東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 北の峰の麓の集落~
――夜明けの集落に、雪を踏む音が響いていた。
『犬走椛』は、集落の入り口の道祖神の前に立っていた。
足元から南へ、一本の道が伸びている。昨日の朝から自分の班で踏み固めた雪の道だった。膝まで埋まる新雪を、白狼天狗が十人で一列になって踏み、その後を荷車の幅に均した。中腹の山道まで、途切れずに続いている。
腰には雷狼剣盾『千里白狼』を帯びている。盾の縁に据えた雷狼竜の角が、朝の光を受けて青く鈍く光る。防具の肩の紅葉の飾りには、もう薄く霜が降りていた。
隣で、オトモのハツシモが鼻を鳴らす。
白い毛並みのガルクは、背中の荷鞍に毛布を二枚括り付けている。琥珀色の目は、集落の奥の家々に向けられたままだった。
「ハツシモ。数えますよ」
椛は首から下げた哨戒帳を開いた。
――集落の家は十七軒。昨日の夕方、世話役の弥平という老人から聞き取って書き付けた数だった。その横に、人の数。大人が四十一人、子供が十四人、年寄りが八人。合わせて六十三人。
椛は顔を上げて、家々の煙出しを一つずつ見ていった。
十七軒の内、煙が上がっているのは九軒。残りの八軒はもう火を落とし、戸口の前に荷が積まれている。行李、鍋、米の俵。布団を丸めて縄で縛ったもの。軒先で、若い白狼天狗達が荷を背負子に括り付けていた。昨夜の内に天狗の里から下りてきた三十人である。
「――隊長。三軒目の家、荷が多すぎます。背負子が足りません」
若い白狼天狗の一人が駆けてきた。――本来は役職無しの一哨戒天狗だが、龍の推挙で今回の白狼天狗の指揮を椛は受け持っている。
「臼と杵は置いていくように言って。命より重い物は持たせないこと」
「は、はい!」
若い天狗は雪を蹴って戻っていった。それを見届けた椛は哨戒帳を閉じ、北の空を見上げた。
集落の背には、北の峰がそびえている。白い峰の肩に、岩棚が黒く張り出していた。その上の空だけが、まだ夜の色をしている。
千里を見通す目を、椛は細くした。
――暗がりの中に、何かが丸まっている。何か――錆の色をした大きな影が翼を畳み、長い首を胴に巻き付けたまま、動かない。
――昨日の夕方より、また少し下りている。
椛はその場で哨戒帳に書き付けた。
――『明け六つ。北の暗がり、岩棚の上に留まる。昨夕より下る』
「おーい、白狼の隊長さんよ」
しわがれた声で耳を揺らし、椛は振り返った。
集落の住人の一人、世話役の弥平だった。腰の曲がった老人で、綿入れの上から蓑を羽織っている。手には煙管を握っていたが、火は入っていない。眉が困ったように八の字に曲がっている。
「何かありましたか、弥平さん」
「……源さんとこの婆さまがな、やっぱり下りねぇと言いなさる。――『龍が頭の上を一度飛んだくらいで、六十年住んだ家を空けられるか』……ってな」
椛は小さく息を吐いた。
昨日から、同じ言葉を三度聞いている。
「一度ではありません。三日前の夕刻から、毎晩下りてきています」
「わしに言われてもなぁ」
弥平は煙管で自分の肩を叩いた。
「……わしだって、本当は下りたかねぇんだ。冬の蓄えも、畑の大根も、みんな置いていくんだからよ。――天狗の隊長さんよ。龍が帰ったら、本当に戻ってこられるんだろうな」
「それは……」
椛が言いかけた時、頭の上で風が鳴った。ハツシモの耳がピンと立つ。
北からの風ではなかった。――南から、真っ直ぐに。
「――間に合ったみたいね」
――黒い翼を畳んで、『射命丸文』が道祖神の上に降り立った。
肩から提げた鞄が、紙の束で膨らんでいる。文は鞄から一枚を抜き出して、弥平の前にヒラリと差し出した。
「『文々。新聞』の号外です。――昨夜の会議の結果、ここに全部書いてありますよ」
弥平は目を細めて、紙に顔を近付けた。
椛も横から覗き込む。大きな見出しが、墨も乾ききらない字で刷られている。
――『古龍会議、撃退と決す。北の峰の鋼龍、討たずに帰す』
見出しの下に、もう一枚が重ねてあった。黄ばんだ厚い紙。
「依頼票の写しです。原本は守矢の会所と人里の受付に一枚ずつ。――稗田のお嬢さんの字ですよ」
文がそう言うと、弥平は依頼票の一行を指でなぞった。
「……討伐を禁ず、か」
「えぇ。あの龍は、脱皮をしたいだけなんです。周りに生き物が居るうちは脱がない。――だから、皆さんに下りていただくんですよ」
文の声は、いつもの軽い調子ではなかった。
弥平はしばらく黙って紙を見ていた。それから、紙を丁寧に二つに折り、蓑の内側に仕舞った。
