お姉は私が嫌い   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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やっぱりさ曇らせっていいよね。
曇らせ要素がある漫画でダイヤモンドの功罪と言う野球漫画読み始めました。神漫画なので皆さんも呼んでください。






10話

 

 

 

 

side 酒寄彩葉

 

 私は、彼方に会いに行くことにした。

 

 九月十二日。かぐやが月へ帰ったあの日、ツクヨミでは高度な認識阻害のコードが使用されていた。そのコードを使用したプレイヤーの名前は、kana。彼方のプレイヤーネームだった。

 

 そして、彼方はあの日を境に体調を崩し、入院していた。偶然かもしれない。彼方がツクヨミで何をしていたのか、私には分からない。けれど、どうしても考えてしまう。

 

 もし、彼方がお隣さんだったとしたら。

 

 もし、あの子が八千年もの時間を生きて、この時代へ帰ってきたのだとしたら。

 

 八千年。

 

 私は、その時間がどれほど長いものなのかを知っている。ヤチヨの記憶を見たからだ。見知らぬ土地で、自分の身体さえ持たず、誰にも声が届かないまま過ごした時間。

 

 何かを見つけても分かち合う相手がいない孤独。そこへ現れたのが、お隣さんだった。

 

 名前も教えてくれなかったという、不思議な人。話しかければ返事をくれる。困ったときには一緒に考えてくれる。何かを見つければ、共に喜んでくれる。

 

 その存在がヤチヨにとってどれほど大きな救いだったのか、私は知っている。

 

 けれど、二人で過ごしたからといって、八千年が短くなるわけではなかった。時代が変わり、国が生まれ、滅びていく。

 

 親しくなった人々は歳を取り、やがていなくなる。昨日まで当たり前だった景色が、いつしか歴史の一部になっていく。

 

 ヤチヨは、その旅を明るく語ってくれた。でも私は、あの子が語らなかった苦しみも、記憶の中で見た。その隣に、ずっとお隣さんがいたことも。

 

 もし、その人が彼方だったとしたら。

 

 私の妹は、私の知らないところで、そんな時間を生きていたことになる。そう思った途端、息の入れ方が分からなくなった。

 

 妹はいつも、私の後ろを歩いていた。人混みではぐれないように、小さな手で私の袖をつかんで。その手の温度を、私は覚えている。

 

 覚えているのに、そこに八千年という数字を重ねようとすると、頭が拒否する。想像したくない。想像しないでいる自由が、まだ私にはあると思っていた。

 

 けれど、想像しないことは、あの子の時間を「なかったこと」にすることと同じだ。それに気づいてしまった以上、目を逸らし続ける自分のことを、好きではいられなかった。考えたくなかった。

 

 彼方には学校に通って、友達と笑って、好きなことを見つけて、自分の未来を選んでほしかった。大切な人との別れを何度も繰り返してほしかったわけじゃない。

 

 だから、お隣さんが彼方ではありませんようにと願ってしまう。

 

 ヤチヨを支えてくれた人には、心から感謝している。それなのに、その人が彼方かもしれないと考えると、素直に喜べなくなってしまう。

 

 もし本当に彼方だったのなら、あの子は私とかぐやを再会させるために八千年もの時間を過ごしたのかもしれない。

 

 そんなこと、頼んだ覚えはない。望んでいたわけでもない。けれど、彼方が自分の意思で選んだのなら、その選択を否定することもできない。私は、あの子が何を考えていたのか、何も知らなかった。

 

 知らなかった、という言葉は、言い訳にしかならない。

 

 あの子はずっと、サインを出していたのかもしれない。電話の声の弾みが少し足りなかった日。送られてきたメッセージが、いつもより短かった夜。私はそのどれにも、「忙しそうだな」としか思わなかった。

 

 姉だから気づけたはずだ、と言うつもりはない。けれど、気づこうとしなかったのは事実だった。私は私の生活を守るので精一杯だった。バイトと、家賃と、学校と。

 

 そう言い聞かせるたびに、胸の奥で小さな声がした。――それは、本当にそれだけ?

 

 実家から逃げた私が、実家に残った妹の痛みを知らないのは、当たり前だ。その当たり前に、今になって足をすくわれている。

 

 かぐやが月へ帰ってしまう少し前、アパートに来てくれた彼方。久しぶりに会えた妹に、私は何と言っただろう。

 

 あの日のことは、思い出そうとしなくても勝手に浮かんでくる。バイトから帰って、いつものように鍵を回した。

 

 「ただいま」と言いながら扉を開けると、玄関に妹が立っていた。靴に足を入れたまま、彼方は固まっていた。部屋の奥からは、かぐやの声が聞こえた。

 

 私がいない間に、二人は話していたのだろう。私の知らない話で、私の知らない顔で。

 

 それを思った瞬間、胸の奥で何かがざらりと動いた。かぐやとの暮らしは、私が必死で守ってきたものだった。

 

 そこへ誰かが踏み込んでくるのが怖くて、たとえ妹でも、その子がこの部屋にいるだけで、私は落ち着いていられなかった。

 

 だから、あんな言葉が出た。

 

 あのときの私は、疲れていた。それは本当だ。けれど、疲れていたから許される言葉ではなかった。言い終えた瞬間、後悔の予感は確かにあった。

 

 あった、のに、口は止まらなかった。傷つけた、と分かる。分かるのに、謝る言葉が出てこない。そのまま、扉は閉まった。

 

 あの音を、私は何度も夢で聞いた。

 

『なんで、いるの?』

 

 二度、そう言った。彼方は、少しでも会いたくて、と小さな声で答えた。

 

『そうなら、もう用事は済んだでしょ』

 

『帰って』

 

