東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~   作:幻想入りしたガンサー

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第二十二話:錆びた暴風-前編

~妖怪の山 守矢神社 境内~

 

――守矢神社の境内には、夜明け前から篝火が焚かれていた。

 早苗は、拝殿の階の下で両手に息を吹き掛けた。

 境内の隅々に、筵と毛布が敷かれている。社務所の土間にも、神楽殿の板の間にも、人が横になっていた。麓の集落の年寄りのうち、駒草集会所の階段を上がれない者を、昨夜のうちに白狼天狗達がここまで運び上げてきた。十一人。その枕元を、洩矢諏訪子が一人ずつ見て回っている。

 

「……早苗」

 

 足元で、小さな声が聞こえた。オトモのソヨが、法螺貝を腰に揺らして早苗を見上げていた。銀灰の毛並みが、篝火の明かりで赤く染まっている。

 

「眠れなかったニャ?」

「……少しだけ。ソヨは?」

「ボクは寝たニャ。早苗が起きたなら、ボクも起きるニャ」

 

 早苗は小さく笑って、ソヨの頭を撫でた。

 その時、境内の上空で風が鳴った。

 黒い翼――文が、篝火の炎を揺らして石畳に降りてくる。

 

「――夜分に失礼します。伝令です」

 

 文は息を整える間もなく、拝殿の方へ向き直った。

 拝殿の扉が開き、神奈子が背に八坂御柱(得物)を負って階を下りてくる。その後ろから、包帯の右腕に白銀の盾を括り付けた茨木華扇が続く。昨夜から、華扇は神社に泊まっていたのである。

 

「――聞こう」

 

 神奈子が短く答えて促す。

 

「麓の集落の六十三人、全員が『駒草集会所』に下りました。一人、平太という子が猫を探して残っていましたが、椛と霊夢さんとハツシモが連れ戻しています。――それと」

 

 文の声が、一段低くなった。

 

「鋼龍が岩棚を離れました。日の入りに、麓の集落の広場に伏しています。一軒の屋根が、風で吹き飛ばされました。椛が千里眼で見て、哨戒帳に書いています。私も、この目で見てきました」

 

 境内が静まった。篝火の爆ぜる音だけが、パチリと鳴る。

 

「……岩棚では、ないのだな」

「はい。集落の真ん中です」

 

 神奈子は腕を組んだ。そのまま、華扇の方を見る。

 

「茨華仙。――お前の見立てでは、人が居なくなれば脱ぐはずだった。集落は空になった。ならば……あの龍はそこで脱ぐのではないのか」

 

 華扇はすぐには答えなかった。盾の白銀の面に、篝火の炎が映っている。

 華扇はその炎を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

 

「――いいえ。あそこでは、脱げません」

 

 早苗は思わず華扇を見た。

 

「集落は、空になりました。でも、あの龍が周りに居ないかを確かめる範囲は、集落だけではない」

 

 華扇は南の空を指差した。――中腹の方角だ。

 

「岩棚の上なら、周りは雪と岩だけです。でも集落の広場からなら、中腹の集会所は風の届く所にあります。六十三人と、白狼天狗が三十人。――それに、ここ。守矢の境内の十一人も」

「……こちらが見えている、と」

「えぇ。人の居る匂いも、火の煙も。風を操るあの龍には分かるはずです」

 

 華扇の声は柔らかかった。だが、言葉は硬い。

 

「だから、あの龍は脱げない。脱げないまま、苛立って、周りを空けようとする。――天狗の里に下りてきたギアノスの群れを、岩棚の周りから追い払ったように」

「会所の皆さんを、追い払いに来るということですか!?」

 

 早苗の声が、思ったより大きく境内に響いた。社務所の土間で、誰かが寝返りを打った。

 華扇は早苗を見て、静かに頷く。

 

「放っておけば、そうなるでしょう。――だから、岩棚へ帰すんです。あそこなら、周りに何も居ない。あそこでなら、脱げる」

 

 神奈子が腕を解いた。

 

「依頼票の通りというわけだ。――北の岩棚へ押し返す」

「えぇ」

「ならば、話は早い」

 

 神奈子は境内を見回した。篝火の向こうで、諏訪子が一人の老人の毛布を掛け直しているのが見えた。

 

「――諏訪子」

「聞こえてたよ」

 

 諏訪子は毛布の端を整えながら、振り返りもせずに言った。

 

「ここは私が見てる。十一人と、それから境内の木の上の鳥共もね。――行ってきな、神奈子。早苗とソヨも一緒だよ」

「はい!」

 

 早苗は背筋を伸ばした。

 拝殿の脇の柱に、早苗の操虫棍が立て掛けてある。嵐龍棍『奇跡ノ天風』の白銀に淡い金の筋を走らせた先端で、猟虫が羽を畳んでじっとしていた。

 文が手帳を開く。

 

「――段取りを、確かめさせてください。人里の慧音さんの依頼票では、クシャルダオラと相対して押し返す者は神奈子様、早苗さん、華扇さん。紅魔館から咲夜さんと美鈴さん。それと比那名居天子さん」

「比那名居には、昨夜のうちに使いを出した」

 

 神奈子が補足する。

 

「麓の集落の南の外れで落ち合う。紅魔館の二人もだ。――夜通し、山を登ってくるはずだ」

「それと、椛です」

 

 文が手帳から顔を上げた。

 

