なんで投稿がこんなに早いかって?そりゃお前・・・筆が乗ったからだよ。もう一度言うぞこの私の筆が乗ったからだよ。勘のいい読者はこれだけで気づくだろうよ、この話がどんな展開になるのかを。
是非楽しんでいってくれ
最後に彼方を見たとき、あの子はまだ、本当に小さな子供だった。
お母さんに抱かれて笑っていたこと。朝日の手を握って、一生懸命に歩いていたこと。彩葉の後ろを追いかけて、置いていかないでと泣いていたこと。そんな幼い頃の私を、私はずっと見守っていた。あの子が少しずつ大きくなっていく姿を眺めながら、私は長い眠りについた。次に目を覚ましたときには、きっと輪廻を託す時が来ている。そう信じていた。
そして、再び目を覚ました私は、かつて自分がしてもらったように、この時代の彼方へ未来の出来事を伝え始めた。
夢という形で、これから起こることを少しずつ見せていく。すべてを教えることはできない。それでも、あの子が自分の意思で未来を選べるように、必要なことだけは伝えなければならなかった。昔の私も、きっと同じ気持ちだったのだろう。あの暗闇の中で、何度も私に謝っていた少女。どうしてあんなに悲しそうな顔をしていたのか、今なら少しだけ分かる気がした。
だって、これから彼方が経験することを、私は誰よりもよく知っているのだから。
月で過ごす七十年間の孤独も、誰にも認識されない苦しさも、八千年という時間が人から何を奪っていくのかも。全部知っているくせに、私は何も知らないあの子に、同じ道を歩ませようとしていた。
教えてあげたかった。月で使うことになるチートコードのことも、八千年の旅路で待ち受けている出来事も、私がどうしてここにいるのかも。そして何より、その旅の果てに、彼方が何を失うことになるのかを。
けれど、教えるわけにはいかなかった。
もし私が余計なことを伝えてしまえば、未来が変わってしまうかもしれない。かぐやが彩葉と再会するために必要だった八千年が、私の一言で失われてしまうかもしれない。それだけは、どうしても避けなければならなかった。
だから私は、何も知らない彼方に笑いかけた。大丈夫だよと、何度も繰り返した。私にできたのだから、きっとあなたにもできる。そう言い聞かせながら、本当は何度も謝りたくなった。
ごめんなさい。
これからあなたがどれだけ寂しい思いをするのか、私は知っている。誰にも声が届かない月で、何度も帰りたいと泣くことも。お母さんや朝日、彩葉の顔を思い出そうとして、少しずつ思い出せなくなっていくことも。
それでも、私はあなたを止められない。
だって、あの八千年をなかったことにはできないから。
かぐやと過ごした日々は、私にとって何よりも大切なものだった。楽しいことも、悲しいことも、たくさんあった。何度も喧嘩をして、何度も仲直りをして、くだらないことで笑い合った。あの子と一緒にいられたから、私は八千年を歩いてこられたのだと思う。
けれど、その代わりに失ったものも、あまりにも多かった。
お母さんの顔。朝日の声。彩葉と過ごした日々。昔の自分がどんなふうに笑っていたのか、どんなことに怒って、何を悲しんでいたのか。忘れたくないと思っていたものほど、少しずつ曖昧になっていった。そして、いつの間にか私は、酒寄彼方という少女がどんな人間だったのかさえ、分からなくなっていた。
それでも、後悔はしていない。
かぐやと出会えてよかった。あの子の隣にいられて、本当によかった。だからこそ、次の私にも頑張ってほしかった。どうか、途中で諦めないでほしい。どれだけ辛くても、かぐやのことだけは守ってあげてほしい。あの子は強いように見えて、本当はとても寂しがり屋だから。誰かが隣にいてあげないと、きっと一人で無理をしてしまう。
そして、いつかあなたも気づくと思う。
かぐやを守っているつもりだった自分が、いつの間にか、あの子に守られていたのだと。
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九月十二日。
かぐやのライブが終わった。
あの日、私の中にあったもう一つの魂が、少しずつ離れていくのを感じた。これからかぐやと共に月へ向かい、八千年の旅路へと踏み出していく彼方。かつての私と同じように、あの子も自分の意思でその道を選んだのだ。
申し訳ないという気持ちは、最後まで消えなかった。それでも、頑張ってほしかった。
大丈夫。私でもやり遂げられたのだから、きっとあなたにもできる。一番辛いのは、月にいた最初の七十年だ。そのあとは、かぐやが隣にいてくれる。あの子は少し騒がしくて、時々わがままで、何かを思いつくとすぐに行動してしまう。けれど、本当に優しい子だから。あなたが寂しいときには、きっと話しかけてくれる。泣いているときには理由を聞いてくれるし、何もない日だって、くだらない話をして笑わせてくれる。
だから、何も心配しなくていい。
そう思ったところで、ふと気づいてしまった。
……そっか。
もう、私の隣にはかぐやがいないんだ。
その事実を理解した瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。
八千年。本当に、長い時間だった。何か面白いものを見つければ、真っ先にあの子へ教えた。嬉しいことがあれば一緒に喜び、悲しいことがあれば二人で悩んだ。何もすることがない日は、ただ隣に座って、取り留めのない話をした。いつの間にか、それが私の日常になっていた。
私が昔の自分を忘れてしまっても、あの子だけは私を知っていてくれた。名前を持たない私に、お隣さんという居場所をくれた。
そんな、私の最愛の友達。
もう二度と、あの子の隣に立つことはないのだろう。
かぐやは、もうかぐやではない。八千年の旅を終えて、月見ヤチヨとして彩葉のもとへ辿り着いたのだ。これからは、私もあの子をヤチヨと呼ばなければならない。
もちろん、名前が変わったからといって、あの子が別人になったわけではない。それでも、私の知っているかぐやが、少しずつ遠くへ行ってしまったような気がした。
ヤチヨは、もう彩葉と再会できているはずだった。私の知っている彩葉なら、きっとあの子の正体に気づいてくれる。八千年もの間、ヤチヨがずっと会いたいと願い続けてきた人なのだから。
これからは、彩葉が隣にいてくれる。
もう、私なんかいなくても大丈夫。
そうだよね、ヤチヨ。
もう寂しくないよね。彩葉がいるものね。
だから、どうか幸せになって。
私と過ごした八千年よりも、ずっと、ずっと幸せな時間を過ごしてほしい。
そんなことを考えているうちに、もう一人の私の存在が、少しずつ遠ざかっていった。
「行ってきます」
最後に聞こえたのは、そんな言葉だった。
その声を聞いた瞬間、私は泣きそうになってしまった。懐かしかったのだ。あの声も、あの話し方も、きっと昔の私そのものだった。八千年前の、まだ何も失っていなかった酒寄彼方。もう自分では思い出せないのに、確かにそこにいた。
「……行ってらっしゃい」
小さく答える。けれど、その言葉が届いたのかは分からなかった。もう一人の私の存在は、既に消えていたから。
私はしばらく、その余韻に意識を向けていた。何かが大きく変わったことだけは分かる。今まで身体の奥にあった、もう一つの意識がなくなっていた。
これで、私の役割は終わったのだ。
かぐやと共に八千年を過ごし、あの子を彩葉のもとへ送り届け、次の私に輪廻を託す。長い長い旅路の果てに、ようやくすべてが終わった。
「……ただいま」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。けれど、きっとこれでよかったのだと思う。
私は輪廻の中で、ずっと「行ってきます」と「ただいま」を繰り返してきた。過去へ向かい、かぐやと共に八千年を過ごし、現代へ戻って次の私に輪廻を託す。そしてまた、新しい私が旅立っていく。
輪廻を回し終えた私にとって、この「ただいま」という言葉こそが、長い旅の終わりなのだろう。
もう誰かのために八千年を過ごす必要はない。これからは、私自身の人生を生きていけばいい。
そう思いながら、私は身体を起こそうとした。
けれど、思うように動かなかった。
「……あれ?」
おかしい。
指先を動かそうとしても、うまく力が入らない。身体を起こそうとすると、視界がぐらりと揺れた。胸の奥が締めつけられ、呼吸まで苦しくなっていく。
「……やっぱり、そうなるんだね」
小さく呟いた。
こうなる可能性は、ある程度覚悟していた。今までこの身体には、この時代を生きてきた彼方の魂と、八千年を過ごした私の魂が存在していた。表層にいた彼方のおかげで、どうにか均衡が保たれていたのだと思う。
けれど、今は違う。
現代の彼方が旅立ったことで、この身体に残っているのは私だけになってしまった。月で過ごした七十年間の孤独と、八千年という途方もない時間。その中で何度も傷つき、かぐやが必死に守り続けてくれた魂。それだけが、今のこの身体を支えている。
以前、私の意識が目覚めたときにも、彼方は急激な体調の変化に苦しんでいた。あのときでさえ、あれほどの影響があったのだ。ならば、私が完全に戻ってきた今、何も起こらないはずがなかった。