「……婆さまに、読んで聞かせてくる。あの人は字が読めねぇからな」
弥平は雪を踏んで、集落の奥へ戻っていった。
椛は文を横目で見た。
「……文さん。号外は、いつ刷ったんですか」
「夜中よ。会議が明けてから、守矢へ依頼票を届けて、その足で刷り場へ。――お陰様で寝てないわ」
「聞いていません」
「聞かれてないもの」
文は肩を竦めた。それから、ハツシモの頭を軽く撫でる。
「この子にも一枚あげたいくらいね。――犬が犬を連れて、今朝も働き者だことで」
「……文さん」
「はいはい。冗談よ」
文は道祖神から飛び降り、鞄を背負い直す。
「残りは中腹の集会所に置いてくるわ。山如さんの所なら、皆の目に入るでしょう」
黒い翼がもう一度大きく広がり、文の姿が南の空へ消えていく。それと入れ違いに、道の下の方から誰かが登ってくるのが見えた。
紅白の衣。背中に負った長い太刀――『博麗霊夢』だった。霊夢は道祖神の前まで来ると、両手を擦り合わせて白い息を吐いた。
「……寒いったらないわねぇ、ここ」
「おはようございます、霊夢さん。――殿の件は、慧音さんから?」
「聞いてるわよ。昨日の夜、会議が終わってすぐ叩き起こされたんだから」
霊夢は背中の太刀の柄に、そっと手を触れた。泡狐刀『夢現ノ縁』の薄紅の鱗を張った鞘が、雪の白の中で淡く浮いて見える。
「列の最後の一人が下りるまで、私が後ろに付く。――で、何人居るの」
「六十三人です」
「多いわね」
霊夢は集落の家々を見回した。煙を上げている家と、上げていない家とを。
「――それで、まだ九軒も火が点いてる、と」
「えぇ」
「……面倒だけど、仕方ないわね」
霊夢は道祖神の脇の雪の上に腰を下ろし、袖の中で腕を組んだ。
「急かさないわよ。急かせば、余計に足が止まるから。――最後の一軒が火を落とすまで、ここで待ってる」
椛はそれを聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
北の空でまた風が鳴り、ハツシモが低く一度だけ唸った。
~妖怪の山 中腹 駒草集会所~
――駒草集会所の表の戸には、朝から一枚の札が下がっていた。
――『本日より当分の間、賭場閉場。避難の方はこちらへ』
見習いの小梅が書いた字だった。少し右に傾いている。
表の広間では、山童達が卓を壁際へ寄せていた。酒樽を裏へ運び出し、床に茣蓙を敷き詰めていく。囲炉裏には朝から大鍋が二つ掛けられ、味噌の匂いが梁の上まで立ち昇っていた。
厚い暖簾の向こうの板の間も、もう賭場の顔をしていなかった。盆茣蓙は丸めて縄で縛られ、天井から吊るした行灯は全部外されている。代わりに、布団が何枚も積み上げられていた。
――その真ん中に、集会所の主である山如は立っていた。
長い煙管を指に挟み、閉じた扇子で、布団の山を一つずつ指していく。
「小梅。年寄りの布団は奥の壁際だよ。囲炉裏に近すぎると、夜中に喉をやられるからね」
「は、はい!」
「子供のは真ん中。親の布団と並べて敷きな。――はぐれると、夜泣きが止まらないんだ」
小梅は布団を抱えて、板の間を行ったり来たりした。
山如は煙管を口に運びかけて、やめた。代わりに、背に負った煙霞笛『駒草遊戯』の位置を直す。霞龍の紫がかった灰色の皮を張った胴が、肩の上でカタリと鳴った。
「――お早いですねぇ、山如さん」
表の広間の方から、柔らかな声がした。
――受付の『菅牧典』だった。
両腕に、帳面を三冊と硯箱を抱えている。狐色の尻尾が、戸口の暖簾を払って揺れた。
「会所の帳場を、こちらに一つ置かせていただきますよ。龍様の言い付けです」
「好きな所に置きな。――帳場として使うなら、表の広間の入り口が一番いい」
「ふふ。同じことを考えていました」
典は広間の入り口の脇に小さな文机を据えた。帳面を広げ、硯に水を差し、墨を摺り始める。
山如は板の間から下りてきて、典の手元を覗き込んだ。帳面の一冊目には、もう名前がびっしりと並んでいた。
「何だい、それは」
「麓の集落の方々のお名前です。六十三人分」
「……昨日のうちに集めたのかい」
「いえ、ね?世話役の弥平さんが、毎年の冬籠りの前に、集落の名簿を会所へ届けてくださるんですよ。万が一雪で道が塞がれた時に、誰が残っているか分かるように、と」
典は筆を取り、一行目の名の横に小さな枠を書き足した。
「来られた方から、丸を付けていきます。六十三の丸が揃えば――」
「非難は終わり、って訳かい」
「えぇ。そういうことですよぉ」
山如は鼻で笑った。
