」
阿求は思わず呟いていた。
「五年前、岩棚の周りは雪と岩だけでした。だから脱げた。――でも、今は」
華扇の指が、朱の丸から少しだけ南へ下りた。
北の峰の麓の集落。その上に、阿求が三日前に書き入れた小さな字があった。
――『灯り一つ消ゆ』
「――岩棚の真下に、人が居ます」
華扇の声は柔らかいままだった。
「あの龍が集落の上を低く飛んだのは、苛立っていたからだけではないかもしれません。――脱ぐ場所の周りに、まだ何か居るか。それを確かめていたのかもしれない」
座敷が、しんと静まった。
「……待ちな」
龍が帳面から手を離した。
「昨夜、天狗の里にギアノスの群れが下りてきた。北の雪山の小さいのが六匹。干し肉の棚を襲ったから追い払ったけどね」
龍はレミリアの方を見た。
「――あれは、北から押し出されてきたんじゃないのかもしれない。岩棚の周りから、追い払われてきたんだ」
「そうね」
レミリアが頷いた。
「北へ帰れずに、ここまで来た群れ。――帰れないんじゃなくて、帰らせてもらえなかったのね」
華扇は静かに目を伏せた。
「えぇ。あの龍は今、自分の手で周りを空けようとしているんでしょう。小さな群れは追い払える。――でも、集落までは追い払えない」
「定住の地を持つ者は、自分では逃げんからな」
神奈子が低く言った。
「家があり、畑があり、冬の蓄えがある。龍が頭の上を飛んだくらいでは、山を下りん。――だから、こちらが下ろしてやる。下ろしてやれば、龍は脱げる」
慧音は黙って絵図を見下ろしていた。
長い間、阿求は筆を止めて待った。
「……人を下ろすことそのものが、龍を帰す手立てになる、ということか」
「そういうことだ」
「――では、段取りを詰める」
慧音が顔を上げた。既に迷いのない顔だった。
「一つ。麓の集落の住人を下ろす。下ろす先はどうする」
「中腹の駒草の集会所と、守矢の境内だ」
神奈子が答えた。
「集会所については山如に話を通してある。年寄りの多い家は境内に入れる。――神社については早苗が支度を始めている」
「天狗からは手伝いを出す」
龍が続ける。
「荷を下ろすのに白狼の若いのを三十。昨夜は二十と言ったが、麓の灯りを見て人工を増やした。哨戒は北の尾根から全部引き上げて、嵐の縁の外を張らせる。伝令の空路は人里と守矢の間に一本。――伝令には文を出す。あれは、見たものしか運ばないからね」
「承知した。――二つ。岩棚の周りには誰も近付けない」
慧音が指を折った。
「狩りも採取も、哨戒もだ。龍が脱ぐまで、北の峰の肩から上は無人にする。次に――三つ。脱ぐ前に龍が降りてきた時、押し返す者」
神奈子が背筋を伸ばす。
「守矢からは私と早苗。諏訪子は境内に残す。唐突に避難させられた人間を預かる場所に、神が一柱も居らんのでは困る」
「私も行きます」
華扇が言った。
「あの龍の脱いだ殻から作った剣と盾です。――本人が困っているのに、知らぬ顔はできないわ」
レミリアが、斜め後ろの咲夜を一度だけ振り返った。
「猟団"紅魔館"からは、ハンターとして咲夜と美鈴を出すわ。私は嵐の中には出られない。でも、席に着いた以上は出すものを出す」
「……咲夜」
慧音が咲夜を見た。
「主の言うとおりで、構わないのか」
「はい」
咲夜は膝をついたまま、静かに答えた。
「美鈴にも、私から伝えてあります。――あの子は喜んでいました」
レミリアが小さく鼻を鳴らした。阿求には、それが笑いを堪えた音に聞こえた。
「――もう一人、加えたい」
神奈子が言った。
「『比那名居天子』だ。――会議で決まったら前に立たせてやると、あの娘と約束したのでな」
慧音の眉が僅かに寄る。
「要石は使わせない約束だ。人里ギルドとして、それは曲げられない」
「分かっている。要石は抜かせん。――大剣を担がせ、前に立たせるだけだ」
「……それならば、構わない」
慧音は短く頷いた。