 何をしに来たのかも、どんな気持ちで会いに来てくれたのかも聞かなかった。ただ、自分の事情だけで追い返した。あのとき、彼方は何か言いたそうにしていた。

 

 けれど結局、「ごめんなさい」と繰り返して、無理に笑って出ていった。あの無理に作った笑顔だけが、今も頭から離れない。

 

 あの子は、何を言おうとしていたのだろう。近況を話したかったのかもしれない。かぐやのことを聞きたかったのかもしれない。それとも、もっと別の、私に言えずにいた何かがあったのかもしれない。

 

 あのとき、あと一分だけ待っていたら。どうしたの、と普通に尋ねていたら。そんな仮定に意味がないことは分かっている。それでも、考えずにはいられなかった。そんな「もしも」を、何度繰り返しただろう。

 

 考えても何も変わらないと知っている。それでも、夜、布団の中で目を閉じると、あの玄関の景色だけが、ぴたりと止まって浮かんでくる。靴を履いたままの足。握りしめた指。笑おうとして歪んだ口元。

 

 あのとき一歩踏み出していれば、と思うたびに、一歩の距離が、少しずつ遠くなっていく気がした。スマートフォンを開く。

 

『彼方、入院してたこと聞いたよ。知らなくてごめん。心配してるから、今どうしてるのかだけでも教えてほしい』

 

 既読はついていなかった。お兄ちゃんがお母さんに連絡を取ってくれて、彼方の居場所は分かった。もう退院して、今は実家で休んでいるらしい。

 

 どこにいるのかも分からない、という最悪の想像だけは外れた。けれど、それで安心できたわけではなかった。

 

 彼方は、もう私と話したくないのかもしれない。

 

 それでも、会いに行く。

 

 口の中で小さく繰り返すと、少しだけ背筋が伸びた。決めたのに、決めたはずなのに、夜になると何度も心が揺らぐ。大丈夫だと言い聞かせた直後に、本当にそうだろうか、と別の私が問い返してくる。

 

 その繰り返しで、気づけば窓の外が薄青くなっていた。

 

 揺らぐのは、弱いからではない。そう言ってくれたのは、誰だっただろう。大事なものほど、手を伸ばすときに震えるのだと。震えたままでもいい。震えたまま、行こう。

 

 もし本当に彼方がお隣さんだったとしても。八千年を生きて、昔のことを忘れてしまっていたとしても。性格も、話し方も、何もかも変わってしまっていたとしても。

 

 私は、あの子を受け入れる。昔と同じである必要なんてない。私の知っている彼方に戻ってもらう必要もない。

 

 私が会いたいのは、昔の彼方だけじゃない。今、ここにいる彼方だ。私を忘れてしまったなら、もう一度知ってもらえばいい。

 

 昔のように話せないのなら、今の彼方と話せばいい。もう「お姉」と呼んでくれなくても、それで構わない。

 

 もちろん、私が受け入れると決めたからといって、彼方が私を許してくれるとは限らない。

 

 それでも、私はあの子を拒絶しない。

 

 あの日のように、帰ってなんて言わない。どんな真実を知らされても、ちゃんと受け止める。そう決めた。昨夜、ヤチヨと話した。彼方に会いに行くと伝えると、ヤチヨは長いこと黙っていた。画面の中で、膝を抱えるようにして。

 

『……ヤチヨも、行っていいんだよね』

 

 念を押すような声だった。うん、と答えると、彼女は少しだけ笑った。

 

『ヤチヨね、ちゃんと聞きたいんだ。でも、ヤチヨが先に出ていったら、彼方ちゃんをびっくりさせちゃうから』

 

 その声は、八千年分の想いを抱えているにしては、ひどく小さかった。彼方に会う。それは、私だけの問題ではない。

 

 ヤチヨの八千年も、金色の髪の少女が過ごした時間も、全部その先にある。だからこそ、焦ってはいけないと思った。

 

 私が聞きたいことよりも、彼方が話したいことを。そのことだけは、何度も自分に言い聞かせた。

 

     * * *

 

 お兄ちゃんと待ち合わせたのは、新幹線の発着する駅だった。改札の近くで待っていると、見慣れた背の高い姿が目に入った。

 

「お兄ちゃん」

 

「おう、彩葉。来たな」

 

 お兄ちゃんは小さく手を上げた。それから、私の肩に掛けた鞄へ視線を向ける。

 

「ヤチヨちゃんも、ちゃんと来とるな」

 

「……うん。静かにしてるって」

 

 鞄の中には、タブレットが入っている。画面の向こうでは、ヤチヨが待っていた。

 

 一緒に行きたいと言ったのはヤチヨだった。ただ、彼方に会うときは、まず私たちだけで話してほしいと、彼女のほうから言い出した。

 

 ヤチヨが出ていけば、彼方はきっと混乱してしまう。話ができるようになるまで、自分は声を出さずにいる、と。

 

「切符は取っといたで。行こか」

 

「うん。ありがとう」

 

 私たちは並んで改札を通った。改札を抜けたところで、お兄ちゃんが売店の前で足を止めた。

 

「ちょっと待っとき」

 

 戻ってきたお兄ちゃんの手には、小さな袋が提げられていた。中には、水のペットボトルと、ゼリー飲料がいくつか入っている。

 

「食欲ないて言うとったからな。これなら、寝起きでも喉通るやろ」

 

「……お兄ちゃん、いつの間に」

 

「なんや、彩葉は手ぶらで行くつもりやったんか?」

 

 図星だった。何を持っていけばいいのかも、私には思いつかなかった。彼方が今、何なら食べられて、何が好きなのかも。

 

「……ありがとう」

 

「ええて。渡すんは彩葉やで」

 

 お兄ちゃんは袋を私に押しつけて、先に歩き出した。ホームには、大きなスーツケースを持った人や、楽しそうに話す家族連れがいた。

 