「几帳面なこった。――尤も、賭場の胴元よりは、よっぽど真っ当な数え方だけどね」
板の間の奥の方で、戸がカラリと開いた。
兎の耳が、薬箱を抱えて顔を出す。――鈴仙が集会所に入ってくる。
「山如さん、二階の奥の部屋、使わせてもらうわ。救護所にするから」
「好きにしな。――火鉢は要るかい」
「二つお願い。それと、湯を沸かせる鍋を一つ」
鈴仙は薬箱を床に下ろし、中から包みを一つずつ取り出していった。毛布、晒、薬包。最後に、布に包んだ平たい石が何枚も出てくる。
「温めた石よ。師匠が持たせてくれたの。――嵐の中から運ばれてくる人は、怪我より先に身体が冷え切っているはずだから、って」
「へぇ。月の薬師様は、石まで処方するのかい」
「石を処方するんじゃなくて、温めるのよ」
鈴仙は真顔で言った。山如は扇子で口元を隠して、喉の奥で笑った。
表の戸が、また開いた。黒い翼が、風を連れて土間に滑り込んでくる。射命丸文は鞄から紙の束を抜き出して、典の文机の上にドサリと置いた。
「号外、五十部です。集会所の壁と、山道の茶屋に貼っておいてくださいな」
「あら、文さん。お代は?」
「会所の買い上げでいいですよ」
「ふふ。龍様に、そうお伝えしておきますねぇ」
典は号外を一枚取って、広間の柱に貼り付けた。『古龍会議、撃退と決す』の大きな見出しが、囲炉裏の火に照らされる。
山如は号外を見上げて、長く煙を吐いた。煙管に、いつの間にか火が入っている。甘い煙草の匂いが、味噌の匂いに混じった。
「……討たずに帰す、か」
「お気に召しませんか、山如さん」
典が筆を止めずに訊いた。
「いや、気に入ってるよ。――賭けにならない勝負は、あたしの好みさ」
山如は煙管の雁首を、囲炉裏の縁でコツンと叩いた。
「龍が帰るのが先か、人が下りるのが先か。そんなもん、賭けちゃいけない。賭けにしたら、負けた方が死ぬからね」
典は顔を上げて、山如を見た。山如は答えを待たずに、板の間の方へ振り返った。
「小梅!布団が一枚足りないよ。二階の泊まり部屋から下ろしてきな!」
「はーい!」
典は小さく笑って、また筆を取った。
文机の上の帳面には、六十三の名が並んでいる。
まだ、丸は一つも付いていなかった。
~妖怪の山 中腹の山道~
――集落の最後の家が火を落としたのは、昼前だった。
源さんの家の老婆は、弥平に号外と依頼票を三度読んでもらってから、ようやく囲炉裏に灰を被せた。それから仏壇の位牌を一つだけ風呂敷に包み、胸に抱いて表に出てきた。
「……龍が帰ったら、また火を熾しに来るでな」
老婆はそれだけ言って、家の戸に心張り棒を掛けた。
六十三人の列は、踏み固めた雪の道をゆっくりと下っていった。
先頭は椛。その後ろに、荷を背負った若い白狼天狗が十人。集落の人々がその後に続き、間に間に、また白狼天狗達が挟まる。足の悪い年寄りは、背負子に括り付けた腰掛けに座らされて、白狼天狗の背に揺られていた。
源さんの家の老婆だけは、ハツシモの背に乗っていた。
背中の荷鞍に毛布を敷き、その上に横座りに。老婆は最初、犬の背になんぞ乗れるかと渋っていた。だが、ハツシモが雪の上に伏せてじっと待っているのを見ると、黙って跨った。
「……お前さん、温かいねぇ」
老婆が、ハツシモの首筋の毛を撫でた。ハツシモは耳を一度だけ寝かせて、それからまた前を向いて歩き出した。
列の一番後ろには、霊夢が付いていた。
背中の太刀に片手を掛けたまま、時々振り返っては北の空を見る。そのたびに、袖の中の札の束を指で確かめていた。
道が杉林に入ると、風が少しだけ弱まった。
苔むした岩の崖を右手に、谷側に杉の根の張り出した道を、列は一列になって進んでいく。荷車がやっと擦れ違えるほどの道幅だった。
椛は先頭を歩きながら、千里を見通す目を時々北へ向けた。
北の峰の肩の暗がりは、朝から動いていない。
――だが、その周りの空気が、少しずつ濁ってきている。
風に、雪とは違う細かな粉が混じり始めていた。椛は手袋の指で、防具の肩に積もったそれを拭った。
赤茶の粉だった。
「……錆だ」
椛は呟いて、哨戒帳に一行書き足した。
――『昼。北風に錆の粉混じる。中腹まで届く』
大きく曲がる角に差し掛かった時だった。
谷側の斜面の、風で捩じ切られた杉の木口の辺りで――雪がザザッと崩れた。
ハツシモの足が止まり、背中の老婆がハツシモの首にしがみついた。
「――止まってください!」
椛は片手を挙げた。列が、前から順にピタリと止まる。
崩れた雪の向こうから、白い影が次々と跳び出してきた。
