東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~妖怪の山 守矢神社 境内~
――守矢神社の境内には、夜明け前から篝火が焚かれていた。
早苗は、拝殿の階の下で両手に息を吹き掛けた。
境内の隅々に、筵と毛布が敷かれている。社務所の土間にも、神楽殿の板の間にも、人が横になっていた。麓の集落の年寄りのうち、駒草集会所の階段を上がれない者を、昨夜のうちに白狼天狗達がここまで運び上げてきた。十一人。その枕元を、洩矢諏訪子が一人ずつ見て回っている。
「……早苗」
足元で、小さな声が聞こえた。オトモのソヨが、法螺貝を腰に揺らして早苗を見上げていた。銀灰の毛並みが、篝火の明かりで赤く染まっている。
「眠れなかったニャ?」
「……少しだけ。ソヨは?」
「ボクは寝たニャ。早苗が起きたなら、ボクも起きるニャ」
早苗は小さく笑って、ソヨの頭を撫でた。
その時、境内の上空で風が鳴った。
黒い翼――文が、篝火の炎を揺らして石畳に降りてくる。
「――夜分に失礼します。伝令です」
文は息を整える間もなく、拝殿の方へ向き直った。
拝殿の扉が開き、神奈子が背に
「――聞こう」
神奈子が短く答えて促す。
「麓の集落の六十三人、全員が『駒草集会所』に下りました。一人、平太という子が猫を探して残っていましたが、椛と霊夢さんとハツシモが連れ戻しています。――それと」
文の声が、一段低くなった。
「鋼龍が岩棚を離れました。日の入りに、麓の集落の広場に伏しています。一軒の屋根が、風で吹き飛ばされました。椛が千里眼で見て、哨戒帳に書いています。私も、この目で見てきました」
境内が静まった。篝火の爆ぜる音だけが、パチリと鳴る。
「……岩棚では、ないのだな」
「はい。集落の真ん中です」
神奈子は腕を組んだ。そのまま、華扇の方を見る。
「茨華仙。――お前の見立てでは、人が居なくなれば脱ぐはずだった。集落は空になった。ならば……あの龍はそこで脱ぐのではないのか」
華扇はすぐには答えなかった。盾の白銀の面に、篝火の炎が映っている。
華扇はその炎を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「――いいえ。あそこでは、脱げません」
早苗は思わず華扇を見た。
「集落は、空になりました。でも、あの龍が周りに居ないかを確かめる範囲は、集落だけではない」
華扇は南の空を指差した。――中腹の方角だ。
「岩棚の上なら、周りは雪と岩だけです。でも集落の広場からなら、中腹の集会所は風の届く所にあります。六十三人と、白狼天狗が三十人。――それに、ここ。守矢の境内の十一人も」
「……こちらが見えている、と」
「えぇ。人の居る匂いも、火の煙も。風を操るあの龍には分かるはずです」
華扇の声は柔らかかった。だが、言葉は硬い。
「だから、あの龍は脱げない。脱げないまま、苛立って、周りを空けようとする。――天狗の里に下りてきたギアノスの群れを、岩棚の周りから追い払ったように」
「会所の皆さんを、追い払いに来るということですか!?」
早苗の声が、思ったより大きく境内に響いた。社務所の土間で、誰かが寝返りを打った。
華扇は早苗を見て、静かに頷く。
「放っておけば、そうなるでしょう。――だから、岩棚へ帰すんです。あそこなら、周りに何も居ない。あそこでなら、脱げる」
神奈子が腕を解いた。
「依頼票の通りというわけだ。――北の岩棚へ押し返す」
「えぇ」
「ならば、話は早い」
神奈子は境内を見回した。篝火の向こうで、諏訪子が一人の老人の毛布を掛け直しているのが見えた。
「――諏訪子」
「聞こえてたよ」
諏訪子は毛布の端を整えながら、振り返りもせずに言った。
「ここは私が見てる。十一人と、それから境内の木の上の鳥共もね。――行ってきな、神奈子。早苗とソヨも一緒だよ」
「はい!」
早苗は背筋を伸ばした。
拝殿の脇の柱に、早苗の操虫棍が立て掛けてある。嵐龍棍『奇跡ノ天風』の白銀に淡い金の筋を走らせた先端で、猟虫が羽を畳んでじっとしていた。
文が手帳を開く。
「――段取りを、確かめさせてください。人里の慧音さんの依頼票では、クシャルダオラと相対して押し返す者は神奈子様、早苗さん、華扇さん。紅魔館から咲夜さんと美鈴さん。それと比那名居天子さん」
「比那名居には、昨夜のうちに使いを出した」
神奈子が補足する。
「麓の集落の南の外れで落ち合う。紅魔館の二人もだ。――夜通し、山を登ってくるはずだ」
「それと、椛です」
文が手帳から顔を上げた。
「哨戒は嵐の縁の外。でも、[閃光玉]を投げる腕なら、椛が一番です。集落の裏の尾根から、鋼龍を見張らせてください。――龍様の許しは、もう頂いてきました」