 誰もがそれぞれの目的地へ向かおうとしている。私が向かうのは、かつて自分から離れた家だった。

 

 お母さんとは、ヤチヨと再会してから、少しだけちゃんと話せるようになった。それでも、昔のように何でも言い合える関係に戻れたわけではない。

 

 実家は、今でも足が少し重くなる場所だった。お母さんの顔を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。

 

 浮かんでくるのは、疲れた横顔と、台所に立つ背中。それから、あの日、振り上げられた手。憎んでいるのか、と問われたら、違う、と答えるだろう。

 

 けれど、許したのか、と聞かれたら、まだ答えられない。その二つが、私の中で、曖昧なまま同じ場所に置かれている。

 

 彼方は、その曖昧さの中で、ずっと暮らしてきた。私は、その重さを理由に、実家を遠ざけてきた。けれど今日は違う。彼方に会いに行く。そのために、帰る。

 

 やがて新幹線がホームに入ってきた。指定された車両に乗り、私たちは並んだ席に腰を下ろした。

 

 窓際が私で、通路側がお兄ちゃんだった。発車の案内が流れ、車両が静かに動き始める。ホームがゆっくりと後ろへ流れていった。膝の上で、指を組んでみる。組んだ指が、わずかに震えていた。

 

 寒いわけでも、緊張で冷えているわけでもない。ただ、あと数時間で彼方の顔を見るのだと思うと、身体のほうが先に怖がっている。自分でも驚くほど正直な反応だった。

 

 窓ガラスに、うっすらと自分の顔が映っている。目の下に薄い影があった。昨夜、ほとんど眠れなかったせいだ。ヤチヨと話したあと、布団に入って、天井を見て、気づけば外が白んでいた。大丈夫、と心の中で言ってみる。

 

 言葉にしてみると、それはまるで他人に向けた励ましのようで、少しも自分の内側まで届かなかった。

 

 私は、いつもこうだった。自分は大丈夫だと言い聞かせて、必要なことだけを済ませて、感情の置き場所は後回しにする。

 

 そうやって生きてきたから、いざ向き合うべき相手を前にすると、どんな顔をすればいいのかが分からなくなる。彼方の前では、特にそうだった。

 

 あの子は、私が強がっていることを、たぶん誰よりも先に見抜いてしまう子だったから。

 

「……彩葉」

 

「ん?」

 

「彼方のことなんやけど」

 

「……うん」

 

「お母さんから聞いた話やと、退院してからもあんまり調子がよくないらしい」

 

「……そうなんだ」

 

「学校にもまだ戻れてへん。家で休んどることが多いみたいや」

 

 私は窓から視線を外した。

 

「……ずっと?」

 

「そうみたいやな。前より寝とることが増えたって」

 

「……病院には?」

 

「通っとるらしい。ただ、詳しいことは俺も聞けてへん」

 

「……そっか」

 

 退院したと聞いて、私はどこかで安心していたのかもしれない。病院から帰ってきたのだから、もう大丈夫なのだろうと。けれど、そんな単純な話ではなかった。

 

「……何で、私にだけ言ってくれなかったんだろう」

 

 お兄ちゃんは、すぐには答えなかった。

 

「……彩葉には言わんといてほしいって頼まれたとき、俺も、ほんまにそれでええんかって思ったんや」

 

「……うん」

 

「せやけど、本人がそう言うとるのに、俺らが勝手に話すわけにもいかんかった」

 

 彼方は、自分から私を遠ざけていた。病院で、あの子は何を考えていたのだろう。誰かに会いたいと思わなかったのだろうか。

 

 私だったら、きっと誰かにそばにいてほしいと思う。でも、彼方は少なくとも私には来てほしくなかった。その事実を、胸の中で何度か転がしてみる。

 

 痛い、というより、体のどこかが空洞になったような感覚だった。拒まれたのだと、言葉にすればそれだけのこと。けれど、あの日の私だって、同じことを彼方にしたのだ。帰って、と言った。

 

 だとしたら、これは仕返しでも何でもない。あの子はただ、私が教えた通りに、人を遠ざける方法を覚えただけなのかもしれない。そう考えた途端、胃の底が冷たくなった。

 

 もし、そうなのだとしたら。彼方が一人で病室の天井を見ていた時間は、私が作ったものだ。私は膝の上のスマートフォンを、握りしめるでもなく、ただ見ていた。握りしめたら、何かが壊れてしまいそうだったから。

 

「……理由、聞いた?」

 

「聞いても、はっきりとは答えてくれへんかった。お母さんも、詳しいことは知らんみたいや」

 

 私は膝の上のスマートフォンを見た。送ったメッセージに、まだ既読はない。

 

「……お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「彼方、私のこと、何か言ってた?」

 

「……いや。入院しとったときも、俺が聞けたんは身体のことを少しだけや。今は、連絡しても返事が来んしな」

 

 私だけではなかった。分かっていたはずなのに、改めて言葉にされると、胸が重くなった。お兄ちゃんは、私が家を出てからも彼方を気にかけてくれていた。

 

 そのお兄ちゃんにさえ、あの子は何も話していない。お兄ちゃんの言葉を、胸の中で丁寧にたどる。

 

 私は妹のことを、「かわいそうな子」として見ていないだろうか。そんな疑いが、ふと芽生えた。守らなければならない存在として、あの子を小さく固定してしまってはいないか。

 

 あの日、彼方は私を守ると言った。私はそれを、強がりだと切り捨てた。けれど本当に、強がりだけだったのだろうか。答えの出ない問いが、窓の外の景色より速く流れていく。

 

 私は窓の外に視線を戻した。建物が次々と後ろへ流れていく。見知らぬ街。遠くに見える山。線路沿いに並ぶ家々。

 