『ギアノス』――白と淡い水色の鱗に覆われた、細身の鳥竜が数えれば六匹。その後ろから、一回り大きな影が一つ――『ドスギアノス』。群れの頭が姿を現す。
六匹のギアノスは、道の上に横一列に散らばった。首を低く下げ、口の端から白い息を吐いている。ドスギアノスだけが、杉の根の上に立って、列の方を見下ろしていた。
列の真ん中で、誰かが小さく悲鳴を上げた。
「動かないでください!――声も出さないで!」
椛は腰の『千里白狼』を抜いた。
片手剣の刃と、盾。盾の縁の雷狼竜の角が、雪明かりを受けて青く光る。
椛はギアノス達の眼を見た。
――腹を空かせた眼ではない。怯えている。北から、押し出されてきた者の眼だ。
「……天狗の里に下りてきた群れと、同じですね」
椛は低く呟いた。
ドスギアノスが、首を反らせて甲高く鳴いた。
それを合図に、ギアノスの一匹が跳んだ。
列の方へではなかった。荷を背負った白狼天狗の背の、干し肉の包みへ。
「――させません!」
椛は雪を蹴った。
〈ギャンッ!?〉
盾を前に突き出し、跳びかかったギアノスの横腹に、盾の縁を叩き付ける。ガツンと鈍い音がして、ギアノスが雪の上に転がった。
二匹目が、口を開いた。
冷たい液が、椛の盾に吐き掛けられる。盾の表が、見る見るうちに白く凍り付いていった。
椛は凍った盾を構えたまま、横へ一歩踏み出した。三匹目の顎の下に、刃の背を滑り込ませて払う。ギアノスが悲鳴を上げて跳び退いた。
だが、倒しはしない。
椛の狙いは、群れの真ん中ではなかった。群れの西側。杉林が切れて、沢筋へ下りる斜面の方。
「――そっちへ、行ってください!」
椛は盾を叩いて、ギアノス達を西へ押しやった。刃で払い、盾で押し、雪を蹴り上げて道を塞ぐ。東の、列の方へは一匹も行かせない。
ドスギアノスが、杉の根から跳び下りた。
大きな顎が、椛の頭上から落ちてくる。
椛は凍った盾を頭上に掲げた。ドスギアノスの牙が盾の縁に噛み付き、凍った表面がバキリと割れる。重い。腕が軋んだ。
「……邪魔を、しないでッ!」
椛は盾ごと、ドスギアノスの顎を横へ捻った。
盾の縁の雷狼竜の角が、ドスギアノスの口の端を擦る。バチリと青い火花が散った。ドスギアノスが首を振って飛び退く。
その時――列の一番後ろで、雪が爆ぜた。
崖の上から、もう一匹のギアノスが跳び下りてきていた。列の最後尾、子供を背負った母親の真上へ。
「――っ!」
椛が振り返るより早く、薄紅の光が走った。
――霊夢だった。
背中の太刀が、鞘から一息に抜き放たれる。弧を描いた刃が、跳び下りてきたギアノスの脚を払った。ギアノスは空中で体勢を崩し、雪の上に叩き付けられる。
霊夢は太刀を構え直さず、そのまま母親の前に立った。
「――殿は、後ろから来るものも見るのよ」
〈ギャアッ……!〉
ギアノスは起き上がって、霊夢を見上げた。
霊夢は一歩も動かなかった。ただ、太刀の切っ先を、西の斜面の方へゆっくりと向けた。
「ほら、あっちよ」
〈……ギャッ!〉
ギアノスは一度だけ鳴いて、西の斜面へ跳んでいった。
ドスギアノスが、もう一度甲高く鳴いた。
六匹のギアノスが、一斉に頭を巡らせる。群れの頭が西の斜面を跳び下りていくと、ギアノス達もそれに続いた。一匹、また一匹と、杉林の向こうの沢筋へ姿を消していく。
最後の一匹が見えなくなるまで、椛は盾を下ろさなかった。
風が、杉の梢を鳴らす。
椛はようやく息を吐いた。盾の表の氷が、割れ目から細かく剥がれ落ちていく。
「……隊長、怪我は」
白狼天狗の一人が、恐る恐る訊いた。
「ありません。――干し肉は」
「無事です!」
「なら、いいです」
椛は刃を鞘に戻し、列を振り返った。
六十三人の顔が、全部こちらを見ていた。
誰も泣いていなかった。ハツシモの背の婆さまが、位牌の包みを抱いたまま、じっと椛を見ている。
「――進みます。集会所まで、あと半刻です」
列が、また動き出した。
霊夢が最後尾に戻りながら、椛の横を通り過ぎざまに言った。
「……追い払っただけで、よかったの?」
「えぇ」
椛は西の沢筋の方を見た。
「あの群れも、北から押し出されてきただけです。――下ろすのは、人だけではありませんから」
霊夢は少しだけ目を丸くして、それから小さく肩を竦めた。
「……真面目ねぇ、本当」
椛は答えずに、列の先頭へ戻っていった。
~妖怪の山 中腹 駒草集会所~
――列の先頭が集会所の表の戸を潜ったのは、八つ時を少し過ぎた頃だった。
広間の囲炉裏の大鍋から、味噌の湯気が上がっている。土間に入った途端、集落の人々の顔が一斉に緩んだ。凍えた頬に、湯気の温もりが当たる。
