諸君、私は曇らせが好きだ。
諸君、私は曇らせが好きだ。
諸君、私は曇らせが大好きだ。
すれ違いが好きだ。
後悔が好きだ。
自己犠牲が好きだ。
記憶喪失が好きだ。
届かぬ想いが好きだ。
報われぬ献身が好きだ。
取り返しのつかない選択が好きだ。
ようやく手にした幸福が、ほんの少しの真実によって崩れ落ちる瞬間が好きだ。
諸君、私はあらゆる曇らせを心から愛している。
八千年もの歳月を捧げた少女が、愛する者たちの幸福を見届けながら、ただ一人、その輪の外で微笑んでいる姿が好きだ。
忘れられた少女が、誰よりも大切にしていた人から「ありがとう」と告げられ、それでも自分の名前を名乗れない瞬間など、胸が躍る。
家族との再会を夢見ていた少女が、長すぎる旅の果てに、家族の顔も声も、自分がどんな人間だったのかさえ思い出せなくなっている姿には、言葉にできぬ感動を覚える。
ようやく真実にたどり着いた姉が、妹の犠牲の上に自分の幸福が成り立っていたと悟り、これまでの何気ない日々を一つ残らず後悔に塗り替えていく様など、実に素晴らしい。
だが、諸君。
私は単なる悲劇を望んでいるのではない。
死ねばよいというものではない。
泣けばよいというものでもない。
絶望すれば、それで満足というわけでもない。
私は幸福を望んでいる。
誰もが笑い合える幸福を。
失われた時間を取り戻す幸福を。
愛する者が再び手を取り合う幸福を。
そして、その幸福を目の前にしてなお、自分だけはそこにいてはならないと信じ込んでいる少女を望んでいる!
諸君!
私は曇らせを、地獄のような曇らせを望んでいる!
諸君!
私と共に物語を紡ぐ諸君!
君たちは一体何を望んでいる?
安易な和解を望むか?
一言の謝罪ですべてが許される、そんな生ぬるい結末を望むか?
それとも!
八千年の献身と、取り返しのつかない後悔と、それでも消えない愛情が絡み合う、胸を引き裂くような曇らせを望むか!
曇らせ! 曇らせ! 曇らせ!
よろしい。
ならば曇らせだ。
だが忘れるな、諸君。
我々が求めるのは絶望そのものではない。
絶望の果てに差し伸べられる、たった一本の手だ。
「もう頑張らなくていい」と告げられた少女が、その言葉の意味さえ理解できずに立ち尽くす姿だ。
「帰っておいで」と呼ばれた少女が、自分にはもう帰る場所などないと信じて疑わない姿だ。
そして、そんな少女を前にして、今度こそ絶対に手を離さないと誓う者たちの姿だ!
諸君!
私は、幸福になることを諦めた少女が、それでも誰かに幸福を願われる物語が大好きだ!
さあ、諸君。
筆を執りたまえ。
読者の心を震わせよう。
涙を流させよう。
幸福な結末を願わせよう。
そして最後には、誰よりも幸福になるべき少女に、こう言わせるのだ。
「……私なんかが、幸せになってもええんかな」
諸君。
これこそが、我々の望んだ曇らせである。
side酒寄彩葉
私は、かぐやと再会することができた。正確には、月見ヤチヨとして八千年もの時間を生きてきた、かぐやと。FUSHIに案内されてたどり着いたのは、何の変哲もないマンションの一室だった。カーテンの閉ざされた薄暗い部屋には、用途の分からない機械がいくつも置かれ、無数のケーブルが床を這っている。
冷却ファンの低い唸りだけが、静まり返った空間にかすかに響いていた。足の踏み場を探しながら奥へ進むと、その中心に大きな水槽があった。水槽の中には、私がよく知っているものと同じ形をした、タケノコのような物体が静かに浮かんでいる。もと光る竹。かつて、かぐやが乗っていたものだった。
ガラス越しに見つめていると、言いようのない気持ちが込み上げてきた。あの日、月へ帰っていったはずの子が、今はこんなにも小さな場所に収まっている。そう思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。FUSHIに促されるままツクヨミへ接続した私は、そこで一人の少女と向き合うことになった。月見ヤチヨ。
何度も画面越しに見てきた、人気ライバーの姿。けれど、今の私には、その姿がまったく違うものに見えていた。どうして今まで気づかなかったのだろう。声も、仕草も、笑い方も。思い返してみれば、似ているところなんていくらでもあった。それなのに、私はずっと二人を別々の存在だと思い込んでいた。かぐやは月へ帰ってしまった。
ヤチヨは、そのずっと前からツクヨミに存在していた。だから、同じ人物であるはずがない。そんな当たり前の思い込みが、私の目を曇らせていたのだ。
「……かぐや?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。喉が渇いて、うまく声が出なかったのかもしれない。目の前の少女は、少しだけ困ったように笑った。その笑顔を見た瞬間、胸が締めつけられた。懐かしい。そう思った。けれど同時に、何かが違うとも感じた。私の知っているかぐやは、もっと感情が分かりやすい子だった。
嬉しいときには全身で喜び、悲しいときには遠慮なく泣く。寂しくなれば甘えてきて、嫌なことがあればすぐに顔に出る。そんな、どうしようもなく素直な子だった。それなのに、目の前のヤチヨは違った。いつもの月見ヤチヨの笑顔を浮かべたまま、まるで昔話でもするように、自分の身に起きた出来事を語り始めたのだ。
月へ帰ったかぐや姫は、地球から届いた歌を聞いて、大切な人との約束を思い出した。もう一度会いたいという願いを胸に、残された仕事を終わらせ、地球へ向かうことにした。けれど、月と地球では時間の流れが違っている。そのまま帰ったのでは、会いたい人が生きている時代に間に合わない。
だから、月の技術を使って時間を越え、もう一度あの頃の地球へ戻ろうとしたのだという。ところが、その途中で隕石に衝突してしまった。船は制御を失い、本来たどり着くはずだった時代から大きく外れてしまう。そして、ようやく地球に到着したときには、目的の時代よりも八千年も昔だった。
ヤチヨはそこまで話すと、困ったように笑った。
「いやぁ、ほんと参っちゃったよね。ちょっと急いで帰ろうとしただけなのに、まさか八千年も早く着いちゃうなんてさ」
私は何も言えなかった。八千年。その数字が、あまりにも現実離れしていた。私にとって、かぐやと別れたのはつい最近のことだ。あの子と過ごした日々は、今でも昨日のことのように思い出せる。朝起きれば隣にいて、帰宅すれば迎えてくれて、くだらないことで喧嘩して、最後には二人で笑っていた。
そんな日々が終わってから、まだそれほど長い時間は経っていない。なのに、目の前の彼女は八千年も生きてきたのだという。
「……八千年って、本当に八千年?」
「うん。ほんとに八千年」
ヤチヨはあっさりと頷いた。その態度が、私には理解できなかった。八千年も待っていたのに。八千年もの間、帰りたい場所へ帰れなかったのに。どうして、そんなふうに笑っていられるのだろう。正直、少し腹が立った。腹が立ったというより、悔しかったのかもしれない。
あの子が一番つらかった時間に、私は何一つ寄り添えていなかったのだから。その悔しさの行き場が分からなくて、私は膝の上で拳を握りしめていた。かぐやなら、そんな顔はしなかったはずだ。寂しかったなら寂しかったと言うだろうし、つらかったなら遠慮なく泣きついてきたと思う。
少なくとも、私の前でまでそんな作り物みたいな笑顔を浮かべる子ではなかった。
「……かぐやは、そんな顔しなかったじゃん」
気がつけば、そんな言葉が口からこぼれていた。ヤチヨの表情が、一瞬だけ止まった。しまった、と思った。別に、今のヤチヨを否定したかったわけではない。八千年の間に変わってしまったことを責めたかったわけでもない。ただ、あの子がどれほどの時間を過ごしてきたのか、私には想像もできなかった。
その途方もなさを前にして、言葉の選び方を間違えてしまっただけだった。けれど、ヤチヨには違う意味で伝わってしまったらしい。彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……そっか」
その声は、いつもの明るい声とは違っていた。私は何か言おうとした。けれど、言葉が見つからなかった。謝ればいいのか、否定すればいいのか、それすらも分からないまま、時間だけが過ぎていく。ヤチヨはそんな私を見て、もう一度笑顔を作った。
「そりゃそうだよね。彩葉が知ってるかぐやとは、もう随分違うもん。八千年も経っちゃったしさ」
「……ヤチヨ」
「キラキラのかぐや姫も、今じゃすっかりおばあちゃんだよ」
冗談めかした言い方だった。けれど、その声の奥にある寂しさを、私は聞き逃せなかった。八千年。その時間が、あの子を変えてしまったのだ。笑顔の作り方を覚えて、相手を安心させるための言葉を覚えて、自分のつらさを誰にも悟らせない方法を覚えた。それが、月見ヤチヨという存在なのだと思った。
でも、私はそんなことを知りたかったわけじゃない。ただ、もう一度会いたかった。あの子がどんなふうに変わってしまったとしても、もう一度隣に立ちたかった。だからこそ、知らなければならないと思った。私の知らない八千年を。
「……話して」
ヤチヨが顔を上げた。
「ん?」
「八千年のこと。全部、話して」
彼女は目を丸くした。
「ええ〜? 無茶言うね〜。八千年だよ? 全部話してたら、彩葉がおばあちゃんになっちゃうかも」
「いいよ。聞くから」
「ヤチヨのお話、そんなに面白くないかもしれないよ?」
「それでも聞きたい」
自分でも無茶なことを言っている自覚はあった。八千年の出来事をすべて話せるはずがないし、たとえ話してもらえたとしても、私にその長さを理解できるとは思えない。それでも、私の知らない場所で、私の知らない時間を生きてきた彼女のことを知りたかった。どんな景色を見て、どんな人と出会い、何を思って生きてきたのか。
そのすべてを知らないまま、もう一度隣に立つことなんてできない気がした。私が真剣な顔で見つめ続けていると、ヤチヨは小さく息を吐いた。
「……ほんと、彩葉って頑固だよね」
「誰かさんに似たのかも」
「え〜? ヤチヨはそんなに頑固じゃないと思うけどなぁ」
「どの口が言うのよ」
そう返すと、ヤチヨはようやく少しだけ自然な笑顔を見せてくれた。彼女が指を動かすと、周囲の景色がゆっくりと変わり始めた。現れたのは、私たちがかつて一緒に暮らしていた、あのボロアパートの一室だった。狭い部屋に置かれた家具も、使い古したテーブルも、窓際に積み上がった荷物も、記憶にあるものとほとんど変わらない。
壁の染みの位置まで、そっくりそのままだった。あの頃は狭くて不便で、早くもっとまともな場所に引っ越したいと思っていたはずなのに、今はその何もかもが懐かしかった。
「……懐かしい」
思わず呟くと、ヤチヨは嬉しそうに笑った。
「でしょ? せっかくだから、ここで話そうと思って」
彼女はテーブルの向こう側へ腰を下ろした。私は、その向かい側に座った。まるで、あの頃に戻ったみたいだった。学校から帰ってきて、夕飯を食べながら、かぐやの話を聞いていた日々。あの子はいつも楽しそうに何かを話していて、私は適当に相槌を打ちながら聞いていた。その時間が、また戻ってきたのだ。
「それじゃあ、どこから話そうかな〜」
ヤチヨは少し考え込んでから、楽しそうに両手を広げた。
「まずは、八千年前のお話から!」
そうして、長い長い物語が始まった。ヤチヨの話は、本当に長かった。最初に聞かせてくれたのは、まだ文字も十分に発達していないような時代の話だった。川で魚を獲る人たちの姿に目を丸くしたこと。見たこともない道具を器用に使いこなす人たちに驚いたこと。
何をするにも今とは勝手が違っていて、観察するたびに驚いてばかりだったこと。ただ、最初から自由に外を歩き回れたわけではなかったらしい。隕石との衝突で、もと光る竹は大きな損傷を受けていた。ヤチヨ自身も身体を作ることができず、しばらくは外の世界へ出ることさえ難しかったという。
そんな中で、DOGEの小さなウミウシの身体を借りながら、少しずつ外の世界を知っていったのだそうだ。
「いや〜、あの頃は大変だったなぁ。何しろ、どこへ行くにも犬DOGE頼みだったからね」
「……ウミウシで?」
「そう! ウミウシで!」
「いや、それは大変でしょ……」
「でしょ〜? でも、慣れたら意外と何とかなるもんだよ?」
そう言って笑うヤチヨに、私は呆れるしかなかった。呆れながらも、ウミウシの身体で懸命に世界を眺めている小さな姿を思い浮かべてしまい、少しだけ口元が緩んだ。そこから時代が進むにつれて、話の内容も変わっていった。雅な言葉を使う貴族たちのこと。戦乱の中でも懸命に生きていた人たちのこと。賑やかな町で出会った人々のこと。
遠い国からやってきた人たちのこと。ヤチヨは、どの時代の話も楽しそうに語ってくれた。時には身振り手振りを交え、当時の人の口調を真似してみせる。私が驚けば得意げに笑い、興味を示せばさらに詳しく教えてくれる。その様子は、私の知っているかぐやとよく似ていた。
「それでね、その人がまた面白くってさ! ヤチヨが何か言うたびに、いちいち大げさに驚くんだよ!」
「いや、そりゃ驚くでしょ。突然ウミウシが喋りだしたら」
「え〜? でも、ヤチヨってこんなに可愛いのに!」
「可愛いかどうかの問題じゃないから」
「あははっ! 彩葉ってば相変わらず手厳しいなぁ!」
そんなやり取りを、何度も繰り返した。気がつけば、私もすっかり話に夢中になっていた。八千年前の人たちが何を食べていたのか。どんな暮らしをしていたのか。今では当たり前になっているものが、いつ頃から使われるようになったのか。歴史の授業では、ただの年号や出来事として覚えていたものばかりだった。
けれど、ヤチヨの話を聞いていると、その時代にも確かに人が生きていたのだと実感できた。笑って、怒って、悩んで、誰かを好きになって。私たちと何も変わらない人たちが、そこにいた。そして、ヤチヨはその人たちと出会ってきた。そう考えると、不思議な気持ちになった。けれど、話を聞いているうちに、私はあることに気がついた。
ヤチヨは、楽しかったことしか話さない。誰かと出会った話はしても、その人との別れについてはほとんど触れない。困った出来事も笑い話に変えてしまうし、どれほど大変だったのか尋ねても、いつも明るい言葉で返してくる。最初は、私を楽しませようとしてくれているのだと思った。
けれど、時間が経つにつれて、それだけではないような気がしてきた。八千年も生きていれば、悲しいことだってあったはずだ。大切な人との別れも、どうにもならない出来事も、きっと数えきれないほど経験している。それなのに、ヤチヨは何も話そうとしない。そんな中で、何度も同じ人物の名前が登場することに気がついた。お隣さん。