「哨戒は嵐の縁の外。でも、[閃光玉]を投げる腕なら、椛が一番です。集落の裏の尾根から、鋼龍を見張らせてください。――龍様の許しは、もう頂いてきました」

 

 神奈子は文を見て、口の端を僅かに上げた。

 

「手回しが良いな」

「最速の伝令ですから」

 

 文はそれだけ言って、手帳を閉じた。華扇が、盾の縁の茨の文様を指でなぞる。

 

「――一つだけ、皆に言っておかねばならないことがあります」

 

 神奈子も文も早苗も、華扇を見る。

 

「あの龍の角は、折らないでください」

「角を、ですか?」

 

 早苗が訊いた。

 

「鋼龍の角は、纏う風を操るためのもの。折れば風は弱まって、押し返すのは楽になるでしょう。――でも、角の折れた鋼龍は、もう上手く風に乗れない。岩棚へ帰っても、その先の空を渡れなくなる」

 

 華扇は盾から指を離した。

 

「帰(・)る(・)先(・)が(・)あ(・)る(・)龍(・)です。――帰り道まで奪っては、意味がないわ」

 

 神奈子は少しの間、黙っていた。それから、背の八坂御柱(得物)に手を掛けた。

 

「――角は狙わん。狙うのは、風だ」

 

 東の空の端が、ほんの僅かに白み始めていた。

 北の峰の方角だけが、まだ夜より暗かった。

 


~妖怪の山 北の峰の麓の集落 南の外れ~

 

――道祖神の前に着いた時、空はもう白んでいた。

 だが、北だけは暗い。集落の上の空で、灰色の雲が渦を巻いている。渦の縁は道祖神のすぐ先まで垂れ下がり、そこから先の雪が、絶えず横殴りに吹き流されていた。風の音が、遠い滝のように低く唸り続けている。

 早苗は、渦の縁から十歩ほど手前で足を止めた。

 頬に当たる風が、既に痛い。雪に混じる赤茶の粉が目に入りそうになる。

 

「……あれが、嵐の縁」

「縁のそのまた縁だ、と椛は言っていたそうだがな」

 

 神奈子が、背の御柱を下ろしながら言った。風神銃槍『八坂御柱』の砲身を雪の上に立て、北の暗がりを見上げる。

 華扇は神奈子の隣で、盾の革紐を締め直している。鋼龍剣盾『風導』の白銀の面に、灰色の雲が映り込んでいた。

 ソヨが、早苗の脚にしがみつく。

 

「早苗……風が重いニャ」

「ソヨは私の後ろ。前に出ちゃ駄目よ」

「分かってるニャ。――でも、早苗も無茶しちゃ駄目ニャ」

 

 早苗は答える代わりに、ソヨの頭を一度だけ撫でた。

 その時、南の山道の方から、重い足音が近付いてきた。

 雪を踏む音と、金属の擦れる音。それに混じって、太く短い犬の声が一つ。

 早苗が振り返ると、杉林の間から、虎毛の大きなガルクが姿を現した。背中に、鉄を幾重にも重ねた傘を括り付けている。――美鈴のオトモ『番太』だ。その背から、一人の少女が身軽に飛び降りた。

 

――『紅魔館』の門番『紅美鈴』だった。

 美鈴の右手には、大きな槍が担がれていた。棘門槍『彩華守』の、棘竜の緑の甲殻を重ねた長い穂先に赤い棘が逆さに並んでいる。左腕には、その槍と同じ素材の大きな盾を持っている。

 

「お待たせしました!『紅魔館』より美鈴と番太、ただいま到着しました!」

 

 美鈴の声は、風の音に負けないくらいよく通った。その後ろから、もう一人が音もなく現れた。

 

――『紅魔館』のメイド長『十六夜咲夜』だった。

 腰の両脇に、二振りの短い刃を帯びている。月凍双刃『銀時計』の刃が風で揺れる。咲夜は神奈子の前で静かに一礼した。

 

「八坂様。猟団"紅魔館"より、十六夜咲夜と紅美鈴、到着いたしました。――お嬢様より、言伝を一つ預かっております」

「聞こう」

「『出すものは出したわ。後は、そちらの風次第』――とのことです」

 

 神奈子は僅かに目を細めた。

 

「……吸血鬼に、風を試されるとはな」

「お嬢様は、試してなどいらっしゃいません。――信じていらっしゃるのだと、私は思います」

 

 咲夜はそれだけ言って、一歩下がった。

 美鈴が、北の暗がりを見上げていた。

 さっきまでの明るい顔が、もうどこにもない。目を細め、風の流れを肌で確かめるように、じっと立っている。

 

「……すごい気ですね」

 

 美鈴が、誰にともなく言った。

 

「疲れてるのに、全然弱ってない。――いえ、弱ってるからこそ、全部の力を風に回してる、って感じです」

「分かるの?美鈴」

 

 咲夜が訊いた。

 

「はい。門の前で、何度も感じたことがありますから。――追い詰められたモンスターの気です」

 

 番太が、美鈴の足元で低く唸った。くるりと巻いた尾が、ピンと伸びている。その時、頭の上から声が降ってきた。

 

「――遅いわよ、あんた達」

 

 早苗は空を見上げた。

 道祖神の後ろの杉の木の、一番高い枝。そこに、一人の少女が片足を掛けて立っていた。背中で、赤熱した顎のような刃を持つ大剣――鋼鎚大剣『気炎万丈』の刃が煌めく。

 

――不良天人『比那名居天子』だ。

 

「夜中から待ってたのよ。天人を待たせるなんて、いい度胸じゃないの」

「比那名居」

 

