お姉は私が嫌い   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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今回は彼方主観です。あと隠してたストックが全て消滅しました。ここからまじで3日に1回ぐらいの投稿頻度になるかもしれないです。


なんか今日の深夜2時くらいに日間ランキング7位くらいまでアホほど上がってて怖かったです夢だと思います。でも読者の皆様ありがとうございます。


7話

 

 

 あの頃の私は、八千年という時間の長さを舐めていたのだと思う。

 

 お姉とかぐやさんをもう一度会わせてあげられるのなら、八千年くらいいくらでも耐えられる。そんなことを本気で考えていた。今になって思えば、随分と甘い考えだったのだろう。けれど、もし最初からその長さを理解していたのなら、私はきっと、月へついていくことすらできなかったと思う。

 

 月へ来てから、まだ数年しか経っていなかった頃の話だ。その頃の私は、何度も何度も心が折れそうになっていた。

 

 月は、私が想像していた場所とはまるで違っていた。地球から見上げていた、あの白く輝く天体。そこには見たこともない建物が並び、月の民と呼ばれる人たちが暮らしているのだと、漠然と考えていた。けれど実際に訪れた月は、仮想空間ツクヨミによく似た、電子的な性質を持つ世界だった。月の民たちも、私たち人間とは根本から異なる存在だった。身体の造りも、時間に対する感覚も、生きるということへの考え方も違う。最初のうちは何を見ても理解できず、ただ戸惑うばかりだった。

 

 もっとも、そんなことは大した問題ではなかった。私を何より苦しめたのは、誰にも認識されないことだったからだ。

 

 前の輪廻を歩んだ私が作り上げた、月の技術に特化した認識阻害のチートコード。それは恐ろしいほど完璧に機能していた。私が目の前に立っても月の民は気づかず、声をかけても振り返らない。肩に触れようとしても、指先は何の手応えもなく相手の身体を通り抜けてしまう。

 

 最初のうちは、それが少し面白くもあった。誰にも見つからず、どこへ行っても咎められない。月の民が厳重に管理している場所にだって、簡単に入り込めてしまう。まるでゲームの裏技を使っているようで、ほんの少しだけ楽しかった。

 

 けれど、そんな気持ちは長く続かなかった。

 

「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」

 

 ある日、私は作業をしていた月の民に話しかけてみた。当然、返事はなかった。

 

「ここって、何をしてる場所なん?」

 

 目の前の月の民は、私の声など最初から存在していないかのように、淡々と作業を続けている。

 

「……聞こえてないよね。知ってるけど」

 

 自分で言って、少しだけ笑ってみた。けれど、その笑い声があまりにも寂しく響いたものだから、私はすぐに口を閉じてしまった。

 

 それからも、同じことを何度も繰り返した。すれ違う月の民に挨拶をしてみたり、作業中の相手に話しかけてみたり。時には、耳元でわざと大きな声を出したこともあった。結果は、いつも同じだった。誰も私を見ない。誰も私の声を聞かない。私がそこにいることすら、誰も知らない。当たり前だ。そうなるように、私自身が仕組んだのだから。

 

 それでも、諦めきれなかった。誰か一人でいい。ほんの一瞬でいいから、私を見てほしかった。私がここにいるのだと、誰かに気づいてほしかった。

 

 月には、地球のような昼と夜の区切りがなかった。月の民たちは決められた役割を淡々とこなし、休むこともなく活動を続けている。そんな場所で過ごしているうちに、私の時間の感覚は少しずつおかしくなっていった。今日は何日なのだろう。最後に誰かと話したのはいつだっただろう。お兄の顔を最後に見たのは、何年前だっただろう。考えれば思い出せるはずなのに、いつからか、思い出すこと自体が怖くなっていた。

 

 私は、自分で思っていたよりもずっと弱い人間だったらしい。

 

 寂しい。誰かと話したい。お兄に会いたい。お母さんの声が聞きたい。お姉に、もう一度名前を呼んでほしい。そんな願いばかりが頭の中を埋め尽くしていた。泣いても誰も来てくれない。どれだけ声を上げても、誰にも届かない。そんな当たり前のことが、どうしようもなく辛かった。

 

 特に、お姉の声を思い出すのが辛かった。最後に聞いたお姉の言葉は、「用事は済んだでしょ、帰って」だった。あの日のことを、私は何度も何度も思い返していた。冷たく突き放されたことも、まともに話を聞いてもらえなかったことも、全部覚えている。

 

 けれど、何度も思い返しているうちに、不思議なことが起きた。お姉の声が、少しずつ思い出せなくなっていたのだ。顔は覚えている。表情も、仕草も、ちゃんと思い出せる。それなのに、声だけが少しずつ曖昧になっていく。

 

「……嘘やろ」

 

 思わず、そんな言葉が漏れた。

 

 怖かった。このまま時間が経てば、いつかお姉のことまで忘れてしまうのだろうか。お兄のことも、お母さんのことも、お父さんのことも。私が酒寄彼方として生きていた、あの日々のことまで。そんなのは、絶対に嫌だった。

 

 だから私は、毎日のように家族のことを思い出すようになった。お父さんがまだ生きていた頃のこと。お兄と一緒に遊んだこと。お母さんに叱られたこと。お姉がピアノを弾いてくれたこと。楽しかったことも、悲しかったことも、覚えている限り何度も思い返した。自分が酒寄彼方だったことを、忘れてしまわないように。

 

 けれど、そんなことを続けているうちに、私は少しずつ疲れていった。どうして私だけが、こんな思いをしなければならないのだろう。どうしてお姉のために、ここまでしなければならないのだろう。そんな考えが浮かぶたびに、私は自分が嫌になった。お姉のことが大好きだった。今でも大好きで、幸せになってほしいという願いは少しも変わっていない。それなのに、ほんの一瞬だけ、お姉を恨みそうになる自分がいた。

 

「……最低やね、私」

 

 何度そう呟いたのか、もう覚えていない。

 

 今なら、少しだけ分かる。あの頃の私は、誰かを恨まなければ耐えられないほど追い詰められていたのだと思う。誰かに助けてほしかった。もう頑張らなくてもいいと、そう言ってほしかった。けれど、そんなことを言ってくれる人は、どこにもいなかった。

 

---

 

 それでも私が完全に心を折らずに済んだのは、かぐやさんがいたからだった。

 

 お姉の歌が月まで届いたあの日から、かぐやさんは変わった。地球から連れ戻されたばかりの彼女は、月の民に囲まれながらも、どこか遠くばかりを見ていた。以前のような明るさもなく、何をしていても寂しそうだった。けれど、お姉の歌を聴いた彼女の目には、確かに光が戻っていた。

 

「彩葉、待ってて! かぐや、もう一回会いに行くから!」

 

 そう宣言したかぐやさんは、驚くほどの勢いで仕事を片づけ始めた。月で与えられた役割を終わらせ、後任への引き継ぎを進め、もう一度地球へ向かうための準備を少しずつ整えていく。時には月の民たちを困らせながら、それでも彼女は楽しそうだった。仕事が早く終われば得意げに胸を張り、思うように進まなければ頬を膨らませる。そんな姿を見ているうちに、私はいつしか、彼女の様子を見に行くことが日課になっていた。

 

「……今日も頑張ってるね、かぐやさん」

 

 当然、返事はない。それでも、彼女が楽しそうにしているだけで、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 私が月へ来た理由の半分は、かぐやさんにある。お姉に追い返されて、泣きながらアパートを飛び出したあの日。そんな私を、彼女は追いかけてきてくれた。一人になろうとした私の手を、何も聞かずに握ってくれた。あの時の手の温かさを、私は今でも覚えている。誰にも必要とされていないと思っていた私を、追いかけてくれる人がいた。そのことが、どれほど嬉しかったか。彼女自身は、きっと知らないのだろう。

 

 だから私は、あの恩を返したかった。お姉のためでもあり、かぐやさんのためでもある。私にとっての八千年は、最初はそんな恩返しのつもりだった。

 

---

 

 月での生活が十年を超えた頃から、私は月の民たちを観察するようになった。ほかにすることがなかった、というのが一番の理由だ。誰とも話せず、何かに触れることもできない私にとって、彼らの生活を眺めることくらいしか、時間を潰す方法がなかったのだ。

 

 月の民たちは、私の目にはまるで機械のように映った。与えられた役割を忠実にこなし、必要以上のことはしない。仕事に不満を漏らすこともなければ、終わったからといって喜ぶこともない。もちろん、彼らには彼らなりの感情や考え方があったのだろう。今ならそう思える。けれど、当時の私には何ひとつ理解できなかった。

 

 そんな月の民たちの中で、かぐやさんだけは明らかに異質だった。

 

「もーっ! 分かったってば! ちゃんとやるから、早く次に進もうよ!」

 

 ある日、あまりにも長い説明に耐えかねたのか、かぐやさんがとうとう声を上げた。けれど、月の民は表情ひとつ変えずに説明を続けている。

 

「聞いてる!? かぐや、ちゃんと聞いてるからね!?」

 

 その光景があまりにもおかしくて、私は久しぶりに声を出して笑ってしまった。そして、笑い終わってから、少しだけ泣いた。誰かの何気ないやり取りを見て笑えることが、こんなにも嬉しかったからだ。

 

 それからも私は、月の中を歩き回った。最初はただの暇つぶしだったけれど、次第に月の技術そのものに興味を持つようになっていた。月の民が扱う情報の構造は、私の知っているプログラムによく似ていた。もちろん、地球の技術とは比べものにならないほど高度で、最初は何ひとつ理解できなかった。それでも、繰り返し観察しているうちに、少しずつ規則性が見えてくるようになった。十年かけても分からなかったことが、二十年目になってようやく理解できる。二十年かけて覚えたことが、三十年目になって初めて役に立つ。そんなことを繰り返しているうちに、私は月の民たちが扱う情報の流れを、ある程度追えるようになっていた。

