東方竜狩郷 ~幻想郷の狩人少女達~ 作:幻想入りしたガンサー
~『幻想海』 北の磯~
――潮が、まだ引いている。
舳先に立った船頭は、櫓を握ったまま首を傾げた。
夜明けの海は鈍い鉛の色をしている。北の磯は風が冷たく、波頭が白く砕けるたびに細かな飛沫が頬を刺す。沖の方は今朝も霞んでいて、水平線というものが見えない。見えないのが当たり前の海だから、誰もそれを気に留めないが。
波間には、掌ほどの氷の欠片がいくつも漂っていた。寒い島々の方から、潮に乗って流れてきたものだ。磯の岩には白い霜が降り、潮の引いた岩肌には小さな蟹がピタリとしがみついている。その蟹を狙って、海鳥が二羽、岩から岩へ跳び移っていた。普段なら水の下に居る筈の蟹で、普段なら届かない筈の嘴だ。
――舟は一艘。荷を積んだ平たい荷舟で、船腹が水面すれすれまで沈んでいる。塩漬けの魚の樽が八つ、肝を詰めた壺が四つ、岩場で剥いだ貝殻の袋が二つ。寒い島々を三日かけて回った戻りの荷だ。
「村紗、また眉間に皺が寄ってるわよ」
艫の方から自分の名を呼ぶ声が掛かった。
樽の間に腰を下ろした尼僧が、頭巾の下からこちらを見ている。紺の頭巾に、袖の長い僧衣。手首には金の輪。その傍らには、薄桃色の雲が一塊、舟の縁にもたれるようにして浮かんでいた。雲には厳つい老人の顔があり、口をへの字に結んだまま、海を睨んでいる。
命蓮寺の古参の尼『雲居一輪』と、その相棒の見越し入道『雲山』である。
「皺なんか寄ってないよ。……ほら、あそこの岩。もう頭が出てなきゃおかしいのに、まだ根元まで見えてる」
船頭が顎で磯の岩を指す。
黒い水兵の襟に白い上衣、頭には錨の印の付いた船長帽。襟と肩には白い棘のような殻が並び、袖口には青い鱗が縫い付けてある。腰には、底の抜けた柄杓が一本、紐で吊るしてあった。
命蓮寺の門弟にして船頭『村紗水蜜』。遠征の舟を出すと言えば、まずこの舟幽霊の名が挙がる。
「――潮の時刻なら、記録してあるわ」
樽の陰から、もう一つ声がした。人里ギルドの生態研究室から、この遠征に乗り込んできた『朝倉理香子』である。
「三日前の朝、寒い島の方で引き始めたのが、ほぼこの刻。……確かに、少し長いわね」
「でしょ」
「でも一度きりの記録で長いとは言えないわ。検証はデータの数を揃えてからよ」
理香子は帳面に何かを書き付けた。村紗は肩を竦めて、櫓を一つ大きく漕ぐ。
舟は浅瀬を縫って、磯の奥の小さな浜へ滑り込んでいった。
浜には番屋が一棟建っている。遠征のたびに人里の者が手を入れてきた、板葺きの小屋だ。その前に魚を干す棚が三列並び、出がけに村紗達が吊るしていった干物が、戻る頃には食べ頃になっている――筈だった。
舟底が砂を噛む。村紗は真っ先に浜へ飛び降りて、そこで足を止めた。
「……あらら」
干し棚が二列、横倒しになっていた。
吊るしていた魚は一尾も残っていない。縄だけが千切れて垂れ下がり、砂の上には魚の頭と骨が散らばっている。番屋の戸は無事だった。戸の前に置いた塩の樽も無事だった。狙われたのは、魚だけだ。
一輪も舟から降りて、倒れた棚を見下ろした。雲山がその背後にムクリと膨らむ。
「熊……じゃないわね。熊なら番屋の戸ごと壊すもの」
「人でもないね。人なら棚を倒さずに盗る」
村紗は倒れた棚の脇にしゃがみ込んだ。
砂の上に、跡が付いていた。
足跡ではない。橇を引いたような、浅く長い溝だ。幅は掌一つ分ほど。波打ち際からまっすぐ干し棚へ向かって延び、棚の手前でぐるりと渦を巻いている。溝の底は霜で白く固まり、両脇の砂がわずかに盛り上がっていた。
一本ではない。波打ち際から棚まで、同じような溝が何本も並んで延びている。
「腹で滑ってきてる」
村紗が指で溝の縁をなぞった。
「これ、氷の上を滑る奴の跡だよ。寒い島の方で何遍か見た」