 神奈子が、木の上を見上げた。

 

「降りてこい。――要石の話は、聞いているな」

 

 天子の顔がムッと歪んだ。

 

「えぇ、聞いてるわよ。使うなって言うんでしょう。……分かってるわよ。大剣だけで十分なんだから」

 

 天子は枝から飛び降りた。

 雪の上に、ズシンと重い音を立てて着地する。大剣の重さも加わって足元の雪が膝まで沈む。

 

「約束したでしょう、神奈子。――会議で決まったら、前に立たせてくれるって」

「あぁ。――約束は守る」

 

 神奈子は御柱を担ぎ直した。

 

「だから、前に立て。――ただし、私の盾の後ろからだ」

「……ふん」

 

 天子は帽子の鍔を下げて、そっぽを向いた。だが、それ以上は言い返さなかった。

 神奈子は、御柱の砲身を雪から抜いた。

 

「――段取りを伝える」

 

 短い声だった。だが、風の音の中でもはっきりと届く。

 

「前は紅美鈴と番太。私はその左に付く。茨華仙は適時こちらをサポートせよ。十六夜咲夜は壁の後ろから、隙を狙え。比那名居は、風が薄くなった時だけ前へ出ろ。――早苗」

「は、はい!」

「お前は猟虫で、龍の身体を見ろ。どこが弱り、どこがまだ生きているか。見たものは、全部声に出せ」

「はい!」

 

 早苗は返事をしてから、自分の声が少しだけ上擦っていたことに気付いた。

 操虫棍を握る手のひらが、手袋の中で湿っている。美鈴が、早苗の方を振り返った。

 

「大丈夫ですよ、早苗さん」

 

 美鈴は、盾の縁を軽く叩いた。

 

「前には、私と番太が居ますから。――後ろの人は、前の人を信じて、自分の仕事だけしてくれればいいんです」

〈ワウッ〉

 

 番太が短く一度だけ吠えた。

 

「……はい」

 

 早苗は、今度は落ち着いた声で答えた。

 

――これで、揃った。

 神奈子、華扇、早苗とソヨ、咲夜、美鈴と番太、天子。

 早苗は集落の裏の尾根を見上げた。尾根の上の岩陰に、白い影が二つ見えた。白狼天狗と白いガルク――椛とハツシモだった。椛は片手を挙げて、それから北を指差した。

 

――集落の真ん中。

 

 広場の方角から――ゆっくりと、何か大きなものが身を起こす気配がした。

 


~妖怪の山 北の峰の麓の集落 広場~

 

――鋼龍は、集落の広場の真ん中で首をもたげていた。

 早苗達が嵐の縁を越えたのと、同じ時だった。

 家々の間を抜けた途端、風の重さが変わった。押されるのではない。横から殴られるような風だった。早苗は思わず片膝をつき、操虫棍を雪に突き立てて身体を支えた。

 

「――早苗っ!」

 

 背中でソヨの悲鳴が上がった。

 振り返ると、ソヨの小さな身体が雪の上を転がっていくところだった。銀灰の毛並みが、風に巻かれて丸まっている。

 

「ソヨ!」

 

 早苗は手を伸ばした。だが、届かない――その時、虎毛の影が横から滑り込んだ。

 

――番太だった。

 転がるソヨの前に、背中の傘を口で引き抜いて広げる。鉄を重ねた番傘が、ガンと音を立てて雪に突き立った。ソヨはその傘の内側に転がり込み、番太の前脚にしがみついた。

 

「た、助かったニャ……!」

〈ワウ!〉

 

 番太は、短く一度だけ吠えた。それから、傘を構えたまま前を向く。

 

「ソヨ、そこから動かないで!」

「分かってるニャ!」

 

 早苗は息を吐き顔を上げた。

 

――広場の真ん中に、錆色の龍が立っていた。

 四肢で雪を踏みしめ、長い首を高く掲げている。浮き上がった背の鱗が、風に煽られてカラカラと鳴っていた。翼は半ば開いたまま、ゆっくりと上下している。そのたびに、龍の周りの風が渦を巻いて強まった。

 

――『龍風圧』

 

 早苗は、守矢の工房の古い書き付けで読んだ言葉を思い出した。――鋼龍は、身体の周りに風を纏う。近付く者を転ばせ、矢も弾も逸らす風の鎧。

 錆びていても、それは本物だった。

 

 鋼龍が早苗達の方へ首を巡らせた。

――灰色の眼だった。錆の色の顔の中で、眼だけが冷たく澄んでいる。その眼に、早苗は自分が映った気がした。

 鋼龍が、口を開いた。

 

〈――グォォォォォッ!!〉

 

 咆哮と一緒に、風が爆ぜた。

 早苗の身体が、後ろへ持っていかれる。足が雪から浮きかけた。操虫棍にしがみつく。耳の奥がキンと鳴り、目の前が白く霞んだ。

 

――駄目だ。立っていられない。

 

 その時、早苗の前に、大きな背中が割り込んだ。

 

――美鈴だった。

 左腕の大盾を前に突き出し、膝を深く落としている。右手の『彩華守』の石突きを、背中側の雪にぐっと突き立てていた。槍と盾と、二本の脚。四つの支えで、美鈴は風の中に立っていた。

 

「――皆さん、私の後ろへ!」

 