頭では理解していた。けれど、実際に身体が動かなくなると、どうしようもなく怖かった。息を吸おうとしても、うまく呼吸ができない。手足は小刻みに震え、身体を起こすことさえままならなかった。
せっかく、帰ってきたのに。
八千年もかけて、ようやく帰ってこられたのに。
まだ、お母さんにも朝日にも、彩葉にも会えていない。誰にも、帰ってきたことを伝えられていない。それなのに、もう身体が動かなくなってしまうなんて。
「……だれ、か……」
声を出そうとした。けれど、喉から漏れたのは、かすかな息だけだった。
視界が少しずつ暗くなっていく。私は何もできないまま、現代へ帰ってきて早々に意識を失ってしまった。
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次に目を覚ましたとき、視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れない白い天井だった。
規則的に聞こえてくる機械の音。消毒液のにおい。身体を起こそうとした途端、ひどい頭痛に襲われ、思わず顔をしかめた。
……病院、かな。
どうやら、倒れたあとに運ばれたらしい。身体の辛さは、ほとんど変わっていなかった。意識を失う直前より呼吸は楽になっていたものの、手足は相変わらず思うように動かない。少し身体を動かすだけでも、ひどく疲れてしまう。
それでも、こうして目を覚ませただけ、まだよかったのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、私はゆっくりと首を横へ向けた。
ベッドの隣に置かれた椅子に、一人の女性が座っていた。少し俯くような姿勢で、静かに眠っている。きちんと整えられた服装に、疲れの滲んだ表情。
その人の顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
……お母さん。
酒寄紅葉。
私を産んでくれた人であり、八千年もの間、何度も会いたいと思い続けてきた人。記憶の中ではすっかり曖昧になってしまっていたその顔が、今、目の前にあった。
お母さんだ。
本当に、お母さんがいる。
その事実を理解した途端、どうしようもなく嬉しくなった。
八千年という長い時間の中で、私はたくさんのことを忘れてしまった。家族と過ごした日々も、昔の自分がどんな子供だったのかも、少しずつ分からなくなっていった。それでも、家族に会いたいという気持ちだけは、最後まで失わずにいられた。
きっと、かぐやのおかげだったのだと思う。
あの子は八千年もの間、ずっと彩葉に会いたいと言い続けていた。何百年、何千年と時間が過ぎても、決して諦めようとはしなかった。そんなかぐやの隣にいたからこそ、私も忘れずにいられたのだ。
私にも会いたい人がいる。帰りたい場所がある。そう思い続けることができた。
だから、嬉しかった。
本当なら泣いてしまいたいくらい、嬉しかった。
けれど、その喜びは長く続かなかった。
……今の私が、お母さんに会ってもいいのかな。
ふと、そんな疑問が浮かんでしまったからだ。
私はもう、お母さんの知っている酒寄彼方ではない。
八千年もの間、私はかぐやの隣で、お隣さんという存在として生きてきた。名前を隠し、口調を変え、慣れ親しんだ関西弁をやめて、かつての自分とは違う誰かとして振る舞い続けてきた。最初は、ただ正体を隠すための仮面だった。酒寄彼方という名前を知られないように、かぐやの隣にいるために作り上げた、もう一人の私。それがお隣さんだった。
もちろん、お隣さんも間違いなく私自身だ。誰かに成り代わったわけでも、まったく別の人間になったわけでもない。かぐやと過ごした日々も、あの子のために悩み、笑い、時には泣いたことも、すべて私自身の経験だった。お隣さんとして生きてきた八千年を、偽物だったなんて思いたくない。あの日々は確かに私の人生であり、何よりも大切な時間だったのだから。
けれど、八千年という時間は、あまりにも長すぎた。
最初の頃は、まだ覚えていたのだと思う。自分がどんなふうに話していたのか。家族の前ではどんな顔をして笑っていたのか。お母さんや朝日、彩葉に、どんな言葉をかけていたのか。お隣さんとして振る舞いながらも、その奥には酒寄彼方という少女が確かに存在していた。
けれど、百年が過ぎ、千年が過ぎ、さらに気の遠くなるような年月を重ねるうちに、その境界は少しずつ曖昧になっていった。意識して変えていたはずの口調は、いつしか何も考えずに使う言葉になった。かぐやの前で見せていた表情も、物事の考え方も、誰かにかける言葉の選び方も、すべてがお隣さんとして過ごした日々の中で形作られていった。
そして、いつの間にか、仮面をつけているという意識さえなくなっていた。
酒寄彼方として振る舞っていた時間よりも、お隣さんとして生きてきた時間の方が、比べものにならないほど長くなっていたのだから、当然だったのかもしれない。けれど、だからといって簡単に受け入れられることではなかった。
私は、お隣さんになろうとしただけだった。酒寄彼方を捨てようとしたわけではない。いつか元の時代に帰ったら、またお母さんの娘として、朝日と彩葉の妹として生きていけるのだと、どこかで思っていた。
けれど、八千年を過ごした今の私には、もうその戻り方が分からなかった。
お隣さんとしてなら、何も考えずに話すことができる。どんなふうに笑えばいいのかも、どんな言葉を選べばいいのかも分かる。けれど、酒寄彼方として話そうとすると、途端に何も分からなくなってしまう。昔の私は、こんなとき何と言っていただろう。どんな口調で話して、どんな表情を浮かべていただろう。思い出そうとしても、答えはどこにも見つからなかった。
眠りから目覚めたあと、この時代の彼方と直接向き合ったからこそ、その違いが痛いほどよく分かってしまった。
あの子の声も、話し方も、何気ない仕草も、私にはひどく懐かしかった。確かに知っているはずのものだった。かつて自分も、あんなふうに話していたのだろう。あんなふうに笑い、悩み、家族のことを考えていたのだろう。そう思うことはできた。
けれど、それだけだった。
目の前にいた彼方は、間違いなく酒寄彼方だった。八千年前、月へ向かうことを決めた、あの頃の私そのものだった。けれど、私はあの子の言葉を懐かしいと思うことはできても、自分の言葉として思い出すことはできなかった。あの子の振る舞いを見て、昔の私はこうだったのだと知ることはできても、同じように振る舞うことはできなかった。
まるで、忘れてしまった自分自身を、他人の姿を通して見せられているようだった。
そのとき、ようやく理解してしまった。
私はもう、月へ向かう前の酒寄彼方ではないのだと。
お隣さんという仮面の下に、昔の私がそのまま残っているわけではなかった。八千年もの間、かぐやの隣で生きてきた私が、少しずつ、少しずつ、かつての酒寄彼方を塗り替えてしまっていたのだ。
それは、決してお隣さんとして生きたことを後悔しているという意味ではない。あの八千年がなければ、今の私は存在しない。かぐやと過ごした時間を失いたいとも、昔の自分に戻るためになかったことにしたいとも思わなかった。
ただ、悲しかった。
あれほど帰りたいと願っていたのに。お母さんや朝日、彩葉にもう一度会いたいと、何度も何度も思っていたのに。ようやく帰ってきた私は、あの人たちが知っている酒寄彼方ではなくなっていた。
家族を忘れたわけではない。お母さんが大切な人だということも、朝日と彩葉が大好きだったことも、今でも覚えている。会いたかったという気持ちだって、少しも嘘ではなかった。
それなのに、その家族と一緒に過ごしていた私自身が、もう思い出せない。
私は酒寄彼方だ。そう名乗ることはできる。お母さんの娘で、朝日と彩葉の妹であることも、間違いない。
けれど、八千年前の酒寄彼方は、もうどこにもいない。
お隣さんとして生きてきた私が、今ここにいるだけだった。
そして、そんな私が、お母さんの娘として何も知らない顔でここにいてもいいのだろうか。
目の前で眠っているお母さんを見つめながら、私はその答えを見つけることができなかった。
考えているうちに、お母さんが小さく身じろぎした。ゆっくりと顔を上げ、こちらを見る。目が合った瞬間、お母さんの動きが止まった。
「……彼方?」
久しぶりに聞く、お母さんの声だった。
私は返事をしようとしたけれど、喉がうまく動かず、代わりに小さく頷いた。それを見たお母さんは、しばらく信じられないものを見るように私を見つめていた。
やがて椅子から立ち上がると、私の顔を確かめるように覗き込んだ。
「……もう、ほんま……心配かけさせて……」
そう言って、お母さんは私を抱き寄せた。
私は驚いてしまった。
あのお母さんが、泣いている。
私の記憶に残っているお母さんは、いつだって厳しい人だった。泣いているところなんて、ほとんど見たことがなかったと思う。そんな人が今、私の目の前で涙を流していた。
「……ご……めん……なさ……い……」
私は、うまく出せない声で謝ることしかできなかった。
ごめんなさい。