神奈子は文を見て、口の端を僅かに上げた。
「手回しが良いな」
「最速の伝令ですから」
文はそれだけ言って、手帳を閉じた。華扇が、盾の縁の茨の文様を指でなぞる。
「――一つだけ、皆に言っておかねばならないことがあります」
神奈子も文も早苗も、華扇を見る。
「あの龍の角は、折らないでください」
「角を、ですか?」
早苗が訊いた。
「鋼龍の角は、纏う風を操るためのもの。折れば風は弱まって、押し返すのは楽になるでしょう。――でも、角の折れた鋼龍は、もう上手く風に乗れない。岩棚へ帰っても、その先の空を渡れなくなる」
華扇は盾から指を離した。
「
神奈子は少しの間、黙っていた。それから、背の
「――角は狙わん。狙うのは、風だ」
東の空の端が、ほんの僅かに白み始めていた。
北の峰の方角だけが、まだ夜より暗かった。
~妖怪の山 北の峰の麓の集落 南の外れ~
――道祖神の前に着いた時、空はもう白んでいた。
だが、北だけは暗い。集落の上の空で、灰色の雲が渦を巻いている。渦の縁は道祖神のすぐ先まで垂れ下がり、そこから先の雪が、絶えず横殴りに吹き流されていた。風の音が、遠い滝のように低く唸り続けている。
早苗は、渦の縁から十歩ほど手前で足を止めた。
頬に当たる風が、既に痛い。雪に混じる赤茶の粉が目に入りそうになる。
「……あれが、嵐の縁」
「縁のそのまた縁だ、と椛は言っていたそうだがな」
神奈子が、背の御柱を下ろしながら言った。風神銃槍『八坂御柱』の砲身を雪の上に立て、北の暗がりを見上げる。
華扇は神奈子の隣で、盾の革紐を締め直している。鋼龍剣盾『風導』の白銀の面に、灰色の雲が映り込んでいた。
ソヨが、早苗の脚にしがみつく。
「早苗……風が重いニャ」
「ソヨは私の後ろ。前に出ちゃ駄目よ」
「分かってるニャ。――でも、早苗も無茶しちゃ駄目ニャ」
早苗は答える代わりに、ソヨの頭を一度だけ撫でた。
その時、南の山道の方から、重い足音が近付いてきた。
雪を踏む音と、金属の擦れる音。それに混じって、太く短い犬の声が一つ。
早苗が振り返ると、杉林の間から、虎毛の大きなガルクが姿を現した。背中に、鉄を幾重にも重ねた傘を括り付けている。――美鈴のオトモ『番太』だ。その背から、一人の少女が身軽に飛び降りた。
――『紅魔館』の門番『紅美鈴』だった。
美鈴の右手には、大きな槍が担がれていた。棘門槍『彩華守』の、棘竜の緑の甲殻を重ねた長い穂先に赤い棘が逆さに並んでいる。左腕には、その槍と同じ素材の大きな盾を持っている。
「お待たせしました!『紅魔館』より美鈴と番太、ただいま到着しました!」
美鈴の声は、風の音に負けないくらいよく通った。その後ろから、もう一人が音もなく現れた。
――『紅魔館』のメイド長『十六夜咲夜』だった。
腰の両脇に、二振りの短い刃を帯びている。月凍双刃『銀時計』の刃が風で揺れる。咲夜は神奈子の前で静かに一礼した。
「八坂様。猟団"紅魔館"より、十六夜咲夜と紅美鈴、到着いたしました。――お嬢様より、言伝を一つ預かっております」
「聞こう」
「『出すものは出したわ。後は、そちらの風次第』――とのことです」
神奈子は僅かに目を細めた。
「……吸血鬼に、風を試されるとはな」
「お嬢様は、試してなどいらっしゃいません。――信じていらっしゃるのだと、私は思います」
咲夜はそれだけ言って、一歩下がった。
美鈴が、北の暗がりを見上げていた。
さっきまでの明るい顔が、もうどこにもない。目を細め、風の流れを肌で確かめるように、じっと立っている。
「……すごい気ですね」
美鈴が、誰にともなく言った。
「疲れてるのに、全然弱ってない。――いえ、弱ってるからこそ、全部の力を風に回してる、って感じです」
「分かるの?美鈴」
咲夜が訊いた。
「はい。門の前で、何度も感じたことがありますから。――追い詰められたモンスターの気です」
番太が、美鈴の足元で低く唸った。くるりと巻いた尾が、ピンと伸びている。その時、頭の上から声が降ってきた。
「――遅いわよ、あんた達」
早苗は空を見上げた。
道祖神の後ろの杉の木の、一番高い枝。そこに、一人の少女が片足を掛けて立っていた。背中で、赤熱した顎のような刃を持つ大剣――鋼鎚大剣『気炎万丈』の刃が煌めく。
――不良天人『比那名居天子』だ。
「夜中から待ってたのよ。天人を待たせるなんて、いい度胸じゃないの」
「比那名居」
神奈子が、木の上を見上げた。
「降りてこい。――要石の話は、聞いているな」
天子の顔がムッと歪んだ。
「えぇ、聞いてるわよ。使うなって言うんでしょう。……分かってるわよ。大剣だけで十分なんだから」
天子は枝から飛び降りた。
雪の上に、ズシンと重い音を立てて着地する。大剣の重さも加わって足元の雪が膝まで沈む。