理香子が、帳面を抱えたまま隣に膝をついた。眼鏡を押し上げ、溝の数を指で数えていく。
「一、二、三……九本。重なっているのもあるから、九頭か、十頭。幅が揃っているから、ほとんど同じ大きさね」
それから理香子は、倒れた棚の柱に顔を近付けた。
柱の木肌に、青い欠片が一枚、刺さったように張り付いていた。爪の先ほどの小さな鱗だ。理香子は手袋をはめた指でそれを摘み、指の腹でそっと撫でた。
「……ザラザラしてる。一方からは滑らかで、逆からは鑢みたい。鮫の肌と同じよ」
次に理香子は、砂の上の魚の頭を一つ拾い上げた。
頭の後ろの肉が、妙な形で抉れていた。噛み千切ったのではない。噛み付いたまま、ぐるりと捩じったように、傷口が螺旋を描いて広がっている。
「噛み付いて、体ごと回して肉を裂いた。……間違いないわ。[スクアギル*1]よ。化け鮫――[ザボアザギル*2]の子供」
「『化け鮫』の子……」
一輪が眉をひそめ、浜の左右を見回した。
「じゃあ、親も近くに居るんじゃないの?」
「スクアギルは氷の中に産み付けられた卵から、勝手に孵るの。親は子を育てない。だから子が居るからといって、すぐ傍に親が居るとは限らないわ」
理香子はそう言いながらも、立ち上がって浜をぐるりと一巡りした。波打ち際、岩の陰、番屋の裏。それから戻ってきて、首を横に振る。
「大きな足跡は無し。重いものが這った跡も無し。……今のところは、子供だけね」
「今のところは、ね」
一輪が、念を押すように繰り返した。
村紗は溝を辿って、波打ち際の方へ歩いていた。
九本の溝のうち、二本だけが途中で途切れている。途切れた先には、溝の代わりに小さな四本足の足跡が、ちょこちょこと続いていた。足跡の脇の砂が、白く、硬く、凍りついている。水を撒いたような形のまま、霜の花が咲いていた。
「理香子、これ」
「どれ?……ああ」
理香子が凍った砂を靴の先で叩いた。コツコツと、石のような音がする。
「十分に食べた個体は、体の中に溜まったガスで一気に膨らんで、脚を出して歩くようになるの。そうなると、冷たい液を吐くわ。これがその跡よ。……二頭。膨らんだのが二頭混じってるみたいね」
「吐かれたらどうなるの?」
「足元が凍る。手足に掛かれば、しばらく指がかじかんで動かない」
一輪が「面倒ね」と呟き、雲山が無言で眉を寄せた。
村紗は足跡の行き先を目で追った。
足跡も溝も、最後は同じ所へ消えている。浜の東の外れ、黒い岩が折り重なった磯の陰だ。普段なら潮に沈んでいる筈の岩の根元が、今朝はすっかり剥き出しになって、その奥に大きな潮溜まりが口を開けていた。水面には、薄い氷と雪の混じったシャーベットのようなものが浮いている。
村紗はそれをじっと見た。
水の気配を読むのは、舟幽霊の性分だ。どこが淀み、どこが渦を巻き、どこで舟が沈むか。目を閉じていても、水の方から教えてくる。
潮溜まりの水は、底の方でかすかに揺れていた。波のせいではない。何かが、水の底で身じろぎしている揺れ方だった。
「……居るね。あそこの潮溜まり。潮が引いて、出られなくなってるんだ」
「出られない?」
「沖へ戻る道が干上がってる。だから腹が減って、陸に上がって棚を漁った。潮が満ちれば勝手に帰ると思うけど」
村紗はちらりと舟の方を振り返った。
荷舟には魚の樽が八つ。肝の壺が四つ。どれも、腹を空かせた化け鮫の子にとっては、ご馳走の山である。
「――荷揚げを始めたら、匂いで出てくるね。間違いなく」
一輪が溜め息をついて、腰の得物に手を掛けた。
「どうするの。荷を舟に積んだまま潮を待つ?」
「待ってたら魚が傷むよ。肝はなおさら。……それに、あいつらはもう見てる」
村紗が潮溜まりの方へ顎をしゃくった。
シャーベットの浮いた水面に、尖った頭が一つ、二つ、ヌッと突き出していた。鏃のような頭だ。小さな黒い眼がこちらを向いている。更に三つ、四つ。数が増えていく。