勝手にいなくなって、ごめんなさい。
八千年も帰ってこなくて、ごめんなさい。
ようやく帰ってきたのに、もう自分のことさえよく分からないような娘になってしまって、ごめんなさい。
謝りたいことは、いくらでもあった。けれど、言葉にすることはできなかった。
泣きたかった。本当は私だって、泣いてしまいたかった。八千年も会いたかった人が目の前にいるのだから、何も考えずに泣いて、帰ってきたことを喜びたかった。
けれど、涙は出なかった。
今の私に、そんなことをしていいのか分からなかったから。
お母さんが心配しているのは、酒寄彼方という娘だ。八千年もの間、お隣さんとして生きてきた私ではない。昔の記憶を失い、かつての自分がどんな人間だったのかさえ分からなくなった私に向けられたものではないはずだった。
それなのに、私はその優しさを受け取ってしまっている。
まるで、お母さんを騙しているみたいだった。
私は、お母さんの笑顔が見たかった。記憶の中に残っている、あの優しい笑顔が。自分自身のことを忘れてしまっても、最後まで心に残っていたお母さんの笑顔が、もう一度見たかった。
それなのに、私が帰ってきたせいで泣かせてしまった。
お母さんはしばらく私の様子を確かめてから、慌ててナースコールを押した。看護師が来るまでの間も、ずっと私のそばにいてくれた。何度か名前を呼ばれ、そのたびに私は小さく頷いた。
その優しさが、どうしようもなく申し訳なかった。
しばらくすると、看護師と医師が病室にやってきた。いくつか質問をされ、身体の状態を確認されたけれど、私はまともに声を出せなかったため、ほとんど頷くことしかできなかった。
医師の説明によれば、私は二日間も意識を失っていたらしい。その間、四十度近い高熱が続いていたこと。今は少し下がったものの、それでも三十九度近い熱があるため、絶対安静が必要だということ。そして、いくつか検査をしているものの、はっきりとした原因は分かっていないということだった。
原因不明。
……当然だよね。
魂が身体に与える影響なんて、普通の医学で説明できるはずがない。ましてや、八千年を過ごして傷ついた魂が、元の身体に戻ってきたせいで起こった異常だなんて、誰が信じてくれるだろう。
だから私は、何も言わなかった。
医師たちが病室を出ていったあとも、お母さんはずっとそばにいてくれた。時間が経つにつれて、身体の辛さが増していった。頭痛がひどくなり、視界がぼやけ始める。何度も意識が遠のきそうになったけれど、それでも眠りたくはなかった。
せっかく会えたのだから。
八千年も会いたいと願い続けてきた人が、今、目の前にいるのだから。
罪悪感はあった。今の私がここにいていいのかも分からなかった。それでも、ほんの少しだけでいいから、そばにいてほしかった。お母さんの顔を見ていたかった。声を聞いていたかった。
そんな私の様子に気づいたのか、お母さんは困ったように眉を寄せた。
「彼方、はよ寝なさい。しんどいやろ?」
私は小さく首を振ろうとしたけれど、それすらうまくできなかった。お母さんは少しだけ黙ったあと、いつもの厳しい口調に戻って言った。
「安心し。明日も様子見に来るから」
そして、少しだけ表情を緩めた。
「……おやすみ、彼方」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
お母さんが呼んでいるのは、私ではない私だった。八千年前の、まだ何も失っていなかった酒寄彼方。きっと、あの子に向けて言っている言葉なのだろう。
それなのに、私は安心してしまった。
八千年も離れていたはずなのに。昔の自分がどんな子供だったのかさえ、もう分からないのに。お母さんにおやすみと言われただけで、こんなにも安心してしまう。
それが申し訳なくて、情けなくて。
……それでも、嬉しかった。
私はもう何も考えられなくなり、そのまま再び眠りについた。
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それから数日間、私の体調はさらに悪化した。
四十度を超える熱が当たり前になり、起きているのか眠っているのかさえ分からなくなる時間が増えていった。何度も医師が来て検査を受けたけれど、結局はっきりとした原因は分からなかったらしい。
お母さんは毎日のように病院へ来てくれた。仕事の合間を縫ってきたのか、短い時間しかいられない日もあったけれど、それでも必ず顔を見せてくれた。枕元の椅子に座り、何も言わずに私の様子を確かめていく。そんなお母さんの姿を見るたびに、私は少しだけ安心できた。
けれど、そんなお母さんを見ているうちに、私はこれからのことを考えずにはいられなくなった。
いつまでも病院にいるわけにはいかない。いつかは熱も下がり、身体も動くようになる。そうなれば、私はまた酒寄彼方として生活していかなければならない。お母さんと話し、朝日や彩葉と顔を合わせ、昔と同じように振る舞うことを求められるのだろう。
けれど、今の私には、それが何よりも難しいことに思えた。
昔の私は、どんなふうに話していたのだろう。お母さんに叱られたとき、どんな返事をしていたのだろう。朝日に甘えるときは、どんな声で名前を呼んでいたのだろう。彩葉と話すとき、どんな表情をしていたのだろう。
何度思い出そうとしても、答えは見つからなかった。
八千年もの間、お隣さんとして生きてきた私には、酒寄彼方として過ごしていた頃の自分が、もうほとんど分からない。昔の記憶がすべて消えてしまったわけではない。家族が大切だったことも、一緒に過ごした出来事の断片も、確かに残っている。けれど、その記憶の中にいる私が、どんな人間だったのかだけが分からなかった。
それでも、これから先は酒寄彼方として生きていかなければならない。
だからこそ、今の状況は、辛いことにさえ目を瞑れば、私にとって都合がよかった。
身体が動かない。まともに喋ることもできない。少し声を出しただけで息が切れてしまうし、何かをしようとしても、すぐに疲れてしまう。お母さんに話しかけられても、小さく頷くだけで許してもらえた。
誰も、私に昔のように振る舞うことを求めなかった。
病気なのだから仕方がない。今は無理をしなくていい。お母さんも医師も、そう言ってくれた。
そのことに、私は安心してしまっていた。
あれほど苦しい思いをしているのに、早く元気になりたいと心から願うことができなかった。元気になれば、また話さなければならない。家族と向き合わなければならない。昔の酒寄彼方として振る舞えないことを、隠し続けなければならない。
それが怖かった。
だから、今はまだ、このままでいたかった。
喋らなくていい。動かなくていい。何もできなくても、誰にも不思議に思われない。そんな状況が、私にはひどくありがたかった。
そして、考える時間だけは十分にあった。
これからどうすればいいのか。どうすれば、お母さんや朝日、彩葉に気づかれずに済むのか。八千年を過ごした私が、どうすれば昔の酒寄彼方として生きていけるのか。
熱に浮かされ、意識が途切れそうになるたびに、私はそんなことばかり考えていた。
……次は、酒寄彼方の仮面を被る番なんだ。
そう思ったとき、自分でもおかしくなってしまった。
かつての私は、酒寄彼方であることを隠すために、お隣さんという存在を作った。名前を隠し、口調を変え、誰にも正体を知られないように振る舞い続けた。
いつか元の時代へ帰ったら、その仮面を外せるのだと思っていた。
けれど、実際には違った。
八千年もの間、被り続けていた仮面は、いつしか私自身になっていた。お隣さんとしての話し方も、考え方も、何気ない仕草も、すべてが当たり前になってしまった。
そして、仮面の下にいたはずの酒寄彼方が、分からなくなってしまった。
だから今度は、私がお隣さんであることを隠さなければならない。
家族が知っている酒寄彼方を、私自身が演じなければならない。
関西弁なんて、もうまともに話せる気がしなかった。昔の私は当たり前のように使っていたはずなのに、今ではどんな言葉を選べば自然なのかさえ分からない。無理に真似をしたところで、きっと不自然になってしまうだろう。
けれど、そんなことはいくらでも誤魔化せる。
あまり喋らなければいいだけだ。
必要なことだけを短く答えて、あとは笑っていればいい。何か聞かれても、体調が悪いからと謝ればいい。昔の話をされても、曖昧に頷いていればいい。
幸い、今の私には病気という理由があった。
大きな病気をしたせいで、以前より口数が少なくなってしまった。体力が落ちて、昔のように元気に振る舞えなくなった。そう思ってもらえれば、多少様子が違っていても不思議には思われないかもしれない。
病気の後遺症ということにしてしまえば、きっと何とかなる。
私は、そんなことを真剣に考えていた。
八千年もの間、ずっと会いたかった家族と、どうすれば昔のように笑い合えるのかではなく、どうすれば自分が変わってしまったことを隠せるのかを。
お母さんは、私が早く元気になることを願ってくれている。朝日だって、きっと心配してくれているだろう。そんな人たちを、私はこれから騙そうとしている。