「約束したでしょう、神奈子。――会議で決まったら、前に立たせてくれるって」
「あぁ。――約束は守る」
神奈子は御柱を担ぎ直した。
「だから、前に立て。――ただし、私の盾の後ろからだ」
「……ふん」
天子は帽子の鍔を下げて、そっぽを向いた。だが、それ以上は言い返さなかった。
神奈子は、御柱の砲身を雪から抜いた。
「――段取りを伝える」
短い声だった。だが、風の音の中でもはっきりと届く。
「前は紅美鈴と番太。私はその左に付く。茨華仙は適時こちらをサポートせよ。十六夜咲夜は壁の後ろから、隙を狙え。比那名居は、風が薄くなった時だけ前へ出ろ。――早苗」
「は、はい!」
「お前は猟虫で、龍の身体を見ろ。どこが弱り、どこがまだ生きているか。見たものは、全部声に出せ」
「はい!」
早苗は返事をしてから、自分の声が少しだけ上擦っていたことに気付いた。
操虫棍を握る手のひらが、手袋の中で湿っている。美鈴が、早苗の方を振り返った。
「大丈夫ですよ、早苗さん」
美鈴は、盾の縁を軽く叩いた。
「前には、私と番太が居ますから。――後ろの人は、前の人を信じて、自分の仕事だけしてくれればいいんです」
〈ワウッ〉
番太が短く一度だけ吠えた。
「……はい」
早苗は、今度は落ち着いた声で答えた。
――これで、揃った。
神奈子、華扇、早苗とソヨ、咲夜、美鈴と番太、天子。
早苗は集落の裏の尾根を見上げた。尾根の上の岩陰に、白い影が二つ見えた。白狼天狗と白いガルク――椛とハツシモだった。椛は片手を挙げて、それから北を指差した。
――集落の真ん中。
広場の方角から――ゆっくりと、何か大きなものが身を起こす気配がした。
~妖怪の山 北の峰の麓の集落 広場~
――鋼龍は、集落の広場の真ん中で首をもたげていた。
早苗達が嵐の縁を越えたのと、同じ時だった。
家々の間を抜けた途端、風の重さが変わった。押されるのではない。横から殴られるような風だった。早苗は思わず片膝をつき、操虫棍を雪に突き立てて身体を支えた。
「――早苗っ!」
背中でソヨの悲鳴が上がった。
振り返ると、ソヨの小さな身体が雪の上を転がっていくところだった。銀灰の毛並みが、風に巻かれて丸まっている。
「ソヨ!」
早苗は手を伸ばした。だが、届かない――その時、虎毛の影が横から滑り込んだ。
――番太だった。
転がるソヨの前に、背中の傘を口で引き抜いて広げる。鉄を重ねた番傘が、ガンと音を立てて雪に突き立った。ソヨはその傘の内側に転がり込み、番太の前脚にしがみついた。
「た、助かったニャ……!」
〈ワウ!〉
番太は、短く一度だけ吠えた。それから、傘を構えたまま前を向く。
「ソヨ、そこから動かないで!」
「分かってるニャ!」
早苗は息を吐き顔を上げた。
――広場の真ん中に、錆色の龍が立っていた。
四肢で雪を踏みしめ、長い首を高く掲げている。浮き上がった背の鱗が、風に煽られてカラカラと鳴っていた。翼は半ば開いたまま、ゆっくりと上下している。そのたびに、龍の周りの風が渦を巻いて強まった。
早苗は、守矢の工房の古い書き付けで読んだ言葉を思い出した。――鋼龍は、身体の周りに風を纏う。近付く者を転ばせ、矢も弾も逸らす風の鎧。
錆びていても、それは本物だった。
鋼龍が早苗達の方へ首を巡らせた。
――灰色の眼だった。錆の色の顔の中で、眼だけが冷たく澄んでいる。その眼に、早苗は自分が映った気がした。
鋼龍が、口を開いた。
咆哮と一緒に、風が爆ぜた。
早苗の身体が、後ろへ持っていかれる。足が雪から浮きかけた。操虫棍にしがみつく。耳の奥がキンと鳴り、目の前が白く霞んだ。
――駄目だ。立っていられない。
その時、早苗の前に、大きな背中が割り込んだ。
――美鈴だった。
左腕の大盾を前に突き出し、膝を深く落としている。右手の『彩華守』の石突きを、背中側の雪にぐっと突き立てていた。槍と盾と、二本の脚。四つの支えで、美鈴は風の中に立っていた。
「――皆さん、私の後ろへ!」
美鈴の声が風を割って響く。
早苗は這うようにして、美鈴の盾の陰へ転がり込んだ。
風が、嘘のように弱まった。
盾の縁で、風が二つに裂けている。裂けた風が、美鈴の両脇を唸りながら流れていく。盾の後ろだけが、小さな凪になっていた。神奈子達も、次々と美鈴の後ろへ滑り込んでくる。
「……ちょっと、何よこれ!」
天子が顔に張り付いた雪を払いながら呻いた。
「近付くことすら出来ないじゃないの……!」
「だから、私が居るんですよ」
美鈴は振り返らなかった。
盾を構えたまま、細く長く息を吐いている。吐く息が、白くならなかった。身体の内側に、何かを溜め込んでいるようだった。
「美鈴さん、大丈夫なんですか!?」
早苗が訊いた。
「大丈夫ですよ。――風を止めようとしてるんじゃないんですから」