「――四つ。怪我人の手当て」
「中腹の集会所に、救護所を置くわ」
永琳が答えた。
「うどんげを先に行かせる。薬と、毛布と、温めた石。――嵐の中から運ばれてくる人は、怪我より先に身体が冷え切っているはずだから」
「分かった。人里からは――」
慧音は自分の手元を見た。
「――霊夢を出す。避難の列の殿に付ける。――列の最後の一人が下りるまで、あの巫女に見させる」
阿求の筆は、もう止まらなかった。
避難。立ち入りの禁止。押し返す者。救護。殿。
五つの段取りが、帳面の上に一行ずつ並んでいく。
書き終えて顔を上げると、座卓を囲む顔が全部、同じ方を向いていた。
上座の、もう誰も座っていない座布団の方を。
――最初に動いたのは、藍だった。
膝の上の帳面の間から、小さく折り畳んだ紙を一枚取り出す。白い紙だった。端に、薄紫の細い紐が結んである。
「紫様からの言伝を、預かっています」
藍は紙を両手で持ったまま言った。
「会議の段取りが揃ったら読むように、と。――一行だけです。よく聞いてほしい」
座敷の誰も、口を開かなかった。
藍は紐を解き、紙を広げた。目を落とし、一度だけ読んでから、顔を上げる。
読み上げる声は、藍自身の声よりも少しだけ柔らかかった。
――『会議の決めたことに従う。――帰る先がある龍は、帰しておやりなさい』
火鉢の炭が、静かに鳴った。
阿求は筆を持ったまま、その一行を聞いていた。
――帰る先がある龍。
さっき華扇が言った言葉と、同じだった。
阿求は思わず華扇を見た。華扇は盾の白銀の面に目を落としたまま、何も言わなかった。ただ包帯の右手の指が、盾の縁の茨の文様をほんの少しだけなぞった。
永琳は湯呑みを口に運んでいた。飲み終えるまで、誰の顔も見なかった。
「……あの賢者らしいわね」
永琳が湯呑みを置きながら、独り言のように言った。それ以上は、何も続かなかった。
「――言伝は、確かに聞いた」
慧音が藍に頭を下げた。藍も同じだけ頭を下げ、紙を元の通りに畳んで懐に仕舞った。
慧音は座卓の上に両手を置く。座敷の空気が、ピンと張り詰める。
「まず、区分を定める」
慧音の声が、奥座敷の柱にまで響いた。
「対象、北の峰の空に臥す『鋼龍:クシャルダオラ』一頭。――区分は、撃退とする」
阿求は筆を走らせた。
慧音は続ける。一つ一つ、阿求の筆が追い付くのを待つように。
「龍を狩ることは禁ずる。龍が北の岩棚へ帰らず、人に害が及んだ時は、改めてこの会議で決める。――それまでは、誰の手であろうと討伐は認めない」
「脱いだ殻の扱いは如何に」
神奈子が訊く。
「五年前に倣う。見つけた者が会議に届けること。狩りの手柄にしないこと」
「――承知した」
神奈子は短く答えた。
慧音は阿求の方を向いた。
「阿求。依頼票を書いてくれ。――守矢の会所と人里の受付に、同じものを一枚ずつ貼る」
「はい」
阿求は新しい紙を一枚取り、筆に墨を含ませた。
手は震えていなかった。古龍の依頼票を書くのは、これが初めてではない。けれど、この依頼票の文面を決めたのが今夜のこの座敷だということを、阿求は一字ごとに思い出していた。
書き終えて、阿求は紙を慧音の前に置いた。
慧音は依頼票に目を通し、それから座卓を囲む顔を一つずつ見た。
「異議のある者は」
誰も、何も言わなかった。レミリアが湯呑みを手に取り、一口だけ飲んだ。それから、隣の神奈子を横目で見る。
「――運命を傾けて追い返せ、とは言われなかったわね」
「言うものか」
神奈子は即座に返した。
「運命など当てにせん。押し返すのは、私の風と、前に立つハンター達の腕だ」
「あら。言いそうな顔をしていたのに」
「どんな顔だ、それは」
レミリアは答えずに、口の端だけで笑った。咲夜が後ろでほんの少しだけ目を伏せる。
龍が、帳面を腰に戻した。
「……天狗は、今夜の内に動くよ。伝令を出してもいいかい」
「頼む」