そのことが、どうしようもなく申し訳なかった。
けれど、ほかに方法が思いつかなかった。
私はもう、昔の酒寄彼方に戻ることはできない。忘れてしまった自分を、今さら取り戻すこともできない。
それでも、お母さんたちにとっての酒寄彼方は、まだここにいることになっている。
ならば、せめてそのままでいさせてあげたかった。
お母さんが大切に育ててきた娘を。朝日と彩葉が知っている妹を。私自身が忘れてしまった、あの頃の酒寄彼方を。
私が上手に演じられれば、誰も失わずに済むかもしれない。
たとえ、そのために私がずっと嘘をつき続けることになったとしても。
……大丈夫。
八千年間も、お隣さんとして生きてこられたのだから。
今度だって、きっと上手くできる。
そう自分に言い聞かせながら、私は病室の天井を見つめていた。
お隣さんという仮面を被るために、八千年もの時間を費やした。そして今度は、酒寄彼方という仮面を被って、残りの人生を生きていこうとしている。
結局、私はどこへ帰ってきても、何かを隠して生きることしかできないらしい。
そんなことを考えていると、少しだけ泣きたくなった。
けれど、涙は出なかった。
今の私には、泣いている暇なんてない。
どうすれば昔の私らしく見えるのか。どんな言葉なら不自然に聞こえないのか。家族に何かを聞かれたとき、どう答えれば疑われずに済むのか。
私は、熱に浮かされながらも、何度もそんなことを考え続けた。
そして、ある日。
朝日も、お見舞いに来てくれた。
……と思う。
その日の記憶は、ほとんど残っていない。誰かが私の名前を呼んでいたこと。お母さんとは違う、男の人の声だったこと。そして、その声を聞いた瞬間、どうしようもなく泣きたくなったことだけは覚えている。
朝日。
酒寄朝日。
私の兄であり、八千年もの間、何度も会いたいと思っていた人。
昔の記憶は曖昧だったけれど、朝日が優しい人だったことは覚えていた。私が困っていれば助けてくれて、体調を崩せば必要以上に心配してくれる。そんな人だったはずだ。
だからこそ、顔を見るのが怖かった。
朝日が会いに来たのは、昔の酒寄彼方のためだ。今の私ではない。もし、まともに話せる状態で再会していたら、私はきっと泣いてしまっただろう。八千年も会いたかったのだから、当然だと思う。
けれど、泣いてしまえば朝日はきっと心配する。どうして泣いているのか。何か辛いことがあったのか。何度も聞いてくるだろう。そんな優しさに、今の私は耐えられそうになかった。
だから、まともに話せなくてよかった。
そう思ってしまった自分が、少し嫌になった。
ただ、一つだけ、はっきりと覚えていることがあった。
彩葉には、入院していることを伝えないでほしい。
朝日にはもう知られてしまっていたけれど、せめてこれ以上は広げないでほしかった。私はお母さんと朝日の両方に、そうお願いした。どうにか声が出せるようになったとき、何度も頼んだのだと思う。
彩葉にだけは、知られたくなかった。
私にとって、彩葉は特別な人だった。もちろん、お母さんも朝日も大切だ。八千年もの間、会いたいと思い続けてきた家族なのだから、その気持ちに嘘はない。けれど、彩葉だけは少し違った。
私だけではなく、かぐやもずっと会いたいと願っていた人。八千年という時間の中で、私たちは何度も彩葉の話をした。かぐやが彩葉との思い出を話して、私がその話に相槌を打つ。何度も同じ話を繰り返したし、時には私が忘れてしまったことを、かぐやが覚えていてくれた。
そうして、二人で彩葉という存在を守り続けてきた。
彩葉のことは大好きだ。そして、私にとって何よりも大切な人でもある。それは八千年という時間を過ごしても変わらなかった。昔の自分がどんな人間だったのか分からなくなっても、家族と過ごした日々の大部分を忘れてしまっても、彩葉を大切に思う気持ちだけは確かに残っていた。
けれど、今の私は彩葉に会いたくないとも思っていた。
そんなことを考えたのは、きっと初めてだったと思う。少なくとも、私が覚えている限り、彩葉に会いたくないと願ったことなんて一度もなかった。あの古いアパートで冷たく突き放されたあとでさえ、彩葉のことを嫌いになったわけではなかったし、八千年の旅の間も、何度となく会いたいと思っていた。
それなのに、ようやく帰ってきた今になって、私は彩葉との再会を避けようとしている。
今は、今だけは会いたくなかった。
私はもう、彩葉の知っている酒寄彼方ではない。
この身体が酒寄彼方のものであることは間違いない。お母さんも朝日も私を彼方と呼ぶし、私自身もその名前を忘れたわけではなかった。けれど、八千年もの間、お隣さんとして生きてきた私には、かつての酒寄彼方がどんな人間だったのか、もう分からない。
昔の私はどんなふうに話していたのだろう。彩葉の前では、どんな表情をしていたのだろう。何をして笑い、何を言われて怒り、どんなことを考えながら毎日を過ごしていたのだろう。そんな当たり前のことさえ、今の私には思い出せなかった。
私が知っているのは、八千年を過ごしたあとの私だけだった。
そして、彩葉が知っているのは、その八千年を経験する前の酒寄彼方なのだ。
同じ名前で、同じ身体を持っていても、私たちが知っている酒寄彼方は、もう同じではない。私自身が忘れてしまった昔の私を、彩葉は今でも覚えているかもしれない。だからこそ、会えば何かがおかしいと気づかれてしまう可能性があった。
それが、何よりも怖かった。
もし万が一、彩葉が私の異変に気づいてしまったら。昔の私とは違うことに疑問を抱き、その理由を知ろうとしてしまったら。そして、私が八千年もの間、かぐやの隣にいたことまで知ってしまったら。
あの優しい彩葉は、きっと深く心を痛めてしまう。
かぐやが自分と再会するために八千年を過ごした。その事実だけでも、彩葉にとっては簡単に受け止められるものではないと思う。それなのに、その八千年の中に自分の妹までいたと知ったら。まだ幼かった妹が、誰にも知られないまま長い時間を過ごし、家族との思い出も、昔の自分自身さえも失ってしまったのだと知ったら。
彩葉は、どれほど悲しむのだろう。
私があの旅を選んだのは、私自身の意思だった。最初は彩葉とかぐやをもう一度会わせてあげたかったから。そして、長い旅の中で、かぐやは私にとって何よりも大切な存在になった。あの子の隣にいたいと思ったのも、最後まで一緒に歩くことを選んだのも、私だった。
だから、彩葉が責任を感じる必要なんてない。
けれど、彩葉がそう考えてくれるとは限らなかった。自分のために妹が八千年を過ごしたのだと思ってしまうかもしれない。私が失ったものを知って、何かできたのではないかと考えてしまうかもしれない。
そんなことは、絶対に嫌だった。
私は彩葉を悲しませるために八千年を過ごしたわけではない。あの旅の果てに、彩葉とかぐやがもう一度会えることを願っていた。二人が再会できたのなら、それでよかった。私が何をしていたのか、どれほど長い時間を過ごしてきたのか、彩葉が知る必要はなかった。
ましてや、私がもう昔の酒寄彼方ではないという事実を、彩葉に背負わせたくなかった。
彩葉には、何も知らないままでいてほしかった。
かぐやと再会できたことを喜んで、これからの時間を大切に過ごしてほしかった。八千年もの間、あの子がどれほど彩葉を想っていたのか、私はずっと隣で見てきたのだから。ようやく叶ったその願いを、私の存在によって悲しいものにしたくなかった。
だから、彩葉には絶対に八千年のことを話さない。
私がお隣さんだったことも、かぐやと共に八千年を過ごしたことも、その間に何を失ってしまったのかも。何一つ、話すつもりはなかった。
たとえ彩葉が私の様子を不審に思っても、何かあったのかと聞いてきても、その決意は変わらない。彩葉が真実に近づいてしまうのなら、私はそれ以上近づかせないようにするしかなかった。
もし、彩葉が会いに来たとしても。
私はきっと、あの人を突き放してしまうと思う。
会いたくないと言ってしまうかもしれない。もう私に構わないでほしいと、冷たい言葉を向けてしまうかもしれない。心配して来てくれた彩葉を、何も知らないまま帰してしまうことになるのだろう。
それで彩葉が傷つくことも、分かっていた。
大切な人を傷つけたくないと思いながら、その人を自分から突き放そうとしている。矛盾していることくらい、私にも分かる。けれど、八千年の真実を知られてしまうことだけは、どうしても避けなければならなかった。
たとえ一時的に傷つけてしまったとしても、私の八千年を知って深く心を痛めるよりは、ずっといい。
彩葉に嫌われても構わなかった。もう会いたくないと思われても、薄情な妹だと思われても、それで八千年のことを知られずに済むのなら、私はその方を選ぶ。
彩葉が私のことをどう思うようになったとしても、私が彩葉を大切に思う気持ちは変わらない。それだけは、はっきりしていた。
だからこそ、今は会わない。
会いに来たとしても、突き放す。
そして、何があっても八千年のことは話さない。
彩葉が大好きだから。あの人が私にとって、今でも大切な人だから。
私が失ったものを、彩葉にまで背負わせたくはなかった。