美鈴の足が、雪の上で僅かに滑った。否――滑らせたのだと、早苗は気付いた。風の向きに合わせて、盾の角度を少しずつ変えている。
「受けて、流してるだけです。風は、行きたい方へ行かせてあげればいいんです。――止めようとすると、折れますから」
番太がソヨを背中に乗せたまま、美鈴の右脇に並んだ。
番傘を美鈴の盾の縁に寄せて、もう一枚の壁を作る。――盾と番傘。二枚の壁の後ろに、凪が広がった。
神奈子が、その凪の中で御柱を構えた。『八坂御柱』の砲身の根元にも、盾が付いている。神奈子はその盾を、美鈴の盾の左脇に重ねた。
「――紅美鈴。このまま前へ出られるか」
「出られます。一歩ずつなら」
「あぁ、一歩ずつでいい」
神奈子は短く言った。
「あの龍を、北の岩棚へ押し戻す。――集落の北の外れまで、壁ごと進む。進んだ分だけ、あの龍は下がる」
美鈴が一歩踏み出した。
風が盾を叩く。ガンと重い音がして、美鈴の身体が僅かに沈む。だが、下がらなかった。もう一歩踏み出す。
番太が並んで、番傘を押し出す。神奈子が盾を重ねる。三枚の壁が、雪を削りながら前へ進んでいく。
鋼龍が、首を低く下げた。
壁の向こうで、灰色の眼が細まる。翼が大きく持ち上がった。
「――来るわ!」
華扇が叫んだ。
――鋼龍が、地を蹴った。
四肢で雪を跳ね上げ、真っ直ぐに突っ込んでくる。錆びた巨体が、壁の真正面に迫った。
美鈴が盾を傾けた――ほんの僅かに。
鋼龍の頭が、盾の面を滑った。重い衝撃が盾を伝い、美鈴の足が雪を抉って後ろへ流される。だが、鋼龍の巨体は壁の真ん中ではなく、斜めに逸れていった。壁の右脇を擦り抜け、広場の端の空き家へ突っ込んでいく。板壁がバキバキと音を立てて砕けていく。
美鈴は盾を下ろさなかった。
「――今です!」
美鈴の声が壁の後ろへ飛んだ。
「あの龍が突っ込んだ後に、一瞬だけ風が緩みます!」
――美鈴の言葉が終わるより早く、咲夜の姿が消えた。
早苗は瞬きをした。
次の瞬間、咲夜は空き家の残骸の脇に立っていた。崩れた板壁から首を引き抜こうとしている鋼龍の、右の前脚のすぐ横。
咲夜の指の間に、細い刃が三本挟まっていた。刃の根元に、紫色の液が鈍く光っている。――[毒投げナイフ]を持った咲夜の手首が、小さく閃いた。
三本の刃が、鋼龍の右の前脚に吸い込まれていく。錆びて浮き上がった鱗の隙間。剥がれかけた鱗の下の、柔らかい所へ。
鋼龍が、首を板壁から引き抜いた。
その時にはもう、咲夜は美鈴の盾の後ろに戻っていた。
肩が大きく上下している。息が白く、荒く舞う。
「……咲夜さん、今の」
「少しだけ、止めたのよ」
咲夜は額の汗を手の甲で拭った。
「長くは止められないわ。あの風の中を歩くのは、止まった時間の中でも重いもの。――本当、古龍は何もかも規格外ね」
鋼龍が右の前脚を振った。
刺さったナイフが、雪の上に弾き飛ばされる。だが、刃の根元の紫色は、もう鱗の隙間に染み込んでいた。
「――毒です」
華扇が、美鈴の背中越しに言った。
「鋼龍は毒を嫌います。毒が身体に回ると、風を纏う力が鈍る。――鈍ったところを、押し込むのです」
「では、もっと回さねばならんな」
神奈子が、御柱の砲身を盾の縁から突き出した。
鋼龍がこちらを向いた。
灰色の眼が、壁の真ん中を睨んでいる。美鈴の盾を。
「――美鈴」
咲夜が、美鈴の背中に言った。
「あの龍の気、どう?」
「怒ってます。――でも、まだ全部は出してません」
美鈴は盾を構えたまま、右手の『彩華守』を引き寄せ、石突きを雪から抜く。風が、また盾を叩いた。美鈴の身体が沈む。だが美鈴は、もう槍を地面に戻さなかった。腰を落とし、槍の穂先を、盾の縁の上から真っ直ぐに鋼龍へ向ける。
「――私が、突きます」
鋼龍が、もう一度地を蹴った。
さっきより速い。四肢が雪を撒き散らし、錆びた鱗がカラカラと鳴る。頭を低く下げ、壁の真ん中へ。
美鈴は、今度は盾を傾けなかった。代わりに半歩だけ横へ踏み込んだ。
鋼龍の頭が、盾の縁を掠めて通り過ぎる。その首の付け根が、美鈴の目の前に来た。
「――はぁっ!」
美鈴の槍が、真っ直ぐに伸びた。棘竜の緑の穂先が、鋼龍の右の肩口に突き刺さる。錆びた鱗が砕け、赤茶の粉がパッと散った。穂先に並んだ赤い棘から、中の毒が鱗の下へ流れ込んでいく。
鋼龍が、身を捩って咆えた。
美鈴は槍を引き抜き、すぐに盾を構え直した。鋼龍の尾が、横薙ぎに唸る。盾がそれを受けた。ガンと鈍い音が響き、美鈴の足が雪の上を二歩分滑った。
「美鈴さん!」
「大丈夫です!――受けて、流しました!」
美鈴の声は、少しだけ笑っていた。
鋼龍の右の前脚が、僅かに揺れた。踏み締めた脚が、雪の上で一瞬だけ震える。毒が、回り始めていた。
その時――早苗の頬に当たる風が、ふっと弱まった。
――え?