入り口の脇の文机で、典が筆を構えていた。
「はい、次の方どうぞ。――お名前をお願いしますねぇ」
一人ずつ名を告げ、典が帳面の名の横に丸を付けていく。丸を付けられた者から、小梅が板の間の布団へ案内した。
「弥平さん。――ふふ、お疲れ様でした」
「おう。狐の姐さんも、ご苦労さんだね」
弥平は丸の付いた自分の名を覗き込んで、ほっとしたように笑った。
ハツシモが土間に伏せると、背中の老婆を鈴仙が抱き下ろした。
「冷えてるわね。――二階へ。温めた石があるわ」
「わしは平気だよぉ。この犬っころが、ずっと温かかったでな」
老婆はハツシモの頭を二度撫でてから、鈴仙に手を引かれて階段を上がっていった。ハツシモは目を細めて、その背中を見送った。
広間はたちまち人で埋まった。
子供が泣き出し、年寄りが咳き込み、荷を解く音があちこちで上がる。誰かが家に置いてきた漬物の甕の話を始め、誰かが畑の大根の話で返す。声が重なり合い、広間の梁がビリビリと鳴った。
「――騒がしいねぇ」
板の間の上がり框に、山如が腰を下ろしていた。
長い煙管をゆっくりと口に運び、細く長く、煙を吐き出す。
薄紫の、糸のように細い煙だった。囲炉裏の湯気に混じって、広間の天井を這うように広がっていく。
泣いていた子供の声が、少しずつ小さくなった。漬物の甕の話をしていた男が、ふと口を閉じて、大鍋の方を見る。
「腹が減ってる時に大声を出すと、余計に腹が減るよ。――味噌汁はたんとある。並びな」
山如の声は大きくなかった。
だが広間の人々は、一人また一人と、大鍋の前に並び始めた。
椛は土間の隅で、その様子を見ていた。
煙の匂いは甘い。だが、頭がぼうっとするような感じはしなかった。ただ、張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜けていく。
「……人の心を操る煙だと、聞いていましたが」
椛が小さく言うと、山如は煙管を下ろして鼻で笑った。
「いや、操っちゃいないさ。熱を少し冷ましただけだよ。――並ぶかどうかは、各々で決めさせる。そこまで煙で決めたら、ここはもう集会所じゃない。あたしの庭だ」
その時、典の文机の方で、筆の音が止まった。
椛は振り返った。典が帳面を見下ろしていた。髪の間から覗いた片目が、笑っていない。
「――椛さん」
典は筆を置かずに言った。
「丸が、一つ足りませんねぇ」
椛は文机へ歩み寄った。
帳面の名の横に、丸がずらりと並んでいる。一つずつ、指で数えた。
――六十二。空いている枠が、一つだけあった。
――『平太 十一』
「……平太」
椛は列の後ろの方を振り返った。
広間の真ん中で、一人の女が立ち上がった。手に持っていた椀を、床に落としている。
「――平太?平太は、どこ?」
女は布団の間を見回した。子供達の顔を一つずつ覗き込み、それから表の戸の方へ駆け出そうとした。
「待て、おしのさん!」
弥平がおしのの腕を掴んだ。
「平太は、あんたの父っつぁんと一緒じゃなかったのか!?」
「お父っつぁんは、私と一緒だと思ってたって!私は、お父っつぁんと一緒だと――!」
おしのの声が、広間の梁に跳ね返った。
薄紫の煙が、また少し濃くなった。だが、おしのの声は止まなかった。山如は煙管を口から離して、静かに煙を吐き切った。それ以上、煙を足そうとはしなかった。
「……山如さん」
典が小さく呼んだ。
「いや、これ以上は足さないよ」
山如は首を振った。
「子を探しに行こうとする親を、煙で座らせる。――そいつは、あたしのやることじゃない」
椛は、もう帳面から目を離していた。
集落を出る時、弥平は家ごとに人を数えた。各家の主が『揃った』と言えば、それで丸だった。おしのの家は、父と娘と孫の三人。父は孫が娘と一緒だと思い、娘は孫が父と一緒だと思っていた。
家ごとに数えれば、揃っていた。名で数えて――初めて一つ足りなかった。
「――おしのさん。平太くんが、最後に何をしていたか分かりますか」
椛が訊いた。
おしのは弥平に腕を掴まれたまま、椛を見た。泣き腫らした目だった。
「……猫。うちの猫が、荷造りの時に納屋へ逃げ込んで。平太が、ずっと探してて。――でも、もう出る時だからって、私、『置いていきなさい』って……」
おしのの言葉が、そこで途切れた。
椛は土間を出て、表の戸の前に立った。
千里を見通す目を、北へ向けた。
杉林の向こう。中腹の山道。踏み固めた雪の道。道祖神。その奥の、火の消えた十七軒の家。
――居た。
集落の一番奥の家の、納屋の陰。小さな影が一つ、雪の上にしゃがみ込んでいる。腕の中に、何か黒いものを抱いていた。