 美鈴の声が風を割って響く。

 早苗は這うようにして、美鈴の盾の陰へ転がり込んだ。

 風が、嘘のように弱まった。

 盾の縁で、風が二つに裂けている。裂けた風が、美鈴の両脇を唸りながら流れていく。盾の後ろだけが、小さな凪になっていた。神奈子達も、次々と美鈴の後ろへ滑り込んでくる。

 

「……ちょっと、何よこれ!」

 

 天子が顔に張り付いた雪を払いながら呻いた。

 

「近付くことすら出来ないじゃないの……!」

「だから、私が居るんですよ」

 

 美鈴は振り返らなかった。

 盾を構えたまま、細く長く息を吐いている。吐く息が、白くならなかった。身体の内側に、何かを溜め込んでいるようだった。

 

「美鈴さん、大丈夫なんですか!?」

 

 早苗が訊いた。

 

「大丈夫ですよ。――風を止めようとしてるんじゃないんですから」

 

 美鈴の足が、雪の上で僅かに滑った。否――滑らせたのだと、早苗は気付いた。風の向きに合わせて、盾の角度を少しずつ変えている。

 

「受けて、流してるだけです。風は、行きたい方へ行かせてあげればいいんです。――止めようとすると、折れますから」

 

 番太がソヨを背中に乗せたまま、美鈴の右脇に並んだ。

 番傘を美鈴の盾の縁に寄せて、もう一枚の壁を作る。――盾と番傘。二枚の壁の後ろに、凪が広がった。

 神奈子が、その凪の中で御柱を構えた。『八坂御柱』の砲身の根元にも、盾が付いている。神奈子はその盾を、美鈴の盾の左脇に重ねた。

 

「――紅美鈴。このまま前へ出られるか」

「出られます。一歩ずつなら」

「あぁ、一歩ずつでいい」

 

 神奈子は短く言った。

 

「あの龍を、北の岩棚へ押し戻す。――集落の北の外れまで、壁ごと進む。進んだ分だけ、あの龍は下がる」

 

 美鈴が一歩踏み出した。

 風が盾を叩く。ガンと重い音がして、美鈴の身体が僅かに沈む。だが、下がらなかった。もう一歩踏み出す。

 番太が並んで、番傘を押し出す。神奈子が盾を重ねる。三枚の壁が、雪を削りながら前へ進んでいく。

 

〈グルル……!〉

 

 鋼龍が、首を低く下げた。

 壁の向こうで、灰色の眼が細まる。翼が大きく持ち上がった。

 

「――来るわ!」

 

 華扇が叫んだ。

 

〈ギャオォォッ!〉

 

――鋼龍が、地を蹴った。

 四肢で雪を跳ね上げ、真っ直ぐに突っ込んでくる。錆びた巨体が、壁の真正面に迫った。

 美鈴が盾を傾けた――ほんの僅かに。

 鋼龍の頭が、盾の面を滑った。重い衝撃が盾を伝い、美鈴の足が雪を抉って後ろへ流される。だが、鋼龍の巨体は壁の真ん中ではなく、斜めに逸れていった。壁の右脇を擦り抜け、広場の端の空き家へ突っ込んでいく。板壁がバキバキと音を立てて砕けていく。

 美鈴は盾を下ろさなかった。

 

「――今です!」

 

 美鈴の声が壁の後ろへ飛んだ。

 

「あの龍が突っ込んだ後に、一瞬だけ風が緩みます!」

 

――美鈴の言葉が終わるより早く、咲夜の姿が消えた。

 早苗は瞬きをした。

 次の瞬間、咲夜は空き家の残骸の脇に立っていた。崩れた板壁から首を引き抜こうとしている鋼龍の、右の前脚のすぐ横。

 咲夜の指の間に、細い刃が三本挟まっていた。刃の根元に、紫色の液が鈍く光っている。――[毒投げナイフ]を持った咲夜の手首が、小さく閃いた。

 三本の刃が、鋼龍の右の前脚に吸い込まれていく。錆びて浮き上がった鱗の隙間。剥がれかけた鱗の下の、柔らかい所へ。

 鋼龍が、首を板壁から引き抜いた。

 その時にはもう、咲夜は美鈴の盾の後ろに戻っていた。

 肩が大きく上下している。息が白く、荒く舞う。

 

「……咲夜さん、今の」

「少しだけ、止めたのよ」

 

 咲夜は額の汗を手の甲で拭った。

 

「長くは止められないわ。あの風の中を歩くのは、止まった時間の中でも重いもの。――本当、古龍は何もかも規格外ね」

 

〈グルル……〉

 

 鋼龍が右の前脚を振った。

 刺さったナイフが、雪の上に弾き飛ばされる。だが、刃の根元の紫色は、もう鱗の隙間に染み込んでいた。

 

「――毒です」

 

 華扇が、美鈴の背中越しに言った。

 

「鋼龍は毒を嫌います。毒が身体に回ると、風を纏う力が鈍る。――鈍ったところを、押し込むのです」

「では、もっと回さねばならんな」

 

 神奈子が、御柱の砲身を盾の縁から突き出した。

 鋼龍がこちらを向いた。

 灰色の眼が、壁の真ん中を睨んでいる。美鈴の盾を。

 

「――美鈴」

 

 咲夜が、美鈴の背中に言った。

 

「あの龍の気、どう?」

「怒ってます。――でも、まだ全部は出してません」

 

 美鈴は盾を構えたまま、右手の『彩華守』を引き寄せ、石突きを雪から抜く。風が、また盾を叩いた。美鈴の身体が沈む。だが美鈴は、もう槍を地面に戻さなかった。腰を落とし、槍の穂先を、盾の縁の上から真っ直ぐに鋼龍へ向ける。