「討つの?」
一輪が訊いた。命蓮寺の者なら、必ず一度はそれを訊く。
「討たない。追っ払うだけ。潮が戻るまで、荷に近寄らせなきゃいいんだよ」
村紗は背負っていた得物の留め金を外した。
それは、錨の形をした大剣だった。
幅広の刀身の根元から、左右に鉤のような返しが張り出している。刀身は深い青の鱗で覆われ、峰には白い殻の棘が背骨のように並んでいた。海の王者と呼ばれる海竜――[ラギアクルス*3]の鱗と背の殻から打ち出した大剣――海竜大剣『沈没錨』。
一輪も、腰から鎚を外した。
鎚頭は握り拳の形をしていた。黒い甲殻を固く重ね、拳の節に当たる所に、緑の筋が細く走っている。柄頭には一輪の金輪が嵌めてあった。拳を振るって粘菌を爆ぜさせる獣竜、[ブラキディオス*4]の甲殻を使った鎚――砕竜鎚『拳骨入道』。
「理香子は番屋の中ね。戸を閉めて、窓から見てて」
「見てるだけじゃ記録にならないわ。鱗の一枚でも落としたら拾わせて」
「落とさせるよ。多分だけど」
理香子が番屋へ駆け込み、戸がぴしゃりと閉まった。すぐに窓の突き上げ戸が拳一つ分だけ開き、丸眼鏡と帳面の角が觗く。
村紗は指を舐めて、顔の前に立てた。
風は海から陸へ吹いている。弱いが、向きは変わらない。このままだと、舟の匂いは潮溜まりへ届かない。届かないまま荷揚げを始めれば、あの子達はばらばらに、思いも寄らない所から匂いを嫅ぎ付けて出てくるだろう。
「――一輪。あいつら、こっちから呼ぶよ。バラバラに来られるより、まとめて来てもらった方が楽だし」
「まとめて来たら、まとめて相手することになるじゃない」
「滑ってくる奴は、曲がるのが下手なんだよ。氷の上と同じで、一度勢いが付いたら、まっすぐしか来ない。だから正面から受けないで、横から崩して。転ばせば、しばらく起き上がれないから」
一輪は無言で鎚を握り直した。雲山がその背後で、拳をゴキリと鳴らすような仕草をした。雲に関節はないが、当人はそのつもりらしい。
村紗は舟の傍らに立ち、一輪は雲山と並んで、潮溜まりと荷舟の間に陣取る。凍った砂は硬く、踏むとザクリと鳴った。滑る側には好都合の、立つ側には不都合の足場だった。
――さて。
村紗は大剣の柄を握り直して、舟の縁に手を掛けた。そして、一番上の樽の蓋を、わざと少しだけずらした。
塩と魚の匂いが、冷たい風に乗って浜へ流れた。
〈ギュルッ……ギュルルッ!〉
潮溜まりが、ざわりと泡立つ。
次の瞬間、尖った頭が一斉に水から飛び出した。
青い小さな体が、シャーベットを跳ね飛ばして岩の上へ這い上がる。手足はない。体は丸く、尾だけが長い。それが岩から砂浜へ、腹ばいのまま滑り降りてきた。
速い。
凍った砂の上を、腹で滑る。尾で砂を一打ちするたびに、ぐんと前へ出る。九つの青い塊が、橇のように一直線に荷舟へ殺到してきた。
「――雲山!」
一輪の声と同時に、薄桃色の雲が膨れ上がった。
雲は見る間に大きな掌の形になり、浜を横切るように地面へ叩きつけられた。砂が舞い上がる。先頭の三頭が掌の縁にぶつかって、勢いのまま宙へ跳ね上がり、ボテリと砂に落ちた。
残りは掌を回り込んだ。二手に分かれて、左右から舟へ迫る。
右から来た三頭の前に、一輪が踏み込んだ。
鎚を振りかぶり――スクアギルではなく、その鼻先の砂を、真上から叩く。
ドン、と腹に響く音がした。凍った砂が割れ、拳の形の窪みが浜に穿たれる。地面が跳ねた。滑ってきた三頭は窪みの縁で体勢を崩し、ころころと横へ転がっていく。
「ほら、帰りなさい!ここはあなた達の食堂じゃないのよ!」
〈キュイッ、キュイィッ!〉
転がった一頭が、起き上がりざまに一輪の脛へ飛びついた。
鏃のような頭が、脛当ての黒い甲殻に噛みつく。噛みついたまま、青い体がぐるりと回った。一回、二回。甲殻の表面がギリギリと鳴る。
「こ、のっ……!」