早苗は顔を上げた。
――鋼龍の周りの風の渦が、乱れている。右の翼の側の風が薄く、途切れ途切れになっていた。錆びた風の鎧の薄い側――そこに、毒が回っている。
「――今だ、比那名居!」
神奈子の声が飛んだ。
「右の前脚だ!角には触れるな!」
「分かってるわよ!」
天子が壁の陰から飛び出した。
風の薄い右側へ。雪を蹴立てて走りながら、背の大剣を引き抜く。赤熱した顎のような刃が、雪明かりの中でギラリと光った。
天子は鋼龍の右の前脚の前で、ぐっと腰を落とした。
大剣を肩に担ぎ、溜める。
一呼吸、二呼吸――
――鋼龍の首が、天子の方へ巡った。
「――比那名居っ!」
神奈子が叫んだ。それでも天子は動かなかった。歯を食いしばったまま、大剣を担ぎ続けている。鋼龍の口が、天子の頭上で開いた。
その瞬間――神奈子の御柱が火を噴いた。
ドンッ――と重い砲声が響いた。
砲弾が鋼龍の左の頬を打つ。錆びた鱗が弾け、鋼龍の首が左へ大きく逸れた。
「――今!はぁぁッ!!」
天子が大剣を振り下ろした。
溜めに溜めた一撃が、鋼龍の右の前脚に叩き込まれる。錆びた鱗が砕け散り、赤茶の粉と雪が一緒になって舞い上がった。
鋼龍の身体がグラリと傾いた。右の前脚が雪の上に膝をつく。
「どうよ!」
天子が叫んだ。
「天人の一太刀、効いたでしょう!」
「下がれ、比那名居!」
神奈子が怒鳴った。
鋼龍の尾が、天子のいた所を薙ぎ払った。天子は大剣を盾にして受け、雪の上を転がって壁の陰へ戻ってくる。
「……ちょっと!今の、褒めるところでしょう!」
「褒めるのは、帰ってからだ」
神奈子は砲身から立ち昇る煙を払いながら言った。
「――よく溜めた。だが、二度と目の前で溜めるな」
天子は口を尖らせたが、帽子の鍔を下げて黙った。
鋼龍がゆっくりと立ち上がった。
右の前脚を庇うように、少しだけ身体を傾けている。灰色の眼が、壁を睨んだ。
《center》〈……グルル〉
――そして、一歩。鋼龍は、北へ下がった。
早苗は息を呑んだ。
――下がった。
もう一歩。鋼龍の後ろ脚が、広場の北の端の雪を踏む。その先は、集落の北の外れ。その先に、北の峰の肩へ登る雪の斜面が続いている。
「――押せ」
神奈子が、低く言った。
「――このまま、押すぞ」
美鈴が盾を前に出した。番太が並び、神奈子が盾を重ねる。――三枚の壁が、また一歩、北へ進んだ。
~妖怪の山 北の峰の麓の集落 北の外れ~
――集落の最後の家を過ぎた所で、鋼龍は足を止めた。
家々の屋根が途切れ、その先に、北の峰の肩へ続く白い斜面が広がっている。斜面の上の方は、灰色の雲に呑まれて見えなかった。
鋼龍は、斜面の雪を後ろ脚で踏んだまま動かない。
右の前脚を僅かに浮かせ、首を低く下げている。浮いた背の鱗が、カラカラと鳴った。
壁の後ろで、早苗は操虫棍を握り直した。
――後、少し。この斜面を押し上げれば、その先に岩棚がある。
「――下がりなさい」
華扇が、盾の陰から静かに言った。鋼龍に向かって、だった。
「帰り道は、空けてあるわ。後ろには、もう誰も居ない」
鋼龍の灰色の眼が、華扇の方を向いた。
その目が、華扇の左腕の白銀の盾に止まった。五年前、この龍自身が脱ぎ捨てた殻から作った盾。鋼龍は、長い間それを見ていた。
――分かったのだろうか。
早苗がそう思った時――鋼龍の翼が大きく持ち上がった。
風が真上から叩き付けて来て、早苗は思わず目を閉じた。雪が舞い上がり、視界が真っ白になる。耳元で風がゴウゴウと唸った。
目を開けると、鋼龍は宙に浮いていた。
翼を大きく広げ、斜面の上の空で、ゆっくりと羽ばたいている。錆の色の腹が、灰色の雲を背にして浮かんでいた。
「――飛んだか」
神奈子が、御柱の砲身を空へ向けた。
「空では押せん。――下ろさねばならん」
鋼龍の首が、真下を向いた。
喉の奥で、風が渦を巻く音がする。
「――伏せろ!」
神奈子の声と同時に、鋼龍の口から風の塊が吐き出された。