 

 理解できることが増えるのは、純粋に嬉しかった。けれど、何かができるようになったからといって、寂しさまで消えてくれるわけではない。辛くなると、私は決まってかぐやさんのところへ向かった。彼女が仕事をしている姿を、少し離れた場所から眺める。

 

「……かぐやさん」

 

 呼びかけても、返事はない。

 

「私、ちゃんと頑張れてるんかな」

 

 彼女は私に気づかないまま、何かの資料を確認していた。

 

「……もうちょっとだけ、頑張ってみるね」

 

 そう言って、私は彼女の隣に座った。誰にも見えない私の、誰にも知られない小さな休憩だった。隣に座っているだけで、不思議と気持ちが落ち着いた。何も話さなくても、誰かが近くにいてくれる。それだけで、少しだけ救われた気がした。

 

 ふと、お姉の部屋で過ごした夜のことを思い出した。ベッドの端に腰掛けて、「おったらあかん?」と聞いた私に、お姉はいつも「好きにすれば」と返していた。あの頃の私は、その言葉が嬉しかった。お姉の隣にいられることが、何より幸せだったから。きっと私は、昔からそういう人間だったのだろう。誰かの隣にいることでしか、自分の居場所を確かめられない。そんな、少しだけ寂しい人間だったのだと思う。

 

---

 

 かぐやさんが月での仕事を終えたのは、私が月へ来てから七十年以上が経った頃だったと思う。正確な年数は、もう覚えていない。長い時間を過ごしているうちに、私は年月を数えることをやめていた。数えたところで、何かが変わるわけではなかったからだ。

 

 月には過去へ戻るための技術がある。だから、かぐやさんにとって、仕事に何十年かかろうと大きな問題ではなかったのかもしれない。それでも彼女は、一刻も早くお姉に会いたいという気持ちを抱えながら、懸命に仕事を進めていた。

 

 そして、ついにその日がやってきた。かぐやさんは「もと光る竹」と呼ばれる船に乗り込み、地球へ向かう準備を始めた。設定された行き先は、お姉と別れてから間もない時代だった。それを見た時、私は何とも言えない気持ちになった。いよいよ、始まるのだ。八千年の旅が。

 

 これまでの輪廻で何が起きたのか、私は詳しく知らない。夢の中で出会った前の私も、すべてを教えてくれたわけではなかった。ただ、ひとつだけ分かっていた。かぐやさんは、このまま無事にお姉のところへ帰ることができない。何らかの事故によって、八千年も前の地球へ飛ばされてしまう。そして私は、彼女と共にその長い時間を過ごすことになる。

 

 怖かった。七十年ほどの孤独ですら、私は何度も心を折られそうになった。それなのに、これから待っているのは八千年だ。途方もないその長さを考えるだけで、逃げ出したくなった。

 

 けれど、それと同時に、私は少しだけ安心していた。ようやく、この孤独が終わるかもしれない。地球へ戻れば、月の技術に特化した認識阻害も、少しずつ効力を失っていくはずだった。そうなれば、いつかかぐやさんに私の声が届くかもしれない。誰かと話せる。誰かに、自分の存在を知ってもらえる。その可能性が、どうしようもなく嬉しかった。

 

 そして、そんなことを考えてしまった自分が、嫌になった。かぐやさんは、ようやくお姉に会えると信じている。あんなにも長い時間をかけて、必死に頑張ってきたのだ。それなのに私は、彼女の旅が思い描いたとおりには終わらないことに、ほんの少しだけ安心してしまっていた。

 

「……ほんま、最低やね」

 

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 

 船の中では、かぐやさんが楽しそうに準備を進めていた。

 

「彩葉、待っててね!」

 

 その声を聞いて、胸が痛くなった。私は彼女のすぐそばへ行き、そっと手を伸ばした。当然、指先は何の手応えもなく、彼女の身体を通り抜けてしまう。

 

「……ごめんね、かぐやさん」

 

 返事はない。

 

「今度こそ、ちゃんと守るから」

 

 それが、あの時の私にできる精いっぱいの約束だった。

 

 本当は、誰かを守るなんて言葉を、もう二度と口にしたくなかった。昔、お姉とお母さんが喧嘩していた時、私は二人の間に割って入って、お姉を守ると言ったことがある。けれど、お姉はそんな私に言ったのだ。

 

「アンタに守られなあかんほど、私は弱くない」

 

 あの言葉を聞いてから、私は誰かを守りたいと願うことそのものが、相手を傷つけてしまうのではないかと怖くなっていた。だから、今こうして言えたのも、きっと彼女には聞こえていないからだったのだろう。聞こえなければ、拒絶されることもない。そんな卑怯な理由で口にした約束だった。それでも、嘘ではなかった。

 

---

 

 事故は、あまりにも突然だった。

 

 地球へ向かっていた「もと光る竹」が隕石に衝突し、激しい衝撃とともに制御を失った。私は何もできなかった。月で何十年も技術を学んできたというのに、目の前で起きていることを理解するだけで精いっぱいだった。船の制御に干渉しようとしても、見えない壁に阻まれるように、私の意思は届かなかった。

 

 その時、私はふと、ある可能性に気づいた。もしかすると、この認識阻害のコードには、私の姿を隠す以上の意味があるのではないだろうか。私が輪廻に干渉して、事故そのものを防いでしまわないようにするための制約。そう考えると、妙に納得できた。

 

 前の私は、どうしてここまで強力なコードを作ったのだろう。どうして、肝心なことを何も教えてくれなかったのだろう。きっと、私が知ってはいけないことがあったのだ。知ってしまえば、変えようとしてしまう。変えてしまえば、次の輪廻へつながらなくなる。前の私は、そんな可能性を恐れていたのかもしれない。

 

 もちろん、確証なんてなかった。けれど、夢の中で出会った彼女の顔を思い出した。いつも優しかったのに、時折、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。特に、私が何も知らずに笑っている時ほど、そんな表情をしていた気がする。

 

「……だから、あんな顔してたんやね」

 

 呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。

 

 前の私も、きっと同じことを考えたのだ。そして、次の私に同じ道を歩ませることを選んだ。その決断がどれほど辛いものなのか。この時の私には、まだ分かっていなかった。

 

---

 

 八千年前の地球へたどり着いた時、かぐやさんはまだ元気だった。少なくとも、最初のうちは。

 

 船が大きく損傷していることも、予定していた時代から大幅に外れてしまったことも、簡単に受け入れられる出来事ではなかったはずだ。それでも彼女は、何とかしようと動き続けていた。壊れた機能を調べ、使えるものを探し、地球の様子を確かめる。時には独り言を言いながら、自分を励ますように笑うこともあった。

 

 けれど、できることには限界があった。「もと光る竹」が持っていた肉体を生成する機能は、事故によってほとんど失われていた。かぐやさんは身体を持たない意識のまま、長い時間を過ごすことになってしまったのだ。肉体を得られたのは、一緒に来た犬DOGEだけ。それも、小さなウミウシの姿だった。

 

 そして何より、彼女は一人だった。月には、少なくとも月の民たちがいた。たとえ返事がなくても、誰かが近くにいるという事実だけは確かにあった。けれど、かぐやさんには、それすらない。自分の声に答えてくれる人がいない。自分がここにいると知っている人が、世界のどこにもいない。そんな日々が続くうちに、彼女は少しずつ元気を失っていった。

 

 最初に彼女が泣いている姿を見た時、私は何も言えなかった。どんな時でも前を向こうとする人だった。寂しくても笑い、辛くても立ち上がり、いつかお姉に会えると信じていた。そんな彼女が、誰もいない場所で、声を殺して泣いていた。

 

「……会いたいよ」

 

 小さく零れた声に、私は思わず彼女の隣へ座っていた。

 

「……うん。会いたいよね」

 

 当然、返事はない。

 

「……私も、会いたいよ」

 

 その時だった。私は、ほんの一瞬だけ安心してしまった。この子も、私と同じなんだ。この子も、寂しいんだ。私だけじゃなかった。そう思ってしまったのだ。

 

 そして次の瞬間、そんな自分が心の底から嫌になった。かぐやさんは、大好きな人に会えず、誰にも気づいてもらえず、一人で泣いている。そんな姿を見て、私は仲間ができたように感じてしまった。彼女を助けるためについてきたはずなのに、同じ苦しみの中にいることに安心するなんて、あまりにも酷い話だった。

 

「……ごめんね、かぐやさん」

 

 何度謝っても、声は届かない。こんな自分に、彼女の隣にいる資格なんてないのではないか。そんなことまで考えてしまった。けれど、ここでいなくなるわけにはいかなかった。私は、この子を一人にしないために来たのだから。

 

 あの日から、私の八千年は少しだけ意味を変えた。最初は、恩返しのつもりだった。けれど、いつしかそれは償いになっていた。彼女の孤独に安心してしまった自分が、どうしても許せなかったのだ。だから、せめて彼女が笑って彩葉のもとへたどり着けるまで、隣にいようと思った。

 

 それから私は、毎日のように彼女へ話しかけ続けた。

 

「……かぐやさん」

 

 返事はない。

 

「私、ここにいるよ」

 

 彼女は私に気づかないまま、遠くを見つめている。

 

「一人じゃないからね」

 