一輪が足を振り上げる。スクアギルは振り落とされまいと、更に回る。雲山の拳がその横っ腹をコツンと小突いて、ようやく離れた。
左から来た三頭は、舟の真横まで滑り込んでいた。
村紗は大剣を構えなかった。代わりに、錨の刀身を寝かせたまま、砂の上を薙ぎ払う。
刃ではなく、幅広の腹で。
バチン、と平手打ちのような音がして、二頭がまとめて弾き飛ばされた。砂の上を滑って、波打ち際まで転がっていく。
三頭目は、刀身の下を潜り抜けた。
尖った頭が、村紗の袖口に噛みつく。青い鱗を縫い付けた袖に、小さな歯ががっちりと食い込んだ。そのまま体ごと回ろうとして――
「あはは、残念」
村紗の袖は、回らなかった。中身の腕ごと、するりと回ったのは舟幽霊の方だった。
噛みついた獲物が手応えもなく一緒に回ったので、スクアギルは目を白黒させた。村紗はその尾をひょいと摘み上げる。
「この私を水に引きずり込もうなんて、百年早いよ」
そして、波打ち際へ放り投げた。青い体が弧を描いて、浅瀬にポチャンと落ちる。
――その時、浜の奥で、ブクリと何かが膨れる音がした。
村紗は振り返った。
干し棚の陰から、二頭が這い出してきていた。他より一回り大きい。丸い体が風船のように膨らみ、その下から短い四本の脚が突き出している。腹ばいではない。チョコチョコと、歩いている。
膨らんだ二頭だ。
一頭が、喉をクッと反らした。頬の辺りが、プクリと更に膨らむ。
「一輪、足元!」
村紗が叫ぶのと、膨らんだ喉から白い液が吐き出されるのが同時だった。
液は一輪の足元の砂を打った。たちまち砂が白く凍りつき、霜の花が足首まで這い上がる。一輪の草履が砂に縫い止められた。
「冷たっ……!」
もう一頭が、動けなくなった一輪へ向かって、ちょこちょこと駆け寄ってくる。小さな口がガバリと開いた。
雲山が、黙って一輪の前に立った。
雲の体が分厚い壁のように広がり、駆け寄る一頭を真正面から受け止める。噛みつかれても、雲には噛み千切る肉がない。スクアギルは雲の中で口をパクパクさせ、困ったように回転した。回っても回っても、ただ雲が渦を巻くだけだった。
その隙に、村紗が駆けた。
大剣を肩に担ぎ、膨らんだ一頭の脇へ回り込む。振り下ろしはしない。錨の返しを、膨らんだ腹の下へ差し込んで――掬い上げた。
〈ギュエッ!〉
丸い体が宙を舞った。膨らんでいる分だけよく飛ぶ。浜の上を大きな弧を描いて、潮溜まりの真ん中に落ち、ドボンと高い水柱を立てた。
もう一頭は、それを見てピタリと動きを止めた。
膨らんだ体が、プシュウと音を立てて萎んでいく。脚が引っ込み、腹ばいに戻ると、くるりと向きを変えて潮溜まりへ滑っていった。
残りの群れも、ばらばらとそれに続いた。砂の上で転がっていた者も、浅瀬で目を回していた者も、一頭、また一頭と、潮溜まりへ帰っていく。
だが、最後の一頭が岩の上で振り返った。
舟の方を見ている。樽の蓋の隙間から漂う匂いを、まだ諦めきれないのだ。
「……しつこいなぁ。まぁ、腹が減ってるもんね」
村紗は大剣を背に戻し、舟へ戻った。肝の壺を一つ開け、中から一番小さな肝を一つ摘み出す。
「村紗?」
「潮が満ちるまで、あそこで大人しくしててもらうんだよ」
村紗は肝を、潮溜まりの一番奥――沖へ繋がる岩の割れ目の方へ、思い切り放り投げた。
肝がシャーベットの上に落ちる。岩の上の一頭が、弾かれたようにそちらへ飛び込んだ。水面が激しく泡立ち、青い背中がいくつもそこへ群がっていく。
潮溜まりの奥で、小さな背中が揉み合う音だけが続いた。荷舟の方を振り返る者は、もう居なかった。
村紗は、ふぅと息を吐いた。
「――はい、荷揚げ始め!今のうちに全部、番屋に入れちゃうよ!」
番屋の戸がガラリと開き、理香子が飛び出してくる。
その手には、もう採取用の小瓶と、ピンセットが握られている。