それが、その人の呼び名だった。
「……お隣さん?」
「うん。ヤチヨが勝手につけた名前なんだけどね」
「変わった名前だね」
「でしょ? でも本人が名前を教えてくれなかったんだもん。だからヤチヨがそう呼ぶことにしたの」
ヤチヨは懐かしそうに目を細めた。
「優しい人だったよ。すっごく優しくて、ちょっと心配性で、ヤチヨが無茶するとすぐ怒るの。でも、結局はいつも付き合ってくれるんだ」
「……なんだか大変そう」
「そうそう! ヤチヨもそう思う!」
楽しそうに笑う彼女を見て、私は少しだけ安心した。お隣さんという人は、ヤチヨが地球に来て間もない頃に現れたらしい。最初は姿も見えず、声だけが聞こえる不思議な存在だったという。泣いていたヤチヨに、もう一人で泣かなくていいと伝えてくれた人。何も分からない世界で、初めて手を差し伸べてくれた人。
そして、ヤチヨが再び私に会える日まで、ずっと隣にいると約束してくれた人。話を聞けば聞くほど、その人がヤチヨにとってどれほど大切な存在だったのかが伝わってきた。
「お隣さんってね、ヤチヨが何か作ろうとすると、いつも手伝ってくれたんだよ。難しいこともすぐ覚えるし、知らないことがあったら一緒に考えてくれるし。ほんと、すごい人だったんだから」
「へえ。頭がいい人だったんだ」
「うん。でもね、変なところで抜けてるの。自分のことになると全然気にしないんだよ。ヤチヨのことばっかり心配してさ」
「……それは、ちょっと困るね」
「でしょ? ヤチヨも何回怒ったことか」
そんなふうに話すヤチヨの声は、驚くほど柔らかかった。まるで、今もその人が隣に座っているかのように。彼女の視線が、私の隣の空いた場所へ一瞬だけ向けられたことに、私は気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。ヤチヨはお隣さんと一緒に、たくさんのことを経験してきたという。見知らぬ土地を旅したこと。
美味しそうなものを見つけては、食べられないことを二人で残念がったこと。夜空を眺めながら、いつか帰る未来の話をしたこと。くだらないことで笑い合って、時には喧嘩もしたこと。話の内容だけを聞けば、どれも特別な出来事ではなかった。けれど、その一つ一つが、ヤチヨにとってかけがえのない思い出なのだと分かった。
「お隣さんがいなかったら、今のヤチヨはここにいなかったかもしれないね」
ヤチヨは、何気なくそんなことを言った。私は思わず彼女の顔を見た。
「……それって、どういう意味?」
「ん? そのまんまの意味だよ?」
「そんな簡単に言わないでよ」
「えへへ、ごめんごめん」
また笑って誤魔化す。けれど、その言葉だけは、どうしても聞き流せなかった。八千年もの時間を生きてきた彼女が、今の自分はその人のおかげだと言う。それほどまでに大切な存在が、確かに彼女の隣にいたのだ。だったら、今はどこにいるのだろう。そんな疑問が浮かんだ。
けれど、楽しそうにお隣さんの話をするヤチヨを見ていると、どうしても聞けなかった。今はどこにいるの、と。どうして、ここにはいないの、と。その答えを聞くのが、少しだけ怖かった。聞いてしまえば、この穏やかな時間が壊れてしまいそうな気がした。どれほど時間が経ったのだろう。
ヤチヨの話は、ようやく江戸時代に差しかかっていた。私は何度も欠伸を噛み殺しながら、必死に話を聞いていた。ツクヨミの中とはいえ、現実の身体が眠気を感じなくなるわけではない。最初は絶対に寝ないと宣言したものの、さすがに瞼が重くなってきていた。
「彩葉、眠そうだね〜」
「……眠くない」
「いやいや、今めっちゃ欠伸してたじゃん」
「してない」
「してたよ〜。もう、おやすみしたら?」
「まだ江戸時代でしょ。全然終わってないじゃん」
私は頬を引っ張って眠気を追い払った。そんな私を見て、ヤチヨは楽しそうに笑った。
「ほんと、頑固だなぁ」
「誰かさんほどじゃないよ」
「え〜? 誰のことかな〜?」
そう言いながら、ヤチヨは次の話を始めようとした。けれど、その途中で、ふと動きを止めた。
「あれ?」
「……どうしたの?」
「ん〜、そろそろ時間みたい」
彼女は少し残念そうに笑った。ヤチヨにも、活動できる時間には限りがある。どれほど話したくても、ずっと起きていられるわけではないらしい。
「ごめんね、彩葉。ヤチヨ、そろそろ寝なきゃ」
「……そっか」
「続きはまた今度ね。まだまだ面白い話、いっぱいあるんだから!」
「うん。楽しみにしてる」
そう答えると、ヤチヨは嬉しそうに目を細めた。そして、少しずつ眠りに落ちていった。私はその姿を、しばらく黙って見つめていた。八千年もの時間を生きてきたのに、こうして眠っている姿は、私の知っているかぐやと何も変わらなかった。無防備で、どこか幼くて。今にも目を覚まして、またくだらないことを言い始めそうだった。
かつて同じ布団で眠った夜、寝返りを打つたびに私の腕に頭を押しつけてきた、あの重さまで思い出せるようだった。
「……ほんと、変わっちゃったね」
小さく呟いた。さっきまで、あんなに楽しそうに話していた。何を思い出しても笑って、何を聞いても笑って。あの頃のかぐやは、もっと感情が分かりやすかった。悲しいときには悲しい顔をしたし、寂しいときには寂しいと言った。でも、今のヤチヨは違う。どんな話も、最後には笑い話にしてしまう。まるで、昔の私みたいだった。
何でも一人で抱え込んで、平気な顔をして、誰にも弱いところを見せない。そうしていれば、誰にも心配をかけずに済むと思っていた。そんな私を変えてくれたのが、かぐやだった。なのに、今度はそのかぐやが、昔の私みたいになってしまった。
「……ばか」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。眠っているヤチヨに対してなのか。何も知らずにいた自分に対してなのか。それとも、八千年もの間、あの子を一人にしてしまったことに対してなのか。私はしばらく俯いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……FUSHI」
呼びかけると、少し離れた場所にいたFUSHIがこちらを向いた。
「ねえ、ヤチヨが隠してること、あるよね?」
FUSHIはすぐには答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。
「楽しかったことばっかり話してた。もちろん、嘘じゃないんだと思う。あの子、本当に楽しそうだったから」
私は眠っているヤチヨを見た。
「でも、それだけじゃないでしょ。八千年だよ。楽しいことしかなかったなんて、そんなわけないじゃん」
FUSHIは静かに私の話を聞いていた。
「きっと、つらいこともあった。悲しいことも、寂しいことも。なのに、あの子は何も話してくれなかった」
責めたいわけではなかった。ヤチヨが私に心配をかけたくなかったのだろうということは、何となく分かっていた。再会できたばかりなのだから、楽しい話をしたかったのかもしれない。せっかく会えた私に、暗い顔を見せたくなかったのかもしれない。その気持ちは、嬉しかった。けれど、私はそれだけで満足したくなかった。
「……私、かぐやのこと何も知らないんだね」
八千年もの間、あの子がどんな思いで生きてきたのか。何を失って、何を手に入れて、どうやって今のヤチヨになったのか。私は、何も知らない。ただ、もう一度会えたことが嬉しくて、あの子が笑ってくれていることに安心していた。それだけでは、駄目なのだと思った。
「ねえ、FUSHI。見せてくれない?」
FUSHIが、わずかに動きを止めた。
「ヤチヨが経験してきたこと。あの子が話してくれなかったことも、知りたいの」
FUSHIは躊躇っていた。ヤチヨ自身が話さなかったことを、勝手に私へ見せてもいいのか。きっと、そう考えているのだろう。その迷いは、当然だと思った。私だって、自分が隠していることを勝手に誰かへ知られたら嫌だ。けれど、今だけは引き下がれなかった。
「……お願い」
私は、まっすぐにFUSHIを見た。
「私、かぐやのことをもっと知りたい」
楽しかったことだけじゃない。悲しかったことも、苦しかったことも。あの子が私に見せたくなかったものまで、ちゃんと知りたかった。FUSHIは、しばらく黙っていた。やがて、静かに口を開いた。さっきのヤチヨは、久しぶりに心から嬉しそうだったのだという。その言葉を聞いて、私は胸が苦しくなった。
あの子にとって、私と向かい合って話すことが、そんなにも特別な時間だったのか。私は、ただ昔みたいに話していただけだった。でも、ヤチヨにとっては違った。八千年もの間、ずっと待ち続けていた時間だったのだ。
「……そっか」
私は小さく頷いた。
「だったら、なおさら知らなきゃね」
FUSHIは、私の覚悟を確かめるように見つめてきた。見せられるのは、ヤチヨが経験し、記録として残っているものだけ。そこに映る人たちの心の中まで、すべて分かるわけではない。それに、八千年もの記録を人間の精神で受け止められる保証もないという。怖くないわけではなかった。けれど、迷いはなかった。
「大丈夫。お願い」
私は眠っているヤチヨをもう一度見た。彼女は穏やかな顔をしていた。その寝顔を見ていると、あの頃のことを思い出す。狭いアパートで一緒に眠った夜。朝になれば勝手に布団へ潜り込んできて、私を困らせたこと。何でもない毎日が、あの子と一緒にいるだけで少しずつ変わっていったこと。私は、かぐやにたくさんのものをもらった。
だから今度は、私があの子のために何かをしたかった。たとえ、それがどれほどつらいものだったとしても。
「……見せて。ヤチヨの八千年を」
FUSHIが静かに頷いた。次の瞬間、周囲の景色がゆっくりと崩れ始めた。懐かしいアパートの壁が消え、テーブルが消え、眠っているヤチヨの姿も遠ざかっていく。代わりに、見たこともない景色が目の前へ広がり始めた。そして、私の意識は、八千年の記憶の中へと沈んでいった。--- 最初に感じたのは、恐怖だった。何も見えない。
何も聞こえない。自分がどこにいるのかも、どうすれば帰れるのかも分からない。身体がないという感覚は、想像していた以上に恐ろしかった。手を伸ばそうとしても手がない。泣こうとしても、涙を流すための目さえない。誰かに助けを求めたくても、声が届く相手がいない。私はそこで初めて、ヤチヨが味わった孤独の一端を知った。
あの子は、こんな思いをしていたのか。そう考えた瞬間、胸が締めつけられた。川で魚を獲る人たちに目を丸くしたと笑って話していたあの時間にたどり着くまでに、こんなにも恐ろしい時間があったのだ。それでも記憶は止まらない。やがて、暗闇の中に優しい声が響いた。
『……大丈夫?』
その声は、どこか儚くて、それでいて不思議と安心できるものだった。お隣さん。ヤチヨが何度も話していた、あの人だった。姿の見えないその人は、泣いているヤチヨに静かに語りかけていた。何も解決していない。帰る方法が見つかったわけでも、身体が戻ったわけでもない。
それでも、その声を聞いた瞬間、どうしようもなかった恐怖が少しだけ和らいだ。
『もう、一人で泣かなくていいよ』
その言葉が、胸の奥まで染み込んできた。もう一人じゃない。その事実が、どれほど救いになったのか。私はヤチヨの記憶を通して思い知らされた。それから先は、長い旅だった。時代が変わり、景色が変わり、人々の暮らしが変わっていく。私が歴史の授業でしか知らなかった時代を、ヤチヨは実際に見つめ続けていた。
八千年という長い時間の中で、ヤチヨはたくさんの人と出会ってきた。生まれた時代も、身分も、生き方も違う人たち。それでも、誰もが限られた時間の中で懸命に生きていた。鮎を釣り上げ、自らの進む道を信じた気高い女性。ウミウシの姿をしたヤチヨに恋をして、その想いを歌に託した風変わりな貴族。
戦乱の世に生まれ、最後まで大切なものを守ろうとした姫君。どれほどつらくても笑顔を絶やさなかった遊女。自分の居場所を探しながら、懸命に花を売っていた少女。まだ見ぬ未来に思いを馳せ、ヤチヨの活躍を見届けたいと願った物書き。そして、時を重ねることで深みを増す酒に、人生の価値を重ねて語った異国の男。
誰もが違う時代を生き、それぞれの願いや想いを抱えていた。ヤチヨはそんな人たちと出会い、笑い合い、時には涙を流しながら、少しずつ世界を知っていった。けれど、人の一生はあまりにも短い。どれほど大切に思っても、いつかは別れが訪れる。昨日まで笑っていた人が、いつの間にか年老いている。
かつて一緒に歩いた道を、今度は杖をつきながら歩いている。そして、いつか必ず別れの日がやってくる。ヤチヨだけは、変わらなかった。何十年経っても、何百年経っても、彼女は同じ存在のままだった。大切な人たちが年老い、やがていなくなっても、彼女だけは次の時代へ進んでいかなければならない。そのたびに、胸の奥が痛んだ。
私が経験したことのない別れが、何度も何度も繰り返される。それでもヤチヨは、人と関わることをやめなかった。別れがつらいからといって、出会わなければよかったとは思わなかった。失う悲しみよりも、一緒に過ごした時間を大切にしたかったのだと思う。その強さが、眩しくて、同時にたまらなく痛々しかった。
そして、その隣には、いつもお隣さんがいた。ヤチヨが誰かとの別れに泣いているときも、楽しいことがあって笑っているときも、何もかも嫌になってしまいそうなときも、その人は変わらず隣にいてくれた。不思議な人だった。
最初は声しか聞こえなかったお隣さんも、時代が進むにつれて、少しずつヤチヨと同じ世界で過ごせるようになっていった。特に印象に残ったのは、ツクヨミが生まれていく頃の記憶だった。インターネットが普及し始め、世界が私の知っている時代へ近づいてきた頃。
ヤチヨは、それまでとは比べものにならないほど大きなことを始めようとしていた。誰もが自由に遊べる、新しい電子の世界を作ること。それが、ツクヨミだった。何もない空間に、少しずつ建物が増えていく。道ができ、空ができ、人々が集まるための仕組みが整えられていく。その一つ一つを、ヤチヨは楽しそうに作り上げていた。
そして、その隣にはお隣さんがいた。ヤチヨが新しい仕組みを思いつくたびに、お隣さんへ相談する。上手くいけば二人で喜び、失敗すれば原因を考える。ときには意見が食い違って喧嘩になることもあったけれど、最後には決まって二人で笑っていた。その姿を見て、私は少しだけ安心した。