慧音が頷く。龍は三脚を壁から取って立ち上がり、廊下の方へ一度だけ振り返った。
「――星が、もう一つ消える前にね」
それだけ言って、龍は座敷を出ていった。
慧音はもう一度、座卓の上の鱗の欠片を見下ろす。それから、静かに告げた。
「方針は決した。――現時刻をもって、
~人里 幻想郷中央狩猟会館 控えの間~
――阿求は、書き上げた依頼票の写しを持って控えの間へ向かった。
一枚は人里の受付に。もう一枚は守矢の会所に。会所へ届ける方を、神奈子に渡さなければならない。
控えの間の障子を開けると、火鉢の前に早苗が座っていた。膝の上でアイルーのソヨが丸くなっている。その向かいの壁際に、もう一人――文が柱に背を預け、手帳を膝に置いている。筆は握っていたが、一字も書いていないようだった。
「……あやや。阿求さんでしたか」
文が顔を上げた。
「会議、終わりましたか」
「えぇ。――今しがた、終わりました」
早苗がソヨを抱いたまま立ち上がりかける。
「あの、阿求さん。――神奈子様、何か無茶なことを言ってませんでしたか」
「無茶、とは?」
「例えば、自分一人で岩棚まで行くとか……」
阿求は少し考えてから、首を横に振った。
「言っていませんでした。――押し返すのは、神奈子様と早苗さんだそうです」
早苗は目を瞬いた。それから、ほっとしたように小さく笑った。
「……そう、ですか。私も、なんですね」
「――早苗」
阿求の後ろから、神奈子の声がした。
神奈子は控えの間の入り口に立ち、早苗を見下ろす。座敷にいた時より、ほんの少しだけ柔らかい顔をしていた。
「――目標はあくまで撃退だ」
早苗の肩から、目に見えて力が抜けた。
「……狩らないんですね」
「狩らん。脱がせてやる。――お前には、私の後ろに付いてもらうぞ」
「はい!」
早苗は真っ直ぐに頷いた。ソヨが早苗の腕の中で目を覚まし、くあ、と小さく欠伸をした。
「……早苗、行くニャ?」
「うん。行くわよ、ソヨ」
阿求は依頼票の写しを神奈子に差し出した。神奈子は受け取って目を通し、それから壁際の文へ差し出した。
「龍が、伝令はお前だと言っていた。――今夜の内に、これを会所へ。典に渡して、帳場の前に貼らせろ」
文は立ち上がって、両手で依頼票を受け取った。
手帳を持つ手より、ずっと丁寧な受け取り方だった。
文は依頼票の文面を、一行ずつ目で追った。目標。地点。条件。依頼主。最後の行まで読んでから、小さく息を吐いた。
「――えぇ。これなら、書けますね」
「書く?」
「号外です」
文は依頼票を丁寧に畳み、懐の一番奥に仕舞った。
「決まったことを、決まった通りに。麓の人達がどの道を、いつ下りればいいのか。――ようやく、見たものと決まったことが揃いました」
神奈子は文の顔を一度だけ見て、何も言わずに頷いた。
文は控えの間の縁側の障子を開けた。夜の冷たい風が、火鉢の熱を一息に攫っていく。
「では、お先に。――幻想郷最速の伝令にお任せあれ」
黒い翼が広がった、次の瞬間には文の姿はもう夜空の中だった。北の山の方へ、一筋の黒い風が走っていくのが見える。
障子を閉めようとした阿求の手を、別の手がそっと止めた。
――華扇だった。座敷から出てきたところらしい。
「早苗」
「華扇さん」
早苗が振り返った。華扇は、早苗の腕の中のソヨを一度撫でてから言った。
「三日前に言ったこと、覚えているわね」
「……後ろに付いていなさい、ですよね」
「えぇ。――一人で行かせないように」
早苗は神奈子を見た。神奈子は聞こえないふりをして、障子の外の北の空を見ていた。
「はい」
早苗はもう一度、真っ直ぐに頷いた。神奈子が、北の空から目を戻した。
「早苗。もう一つ、頼みがある」
「何でしょうか」
「明日の朝一番に、天界の比那名居へ使いを出せ。――『約束を果たす』、とな」
早苗は一瞬きょとんとして、それから顔を輝かせた。