 何度も、何度も名前を呼んだ。声が届かないのなら、届くまで呼べばいい。認識阻害は月の技術に特化したコードなのだから、地球にいる限り、いつかは効力が薄れていくはずだった。問題は、それがいつなのか分からないことだ。一年後かもしれない。十年後かもしれない。もっと先になるかもしれない。その間に、彼女の心が完全に折れてしまったらどうしよう。そんな恐怖が、ずっとつきまとっていた。それでも、私は話しかけることをやめなかった。かつて月で、誰かに気づいてほしいと願っていた私。今度は私が、誰かの願いに応える番なのだと思った。

 

 時折、彼女は泣きながら、ある名前を呼んでいた。

 

「……ヤチヨ。ねえ、ヤチヨ、どこにいるの……?」

 

 ツクヨミの歌姫、月見ヤチヨ。私もよく知っている、あの人の名前だった。かぐやさんが助けを求める相手として、彼女の名前を呼ぶのは不思議ではなかった。月見ヤチヨは、何でもできるように見える人だったから。けれど、いくら呼んでも返事はない。そんな彼女の隣で、私は何度も囁いた。

 

「……私は、ここにいるよ」

 

 呼ばれているのが私ではないことくらい、分かっていた。それでも、そう言わずにはいられなかった。その名前が、八千年の旅の果てにどんな意味を持つことになるのか。この時の私は、まだ何も知らなかった。

 

---

 

 初めて彼女に声が届いた日のことを、私はきっと、何度輪廻を繰り返しても忘れないと思う。

 

 地球へ来てから、数年が経っていた。その日も私は、いつものように彼女の隣で話しかけていた。何を話していたのかは、もう覚えていない。彩葉の話だったかもしれないし、取り留めのない独り言だったかもしれない。ただ、いつものように名前を呼んだ時だった。

 

「……かぐや」

 

 彼女の肩が、ほんの少しだけ動いた。最初は気のせいかと思った。けれど、彼女はゆっくりと顔を上げると、不思議そうに辺りを見回し始めた。

 

「……誰?」

 

 その声を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。

 

「……かぐや?」

 

「えっ!? 今、誰か喋った!?」

 

 彼女は慌てたように辺りを見回している。

 

「ねえ! 誰かいるの!? いるなら返事して!」

 

 私は夢中で彼女のそばへ寄った。

 

「……いるよ。私、ここにいる」

 

 自分でも驚くほど、声が震えていた。そして、思わず彼女の肩へ手を伸ばした。どうせ触れられない。そう思っていた。けれど、指先に、ほんの僅かな手応えがあった。

 

「……え?」

 

 私も、彼女も、同時に声を漏らした。

 

「今、何か触った!?」

 

「……うん。私も、びっくりした」

 

 何年ぶりだろう。誰かに声が届いたのは。誰かが、私の言葉に返事をしてくれたのは。

 

「……よかった」

 

 気づけば、そんな言葉が零れていた。

 

「本当に、よかった……」

 

 涙が止まらなかった。ずっと、ずっと待っていたのだ。誰かに気づいてもらえる、この瞬間を。

 

「ねえ、そこにいるの?」

 

「……うん」

 

「ほんとに?」

 

「……ほんとだよ」

 

「じゃあ、いなくならない?」

 

 その言葉を聞いて、胸が痛くなった。私は、この子の隣にいるために来た。八千年の旅が終わるまで、ずっとそばにいるつもりだった。けれど、その先まで約束することはできない。いつか私は、この子の隣からいなくならなければならないのだから。それでも、今ここで泣いている彼女に、そんなことを伝える気にはなれなかった。

 

「……大丈夫だよ。私はここにいるから」

 

 私は、できるだけ優しく答えた。

 

「もう、一人で泣かなくていいよ」

 

 その言葉を聞いた途端、彼女は声を上げて泣き始めた。私も、しばらく涙を止めることができなかった。

 

 どれくらい、そうしていただろう。ようやく泣き止んだ彼女は、今度は興味津々といった様子で私に話しかけてきた。

 

「ねえねえ! 君って誰なの!? もしかして、かぐやを助けに来てくれたの!?」

 

「……ふふっ。どうなんだろうね」

 

「えーっ!? そこは教えてよ!」

 

 その声を聞いて、私は少しだけ迷った。本当のことを話すべきなのだろうか。私は酒寄彼方。彩葉の妹で、あなたが月へ帰る時に、こっそりついてきた人間。そう答えるのは簡単だった。けれど、それを知ったら彼女はどう思うだろう。自分についてきたせいで、私が七十年以上も孤独な時間を過ごしたと知ったら。これから八千年もの時間を一緒に過ごさなければならないと知ったら。きっと彼女は、自分を責めてしまう。かぐやは、そういう人だった。誰かが傷ついていると、自分のことのように悲しんでしまう。そんな彼女に、これ以上辛い思いをさせたくなかった。

 

 それに、私が彩葉の妹だと知られれば、彼女は私を通して彩葉を見てしまうかもしれない。そうなれば、私はきっと、酒寄彼方としてしか彼女の隣にいられなくなる。だから私は、少しだけ考えてから答えた。

 

「……かぐやが、誰かに助けてほしいって願ったから、かな」

 

「……え?」

 

「寂しいから、誰かに会いたいって。そんなかぐやの気持ちから、私は生まれたのかもしれないね」

 

 口にしてから、不思議な気持ちになった。ずっと昔にも、同じことを言ったような気がしたのだ。前の私も、その前の私も、きっと同じように答えたのだろう。そんな気がした。

 

「ええっ!? なにそれ! じゃあ、妖精さんみたいな感じ!?」

 

「……ふふっ。そうかもしれないね」

 

「すごーい! かぐや、妖精さんとお友達になっちゃった!」

 

 彼女は、心から楽しそうに笑っていた。久しぶりに見る、その笑顔。それが嬉しくて、私は思った。この笑顔を守れるのなら、嘘のひとつやふたつ、いくらでもつける。そう思ってしまったのだ。それが、私の最初の嘘だった。

 

 それから彼女は、私の名前を聞いてきた。

 

「ねえねえ! 君、名前はなんていうの?」

 

「……名前?」

 

「そう! 名前! ずっと君って呼ぶのも変でしょ?」

 

 私は少しだけ困ってしまった。本当は、名前ならあった。酒寄彼方。朝久と紅葉がつけてくれた、大切な名前。彩葉も、朝日も、紅葉も、みんなが呼んでくれた名前だった。それだけは、どれだけ長い時間が経っても忘れたくなかった。けれど、本当の名前を教えるわけにはいかない。

 

「……私は、名前がないんだ」

 

「えっ!? そうなの!?」

 

「……うん。だから、無理に呼ばなくても大丈夫だよ」

 

「えーっ! それじゃ困るよ!」

 

 彼女はしばらく考え込んでいた。そして、何かを思いついたように、ぱっと顔を明るくした。

 

「じゃあ、お隣さん!」

 

「……お隣さん?」

 

「そう! だって、ずっとかぐやの隣にいてくれるんでしょ? だから、お隣さん!」

 

 あまりにも安直な名前だった。思わず笑ってしまったけれど、不思議と嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が少しだけ温かくなった。彩葉の部屋のベッドの端に座っていた、あの頃のことを思い出す。何も話さなくても、ただ隣にいられるだけで幸せだった。私が一番好きだった場所は、いつだって誰かの隣だったのだ。

 

「……うん。いい名前だね」

 

「ほんと!?」

 

「……私に、ぴったりだと思う」

 

「やったー! じゃあ、これからよろしくね! お隣さん!」

 

「……うん。よろしくね、かぐや」

 

 それから彼女は、何度も何度も私を呼んだ。

 

「お隣さん!」

 

「……なあに?」

 

「お隣さーん!」

 

「……ふふっ。どうしたの?」

 

「おーとーなーりーさーん!」

 

「……ちゃんと聞こえてるよ」

 

 何度呼ばれても、私は返事をした。面倒だと思ったことは、一度もなかった。月で誰にも名前を呼ばれなかった私にとって、誰かが自分を呼んでくれることは、何より嬉しいことだったから。

 

 そうしているうちに、私はいつしか、彼女の前で関西弁を使わなくなっていた。彩葉の妹だと気づかれないように、できるだけ穏やかな標準語で話すようにしたのだ。時折、一人で呟く時にだけ、昔の言葉が顔を出した。そのたびに、遠い故郷のことを思い出した。朝日の声も、紅葉の声も、彩葉の声も。もう随分と遠くなってしまった、あの日々のことを。

 

 こうして、私たちの八千年が始まった。

 

---

 

 それからの年月は、月で過ごした時間とはまるで違っていた。もちろん、楽しいことばかりではなかった。けれど、私はもう一人ではなかった。朝が来れば、かぐやが話しかけてくれる。何か面白いものを見つければ、真っ先に私を呼んでくれる。嬉しいことがあれば一緒に喜び、悲しいことがあれば一緒に落ち込む。そんな当たり前のことが、私には何より嬉しかった。

 

 私たちは、犬DOGEのウミウシの身体を借りて、少しずつ世界に干渉するようになった。小さな身体の中に、かぐやと私、二人分の意識が入っているような状態だった。身体を動かすのは基本的にかぐやで、私は彼女の目を通して世界を見ていた。

 

 そんな日々の中で、私はひとつだけ、意識して守っていることがあった。かぐやの人生を、私が決めないこと。どこへ行くのか。誰と仲良くなるのか。何をしたいのか。それを決めるのは、彼女自身であるべきだと思っていた。

 

「ねえ、お隣さん! 右と左、どっちに行こうか!」

 

「……かぐやが行きたい方でいいよ」

 

「えーっ! またそれ!? たまにはお隣さんも決めてよ!」

 

「……ふふっ。じゃあ、右かな」

 

「よーし! じゃあ右にしゅっぱーつ!」

 

 そんなやり取りを、何度も繰り返した。

 