渦を巻く透明な塊が、壁のすぐ前の雪に叩き付けられる。雪が爆ぜ、早苗の身体が後ろへ吹き飛ばされた。背中から雪に落ちる。息が詰まった。
「早苗っ!」
ソヨの声がした。
顔を上げると、ソヨが番太の背から飛び降りて、雪の上を転がるように駆けてくるところだった。小さな手が、早苗の肩を掴む。
「怪我、無いニャ!?」
「……大丈夫。ソヨ、番太の傘から出ちゃ駄目って」
「早苗が飛ばされたら、出るに決まってるニャ!」
ソヨは腰の袋から、透き通った小さな玉を取り出した。両手で包んで、早苗の胸の前で割る。
ふわりと、柔らかな泡が広がった。――[回復しゃぼん]の泡が早苗の身体に触れて弾けるたびに、背中の痛みが少しずつ引いていく。
「……ありがとう、ソヨ」
「お礼は後ニャ。――来るニャ!」
空の鋼龍が、二発目の風の塊を吐いた。
今度は、壁の真上だった。
美鈴が盾を斜め上へ掲げた。風の塊が盾の面に当たって、斜めに逸れる。逸れた塊が、すぐ脇の空き家の屋根を半分削り取っていった。
「――このままでは、壁ごと削られる」
咲夜が、美鈴の肩越しに空を見上げた。
「あの高さには、ナイフも届かないわ」
「――届かせる必要はない」
神奈子が、集落の裏の尾根を見上げた。
尾根の上の岩陰。そこに、白い影が一つ立ち上がっていた。
――椛だった。
片手に、丸い玉を握っている。もう片方の手を真っ直ぐに空へ向けていた。鋼龍の位置を、指で測っているようだった。
早苗は、椛の唇が動くのを見た気がした。
――目を、閉じて。
早苗はとっさに腕で目を覆った。
椛の腕が、大きく振られた。
玉が、風の中を真っ直ぐに飛んでいく。鋼龍の頭の、すぐ前へ。
――[閃光玉]が炸裂する。
閉じた瞼の裏が、真っ白に灼けた。
同時に、鋼龍の悲鳴が空から降ってきた。翼の羽ばたきが乱れる音が聞こえ、風の唸りが一瞬だけ途切れた。
腕を下ろすと、鋼龍が空から落ちてくるところだった。
翼を半ば畳んだまま、錆の色の巨体が斜面の上へ落ちていく。雪煙が、ドッと高く上がった。地面が揺れる。
「――落ちたぞ!」
神奈子が叫んだ。
「今のうちに、斜面を押し上げる!」
鋼龍は、斜面の中ほどで雪に半ば埋もれていた。首を振り、前脚で雪を掻いている。目がまだ見えていないようだった。
壁が動いた。
美鈴が盾を前に、番太が番傘を並べ、神奈子が盾を重ねる。三枚の壁が、雪の斜面を登っていく。華扇と天子と咲夜が、その後ろに続いた。
早苗も操虫棍を握って立ち上がった。
――私も、何か。
早苗は操虫棍の先の猟虫を見た。羽を畳んで、じっと早苗を待っている。
「――行って!」
早苗は棍を振った。
猟虫が、羽音を立てて飛び立った。風の中を低く這うように飛び、鋼龍の首の付け根に取り付く。錆の剥げた所。新しい灰色の鱗が覗いている所。
猟虫が、何かを吸い取って戻ってきた。
早苗の棍の先に止まった猟虫の身体が、ぼんやりと赤く光る。早苗の腕に、温かな力が流れ込んできた。
――首の付け根の、新しい鱗。
早苗は、猟虫の脚に付いた粉を指で拭った。
赤茶の錆の粉。その中に――キラリと光る、白い小さな粒が混じっていた。雪ではなかった。指の上で溶けない。
「……何、これ」
早苗は呟いた。だが、確かめている暇はなかった。
斜面の上で、鋼龍が首をもたげていた。
閃光の眩しさが、もう抜けかけている。灰色の目が、斜面を登ってくる壁を見下ろしていた。
――鋼龍の周りの風が、色を変えた。
早苗は、最初は目の錯覚だと思った。
だが、違った。斜面の上で首をもたげた鋼龍の周りで、風の渦が黒く濁っていく。錆の粉だった。浮き上がった鱗から剥がれ落ちた赤茶の粉が、風に巻き上げられて、渦そのものを暗く染めていた。
「……毒が、抜け始めているわ」
華扇が低く言った。
鋼龍の右の前脚が、もう震えていなかった。雪をしっかりと踏み締め、首を高く持ち上げる。灰色の目が、壁の真ん中の美鈴の盾を、真っ直ぐに見下ろしていた。
美鈴が、息を呑む気配がした。
「――気が、変わりました」