 その景色を眺めているうちに、ヤチヨの記憶が蘇った。何もなかった土地に人が集まり、村ができる。村が大きくなり、街が生まれる。暮らしが変わり、言葉が変わり、文化が変わる。

 

 長い時間をかけて築かれたものが、戦や災害によって失われることもあった。それでも人々は生き続け、新しい時代を作っていった。

 

 ヤチヨとお隣さんは、それをずっと見てきた。私が今、窓から眺めている街も、あの二人にとっては長い時間の果てに生まれた景色なのかもしれない。

 

 新幹線も、スマートフォンも、ツクヨミも。何もかもが、あの長い旅の始まりにはなかった。もし彼方がお隣さんだったのなら、あの子も同じ変化を見てきたことになる。

 

 私は最後に会った彼方を思い浮かべた。玄関で靴を履いたまま、泣きそうな顔で笑っていた妹。そんな彼方が、八千年。

 

 どうしても、そうであってほしくなかった。けれど、もしそうだったとしても。今の彼方が私の知らない人のように変わっていたとしても。

 

 受け入れるという決意は変わらない。あの子に、昔の私たちの関係を押しつけたくはなかった。失った時間を、なかったことにしたくもなかった。

 

 私は、今の彼方を知りたい。そのためには、まずあの子の言葉を聞かなければならない。

 

「……彩葉」

 

 お兄ちゃんの声で、意識が戻った。

 

「……何?」

 

「今日、彼方が話したがらんかったら、無理はさせんとこうな」

 

「……うん。分かってる」

 

「俺らが心配しとるんは本当やけど、あいつにも事情があるんやろうし」

 

「……うん」

 

 私は頷いた。ただ、無事でいてくれれば。今は、それだけでもいい。

 

 それでも、会えたなら伝えたいことがあった。

 

 あの日、何も聞かずに追い返してしまったこと。謝って、それで許してもらえるとは思っていない。それでも、謝らずに済ませたくなかった。けれど、謝る、という行為が、どこか逃げ道のようにも思えてくる。

 

 ごめんなさいと言えば、言った側は少し楽になる。許されなくても、言ったという事実だけは残る。それを自分のために使ってしまうのが、怖かった。彼方が欲しいのは、私の謝罪ではないのかもしれない。

 

 もっと別の、私がまだ知らない何か。そばにいてほしかったのか。聞いてほしかったのか。あるいは、何も言わなくていいと、ただ頷いてほしかったのか。

 

 考えても、答えは出なかった。出ないということが、そのまま、この数年の私たちの距離だった。

 

 それでも、行く。

 

 間違えるかもしれない。また傷つけるかもしれない。それでも何も言わずに通り過ぎるよりは、ずっといい。

 

 そう思えるようになっただけ、私は少しだけ、変わったのだと思いたかった。鞄の中で、タブレットが小さく震えた。片耳だけにつけたイヤホンから、ヤチヨの声がした。

 

『……彩葉。ヤチヨ、ちゃんと静かにしてるからね』

 

「……うん。ありがとう」

 

 小さく答えると、ヤチヨはそれ以上何も言わなかった。その沈黙が、彼女の緊張をそのまま映しているようだった。新幹線は走り続けていた。

 

 窓の外の景色が変わる。遠くに見えていた山が近づき、また後ろへ流れていく。昔、彼方と一緒に新幹線に乗ったことがあった。

 

 家族で出かけたときだっただろうか。窓際の席に座った彼方が、外を見ては何度も私を呼んでいた。

 

『お姉、見て』

 

『お姉、あれ何?』

 

 私は、そのたびに適当な返事をしていた気がする。それでも、彼方は嬉しそうだった。何でもない思い出だ。でも、あの頃の私は、彼方が私を呼んでくれることを当たり前だと思っていた。

 

 今は、もう一度その声を聞きたいと思う。あの声が、ほしかった。

 

 それを認めるのは、少しだけ怖かった。ほしがっていいのかも分からない人に、ほしがる資格が私にあるのかも分からない。

 

 窓ガラスに額をつけると、冷たさが骨まで届いた。私は目を閉じて、小さな頃の彼方を思い出す。袖を引く指の、頼りないくらいの軽さを。

 

 聞けなくてもいいと決めたはずなのに、それでも願ってしまう。

 

 もし、彼方がもう私を「お姉」と呼ばなくなっていたとしても。

 

 私は、あの子の姉でいたい。新幹線が速度を落とし始めた。次の停車駅を知らせるアナウンスが流れる。姉でいたい、と願うことは、傲慢なのかもしれない。

 

 姉らしいことなど、何もしてこなかったのに。それでも、あの子の姉であるという事実だけは、手放せなかった。手放したら、私の中に残るものが、あまりに少なくなってしまう気がして。それを認めるのは、情けなかった。

 

 けれど、情けなさごと抱えて行く以外に、道はなかった。

 

「……そろそろやな」

 

「……うん」

 

 見覚えのある街並みが近づいてくる。彼方がいる街。私が生まれ育った場所。そして、私が自分から離れた家のある場所。あの子がどんな状態なのか、何を抱えているのか。まだ何も分からない。

 

 それでも、私は会いに行く。

 

 新幹線がホームに滑り込み、停車した。

 

「……行こか」

 

「うん」

 

 私たちは席を立ち、車両を降りた。

 

     * * *

 

side 酒寄彼方

 

 送信完了の文字は、思っていたよりずっと小さかった。それが画面から消えたあと、部屋には何も残らなかった。椅子に背を預けたまま、しばらく動けずにいた。

 

 カーテンの隙間から入る夕方の光が、机の端だけを橙色に染めている。階下で冷蔵庫が低く唸った。それだけだった。

 