八千年という途方もない時間を、あの子はただ耐えていただけではなかったのだ。誰かと一緒に何かを作り、失敗して、笑って、また新しいことを始める。そんな何でもない日々が、確かに存在していた。やがて、ヤチヨは自分が月見ヤチヨになるのだと気づいた。その事実に気づいたときの二人の驚きようは、思わず笑ってしまうほどだった。
ずっと未来に存在していた人気ライバーが、他でもない自分自身だったのだから、無理もない。それからヤチヨは、月見ヤチヨとして活動するための準備を始めた。銀色の髪をした、私のよく知る歌姫の姿。そして、お隣さんにも新しい身体が与えられた。長い金色の髪をした、どこか儚げな少女。
かつてのかぐやを思わせるその姿を見て、私は不思議な気持ちになった。最初は、ヤチヨが昔の自分を懐かしんで作ったのだろうと思った。実際、ヤチヨはその姿をとても気に入っていたらしい。けれど、それだけではないような気もした。お隣さんが笑うと、ヤチヨも嬉しそうに笑う。
ヤチヨが抱きつくと、お隣さんは少し困った顔をしながらも、必ず抱きしめ返す。二人の間には、私が入り込む余地なんてないほど長い時間が積み重なっていた。私は、その関係を羨ましいとは思わなかった。むしろ、ありがたかった。私が何もできなかった八千年もの間、誰かがあの子を大切にしてくれていた。
それだけで、どれほど救われただろう。ただ、一つだけ気になることがあった。お隣さんの笑い方だった。穏やかで、少し遠慮がちで、どこか寂しそうな笑顔。誰かに似ている気がした。けれど、誰なのかは分からなかった。そもそも、あの金色の髪も、声も、私の知っている誰かとは違っていた。
胸の奥に小さな引っかかりだけを残して、その感覚はすぐに指の隙間からこぼれ落ちていった。だから私は、その違和感を深く考えることはなかった。それよりも、二人が一緒に過ごす時間を見ていたかった。お隣さんがヤチヨをからかって、ヤチヨが怒る。ヤチヨが無茶を言って、お隣さんが困ったように笑う。
夜空を見上げて、食べられもしない料理の話で盛り上がる。そんな何でもない日常が、長い旅の中にいくつもあった。けれど、二人が抱き合う場面を見ているうちに、私はあることに気がついた。お隣さんもヤチヨも、相手の温もりを感じることができなかった。
電子の身体を手に入れたことで、手をつなぐことも、抱き合うこともできるようになった。けれど、それは形だけの接触だった。どれほど強く抱きしめても、そこに人間が感じるような温度や感触はない。それでも、二人は何度も抱き合っていた。寂しいときも、嬉しいときも、何でもないときでさえ。その光景が、なぜかひどく切なかった。
八千年という時間が、悲しいことばかりではなかったのだと分かって、少しだけ救われた気がした。けれど同時に、どれほど幸せそうに見えても、二人には決して手に入らないものがあったのだと思い知らされた。そして、その幸せな時間にも、終わりは訪れた。お隣さんが、消えてしまったのだ。最初は何が起きているのか理解できなかった。
ヤチヨの目の前で、お隣さんの身体が少しずつ光になっていく。手の先から、足元から、まるで存在そのものがほどけていくように。ヤチヨは必死に引き止めようとしていた。行かないで。消えないで。一人にしないで。そんな願いが、痛いほど伝わってきた。けれど、お隣さんは最後まで穏やかに笑っていた。
その笑顔に、私はまた妙な懐かしさを覚えた。どこかで見たことがある。そう思った。けれど、その答えを見つけるよりも先に、彼女はヤチヨへ最後の言葉を伝えた。
『大好きだよ。ありがとう。バイバイ、かぐや』
ヤチヨは、何も言えなかった。言葉を返そうとしていたのかもしれない。引き止めようとしていたのかもしれない。けれど、声にならなかった。そして、お隣さんは静かに消えていった。その瞬間、私は初めて、ヤチヨが八千年の中で経験してきたどんな別れとも違う絶望を感じた。ただ大切な人を失っただけではない。
八千年もの間、当たり前のように隣にいてくれた人が、突然いなくなってしまったのだ。どんなに悲しいことがあっても、その人だけはいてくれた。どんなに長い時間が経っても、その人だけは変わらず隣にいてくれると思っていた。その存在が、消えた。ヤチヨの心が、壊れてしまいそうだった。
それからしばらくの間、彼女はまともに何かをすることさえできなくなった。何を見ても、お隣さんのことを思い出してしまう。何か面白いことがあれば、隣にいるはずの人に話しかけようとしてしまう。そして、そこに誰もいないことを思い知らされる。そんな日々が続いた。私には、耐えられなかった。
記憶を見ているだけのはずなのに、胸が苦しくて、息ができなくなりそうだった。それでもヤチヨは、少しずつ立ち上がっていった。お隣さんとの約束を守るために。私と、もう一度会うために。それまで二人で作り上げてきた世界で、ヤチヨは一人になった。何かを思いついても、相談する相手はいない。
上手くいったとき、真っ先に報告したい人もいない。誰かに褒めてもらいたいとき、いつも隣にいてくれた人は、もうどこにもいない。それでも、彼女は笑った。月見ヤチヨとして。誰にでも明るく振る舞い、たくさんの人を楽しませ、いつも笑顔を絶やさない人気ライバー。その笑顔の裏に、どれほどの悲しみが隠されていたのか。
私は、ようやく理解した。ああ、だからか。再会したとき、どうしてあんなに貼りつけたような笑顔をしていたのか。どうして、八千年のことを何でもないように話せたのか。どうして、私の前でさえ弱音を吐こうとしなかったのか。八千年もの間、何度も大切な人を見送ってきたから。
そして最後には、誰よりも大切だった人まで失ってしまったから。あの子は、笑うことに慣れすぎてしまったのだ。悲しくても、つらくても、笑っていれば周りは安心してくれる。そうやって自分の気持ちを隠すことが、いつの間にか当たり前になってしまった。それは、私にも覚えのあることだった。
誰にも弱いところを見せたくなくて、平気なふりをして、何でも一人で抱え込もうとする。私とヤチヨは、そんなところまで似てしまったらしい。気がつけば、私は泣いていた。記憶の中のヤチヨに、何度も謝りたくなった。ごめん。何も知らなくて、ごめん。あんなに長い間、待たせてしまってごめん。そして、お隣さん。
あなたにも、ありがとうと伝えたかった。私が何もできなかった八千年もの間、あの子の隣にいてくれてありがとう。あなたも、きっとつらかったよね。最後まで、あの子を守ってくれてありがとう。あなたがいてくれたから、私はもう一度かぐやに会えた。それだけは、絶対に忘れたくなかった。
--- ヤチヨとの再会は、私自身を大きく変えた。今までの私は、自分が何をしたいのか分からなかった。お母さんに言われたことを守って、勉強して、いい大学に入って、ちゃんとした仕事に就く。それが正しいことなのだと思っていたし、そうする以外の生き方を知らなかった。かぐやと出会って、初めてその考えが揺らいだ。
あの子は、私がずっと押し殺してきた気持ちを、当たり前のように引っ張り出してくれた。好きなことをしていいんだよ。やりたいことをやればいいんだよ。そんな簡単なことを、私はずっと忘れていた。そして今、もう一度ヤチヨと出会えたことで、ようやく自分の進みたい道が見えた気がした。私は、ヤチヨの身体を作ってあげたかった。
ツクヨミの中でしか触れ合えない彼女を、現実の世界に連れ出してあげたい。もう一度、一緒にご飯を食べたい。街を歩きたい。くだらないことで笑い合いたい。あの頃のように、同じ部屋で何でもない時間を過ごしたい。そのためなら、どんな勉強だって頑張れると思った。今度は、私がヤチヨを幸せにする番だ。
八千年もの間、私に会うために頑張ってくれた彼女を、今度こそハッピーエンドまで連れていく。そう決めた。
「ついてきてよ、ヤチヨ」
あの子にそう言ったとき、私は本気だった。どれほど難しいことでも、諦めるつもりはなかった。そして、そんなふうに自分のやりたいことを見つけられたからこそ、私は家族との関係にも向き合おうと思えるようになった。お母さんとも、もう一度ちゃんと話すことができた。昔のように何でも言い合える関係に戻れたわけではない。
今でも意見がぶつかることはあるし、お母さんの考えをすべて理解できたわけでもない。それでも、以前のようにただ反発するだけではなくなった。お母さんが何を考えていたのか、どうしてあんなに厳しかったのか。少しずつでも知ろうと思えるようになった。そして、もう一人。私には、どうしても話したい相手がいた。妹の彼方だった。
かぐやが月へ帰ってしまう少し前、彼方が私たちのアパートを訪ねてきたことがあった。あの日、バイトから帰宅した私は、部屋で楽しそうに笑っている妹の姿を見て、ひどいことを言った。
『なんで、いるの?』
『用事は済んだでしょ、帰って』
そんな言葉で、久しぶりに会いに来てくれた妹を追い返してしまった。今でも、あのときの彼方の顔を思い出す。何か言いたそうにしていたのに、結局何も言えなくなってしまったあの子。昔から私の後ろをついて回っていた、泣き虫で甘えん坊だった妹。私は、あの子を傷つけた。それも、取り返しのつかないくらい深く。
お兄ちゃんから、彼方があのあと熱を出して寝込んでしまったと聞いたときには、本当に自分が嫌になった。もちろん、私が原因だったと決まったわけではない。けれど、無関係だとはどうしても思えなかった。だからこそ、もう一度話したかった。謝りたかった。昔みたいに仲良くなれるかどうかは分からない。
それでも、あの子が何を考えていたのか、どうして私に会いに来てくれたのか、ちゃんと聞きたかった。ヤチヨと再会してから、私は何度か彼方に連絡を取ろうとした。けれど、返事はなかった。電話をかけても出てくれない。メッセージを送っても、返信は来ない。最初は忙しいのだろうと思っていた。彼方だって、自分の生活がある。
学校もあるし、友達もいる。私の都合で、いつでも話してもらえるわけではない。それでも、日が経つにつれて不安が大きくなっていった。やっぱり、嫌われてしまったのだろうか。そんな考えが何度も頭をよぎった。当然だと思う。あんなことを言われて、それでも私のことを好きでいてくれなんて、虫がよすぎる。
けれど、諦めることだけはしたくなかった。私がどれほど嫌われていたとしても、一度くらいはちゃんと謝りたかった。だから、もう少しだけ頑張ってみようと思っていた。そんなある日のことだった。--- その日は、いつもどおり学校にいた。授業の合間にスマホを確認すると、ヤチヨから何件もメッセージが届いていた。
『彩葉、今すぐ会えない?』
『学校なのは分かってる。無茶言ってるのも分かってるけど、お願い』
『今すぐ会いに来てほしい』
私は思わず眉をひそめた。普段のヤチヨなら、こんなふうに頼み事をすることは滅多にない。何かあれば大げさな冗談を言って笑わせようとするし、本当に困っているときほど、何でもないように振る舞う子だ。そんな彼女が、授業中の私に、学校を抜けてでも会いに来てほしいと言っている。何かあったに決まっていた。
『どうしたの? 何かあった?』
すぐに返信すると、ほとんど間を置かずに返事が来た。
『会ってから話したい』
その短い文章を見た瞬間、私は決めた。学校のことなんて、どうでもよかった。先生に体調が悪いと伝えて早退すると、急いで家へ向かった。今までの私なら、こんなことは絶対にしなかったと思う。授業を休むなんて考えられなかったし、ましてや理由も分からないまま学校を飛び出すなんて、ありえなかった。けれど、今は違う。
ヤチヨが私を必要としている。それだけで、十分だった。家に帰ると、制服を着替えることさえせずにツクヨミへ接続した。いつものボロアパートの部屋に降り立った瞬間、目の前に人影が飛び込んできた。
「彩葉っ!」
「わっ! ちょっと、ヤチヨ!」
勢いよく抱きつかれ、危うく後ろへ倒れそうになる。何とか踏みとどまって受け止めたものの、ヤチヨは顔を上げようとしなかった。背中へ回された腕に力がこもり、制服の布を掴む指が小さく震えている。
「どうしたの? 何かあった?」
「……あったかい」
「え?」
「彩葉……あったかいよ……」
ひどく頼りない声だった。いつもの明るい調子も、ふざけた言い回しもない。ヤチヨは私の肩に額を押しつけ、何度も同じ言葉を繰り返した。
「ほんとに……あったかい……っ」
息を吸う音が震えていた。何かを堪えるように喉を鳴らし、ますます強く私にしがみつく。
「ヤチヨ?」
「……まだ、離さないで」
「離さないよ」
私は背中に腕を回した。そう答えた途端、ヤチヨの身体がびくりと跳ねた。
「……っ、う……うぁ……っ」
小さな嗚咽が漏れたかと思うと、もう止まらなかった。私の肩に顔を埋めたまま、ヤチヨが泣き始めた。最初は必死に声を飲み込もうとしていた。けれど、息を整えようとするたびに新しい涙が溢れるらしく、言葉にならない声が次々と漏れた。
「……いろは……っ、いろはぁ……!」
「うん。いるよ」
「……会いたかった……っ。ずっと、ずっと会いたかったの……!」
胸が詰まった。私たちはもう再会していた。話もしたし、笑い合ったし、抱きしめたことだってある。それなのにヤチヨは、今この瞬間まで八千年の別れが続いていたかのように泣いていた。
「……もう会えたのに……っ、ヤチヨ、また泣いて……ごめん……っ」
「何で謝るの。泣いたっていいじゃん」
「……でも……っ」
「いいよ。今は何も我慢しなくていい」
頭を抱き寄せると、ヤチヨはとうとう声を上げて泣いた。
「……うあぁ……っ、いろはぁ……!」
何度も私の名前を呼んで、そのたびに返事を待つ。私は呼ばれるたびに
「いるよ」
と答えた。返事を聞いても安心しきれないのか、ヤチヨはまた名前を呼ぶ。そんなことを何度も繰り返すうちに、私はようやく気づいた。これは、今ここにいる私だけに向けた涙ではない。八千年もの間、呼びたくても呼べなかった名前を、あの子はようやく声にできたのだ。
「……ねえ、彩葉……っ」
「うん?」
「……ほっぺ、触って……」
私は戸惑いながら、その頬へ手を伸ばした。指先を添えた瞬間、ヤチヨが息を呑む。涙で濡れた顔がくしゃりと歪み、あの子は私の手を両手で包んで頬へ押し当てた。
「……分かる……っ。彩葉の手……ちゃんと分かるの……!」
その言葉で、ようやく理解した。八千年前、もと光る竹が壊れて肉体を失ってから、ヤチヨは人間のような温度や触覚を感じられなかった。ツクヨミで抱き合うことはできても、相手の温もりを知ることはできなかったはずだ。