それに、彩葉が私のもとへ来ることはないだろうとも思っていた。
私の中に残っている、彩葉との最後の記憶。それは、あの古いアパートでの出来事だった。
『用事は済んだでしょ、帰って』
あのときの彩葉の声を、今でも覚えている。冷たく、突き放すような声だった。
私は何か悪いことをしてしまったのだろうか。どうしてあんなことを言われたのだろうか。八千年もの間、何度も考えたけれど、結局答えは分からなかった。
きっと、彩葉は私のことが嫌いだったのだろう。
そう考えるのが、一番簡単だった。
私のことが嫌いなら、わざわざ会いに来ることもない。そう思えば、少しだけ安心できた。
---
入院してから一週間ほど経った頃、私の体調はようやく落ち着き始めた。
四十度を超えていた熱も少しずつ下がり、まともに会話ができる程度には回復した。手足の動きも、最初の頃に比べれば随分とよくなっていた。
正直、もう二度と普通に生活できないのではないかと思っていた。それほどまでに、あの数日間は苦しかった。だから、退院できると聞いたときは少しだけ安心した。
もっとも、完全に元通りになったわけではなかった。身体には、いくつかの後遺症が残っていた。
特にひどかったのは、眠気だった。一日の半分以上を眠って過ごすことも珍しくなく、少し活動しただけで急激に意識が遠のくような眠気に襲われた。体力も以前より随分と落ちてしまったらしく、何もしていないのに疲れてしまうことがあった。階段を上がるだけで息が切れ、少し立っているだけでも足が震える。
八千年を生きた魂は、思っていた以上にこの身体には重すぎたのだと思う。
医師からは、しばらく自宅で療養するように言われた。当然、学校にも行けなかった。けれど、正直なところ、学校に行けなくて困るという感情はほとんどなかった。
今の私にとって、学校は知らない場所だったからだ。
昔の彼方がどんな友達と過ごし、どんな授業を受け、どんな毎日を送っていたのか。そんなことは、もうほとんど覚えていなかった。もし学校へ行ったとしても、きっと何も分からない。友達だった人に話しかけられても、誰なのか分からないかもしれない。笑いかけられても、どんな顔で笑い返せばいいのか分からないかもしれない。
そんな自分を想像すると、怖くなった。
だから、家で療養するという医師の判断は、私にとって都合がよかった。
退院してからの生活は、とても静かなものだった。
お母さんは、私が入院していた間に溜まった仕事を片づけなければならないらしく、朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる日が続いた。時には帰ってこられない日もあった。
申し訳ないと思った。私が倒れたせいで、余計な負担をかけてしまったのだから。
それでも、お母さんは毎日のように私の様子を気にかけてくれた。食事のことや薬のこと、体調に変化がないかということ。言葉数は多くなかったけれど、冷蔵庫に貼られた小さなメモや、テーブルに用意された食事から、私のためにいろいろと考えてくれているのが分かった。
その優しさが、少し苦しかった。
私は相変わらず、お母さんに何も話せていなかった。八千年のことも、昔の記憶がほとんど残っていないことも。何も知らないふりをして、ただ大人しく療養していた。
そして、彩葉と朝日からの連絡も、すべて断っていた。
二人から届いたメッセージには返事をせず、着信があっても出なかった。最初のうちは通知が届くたびに画面を確認していたけれど、いつしかそれすら怖くなり、今では二人の名前が表示されないようにしてしまっていた。
朝日は私の入院を知っているのだから、きっと心配してくれているのだろう。彩葉だって、何か用事があって連絡をくれているのかもしれない。それでも私は、一度も返事をしなかった。
嫌いになったわけではない。むしろ、その逆だった。
八千年もの間、何度も会いたいと願い続けてきた人たちなのだから、嫌いになれるはずがなかった。今でも二人のことが大好きだった。声を聞きたかったし、会いたかった。できることなら、昔のように何でもない話をして、家族として一緒に過ごしたかった。
けれど、それだけはできなかった。
怖かったのだ。
二人と話すことが。二人の前で、酒寄彼方として振る舞うことが。そして何より、私がもう、二人の知っている酒寄彼方ではないと気づかれてしまうことが。
八千年という時間は、私から本当に多くのものを奪っていった。家族と過ごした日々も、何でもない会話も、幼い頃に抱いていた夢も。忘れたくないと願っていた記憶ほど、少しずつ輪郭を失っていった。
昔の自分がどんな話し方をしていたのか。何をして笑っていたのか。どんなことに怒り、何を悲しんでいたのか。そんな当たり前のことさえ、今の私には分からなかった。
私はもう、酒寄彼方を演じることしかできない。
八千年もの間、お隣さんとして生きてきた。最初は名前を隠すために作ったはずの存在だったのに、いつしかそちらの方が本当の私になっていた。話し方も、考え方も、何かを選ぶときの基準も。すべて、ヤチヨと過ごした日々の中で形作られていった。
お隣さんとしての私は、今でも何も考えずに振る舞うことができる。けれど、酒寄彼方としてどう振る舞えばいいのかは、もう分からなかった。
それでも、名前だけは残っていた。身体も、家族も、昔と同じだった。だから、何も知らない人から見れば、私は今でも酒寄彼方なのだろう。少し体調を崩して、以前より大人しくなっただけの、どこにでもいる普通の女の子。
そう思ってもらえるのなら、それでよかった。
けれど、彩葉と朝日は違う。
二人は、昔の私を知っている。私がどんなふうに笑っていたのか、どんな声で話していたのか、何をすれば喜び、何をされれば泣いてしまうのか。私自身が忘れてしまったことを、二人はきっと覚えている。何年も一緒に暮らしてきたのだから、当たり前だった。
だからこそ、会えなかった。
朝日なら、きっとすぐに気づいてしまうだろう。昔から私のことになると心配しすぎる人だった。少しでも様子がおかしければ、何かあったのかと聞いてくるはずだ。
彩葉なら、もっと怖かった。
あの人は私の姉なのだから。私が小さかった頃から、ずっとそばにいた人。何気ない仕草や言葉の選び方だけで、きっと昔の私との違いに気づいてしまう。
そうなったとき、私は何と答えればいいのだろう。
八千年を過ごしたから、昔の自分を忘れてしまったのだと。
あなたたちの知っている妹は、もうどこにもいないのだと。
そんなこと、言えるはずがなかった。
私は二人の妹だった。お母さんの娘だった。昔の記憶はほとんど残っていないけれど、それだけは間違いない。三人が私を大切にしてくれていたことも、私が三人を大切に思っていたことも覚えている。
だからこそ、知られたくなかった。
もし、彩葉や朝日が今の私を見て、妹がいなくなってしまったと気づいたら。昔の彼方はどこに行ったのかと聞かれたら。
私には、何も答えられない。
だって、消してしまったのは私なのだから。
かぐやを助けたいと願ったのも、八千年の旅についていくと決めたのも、すべて私自身だった。
後悔はしていない。ヤチヨと過ごした日々は、私にとって何よりも大切な宝物だ。あの子と出会えてよかったと、今でも心から思っている。
けれど、その代わりに酒寄彼方が消えてしまったのだとしたら。
私は、大切な人たちから娘と妹を奪ってしまったことになる。
八千年もの間、会いたいと願い続けてきた家族に、私はもう二度と、昔の私を返してあげられない。それが、どうしようもなく申し訳なかった。
お母さんは、まだ気づいていないのだと思う。体調が悪いから、以前とは少し様子が違うのだと考えてくれているのだろう。今はそれでよかった。
けれど、彩葉と朝日はどうだろう。
二人と話してしまえば、きっと何かがおかしいと気づかれてしまう。私が昔のように話せないこと。家族との思い出をうまく語れないこと。そして、二人を前にしても、どんなふうに振る舞えばいいのか分からないこと。
もし、すべてを知られてしまったら。
朝日は、どんな顔をするのだろう。彩葉は、何と言うのだろう。私を見て、悲しむのだろうか。泣いてしまうのだろうか。それとも、私が知らないうちに妹が消えてしまったことを、責めるのだろうか。
責められるのなら、まだよかった。私が選んだことなのだから、どんな言葉だって受け入れられる。
けれど、もし二人が何も言わずに泣いてしまったら。
私の前で、もう戻ってこない酒寄彼方を悲しんでしまったら。
私は、きっと耐えられない。
私はまだ生きている。ここにいる。二人のことだって、今でも大好きだ。それなのに、二人が愛してくれた妹は、もういない。
その事実を、二人にだけは知られたくなかった。
だから、連絡を断った。
考えたくなかった。二人が今何をしているのかも、元気に暮らしているのかも、私のことを心配しているのかも。そんなことを考えてしまえば、また話したくなってしまう。声を聞きたくなってしまう。
八千年もの間、何度も会いたいと願い続けてきた人たちが、今はたった一度連絡を返すだけで話せる場所にいる。その事実を思い出すだけで、どうしようもなく苦しくなった。