「……終わった」

 

 声に出してみる。返事はない。分かっていたのに、待ってしまった。八千年の癖は、たった一枚のファイルを送ったくらいでは抜けてくれないらしい。

 

「お隣さん、もう終わったの?」

 

 そう聞いてくる声が、耳の奥にだけ残っている。続けて「見せて見せて!」と覗き込んでくる気配も。私は小さく笑って、画面を傾けるふりをした。

 

 誰もいない左側へ。そこには、壁があるだけだった。笑ったまま、表情が固まる。ゆっくり、顔を元に戻した。

 

 これで、やることがなくなった。その事実が、遅れて胸に落ちてきた。

 

 月で七十年、地球で八千年。私はずっと、何かのために動いていた。誰にも気づかれない間も、かぐやが泣いている夜も、ヤチヨが部屋で眠っている間も。

 

 隣にいること、守ること、見送ること、そして最後に、あのモジュールを完成させること。目的があるから、生きてこられた。

 

 それを失ったあとで、人はどうやって立っていればいいのだろう。誰も教えてくれなかった。ヤチヨなら、きっと笑って答えてくれるのかもしれない。けれど、その答えを聞く資格が、いまの私にあるのか。

 

 私は、あの子の幸せのために全部を使ってしまった。使い切ったあとの自分が、こんなに空っぽだなんて、想像もしていなかった。目的が、全部終わった。終わってほしいと、何度も願っていたはずなのに。

 

「……何をしたらいいんやろ」

 

 思わずこぼれた言葉は、八千年ぶりの関西弁だった。自分で驚いて、口を押さえる。けれどその声はひどく掠れていて、昔の私の声かどうかも分からなかった。

 

 机の上のスマートコンタクトのケースを見る。もう一度ツクヨミに入れば、ヤチヨの声くらいは聞こえるかもしれない。配信でも、広場の噂でもいい。

 

 あの子が笑っているかどうかを、確かめるだけなら。指を伸ばしかけて、止めた。確かめて、どうするの。

 

 確かめたところで、画面の向こうの笑顔が、本物かどうかも分からない。分からないものを、分かったふりをして眺める。それを八千年、続けてきた。

 

 今さら、その癖を手放せるはずがなかった。指を伸ばしかけた理由を、私はちゃんと分かっている。声が聞きたかったのだ。一言でいい。

 

 「ありがとう」でも、「誰?」でもいい。誰かが私に、何かを返してくれるのを、確かめたかった。

 

 笑っていたら、安心する。安心した次の瞬間に、きっと寂しくなる。笑っていなかったら、駆けつけたくなる。どちらにしても、私はもう、あの子の隣にいられない。手を引っ込めた。膝の上で、指を握りしめる。

 

 眠気が来た。後遺症の眠気は、こういうときばかり優しい。何も考えなくていいよ、と言うように、まぶたの裏をゆっくり重くしてくる。私は逆らわなかった。

 

 机に腕を置いて、そこに額を乗せる。木の冷たさが、おでこに触れた。冷たい。

 

 そう感じられることに、ふと気づく。ここには、温度がある。ツクヨミにはなかったもの。あの子に渡したくて、私が作ったもの。その事実が、なぜか一番痛かった。

 

     * * *

 

 モジュールを送ってからの日々は、色がなかった。朝に目を覚ます。カーテンを開ける。「おはよう」と言いかけて、口を閉じる。八千年、朝の最初の言葉はいつも同じ相手に宛てていたから、体が勝手にやってしまう。

 

 お母さんが用意してくれた朝ごはんを、食欲がなく半分だけ食べる。食欲がなく半分しか食べれない、味はする。ちゃんとするのに、美味しいという感覚だけがどこかに忘れ物をしてきたみたいだった。

 

 薬を飲む。横になる。眠る。目を覚ます。まだ明るい。また眠る。次に目を開けたときは、もう外が暗かった。

 

 窓の外が暗くなっているのを見て、一日がまた何もないまま終わったのだと知る。焦りはない。悔しさもない。

 

 ただ、時間が自分の上を通り過ぎていく感覚だけがあった。八千年は、あれほど長かったのに、こうして無為に過ごす一日は、その中のどの一日よりも長く思えた。

 

 そういう日を、何日も繰り返した。八千年の間、退屈という感覚はなかった。やることはいつもあったし、やることがない日でさえ、隣で「ペンギンがさぁ……」というどうでもいい話をしてくれる人がいた。いまの部屋には、時計の音しかない。

 

 こんなに静かだったっけ、と思う。月の上ですら、ここまでではなかった気がする。あのときの私は、誰かに気づいてほしかった。

 

 今の私には、気づいてほしい相手がいるのに、気づかれてはいけない。どっちがいちばん、辛いんだろう。痛みがあるのか、ないのかも、よく分からない。

 

 ただ、胸の真ん中に、風が通り抜けていくような場所がある。そこを通るたびに、ひとつずつ、何かが冷えていく。

 

 寂しい、という言葉を、八千年の間、私は一度も口にしなかった。口にしたら最後、自分が崩れてしまう気がしたから。

 

 それなのに今、その言葉が、何の抵抗もなく心に浮かんでくる。寂しい。声に出したら、少しは軽くなるだろうか。出してみようとして、やめた。

 

 軽くなってしまうのも、嫌だった。窓辺に立つ。鳥が電線の上を横切った。――見て見て、お隣さん。

 

 耳の奥でそう聞こえた気がして、勢いよく振り返った。もちろん、誰もいない。左の肘のあたりに、小さな空間があるだけだ。

 

 八千年、そこに重さのない誰かがいて、いつも顔を近づけてくるのが当たり前だった場所。私は今も、無意識にその空間をあけて歩いている。

 