「……感覚が、戻ったの?」
ヤチヨは何度も頷いた。
「うん……っ。戻ったんだよ、彩葉……!」
「……そっか。よかったね、ヤチヨ」
それだけで、また泣き崩れた。
「……いろはぁ……っ! よかった……よかったよぉ……!」
私はあの子を抱きしめ直した。するとヤチヨは小さく息を漏らし、驚いたように私の腕を見つめた。
「……ぎゅってされてる……」
「うん」
「……ちゃんと、分かる……っ」
ヤチヨは私の腕に指を重ね、確かめるようにそっと撫でた。嬉しそうに笑った次の瞬間には涙が溢れている。
「……こんなに、あったかかったんだね……」
しばらくして、ヤチヨはぽつりと呟いた。
「……忘れてたの」
「何を?」
「彩葉の温もり……。顔も、声も、一緒にいたときのことも、何回も思い出してた。忘れたくなくて、何度も……何度も……。でも、抱きしめてもらうのがこんなにあったかいって、思い出せなかった……っ」
その声があまりにも苦しそうで、私は胸が痛くなった。八千年もの間、私のことを覚えていてくれた。それだけでも奇跡のようなことなのに、ヤチヨは忘れてしまったことを責めている。
「……ごめんね、彩葉。忘れちゃって……」
「謝らないでよ。八千年だよ? 忘れたことくらいあって当然でしょ」
「……でも……」
「忘れちゃったなら、また覚えればいいじゃん」
私は両手でヤチヨの頬を包んだ。
「私、ここにいるんだから」
ヤチヨの唇が震えた。何か言おうとして、言葉にならないまま目から涙が溢れる。
「……いろは……っ!」
「うん」
「……もう、いなくならないで……っ。お願い……っ、もう置いていかないで……!」
その声は悲鳴に近かった。私は強く抱きしめたまま、すぐには答えられなかった。八千年を生きてきた相手に、永遠なんて簡単に約束できない。それでも、今ここにいる私の気持ちだけは嘘にしたくなかった。
「今はどこにも行かない。ちゃんとここにいるよ」
「……ほんと……?」
「ほんと。だから、泣いていいよ」
ヤチヨは何度も頷いて、また泣いた。私は泣き止ませようとせず、ただ背中を撫で続けた。私の知らない八千年を、今さら埋めることはできない。けれど、これから泣くときくらい、隣にいたいと思った。どれほど経ったのか分からない。ようやく呼吸が落ち着いた頃には、私たちは床に座り込んでいた。
ヤチヨは私の膝の間に収まり、背中を預けている。私は後ろから抱きしめ、時々髪を撫でた。あの子は私の手を何度も握り直し、指を絡めては小さく笑った。
「……彩葉の手、あったかいね」
「それ、何回目?」
「百回くらい?」
「そんなに言ってないでしょ」
「じゃあ、これから百回言う」
「はいはい」
いつもの調子が少しだけ戻ってきたことに安心する。それでもヤチヨは、笑った拍子にまた目を潤ませた。
「……嬉しいのに、涙が止まらないや」
「いいじゃん。今日は好きなだけ泣きなよ」
「……うん」
そう返しながら、私は彼女の頭を撫でた。すると、ヤチヨは気持ちよさそうに目を細めた。その反応が、何だか新鮮だった。今までも頭を撫でたことはあった。けれど、こうして本当に気持ちよさそうな顔をするのを見るのは、初めてかもしれない。撫でるたびに伝わる髪の柔らかさを、彼女は一つ一つ確かめているようだった。
「……それで、何があったの?」
しばらくしてから、私はようやく本題を切り出した。ヤチヨは少しだけ身体を起こすと、目の前にウィンドウを表示した。
「実はね、ヤチヨのところに変なものが届いたんだ。それを試しに取り込んでみたら、こうなっちゃって……」
「変なもの?」
「うん。匿名で送られてきたモジュール」
画面には、私には理解できないようなコードが大量に並んでいた。何となくプログラムらしいことは分かるけれど、それ以上のことはさっぱりだった。
「これが?」
「そう。温感と触覚、それから味覚を再現するためのモジュールなんだよ」
「……え?」
私は思わず聞き返した。温感、触覚、味覚。それは、ヤチヨが長い間知らずにいたものだった。そして、私が彼女の身体を作りたいと思った理由の一つでもある。
「そんなもの、作れるの?」
「普通は無理だよ。少なくとも、今の地球の技術じゃね」
ヤチヨは真剣な顔で画面を見つめた。
「ヤチヨも最初は何かの間違いかと思ったんだ。でも、調べてみたらちゃんと動くの。しかも、ものすごく完成度が高い」
「……誰が送ってきたの?」
「分かんない」
「分かんないって……」
「送信元の情報がほとんど残ってないんだよ。普通なら何かしら痕跡が残るはずなのに、全然見つからなくて」
私は眉をひそめた。そんなことができる人間が、今の時代にいるのだろうか。けれど、ヤチヨはさらに不思議なことを言った。
「それにね、これ……月の技術に似てるんだ」
「月?」
「うん。ヤチヨが昔使ってた技術に近いところがあるの。でも、完全に同じってわけじゃなくて……何て言えばいいのかな。月の技術を知ってる人が、地球の環境に合わせて作り直したみたいな感じ?」
ますます分からなくなってきた。月の技術を知っていて、今の地球に存在していて、ヤチヨにこんなものを送れる人物。そんな人がいるのだろうか。私は考え込んだ。けれど、答えは意外なほど簡単に浮かんできた。
「……お隣さん?」
私がそう呟くと、ヤチヨの身体がぴくりと震えた。ゆっくりと振り返った彼女は、驚いたような、それでいて泣きそうな顔をしていた。
「……彩葉も、そう思う?」
「うん。だって、こんなことできる人、他に思いつかないし」
私はヤチヨの記憶を見てきた。お隣さんがどれほど優秀だったのかも、彼女がヤチヨと一緒にどれほど多くのものを作ってきたのかも知っている。ただ、それだけではなかった。記憶の中で、お隣さんがときどき何かを隠すような素振りを見せていたことを、私は覚えていた。
ヤチヨが何をしているのか尋ねても、困ったように笑って誤魔化していたことがあった。あのときは特に気にしなかったけれど、今になって思えば、何かを作っていたのかもしれない。
「ねえ、ヤチヨ。お隣さんって、最後の頃に何か作ってなかった?」
「……え?」
「ほら、ヤチヨに内緒で何かしてたこと、あったでしょ?」
ヤチヨは少し考え込んだあと、小さく頷いた。
「……そういえば、何か作ってた気がする」
「何を?」
「……温度とか、触った感覚とか。そういうのを再現するもの、だったと思う」
「だったと思う?」
「うん……。お別れするときに、少しだけ話してくれたんだ。でも、あのときは……」
ヤチヨはそこで言葉を詰まらせた。
「お隣さんがいなくなっちゃうって、それしか考えられなくて。何を言ってくれたのか、ちゃんと覚えてないんだ」
「……そっか」
「ずっと何か作ってるのは知ってたんだけどね。聞いても教えてくれなかったし……結局、詳しいことは分からないままだったんだ」
私はもう一度、画面に表示されたモジュールを見た。温感と触覚。それは、八千年もの間、二人が手に入れられなかったものだった。もしかしたら。お隣さんは、それを何とかしようとしていたのではないだろうか。
「……ねえ、ヤチヨ」
「ん?」
「これ、お隣さんが作ったものなんじゃない?」
ヤチヨは答えなかった。ただ、じっと画面を見つめていた。
「……ヤチヨもね、最初に見たとき、ちょっと思ったんだ」
「……うん」
「コードの組み方とか、細かいところに見覚えがあるの。昔、一緒にいろんなものを作ってたから」
そこで、彼女は小さく息を吐いた。
「でも、そんなはずないって思った。だって、お隣さんは……」
言葉が途切れた。その先を、私は聞かなかった。聞かなくても分かっていたから。お隣さんは、もういない。少なくとも、ヤチヨはそう思っていた。
「……じゃあ」
私は、できるだけ静かな声で尋ねた。
「お隣さん、まだどこかにいるのかもしれないね」
その瞬間、ヤチヨの瞳が揺れた。
「……うん」
小さな声だった。
「……そうだったら、いいな」
その言葉が、胸に刺さった。八千年もの間、ずっと一緒にいた人。最後には何も言えないまま見送ることになってしまった人。その人が、まだどこかにいるかもしれない。もちろん、確証はなかった。モジュールを送ってきた人物がお隣さんだという証拠はないし、どうして今になって届いたのかも分からない。けれど、可能性がある。
それだけで、十分だった。
「……探そう」
私がそう言うと、ヤチヨは驚いたように目を見開いた。
「え?」
「お隣さん。探そうよ」
「……いいの?」
「何が?」
「だって、ヤチヨのわがままだよ?」
私は思わず笑ってしまった。
「今さらでしょ。ヤチヨのわがままなんて、もう慣れてるよ」
「むぅ、ひどい!」
「それに、私だって会いたいんだから」
それは本心だった。お隣さんには、言いたいことがたくさんあった。八千年もの間、ヤチヨの隣にいてくれてありがとう。あなたも、きっとつらかったよね。最後まで、あの子を守ってくれてありがとう。そして、もし本当に生きているのなら。どうして、あんな別れ方をしたのか。それも聞いてみたかった。
「……絶対に見つけようね」
そう言うと、ヤチヨはしばらく私を見つめていた。やがて、ゆっくりと頷いた。
「うん……絶対に見つける」
その声には、強い決意が込められていた。けれど、次の瞬間。
「見つけたら、絶対怒ってやるんだから!」
ヤチヨは突然、頬を膨らませた。
「……え?」
「だってさ! お隣さん、ヤチヨの願いが叶うまでずっとそばにいるって約束してくれたんだよ? なのに勝手にいなくなって、何の説明もなしに消えちゃうなんて、絶対許さない!」
あまりにも理不尽な理屈だった。けれど、私は笑わなかった。その言葉の裏に、どれほどの寂しさが隠されているのか知っていたから。
「……うん。そうだね」
「でしょ!? 見つけたらまず説教だからね!」
「私も手伝うよ」
「ほんと!?」
「うん。私のヤチヨをあんなに泣かせたんだから、ちゃんと責任取ってもらわないと」
そう言うと、ヤチヨは一瞬きょとんとした。それから、嬉しそうに笑った。
「えへへ……私のヤチヨ、だって」
「……何?」
「ううん、何でもな〜い」
そう言いながら、彼女はまた私の胸元に身体を預けてきた。私は小さくため息をついて、その頭を撫でた。お隣さん。あなたがどこにいるのかは分からない。けれど、もし本当に生きているのなら。今度は、私たちがあなたを見つけてみせる。そう心に決めた。--- それから数日間、私たちはお隣さんの痕跡を探し続けた。
正確には、ヤチヨが探して、私はその隣で応援していたという方が正しいかもしれない。何しろ、相手は八千年もの時間を生きてきた天才だ。彼女が扱っている技術のほとんどは、今の私には理解できない。それでも、何か手伝えることはないかと思って、できる限り一緒にいた。
お茶を淹れたり、ヤチヨが画面に噛みついたときになだめたり、そんなことしかできなかったけれど、それでも隣にいること自体に意味があるのだと、今の私は知っていた。ヤチヨはまず、送られてきたモジュールを徹底的に調べた。けれど、送信元の情報はほとんど残されていなかった。
普通なら残るはずの通信記録も、経由した場所の痕跡も、なかなか見つからない。
「……むぅ」
ヤチヨは画面を睨みつけながら唸っていた。
「どう?」
「全然ダメ。ほんと、何なのこれ。ここまで綺麗に消す必要ある?」
「……そんなにすごいの?」
「すごいなんてもんじゃないよ。これ、ヤチヨが本気で探しても見つからないようにしてるんだもん」
その言葉を聞いて、私は少しだけ不安になった。もし本当にお隣さんが送ってきたのだとしたら。彼女は、見つかりたくないのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。そして、それはヤチヨも同じだったらしい。
「……もしかして」
小さな声が聞こえた。振り向くと、ヤチヨは俯いていた。
「……お隣さん、ヤチヨには会いたくないのかな」
その言葉に、胸が痛んだ。
「ヤチヨ……」
「だって、そうでしょ? 生きてるなら、会いに来てくれればいいのに。なのに、こんなものだけ送ってきて、どこにいるのかも教えてくれないなんて……」
彼女の声が震え始めた。
「ヤチヨ、何か嫌なことしちゃったのかな……」
私はすぐに、彼女を抱きしめた。
「そんなわけないでしょ」
「……でも」
「お隣さんがヤチヨのことを嫌いになるなんて、絶対にないよ」
私は、はっきりと言った。それだけは、自信があった。八千年の記憶を見たからこそ分かる。あの人が、どれほどヤチヨを大切にしていたのか。自分のことを後回しにしてでも、ヤチヨの幸せを願っていたことを。そんな人が、今さらヤチヨを嫌いになるはずがない。
「きっと、何か理由があるんだよ」
「……理由?」
「うん。だから、ちゃんと見つけて聞こう?」
ヤチヨはしばらく黙っていた。やがて、小さく頷いた。
「……うん」
私はその頭を撫でながら、心の中でお隣さんに文句を言った。まったく。どこにいるのか知らないけれど、こんなにヤチヨを泣かせて。見つけたら、本当に一言くらい言ってやらないと気が済まない。そんなことを考えながら、私たちは調査を続けた。けれど、手がかりは一向に見つからなかった。送信元を調べても駄目。
モジュールの構造を解析しても、作者を特定できるような情報はない。月の技術との共通点を探しても、それだけでは何も分からなかった。完全に行き詰まっていた。そんなある日の夜だった。
「見つけたぁぁぁ!!」
突然、ヤチヨの大声が部屋中に響いた。
「うわっ!」
私は思わず肩を跳ねさせた。次の瞬間、ヤチヨが勢いよく飛びついてくる。
「彩葉! 見て見て! ヤチヨ、天才かもしれない!」
「ちょ、ちょっと! 落ち着いて!」
「落ち着いてられないよ! だって、見つけちゃったんだもん!」
彼女は興奮した様子で、いくつものウィンドウを開いていった。そこには、相変わらず私には理解できないコードの羅列が並んでいる。
「……ごめん、私にはさっぱり分かんない」
「ええ〜!? こんなにすごいのに!」
「いや、すごいのは分かるけど、何がすごいのか説明してよ」
そう言うと、ヤチヨはようやく少し落ち着いたらしい。私はいつものように彼女を膝の間に座らせ、背中を預けさせた。すると、ヤチヨは嬉しそうに身体を寄せてくる。
「えへへ。やっぱりここ、落ち着くね」
「はいはい。それで?」
「そうだった!」
彼女は再び画面を操作し始めた。
「実はね、お隣さんが今も生きてるなら、ツクヨミに何か痕跡が残ってるんじゃないかって思ったんだ」
「……どうして?」