 

「――私が、突きます」

〈グォォッ!〉

 

 鋼龍が、もう一度地を蹴った。

 さっきより速い。四肢が雪を撒き散らし、錆びた鱗がカラカラと鳴る。頭を低く下げ、壁の真ん中へ。

 美鈴は、今度は盾を傾けなかった。代わりに半歩だけ横へ踏み込んだ。

 鋼龍の頭が、盾の縁を掠めて通り過ぎる。その首の付け根が、美鈴の目の前に来た。

 

「――はぁっ!」

 

 美鈴の槍が、真っ直ぐに伸びた。棘竜の緑の穂先が、鋼龍の右の肩口に突き刺さる。錆びた鱗が砕け、赤茶の粉がパッと散った。穂先に並んだ赤い棘から、中の毒が鱗の下へ流れ込んでいく。

 

〈ギャオォォッ!〉

 

 鋼龍が、身を捩って咆えた。

 美鈴は槍を引き抜き、すぐに盾を構え直した。鋼龍の尾が、横薙ぎに唸る。盾がそれを受けた。ガンと鈍い音が響き、美鈴の足が雪の上を二歩分滑った。

 

「美鈴さん!」

「大丈夫です!――受けて、流しました!」

 

 美鈴の声は、少しだけ笑っていた。

 鋼龍の右の前脚が、僅かに揺れた。踏み締めた脚が、雪の上で一瞬だけ震える。毒が、回り始めていた。

 その時――早苗の頬に当たる風が、ふっと弱まった。

 

 ――え?

 

 早苗は顔を上げた。

――鋼龍の周りの風の渦が、乱れている。右の翼の側の風が薄く、途切れ途切れになっていた。錆びた風の鎧の薄い側――そこに、毒が回っている。

 

「――今だ、比那名居!」

 

 神奈子の声が飛んだ。

 

「右の前脚だ!角には触れるな!」

「分かってるわよ!」

 

 天子が壁の陰から飛び出した。

 風の薄い右側へ。雪を蹴立てて走りながら、背の大剣を引き抜く。赤熱した顎のような刃が、雪明かりの中でギラリと光った。

 天子は鋼龍の右の前脚の前で、ぐっと腰を落とした。

 大剣を肩に担ぎ、溜める。

 一呼吸、二呼吸――

 

〈グルル……!〉

 

――鋼龍の首が、天子の方へ巡った。

 

「――比那名居っ!」

 

 神奈子が叫んだ。それでも天子は動かなかった。歯を食いしばったまま、大剣を担ぎ続けている。鋼龍の口が、天子の頭上で開いた。

 その瞬間――神奈子の御柱が火を噴いた。

 ドンッ――と重い砲声が響いた。

 

〈グオォッ!?〉

 

 砲弾が鋼龍の左の頬を打つ。錆びた鱗が弾け、鋼龍の首が左へ大きく逸れた。

 

「――今!はぁぁッ!!」

 

 天子が大剣を振り下ろした。

 溜めに溜めた一撃が、鋼龍の右の前脚に叩き込まれる。錆びた鱗が砕け散り、赤茶の粉と雪が一緒になって舞い上がった。

 

〈ギャアァッ!?〉《/center》

 

 鋼龍の身体がグラリと傾いた。右の前脚が雪の上に膝をつく。

 

「どうよ!」

 

 天子が叫んだ。

 

「天人の一太刀、効いたでしょう!」

「下がれ、比那名居!」

 

 神奈子が怒鳴った。

 鋼龍の尾が、天子のいた所を薙ぎ払った。天子は大剣を盾にして受け、雪の上を転がって壁の陰へ戻ってくる。

 

「……ちょっと!今の、褒めるところでしょう!」

「褒めるのは、帰ってからだ」

 

 神奈子は砲身から立ち昇る煙を払いながら言った。

 

「――よく溜めた。だが、二度と目の前で溜めるな」

 

 天子は口を尖らせたが、帽子の鍔を下げて黙った。

 鋼龍がゆっくりと立ち上がった。

 右の前脚を庇うように、少しだけ身体を傾けている。灰色の眼が、壁を睨んだ。

 

《center》〈……グルル〉

 

――そして、一歩。鋼龍は、北へ下がった。

 早苗は息を呑んだ。

 

――下がった。

 

 もう一歩。鋼龍の後ろ脚が、広場の北の端の雪を踏む。その先は、集落の北の外れ。その先に、北の峰の肩へ登る雪の斜面が続いている。

 

「――押せ」

 

 神奈子が、低く言った。

 

「――このまま、押すぞ」

 

 美鈴が盾を前に出した。番太が並び、神奈子が盾を重ねる。――三枚の壁が、また一歩、北へ進んだ。

 


~妖怪の山 北の峰の麓の集落 北の外れ~

 

――集落の最後の家を過ぎた所で、鋼龍は足を止めた。

 家々の屋根が途切れ、その先に、北の峰の肩へ続く白い斜面が広がっている。斜面の上の方は、灰色の雲に呑まれて見えなかった。

 鋼龍は、斜面の雪を後ろ脚で踏んだまま動かない。

 右の前脚を僅かに浮かせ、首を低く下げている。浮いた背の鱗が、カラカラと鳴った。

 壁の後ろで、早苗は操虫棍を握り直した。

――後、少し。この斜面を押し上げれば、その先に岩棚がある。

 