そして――その上の空。
椛は息を呑んだ。
北の峰の肩の暗がりが、岩棚を離れていた。
ゆっくりと、だが確かに、南へ。麓の集落の真上へ向かって、暗がりが下りてきている。暗がりの縁が触れた所から、杉の梢が一斉に南へ撓んでいた。
「――居ました。集落の一番奥の家の、納屋です。猫を抱いています」
椛は振り返らずに言った。
「それと――鋼龍が岩棚を離れました。集落の上へ下りてきています」
広間が、しんと静まった。
薄紫の煙だけが、梁の下をゆっくりと流れていく。
「――私が行きます」
椛は腰の『千里白狼』の柄を握った。土間に伏せていたハツシモが、もう立ち上がっている。
「ハツシモの鼻なら、吹雪の中でも辿れます。――それに、あの子の匂いを、この子は知っていますから」
おしのが、ハッとして椛を見た。
「……三年前の春。アオアシラの所から、平太を背負って連れ帰ってくれた、白い犬――」
ハツシモが、低く一度だけ鳴いた。
「――殿は、私よ」
表の戸の脇の柱に、霊夢が凭れていた。
背中の太刀の鞘を、指で軽く叩く。
「列の最後の一人が下りるまで、って言われてるの。――まだ、一人下りてないじゃない」
「霊夢さん。嵐の縁の中は、天狗も飛べません」
「飛ばないわよ。歩くの」
霊夢は柱から背を離した。
典が、文机の上の帳面を閉じた。空いた一つの枠を、指でそっと押さえる。
「この丸は、お二人にお預けしますよぉ。――夕刻までに、必ず付けさせてくださいね」
口元だけが、いつものように柔らかかったが、覗いた片目は笑っていなかった。
山如が上がり框から立ち上がった。背に負った煙霞笛を下ろし、胴の紐を解く。
「――戻ってきた時に、その子が眠りこけてたら、あたしが叩き起こしてやる。冷えて寝た子は、そのまま起きないことがあるからね」
山如は煙管に、新しい葉を詰め直した。
「だから、生きて連れて戻りな。――分かってるね」
「はい」
椛は短く答えて、表の戸を開けた。
外の風は、もう北からだけ吹いていた。
~妖怪の山 北の峰の麓の集落~
――道祖神まで戻った時、集落はもう嵐の縁の中にあった。
朝に踏み固めた雪の道が、吹き寄せる雪に半分埋まりかけている。風は北から真っ直ぐに吹き下ろし、杉の梢を南へ押し倒すように撓ませていた。雪に混じって、赤茶の粉が横殴りに顔を打つ。
椛は防具の襟を口元まで引き上げた。
隣で、霊夢が片手で目の上に庇を作っている。
「……これが、嵐の縁ってやつ?」
「いえ。まだ縁の、そのまた縁です」
「冗談じゃないわね、本当」
霊夢は吐き捨てたが、足は止めなかった。
ハツシモが、雪に鼻を押し付けていた。白い毛並みが、風に逆立って灰色の差し毛を覗かせている。鼻先が雪の上を三度往復し、それから集落の奥へ真っ直ぐに向いた。
「――ハツシモ。行きますよ」
〈……ワウ〉
ハツシモは低く一度だけ鳴いて、雪を蹴った。
椛と霊夢はその後を追った。火の消えた家々の間を抜けていく。戸口に心張り棒を掛けた家。軒先に置き去りにされた臼と杵。風に煽られて、どこかの家の戸がガタガタと鳴っている。
十七軒の家は、どれも空だった。――一軒を除いて。
集落の一番奥の家の、納屋の陰。
積み上げた薪の山と納屋の板壁の間に、小さな男の子が蹲っていた。綿入れの胸元に、黒い猫を抱え込んでいる。猫は男の子の顎の下に頭を突っ込んで、ブルブルと震えていた。
ハツシモが、男の子の前で足を止め、男の子が顔を上げた。頬が真っ赤に霜焼けて、睫毛に雪が凍り付いている。その目が、ハツシモを見て丸くなった。
「……白い、犬」
「――平太くんですね」
椛は膝をついて、男の子と目の高さを合わせた。
「お母さんが待っています。――下りますよ」
「……クロが、出てこなかったんだ」
平太は猫を抱く腕に力を込めた。
「納屋の梁の上に隠れて、呼んでも、呼んでも出てこなくて。母ちゃんは置いていけって言ったけど、クロ、一人じゃ冬を越せないから……」
「分かっています。クロも一緒です」
椛は平太の綿入れの襟を合わせ直した。指先が触れた頬が、氷のように冷たい。
その時、ハツシモの耳が、ピンと後ろへ倒れた。
霊夢が空を見上げた。
「――来たわよ」
頭の上の空が、暗くなった。
雲ではなかった。風が渦を巻き、雪と赤茶の粉を巻き上げて、空の一角を塗り潰していく。その渦の真ん中から、巨大な影がゆっくりと下りてきた。
――鋼龍だった。