「だって、お隣さん、ツクヨミを作るときもずっと一緒にいてくれたんだよ? それに、月の技術にも詳しかったし。もし今の時代にいるなら、何か関係しててもおかしくないでしょ?」
なるほど。確かに、それはありそうだった。
「それで、過去のログを調べてたんだ。普通じゃありえないような処理とか、月の技術に似た動きをしてるものがないかなって」
「……それで見つかったの?」
「うん!」
ヤチヨは大きく頷いた。
「九月十二日。かぐやが月に帰った日だよ」
その日付を聞いた瞬間、私は少しだけ身体を強張らせた。忘れられるはずがなかった。かぐやが月へ帰ってしまった日。私たちが、必死になってあの子を引き止めようとした日。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「その日のログにね、とんでもないものが残ってたの」
ヤチヨは一つのウィンドウを拡大した。
「ものすごく高度なチートコード。しかも、普通のチートとは全然違うの。ツクヨミの認識処理そのものに干渉してるみたいで、ヤチヨでも全部は理解できないくらい」
「……そんなに?」
「うん。たぶん透明化に近いものだと思うんだけど、ただ姿を消すだけじゃないんだよね。もっと根本的なところから、存在を認識できなくしてるような……」
私は首を傾げた。正直、何を言っているのかよく分からなかった。けれど、ヤチヨが興奮している理由は何となく理解できた。彼女でさえ理解しきれないほど高度な技術。しかも、月の技術に似たもの。確かに、お隣さんと関係がある可能性は高そうだった。
「でも、そんなの今まで気づかなかったの?」
「そこなんだよ!」
ヤチヨは悔しそうに頬を膨らませた。
「あの日は、いろんなところで普通じゃないことが起きてたでしょ? 彩葉のお兄さんたちも無茶してたし、かぐやを月へ連れていくための処理も動いてたし。だから、こんなログが残ってるなんて思わなかったの」
「ああ……」
そういえば、そんなこともあった。あの日、お兄ちゃんたちはツクヨミの中で、かぐやを助けるために無茶なことをしていた。だから、多少おかしなログが残っていても、見落としてしまったのだろう。
「でもね、今回見つけたのは全然違うの。普通のチートコードとは、技術の水準がまるで違う」
「……それって」
「うん。お隣さんが関わってる可能性、かなり高いと思う」
私は思わず息を呑んだ。ついに、手がかりが見つかった。そう思った。けれど、ヤチヨの話はまだ終わらなかった。
「それにね、使用されたアカウントも分かってるんだよ!」
「……え?」
「プレイヤーネーム、kanaって人!」
ヤチヨは得意げに胸を張った。
「……すごいね。もうそこまで分かってるんだ」
「えへへ、もっと褒めていいんだよ?」
「はいはい、天才天才」
「むぅ、雑!」
そう言いながらも、ヤチヨは嬉しそうだった。
「それで、その人は今もログインしてるの?」
私がそう尋ねると、ヤチヨは急に大げさな顔をした。
「ヨヨヨ〜、それがですねぇ……」
「……何?」
「なんと! 九月十二日を境に、ログインが一度ぴたりと止まっていたのであります!」
「……え?」
私は思わず聞き返した。それは、少し妙だった。もし本当にお隣さんが今も生きていて、ツクヨミを利用しているのなら、どうしてあの日以来、一度もログインしていないのだろう。
「……別のアカウントを使ってるとか?」
「その可能性もあるけどね。でも、ちょっと待って。実はね、そこで終わりじゃないんだよ」
ヤチヨは画面を操作し、さらに新しい記録を表示した。
「長い間まったくログインしてなかったんだけど、最近になって、またログインするようになってるの」
「……最近?」
「うん。それも、何回か」
私は画面を覗き込んだ。確かに、九月十二日を最後に長い空白があり、そのあとに新しいログイン記録が残っていた。
「……じゃあ、今もツクヨミを使ってるんだ」
「そういうこと! でもね、ここからがもっと変なの」
ヤチヨは別のウィンドウを開いた。
「この人、戻ってきてから何もしてないんだよね」
「……何も?」
「うん。SETUNAで対戦した記録もないし、誰かと交流した記録もない。ログインして、しばらくツクヨミにいて、そのままログアウトしてるの」
「……何かを探してるとか?」
「ん〜、どうだろう。そういう可能性もあるけど……」
ヤチヨは考え込むように首を傾げた。
「ただツクヨミに来て、何もしないまま帰ってるみたいなんだよね」
私は画面に並ぶ記録を見つめた。九月十二日を境に姿を消し、長い空白のあとに再び現れたプレイヤー。けれど、戻ってきてからは誰とも遊ばず、何かをするわけでもなく、ただツクヨミの中で時間を過ごしている。何のために、そんなことをしているのだろう。
「……変なの」
「でしょ〜?」
ヤチヨは頷いた。けれど、その表情はすぐに曇った。
「……もし、この人がお隣さんだったら」
小さな声だった。
「……ヤチヨに会いに来てくれても、いいのにな」
私は何も言えなかった。八千年もの間、ずっと隣にいてくれた人。もし本当にその人が今も生きていて、同じツクヨミの世界に来ているのだとしたら。どうして、ヤチヨに会いに来ないのだろう。会いたくないのだろうか。それとも、会えない理由があるのだろうか。どちらにしても、本人に聞かなければ分からないことだった。
「……ねえ、その人のこと、もっと調べられないの?」
「もちろん! ヤチヨもそのつもり!」
ヤチヨは気を取り直したように笑い、いくつものウィンドウを開いた。
「まずは、九月十二日より前のプレイ履歴を調べてみようかな。どんな人だったのか、何か分かるかもしれないし!」
「……それって、勝手に見ても大丈夫なの?」
「んぇ?」
「いや、個人のプレイ履歴でしょ。プライバシーとか……」
「……うっ」
ヤチヨは一瞬だけ気まずそうな顔をした。
「そ、それはそうなんだけど……」
そのまま画面を見つめ、しばらく黙り込む。
「……ごめん。ヤチヨ、ちょっと焦ってたかも」
その声を聞いて、私は小さく息を吐いた。無理もないと思った。死んだと思っていた大切な人が、まだ生きているかもしれないのだ。冷静でいろという方が難しい。
「……気持ちは分かるよ」
「……うん」
「でも、できるだけ必要なことだけにしようね」
「……分かった」
ヤチヨは小さく頷くと、すでに見つけていた九月十二日の記録へ戻った。
「じゃあ、まずはこのコードを使った時期周辺の記録だけ確認してみるね」
そう言って画面を操作した彼女の手が、ふと止まった。
「……んぇ?」
「どうしたの?」
「……あれ?」
さっきまでの明るい声とは違っていた。ヤチヨは画面を見つめたまま、何かを確かめるように何度も記録を読み返している。私は不思議に思い、彼女の肩越しに画面を覗き込んだ。そこには、見覚えのある名前が表示されていた。帝アキラ。
「……え?」
思わず声が漏れた。見間違いかと思った。けれど、何度見直しても同じだった。帝アキラ。私の兄のプレイヤーネームだった。
「……なんで、お兄ちゃん?」
「……帝くん?」
ヤチヨも意外そうに目を丸くしていた。
「この人、帝くんと何度も対戦してるんだ」
帝アキラ。ブラックオニキスのリーダーであり、ツクヨミでも有名なプロゲーマー。ヤチヨにとっても、かぐやたちとKASSENで戦ったときから知っている相手だった。
「……お兄ちゃんと?」
「うん。しかも、かなり前から何度もSETUNAで遊んでるみたい」
ヤチヨは記録を確認しながら、少しだけ感心したような声を出した。
「へえ……帝くん相手に、こんなに勝ってるんだ。あの人、相当強いのに」
「……勝ってるの?」
「うん。何回もね。しかも、このkanaって人、他のプレイヤーとの対戦記録がほとんどないみたい」
私は画面を見つめた。kanaというプレイヤー。九月十二日に、とんでもなく高度なチートコードを使用していたアカウント。その日を境に長い間ログインしなくなり、最近になって戻ってきたものの、誰とも交流していない人物。そして、それ以前はお兄ちゃんと何度もSETUNAで遊んでいた人物。何が何だか分からなかった。
お隣さんとお兄ちゃん。どう考えても、繋がらない。けれど、もしお兄ちゃんと一緒に遊んでいたのなら、本人に聞けばいい。そう思った瞬間、私はお兄ちゃんに直接聞こうと決めた。
「……お兄ちゃんに聞いてみる」
「えっ、今から!?」
「うん。だって、その方が早いでしょ?」
ヤチヨは一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「さっすが彩葉! 行動が早い!」
私はその言葉に苦笑しながら、いったんツクヨミからログアウトした。現実の部屋に戻り、手元のスマートフォンを取る。ヤチヨもタブレットの画面に移ってきた。私は彼女にも聞こえるよう通話をスピーカーに切り替え、お兄ちゃんへ電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『もしもし、彩葉? どないしたん、こんな時間に』
「お兄ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
『ん? 何や?』
「ツクヨミでさ、kanaってプレイヤー、知ってる?」
電話の向こうで、少しだけ間が空いた。けれど、返ってきた言葉は驚くほどあっさりしていた。
『kana? ああ、彼方やで。それがどないしたん?』
その瞬間、私の思考は完全に止まった。
「…………え?」
『ん?』
「……今、何て?」
『せやから、彼方やって。あいつのプレイヤーネームやろ?』
彼方。聞き間違えるはずのない名前だった。酒寄彼方。私の妹。昔から私の後ろをついて回って、何かあるたびに
「お姉」
と呼んでいた、あの小さな女の子。その彼方が、kanaというプレイヤーだった。ただ、それだけのことだ。妹がツクヨミで遊んでいた。お兄ちゃんと何度もSETUNAで対戦していた。別におかしな話ではない。彼方は昔からゲームが得意だったし、お兄ちゃんが相手なら、きっと遠慮なく遊べたのだろう。
だから、何も心配する必要なんてない。そう思おうとした。けれど、目の前の画面には、九月十二日の記録が残されていた。あの日、かぐやが月へ帰った日に使用された、ヤチヨでさえ理解しきれないほど高度な認識阻害のコード。そして、そのコードを使用したプレイヤーの名前。kana。
何度見直しても、そこに書かれている文字は変わらなかった。
「……彼方、なの?」
『彩葉? どないしたん?』
「……ごめん。ちょっと、待って」
私はスマートフォンから目を離した。何かの間違いだと思いたかった。お兄ちゃんが別のプレイヤーと勘違いしているのかもしれない。同じ名前を使っている人がいるのかもしれない。そもそも、あのコードとお隣さんに本当に関係があるのかだって、まだ分かっていない。そうだ。まだ、何も分かっていない。なのに、どうして。
どうして、こんなにも怖いのだろう。
「……彩葉?」
ヤチヨの声が聞こえた。顔を上げると、彼女は呆然と画面を見つめていた。さっきまで、あんなに嬉しそうだったのに。お隣さんの手がかりが見つかったと、子供みたいにはしゃいでいたのに。今は、何も言わなかった。ただ、kanaという文字を見つめている。
「……彼方ちゃん、だったんだね」
「……うん」
「そっか……」
ヤチヨは画面の中で小さく頷いた。
「……彼方ちゃん、だったんだ」
その声には、驚きも、喜びも、悲しみも混ざっていた。私は、何も言えなかった。お隣さん。八千年もの間、ヤチヨの隣にいてくれた人。私が何もできなかった時間を、ずっと一緒に過ごしてくれた人。あの人が彼方かもしれない。その可能性を考えた瞬間、これまで見てきた記憶が、まったく違う意味を持ち始めた。
八千年前の地球で、泣いているヤチヨに声をかけた少女。何も分からない世界で、もう一人で泣かなくていいと約束してくれた人。どれほど長い時間が経っても、決してヤチヨの隣から離れなかった人。私は、その人に何度も感謝した。あなたがいてくれてよかった。あなたのおかげで、かぐやは一人じゃなかった。
あなたがいてくれたから、私はもう一度かぐやに会えた。そう思っていた。心の底から、そう思っていた。けれど。もし、その人が彼方だったのなら。私は、いったい何を喜んでいたのだろう。八千年もの間、かぐやが一人ではなかったことを喜んでいた。その隣に誰かがいてくれたことに安心していた。
けれど、その誰かにも家族がいて、帰りたい場所があって、会いたい人がいたのかもしれないなんて、一度も考えなかった。だって、お隣さんは、私の知らない人だったから。名前も知らない、顔も知らない、どこから来たのかも分からない人。だから私は、あの人の八千年を、ただ美しいものとして受け取ることができた。優しい人だった。
かぐやを大切にしてくれた。最後まで隣にいてくれた。そんなふうに、都合よく。でも、もし彼方だったら。あの金色の髪の少女が、私の妹だったのなら。私は、何に感謝していたことになるのだろう。彼方が家族と過ごせなかった八千年に?あの子が自分の人生を後回しにして、かぐやの隣にいてくれたことに?
私の願いを叶えるために、妹が途方もない時間を費やしてくれたことに?
「……嘘、でしょ」
声が漏れた。嫌だった。そんなの、嫌だった。彼方がお隣さんであってほしくなかった。あの子には、普通に生きていてほしかった。学校へ行って、友達と遊んで、好きなことを見つけて、いつか大人になって。私の知らないところで笑っていたとしても、それでよかった。
もう昔みたいに甘えてくれなくても、私を必要としてくれなくても、あの子が幸せなら、それでよかったはずなのだ。なのに。もし、本当に八千年を過ごしていたのなら。彼方は、そんな当たり前の人生を送れたのだろうか。あの子は、八千年もの間、何を思って生きていたのだろう。私は、何も知らない。知らないまま、幸せになっていた。
かぐやが帰ってきたと喜んで、もう一度一緒に生きていけるのだと笑っていた。その幸せのために、妹が何かを失っていたかもしれないなんて、考えもしなかった。そして、もう一つ。どうしても考えたくないことがあった。八千年を生きたヤチヨは、私の知っているかぐやとは随分変わってしまっていた。
昔は、嬉しければ笑って、悲しければ泣いて、寂しくなれば遠慮なく甘えてきた。そんな子だったのに、今では自分のつらさを笑顔で隠すようになってしまった。それでも、ヤチヨはかぐやだった。声も、仕草も、ふとしたときに見せる表情も。変わってしまったところはたくさんあるけれど、昔のあの子が確かに残っていた。でも、彼方は?