 私は未来のことを、断片的にだけ知っている。けれど、それを先回りして教えることはしなかった。何もかも教えてしまえば、彼女自身が選ぶ機会を奪ってしまう。それだけは、したくなかったのだ。もっとも、それは少しだけ綺麗事だった。本当は、怖かったのだと思う。私が何かを変えてしまうことで、かぐやが彩葉と再会できなくなってしまうことが。だから私は、彼女の選択をできるだけ尊重するようにしていた。

 

 初めて地上で人間を見つけた時のことも、よく覚えている。ずっと誰かと話したかったはずなのに、いざ目の前に人間が現れると、かぐやは怖くなってしまったらしい。

 

「……ねえ、お隣さん」

 

「……どうしたの?」

 

「もし、怖がられちゃったらどうしよう」

 

 その声は、少しだけ震えていた。私はしばらく考えてから、できるだけ優しく答えた。

 

「……大丈夫だよ。かぐやが決めたことなんだから」

 

「……でも」

 

「もし何かあっても、私は隣にいるよ」

 

 それだけは、嘘ではなかった。かぐやは少しだけ黙っていたけれど、やがて小さく笑った。

 

「……そっか。そうだよね! かぐやには、お隣さんがいるもんね!」

 

「……うん」

 

「よーし! じゃあ、行ってみよう!」

 

 そう言って、彼女は自分から人間のところへ向かっていった。その姿を見ながら、私は思った。この子は、きっと何度でも自分の足で歩き出せる人なのだろう。私が無理に背中を押さなくても、彼女はちゃんと前へ進める。だから私は、もし彼女が躓いてしまった時に、隣にいてあげられる人でありたいと思った。

 

---

 

 私が特に好きだったのは、何でもない日だった。大きな事件が起きるわけでもなく、誰かと特別な出会いがあるわけでもない。ただ、かぐやと一緒に過ごす日。そんな時間が、私は何より好きだった。

 

 ある日、私たちは海を眺めていた。特に予定があったわけではない。かぐやが海を見たいと言ったから、そこへ来ただけだった。

 

「ねえ、お隣さん。海ってさ、ずっと見てても飽きないよね!」

 

「……そうだね」

 

「でも、さっきから全然変わってない気もする!」

 

「……ふふっ。そんなことないよ」

 

「えー? ほんと?」

 

「……うん。波の形とか、光の当たり方とか。少しずつ変わってるんだよ」

 

 そう言うと、かぐやはじっと海を眺め始めた。しばらくして、何かに気づいたように声を上げる。

 

「あっ! ほんとだ!」

 

「……ね?」

 

「じゃあさ、明日も見に来ようよ!」

 

「……明日も?」

 

「うん! だって、明日は今日と違う海なんでしょ?」

 

 その言葉が、妙に嬉しかった。明日も。彼女にとっては、何でもない一言だったのだろう。けれど、私には特別な言葉だった。月にいた頃の私は、明日が来ることを恐れていた。また誰とも話せない一日が始まる。また何も変わらない時間が続いていく。そんなふうに思っていた。けれど、今は違う。明日になれば、またかぐやと話せる。明日は何をしようか、どこへ行こうか。そんなことを考えるのが、楽しかった。

 

「……いいよ。明日も一緒に見ようね」

 

「やったー!」

 

 かぐやは嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながら、私は思った。きっと、こういう時間のために生きているのだろう、と。

 

---

 

 かぐやと過ごした時間が数百年を超えた頃、私はひとつの変化に気づいた。彩葉のことを考える時間が、少なくなっていたのだ。もちろん、忘れたわけではない。今でも大切で、幸せになってほしいという願いも少しも変わっていない。けれど、私が日々考えていることは、いつの間にか別のものに変わっていた。今日のかぐやは楽しそうだった。昨日は少し元気がなかった。明日は何をしたら喜んでくれるだろう。そんなことばかりを考えるようになっていたのだ。

 

 最初は、彩葉のためだった。彩葉とかぐやを再会させる。そのために、八千年を歩むと決めた。次に、それは償いになった。かぐやの孤独に安心してしまった、あの日の罪を償うために。けれど、今はもう、そのどちらでもない気がした。かぐやに幸せになってほしい。彩葉との再会も、もちろん大切だ。けれど、それ以上に、目の前にいる彼女が笑っていてくれることが嬉しかった。

 

 私は、その変化が少しだけ怖かった。自分の目的を見失っているのではないだろうか。彩葉への想いが、薄れてしまったのではないだろうか。そんなことを考えた日もあった。けれど、ある時ふと気づいた。彩葉の幸せを願うことと、かぐやの幸せを願うことは、何も矛盾していないのだ。私は、二人とも大切だった。ただ、それだけのことだった。

 

 そして、いつしか私は、かぐやのことを自分自身よりも大切に思うようになっていた。いつからそうなったのかは分からない。何か特別な出来事があったわけでもない。気づいた時には、もうそうなっていたのだ。罪滅ぼしのために始めたはずの、彼女の隣にいるという行為。それがいつの間にか、私自身が望む幸せになっていた。

 

 かぐやは、何百年経っても変わらなかった。誰かが困っていれば放っておけない。嬉しいことがあれば全身で喜び、悲しいことがあれば隠そうともせずに泣く。そんな彼女の優しさは、長い時間が経っても少しも変わらなかった。

 

 ある日、かぐやが何の前触れもなく言った。

 

「お隣さん、大好き!」

 

「……どうしたの、急に」

 

「えー? だって大好きなんだもん!」

 

「……そっか」

 

 私は少しだけ笑ってから、答えた。

 

「……私も、大好きだよ」

 

「えへへ!」

 

 それだけの会話だった。けれど、その日のことを私は今でも覚えている。八千年の中には、忘れてしまった出来事が山ほどある。誰かの名前も、訪れた場所も、見た景色も。それなのに、あの何気ない「大好き」だけは、どうしても忘れられなかった。

 

 ただ、胸の奥には小さな罪悪感もあった。彼女が好きだと言ってくれているのは、かぐやの願いから生まれた「お隣さん」だ。その正体は、私が作り上げた嘘だった。けれど、彼女が好きになってくれたのは、その肩書きではなく、ずっと隣にいた私自身なのだと。そう信じたかった。

 

 かぐやは、時々歌を歌ってくれた。かつて金色の歌姫として、彩葉と一緒に歌っていた彼女の声。それを私は、誰よりも近くで聴くことができた。観客は私ひとり。けれど、世界で一番贅沢なライブだったと思う。

 

「ねえねえ、お隣さん! 今日は何が聴きたい?」

 

「……そうだね。彩葉と一緒に歌ってた、あの歌がいいな」

 

「えへへ! お隣さん、あの歌好きだね!」

 

「……うん。大好きだよ」

 

「じゃあ、今日もかぐやが歌ってあげる!」

 

 そう言って、彼女は嬉しそうに歌い始めた。その声を聴くたびに、私は彩葉とかぐやが並んで歌っていた日のことを思い出した。私が守りたかったもの。私が取り戻したかったもの。そのすべてが、彼女の歌声の中にあるような気がした。時には歌詞を間違えて、二人で笑ってしまうこともあった。途中で歌うのをやめて、取り留めのない話を始めることもあった。完璧な歌なんて、必要なかった。ただ、彼女が楽しそうに歌ってくれる。それだけで、私は幸せだった。

 

 いつまでも、こんな時間が続けばいい。八千年なんて早く終わってほしいと思っていた頃の私が、今度は時間が止まってほしいと願っている。なんとも勝手な話だった。でも、それほど幸せだったのだ。

 

---

 

 もちろん、長い年月は楽しいことばかりをくれたわけではない。出会いがあれば、別れもある。私たちは、何度も大切な人を見送った。昨日まで一緒に笑っていた人が、もう二度と目を覚まさない。ついこの間出会ったばかりだと思っていた人が、いつの間にか年老いている。私たちにとっては短い時間でも、その人にとっては人生のすべてだった。その違いを、私は何度も思い知らされた。

 

 長く親しくしてくれていた人が亡くなった日、かぐやはずっと黙っていた。やがて、小さな声で呟いた。

 

「……また、置いていかれちゃった」

 

 その声を聞いて、私も泣きそうになった。その人は、私にとっても大切な友人だったから。けれど、私まで泣いてしまったら、かぐやはもっと悲しくなってしまう気がした。だから、必死に涙をこらえた。

 

「……あの人は、きっと幸せだったと思うよ」

 

「……そうかな」

 

「……うん。かぐやと一緒にいた時、いつも楽しそうだったから」

 

 かぐやはしばらく黙っていた。それから、小さく答えた。

 

「……かぐやも、楽しかった」

 

 その言葉を聞いて、私はとうとう泣いてしまった。慰めているつもりだったのに、いつの間にか私自身が救われていたのだ。

 

 かぐやは、私が言葉にできない感情まで、代わりに表してくれる人だった。私が泣くのを我慢している時には、素直に泣いてくれる。寂しさを隠している時には、寂しいと言ってくれる。嬉しさをうまく表せない時には、全身で喜んでくれる。月で過ごしていた頃の私は、少しずつ心がすり減っていた。何も感じなくなれば、きっと楽だったのだろう。けれど、かぐやはそれを許してくれなかった。嬉しいことも、悲しいことも、全部一緒に感じさせてくれた。だから私は、私でいられた。支えているつもりだった。守っているつもりだった。でも本当は、私の方がずっと彼女に助けられていたのだと思う。

 

 大阪城での出来事は、そんな長い旅の中でも特別だった。茶々ちゃん。かぐやにとって、本当に大切な友達だった。私は彼女を、かぐやの目を通して見ていた。笑い合い、語り合い、知らない世界を教えてくれた人。かぐやが彩葉に会いたいという気持ちを抱えながら、同時に茶々ちゃんと別れたくないと思っていたことを、私は誰より近くで感じていた。