「鱗!今の、膨らんだ方の鱗は落ちてない?!それと凍った砂、溶ける前に削らせて!」
「先に荷!」
一輪の怒鳴り声が、冷たい浜に響いた。凍った砂に足を縫い止められたまま、尼僧は鎚を杖にして、雲山に引っ張り出してもらっているところだった。
~『幻想海』 北の磯の番屋~
――囲炉裏の火が、パチリと爆ぜた。
番屋の土間には、運び込んだ樽と壺が所狭しと積まれている。塩と魚と、濡れた衣の匂いが混じり合う。窓の外では、日がもう高く昇っていた。
一輪は囲炉裏の端に座り、裸足を火に翻していた。凍った砂に縫い止められた草履は、結局砂ごと掴み出して、今は囲炉裏の脇で溶けながら滴を落としている。
「……まだ足の指が自分のものじゃないみたい」
「それ、凍傷の一歩手前よ。いきなり火に近付けないで、ゆっくり温めて」
理香子が帳面から目を上げずに言った。その前には、収穫物がずらりと並んでいる。干し棚の柱から剥がした青い鱗が一枚。浜で拾い集めた鱗が三枚。溶ける前に削り取った凍った砂の小瓶。噛み跡の残った魚の頭。どれにも番号札が付けられ、拾った場所と刻限が書き込まれていた。
雲山は天井の梁の辺りに漂い、小さく縮んでいた。狭い番屋の中では、それが一番邪魔にならないらしい。
村紗が戸を開けて入ってきた。船長帽のつばから、雫が一つ落ちる。
「舟、もう一回繋ぎ直してきたよ。今夕の満ち潮で流されたら、帰りは歩きになっちゃうしね」
「あの子達は?」
「潮溜まりで大人しくしてる。肝を取り合って喧嘩してるのも居るけど。……あ、あとこれ。一輪の脛当てに引っ掛かってた」
村紗が理香子の前に、小さな白いものを置いた。
歯だった。米粒ほどの、尖った歯が一本。
「……歯!」
理香子の眼が丸眼鏡の奥で光った。ピンセットでそっと摘み上げ、窓の光に翻す。
「根元が薄く滑らか――生え変わる歯ね。何度でも抜けて、何度でも生える。噛み付いて回るような食べ方をするなら、そうでなきゃやっていけないわ」
「理香子さん、あなた、人の脛にかじり付いた歯をそんな嬉しそうに……」
「嬉しいわよ。魚の頭の傷と突き合わせられるもの」
一輪は、言い返すのを諦めて足の指を揉んだ。
村紗は囲炉裏の向かいに胡座をかき、自在鉤に掛かった鉄瓶から白湯を注いだ。湯気の向こうで、窓の外の海を眺める。
磯の岩は、まだ根元まで見えていた。
「……やっぱりさ。今年は潮が長いね」
村紗が、誰にともなく言ちる。
「そう?」
「そうだよ。いつもなら、もうとっくに満ち始めてる刻限だもん。あの子達だって、潮がいつも通りなら、昨日のうちに沖へ帰ってたよ。棚も倒されずに済んだ」
「去年も何か言ってなかった?『今年は魚が素直だ』とか」
「去年の魚は本当に素直だったもん」
一輪が噴き出し、村紗もつられて笑った。
理香子だけが、帳面の頭の方へ頁を戻していた。潮の満ち引きを三日分、刻限ごとに書き付けた頁だ。指で一行ずつなぞり、最後の行で指を止める。
「……確かに、三日共引きが長いわ。しかも、日ごとに少しずつ長くなってる」
「でしょ」
「でも、不思議なことじゃないわよ。今は
理香子は筆の尻で、帳面の黒い表紙をトンと叩いた。
「山も森も湖も、変わり目には必ず何かしらずれる。渡りの時期が前後したり、孵る日が山ごとにばらついたり。海だけがずれない理由は無いわ。……それに、この海の潮は、もともと月の巡りと合ってないでしょう」
「そりゃそうだけどさ」
「合ってないものが、今年は少し多めに合ってない。……今のところは、それだけしか言えないわね」
理香子はそう言って、頁の端に小さく書き付けた。
――『引き潮、例年より長し。環境相の変わり目と思われる。続けて記録すること』
それで、潮の話は終わった。
一輪は足を拭いて足袋を履き直し、村紗は湯の残りを飲み干した。理香子の首は、もう次の番号札へ向いている。