もし、あの子も八千年を生きていたのなら。私が知っている彼方は、どれほど残っているのだろう。八千年。それは、私たちが一緒に過ごした時間よりも、あまりにも長い。彼方が生まれてから、私たちはずっと姉妹だった。小さい頃には一緒に遊んだし、喧嘩だってした。
泣いているあの子を慰めたこともあれば、鬱陶しくなって突き放したこともあった。私にとっては、忘れられない思い出ばかりだった。でも、八千年という時間の前では。そんな思い出さえ、ほんの一瞬でしかないのではないだろうか。私が今でも覚えている彼方の笑顔を、彼方自身はもう覚えていないかもしれない。
私が大切にしている思い出を、あの子はとっくに忘れてしまっているかもしれない。それどころか。私のことだって。
「……っ」
喉が詰まった。考えたくなかった。あの子が私のことを忘れてしまっているかもしれないなんて。そんなの、考えたくもなかった。でも、もしそうだったら。私は、どうすればいいのだろう。久しぶりに会えた妹に、お姉ちゃんだよと名乗ればいいのだろうか。昔は仲がよかったんだよと、思い出を一つずつ話せばいいのだろうか。
あの子が何も覚えていなかったとしても、私が覚えているから大丈夫だと、笑ってあげればいいのだろうか。そんなことを考えて、ようやく気づいた。私は、彼方がお隣さんであることが怖いのではない。彼方がお隣さんだったときに、もう私の知っている妹ではなくなっているかもしれないことが、怖いのだ。
あの子が私を忘れてしまっていたら。私のことを、もうお姉ちゃんだと思ってくれていなかったら。それでも私は、あの子の姉でいられるのだろうか。
「……やだ」
小さく呟いた。自分でも、ひどいことを考えていると思った。彼方が無事でいてくれるなら、それだけでいいはずなのに。たとえ八千年を生きていたとしても、今こうして生きているなら、それを喜ぶべきなのに。私は、あの子が変わってしまっているかもしれないことばかり怖がっていた。結局、私は自分のことしか考えていないのだ。
妹が何を経験したのかよりも、妹が今も私を姉として見てくれるのかを気にしている。そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。そして、もっと嫌な想像が浮かんだ。もし、彼方がお隣さんだったとして。あの子が、すべて覚えていたとしたら。八千年もの時間を過ごしても、私のことを忘れずにいてくれたのだとしたら。
それなのに、今は私に会おうとしてくれないのだとしたら。それは、どういう意味なのだろう。忘れられている方が、まだよかったのかもしれない。覚えているからこそ、会いたくないのだとしたら。私には、どうすることもできない。
「……彩葉」
ヤチヨの声が聞こえた。顔を上げると、彼女は俯いたまま、自分の手を見つめていた。
「……ヤチヨね、嬉しかったんだ」
「……え?」
「kanaが彼方ちゃんだって分かって……ちょっとだけ、嬉しかったの」
ヤチヨは、震える声で続けた。
「だって、もし彼方ちゃんがお隣さんだったら……あの子、まだ生きてるかもしれないってことでしょ?」
「……うん」
「もう一回、会えるかもしれないんだよ。ずっと会いたかったあの子に、また会えるかもしれないの」
その声は、泣きそうなほど嬉しそうだった。私は何も言えなかった。
「……でもね」
ヤチヨは小さく首を振った。
「すぐに、怖くなっちゃった」
彼女は、自分の両手を見つめていた。少し前まで、私の手を握っては、あたたかいと喜んでいた手。八千年ぶりに温もりを感じて、子供みたいに泣きじゃくっていた、あの手。
「ヤチヨ、お隣さんが大好きだったんだよ」
「……うん」
「今だって大好き。ずっとずっと、大好きだった」
ヤチヨの声が震えた。
「でも、もし彼方ちゃんだったら……」
そこで、言葉が途切れた。しばらくして、彼女は小さく呟いた。
「……ヤチヨ、あの子から八千年も貰っちゃったんだね」
胸が痛んだ。
「最初はね、嬉しかったの。もう一人で泣かなくていいって言ってくれたから。ずっと隣にいてくれるって約束してくれたから」
ヤチヨは、少しだけ笑った。
「だから、甘えちゃった。何かあったらすぐ呼んで、困ったら助けてもらって、寂しくなったら一緒にいてってお願いして……」
その笑顔が、少しずつ崩れていく。
「……八千年もあったのに」
ぽつりと、声が落ちた。
「ヤチヨ、あの子が帰りたいって思ったことがあるのか、ちゃんと聞かなかった」
「……ヤチヨ」
「だって、お隣さんはいつも笑ってたんだもん」
ヤチヨは、泣きそうな顔で笑った。
「ヤチヨが彩葉に会いたいって言ったら、一緒に頑張ろうって。寂しいって言ったら、隣にいるよって。どんなときでも、ヤチヨのことを一番に考えてくれて……」
そこで、声が詰まった。
「……でも、彼方ちゃんにも、会いたい人がいたんだよね」
私は何も言えなかった。
「彩葉がいて、帝くんがいて、お母さんもいて……帰りたい場所が、ちゃんとあったんだよね」
「……うん」
「……そっか」
ヤチヨは俯いた。
「……そうだったんだ」
その声は、ひどく小さかった。
「ヤチヨ、あの子にずっと一緒にいてって言っちゃった」
涙が一粒、膝の上に落ちた。
「……八千年も」
私は、ヤチヨを抱きしめようとした。けれど、腕が動かなかった。私だって、同じことを考えていたから。もし彼方がお隣さんだったのなら、あの子は私たちのために八千年もの時間を過ごしていたのかもしれない。かぐやを一人にしないために。私たちをもう一度会わせるために。その間、あの子は何を失ったのだろう。何を諦めたのだろう。
何を、忘れてしまったのだろう。
「……ねえ、彩葉」
「……何?」
「ヤチヨ、今すぐお隣さんに会いたい」
私は頷いた。
「……うん」
「会って、いっぱいお話したい。聞けなかったことも、言えなかったことも、全部……」
ヤチヨは、そこで言葉を止めた。
「……でも」
小さな声だった。
「……会いたいって、言ってもいいのかな」
私は顔を上げた。ヤチヨは、泣いていた。
「もし彼方ちゃんだったら……あの子、やっと帰ってこられたんだよね」
「……うん」
「八千年も頑張って、やっと自分の時間に帰ってきたのに……」
ヤチヨは、自分の手を握りしめた。
「……またヤチヨが、そばにいてって言っちゃったら」
そこで、とうとう声が続かなくなった。私は息を呑んだ。ああ、そうか。ヤチヨは、怖いのだ。お隣さんが生きているかもしれないと分かって、嬉しくて仕方がない。今すぐ会いたくて、抱きしめたくて、二度と離したくない。でも、それを望むこと自体が、またあの人を縛ってしまうのではないかと。
八千年もの間、自分の願いに付き合ってくれた人に、今度は自分のために生きてほしいと言いながら、結局また隣にいてほしいと願ってしまう。そんな自分が、怖いのだ。
「……ヤチヨ、ひどい子だね」
彼女は小さく笑った。
「彼方ちゃんかもしれないって分かったのに……嬉しいって思っちゃった」
「……ヤチヨ」
「彩葉の妹なのに。八千年も家族と離れてたかもしれないのに……」
涙が、次々とこぼれていく。
「……それでも、会いたいの」
私は、何も言えなかった。
「……もう一回、抱きしめたい」
ヤチヨは自分の手を見つめた。
「今度は、ちゃんとあったかいって分かるから。ちゃんと触れられるから……」
そこで、彼女は顔を歪めた。
「……でも、あの子は?」
その一言に、胸が締めつけられた。
「……お隣さんは、どうだったんだろう」
ヤチヨの声が震えていた。
「八千年も一緒にいたのに……ヤチヨ、あの子が何を欲しかったのか、ちゃんと知らない」
私は、FUSHIに見せてもらった記憶を思い出していた。長い金色の髪をした少女。穏やかで、少し儚げで、いつもヤチヨの隣にいた人。あの人は、よく笑っていた。ヤチヨが嬉しそうにしていると、同じように嬉しそうに笑った。ヤチヨが困っていると、少し心配そうに眉を下げた。ヤチヨが泣いていると、何も言わずに寄り添っていた。
でも。私は、あの人自身が何かを望んでいる姿を、ほとんど見たことがなかった。ヤチヨが幸せなら、それでいい。そんなふうに、いつも笑っていた。そのことを、私は優しさだと思っていた。でも、もし彼方だったら。あの笑顔の裏に、どれほどの寂しさがあったのだろう。どれほど帰りたいと思ったのだろう。
どれほど、私たちに会いたかったのだろう。それとも。八千年も経つうちに、そんな気持ちさえなくなってしまったのだろうか。
「……ねえ、彩葉」
ヤチヨが顔を上げた。
「……彼方ちゃんって、彩葉のこと好きだった?」
私は、息を呑んだ。
「……え?」
「昔から、仲よかったの?」
その質問に、すぐには答えられなかった。好きだった。きっと、好きでいてくれた。小さい頃の彼方は、いつも私の後ろをついて回っていた。私が出かけようとすると一緒に行きたがって、置いていこうとすると泣いて、帰ってくると嬉しそうに駆け寄ってきた。私が褒めると、照れくさそうに笑った。私が怒ると、悲しそうに俯いた。
私のことを、ずっと
「お姉」
と呼んでいた。あの子は、私のことが大好きだった。そう思う。少なくとも、昔は。
「……うん」
私は、小さく頷いた。
「……昔は、ね」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。昔は。どうして、そんな言い方をしてしまったのだろう。今は違うと、認めているみたいじゃないか。けれど、否定することもできなかった。最後に会った日、私は彼方を追い返した。
『なんで、いるの?』
『用事は済んだでしょ、帰って』
あの子が何を話したかったのか、聞こうともしなかった。久しぶりに会いに来てくれた妹に、そんなことを言った。あの日の彼方の顔が、頭から離れなかった。何か言いたそうにしていた。けれど、結局何も言わずに、寂しそうに笑った。あの笑顔を思い出すたびに、胸が痛んだ。
あの子は、ただ私に会いに来てくれただけだったのかもしれない。久しぶりに顔を見て、少し話をして、昔みたいに笑いたかっただけなのかもしれない。なのに私は、その小さな願いさえ受け取ろうとしなかった。でも、もし。もし、彼方がお隣さんだったのなら。あの子は、私に追い返されたあと、かぐやと一緒に月へ行ったことになる。
そして、八千年もの時間を過ごした。あの日の彼方は、まだ私の知っている妹だった。昔から私の後ろをついて回って、何かあるたびに
「お姉」
と呼んでくれた、あの彼方だった。久しぶりに会いに来てくれたのに、私はろくに話も聞かずに追い返した。あの子がどんな気持ちで帰っていったのか、考えようともしなかった。そして、そのあと。彼方は、八千年もの時間を生きたのかもしれない。私にとっては、つい最近の出来事だった。今からでも謝れると思っていた。
もう一度会って、ちゃんと話せば、きっとやり直せると思っていた。でも、彼方にとっては違う。もし本当にお隣さんだったのなら、あの日はもう八千年も昔のことになっている。私が今でも後悔しているあの言葉を、彼方はまだ覚えているのだろうか。それとも、もう忘れてしまったのだろうか。どちらも、嫌だった。
覚えているのなら、あの子は私に拒絶された記憶を抱えたまま、八千年もの時間を生きてきたことになる。でも、忘れているのなら。私が謝りたいと思っているあの日のことも、一緒に過ごした日々も、彼方の中から消えてしまっているのかもしれない。そんなの、嫌だった。私はまだ、何も伝えられていない。あの日はごめんねって。
会いに来てくれて嬉しかったって。本当はずっと、大切な妹だったんだって。何一つ、伝えられていないのに。私が謝ることもできないまま、あの子だけが八千年もの時間を生きてしまったのだとしたら。今さら私が何を言ったところで、届くのだろうか。それに、もし彼方が私のことを覚えていたとしても。
八千年もの時間を過ごしたあの子にとって、私はもう、昔のように大切な存在ではなくなっているのかもしれない。私にとって彼方は、今でも大切な妹だった。でも、彼方にとって私は?八千年前に自分を追い返した、ただの姉になってしまっているのだろうか。それとも、もう思い出すことさえない、遠い昔の人になってしまったのだろうか。
「……っ」
息が詰まった。嫌だ。そんなの、嫌だ。あの子が私のことを忘れてしまっているかもしれないなんて、考えたくなかった。けれど、それ以上に怖いことがあった。もし、彼方がすべて覚えていたとしたら。私のことも、あの日のことも、全部覚えているのに、今はもう会いたいと思ってくれていないのだとしたら。
私は、どうすればいいのだろう。忘れてしまったのなら、もう一度思い出してもらえるかもしれない。でも、覚えているうえで、もう必要ないと思われているのなら。私には、どうすることもできない。あの日、私が彼方に言った言葉を思い出した。
『用事は済んだでしょ、帰って』
あのとき、彼方はどんな気持ちだったのだろう。そして、八千年後の彼方があの日を思い出したとき、私のことをどう思うのだろう。私は、あの子に何をしてしまったのだろう。
「……彩葉?」
ヤチヨが心配そうに顔を覗き込んできた。私は首を振った。
「……何でもない」
嘘だった。何でもなくなんて、なかった。今すぐ泣きたかった。彼方に会いたかった。あの子を抱きしめて、謝りたかった。でも、同時に。会うのが、怖かった。もし、本当にお隣さんだったら。あの子は、私のことを覚えているだろうか。覚えていたとして、まだ好きでいてくれるだろうか。
それとも、八千年もの時間を過ごして、もう私なんて必要なくなってしまったのだろうか。ヤチヨが、ぽつりと呟いた。
「……彩葉」
「……何?」
「……ヤチヨ、彼方ちゃんがお隣さんだったら、嬉しい」
私は顔を上げた。ヤチヨは、涙を流しながら続けた。
「……でも、彼方ちゃんじゃなかったらいいなって、ちょっと思っちゃった」
その言葉に、胸が痛んだ。
「だって……彼方ちゃんだったら、あの子、八千年も……」
最後まで言えなかった。私は、ヤチヨを抱きしめた。彼女は抵抗しなかった。ただ、私の胸元に顔を埋めて、小さく泣いていた。私たちは、同じ人のことを考えていた。けれど、願っていることは、きっと違っていた。ヤチヨは、お隣さんに会いたかった。私は、彼方がお隣さんではないことを願っていた。
ヤチヨにとって、彼方がお隣さんであることは、失った大切な人が生きているかもしれないという希望だった。私にとって、それは、妹が八千年もの時間を失ったかもしれないという絶望だった。どちらも、間違っていない。どちらも、大切な人の幸せを願っているだけなのだ。それなのに。どうして、こんなにも残酷なのだろう。
私は、ヤチヨの背中を撫でながら、心の中で何度も願った。どうか、違っていてほしい。彼方ではありませんように。あの子が、八千年もの時間を過ごしていませんように。今も、私の知っている彼方のままでいてくれますように。そして、その願いを抱くたびに、胸の奥が痛んだ。もし違っていたら。
お隣さんは、もう戻ってこないのかもしれない。ヤチヨは、もう一度あの人を失うことになるのかもしれない。私は、ヤチヨの幸せを願っていた。あの子を、今度こそハッピーエンドまで連れていくと決めた。なのに今、私は。ヤチヨが大切な人と再会できないことを、願ってしまっている。妹を守りたいという気持ちで。
かぐやの幸せを、否定してしまっている。そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。それでも。どうしても。彼方であってほしくなかった。あの子には、八千年なんて知らないままでいてほしかった。私の後ろをついて回っていた、あの小さな妹のままでいてほしかった。たとえ、それがもう叶わない願いだったとしても。
私は、そう願わずにはいられなかった。手の中のスマートフォンから、お兄ちゃんの声が聞こえていた。何度も私の名前を呼んでいる。私は慌ててスマートフォンに向き直った。