美鈴の声が、初めて硬かった。
「さっきまでは、疲れて怒ってました。でも、今は――」
美鈴は盾の縁を握り締めた。
「――全部、出してきます」
鋼龍が翼を広げた。
錆の色の翼が、斜面いっぱいに広がる。黒い渦が、翼の下でうねった。鋼龍は首を大きく反らせ、空に向かって口を開いた。
咆哮が山を揺らした。
早苗の耳の奥で、何かが弾けるような音がした。思わず両手で耳を塞ぐ。操虫棍が雪の上に倒れた。目の前が、一瞬だけ暗くなる。
黒い風が、斜面を叩く。
美鈴の盾が、ガンと鳴った。番太の番傘が、軋んだ。神奈子の盾の縁で、注連縄が千切れそうなほど震えている。三枚の壁が、一歩、後ろへ押し戻された。
「――踏み止まれ!」
神奈子が叫んだ。
「押し戻されるな!ここを下がれば、集落の真ん中だ!」
美鈴は答えなかった。歯を食いしばり、足を雪に沈めている。槍の石突きを、もう一度背中側の雪に突き立てた。四つの支え。それでも、美鈴の足元の雪が、少しずつ後ろへ削れていく。
〈ガル……!〉
番太が低く唸る。
番傘の柄を口に咥えたまま、四本の脚で雪を掴んでいる。虎毛の背中の毛が全部逆立っていた。
――下がらない。
番太も、美鈴も、一歩も下がらなかった。その時――壁の右の端にもう一つ影が並んだ。
――天子だった。
背の大剣を抜き、幅の広い刃を盾のように前に立てている。赤熱した顎のような刃の腹に黒い風が叩き付けられた。天子の身体が、グラリと揺れる。だが天子は大剣の柄を両手で握り、雪の中に踵を沈めた。
「……ちょっと、神奈子」
天子が、歯の間から言った。
「要石を一つここに刺せば、こんな風なんて――」
「――駄目だ」
神奈子は、振り向きもせずに言った。
「約束は、約束だ。お前の要石は、山を揺らす。あの龍の脱ぐ場所まで揺らす」
「……分かってるわよ!言ってみただけ!」
天子は叫んで、大剣をさらに前へ押し出した。
「なら、私が壁になればいいんでしょう!天人の剣は、そう簡単に折れないのよ!」
四枚目の壁が、黒い風を受け止めた。
咲夜が、美鈴の背中のすぐ後ろに膝をついていた。息がまだ荒い。それでも、腰のナイフの残りを指で数えている。
「――美鈴」
「はい」
「――倒れたら、お嬢様に言い付けるわよ」
「倒れませんよ」
美鈴は、盾の向こうの黒い風を睨んだまま答えた。
「――門番ですから」
ソヨが番太の脇から転がり出て、背中の小さな鉢を雪の上に置く。鉢の中で、緑の芽が見る見るうちに伸び、緑の実を一つ付けた。――[癒しの果実]が実る。
「美鈴さん!これ、食べるニャ!」
ソヨが実をもぎ取って、美鈴の口元へ背伸びして差し出す。美鈴は盾を構えたまま、首だけ伸ばしてそれを齧った。
「……甘いですね。ありがとうございます」
「お礼は後ニャ!」
その時、鋼龍が地を蹴った。
だが、壁の方へではなく――真上へ。
錆の色の巨体が、黒い渦を引き連れて空へ駆け上がっていく。翼が大きく打ち下ろされるたびに、渦が太く、高くなった。
鋼龍は空の一点で円を描き始めた。
大きく、ゆっくりと――翼で風を掻き回すように。その円の下で、黒い渦が一本の柱になっていった。
「……竜巻……!」
早苗は呟いた。
雪と錆の粉を巻き上げた黒い柱が、斜面の上にそそり立っている。柱の根元で、雪がゴウゴウと音を立てて吸い上げられていた。家ほどもある岩が、斜面の上をゴロリと転がる。
「――待ちなさい」
華扇が竜巻を睨んだまま言った。
「おかしいわ。あの龍の竜巻は、自分の周りに立てるもの。――でも、あの柱は」
早苗は、竜巻の根元を見た。
黒い柱が、ゆっくりと動いていた。
北へではない。岩棚の方へでもない。
――南へ。斜面を下り、集落の北の外れを越えて、家々の屋根の方へ。
「――錆びた風の鎧の、乱れた側」
華扇の声が、僅かに震えた。
「左の翼の側の風が、暴れている。あの龍は真っ直ぐに竜巻を立てたつもりでも、柱が傾いて、勝手に南へ歩いていくのよ。――あの龍自身にも、もう止められない」
「……南には、何がある」