「――下がりなさい」

 

 華扇が、盾の陰から静かに言った。鋼龍に向かって、だった。

 

「帰り道は、空けてあるわ。後ろには、もう誰も居ない」

 

 鋼龍の灰色の眼が、華扇の方を向いた。

 その目が、華扇の左腕の白銀の盾に止まった。五年前、この龍自身が脱ぎ捨てた殻から作った盾。鋼龍は、長い間それを見ていた。

 

――分かったのだろうか。

 

 早苗がそう思った時――鋼龍の翼が大きく持ち上がった。

 風が真上から叩き付けて来て、早苗は思わず目を閉じた。雪が舞い上がり、視界が真っ白になる。耳元で風がゴウゴウと唸った。

 目を開けると、鋼龍は宙に浮いていた。

 翼を大きく広げ、斜面の上の空で、ゆっくりと羽ばたいている。錆の色の腹が、灰色の雲を背にして浮かんでいた。

 

「――飛んだか」

 

 神奈子が、御柱の砲身を空へ向けた。

 

「空では押せん。――下ろさねばならん」

 

 鋼龍の首が、真下を向いた。

 喉の奥で、風が渦を巻く音がする。

 

「――伏せろ!」

 

 神奈子の声と同時に、鋼龍の口から風の塊が吐き出された。

 渦を巻く透明な塊が、壁のすぐ前の雪に叩き付けられる。雪が爆ぜ、早苗の身体が後ろへ吹き飛ばされた。背中から雪に落ちる。息が詰まった。

 

「早苗っ!」

 

 ソヨの声がした。

 顔を上げると、ソヨが番太の背から飛び降りて、雪の上を転がるように駆けてくるところだった。小さな手が、早苗の肩を掴む。

 

「怪我、無いニャ!?」

「……大丈夫。ソヨ、番太の傘から出ちゃ駄目って」

「早苗が飛ばされたら、出るに決まってるニャ!」

 

 ソヨは腰の袋から、透き通った小さな玉を取り出した。両手で包んで、早苗の胸の前で割る。

 ふわりと、柔らかな泡が広がった。――[回復しゃぼん]の泡が早苗の身体に触れて弾けるたびに、背中の痛みが少しずつ引いていく。

 

「……ありがとう、ソヨ」

「お礼は後ニャ。――来るニャ!」

 

 空の鋼龍が、二発目の風の塊を吐いた。

 今度は、壁の真上だった。

 美鈴が盾を斜め上へ掲げた。風の塊が盾の面に当たって、斜めに逸れる。逸れた塊が、すぐ脇の空き家の屋根を半分削り取っていった。

 

「――このままでは、壁ごと削られる」

 

 咲夜が、美鈴の肩越しに空を見上げた。

 

「あの高さには、ナイフも届かないわ」

「――届かせる必要はない」

 

 神奈子が、集落の裏の尾根を見上げた。

 尾根の上の岩陰。そこに、白い影が一つ立ち上がっていた。

 

――椛だった。

 片手に、丸い玉を握っている。もう片方の手を真っ直ぐに空へ向けていた。鋼龍の位置を、指で測っているようだった。

 早苗は、椛の唇が動くのを見た気がした。

 

――目を、閉じて。

 

 早苗はとっさに腕で目を覆った。

 椛の腕が、大きく振られた。

 玉が、風の中を真っ直ぐに飛んでいく。鋼龍の頭の、すぐ前へ。

 

――パァンッ!

〈ギャアァッ!?〉

 

――[閃光玉]が炸裂する。

 

 閉じた瞼の裏が、真っ白に灼けた。

 同時に、鋼龍の悲鳴が空から降ってきた。翼の羽ばたきが乱れる音が聞こえ、風の唸りが一瞬だけ途切れた。

 腕を下ろすと、鋼龍が空から落ちてくるところだった。

 翼を半ば畳んだまま、錆の色の巨体が斜面の上へ落ちていく。雪煙が、ドッと高く上がった。地面が揺れる。

 

「――落ちたぞ!」

 

 神奈子が叫んだ。

 

「今のうちに、斜面を押し上げる!」

 

 鋼龍は、斜面の中ほどで雪に半ば埋もれていた。首を振り、前脚で雪を掻いている。目がまだ見えていないようだった。

 壁が動いた。

 美鈴が盾を前に、番太が番傘を並べ、神奈子が盾を重ねる。三枚の壁が、雪の斜面を登っていく。華扇と天子と咲夜が、その後ろに続いた。

 早苗も操虫棍を握って立ち上がった。

 

――私も、何か。

 

 早苗は操虫棍の先の猟虫を見た。羽を畳んで、じっと早苗を待っている。

 

「――行って!」

 

 早苗は棍を振った。

 猟虫が、羽音を立てて飛び立った。風の中を低く這うように飛び、鋼龍の首の付け根に取り付く。錆の剥げた所。新しい灰色の鱗が覗いている所。

 猟虫が、何かを吸い取って戻ってきた。

 早苗の棍の先に止まった猟虫の身体が、ぼんやりと赤く光る。早苗の腕に、温かな力が流れ込んできた。

 

――首の付け根の、新しい鱗。

 

 早苗は、猟虫の脚に付いた粉を指で拭った。

 赤茶の錆の粉。その中に――キラリと光る、白い小さな粒が混じっていた。雪ではなかった。指の上で溶けない。

 

「……何、これ」

 

 早苗は呟いた。だが、確かめている暇はなかった。

 