「……ごめん、お兄ちゃん」
『彩葉、大丈夫か? 何かあったんか?』
「……うん。ちょっと、話したいことがある」
私は一度、タブレットに映るヤチヨを見た。彼女は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……今から、会える?」
電話の向こうで、お兄ちゃんが少し驚いたような声を出した。
『……分かった。どこ行ったらええ?』
私は待ち合わせる場所を伝えて電話を切った。タブレットの中で、ヤチヨはじっと私を見つめていた。その視線を受け止めながら、私は祈るような気持ちで思った。どうか、違っていてほしい。彼方がお隣さんではなかったとしても、きっと別の疑問は残るだろう。
それでも、あの子が八千年もの時間を過ごしたという可能性だけは、どうしても受け入れたくなかった。私の知らないところで、妹がそんなに遠くへ行ってしまっていたなんて。考えたくなかった。私はタブレットを手に取り、ヤチヨと一緒に家を出た。画面の中の彼女は、いつもよりずっと小さく見えた。
--- お兄ちゃんと合流してから、私はこれまでに分かったことを一通り説明した。ヤチヨが八千年前の地球で出会ったお隣さんのこと。その人が八千年もの間、ずっとヤチヨのそばにいてくれたこと。そして、ツクヨミに残されていたログから、お隣さんと彼方の間に何らかの関係があるかもしれないという可能性にたどり着いたこと。
お兄ちゃんは途中で口を挟むことなく、最後まで私の話を聞いてくれた。普段なら冗談の一つでも言って場を和ませようとする人なのに、今は真剣な表情を崩さない。話し終えてもすぐには口を開かず、しばらく考え込んでいた。
「……正直、まだ信じられへんな。彼方が八千年前におって、ヤチヨちゃんと一緒に過ごしとったかもしれへんなんて」
「……うん」
「せやけど、そのコードを使うたんが彼方なんは確かなんやろ?」
タブレットの中で、ヤチヨが小さく頷いた。
「……うん。そこは間違いないと思う」
「……そっか」
お兄ちゃんは腕を組み、静かに息を吐いた。
「ただな、彩葉。まだ彼方がお隣さんやって決まったわけやない。何か事情があってコードを使うただけかもしれへんし、本人に聞かんことには分からへんやろ」
「……分かってる」
分かっている。まだ何も確定していない。彼方がお隣さんだったという証拠はないし、仮にそうだったとしても、どうして八千年もの時間を過ごしたのかは分からない。それでも、一度考えてしまった可能性を、なかったことにはできなかった。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……もし、本当に彼方だったら、どうしよう」
お兄ちゃんは黙って私を見つめた。
「……あの子、八千年も……」
それ以上、言葉が続かなかった。お兄ちゃんは少しだけ眉を下げた。
「……せやな。もしほんまやったら、俺らの想像もつかんようなことがあったんやろな」
「……うん」
「けど、彩葉。今ここで俺らが勝手に答え出しても、彼方の気持ちは分からへんよ」
その言葉に、私は俯いた。お兄ちゃんの言うことは正しい。けれど、正しい言葉を聞いたからといって、胸の苦しさが消えるわけではなかった。それまで黙っていたヤチヨが、ゆっくりと口を開いた。
「……帝くん」
「ん?」
「彼方ちゃんって、どんな子なの?」
お兄ちゃんは少し意外そうな顔をした。
「どんな子、か。せやなぁ……」
しばらく考え込んでから、懐かしそうに笑った。
「あいつは昔から、何でもようできる子やったな。勉強も運動も、ちょっと教えたらすぐ覚えてまうし。ゲームも強いで。SETUNAなんか、俺が本気でやっても負けることあるくらいや」
「……そうなんだ」
「せやけど、変なとこで寂しがり屋なんよ。昔は彩葉の後ろばっかりついて回っとったし、俺が東京行くときも、泣くん我慢しとったなぁ」
その言葉に、胸が痛んだ。私の知らない彼方の話ではなかった。むしろ、よく知っているはずの妹の姿だった。けれど、そんな話を聞くこと自体が、ひどく久しぶりだった。
「……優しい子、なんだね」
ヤチヨが小さく呟いた。
「そらもう。ちょっと優しすぎるくらいやな。自分がしんどくても、周りに心配かけんようにするところあるし」
お兄ちゃんは困ったように笑った。
「せやから、俺もついつい心配してまうんやけどな」
その言葉を聞いたヤチヨが、わずかに俯いた。私は彼女が何を考えているのか、何となく分かった。お隣さんも、そういう人だった。自分のことを後回しにして、ヤチヨのことばかり心配していた。何か困ったことがあれば、いつも先に手を差し伸べてくれた。自分がどれほど大変でも、相手を安心させるように笑っていた。
ただの偶然かもしれない。けれど、似ているところを見つけるたびに、胸の奥が苦しくなった。
「……彼方に聞いてみよう」
気づけば、そう口にしていた。スマートフォンを取り出し、彼方とのトーク画面を開く。そこには、以前送ったメッセージが残されていた。
『彼方、元気?』
『この前はごめん。少しだけでも話せないかな』
どちらにも既読はついていない。ヤチヨと再会してから、私は何度か彼方に連絡していた。最初はメッセージだけだったけれど、返事がないことが気になって電話もかけた。けれど、呼び出し音が続くだけで、一度も繋がらなかった。忙しいのかもしれない。私と話したくないのかもしれない。そう考えて、何度も連絡するのはやめていた。
何より、あの子が私に会いたくないと思っていたとしても、責められる立場ではなかった。
「……彼方、私の連絡に出てくれないんだよね」
ぽつりと漏らすと、お兄ちゃんがこちらを見た。
「……彩葉もか」
「え?」
思わず顔を上げる。お兄ちゃんは少し困ったように笑い、手元のスマートフォンを見つめた。
「俺も最近、彼方と連絡取れてへんのよ」
「……お兄ちゃんも?」
「うん。電話しても出えへんし、メッセージ送っても返事がない。最初は無理させん方がええと思っとったんやけどな」
その言葉が引っかかった。
「……無理?」
お兄ちゃんの表情が、わずかに強張った。
「……ああ」
「彼方、何かあったの?」
お兄ちゃんはすぐには答えなかった。何かを言いかけて口を閉じ、少し考えるように視線を落とす。その反応だけで、私の知らない何かがあったのだと分かった。
「……お兄ちゃん?」
「彩葉。ちょっと聞いてほしいことがあるんやけど、ええか?」
「……うん」
いつになく慎重な声だった。
「先に言うとくけど、俺もお母さんも、彩葉に隠し事したかったわけやないんよ」
「……どういうこと?」
「彼方から頼まれとったんや。彩葉には言わんといてほしいって」
胸の奥が、ひやりと冷たくなった。私には言わないでほしい。その言葉だけで、いくつもの嫌な想像が頭をよぎった。彼方が私を頼りたくないと思っていることは、なんとなく分かっていた。それでも、お兄ちゃんやお母さんには話せることを、私にだけ隠しているのだと思うと、どうしても胸が痛んだ。
「……何を?」
ようやく絞り出した声に、お兄ちゃんは静かに答えた。
「……彼方な、入院しとったんよ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
「体調を崩してな。しばらく入院しとったんや」
「入院……?」
頭の中が真っ白になった。
彼方が入院していた。
あの子が。
私の知らないところで。
「……いつから?」
お兄ちゃんが答えた時期を聞いて、私は言葉を失った。
その頃、私は何をしていただろう。
ヤチヨと再会できたことが嬉しくて、八千年の話を聞いて、これからどうすれば一緒にいられるのかを考えていた。
お隣さんがまだ生きているかもしれないと分かったときには、ヤチヨと一緒に喜んだ。
その人を見つけたいと、心から願った。
けれど、その間。
彼方は、病院にいたのだ。
「……どうして」
喉が詰まった。
「どうして、教えてくれなかったの?」
責めるつもりなんてなかった。
けれど、口から出た言葉は、自分でも嫌になるほど責めるような響きをしていた。
お兄ちゃんは怒らなかった。
ただ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめんな、彩葉。彼方が自分から頼んできたんよ。彩葉には言わんといてほしいって。お母さんにも同じこと言うとった」
「……彼方が?」
「うん。せやから、俺らもあいつの気持ちを尊重しようと思ったんや」
私は何も言えなかった。
彼方がそう望んだのなら、お兄ちゃんもお母さんも、簡単には約束を破れなかったのだろう。二人が私を嫌って隠していたわけではないことくらい、分かっている。
それでも、どうして私には言ってくれなかったのだろう。
どうして、あの子が苦しいときに、私は何も知らずにいたのだろう。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……彼方が入院したのって、九月十二日のあと?」
お兄ちゃんは、少しだけ驚いたように私を見た。
「……せやけど、それがどないしたん?」
その瞬間、背筋が冷たくなった。
九月十二日。
かぐやが月へ帰った日。
彼方のアカウントで、あのコードが使われた日。
そして、その日を境に、kanaというプレイヤーは一時ログインをしなくなり。同時期に彼方が入院した
偶然かもしれない。
ただの偶然なのかもしれない。
けれど、もし。
もし、本当に彼方がお隣さんだったのなら。
あの子は、八千年もの時間を過ごしたあとで、この時代へ帰ってきたのではないだろうか。
そして、帰ってきた彼方は。
「……っ」
息が詰まった。
考えたくなかった。
けれど、どうしても考えてしまう。
八千年。
そんな時間を過ごして、何も変わらずにいられるはずがない。
ヤチヨでさえ、あんなに変わってしまったのだ。
だったら、彼方は。
あの小さな妹は。
いったい、どれほど変わってしまったのだろう。
「……彩葉?」
お兄ちゃんの声が遠く聞こえた。
私は答えられなかった。
そのとき、タブレットの中から、小さな声が聞こえた。
「……彩葉」
ヤチヨだった。
顔を上げると、彼女は青ざめた顔でこちらを見ていた。
「……もしかして」
その声が震えていた。
「……お隣さんが、消えちゃったのって……」
そこで言葉が途切れた。
けれど、何を言おうとしているのかは分かった。
お隣さんが消えたこと。
彼方が九月十二日を境にツクヨミから姿を消したこと。
そして、彼方が入院していたこと。
それらが、本当に繋がっているのだとしたら。
私は、どうすればいいのだろう。
「……やだ」
ヤチヨが小さく呟いた。
「……やだよ、そんなの」
彼女は首を横に振った。
「……ヤチヨ、知らなかった。お隣さんが消えちゃったあと、どうなったのかなんて……」
その瞳から、涙がこぼれた。
「……もし、彼方ちゃんだったら……もし、あのあとずっと苦しんでたんだったら……」
ヤチヨはそこで口を閉じた。
しばらくして、かすれた声で呟いた。
「……ヤチヨ、何にも知らないで、彩葉と会えて喜んでたんだね」
その言葉に、胸が締めつけられた。
私も、同じだった。
かぐやと再会できたことが嬉しかった。
ヤチヨが笑ってくれることが嬉しかった。
これから一緒に生きていけるのだと思うと、幸せで仕方がなかった。
けれど、その間。
彼方は。
私たちの知らない場所で、一人で苦しんでいたのかもしれない。
私たちが喜んでいた、まさにそのときに。
「……私のせい、なのかな」
気づけば、そう呟いていた。
お兄ちゃんが何か言おうとした。
けれど、私は止まれなかった。
「……私が、かぐやに会いたいなんて思ったから……」
「彩葉、それは……」
「……私が、あの子に……」
言葉が続かなかった。
彼方が八千年を過ごした理由なんて、まだ分からない。
私のためだったなんて、決まったわけではない。
それでも、もしそうだったら。
私は、妹に八千年もの時間を背負わせておいて、そのことに気づきもしなかったことになる。
あの子がどれほど苦しんだのかも知らずに、自分だけ幸せになろうとしていたことになる。
「……ごめん」
小さく呟いた。
「……ごめん、彼方……」
返事なんて、あるはずがなかった。
それでも、謝らずにはいられなかった。
あの日、玄関先で帰れと言ったこと。
あの子の話を聞かなかったこと。
そして、もし本当に八千年もの時間を過ごしていたのなら、そのことにさえ気づいてあげられなかったこと。
何もかもが、取り返しのつかないことのように思えた。
私は、彼方のお姉ちゃんなのに。
あの子が小さい頃から、ずっとそう呼んでくれていたのに。
私は、あの子のことを何も知らない。
八千年もの間、どんな思いで生きてきたのかも。
どうして私に会おうとしないのかも。
そもそも、本当に彼方がお隣さんだったのかさえ。
何一つ、分からない。
ただ一つ分かるのは、今、私の妹が、私たちの前から姿を消しているということだけだった。
「……彩葉」
お兄ちゃんが、静かに私の名前を呼んだ。
私は顔を上げられなかった。
「……まだ、何も決まったわけやないやろ」
「……でも」
「彩葉が彼方のこと心配しとるんは分かる。ヤチヨちゃんも、そら不安やと思う。せやけど、今ここで自分らを責めても、彼方が何を考えとるんかは分からへんよ」
お兄ちゃんの声は穏やかだった。
けれど、その表情には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
お兄ちゃんだって、平気なわけがない。
彼方が八千年を過ごしたかもしれないという話を聞かされて、そのうえ今は連絡すら取れないのだから。
「……今は?」
私はようやく顔を上げた。
「彼方、今は大丈夫なの? もう退院したの?」
お兄ちゃんは少しだけ視線を伏せた。
「……最後に会うたときも、まだ体調はようなかった。せやけど、それから連絡が取れてへんから、今どうしとるんかは俺にも分からへん」
「……分からない?」
「さっきも言うたやろ。俺も連絡取れてへんのよ」
その言葉が、胸に重くのしかかった。
お兄ちゃんは昔から、彼方のことをよく気にかけていた。あの子が熱を出せば必要以上に心配するし、少し元気がないだけでもすぐに気づく。彼方もそんなお兄ちゃんにはよく懐いていて、何かあると真っ先に頼っていた。
そんな二人が、今は連絡すら取れていない。
「……お兄ちゃんも、心配だよね」
「……そら、心配やで」
お兄ちゃんは苦笑した。
「正直、今すぐ顔見に行きたいくらいや。でも、あいつにも何か考えがあるんかもしれへんしな。俺が焦っても、彼方を困らせるだけかもしれへん」
そう言ってから、お兄ちゃんは小さく息を吐いた。
「……せやけど、心配せんでええとは言われへんな。連絡つかへん以上、ちゃんと確かめなあかんと思っとる」
私は小さく頷いた。
今すぐ会いに行きたかった。あの子の顔を見て、無事なのか確かめたかった。そして、もし本当にお隣さんだったのなら、八千年のことを聞きたかった。
けれど、彼方は私に入院していたことさえ知らせたくなかったのだ。
そんなあの子に、今さら何を聞けばいいのだろう。
どうして教えてくれなかったの。
どうして一人で抱え込んだの。
どうして私を頼ってくれなかったの。
そんな言葉ばかりが浮かんできて、そのたびに自分が嫌になった。
彼方と最後にきちんと話したのはいつだっただろう。そう考えると、思い浮かぶのは会話の内容よりも、いつも自分が何かに追われていたという感覚だった。学校のこと、生活のこと、かぐやのこと。目の前の問題を片づけるので精いっぱいで、彼方から連絡が来ても、あとで返せばいいと思うことがあった。