 

 そして、歴史が変わらないことも、私はどこかで分かっていた。何も変えてはいけない。変えてしまえば、輪廻がつながらなくなる。その理屈は理解していた。けれど、泣き叫ぶかぐやを前にして、私は何もできない自分が嫌になった。

 

 別れのあと、かぐやはずっと泣いていた。

 

「……助けたかったのに」

 

「……うん」

 

「……かぐや、助けたかったよ」

 

「……そうだね」

 

 私は、それ以上の言葉を見つけられなかった。どんな言葉をかけても、彼女の悲しみを消すことなんてできない。だから、ただ隣にいた。しばらくして、かぐやが小さな声で尋ねてきた。

 

「……ねえ、お隣さん」

 

「……なあに?」

 

「……お隣さんは、いなくならないよね?」

 

 その問いに、私は一瞬だけ答えられなかった。ほんの僅かな沈黙だった。けれど、私にとっては、ひどく長い時間に感じられた。私はいつか、この子の隣からいなくならなければならない。それは最初から分かっていたことだった。けれど、何百年も一緒に過ごしているうちに、私はその事実から目を逸らすようになっていた。今ここで、いなくならないと答えれば、彼女は安心するだろう。けれど、いつか私が消える日、その約束は彼女を傷つけることになる。分かっていた。それでも、泣いている彼女から、今この瞬間の安心まで奪うことはできなかった。

 

「……大丈夫だよ。私はここにいるから」

 

「……ずっと?」

 

「……うん」

 

 かぐやは、何度も約束だよと確かめてきた。そのたびに私は、大丈夫だよと答えた。そして、心の中で何度も謝った。ごめんね、かぐや。私はきっと、いつかあなたとの約束を破ってしまう。そのことだけは、どうしても言えなかった。

 

 それから長い時間が経ち、彩葉に会えるまであと百年ほどという頃、私たちは大きな戦争を経験した。昨日まであった街が、一夜にして焼け野原になる。空は煙に覆われ、焦げた匂いが風に混じって流れていく。小さなウミウシの身体では、瓦礫をどかすことも、傷ついた人を抱き起こすこともできない。かぐやは何度も叫んでいた。

 

「逃げて! お願い、逃げてよ!」

 

 けれど、どれだけ叫んでも、助けられない人がいた。戦争が終わったあと、街にはほとんど何も残っていなかった。呆然とその景色を見つめていたかぐやが、小さく呟いた。

 

「……ねえ、お隣さん」

 

「……なあに?」

 

「……ほんとに、彩葉に会えるのかな」

 

 その声は、ひどく弱々しかった。私の知っている地球とは、あまりにも違う世界になっていたのだ。私は少しだけ迷ってから、答えた。

 

「……大丈夫だよ。絶対に、会えるから」

 

「……どうして、そんなことが言えるの?」

 

「……信じてるから」

 

 かぐやが、彩葉に会える未来を。けれど、本当は確かなことなんて何ひとつ知らなかった。前の私が残してくれたのは、ほんの僅かな情報だけだった。この先に何が起こるのか、いつどこで彩葉が生まれるのか、私には分からない。私の「大丈夫」は、予言なんかではなかった。ただの、祈りだった。信じなければ、一歩も進めなかった。だから、信じた。彩葉が生まれる未来を。かぐやが、その未来にたどり着く瞬間を。私たちが歩んできた八千年が、決して無駄ではなかったのだと。そう信じることでしか、前へ進めない夜もあった。

 

---

 

 やがて時代は進み、世界は少しずつ私の知っている姿に近づいていった。電気が当たり前に使われるようになり、街には高い建物が増え、人々の暮らしも大きく変わっていく。そして、インターネットが普及し始めた。それは、かぐやにとっても懐かしいものだったらしい。

 

「ねえ、お隣さん! かぐや、もう一回あんな世界を作ってみたい!」

 

「……あんな世界?」

 

「うん! みんなが自由に遊べて、歌えて、笑い合える場所!」

 

 そう話す彼女の声は、ひどく楽しそうだった。私は、その声を聞いているだけで嬉しかった。

 

「……いいと思うよ。かぐやなら、きっと素敵な世界を作れるから」

 

「えへへ! でしょでしょ!」

 

 それから彼女は、どんな世界にしようかと楽しそうに話し始めた。名前も考えているらしい。

 

「月に関係する名前がいいかなー。ほら、かぐやって月から来たし!」

 

「……ふふっ。そうだね」

 

「でも、なんかこう、懐かしい感じの名前がいいんだよねー」

 

 八千年という時間は、彼女の記憶さえも少しずつ曖昧にしていた。彩葉の顔は覚えていても、どんなふうに笑っていたのか、どんな言葉を交わしたのか。そんな細かな記憶は、少しずつ輪郭を失っていた。それでも、何かが心に残っていたのだろう。月。夜。そして、あの懐かしい世界。彼女はしばらく考え込んでいた。そして、ぽつりと呟いた。

 

「……ツクヨミ」

 

 その名前を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。ツクヨミ。彩葉とかぐやが歌っていた、あの仮想空間。そして、その世界を作った歌姫の名前は。

 

「……え?」

 

 かぐやの声が、小さく震えた。私は何も言えなかった。彼女はしばらく黙っていた。何かを確かめるように、何度も小さく名前を繰り返している。そして、ようやく口を開いた。

 

「……お隣さん」

 

「……なあに?」

 

「……かぐや、分かっちゃった」

 

 その声は、どこか呆然としていた。

 

「……かぐやが、月見ヤチヨなんだって」

 

 私は、言葉を失った。月見ヤチヨ。ツクヨミの歌姫。彩葉と一緒に歌い、数え切れない人たちに憧れられていた、あの人。あの八月の夜、私も客席から見上げていた人。その人が、かぐやだったなんて。そんなこと、考えたこともなかった。前の私は、そのことを一度も教えてくれなかった。けれど、今なら少しだけ分かる気がした。きっと、これはかぐや自身が気づかなければならないことだったのだ。

 

 そして私は、ずっと昔のことを思い出した。八千年前、暗闇の中で泣いていたかぐや。あの子は何度も、ヤチヨの名前を呼んでいた。助けてほしいと、何度も願っていた。けれど、その相手は、八千年後の彼女自身だったのだ。

 

「……そっか」

 

 私は、ようやく声を絞り出した。

 

「……ヤチヨが、かぐやだったんだね」

 

「……うん」

 

 かぐやは、小さく笑った。

 

「……なんか、変な感じだね」

 

「……そうだね」

 

「かぐや、ずっとヤチヨに助けてほしかったのに。ヤチヨって、かぐやだったんだ」

 

 彼女は笑おうとしていた。けれど、うまく笑えていなかった。私は、そんな彼女に何を言えばいいのか分からなかった。ただ、ひとつだけ伝えたいことがあった。

 

「……ねえ、かぐや」

 

「……なあに?」

 

「……ヤチヨはね、たくさんの人を助けてきたと思うよ」

 

 それは、慰めではなかった。私が実際に見てきたことだった。あの八月の夜、ステージの上で笑っていた彩葉。あの笑顔の傍らには、いつもヤチヨがいた。私は知っている。八千年を越えた先で、彼女がどれほど大切な存在になるのかを。

 

「……だから、かぐやならきっとなれるよ」

 

「……ほんと?」

 

「……うん。絶対になれる」

 

 かぐやは、しばらく黙っていた。そして、小さな声で呟いた。

 

「……じゃあ、かぐやもヤチヨになってみようかな」

 

「……ふふっ。応援してるよ、かぐや」

 

 そう答えた私の声は、少しだけ震えていたと思う。

 

 それから、かぐやはヤチヨになるための準備を始めた。もちろん、簡単なことではなかった。何度も失敗して、そのたびに落ち込んでいた。そんな彼女を見て、私は何度も休憩を勧めた。

 

「……少し休んだら?」

 

「えーっ! でも、もうちょっとでできそうなんだよ!」

 

「……ふふっ。八千年も待ったんだから、もう少しくらい待てるでしょう?」

 

「むーっ! それはそうだけど!」

 

 そんなやり取りを繰り返しながら、彼女は少しずつ世界を作り上げていった。ようやく形になった仮想空間は、まだ何もない真っ白な世界だった。けれど、かぐやは嬉しそうだった。

 

「ねえ、お隣さん」

 

「……なあに?」

 

「ここをね、誰も一人ぼっちにならなくていい場所にしたいんだ」

 

 私は、黙って彼女の話を聞いていた。

 

「寂しい時に来たら、誰かがいてくれるような。そんな世界にしたいの!」

 

「……うん」

 

 私は、少しだけ笑った。

 

「……かぐやらしいと思うよ」

 

 かつて月で、誰かに気づいてほしいと願っていた私。そんな私の願いを、彼女は今、ひとつの世界に変えようとしていた。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 そして、ある日。かぐやが、何気ない様子で言った。

 

「そういえばさ、これから月見ヤチヨとして活動するんだから、いつまでもかぐやって呼ばれるのも変かな?」

 

 私は、すぐには返事ができなかった。かぐや。八千年前、暗闇の中で泣いていた、あの子の名前。私が何千年ものあいだ呼び続けてきた、大切な名前だった。

 

「……かぐやって呼ばれるの、嫌になっちゃった?」

 

 気づけば、そんなことを聞いていた。

 

「えっ!? 違う違う! そういうわけじゃないよ!」

 

 彼女は慌てたように否定した。私は、そんな様子を見て少しだけ笑った。

 

「……そっか」

 

「うん! でも、ヤチヨって呼ばれるのにも慣れたいなーって!」

 

「……分かった」

 