「天子さん、喜びますね!」
「喜びすぎて、要石を抜かんようにせねばな」
神奈子は真顔で続けた。
「――お前が見張れ。人里ギルドとの約束だ。あれを一本でも抜かせたら、次の会議で私が慧音に頭を下げることになる」
「……は、はい!」
華扇が口元を手で隠した。笑いを堪えているのが、阿求にも分かった。ソヨが早苗の腕の中で、もう一度欠伸をした。
~人里 幻想郷中央狩猟会館 表~
――会館の表に出ると、門の前に人影が一つ立っていた。背に槍と大盾を負っている。
――紅美鈴だった。美鈴は、レミリアと咲夜が出てくるのを見るなり、ぱっと顔を明るくした。
「お嬢様!咲夜さん!――聞きましたよ!嵐の中に立てって、本当ですか!」
「声が大きいわ、美鈴」
レミリアは門の前で足を止めた。
「本当よ。猟団"紅魔館"から、ハンターとして貴女と咲夜を出す。――嫌なら、今のうちに言いなさい」
「嫌なわけないじゃないですか」
美鈴は笑った。
「門番ですからね。何かの前に立つのが仕事ですよ。――古龍の前に立つのは初めてですけど」
咲夜が小さく溜め息を吐く。
「……だから言ったでしょう。美鈴は喜ぶと」
「えぇ。聞いたわ」
レミリアは夜空を見上げた。北の方角の空だけ、星が少なかった。
「美鈴」
「はい」
「――帰ってきなさいね。咲夜と、二人で」
美鈴は一瞬だけ目を丸くした。それから、いつもの笑い方とは少し違う顔で笑った。
「はい。――『紅魔館』の門は、空けたままにはできませんから」
レミリアは門を出かけて、振り返った。視線の先には阿求が立っていた。
「――稗田の記録係」
「はい」
「今夜の記録には、私の名をちゃんと書いておきなさい。――猟団"紅魔館"は、出すものを出したと」
「はい。お名前は、もう書いてあります」
「そう。――なら、いいわ」
レミリアは満足げに頷いて、門を出た。三つの影が、湖の方へ去っていった。それと入れ違いに、表通りの方から気怠そうな足音が近付いてきた。
――『博麗霊夢』だった。
慧音が遣った使いに呼ばれたのだろう。手には布切れに包んだ何かを握っている。霊夢は阿求の顔を見ると、門の前で足を止めた。
「……終わったの?」
「えぇ。撃退です。――霊夢さんは、避難の列の殿だそうです」
「殿、ねぇ」
霊夢は面倒そうに息を吐いた。
「……まぁ、一番最後に下りればいいんでしょ。分かったわよ」
霊夢は布切れの包みを、少しだけ開いて覗く。
中に、一枚の鱗があった。会館の軒の灯りを受けて、真ん中だけが白く光っている。親指の爪ほどだった白い所が、もう少しだけ広がっていた。
「……毎晩、磨いてるのよ。手が痛いったらないわ」
霊夢は誰に言うでもなくそう言って、包みを懐に仕舞った。そして、北の空へ目を向ける。
「――流石に、アレは放っとけないもの」
霊夢はそれだけ言って、会館の中へ入っていった。慧音の執務室の方へ。霊夢の背を見送っていると、会館の中から二つの足音が出てきた。
――永琳と藍だった。
永琳は門の前で足を止め、北の空を一度だけ見上げた。それから、隣を歩く藍に顔を向ける。
「――さっきの言伝。本当に、一行だけだったの?」
藍は足を止めずに答えた。
「一行だけです。紫様は、それ以上はお書きになりませんでした」
「そう」
永琳は小さく笑った。
「――なら、一行で足りたのね」
藍は何も答えなかった。ただ一度だけ、門の前で永琳に頭を下げた。九本の尾が夜の中で揺れ、藍の姿は表通りの闇の向こうへ消えていった。
永琳はしばらくその方を見ていた。
「……阿求」
「はい」
「さっきの塩の話。記録には、何と書いたのかしら」
「――未確認、と」
「今は、それでいいわ」
永琳は頷いた。
「確かめていないことは、確かめていないと書く。それが一番、後で役に立つ記録よ。――処方箋と同じね」
永琳はそう言って、竹林の方へ歩き出した。背の弓が、軒の灯りを一度だけ鈍く返した。