けれど、会いたいという気持ちに負けてしまえば、きっと私は二人を傷つけてしまう。
だから、もう会わない方がいい。
朝日には、昔の私を覚えていてほしかった。彩葉にも、あの頃の妹のままで記憶していてほしかった。私自身が忘れてしまった酒寄彼方を、二人には忘れずにいてほしかった。
そのためなら、嫌われても構わなかった。
連絡を無視する薄情な妹だと思われても、もう会いたくないのだと誤解されても、それでよかった。私が変わってしまったことを知られるより、ずっとよかった。
そう自分に言い聞かせて、私は今日も二人からの連絡を見ないふりをした。
本当は、会いたかった。
朝日に名前を呼んでほしかった。彩葉に、昔みたいに話しかけてほしかった。二人の妹として、もう一度だけ笑ってみたかった。
けれど、そんなことを願うたびに、胸の奥で小さな声がした。
あなたは、誰なの。
その問いに、私はもう答えられなかった。
酒寄彼方です。
そう答えることはできる。けれど、その名前に込められたものを、私はもうほとんど覚えていない。
だから、どうか気づかないでほしい。
私が八千年を過ごしたことも、昔の記憶を失ってしまったことも、酒寄彼方という少女が、もうここにはいないことも。
どうか、知らないままでいてほしい。
あなたたちが大切にしてくれた妹は、今もどこかで元気に暮らしているのだと、そう思っていてほしかった。
たとえ、その妹から二度と返事が来なかったとしても。
---
退院してから、そんな日々が続いた。
朝、目を覚ます。少しだけ食事をして、薬を飲む。何かをしようと思っても、すぐに疲れてしまう。気づけば眠っていて、次に目を覚ましたときには夕方になっている。カーテンの隙間から差し込む西日の色だけが、一日が過ぎたことを教えてくれた。
何もすることがなかったわけではない。けれど、何もしたくなかった。
八千年もの間、私はずっと何かをしていた。かぐやのために、できることを探していた。どうすればあの子が喜んでくれるのか。どうすれば寂しくならずに済むのか。どうすれば、あの子の願いを叶えられるのか。いつだって、そんなことばかり考えていた。
けれど、今はもう、その必要がない。
ヤチヨは彩葉と再会できた。私の役割は終わった。だから、何もしなくていい。
そう思っていた。
それなのに、何もしない時間が、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。
部屋の中には、私一人しかいなかった。誰かに話しかけても、返事はない。何か面白いことを見つけても、教える相手がいない。ふと顔を上げても、そこにあの子はいない。
八千年間、当たり前のように隣にいた人が、もういない。
それが、どうしようもなく寂しかった。
ヤチヨのいない生活なんて、もう想像できなくなっていた。何かを見れば、あの子なら何と言うだろうと考えてしまう。面白いことがあれば、きっと喜んでくれるだろうと思ってしまう。
窓の外を鳥が横切っただけで、「お隣さん、見て見て!」という声が耳の奥で聞こえた気がして、思わず振り返ってしまう。そして、そのたびに思い出す。
もう、私の声は届かないのだと。
最初は、それでいいと思っていた。ヤチヨが幸せなら、それでいい。そう願っていたはずだった。
けれど、日が経つにつれて、少しずつ寂しさが大きくなっていった。誰かと話したかった。何でもない話をしたかった。今日あったことを聞いてほしかった。たったそれだけのことが、今の私にはできなかった。
そして、ある日のことだった。
その日は珍しく、朝から体調がよかった。いつもなら昼頃には眠気が襲ってくるのに、その日は夕方になっても意識がはっきりしていた。
お母さんは仕事で帰りが遅くなるらしく、家には私一人だった。
いつものように部屋でぼんやりと過ごしていた私は、ふと思い立ってツクヨミにログインした。特別な理由があったわけではない。ただ、少しでもヤチヨを感じたかった。それだけだった。
八千年ぶりに手にしたスマートコンタクトを使い、ツクヨミへ接続する。
視界が切り替わった瞬間、色とりどりの光が目に飛び込んできた。たくさんのアバターが行き交う街。あちらこちらから聞こえてくる楽しそうな声。賑やかな音楽と、どこまでも続いているように見える電子の空。
その景色を見た瞬間、思わず足を止めてしまった。
……懐かしい。
八千年の旅を終えて帰ってきた私にとって、ここは単なる仮想空間ではなかった。ヤチヨが長い年月をかけて作り上げた、私たちの思い出が詰まった場所だったからだ。
この世界が生まれた日のことを、私は今でも覚えている。
あの頃のヤチヨは、まだかぐやと名乗っていた。
インターネットが普及し始め、世界が少しずつ私の知っている時代に近づいてきた頃。あの子は突然、もう一度みんなが自由に遊べる世界を作りたいと言い出した。
『ねえ、お隣さん! かぐや、もう一回あんな世界を作ってみたい!』
そう言って、嬉しそうに未来の話をしていた。
誰も一人ぼっちにならなくていい場所。寂しいときに訪れれば、誰かがいてくれる場所。そんな世界を作りたいのだと、何度も話してくれた。
そして、長い試行錯誤の末に完成したのが、何もない真っ白な仮想空間だった。
建物もなければ、空を彩る星もない。ただ、どこまでも白い景色が続いているだけ。それでも、かぐやは本当に嬉しそうだった。長い間、身体を持たず、誰かに気づいてもらうことさえ難しかったあの子が、自分の意思で新しい世界を作り上げたのだから。
私は、その隣にいた。
何かを作るたびに、かぐやは私に見せてくれた。上手くいけば一緒に喜び、失敗すれば二人で原因を考えた。私にできることは限られていたけれど、それでもあの子は何かにつけて私を頼ってくれた。
少しずつ建物が増え、景色が変わり、人が集まるための仕組みが整えられていく。何もなかった世界が、少しずつ私たちの知っているツクヨミへと近づいていく過程を、私はずっと隣で見守っていた。
やがて、かぐやは自分が月見ヤチヨになるのだと気づいた。
そのときのことも、よく覚えている。
かぐや自身が口にしたツクヨミという名前を聞いて、私たちはようやく気づいたのだ。私たちが知っているあの歌姫は、八千年の旅を終えたかぐや自身だったのだと。
あのとき、私は本当に驚いた。ずっと憧れていた月見ヤチヨが、私の隣にいたかぐやだったなんて。前の私が教えてくれなかった理由も、ようやく分かった気がした。
それから、かぐやは月見ヤチヨとして活動するための準備を始めた。
銀色の髪をした、あの歌姫の姿を作り、仮想空間の中で動ける身体を手に入れた。
そして、私にも身体を作ってくれた。
かつてのかぐやと同じ、長い金色の髪をした少女の身体。
その姿を初めて見たとき、私は驚いてしまった。夢の中で私に輪廻を託してくれた前の私と、同じ姿だったからだ。あのときは理由が分からなかったけれど、ようやくすべてがつながった。
何より嬉しかったのは、ヤチヨが私の姿を見て、泣きながら抱きついてくれたことだった。
『お隣さん! お隣さん! やっと会えた!』
長い間、声だけでつながっていた私たちが、初めてお互いの姿を見ることができた日。
触覚なんてなかったから、抱きしめられても何も感じられなかったけれど、それでも嬉しかった。
そのあと、私たちはツクヨミの中に小さな部屋を作った。ヤチヨが彩葉と暮らしていた、あの古いアパートを参考にした部屋だった。狭いキッチンに、ローテーブル。決して立派な部屋ではなかったけれど、私にとっては何よりも大切な場所だった。
そこで私たちは、何でもない毎日を過ごした。
ヤチヨは暇さえあれば私を呼び、隣に座らせ、抱きついてきた。私が少し作業に集中していると、すぐに退屈そうな声で名前を呼んでくる。仕方がないなと笑いながら相手をしていると、今度は頭を撫でてほしいと言い出す。
そんな毎日が、私は大好きだった。
ツクヨミが今のような賑やかな世界になるまで、私はずっとヤチヨの隣にいた。だから、この世界の景色を見ると、どうしてもあの頃のことを思い出してしまう。
あの建物ができたとき、ヤチヨは何と言っていただろう。あの広場を初めて作ったとき、私たちはどんな話をしただろう。そんなことを考えながら街を歩いていると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
今、目の前に広がっているツクヨミは、あの頃のまま賑やかだった。けれど、隣にヤチヨはいない。私たちが一緒に見ていた景色を、今は私一人で見ている。
それが、どうしようもなく寂しかった。
しばらく歩いていると、露店が目に入った。何やら食べ物を売っているらしい。私は少し迷ってから、一つ買ってみることにした。
ツクヨミには、昔からこうした店があった。見た目は本物と変わらないほど精巧で、食べる動作まで再現されている。けれど、そこに味があるわけではなかった。
私は買った食べ物を口に運んだ。
当然、味はしなかった。
それ自体は不思議なことではない。ツクヨミには、味覚を十分に再現する仕組みが備わっていないのだから。
けれど、そのことを考えた瞬間、私はあるものを思い出した。
……そういえば。