 私は少しだけ間を置いてから、答えた。

 

「……じゃあ、これからはヤチヨって呼ぶね」

 

「えへへ! よろしくね、お隣さん!」

 

「……うん。よろしくね、ヤチヨ」

 

 初めて口にしたその名前は、思っていたよりもずっと重かった。かぐやがヤチヨになる。それは、彼女が彩葉のいる未来へ近づいていくということだった。そして同時に、私が彼女の隣にいられる時間の終わりが、少しずつ近づいているということでもあった。

 

「……ヤチヨ」

 

「なあに、お隣さん?」

 

「……ううん。何でもないよ」

 

 私は、できるだけ優しく笑った。その名前を呼ぶたびに、少しずつ別れが近づいている。そんなことを、彼女に気づかれたくなかった。

 

---

 

 ヤチヨが月見ヤチヨとしての姿を手に入れた時、私は少しだけ感動してしまった。長い年月を共に過ごしてきた彼女が、ようやく自分の身体を持てたのだ。銀色の長い髪も、明るい笑顔も、どこか懐かしい声も。その姿は、私が客席から見上げていた、あの歌姫そのものだった。

 

「見て見て、お隣さん! どう!? 似合ってる!?」

 

「……ふふっ。うん。すごく似合ってるよ」

 

「でしょでしょ! ヤッチョ、頑張っちゃいました!」

 

 彼女は嬉しそうにくるくると回っていた。そんな姿を見ているだけで、私まで嬉しくなった。けれど、彼女はそれだけでは満足しなかったらしい。

 

「よーし! じゃあ次は、お隣さんの身体も作っちゃおう大作戦!」

 

「……え?」

 

「だって、ヤチヨだけ身体があるなんて不公平でしょ? お隣さんにも作ってあげたいの!」

 

 私は少しだけ驚いた。何千年ものあいだ、声だけでつながっていた私たち。そんな私にも、身体を作ってくれるというのだ。嬉しかった。けれど、彼女が提案してきた姿を聞いて、私はしばらく言葉を失ってしまった。

 

「ねえ、お隣さん。ヤチヨの昔の姿、使ってみない?」

 

「……昔の姿?」

 

「うん! ほら、かぐやだった頃の!」

 

 金色の長い髪をした、あの頃の彼女。その姿を聞いた瞬間、私はずっと心の中にあった疑問が、ひとつにつながった気がした。夢の中で出会った、前の輪廻の私。彼女は、かぐやによく似た姿をしていた。どうしてそんな姿をしているのか、今まで分からなかった。けれど、ようやく理解できた。あの身体は、ヤチヨが私のために作ってくれたものだったのだ。前の私も、きっと同じように彼女から身体をもらったのだろう。そして、その姿のまま、次の私の夢に現れた。嬉しさと、懐かしさと、少しの寂しさ。いろいろな感情が胸の中で混ざり合って、うまく言葉にならなかった。

 

「……いいの?」

 

「ん?」

 

「……そんな大切な姿、私が使っても」

 

 ヤチヨは、不思議そうに首を傾げた。そして、当たり前のことのように笑った。

 

「もちろん! だって、お隣さんはヤチヨの大切な人だもん!」

 

 その言葉を聞いて、私は少しだけ泣きそうになった。

 

「……ありがとう、ヤチヨ」

 

 それ以上、何も言えなかった。

 

「……大切にするね」

 

 完成した身体で、初めて彼女の前に立った時。私は、少しだけ緊張していた。何千年ものあいだ、声だけでつながっていた相手。その人が、今、初めて私の姿を見るのだ。けれど、そんな不安は一瞬で消えてしまった。

 

「お隣さん!」

 

 ヤチヨが、泣きながら飛びついてきたからだ。

 

「お隣さん! お隣さん! やっと会えた!」

 

「……ふふっ。うん」

 

 私は、彼女を抱きしめ返した。

 

「……やっと、会えたね」

 

 けれど、不思議なことに、何の感触もなかった。触覚が再現されていなかったのだ。抱きしめているはずなのに、温かさも、柔らかさも、何も感じられない。それでも、私は幸せだった。彼女が私を抱きしめてくれている。それが分かるだけで、十分だった。

 

 しばらくして、私は鏡を見た。そこには、金色の長い髪をした少女がいた。かつてのかぐやと、同じ姿。酒寄彼方の顔は、もうどこにもなかった。それが、少しだけ寂しかった。けれど、私の姿を見て嬉しそうに笑うヤチヨを見ていると、そんな寂しさもどこかへ消えてしまった。

 

「……あったかかったら、よかったのにね」

 

 不意に、ヤチヨが呟いた。私は少しだけ驚いてから、笑った。

 

「……そうだね」

 

 そして、気づけば答えていた。

 

「……私も、ヤチヨの体温を感じてみたいよ」

 

 口にしてから、自分でも驚いた。八千年のあいだ、私は誰かのためにばかり動いてきた。自分のために何かを願うことを、いつの間にか忘れていたのだ。月で独りだった頃の、あの切実な願いを最後に、自分のための願いを口にしたのは、本当に久しぶりのことだった。

 

---

 

 身体を得てから、私たちはそれまで以上に一緒に過ごすようになった。私たちが暮らしていた部屋は、かつてヤチヨが彩葉と暮らしていたアパートを参考にした、小さな部屋だった。狭いキッチンに、ローテーブル。特別なものなんて何ひとつない、何でもない部屋。

 

 けれど、私はその部屋を一度だけ見たことがあった。彩葉に会いに行った、あの日だ。あの時は物で溢れ返っていて、足の踏み場もないほどだった。ここにあるのは、それよりずっと片づいた部屋だ。それでも、まさかあの部屋が八千年の果てに、こんな形で私たちの家になるなんて思いもしなかった。

 

 ヤチヨは、何かにつけて私に甘えてきた。

 

「ねえ、お隣さん! こっち来て!」

 

「……どうしたの?」

 

「隣に座って!」

 

「……ふふっ。はいはい」

 

 隣に座れば、今度は頭を撫でてほしいと言ってくる。

 

「お隣さん、なでなでして!」

 

「……もう。甘えん坊さんだね」

 

「えへへ! だって、お隣さんに甘えるの好きなんだもん!」

 

 そんな彼女に、私はいつも困ったように笑いながら応えていた。けれど、本当は嬉しかった。何千年も一緒にいたのに、彼女はまだ、こんなにも私を必要としてくれる。そのことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。

 

 そして、ある日。ヤチヨが、不意に言った。

 

「ねえ、お隣さんも甘えていいんだよ?」

 

「……え?」

 

「だって、いつもヤッチョばっかり甘えてるじゃん! それじゃ不公平でしょ?」

 

 私は、少しだけ困ってしまった。甘える。そんなこと、もう何年もしていなかった。私はずっと、彼女を支えなければならないと思っていた。弱いところを見せてはいけない。自分がしっかりしなければならない。そんなふうに考えていたのだ。けれど、ヤチヨはそんな私にも、当たり前のように手を差し伸べてくれた。

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

「うん!」

 

 私は、そっと彼女の肩に頭を預けた。感触なんて、何もなかった。彼女が髪を撫でてくれても、温かさは感じられない。それなのに、不思議と目の奥が熱くなった。

 

「……お隣さん?」

 

「……ううん。何でもないよ」

 

 私は、少しだけ笑った。

 

「……ありがとう、ヤチヨ」

 

 きっと、あの時感じた温かさは、彼女の手の温度なんかではなかったのだろう。それでも、確かに温かかった。私は、そのことが嬉しかった。

 

---

 

 私には、ひとつだけ心残りがあった。ヤチヨの温もりを、感じられないことだ。電子の身体は、見た目こそ人間と変わらない。けれど、触覚も温度も再現されていなかった。抱きしめることはできる。手をつなぐこともできる。でも、そこに温かさはない。彼女がどれくらいの力で私を抱きしめているのか。どんな温度の手で、私の手を握ってくれているのか。私は、何も知らなかった。

 

 だから私は、ひとつの計画を立てた。温感触覚モジュール。電子の身体に、触覚と温度を再現するための機能を組み込む。それが完成すれば、私たちは本当の意味で触れ合えるかもしれない。私は、ヤチヨに内緒で開発を始めた。完成したら、驚かせてあげたかったからだ。今度こそ、本当に抱きしめられるね。そう言って笑ってくれる彼女の姿を想像するだけで、胸が弾んだ。

 

 けれど、現実はそう簡単ではなかった。触覚というものは、思っていた以上に複雑だった。物体との接触を検知するだけでは足りない。圧力、温度、柔らかさ。それらをどう再現し、電子の身体に感覚として認識させるのか。月で学んだ技術も、八千年かけて積み重ねた知識も、すべて使った。それでも、ひとつの問題を解決すれば、また別の問題が出てくる。何度も試作品を作っては、失敗した。

 

「お隣さーん! 何してるの?」

 

「……あっ、ヤチヨ」

 

 ある日、作業をしているところへ彼女がやってきた。私は慌てて画面を閉じた。

 

「……ちょっと調べもの、かな」

 

「えー? 何の?」

 

「……ふふっ。内緒だよ」

 

「むーっ! お隣さん、最近秘密が多い!」

 

 彼女は頬を膨らませていたけれど、すぐに笑った。

 

「ま、いっか! ねえ、一緒に休憩しよ!」

 

「……うん。いいよ」

 

 ヤチヨは嬉しそうに私の隣へ座ると、そのまま肩に頭を預けてきた。当然、その重みは感じられない。私は、そっと彼女の髪を撫でた。早く完成させたい。この子の温もりを知りたい。きっと、それだけで十分なのに。そんな願いを抱えながら、私は少しずつ開発を進めていった。けれど、完成の日は訪れなかった。