 この前、コンビニの前で店員に「おひとりですか?」と聞かれた。「はい」と答えるのに、一拍ぶん遅れた。言い終えてから、変な顔をしていたかもしれない。

 

 店員は不思議そうに目を逸らした。あれを、何回やっただろう。部屋の隅には、見覚えのあるケースが立てかけてある。

 

 ヴァイオリンだ。ひと目で、昔の私のものだと分かる。表面の小さな傷も、取っ手の擦り切れも、知らないはずなのに、なぜか手が覚えている気がした。

 

 留め具を外して、蓋を開ける。艶のある木の胴。張られた弦。松脂の、乾いた甘い匂い。指先で、弦に触れた。鳴らさない。鳴らせない。

 

 弓を取って、構える。肩にあてた顎が、ほんの少しだけ、迷うことなく場所を見つけた。体は、覚えている。覚えているのに、どんな曲を弾いていたのか、なにが好きで弾いていたのか、頭のどこを探しても見つからなかった。

 

 お姉のピアノに合わせて弾いていた、という断片だけが、かすかにある。それが本当の記憶なのか、後から作った絵なのかも、もう分からない。

 

 弓を下ろして、ケースの蓋を閉じた。昔の私は、これを弾くのが好きだったのだろうか。答えてくれる人は、どこにもいなかった。

 

 夜になって、結局ツクヨミに入った。kanaという名前のアカウントを閉じ、設定を開いて、何も登録していない、真っ白なアバターを作った。誰かに見つからないように。

 

 広場には人がいた。「ヤチヨ様」という文字が、あちこちの吹き出しに浮かんでいる。誰かが笑っている。誰かが歌っている。どれも、自分とは無関係に見えた。

 

 露店で食べ物を買う。口に入れる。味はしない。当たり前なのに、喉の奥がきゅっと縮んだ。

 

 いつかここで、あの子が「美味しい」を言えるようになる。「あったかい」を、本当に感じられるようになる。

 

 その仕組みを作ったのは私で、でもその瞬間を、私は見ない。大切に思う相手が最初に温度を知る瞬間を、一番近くで見届ける。それが一番の願いだったのに。

 

 ――それを一番に願って作ったのに、どうして私は、そこにいられないんだろう。ログアウトした。

 

     * * *

 

 スマートフォンは、伏せて、クッションの下に入れている。通知は、二人の名前だけ表示されないように設定した。

 

 でも、「表示されない」ということは、届いていることは、確かに届いているということで。時々、クッションの下でかすかに震える。

 

 そのたびに、胸の真ん中が小さく跳ねる。見るな、という自分と、見たい、という自分が、同じ体の中で綱を引き合っている。朝日の名前が、一番多かった。

 

 その名前を見るたびに、返事をしなければ、と思う。思って、指を画面に近づけて、そこで止まる。

 

 打てる言葉が、見つからないわけではない。ただ、どの言葉を選んでも、嘘になる気がした。「大丈夫」も、「ありがとう」も、「ごめんね」も、今の私が言えば、全部が少しずつ別の意味を持ってしまう。

 

 だから、何も返せない。何も返せないことで、また一つ、誰かを傷つけている気がして、さらに何も返せなくなる。通知のプレビューに一瞬だけ映った一行目が、頭の中に残っている。――彼方、調子はどう?

 

 ただそれだけ。何も責めてはいない。でも、「大丈夫」と打てる言葉が、私の中にもう残っていなかった。昨夜、お母さんが部屋の前で足を止めた気配がした。

 

 九月、病院で目を覚ましたときに見た、あの人と同じ足音だと思った。返事をしないでいると、はやく寝なさいという声が、扉の向こうで一度だけ聞こえた。

 

 いつもの厳しい声は、少しだけ、弱かった。返事をしようとした。でも、なんて?

 

 「お母さん」を、私はどんな声で呼ぶんだっけ。

 

 返事をしないまま、足音は遠くなった。翌朝、テーブルの上に、ラップがかかったごはんが置いてあった。メモは、一行だけ。

 

 ――食べられるとこだけでいいから。紙の端に、ペンの最初の点が少しだけ滲んでいた。書こうとして、迷って、それから書いた跡だと思う。

 

 その紙を、捨てられなかった。上手くは言えないけれど、私はこの人を、ずっと遠くで思っていた。八千年、会いたいと願った人たちの一人。その人がいま、壁一枚の向こうで、私のためにごはんを作っている。

 

 これ以上近づいたら、きっと全部話してしまう。だから私は、近づかない。近づけない。――近づかないことで、お母さんをことさら寂しくさせている。そう分かっているけれど。夜。求めているわけでもないのに、目が開く。

 

 部屋の天井を見上げていると、かつて夢の中で会った「あの子」の顔が、ふと思い出される。金色の髪。かぐやとよく似た顔。

 

 どこか申し訳なさそうに、でも優しく笑っていた。あれは、未来の私の顔だった。ここに戻るということは、こういうことだったのか。

 

 あの顔は、誰のものでもなかった。ヤチヨでも、お母さんでも、昔の私でもない。ただ、何もかもを終えて、行き先をなくした人の顔だった。それを見てしまった自分が、一番怖かった。

 

 表情の作り方を忘れた顔で、天井を見ている。誰かに話しかけようとするときの、空気の吸い方を思い出せない顔で。かぶりを振った。

 

「……ヤチヨ、今日も笑ってるかな」

 

 張り詰めた部屋の空気に、自分の声だけが、変に小さく響いた。この結末を選んだのは、私だ。後悔はしていない。それは嘘でも強がりでもなく、本当のことだ。ただ、後悔していないことと、辛くないことは、別の話だった。

 