私、まだやり残したことがあったんだ。
温感触覚モジュール。
八千年の旅の終わり頃、私がヤチヨに内緒で開発していたものだ。
電子の身体に触覚と温度を再現するための機能。あれが完成すれば、私たちは本当の意味で触れ合えるかもしれない。そう考えて、少しずつ作り始めたものだった。
開発を始めた理由は、今でもはっきりと覚えている。
ヤチヨを抱きしめたかった。
ただ、それだけだった。
長い間、私たちは声だけでつながっていた。ようやく電子の身体を手に入れて、同じ部屋で過ごせるようになった。手をつないだり、抱きしめたりすることもできるようになった。
けれど、何も感じられなかった。
ヤチヨがどれくらいの力で私を抱きしめているのか。どんな温度の手で私の手を握ってくれているのか。あの子の髪はどんな感触なのか。私は、何ひとつ知らなかった。
だから、知りたかった。
ヤチヨが私を抱きしめてくれるたびに、今度こそ本当の意味で抱きしめ返してあげたいと思った。あの子が寂しいときには、そばにいるだけではなく、ちゃんと触れて安心させてあげたかった。
そして何より、私自身がヤチヨの体温を感じてみたかった。
それは、八千年の旅の中で、私が初めて自分のために抱いた願いだったのかもしれない。
私はずっと、誰かのために生きてきた。最初は彩葉のために、そしていつしかヤチヨのために。あの子が幸せになってくれるのなら、それで十分だと思っていた。
けれど、あのときだけは違った。
私が、ヤチヨに触れたかった。
私自身の願いとして、あの子を抱きしめたかったのだ。
だから、ヤチヨには内緒にしていた。完成したら、驚かせてあげたかったから。何も知らないあの子を抱きしめて、今度こそ本当に触れられるねと、二人で笑いたかった。
きっと、ヤチヨは大喜びしてくれただろう。あの子のことだから、何度も抱きついてきて、しばらく離してくれなかったかもしれない。私が困ったように笑っても、今までの分だと言って、もっと甘えてきたのだろう。
そんな未来を想像しながら、私は開発を続けていた。
けれど、完成させることはできなかった。
彩葉が生まれ、彼方が生まれ、輪廻が私を呼び始めた。ヤチヨの隣にいられる時間は、もうほとんど残っていなかった。
私は最後まで諦めきれなかったけれど、どうしても間に合わなかった。そして、ヤチヨに何も伝えられないまま、私はあの子の隣からいなくなってしまった。
あの日、最後にヤチヨを抱きしめたときのことを、今でも覚えている。
あの子は、何度も消えないでと言っていた。私がいなくなることを認めたくなくて、ずっと泣いていた。
私だって、消えたくなかった。
まだ一緒に行きたい場所があった。話したいことも、やってみたいことも、たくさん残っていた。
何より、まだヤチヨの体温を知らなかった。
いつか本当に抱きしめられる日が来ると信じていたのに、その願いは最後まで叶わなかった。
だからこそ、今になって思い出したのだろう。
あれは、私が八千年の旅の中で唯一、自分のために作ろうとしたものだった。
私はしばらく、露店の前で立ち尽くしていた。
もう、ヤチヨの隣にはいられない。たとえ今から完成させたとしても、私があの子を抱きしめることはないのだろう。
それでも、あのモジュールをこのままにしておくことはできなかった。
だって、ヤチヨはまだ、触覚も温度も知らないままなのだから。
ようやく彩葉と再会できたのに、あの子はきっと、昔のように抱きつくことすらできない。目の前に大好きな人がいるのに、その人の温もりを感じることができない。
それが、どれほど寂しいことなのか。
私は誰よりもよく知っていた。
だから、完成させようと思った。
もう私の願いは叶わない。けれど、ヤチヨの願いなら、まだ叶えられるかもしれない。
あの子が彩葉を抱きしめたとき、本当にその温もりを感じられるように。大好きな人と一緒に、何でもない毎日を過ごせるように。
私が知ることのできなかったものを、あの子には知ってほしかった。
---
私はそのままツクヨミをログアウトし、長い間触れていなかった開発環境を開いた。
保存していたデータを探すと、懐かしい名前のファイルが見つかった。
温感触覚モジュール。
最後に保存した日付を見て、思わず小さく笑ってしまった。
あの頃の私は、本当に必死だった。ヤチヨに内緒で開発していたから、作業できる時間は限られていた。あの子が眠っている間や、別のことに夢中になっている隙を見つけて、少しずつ進めていた。
時には、ヤチヨに何をしているのかと聞かれることもあった。
『お隣さーん! 最近、何してるの?』
『……ちょっと調べもの、かな』
『えー? 何の?』
『……ふふっ。内緒だよ』
そんなふうに誤魔化すと、ヤチヨは決まって頬を膨らませていた。けれど、最後には笑って、また私の隣に座ってくれた。
あの子は、私の秘密を無理に暴こうとはしなかった。何か理由があるのだろうと、信じて待っていてくれたのだと思う。
そのことが嬉しかった。
そして、申し訳なかった。
結局、私は最後まで何も教えてあげられなかったのだから。
画面に並ぶコードを眺めながら、私はゆっくりと作業を始めた。基本的な構想は既に完成していた。残されていたのは、感覚の再現精度を高めることと、電子の身体に安定して組み込むための調整だった。
触覚というものは、思っていた以上に複雑だった。物体との接触を検知するだけでは足りない。圧力や温度、柔らかさ、動きによって生まれる微細な変化。それらを電子の身体に感覚として認識させるためには、膨大な調整が必要だった。
私は八千年の旅で得た知識を使い、一つずつ問題を解決していった。
幸い、技術そのものは理解できていた。何千年もの間、月の技術を学び、ヤチヨと一緒に電子の世界を作り上げてきたのだから。ツクヨミの基礎となる仕組みも、電子の身体がどのように動いているのかも、私にとっては馴染み深いものだった。
ただ、今の身体は思うように動いてくれなかった。
少し作業をしただけで疲れてしまう。集中しているつもりでも、突然眠気に襲われ、気づけば机に突っ伏していることもあった。目を覚ますたびに画面の光が滲んで見えて、そのたびに、まだ生きているのだと確かめるように指を動かした。
そんなとき、私は決まってヤチヨのことを思い出した。
あの子も、ツクヨミを作り始めた頃はよく無理をしていた。
『……ヤチヨ、少し休んだら?』
『えーっ! でも、もうちょっとでできそうなんだよ!』
『……ふふっ。焦らなくても大丈夫だよ』
何度もそんなやり取りをした。
そして今度は、私が同じことをしている。
もしヤチヨがここにいたら、きっと怒られるのだろう。
『お隣さん! 無理しちゃダメでしょ!』
そんな声が聞こえてきそうで、私は小さく笑った。
「……ごめんね、ヤチヨ」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
返事はなかった。
当たり前だった。
もう、あの子は隣にいないのだから。
それでも、私は作業を続けた。何日もかけて、少しずつ問題を解決していく。時には途中で眠ってしまい、目を覚ましたときには何をしていたのか分からなくなることもあった。それでも、保存していた記録を確認すれば、すぐに続きから作業を再開できた。
そうして、ようやく最後の調整を終えた。
画面に表示された確認結果を見て、私はしばらく動けなかった。
……完成した。
八千年の旅の中で、最後まで完成させることのできなかったもの。ヤチヨの体温を感じたいという、私の小さな願いから生まれたもの。それが今、ようやく完成したのだ。
私は何度も結果を確認した。触覚も、温度も、正常に再現されている。電子の身体への適用にも、大きな問題は見つからなかった。
さらに、ツクヨミでの使用を想定し、味覚を再現するための機能も追加した。
もともとの目的とは少し違うけれど、どうせならヤチヨにもっとたくさんのことを知ってほしかった。あの子は食べることが大好きだったし、彩葉と一緒に暮らしていた頃も、よく食べ物の話をしていた。
今度は、ただ食べる真似をするだけではなく、本当に味を楽しめるように。彩葉と一緒に、同じものを食べて、美味しいねと笑い合えるように。
そんなことを考えながら、私は最後の機能を組み込んだ。
完成したファイルの名前を、少しだけ変更した。
温感触覚味覚モジュール。
それが、私からヤチヨへの最後の贈り物になるはずだった。
けれど、完成した画面を眺めているうちに、少しだけ寂しくなった。
もし、あの頃に完成していたら。
そんなことを考えてしまったからだ。
もし八千年の旅の途中で完成していたら、私はヤチヨの体温を知ることができたのだろうか。あの子を抱きしめたとき、どんな感覚がしたのだろう。
きっと、ヤチヨは大喜びしてくれたはずだ。何度も抱きついてきて、今度こそ本当のぎゅーだねと笑ってくれただろう。そして、私もきっと笑っていた。あの子を抱きしめ返して、ずっと知りたかったものを、ようやく知ることができたのだから。
けれど、そんな未来はもう存在しない。
私たちの八千年は、既に終わってしまった。今さら何を願っても、あの日には戻れない。