 

---

 

 彩葉が生まれたという知らせを聞いた日、私はヤチヨと一緒に大喜びした。八千年。本当に、長かった。何度も諦めそうになって、何度も泣いて、それでもここまで歩いてきた。ようやく、その旅の終わりが見えてきたのだ。

 

「ねえ、お隣さん! 彩葉が生まれたんだって!」

 

「……うん」

 

「もう少しだよ! もう少しで、彩葉に会えるんだよ!」

 

「……そうだね」

 

 私は、心から笑った。

 

「……よかったね、ヤチヨ」

 

 嘘ではなかった。本当に、嬉しかった。けれど同時に、その知らせは、私に残された時間があと僅かだということも意味していた。彩葉が生まれたということは、私の知っている時代が、もうすぐそこまで来ているということだ。やがて、酒寄彼方も生まれる。その時が近づいていることを、私は何となく感じていた。

 

 そして、彩葉が生まれて二年と少しほど経った頃。私は身体の奥に、奇妙な違和感を覚え始めた。何かに引っ張られているような感覚。身体の奥から、どこか遠くへ吸い込まれていくような、不思議な感覚だった。痛みも、苦しさもない。けれど、それは日に日に強くなっていった。私には、すぐに分かった。輪廻が、私を呼んでいるのだ。私の魂は、もうすぐ元の時代へ戻る。生まれたばかりの、酒寄彼方の身体へ。それが、私の役割だった。

 

 私はしばらく、そのことをヤチヨに伝えられなかった。怖かったのだ。彼女が悲しむ姿を見たくなかったし、私自身も、まだ認めたくなかった。何とかして、ここに残る方法はないだろうか。輪廻の仕組みを変える方法はないだろうか。月の技術を使えば、何かできるのではないだろうか。私は、毎日のように調べ続けた。けれど、調べれば調べるほど、自分がこの輪廻の一部であることを思い知らされるだけだった。

 

 私が戻らなければ、次の私が生まれない。次の私が生まれなければ、かぐやについて月へ行く人がいなくなる。そうなれば、今までの八千年が、すべて失われてしまうかもしれない。それだけは、絶対に嫌だった。ヤチヨと過ごした時間を、なかったことにしたくなかった。だから私は、決めた。ちゃんと、お別れをしよう。何も告げずに消えることだけは、したくなかった。

 

---

 

 話があると切り出した日、私はいつもの部屋で、ヤチヨの向かい側に座った。隣には、座らなかった。いつものように隣に座ってしまえば、きっと言えなくなると分かっていたからだ。

 

「……お隣さん?」

 

 ヤチヨは不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしたの? そんな改まって」

 

「……うん。ちょっとね」

 

 私は、何でもない話から始めた。最近のツクヨミのこと。新しく作った機能のこと。昔、一緒に見た景色のこと。彼女は楽しそうに笑っていた。その笑顔を見るたびに、言葉が喉の奥で詰まってしまう。このまま、何も言わずにいられたら。そんなことを、何度も考えた。けれど、言わなければならなかった。

 

「……ねえ、ヤチヨ」

 

「ん? なあに?」

 

「……私ね」

 

 私は、少しだけ息を整えた。

 

「……もうすぐ、消えると思う」

 

 ヤチヨの笑顔が、止まった。

 

「……え?」

 

「……あと、一週間もないかな」

 

 自分でも驚くほど、静かな声だった。もっと泣いてしまうと思っていた。言葉にならないくらい、取り乱してしまうと思っていた。けれど、実際に口にしてみると、不思議なくらい落ち着いていた。

 

「……何、言ってるの?」

 

 ヤチヨは、困ったように笑った。

 

「……冗談、だよね?」

 

「……ごめんね」

 

「……え?」

 

「……冗談じゃ、ないんだ」

 

 その言葉を聞いた途端、彼女の表情が崩れた。

 

「……やだ」

 

 小さな声だった。

 

「……やだよ、お隣さん」

 

 私は、何も言えなかった。本当のことは、何ひとつ話せなかった。私が酒寄彼方であること。彩葉の妹であること。輪廻が私を呼んでいること。八千年の旅が、これからも繰り返されていくこと。そんなことを話してしまえば、ヤチヨはきっと考えてしまう。私を引き止める方法を。輪廻を壊す方法を。あるいは、彩葉に会うことを諦めてでも、私を失わない道を。私は、それが何より怖かった。彼女に彩葉を諦めさせるくらいなら、私は嘘つきのまま消えた方がいい。だから、決まっていることなんだとしか言えなかった。

 

「……ごめんね、ヤチヨ」

 

「……やだ」

 

「……ごめん」

 

「……消えないでよ」

 

 彼女は、泣いていた。

 

「……お願いだから、一人にしないでよ……」

 

 その姿を見て、私はようやく気づいた。私は、どこかで甘く考えていたのだ。何千年も生きてきた彼女なら、きっと最後には受け入れてくれる。そんなふうに思っていた。けれど、忘れていた。彼女が、どれほど優しい人なのかを。大切な人との別れを、簡単に受け入れられるような人ではないことを。茶々ちゃんと別れた時だって、彼女は声が枯れるほど泣いていた。それなのに、どうして今度は平気だと思ってしまったのだろう。私は、自分が恥ずかしくなった。

 

 そして同時に、心のどこかで、嬉しいと思ってしまう自分がいた。私がいなくなることを、こんなにも悲しんでくれる人がいる。月で、誰か一人でいいから気づいてほしいと願っていた私には、想像もできなかったことだった。そんな自分が、また少しだけ嫌になった。

 

 その日から、ヤチヨはツクヨミの仕事をすべて止めた。歌も、配信も、開発も。何もかも後回しにして、ただ私のそばにいた。私が座れば隣に座り、横になれば抱きついてくる。どこかへ行こうとすれば、必ずついてきた。まるで、目を離した瞬間に私が消えてしまうと信じているみたいだった。

 

「……ヤチヨ」

 

「……なあに?」

 

「……少し、休んだら?」

 

「……やだ」

 

「……でも」

 

「……お隣さんと一緒にいたい」

 

 そう言われてしまえば、私は何も言えなかった。

 

 夜になると、彼女は私の隣で目を閉じた。電子の身体に必要以上の睡眠は必要ない。それでも、彼女は時折眠るように意識を休めていた。私はそんな彼女の横顔を、ずっと眺めていた。時々、ヤチヨが不安そうに目を開ける。

 

「……お隣さん?」

 

「……なあに?」

 

「……まだ、いる?」

 

「……うん。いるよ」

 

 そう答えると、彼女は安心したように目を閉じた。私は、そのたびに胸が痛くなった。あと数日で、私はこの言葉を言えなくなる。それなのに、今夜も、明日の夜も、同じように答え続けなければならない。

 

 恨めしそうな目で見られたことも、何度もあった。どうして何も教えてくれないの。八千年も一緒にいたのに、私たちはそんなことも話せない関係だったの。そんなふうに言われている気がした。けれど、ヤチヨは決してその言葉を口にしなかった。きっと、残された時間を喧嘩で無駄にしたくなかったのだろう。その優しさが、何より胸に刺さった。

 

 ある夜、彼女が小さな声で尋ねてきた。

 

「……ねえ、お隣さん」

 

「……なあに?」

 

「……ヤチヨのこと、嫌いになった?」

 

 私は、驚いてしまった。

 

「……え?」

 

「……ヤチヨ、いつも甘えてばっかりだったから」

 

 彼女は、俯いていた。

 

「……困らせてばっかりだったから。だから、いなくなっちゃうの?」

 

 胸が潰れそうだった。そんなわけがない。何千年も私を支えてくれたのは、この子だった。何度も笑わせてくれて、何度も助けてくれて、私に生きる理由をくれた。そんな彼女を、嫌いになるわけがなかった。

 

「……ヤチヨ」

 

 私は、そっと彼女の頬に手を添えた。

 

「……大好きだよ」

 

 彼女の目から、涙が零れた。

 

「……本当に、大好き」

 

 私は、できるだけ優しく笑った。

 

「……だから、そんなこと言わないで」

 

 この気持ちは、友人に向けるには少し重すぎるのかもしれない。けれど、それ以外の名前をつけるのも、少しだけ怖かった。八千年かけて育ったものは、友情と呼ぶには深すぎて、それ以上の名前で呼ぶには、あまりにも静かだった。この時の私は、ヤチヨが私に向けてくれていた愛情の本当の大きさに、まだ気づいていなかった。私は彼女を、何より大切な存在だと思っていた。彼女も、きっと同じなのだろうと。それ以上のことを考える余裕なんて、私にはなかった。

 

---

 

 別れの日は、静かに訪れた。いつもの部屋。いつもの布団。何千年ものあいだ、一緒に過ごしてきた場所だった。

 

 その日、私の指先から淡い光が零れ始めた。やがて足先からも光が溢れ、少しずつ身体が透けていく。痛みはなかった。ただ、もう戻れないのだという実感だけがあった。

 

「……お隣さん?」

 

 ヤチヨが、震える声で私を呼んだ。

 

「……うん」

 

「……やだ」

 

 彼女は、私の手を強く握りしめた。

 

「……お願い。消えないで」

 

 その声を聞いて、胸が痛くなった。私だって、消えたくなかった。まだ行っていない場所があった。まだ話していないことがあった。温感触覚モジュールだって、完成していない。いつか本当に彼女の温もりを感じてみたいという願いも、叶わないままだった。それでも、もう時間は残されていなかった。

 

「……ねえ、ヤチヨ」

 

「……なに?」

 

「……最後くらい、笑ってお別れしたいな」

 

 私は、できるだけ優しく笑った。けれど、ヤチヨは首を横に振った。

 