〈グルル……!〉

 

 斜面の上で、鋼龍が首をもたげていた。

 閃光の眩しさが、もう抜けかけている。灰色の目が、斜面を登ってくる壁を見下ろしていた。

 

――鋼龍の周りの風が、色を変えた。

 早苗は、最初は目の錯覚だと思った。

 だが、違った。斜面の上で首をもたげた鋼龍の周りで、風の渦が黒く濁っていく。錆の粉だった。浮き上がった鱗から剥がれ落ちた赤茶の粉が、風に巻き上げられて、渦そのものを暗く染めていた。

 

「……毒が、抜け始めているわ」

 

 華扇が低く言った。

 鋼龍の右の前脚が、もう震えていなかった。雪をしっかりと踏み締め、首を高く持ち上げる。灰色の目が、壁の真ん中の美鈴の盾を、真っ直ぐに見下ろしていた。

 美鈴が、息を呑む気配がした。

 

「――気が、変わりました」

 

 美鈴の声が、初めて硬かった。

 

「さっきまでは、疲れて怒ってました。でも、今は――」

 

 美鈴は盾の縁を握り締めた。

 

「――全部、出してきます」

 

 鋼龍が翼を広げた。

 錆の色の翼が、斜面いっぱいに広がる。黒い渦が、翼の下でうねった。鋼龍は首を大きく反らせ、空に向かって口を開いた。

 

〈――ゴォォォォォッ!!〉

 

 咆哮が山を揺らした。

 早苗の耳の奥で、何かが弾けるような音がした。思わず両手で耳を塞ぐ。操虫棍が雪の上に倒れた。目の前が、一瞬だけ暗くなる。

 黒い風が、斜面を叩く。

 美鈴の盾が、ガンと鳴った。番太の番傘が、軋んだ。神奈子の盾の縁で、注連縄が千切れそうなほど震えている。三枚の壁が、一歩、後ろへ押し戻された。

 

「――踏み止まれ!」

 

 神奈子が叫んだ。

 

「押し戻されるな!ここを下がれば、集落の真ん中だ!」

 

 美鈴は答えなかった。歯を食いしばり、足を雪に沈めている。槍の石突きを、もう一度背中側の雪に突き立てた。四つの支え。それでも、美鈴の足元の雪が、少しずつ後ろへ削れていく。

 

〈ガル……!〉

 

 番太が低く唸る。

 番傘の柄を口に咥えたまま、四本の脚で雪を掴んでいる。虎毛の背中の毛が全部逆立っていた。

――下がらない。

 番太も、美鈴も、一歩も下がらなかった。その時――壁の右の端にもう一つ影が並んだ。

 

――天子だった。

 背の大剣を抜き、幅の広い刃を盾のように前に立てている。赤熱した顎のような刃の腹に黒い風が叩き付けられた。天子の身体が、グラリと揺れる。だが天子は大剣の柄を両手で握り、雪の中に踵を沈めた。

 

「……ちょっと、神奈子」

 

 天子が、歯の間から言った。

 

「要石を一つここに刺せば、こんな風なんて――」

「――駄目だ」

 

 神奈子は、振り向きもせずに言った。

 

「約束は、約束だ。お前の要石は、山を揺らす。あの龍の脱ぐ場所まで揺らす」

「……分かってるわよ!言ってみただけ!」

 

 天子は叫んで、大剣をさらに前へ押し出した。

 

「なら、私が壁になればいいんでしょう!天人の剣は、そう簡単に折れないのよ!」

 

 四枚目の壁が、黒い風を受け止めた。

 咲夜が、美鈴の背中のすぐ後ろに膝をついていた。息がまだ荒い。それでも、腰のナイフの残りを指で数えている。

 

「――美鈴」

「はい」

「――倒れたら、お嬢様に言い付けるわよ」

「倒れませんよ」

 

 美鈴は、盾の向こうの黒い風を睨んだまま答えた。

 

「――門番ですから」

 

 ソヨが番太の脇から転がり出て、背中の小さな鉢を雪の上に置く。鉢の中で、緑の芽が見る見るうちに伸び、緑の実を一つ付けた。――[癒しの果実]が実る。

 

「美鈴さん!これ、食べるニャ!」

 

 ソヨが実をもぎ取って、美鈴の口元へ背伸びして差し出す。美鈴は盾を構えたまま、首だけ伸ばしてそれを齧った。

 

「……甘いですね。ありがとうございます」

「お礼は後ニャ!」

 

〈グオォォォォォッ!!〉

 

 その時、鋼龍が地を蹴った。

 だが、壁の方へではなく――真上へ。

 錆の色の巨体が、黒い渦を引き連れて空へ駆け上がっていく。翼が大きく打ち下ろされるたびに、渦が太く、高くなった。

 鋼龍は空の一点で円を描き始めた。

 大きく、ゆっくりと――翼で風を掻き回すように。その円の下で、黒い渦が一本の柱になっていった。

 

「……竜巻……!」

 

 早苗は呟いた。

 雪と錆の粉を巻き上げた黒い柱が、斜面の上にそそり立っている。柱の根元で、雪がゴウゴウと音を立てて吸い上げられていた。家ほどもある岩が、斜面の上をゴロリと転がる。

 

「――待ちなさい」

 

 華扇が竜巻を睨んだまま言った。

 

「おかしいわ。あの龍の竜巻は、自分の周りに立てるもの。――でも、あの柱は」

 