~人里 幻想郷中央狩猟会館 記録室~
――夜が更けても、阿求は記録室の灯りを落とさなかった。
文机の上に、今夜の帳面が開いてある。その隣に、新しい紙が一枚。
阿求は筆を取った。古龍の会議の記録は、会議の夜のうちに清書する。翌朝の頭で書けば、記憶が勝手に話を整えてしまうからだ。
筆に墨を含ませた時、廊下で足音が止まった。
慧音だった。執務室で霊夢に段取りを伝え終えたのだろう。手に白い布の包みを持っている。
「まだ起きていたか」
「清書を、今夜の内に済ませようと」
「そうか」
慧音は記録室の敷居をまたいで、阿求の文机の脇に包みを置いた。布の隙間から、赤茶の色が覗いている。鱗の欠片だった。
「これは、記録と一緒にお前が預かってくれ。――会議の席に置いた物だ。会議の記録と同じ所にあるのが、筋だろう」
「はい。お預かりします」
慧音は文机の脇に腰を下ろした。珍しいことだった。
「……最初に討伐の話をしたのは、私だったな」
「はい」
「誰かが言わねばならない。人里を預かる者として、あの道を最初から外すわけにはいかなかった」
「分かっておりました」
阿求は筆を止めずに言った。
「慧音先生は、討伐を望んでいたのではありません。――言わねばならないことを、先に言っただけです。記録にも、そう書きます」
慧音は少しの間、黙っていた。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……お前に記録を任せていて、良かったよ」
慧音は立ち上がり、記録室を出ていった。
阿求は布の包みを一度だけ見て、それから紙に向き直った。
出席:上白沢慧音(議長)・八坂神奈子・飯綱丸龍・茨華仙・八意永琳・レミリア・スカーレット・八雲藍(名代)
見立て:脱皮の周期から外れた『鋼龍:クシャルダオラ』一頭。錆は首の付け根まで侵食
観測:北の空の星、四つ分見えず。岩棚の上に伏す当該個体を確認
所見:錆を早めるもの、水分・温度・塩化物の類。当該個体には未確認
狩る必要:なし。会議内で討伐を求める者なし
区分:撃退。麓の集落を下ろし、龍が脱ぐ場所の周りを空にする
言伝:会議が決めたことに従う。――帰る先のある龍は、帰しておやりなさい
最後の一行を書き終えて、阿求は筆を置いた。
障子が静かに開いた。小鈴が盆に湯呑みを一つ載せて入ってきた。
「まだ書いてたんだ。――はい、お茶」
「ありがとう」
阿求は湯呑みを受け取った。熱かった。
小鈴は阿求の肩越しに、清書の紙を覗き込んだ。
「……ねぇ阿求。上座の座布団、誰か座ったの?」
「えぇ」
「それで、言伝まで来たんだ」
「――えぇ」
阿求は湯呑みを両手で包んだまま、清書の紙の一行に目を落とした。
――『塩化物の類』
山の上に、塩。
阿求はその一行を、指でそっとなぞった。墨はもう乾いていた。
分からないことは、分からないまま書いておく。いつか、それを確かめる者が現れる。その時のために書いておくのが、記録だった。
「……北の風、強くなってきたね」
小鈴が障子の方を見た。
障子紙が、北からの風にカタカタと鳴っている。
阿求は湯呑みを置いて、立ち上がった。
「奥座敷、片付けてくるわ」
「あ、私も行く」
二人で奥座敷へ戻ると、火鉢の炭はもう白く灰を被っていた。座卓の上には、七つの湯呑みが残っている。
小鈴が湯呑みを盆に集めていく間、阿求は座布団を一枚ずつ重ねた。
最後に、上座の一枚に手を掛けた。
一番厚い座布団。ほんの一時だけ埋まった席。
阿求はそれを持ち上げかけて、やめた。
「……阿求?」
「これは、このままにしておきましょう」
阿求は座布団の角を、そっと揃え直した。
「――席は、あったのだから」
小鈴は首を傾げたが、やはり何も訊かなかった。阿求は記録室へ戻り、灯りを一つ吹き消した。
風の中に、錆の匂いが混じっていた。