「……無理だよ」

 

 涙が、止まらない。

 

「……笑えるわけ、ないじゃん……」

 

 その姿を見て、私は少しだけ後悔した。そうだよね。私が逆の立場でも、きっと笑えない。大切な人が目の前で消えていくのに、笑って見送れるはずがない。だから、もう無理に笑ってもらおうとは思わなかった。ただ、伝えたいことを伝えようと思った。八千年のあいだに少しずつ積み重なって、一度も言えなかった想いを。

 

「……ねえ、ヤチヨ」

 

 私は、彼女の顔を見つめた。

 

「……私ね、最初からヤチヨのことが大切だったわけじゃないんだ」

 

 ヤチヨが、涙に濡れた目で私を見た。

 

「……最初は、別の理由があったの」

 

 彩葉のために、彼女を無事に彩葉のもとへ連れていくこと。そして、彼女の孤独に安心してしまった、あの夜の罪を償うこと。そんな理由で、私は彼女の隣にいた。けれど、八千年という長い時間の中で、その気持ちは少しずつ変わっていった。

 

「……一緒に泣いて、一緒に笑って」

 

 私は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「……いろんなところへ行って、いろんなものを見て」

 

 楽しかったことも、悲しかったことも、たくさんあった。何度も喧嘩して、何度も仲直りして。そうやって、長い時間を一緒に過ごしてきた。

 

「……いつの間にか、ヤチヨは私にとって、本当に大切な人になってたんだよ」

 

 ヤチヨは、何も言わなかった。ただ、涙を流しながら私の話を聞いていた。

 

「……だから、ありがとう」

 

 私は、少しだけ笑った。

 

「……私と一緒にいてくれて、本当にありがとう」

 

 そして、もうひとつ。どうしても伝えたいことがあった。

 

「……ごめんね、ヤチヨ」

 

 何度も、何度も謝った。約束を守れなくて、ごめんね。一人にしないって言ったのに、ごめんね。最後まで、何も教えてあげられなくて、ごめんね。何度言っても、足りなかった。そして最後に、私はお願いをした。

 

「……ねえ、ヤチヨ」

 

「……なに?」

 

「……絶対に、彩葉と再会してね」

 

 その言葉を聞いて、彼女は顔を歪めた。

 

「……やだ」

 

「……ヤチヨ」

 

「……お隣さんがいないなら、やだよ……」

 

 私は、胸が痛くなった。

 

「……大丈夫だよ」

 

「……大丈夫じゃない!」

 

 彼女は、泣き叫んだ。

 

「……お隣さんがいなくなっちゃうのに、大丈夫なわけないじゃん!」

 

 そうだよね。私も、本当は大丈夫じゃなかった。まだ一緒にいたかった。まだ彼女と笑っていたかった。できることなら、このままずっと隣にいたかった。けれど、それは叶わない。

 

「……ヤチヨなら、大丈夫だよ」

 

 私は、できるだけ穏やかに答えた。

 

「……私がいなくても、ちゃんと前へ進めるから」

 

 彼女は、何度も首を横に振っていた。その姿を見るのが、辛かった。

 

「……一回くらい、ヤチヨの温もりを感じてみたかったな」

 

 その言葉を聞いた途端、ヤチヨは私に抱きついてきた。

 

「……お隣さん……!」

 

 私は、彼女を抱きしめ返した。けれど、やっぱり何も感じられなかった。温かさも、柔らかさも、何も。それが、どうしようもなく寂しかった。

 

 身体は、もうほとんど光になっていた。指先も、足先も、少しずつ消えていく。私は、最後に彼女の顔を見つめた。泣いていた。ぐしゃぐしゃの顔だった。それでも、私には世界で一番綺麗に見えた。あの暗闇で泣いていた子が、こんなに綺麗な人になった。八千年。本当に、長かった。けれど、彼女と一緒だったから、ここまで歩いてこられた。

 

「……大好きだよ」

 

 私は、できるだけ優しく笑った。

 

「……ありがとう」

 

 ヤチヨは、何かを言おうとしていた。けれど、涙ばかりが零れて、うまく言葉にならないようだった。私は、そんな彼女を見つめながら、最後の言葉を口にした。

 

「……バイバイ、かぐや」

 

 最後の最後に、私は彼女をヤチヨとは呼ばなかった。ヤチヨは、彩葉と出会う未来の歌姫の名前だった。けれど、この八千年のあいだ、私が隣にいたのは、暗闇で一人泣いていた、かぐやだった。私が初めて手を伸ばした相手。初めて、ここにいるよと伝えた相手。そして、何より大切になった人。最後くらい、あの頃の名前で呼びたかったのだ。

 

 彼女は、何も言えなかった。ただ、泣きながら私を抱きしめていた。私は、最後までその顔を見つめていた。大好きだった。本当に、大好きだった。八千年という時間を、彼女と過ごせてよかった。心の底から、そう思った。そして私は、光の中へ消えていった。

 

---

 

 次に意識が戻った時、私は不思議な場所にいた。何も見えない。何も聞こえない。けれど、自分がどこにいるのかは、何となく分かっていた。私は、元の時代へ戻ってきたのだ。生まれたばかりの、酒寄彼方の身体へ。

 

 そこには、もうひとつの魂があった。これから酒寄彼方として生きていく、今の時代の私。そして、八千年を生き終えた私。ひとつの身体に、ふたつの魂。かつてウミウシの身体に、かぐやと二人で入っていた頃と、少しだけ似ていた。

 

 しばらくのあいだ、私は何も考えられなかった。ただ、ヤチヨの顔ばかりが浮かんでいた。泣いていた。最後まで、私を引き止めようとしていた。あの子は今、ちゃんと笑えているだろうか。彩葉と再会するために、前へ進めているだろうか。そんなことばかりを考えていた。もう、あの子の隣にはいられない。何千年も、当たり前のように一緒にいたのに。今は、声をかけることすらできない。それが、どうしようもなく寂しかった。温感触覚モジュールは、最後まで完成しなかった。あの子の温もりを、私は一度も知らないまま、ここへ来てしまった。

 

 けれど、時間は流れていく。赤ん坊の身体は、少しずつ大きくなっていった。小さな私は、何も知らずに笑い、泣き、紅葉に抱かれ、朝日に手を引かれ、彩葉の背中を追いかけるようになった。私は、その様子を一番近くで見ていた。あまりにも、眩しかった。この子は、これから生きていく。朝久と紅葉に愛され、朝日と彩葉に囲まれて育ち、楽しいことも悲しいこともたくさん経験する。そして、いつかかぐやと出会う。その先に、八千年という長い旅が待っている。

 

 私は、申し訳なくなった。この子は、まだ何も知らないのだ。かつて、私も同じ場所に立っていた。八千年の旅へ出る前、夢の中で前の私に出会った。かぐやによく似た姿で、どこか寂しそうな顔をしていた彼女。あの頃の私は、どうしてそんな顔をしているのだろうと思っていた。今なら、少しだけ分かる。八千年ぶりに誰かと向き合う時、どんな顔をすればいいのか分からなかったのだ。私もきっと、同じ顔をすることになるのだろう。ヤチヨと別れた私は、笑い方を半分だけ、あの部屋に置いてきてしまったような気がしたから。

 

 私は、長い時間をかけて考えた。この子に、どこまで教えるべきなのだろう。八千年という時間の長さを知れば、この子は怖がって逃げ出したくなるかもしれない。私だって、最初からすべてを知っていたのなら、同じ道を選べたかどうか分からない。けれど、何も教えなければ、かぐやを助けることができない。だからといって、すべてを教えてしまうこともできなかった。知ってしまえば、変えようとしてしまう。変えてしまえば、輪廻がつながらなくなる。前の私が、あれほど強力な認識阻害のチートコードを作った理由。肝心なことを、何ひとつ教えてくれなかった理由。今なら、よく分かる。教えないこと。それが、この輪廻を守るために必要だったのだ。けれど、教えないまま八千年を託すことが、どれほど残酷なのかも、私は知っている。前の私を責めることはできなかった。だって、今の私も、同じことをしようとしているのだから。

 

 そして、長い時間をかけて、私はひとつの答えにたどり着いた。必要なことだけを伝えよう。かぐやを一人にしないでほしい。それだけは、絶対に忘れないでほしかった。あとは、この子自身に選んでもらおう。私がかぐやの人生を、彼女自身に選んでもらってきたように。行ってほしいとは、決して言わない。私に頼まれたからでも、かぐやに頼まれたからでも、彩葉に頼まれたからでもなく。この子自身の心で、決めてほしかった。

 

 もし、この子が行かないと決めたのなら。私の八千年は、なかったことになるかもしれない。それでも構わないと、思おうとした。本当は、構わなくなんてなかった。ヤチヨと過ごした時間を、なかったことになんてしたくなかった。あの子と笑った日々も、泣いた夜も、何気なく交わした言葉も。全部、私にとってはかけがえのない宝物だったから。けれど、それを守るために、この子の人生を奪っていいはずがない。

 

 だから私は、眠りについて待つことにした。この子が、自分自身の答えを見つける日まで。いつか夢の中で向き合う、その時まで。そして、その時が来たのなら。私はきっと、できるだけ優しく笑うのだろう。かつて、前の私がそうしてくれたように。何も知らないこの子が、少しでも怖がらずに済むように。たとえ、その先に待っている八千年の長さを、私だけが知っていたとしても。

 

 




みんなどう思うんやろな〜この時代の彼方が消えたあとに残るのは輪廻を終えた彼方だから皆からしたら急に口調も変わり標準語になりお姉ともお兄とも言わない激ヤバ妹が完成するんだよな〜
楽しみだなぁ彼方がお姉って言わずに彩葉って言うシーン
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