翼を広げれば、集落の家三軒を覆うほどもある。本来なら鈍い鋼色に光るはずの鱗が、全身くまなく赤茶に錆びていた。背と脇腹の鱗は浮き上がり、ところどころ剥がれかけて、風にカラカラと鳴っている。首の付け根の辺りでは、錆の剥げた下から、新しい鱗の灰色がわずかに覗いていた。
鋼龍の周りの風は、渦を巻いていた。だが、渦の形が歪んでいる。右の翼の側だけ風が薄く、左の翼の側では暴れるように乱れていた。
――あれが、錆びた風の鎧。
椛は息を殺した。
鋼龍は、集落の真上で翼を緩めた。
長い首を下げ、家々の屋根を一軒ずつ見下ろしていく。鼻先が屋根に近付くたびに、雪が吹き飛ばされて藁屋根が剥き出しになった。
――確かめている。
文の号外に、そう書いてあった。脱ぐ場所の周りに、まだ何か居るか。それを確かめているのかもしれない――と。
「……椛」
霊夢が囁いた。
「あいつ、こっちへ来るわよ」
鋼龍の首が、集落の奥へ向いた。――この家の方へ。
椛は平太とクロを、ハツシモの背の荷鞍に押し上げた。
「平太くん。この子の首に、しっかり掴まっていてください。何があっても、声を出さないで」
平太は唇を噛んで頷いた。
ハツシモが、首から下げた小さな筒を、前脚で器用に引き出した。中から巻物を一本咥え出し、雪の上で広げる。
[隠れ身の巻物]からツンと青臭い匂いが立ち上った。匂いはハツシモの白い毛並みに染み込み、背中の平太とクロを包み込んでいく。それと一緒に、ハツシモの気配が、雪景色の中へスッと溶けていった。目の前に居るのに、居ないように。
椛は霊夢と、納屋の板壁の陰に身を伏せた。
鋼龍の首が、納屋の真上に下りてきた。
錆の匂いが鼻を突く。鉄を舐めたような、古い血のような匂い。鋼龍の鼻先が、薪の山のすぐ上で止まった。
ハツシモは動かなかった。背中の平太も、クロもじっとしている。
鋼龍の眼が、薪の山の前を通り過ぎていった。
ハツシモの上を。平太の上を。何も居ない雪の上を見るように。
それから、鋼龍の首がゆっくりと持ち上がった。
――通り過ぎた。
椛がそう思った時、鋼龍が首を大きく反らせた。喉の奥で、風が渦を巻く音がした。
「――伏せて!」
椛は盾を掲げて、霊夢の頭を押さえ付けた。
鋼龍の口から、渦を巻く風の塊が吐き出された。椛達の頭上を越えて、隣の家の屋根へ。
藁屋根が、一息に吹き飛んだ。梁が折れる音と共に藁と雪と錆の粉が、渦になって空へ巻き上がる。椛の盾に、飛んできた藁屋根の欠片がバラバラと当たった。
鋼龍は、吹き飛んだ屋根の下の空っぽの家を見下ろしていた。
しばらく、そのまま。
それから、鋼龍は低く唸った。苛立ちとも、安堵ともつかない声だった。
翼が大きく打ち下ろされる。鋼龍の巨体が、集落の真ん中の広場へ下りていった。雪煙が上がり、地面がズシンと揺れる。霊夢が、椛の手を頭から払いのけた。
「……今の、わざとじゃないわよね」
「空の家を、確かめただけだと思います」
椛は盾を下ろした。凍った表に、細かな傷が幾筋も増えている。
「――今の内に下ります。ハツシモ」
ハツシモが、音もなく立ち上がった。
背中の平太が、ハツシモの首にしがみついたまま、椛を見た。目に涙が溜まっていたが、声は出していなかった。
「よく我慢しましたね」
椛は平太の頭に、手袋の手を一度だけ置いた。
三人と白い犬と黒い猫は、家々の陰を縫って道祖神の方へ戻っていった。
背後で、鋼龍が翼を畳む音がした。
~妖怪の山 中腹 駒草集会所~
――集会所の表の戸が開いたのは、日が西の尾根に沈みかけた頃だった。
吹き込んだ風と一緒に、雪まみれのハツシモが土間に入ってくる。その背中で、平太がぐったりと首を垂れていた。腕の中の黒い猫だけが、目を真ん丸にして広間を見回している。
「――平太!」
おしのが、布団の間から転がるように駆けてきた。
平太の身体をハツシモの背から抱き下ろし、胸に掻き抱く。だが、平太は母親の腕の中で目を閉じたまま、小さく唸っただけだった。
「平太?平太、起きて!」
「冷え切ってるわね」
鈴仙が階段を駆け下りてきた。平太の首筋に指を当て、瞼を指で開いて覗き込む。
「脈はある。でも、眠りに落ちかけてるわ。――このまま寝かせたら、まずい」
「――ほら、ちょいとどきな」
山如が、板の間の上がり框から下りてきた。
煙管を深く吸い込み、平太の顔のすぐ上で、ゆっくりと吐き出す。
朱の混じった、濃い紫の煙だった。
煙は平太の顔の周りに纏わり付き、鼻と口から吸い込まれていく。
山如は煙管を帯に差し、背の煙霞笛を下ろした。霞龍の皮を張った胴を脇に抱え、煙管の雁首のように曲がった吹き口に、口を当てる。
高く、短い音が二つ。