もちろん、いつも冷たくしていたわけではない。くだらない話をしたこともあるし、妹が何かに夢中になっている様子を聞いて、笑ったことだってある。だから私は、姉妹の関係がそこまで悪くなっているとは思っていなかった。少しくらい距離ができても、家族なんだから、またいつでも元に戻れる。そう思っていた。
その
「いつでも」
が、どれほど身勝手な言葉だったのか。今なら分かる。私がいつでも戻れると思っていた場所に、彼方も同じように戻りたいと思っていたとは限らない。私は自分の都合で距離を取っておきながら、必要になった途端、昔と同じように妹が迎えてくれることを期待していたのかもしれない。
彼方は昔から、私に対して妙に遠慮するところがあった。何かを頼む前に、今忙しい、と聞いてくる。私が少しでも困った顔をすると、何でもないと笑って引き下がる。その気遣いを、私は優しい子だからだと受け取っていた。でも、もしかしたら違うのだろうか。私が断る前から、断られる準備をさせてしまっていたのだろうか。
考え始めると、記憶の中の何気ないやり取りが、ひとつずつ別の意味を持ち始めた。あのときもっと話を聞いていれば。あのとき急がずに返事をしていれば。そんな仮定に意味がないことは分かっている。それでも、思い出すのをやめられなかった。
私は、彼方に謝りたいのだと思う。けれど、謝ることさえ自分のためになってしまうのが怖かった。ごめんねと言えば、少しは楽になれるだろう。許してもらえれば、なおさら。でも、彼方が私を許すかどうかは、彼方が決めることだ。私が楽になるために、あの子に何かを求めてはいけない。
もし会えたら、まず何を聞こう。元気だった、と尋ねるだけでいいのかもしれない。私に話したくないことがあるなら、それを無理に聞き出すつもりはないと伝えたい。けれど、それすらも、私が思い描いた理想の姉の振る舞いでしかないのかもしれない。
結局、会ってみなければ分からないのだ。彼方がどんな顔をするのか。私を見て、何を思うのか。声をかけてくれるのか、それとも目を逸らすのか。怖くて仕方がなかった。それでも、怖いからといってまた何もしなければ、私は同じことを繰り返すだけだ。
私は、彼方が頼れる姉だっただろうか。
あの子が困ったとき、真っ先に会いたいと思えるような姉だっただろうか。
最後に会った日、私は彼方を追い返した。
その事実だけで、答えは十分な気がした。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「私、彼方に会いに行きたい」
お兄ちゃんは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……彼方に?」
「うん。今どこにいるのか、お母さんに聞いてみる。分かったら、会いに行くつもり」
そう言うと、お兄ちゃんはすぐには答えなかった。私の顔を見つめ、何かを考えるように少しだけ視線を落とす。
「……彩葉。彼方が会いたくない言うたら、どないするん?」
「それでも行く」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
今までなら、きっと躊躇っていたと思う。彼方が私に会いたくないと思っているのなら、その気持ちを尊重しなければならない。私には、あの子に会いたいとわがままを言える資格なんてない。そうやって自分に言い聞かせて、また何もしないまま時間だけが過ぎていったのだろう。
けれど、もうそんなことは言っていられなかった。
「嫌われてもいい。怒られてもいい。帰れって言われたって、今度は簡単に帰るつもりない」
「……彩葉」
「だって、おかしいじゃん」
気がつけば、声が大きくなっていた。
「入院してたんだよ? 私たちが知らないところで、彼方はずっと苦しんでたかもしれないんだよ? なのに、今はお兄ちゃんにまで連絡しなくなって、どこで何してるのかも分からない。それなのに、本人が話したくないかもしれないからって、何もしないで待ってるの?」
お兄ちゃんは何も言わなかった。ただ、静かに私の話を聞いていた。
「……私、そんなの嫌だ」
膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめた。
「彼方が何を考えてるのか、ちゃんと聞きたい。どうして入院してたのかも、どうして誰にも連絡しなくなったのかも。八千年のことだって、もし本当に彼方がお隣さんだったなら、全部聞きたい」
そこで一度、言葉を切った。
自分がどれほど無茶なことを言っているのかは、分かっていた。彼方には彼方の事情がある。私たちに話したくないことだってあるだろう。そもそも、八千年の記憶とあの子が本当に関係しているのかさえ、まだ分かっていない。
それでも、知りたかった。
今の彼方が、何を抱えているのか。どうして、私たちから離れようとしているのか。そして、どうして私にだけ、入院していたことを知らせたくなかったのか。
「……私、もう何も知らないままでいたくない」
あの日のことを思い出す。
久しぶりに会いに来てくれた彼方を、私は追い返した。何を話したかったのかも聞かず、どうして来てくれたのかも考えず、ただ自分の都合だけで帰れと言った。
あのとき、彼方は何も言い返さなかった。ただ、寂しそうに笑っていた。
あの日のことは、思い出そうとしなくても勝手に浮かんでくる。
玄関の前に立っていた彼方。久しぶりに会った妹に、何を言うべきか分からなかった自分。かぐやとの暮らしを守りたくて、踏み込まれるのが怖くて、私は彼方がそこへ来た理由を考えることさえしなかった。
もしあのとき、あと一分だけ話していたら。どうして来たの、と普通に尋ねていたら。部屋に上がってもらって、お茶でも飲みながら近況を聞いていたら。考えたところで、もう答えは出ない。あの日の私は、そうしなかったのだから。
彼方は昔から、私の顔色をよく見ていた。私が機嫌を損ねると、何か言いかけて口を閉じることがあった。そんなとき私は、別に怒ってないし、と言って済ませていた。言わなくても伝わると思っていたし、姉妹なんだからそのくらい分かるだろうと甘えていた。
でも、今になって思う。あの子が私に何も言わなかったのは、本当に話したいことがなかったからだろうか。
私が聞かなかっただけじゃないのか。
問いかける相手のいない疑問ばかりが増えていく。彼方に会えば答えが出るのかもしれない。けれど、会ったからといって、あの子が話してくれるとは限らない。私にはその当たり前のことが、ひどく怖かった。
妹のことを知っているつもりだった。好きなものも、苦手なものも、笑い方も、泣き方も。だけど今、私が思い浮かべられる彼方は、いつだって昔の姿ばかりだった。
それは、今の彼方を見てこなかったということなのだろう。
私は、あの顔を忘れられない。
「……あの日、私が彼方に帰れって言ったんだよ」
声が震えた。
「だから、今度は私が帰れって言われる番なのかもしれない。それでもいい。何回だって会いに行く。あの子が何を抱えてるのか、ちゃんと話してくれるまで、私は諦めたくない」
「……そっか」
お兄ちゃんは小さく頷いた。
「でもな、彩葉。彼方にも、話したくないことはあると思うで」
「分かってる」
「無理に聞き出そうとしたら、余計に傷つけてしまうかもしれへん」
「……それも、分かってるよ」
私は俯いた。
分かっている。私が今しようとしていることは、彼方にとって迷惑なのかもしれない。せっかく距離を置こうとしているのに、今さら姉の顔をして押しかけてくるなんて、勝手にもほどがある。
でも、だからといって、何もしないでいることが正しいとは思えなかった。
あの子が元気で、毎日を楽しく過ごしているのなら、私だってこんなことは言わなかったと思う。彼方が私と距離を置きたいのなら、寂しくても受け入れようとしただろう。
けれど、今は違う。
入院していたことさえ知らなかった。今どこにいるのかも、どんな生活をしているのかも分からない。お兄ちゃんにまで連絡しなくなった理由も、何一つ分かっていない。
そんな状況で、どうして安心して待っていられるのだろう。
「……でも、心配なんだもん」
小さな声がこぼれた。
「彼方が今もどこかで苦しんでるかもしれないって思ったら、もうじっとしてられないよ」
私は顔を上げた。
「嫌われたっていい。もうお姉ちゃんなんて呼びたくないって言われてもいい。でも、あの子が一人で何かを抱えてるなら、今度こそちゃんと向き合いたい」
お兄ちゃんはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いて笑った。
「……ほんま、頑固やなぁ」
「……悪い?」
「いや。誰に似たんやろなって思っただけや」
そう言って、お兄ちゃんは私の頭を軽く撫でた。
「分かった。一緒に行こか」
「……お兄ちゃん」
「俺も彼方のこと心配やしな。それに、彩葉一人で行かせたら、何するか分からへんし」
「……何それ」
「そのまんまの意味やで」
お兄ちゃんは少しだけ笑ってから、真剣な表情に戻った。
「せやけど、ひとつだけ約束してな。彼方の話を聞きたいんは俺も同じや。でも、俺らが知りたいことより、まずはあいつが今どうしとるんかを大事にしよ」
「……うん」
「会いに行くんはええ。けど、あいつがしんどそうにしとったら、ちゃんと休ませたらなあかん。話を聞くんは、それからでもできるやろ?」
その言葉に、私はゆっくり頷いた。
私だって、彼方を苦しめたいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。今のあの子が、何を考えているのか。どうして、私たちから離れようとしているのか。そして、もし本当に八千年もの時間を過ごしてきたのなら、その間に何があったのか。
私の知らない彼方を、ちゃんと知りたかった。
「……ヤチヨも、行っていい?」
それまで黙っていたヤチヨが、小さく手を挙げた。
画面の中の彼女は、いつになく真剣な表情をしていた。
「……ヤチヨ?」
「ヤチヨも、彼方ちゃんに会いたい。もしお隣さんだったら、聞きたいことがいっぱいあるから」
そこで、ヤチヨは少しだけ寂しそうに笑った。
「……どうして、何も言わずにいなくなっちゃったのか。どうして、今も会いに来てくれないのか。ちゃんと聞きたいんだ」
私は静かに頷いた。
「……うん。一緒に行こう」
「……いいの?」
「当たり前でしょ。ヤチヨだって、ずっと探してたんだから」
ヤチヨは嬉しそうに笑った。
けれど、その笑顔はどこか頼りなくて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「……ありがと、彩葉」
私は何も言わずに頷いた。
もし本当に彼方がお隣さんだったのなら、ヤチヨは八千年もの間、ずっと一緒に過ごしてきた大切な人と再会できることになる。
でも、それは同時に、私の妹が八千年もの時間を生きてきたということでもあった。
正直、まだ信じられなかった。
あの小さかった彼方が、八千年も生きてきたなんて。
私の後ろをついて回って、置いていかないでと泣いていたあの子が、そんな途方もない時間を過ごしてきたなんて。
考えれば考えるほど、現実味がなくなっていく。
それでも、もし本当だったのなら。
私は、何を言えばいいのだろう。
八千年もの時間を生きてきた妹に、今さら姉として何ができるのだろう。
そんな不安が、胸の奥に広がっていった。
私の知っている彼方は、もうどこにもいないのかもしれない。
あの頃のように私の後ろをついてきてくれることも、甘えてくれることも、もうないのかもしれない。私のことを姉だと思ってくれているのかさえ、分からなかった。
けれど、ふと思った。
それは、ヤチヨだって同じだったのではないだろうか。
八千年もの時間を生きてきたヤチヨは、私の知っているかぐやとは随分変わってしまった。昔のように何でも素直に話してくれるわけではない。悲しいことを笑い話に変えてしまうし、つらいことがあっても、私に心配をかけまいとする。
それでも、あの子はかぐやだった。
私が好きになった、あのかぐやだった。
変わってしまったところも、変わらなかったところも、全部ひっくるめて、今のヤチヨなのだ。
だったら、彼方だって同じだ。
たとえ私の知っている彼方とは、まったく違う子になっていたとしても。
私は、あの子のことを知りたい。
何が好きで、何が嫌いで、どんなことを考えているのか。何を大切にして、何を失って、どうして今、私たちから離れようとしているのか。
知らないことがあるのなら、これから知っていけばいい。
話してくれないのなら、話してくれる日が来るまで、何度でも向き合いたい。
たとえ、拒絶されたとしても。
私はもう、あの子から目を逸らしたくなかった。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「お母さんに、連絡してくれる?」
「……彼方のことやな?」
「うん。今どこにいるのか、知ってるかもしれないから」
「分かった。聞いてみるわ」
お兄ちゃんはそう言って、スマートフォンを取り出した。
その姿を見ながら、私はもう一度、彼方とのトーク画面を開いた。
相変わらず既読はついていない。
何を書けばいいのか迷い、何度も文字を打っては消した。
謝りたい。会いたい。心配している。
伝えたいことはたくさんあったけれど、今の彼方にそのすべてを一度に押しつけるのは違う気がした。
だから、短いメッセージを一つだけ送った。
『彼方、入院してたこと聞いたよ。知らなくてごめん。心配してるから、今どうしてるのかだけでも教えてほしい』
送信したあと、しばらく画面を見つめていた。
当然、返事はなかった。
画面には、私が送った言葉だけが残されている。
彼方からの返事を待つことには、もう慣れてしまっていた。最初の頃は、通知が鳴るたびに期待していた。もしかしたら彼方かもしれない。ようやく返事をくれたのかもしれない。そう思って画面を確認しては、違う相手からの連絡だったことに落胆する。その繰り返しだった。
けれど、今は事情が違う。
彼方が入院していたことを知ってしまった。
しかも、お兄ちゃんでさえ、今のあの子がどうしているのか分からないという。
そんな状況で、ただ返事を待ち続けることなんてできなかった。
私はしばらく画面を見つめてから、静かにスマートフォンを閉じた。
あの日、私は彼方に帰れと言った。
何も聞かずに、あの子を追い返してしまった。
だから、今度は私が会いに行く。
もし帰れと言われたら、謝ろう。それでも会いたくないと言われたら、どうしてなのか聞こう。何も話してくれなかったとしても、そこで全部終わりにするつもりはなかった。
もう一度、あの子と向き合いたい。
それが私のわがままだということくらい、分かっている。
きっと、彼方には迷惑をかけるだろう。せっかく距離を置こうとしているのに、今さら私が会いに行ったところで、喜んでくれる保証なんてどこにもない。
それでも、私は行く。
あの子がどれほど遠くへ行ってしまっていたとしても。
どれほど変わってしまっていたとしても。
たとえ、もう私のことを必要としていなかったとしても。
私は、彼方のお姉ちゃんなんだから。
今度こそ、あの子が何を抱えているのか、ちゃんと聞きたい。
そして、もし一人で苦しんでいるのなら。
今度こそ、その隣にいてあげたかった。
ただ、そのときの私は、まだ考えてもいなかった。
八千年もの時間を過ごした彼方が、私たちとの再会をどう思っているのか。
私たちが会いたいと願うことが、あの子にとって何を意味するのか。
そして何より。
私がもう一度会いたいと願っている妹が、今も私の知っている酒寄彼方でいてくれるとは限らないということを。
私は、まだ知らなかった
次回 覚悟ガンギマリ彼方vs覚悟ガンギマリ彩葉vsダークライ
今回はボリューム2倍曇らせも2倍最高やな!!
次の投稿は期間空くのでできるだけこの話で曇らせを摂取しといてください