 月の上で言った、「大丈夫だよ」。八千年かけて、何度もこの口から出た言葉。誰かに向けて言うときは、あんなにすんなり出たのに、自分に向けて言うと、どうしてこうも辛いのか。これからは、誰が言ってくれるんだろう。

 

 静かな室内で、窓の外の街灯が、カーテン越しにゆるやかに光っている。私は目を閉じた。けれど今夜は、眠りでさえ、優しくなかった。

 

     * * *

 

side 酒寄彼方

 

 台所から、出汁の匂いが流れてくる。目を覚ましたとき、最初に思ったのは、今日は起きられそうだということだった。頭痛も、いつもより軽い。こういう日を、お母さんは「調子がいい日」と呼ぶ。

 

 モジュールを送ってから、もうだいぶ経つ。あの子はとっくに受け取っているはずだと、考えないようにしている。階段を下りる。一段ずつ、手すりを握って。

 

 ダイニングのテーブルには、すでに二人分の食器が並んでいた。ご飯、味噌汁、出汁巻き卵。漬物を少しだけ。すべてが、小さめの盛り付けになっている。私でも食べられる量を、考えてくれた盛り付けだ。

 

「起きたんか」

 

 エプロン姿のお母さんが、フライパンを洗いながら振り返る。水に濡れた指の関節が、前より赤く荒れていた。いつの間にか、絆創膏が一枚、人差し指に巻かれている。

 

「……うん。おはよう」

 

「おはよう。座り」

 

 言われたとおりに座る。椅子の座面が、少し冷たい。お母さんも向かいに座る。「いただきます」を、どちらからともなく言う。

 

 この一言だけは、昔から頑なに守られているらしかった。箸を持つ。出汁巻き卵を一切れ、口に入れる。

 

 あたたかい。味もする。ちゃんと美味しいのに、美味しいの置き場所がどこにもない。

 

「……どうや」

 

「うん。おいしい」

 

 言い終えてから、声が平らすぎたと思った。言葉を読み上げるみたいに、きれいすぎる。お母さんは、箸を止めた。

 

「……そうか」

 

 それだけ言って、味噌汁をすする。沈黙が落ちる。時計の音。箸が茶碗に当たる音。この家の食卓の音は、きっと昔からこうだったのだろう。でも私は、その「昔」を、もう正確には思い出せない。

 

「……彼方」

 

「うん」

 

「今日は、ちょっと遅なる」

 

「うん。わかった」

 

「昼は冷蔵庫に入れてある。温めて食べなさい」

 

「うん」

 

 会話は、そこで終わる。こういう朝を、何日も重ねてきた。無理に話さずに済む朝。話したくても、話せない朝。本当は、毎朝、思っている。ここで何か言えたらいいのに、と。

 

 「昨日の夜、足音に気づいてたよ」でも、「ご飯、ありがとう」でも、どちらでもいい。ただ、それを口にしようとすると、舌の根が固まる。

 

 言った瞬間に、私の声が昔の私のものと違うことが、お母さんに伝わってしまう気がするからだ。

 

 お母さんは、きっと気づいている。それでも、気づいていないふりをしてくれている。そのやさしさに、私は、毎朝少しずつ、借りを増やしていく。

 

 返せるあてのない借りを。どちらも、相手を傷つけないように黙っている。それが分かっているから、余計に静かだった。

 

 昔の我が家の食卓は、もっと騒がしかったのだろうか。朝日が何かを言って、お姉が呆れて、お母さんが「静かに食べなさい」と叱る。

 

 そんな景色の断片が、頭のどこかにある気がする。でもそれは、誰かから聞いた話なのか、自分の記憶なのか、もう分からない。

 

 月にいた七十年、私は「食卓」というものを忘れていた。誰とも食べない。誰とも話さない。その空白が、八千年のあいだに、この家の景色を少しずつ塗り替えてしまったのかもしれない。

 

「……あんた」

 

 呼び止められただけで、背中に汗が滲んだ。台所に立つこの人の背中を、私は何年も見ていない。八千年前の記憶の中の背中は、もっと大きかった気がする。

 

 今、目の前にあるそれは、思っていたよりずっと小さくて、少し丸かった。その小ささに、胸の奥が軋んだ。

 

 お母さんが、茶碗の縁を見たまま言う。

 

「明日、食べたいもんあるか」

 

 箸が止まった。これを、どこかで聞いた。この同じ言葉を、この同じ声で。でも、どこでだろう。記憶の端に、小さな影があるだけで、中身がどこにも見つからない。

 

「……食べたいもん、」

 

「そうや。なんでもええから言うてみ」

 

 何が食べたい。何も、思い浮かばない。八千年、食べることさえ忘れていたし、忘れていない時期も、美味しいという感覚は、いつも誰かと一緒にあった。

 

 だから、思い出せなかった。「私が」食べたいものを。

 

「……何でもいいよ。お母さんの作るものなら」

 

 そう答えた瞬間、お母さんの顔が、ほんの少しだけ曇った。大きくは動かない。目元と口元が、一箇所ずつ、迷うように動く。

 

「……あんた、昔はいつも、ハンバーグとか言うてたやろ」

 

 ハンバーグ。耳に入って、胸の上をすべった。思い出せるのは、焦げる匂い、台所を覗きにくる小さな影。

 

 でもそれが自分の記憶なのか、誰かの話を聞いて作った像なのか、もう判別がつかない。答えるべき言葉は、ひとつしかなかった。

 

「……うん。そうだったかも」

 

「かもやのうて、あんた」

 

「……ごめん。ちょっと、忘れてたところがあって」

 

 忘れているのは本当のことだった。だからこそ、嘘にはならない。病気のせいで忘れた、ということにしておけば、言い訳はいくらでも立つ。お母さんはしばらく黙っていた。そして、ゆっくり箸を置いた。

 