続けて、腹の底を揺らす低い音が一つ。眠りの底に落ちかけたものを、引き上げるような旋律だった。
平太の瞼が、ピクリと動いた。それから、ゆっくりと開いた。
「……母ちゃん?」
おしのが、声を上げて泣き出した。
平太は母親の腕の中で、ぼんやりと周りを見回した。それから、自分の腕の中の猫に気付いて、ほっとしたように笑った。
「……クロ、連れてきたよ」
「馬鹿!この、馬鹿……!」
おしのは平太の頭を抱えて、肩を震わせた。
鈴仙が温めた石を布に包んで、平太の綿入れの中に押し込んだ。
「二階へ。湯を沸かしてあるわ。――手足の霜焼けも診るから」
おしのは平太を抱いたまま、鈴仙に付いて階段を上がっていった。黒い猫が、平太の肩越しに広間を振り返っていた。
山如は笛を肩に戻し、煙管に火を入れ直した。
「……猫は、二階に上げちゃいけなかったかね」
「賭場は閉めてるんでしょう、山如さん」
典が、文机の前から言った。
「なら、ここは今は避難所です。――避難の方に、名簿に載っていない方が一匹居ても、誰も困りませんよぉ」
「はっ、言うじゃないか」
山如は鼻で笑って、長く煙を吐いた。今度はただの、甘い煙草の煙だった。
典は帳面を開き、空いていた最後の枠に、筆を下ろした。
――丸を一つ。それから、帳面の末尾に、細い字で書き付けていく。
――『避難、六十三名。全員、中腹駒草集会所に収容。救護一名、平太(十一)、冷えにより眠りかけるも、駒草の笛にて覚める』
典は筆を止めた。
少しだけ考えて、もう一行加える。
――『ほか、黒猫一匹』
椛は土間の隅で、ハツシモの毛に絡まった雪を手で払っていた。
ハツシモは目を細めて、されるままになっている。背中の荷鞍に、平太の綿入れの糸くずが一本だけ引っ掛かっていた。
「……よくやりました、ハツシモ」
ハツシモは、尻尾を一度だけ振った。
霊夢が表の戸の脇の柱に凭れて、手を擦り合わせていた。
「――殿、終わり、ね」
「えぇ。最後の一人まで、下りました」
「手が冷たいったらないわ」
霊夢は袖の中に手を引っ込めた。それから、横目で椛を見た。
「でも、まだ終わりじゃないんでしょ」
椛は答えなかった。土間を出て、表の戸の前に立つ。
外はもう暗かった。風は少し弱まっていたが、北からの冷たさは変わらない。
千里を見通す目を、北へ向けた。
杉林の向こう。中腹の山道。踏み固めた雪の道。道祖神。
――麓の集落には、灯りが一つもなかった。
十七軒の家は、どれも黒く沈んでいる。屋根を吹き飛ばされた一軒だけが、雪明かりの中に梁を剥き出しにしていた。
その真ん中の広場に、錆の色の影が蹲っていた。
翼を畳み、長い首を胴に巻き付けて。北の峰の肩の岩棚で、昨夜までそうしていたのと同じ姿で。
椛は、ゆっくりと北の峰を見上げた。
岩棚の上の空は、もう暗がりではなかった。星が、幾つも光っている。
――岩棚には、もう居ない。
椛は哨戒帳を開き、震える指で書き付けた。
――『日の入り。鋼龍、麓の集落の広場に伏す。岩棚に戻らず。集落、無人』
書き終えて、椛は哨戒帳を閉じた。その背後で、典が静かに立ち上がる気配がした。
「……龍様と神奈子様に、すぐお伝えしなければいけませんね」
「はい」
「文さんを呼びましょう。あの方なら、夜の空も飛べますから」
典の声は、いつもの甘さを残していなかった。
「――呼ぶまでもないわよ」
軒の上から、声が降ってきた。
黒い翼を畳んだまま、射命丸文が軒先から逆さに顔を覗かせていた。号外の束はもう鞄に残っていない。代わりに、手帳が一冊、指に挟まっている。
「文さん。……いつから、そこに」
「平太くんが帰ってきた辺りから。――見てたわよ。千里眼の顔」
文は軒から飛び降りて、椛の隣に立った。北の空を一度だけ見上げ、それから手帳を閉じた。
「集落の広場、ね」
「はい。岩棚には、戻っていません」
「……守矢と天狗の里へ、今夜のうちに。号外は書かないわ。見たものしか運ばないのが、伝令だもの」
文は翼を広げかけて、椛を振り返った。
「よく下ろしたわね、椛。六十三人」
「――六十三人と、一匹です」
文は目を瞬かせて、それから小さく吹き出した。
「あやや。それは、書けないのが惜しいわね」
黒い翼が夜の空へ消えていった。
椛は振り返った。
集会所の広間には、行灯の灯りが幾つも点っていた。布団の上で年寄りが寝息を立て、子供達が味噌汁の椀を抱えて笑っている。二階の窓から、鈴仙の点けた灯りが一つ、漏れていた。
灯りを数えれば、ここに六十三人が居る。
椛はもう一度北を見た。
――灯りの消えた集落の真ん中で、錆びた龍が、静かに眠っていた。