「それより、村紗。膨らんだ個体、潮溜まりのどの辺りに落ちたか覚えてる?落ちた拍子に気を吐いたかどうか、知りたいのよ」
「覚えてないよ。投げるのに必死だったもん」
「……次は覚えておいて」
「次も投げる前提なんだ?」
理香子は答えず、魚の頭の噛み跡に物差しを当て始めた。
日が傾く頃、囲炉裏の自在鉤には鍋が掛かっていた。塩漬けの魚のアラと、島で採った海藻を放り込んだだけの汁だ。一輪が味を見て、塩味が強すぎると少し水を足す。湯気が梁まで昇り、雲山が迷惑そうに少しだけ脇へずれた。
村紗が汁を木の椀に注いで回す。その間に――一輪の僧衣の袖から、小さな徳利がコロリと出てきた。
「……一輪」
「体を温める薬よ。足の指がまだ冷えてるんだから、仕方ないでしょう」
「じゃあ、私も体を温めなきゃ。幽霊だけどさ」
「……聖様には内緒よ」
「もちろん」
天井の雲山が、厳つい顔を更にへの字に曲げた。それから徳利の香りを少しだけ吸い込んで、大きな溜め息を吐いた。雲には飲めない。飲めないから、少しだけ羨ましそうだった。
理香子は徳利には目もくれず、椀を片手に、物差しをもう片方の手から離さなかった。汁はそのうちに冷めた。村紗が二度、温め直してやった。天井の雲山が、寝息のようなものを小さく漏らした。
明日の朝には荷を陸路の荷車に移して、人里へ帰る。寺では白蓮が待っている。小鈴は報告を待っている。肝の壺は四つのうち一つ、中身が一つだけ減っている。
誰も、それ以上は気にしなかった。
海のことなど、毎年何かしら違う。それがこの海だと、皆が知っていた。
~『幻想海』 北の磯 夜~
――番屋の中から、一輪の寝息が聞こえてくる。
理香子の行灯も、ようやく消えた。消える直前まで、筆の音がしていた。
村紗は一人、波打ち際に立っていた。
幽霊はあまり眠らない。眠らなくても困らない。だから遠征の夜は、村紗が舟の番をする。それがいつの間にか、命蓮寺の決まりになっていた。
空は晴れている。寒い夜の星は粒が細かい。月はもう山の端に入りかけて、浜に長い影を引いていた。
潮は、ようやく満ち始めていた。
磯の岩の根元を、波が少しずつ洗っていく。潮溜まりの口にも、海の水が細い筋になって流れ込んでいた。もうしばらくすれば、化け鮫の子達は沖へ帰っていくだろう。肝を一つ、土産にして。
村紗は舟の舫いを確かめてから、潮溜まりの縁まで歩いていった。
星明かりの下で、水面のシャーベットは半分ほど凍り付いていた。その薄い氷の下に、青い背中がいくつも身を寄せ合っている。昼間あれだけ口を開けていた小さな獲漢達が、今は一塩になって、ただ静かに潮を待っていた。端の一頭は、肝の欠片を口に咥えたまま動かない。膨らんでいた二頭は元の大きさに戻って、もうどれがどれだか見分けが付かない。
「……昔の私なら、こういうのも水に引きずり込んでたのかなぁ」
笑うでもなく呟いて、村紗は潮溜まりから離れた。船を沈めていた頃のことは、もう半分も覚えていない。覚えていないことを、村紗はそれほど悲しいとは思っていなかった。
「……遅いなあ」
村紗は腰の柄杓を外して、足元の波を一杯、掬った。
底の抜けた柄杓だ。掬った水は、掬った端から穴を抜けて、サラサラと海へ戻っていく。寺では、これが一番害のない柄杓だと笑われている。
水が落ちていく音を、村紗はしばらく聞いていた。
波の音は、いつもと同じだった。寄せて、引いて、また寄せる。ただ、引いてから次に寄せるまでの間が、ほんの少しだけ長いような気がした。息を吸って、吐く前に、一つ分だけ止めているような。
村紗は空の柄杓を揺らして、沖を見た。
夜の沖も、やはり霞んでいた。星は水平線の少し上で途切れて、その下は黒いもやに溶けている。山も島も、漁り火も見えない。昔からそうだ。この海の沖を、村紗は一度も見たことがない。
「――ま、そういう海だもんね」