神奈子が訊いた。
分かっていて訊いているのだと、早苗には分かった。
集落の南の外れ。道祖神。踏み固めた雪の道。杉林。中腹の山道。その先は――
「――『駒草集会所』です」
六十三人と、白狼天狗が三十人。それに、霊夢と山如と典と鈴仙と、一匹の黒い猫。
「――神奈子様!」
頭の上から、声が降ってきた。
嵐の縁の外。道祖神の上の空に、黒い翼が一つ――文浮かんでいた。風に煽られて大きく揺れながら、それでも縁の外に踏み止まっている。
「竜巻が、中腹の道に乗ります!このままの向きなら、山道の曲がり角を抜けて――集会所です!」
「――文!」
神奈子が、空へ叫んだ。
「集会所へ飛べ!人を奥へ下げろ!――山如に言え!全館の戸を、窓を閉めろとな!」
「承知しました!」
文の翼が南へ翻った。黒い影が、杉林の向こうへ見る見るうちに小さくなっていく。
神奈子が早苗に振り返る。
「――早苗」
早苗は雪の上の操虫棍を拾い上げた。手が震えていた。それは寒さのせいではなかった。
「――
神奈子の声は、静かだった。
――風祝。風を祝い、風を鎮める、守矢の巫女の務め。
早苗は、子供の頃に神奈子から聞いた言葉を思い出した。
――『風祝が祝う風は、敵の風ではない』
外の世界で、まだ自分が何者かも分からなかった頃。境内の木々を揺らす風に、小さな手を合わせていた頃。風は、いつもどこかへ行きたがっている。行きたい所へ行かせてやるのが、風祝の祈りだと。
――行きたい所へ。
早苗は空の鋼龍を見上げた。
黒い渦の真ん中で、錆の色の翼が円を描き続けている。苛立ち、疲れ、それでも止まれずに。あの龍が本当に行きたいのは、集会所ではない――北の岩棚だ。五年前と同じ、雪と岩だけの静かな場所。
早苗は、黒い柱に目を戻した。柱は、空の鋼龍の円の下で唸っている。あんなに大きな風を、鎮めたことはない。早苗の奇跡で出来るのは、一瞬だけ風向きを変えるくらいだ。
――でも、一瞬なら。
「……一瞬なら、出来ます」
早苗は答えた。
「長くは無理です。でも、一瞬だけなら、あの柱の足を北へ向けられるかもしれません」
「その一瞬で足りる」
神奈子が、御柱を構え直した。
「その一瞬に、私の風を重ねる。――茨華仙」
「えぇ」
華扇が、左腕の盾を掲げた。
鋼龍剣盾『風導』。五年前、この龍が脱ぎ捨てた殻から作った剣と盾。風を導く――という銘の片手剣。
「この盾は、あの龍の風の形を覚えています。――柱の縁なら、私が導けるかもしれない」
華扇は盾の白銀の面を、包帯の右手でそっと撫でた。
「五年前、あの龍は新しい鱗で、東から西へ渡っていきました。――あの時の風を、もう一度見たい」
その声は、説教の時の硬さではなかった。
「――紅美鈴」
「はい!」
「お前と番太は、ここで壁を保て。竜巻が向きを変えた時、あの龍は必ず降りてくる。――その時に押し返す壁が要る」
「任せてください!」
〈ワウ!〉
美鈴は盾を構え直した。番太が、番傘の柄を咥え直す。
「咲夜、比那名居。――お前達は、龍が降りてきた時の毒と刃だ」
「かしこまりました」
「……ふん。言われなくても」
神奈子は集落の裏の尾根を見上げた。
岩陰の白い影が、まだそこに居た。椛は、片手にもう一つの丸い玉を握っている。神奈子が片手を挙げて空の鋼龍を指すと、椛は一度だけ大きく頷いた。
――龍が降りてきたら、もう一度。
言葉は無くても、それで通じた。
早苗は、操虫棍を胸の前に立てた。
白銀の棍の先で、猟虫が羽を震わせている。ソヨが、早苗の脚にしがみついた。
「早苗」
「……ソヨ。私の後ろに居て」
「居るニャ。――ずっと、傍に居るニャ」
早苗は目を閉じた。
耳の奥で、風が唸っている。黒い風。錆の匂いのする、疲れて怒って帰りたがっている風。
早苗は――息を吸った。唇が、祝詞の最初の一句を紡ぎ始める。
その時、竜巻の根元が、集落の北の外れの最初の家に触れた。藁屋根が、一息に空へ吸い上げられていく。
――黒い風が、山を下り始めた。