 早苗は、竜巻の根元を見た。

 黒い柱が、ゆっくりと動いていた。

 北へではない。岩棚の方へでもない。

 

――南へ。斜面を下り、集落の北の外れを越えて、家々の屋根の方へ。

 

「――錆びた風の鎧の、乱れた側」

 

 華扇の声が、僅かに震えた。

 

「左の翼の側の風が、暴れている。あの龍は真っ直ぐに竜巻を立てたつもりでも、柱が傾いて、勝手に南へ歩いていくのよ。――あの龍自身にも、もう止められない」

「……南には、何がある」

 

 神奈子が訊いた。

 分かっていて訊いているのだと、早苗には分かった。

 集落の南の外れ。道祖神。踏み固めた雪の道。杉林。中腹の山道。その先は――

 

「――『駒草集会所』です」

 

 六十三人と、白狼天狗が三十人。それに、霊夢と山如と典と鈴仙と、一匹の黒い猫。

 

「――神奈子様!」

 

 頭の上から、声が降ってきた。

 嵐の縁の外。道祖神の上の空に、黒い翼が一つ――文浮かんでいた。風に煽られて大きく揺れながら、それでも縁の外に踏み止まっている。

 

「竜巻が、中腹の道に乗ります!このままの向きなら、山道の曲がり角を抜けて――集会所です!」

「――文!」

 

 神奈子が、空へ叫んだ。

 

「集会所へ飛べ!人を奥へ下げろ!――山如に言え!全館の戸を、窓を閉めろとな!」

「承知しました!」

 

 文の翼が南へ翻った。黒い影が、杉林の向こうへ見る見るうちに小さくなっていく。

 神奈子が早苗に振り返る。

 

「――早苗」

 

 早苗は雪の上の操虫棍を拾い上げた。手が震えていた。それは寒さのせいではなかった。

 

「――風(・)祝(・)の(・)務(・)め(・)を、果たせるか」

 

 神奈子の声は、静かだった。

 

――風祝。風を祝い、風を鎮める、守矢の巫女の務め。

 早苗は、子供の頃に神奈子から聞いた言葉を思い出した。

 

――『風祝が祝う風は、敵の風ではない』

 

 外の世界で、まだ自分が何者かも分からなかった頃。境内の木々を揺らす風に、小さな手を合わせていた頃。風は、いつもどこかへ行きたがっている。行きたい所へ行かせてやるのが、風祝の祈りだと。

 

――行きたい所へ。

 

 早苗は空の鋼龍を見上げた。

 黒い渦の真ん中で、錆の色の翼が円を描き続けている。苛立ち、疲れ、それでも止まれずに。あの龍が本当に行きたいのは、集会所ではない――北の岩棚だ。五年前と同じ、雪と岩だけの静かな場所。

 早苗は、黒い柱に目を戻した。柱は、空の鋼龍の円の下で唸っている。あんなに大きな風を、鎮めたことはない。早苗の奇跡で出来るのは、一瞬だけ風向きを変えるくらいだ。

 

――でも、一瞬なら。

 

「……一瞬なら、出来ます」

 

 早苗は答えた。

 

「長くは無理です。でも、一瞬だけなら、あの柱の足を北へ向けられるかもしれません」

「その一瞬で足りる」

 

 神奈子が、御柱を構え直した。

 

「その一瞬に、私の風を重ねる。――茨華仙」

「えぇ」

 

 華扇が、左腕の盾を掲げた。

 鋼龍剣盾『風導』。五年前、この龍が脱ぎ捨てた殻から作った剣と盾。風を導く――という銘の片手剣。

 

「この盾は、あの龍の風の形を覚えています。――柱の縁なら、私が導けるかもしれない」

 

 華扇は盾の白銀の面を、包帯の右手でそっと撫でた。

 

「五年前、あの龍は新しい鱗で、東から西へ渡っていきました。――あの時の風を、もう一度見たい」

 

 その声は、説教の時の硬さではなかった。

 

「――紅美鈴」

「はい!」

「お前と番太は、ここで壁を保て。竜巻が向きを変えた時、あの龍は必ず降りてくる。――その時に押し返す壁が要る」

「任せてください!」

〈ワウ!〉

 

 美鈴は盾を構え直した。番太が、番傘の柄を咥え直す。

 

「咲夜、比那名居。――お前達は、龍が降りてきた時の毒と刃だ」

「かしこまりました」

「……ふん。言われなくても」

 

 神奈子は集落の裏の尾根を見上げた。

 岩陰の白い影が、まだそこに居た。椛は、片手にもう一つの丸い玉を握っている。神奈子が片手を挙げて空の鋼龍を指すと、椛は一度だけ大きく頷いた。

 

――龍が降りてきたら、もう一度。

 

 言葉は無くても、それで通じた。

 早苗は、操虫棍を胸の前に立てた。

 白銀の棍の先で、猟虫が羽を震わせている。ソヨが、早苗の脚にしがみついた。

 

「早苗」

「……ソヨ。私の後ろに居て」

「居るニャ。――ずっと、傍に居るニャ」

 

 早苗は目を閉じた。

 耳の奥で、風が唸っている。黒い風。錆の匂いのする、疲れて怒って帰りたがっている風。

 

 早苗は――息を吸った。唇が、祝詞の最初の一句を紡ぎ始める。

 その時、竜巻の根元が、集落の北の外れの最初の家に触れた。藁屋根が、一息に空へ吸い上げられていく。

 

――黒い風が、山を下り始めた。

 

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