村紗は柄杓を腰に戻し、小さく鼻歌を歌い始めた。舟乗りの古い歌だ。歌詞は大半忘れていて、節だけが残っている。
波が寄せて、引いていく。
村紗の鼻歌は、いつの間にか波の間合いに合わせて、一拍だけ長く伸びていた。本人は、それに気付かなかった。
~マヨヒガ 奥の一間~
――同じ夜、山奥の迷い家。
母屋の火鉢では、今夜も鉄瓶の湯がたぎっている。誰も居ない座敷に膳が整えられ、縁側では猫とアイルーが入り混じって丸くなっていた。帳場の文机には、書きかけの台帳が開いたまま、筆が転がっている。台帳の主は、その横で猫のように丸くなって眠っていた。
――母屋の一番奥に、誰も使わない座敷がある。
行灯が一つ。酒はない。茶も出ていない。その空っぽの畳の上に、日傘を畳んで膝の脇に置き、金の髪の女が一人、正座していた。
女は扇子を開いたり閉じたりしながら、行灯の灯を見ている。
幻想郷ハンターズギルドの頂に立つ者――グランドマスター『八雲紫』。
――その背後で、戸が開く音がした。
座敷には、紫の背後に戸など無い。それでも音はした。立て付けの悪い扉を、無理にこじ開けたような、軋んだ音だった。
「……全く。この家の背中は、いつ来ても開きにくい」
苛立ち混じりの声と一緒に、紫の背後から椅子が一脚、ずるりと座敷へ出てきた。
畳の上に、椅子。背もたれと肘掛けの付いた、座り心地の良さそうな椅子である。そこに深く腰掛けたままの姿で、一人の女が紫の斜め向かいへ回り込んでくる。椅子の脚は畳に触れていない。音もなく、滑るように宙を運ばれてきた。
背へ流れる金の髪に、同じ金の瞳。頭には古風な冠を戴いている。橙色の狩衣は袖が大きく、腰から下は深い緑の裾と、膝まである長い靴。胸元から垂らした前掛けには、北斗の七つ星と、名も知れぬ星座がいくつも縫い取られていた。
椅子の背の向こうには、桃、黄緑、橙、水色――四つの色の気配が、陽炎のように立ち昇っている。左手の先には小さな鼓が一つ、誰にも支えられずに浮かんでいた。そしてその背中の、何もない宙に、古びた扉が一枚。今しがた紫の背後で軋んだのも、この扉だった。
後戸の神にして秘神――『摩多羅隠岐奈』。幻想郷のどの帳面にも、その名は載っていない。
「あら。遅かったわね」
「開かなかったんだ。三度も叩いたぞ」
「迷い家だもの。どこに建っているのか、家の方も分かっていないのよ」
「分かっていて、お前はここを選ぶ。……悪くはない。悪くはないが、何だかなぁ」
隠岐奈は肩を竦め、椅子の肘掛けに肘を突いた。人前での仰々しい語り口は、この座敷では一度も出たことがない。ここで『見よ、聞け、語れ』と叫んだところで、聞くのは紫と縁側の猫くらいのものだ。
指先で、髪の一房を鬱陶しそうに肩の後ろへ払う。金の髪は行灯の灯を受けて、紫の髪と同じ色に光っていた。隠岐奈はそれが気に入らないらしく、小さく鼻を鳴らした。
「里乃と舞は置いてきた。あの子達に聞かせる話じゃない」
「ええ。それでいいわ」
左手の先の鼓が、誰にも打たれないまま、ポン、と一つだけ乾いた音を立てた。その音が座敷の四隅へ吸い込まれて消えると、行灯の灯までが少し小さくなったような気がした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
行灯の灯が、わずかに揺れる。縁側の方で、眠っていた猫が一匹、寝返りを打った。
先に口を開いたのは、隠岐奈だった。
「――昨夜のことだ。『後戸の国』で
紫の扇子が止まった。
「我が『後戸の国』に海など無い。……ある筈がない。二童子は何も聞いていない。私だけだ。椅子の背もたれの向こう、扉のずっと奥の方から、潮騒のような音がした。寄せて、引いて。引いたまま、なかなか戻らなかった」
隠岐奈は自分の背中の扉を、振り返りもせずに親指で指し示す。