私はしばらく画面を見つめたあと、静かに息を吐いた。
それでも、完成させてよかったと思った。
私にはもう必要のないものかもしれない。けれど、ヤチヨには必要なものだから。
あの子には、まだこれからの人生がある。ようやく再会できた彩葉と一緒に、たくさんの思い出を作っていくのだろう。その中に、私が作ったものが少しだけ役に立つのなら。
それだけで、十分だった。
問題は、どうやってヤチヨに届けるかだった。
私はもう、お隣さんではない。少なくとも、ヤチヨにとってのお隣さんは、八千年の旅を終えたあの日に消えた存在のはずだった。
今さら、私が生きていると知られるわけにはいかない。
もしヤチヨが私の存在に気づいてしまったら、きっと探しに来てしまう。あの子は、そういう子だから。私が何を言っても、きっと諦めてくれない。
そして、ようやく再会できた彩葉との時間を削ってまで、私のことを心配してしまう。
そんなことは、絶対に嫌だった。
それに、もしヤチヨが私を見つけてしまったら。彩葉や朝日に、私のことを話してしまうかもしれない。
八千年を過ごしたことも、お隣さんとして生きていたことも、昔の酒寄彼方がもうどこにもいないことも。
すべて、知られてしまうかもしれない。
それだけは避けなければならなかった。
だから私は、匿名でモジュールを送ることにした。
送信元が分からないように、できる限りの対策を施した。余計な情報を削除し、開発者の痕跡が残らないように何度も確認した。
私はこうした仕組みを扱うことが得意だった。八千年の旅の中で、その技術はさらに磨かれていた。
月で使っていた認識阻害のチートコードも、その一つだった。あれは月の技術に特化したものだったけれど、情報の扱い方や痕跡の消し方については、今でも十分に応用できる。
私は慎重に送信経路を整えた。
これなら、きっと大丈夫。
そう思った。
ヤチヨは優秀な子だけれど、私だって八千年もの間、あの子の隣で学んできたのだから。そう簡単に見つかるはずがない。
それに、あの子は今、彩葉と再会できたばかりなのだ。きっと、私のことなんて考えている暇もないだろう。
そう思うと、少しだけ安心できた。
……本当に、それでよかった。
ヤチヨには、私のことを探してほしくなかった。もう、私のために泣いてほしくなかった。
八千年もの間、あの子はずっと彩葉に会いたいと願い続けてきた。何度も辛い思いをして、それでも諦めずにここまで歩いてきた。ようやく願いが叶ったのだから。
これからは、私のことなんて忘れてしまっても構わない。
彩葉と一緒に、幸せになってほしかった。
最後の確認を終え、私は送信ボタンに指を伸ばした。
そこで、ふと手が止まった。
これを送ってしまえば、本当に終わりなのだと思った。
もう、ヤチヨのために何かをする必要はなくなる。あの子は彩葉と幸せになって、私は酒寄彼方として生きていく。それぞれの人生を、それぞれの場所で過ごしていく。
もう二度と、交わることはない。
それが、一番いい結末のはずだった。
けれど、寂しい。
そう思ってしまった。
八千年も一緒にいたのだから、当たり前なのかもしれない。朝起きれば隣にいて、夜になればおやすみを言い合っていた。嬉しいことがあれば真っ先に伝えて、悲しいことがあれば一緒に悩んだ。
ツクヨミが生まれた日も、ヤチヨが初めて電子の身体を手に入れた日も、私たちは一緒にいた。あの小さな部屋で、何度もくだらない話をした。
ヤチヨは何かにつけて私に抱きついてきたし、私はそんなあの子を困ったように笑いながら受け止めていた。
それが、私たちの日常だった。
そんな日々が、もう二度と戻ってこない。
分かっていたはずなのに。覚悟していたはずなのに。どうして、こんなにも寂しいのだろう。
私はしばらく画面を見つめていた。
そして、ふと思い出した。
『お隣さんも甘えていいんだよ?』
いつだっただろう。ヤチヨが、そんなことを言ってくれた日があった。あの子はいつも私に甘えてばかりいるから、たまには私も甘えてほしいのだと、そんなことを言っていた。
私は少しだけ困ってしまった。誰かに甘えるなんて、もう何年もしていなかったからだ。
それでも、あの子があまりにも嬉しそうに言うものだから、私はそっとヤチヨの肩に頭を預けた。
すると、ヤチヨは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
あのときの笑顔を、今でも覚えている。
私が誰かに甘えることを、あんなにも喜んでくれる人がいるのだと知った日だった。
だからこそ、今は寂しかった。
私はもう、誰にも甘えることができない。
お母さんも、朝日も、彩葉もいる。けれど、今の私を知っている人は、誰もいない。
八千年を過ごした私を知っているのは、ヤチヨだけだった。そして、そのヤチヨにも、もう会うことはできない。
私は小さく笑った。
「……本当に、困ったな」
八千年も生きてきたくせに、こんな簡単な別れ一つ、まともに受け入れられないなんて。
私は、いつまで経っても弱いままだった。
けれど、それでいい。
ヤチヨが幸せなら、それでいい。
私は自分にそう言い聞かせ、送信ボタンを押した。
画面に、送信完了の文字が表示された。
それだけだった。
八千年の旅の最後に残した贈り物は、たった一つのファイルになった。
きっとヤチヨは、すぐに気づくだろう。温感触覚味覚モジュール。そんな名前のファイルを見つけて、あの子が無視するはずがない。
そして、きっと喜んでくれる。
あの子が彩葉を抱きしめて、初めてその温もりを知ったとき。どんな顔をするのだろう。驚くだろうか。それとも、泣いてしまうだろうか。
きっと、最後には笑ってくれるはずだ。
私が大好きだった、あの笑顔で。
それだけで、十分だった。
私は画面を閉じ、椅子の背もたれに身体を預けた。急に疲れが押し寄せてきた。何日も無理をしていたのだから、当然だった。身体はまだ回復しきっていないし、後遺症だって残っている。
けれど、不思議と後悔はなかった。
これで、本当に終わりだ。
私はもう、お隣さんとして何かをする必要はない。これからは、酒寄彼方として生きていかなければならない。
たとえ昔の自分をほとんど覚えていなくても。たとえ家族の前で別人のふりをしなければならなくても。
それでも、私は生きていく。
八千年もかけて帰ってきたのだから。
そう思ったところで、ふと、ヤチヨの笑顔が頭に浮かんだ。
いつもの、少し大げさなくらい明るい笑顔。何か楽しいことを思いついたときの、あの嬉しそうな表情。
私は、あの笑顔が大好きだった。
八千年もの間、何度も救われてきた。だから、最後くらいは私があの子を笑顔にしてあげたかった。
どうか、受け取ってほしい。
私からの、最後のプレゼント。
これから先、あなたがどんな人生を歩んでいくのか、私には分からない。でも、きっと大丈夫。彩葉がいるのだから。あなたが八千年もの間、ずっと会いたいと願っていた人が、今は隣にいるのだから。
もう、私がいなくても大丈夫。
もう、一人で泣かなくてもいい。
これからは、彩葉にたくさん甘えてほしい。寂しいときには寂しいと言って、辛いときには辛いと言ってほしい。私の前では、いつだって強がってばかりいたのだから、もうそんなことをしなくてもいい。
あなたには、幸せになる権利がある。
八千年も頑張ってきたのだから、誰よりも幸せになってほしい。
私はもう、あなたの隣にはいられない。けれど、あなたと過ごした八千年は、私にとって何よりも大切な時間だった。
たとえ昔の自分を忘れてしまっても。家族との思い出が曖昧になってしまっても。自分がどんな人間だったのか、分からなくなってしまっても。
あなたと過ごした日々だけは、忘れたくない。
私がお隣さんだったことを、あなたがいつか忘れてしまったとしても、それでも構わない。
あなたが幸せなら、それでいい。
「……さようなら、ヤチヨ」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
返事はなかった。
当たり前だった。
もう、あの子は隣にいないのだから。
それでも私は、しばらくその場から動けなかった。いつか聞き慣れた声が返ってくるのではないかと、そんな馬鹿なことを考えてしまったから。
八千年も一緒にいたのだから、仕方がないのかもしれない。
けれど、もう終わったのだ。
私はようやく、長い旅を終えた。
だから、今度こそ、あの子の幸せを願いながら、自分の人生を歩いていこう。
どうか、ヤチヨ。
あなたのこれからの人生が、幸せなものでありますように。
私と過ごした八千年が、あなたにとって辛い思い出ではありませんように。
そして、もし叶うのなら。
いつか、遠い未来。
私という存在を思い出したときに、少しだけでも笑ってくれますように。
それだけが、私の最後の願いだった。
彼方ちゃんは現世にはもう居場所ないんだ可哀想だね^^
彼方ちゃんは天才なので彩葉が何年かかけて作った物を、作りかけの物があるとはいえ数日で作れます。月にいたんだから当たり前だよね!
ガチでこの話書くの楽しすぎて爆速で書ききれました。あー曇らせってなんでこんなに楽しんだ。私はもう曇らせ以外書けそうない