「一度だけだ。だが、アレは聞き違える音じゃない。……お前もそうだろう。でなければ、今夜は呼ばん」
紫は扇子をゆっくり閉じて、膝の上に置いた。
「――寝返りよ」
「……何だと?」
「境界の向こうで。眠っている何かが、一度だけ。……こちらへ、寝返りを打った気がしたの」
隠岐奈は黙った。
紫の声は、いつものように柔らかかった。冗談めかしてもいない。ただ、いつもより少しだけ短かった。
「
「――あの日と、同じか」
「ええ。あの日と同じ」
行灯の灯が、また揺れた。隠岐奈は、椅子の肘掛けを握った指に力を込めた。その指が、わずかに白くなっている。背後の四つの色の気配が、風もないのに一糾、乱れた。鼓は、もう鳴らなかった。
あの日――隠岐奈は、とある存在を見付け、気紛れに背に扉を開いた。そして扉の向こうから溢れてきたものに押し流されかけて、しばらく椅子から立てなかった。紫は開いたスキマの縁で、帰る先のないその存在にじっと見返され、自分の手でスキマを閉じた。
どちらも、口には出さない。互いに分かっていることは、言わない。
「……浜の船頭が言っていたわ」
紫が、独り言のように続ける。
「今年は潮が長い、って。生態研究室の子は、環境相の変わり目だと帳面に書いていた。……二人とも、笑っていたわ」
「笑っていられるなら、それでいい」
「ええ。それでいいの」
隠岐奈は紫を見た。紫は行灯を見ていた。
「……お前は、また見ているだけか」
「見ているわ。今は、それしかできないもの」
隠岐奈は何か言いかけて、やめた。『繕え』とは言わなかった。今夜は、繕うべき綻びがどこにも見えていない。見えているのは、潮が少し長いということだけだ。
「……舞に、浜の方を見ておかせる。元気な子だから、踊りすぎなければいいが」
「竜の後ろでは、踊らせないでね」
「分かっている。……私は、二度とあの子達に、何かの背中を開けさせはしない」
椅子が、ギシリと鳴った。隠岐奈は扉の方へ体を引きながら、一度だけ振り返った。金の瞳が、行灯の灯を映して細くなる。
「紫。――次に音がしたら、
紫は答えなかった。答えないことが答えだと、隠岐奈は知っていた。
軋んだ音を立てて、扉が閉まる。
――椅子も、秘神も、もう座敷には居ない。畳の上に、椅子の脚の跡が四つ、薄く残っているだけだった。
紫は一人、行灯の前に座っていた。
やがて立ち上がり、日傘を拾い上げる。縁側へ出ると、猫達が一斉に耳を立て、それから興味をなくしたようにまた丸くなった。帳場の橙は、筆を握ったまま、まだ眠っている。
紫は空を見上げなかった。日傘を少しだけ傾けて、夜の山の向こうを見た。そちらには無縁塚があり、その先には、霞んだ海がある。
「――幻想郷は、全てを受け入れる」
紫は、誰にも聞こえない声で言ちる。
「……そう。全てを。――それは、残酷なことなのよ」
扇子がパチリと閉じる。
縁側の先にスキマが開き、紫の姿はその中へ消えた。
――その頃、北の磯では、ようやく満ちた潮が潮溜まりの口を洗っていた。
化け鮫の子達が、一頭、また一頭と、沖へ帰っていく。霞んだ水平線の向こうへ。誰も見たことのない、その沖の方へ。
波打ち際では舟幽霊が一人、音の外れた鼻歌を歌い続けていた。
『村紗水蜜』
所属:人里ギルド/猟団『命蓮寺』
役職:団員。船頭(渡し・捕獲個体の移送・『幻想海』への航海)
武器:海竜大剣『沈没錨』(大剣)
防具:海竜装【水底】
『雲居一輪』
所属:人里ギルド/猟団『命蓮寺』
役職:団員。寺の古参の尼(雲山と二人で一枠の登録)
武器:砕竜鎚『拳骨入道』(ハンマー)
防具:砕竜装【金輪】
『雲山』
所属:人里ギルド/猟団『命蓮寺』(一輪と二人で一枠の登録)
役職:一輪の相棒の見越し入道。雲の拳や掌で注意を引き、仲間を守る
『摩多羅隠岐奈』
所属:なし(ハンター登録なし)
役職:なし。後戸の神にして秘神。『八雲紫』とは古い仲