「謝らんでええ」

 

 低い声だった。

 

「……謝らんでええんやで、彼方」

 

 ここで「うん」と答えれば、この会話は終わる。終わらせられる。でも、この人の目は、さっきからずっと私の手元を見ている。箸を持つ指の、不自然な細さを。

 

「……うん。でも、ごめんね」

 

 結局、謝る言葉を重ねてしまった。お母さんの肩が、小さく落ちた。

 

「……そうか」

 

 同じ言葉を、さっきと同じ高さで。それから二人とも黙って、食器を空にしていった。いや、私の茶碗は、半分だけ。

 

 お母さんはそれを見て、何も言わなかった。小さなラップを取り出して、残したご飯を、手際よく包んでいく。これを、昨日も見た。その前の日も。

 

 毎日、私の残した一口を、捨てずにとっておく人がいる。包み終えたラップの上から、お母さんの親指が、ほんの一瞬だけご飯の丸みをなぞった。何かを確かめるみたいに。その仕草を、見なかったことにした。

 

「……行ってくる」

 

 お母さんはエプロンを外して、鞄を手に取った。玄関で靴を履く音。鍵の音。

 

「薬、飲むんやで」

 

「……うん」

 

「ちゃんと飲みなさいよ。そこの袋、もう何日も開いてへんやろ」

 

 ばれていた。

 

「……飲むよ。ごめん」

 

「謝らんでええって言うてるやろ」

 

 玄関の手前で、一度だけ立ち止まる気配がした。振り返らない。こちらも、見ることができなかった。

 

「……行ってきます」

 

「いってらっしゃい」

 

 お母さんの声は、扉の向こうで一度途切れ、それから続いた。

 

「……いってきます」

 

 それは、こちらに言った言葉だった。はっとして、立ち上がった。玄関に走るのは無理で、でも、小さな声を、せめて――

 

「……いってらっしゃい」

 

 車のエンジンがかかる音がした。遅すぎたかもしれない。でも、届いたかもしれない。届いてほしいと思った自分に、自分で驚いた。車の音が遠くなっていく。

 

 家の中に、ようやく、私が一人だけ残った。テーブルの上には、開けられていない薬の袋。飲みかけのコップ。水は、半分。

 

 飲むつもりでいる。でもこの体は、眠気のスイッチが、あまりにも軽い。ソファに横になる。腕を垂らす。ここで少しだけ目を閉じて、すぐに薬を飲む。そうしよう。目を閉じる。まだ、眠りは来ない。

 

 起きているのか、眠っているのか、その境目がどんどん曖昧になる。時計の針の音だけが、現実の端を掴んでいてくれる。玄関の方から、足音が聞こえた気がした。

 

 違う。誰もいない。分かっているのに、耳だけが勝手に、その音を追いかけてしまう。来てほしい。来てほしくない。

 

 そのどちらも、本当だった。どちらも本当だから、私はどちらにも手を伸ばせないまま、ただ天井の暗さに沈んでいった。すぐに。この日、間もなく誰かが、この家の玄関を開けることを、私はまだ知らなかった。

 

     * * *

 

side 酒寄彩葉

 

 駅から実家までは、歩いて向かった。バスもあったけれど、お兄ちゃんが「歩こか」と言った。商店街の入口には、昔と同じ文房具店があった。

 

 シャッターの色が変わり、看板の文字が少し薄くなっている。それだけで、離れていた時間の長さを思い知らされた。

 

 通学路だった川沿いの道。彼方が小さい頃、ここで転んで膝を擦りむいたことがある。泣きながら私の背中にしがみついて、家までおぶって帰った。

 

 重い、と文句を言いながら。それでも、首に回された腕の温かさだけは、今もはっきり覚えている。

 

 あのとき背負っていた小さな身体が、今は、ソファの上で眠っているという。隣を歩くお兄ちゃんは、何も言わなかった。ときどき私の歩幅に合わせて、足を緩めるだけで。その沈黙が、ありがたかった。

 

 歩きながら、足の裏の感覚を数えていた。一歩、また一歩。そうしていないと、立ち止まってしまいそうだった。家が近づくにつれて、心臓の音が、耳のすぐ内側で鳴り始める。

 

 呼吸は普通にしているつもりなのに、吸った息が、肺の途中で引っかかるようだった。会いたい。会うのが怖い。

 

 その二つは、矛盾せずに、同じ場所に並んでいた。角を曲がれば、実家の屋根が見える。見えてしまえば、もう引き返せない。

 

 引き返すつもりはないのに、そんなことを考えてしまう自分が、少しおかしかった。お兄ちゃんが、ふっと私の横顔を見た。

 

 何も言わない。ただ、目だけで、大丈夫か、と聞かれた気がして、私は小さく頷いた。頷きながら、自分の指先が冷え切っていることに気づいていた。実家に着いたとき、お母さんの車はなかった。

 

 今日は仕事に出ている。お兄ちゃんが事前にお母さんへ連絡を取ったところ、彼方は家で休んでいると聞いていた。

 

「……彼方、起きてるかな」

 

「どうやろな。最近は寝とることが多いって言うとったけど」

 

 お兄ちゃんはそう答えながら、玄関の鍵を開けた。久しぶりに入る実家だった。玄関も廊下も、昔と何も変わっていない。靴箱の上には、彼方が昔気に入って買ったはずの小さな置物が残っていた。

 

 家の匂いが、鼻をくすぐった。木の床と、柔軟剤と、台所に残った出汁の匂い。ここで育った年月が、まとめて押し寄せてくる。

 

 廊下の壁には、家族の写真が並んでいた。幼い私と、お兄ちゃんと、真ん中で笑っている小さな彼方。その並びは、私が家を出た日から何も変わっていないように見えた。

 

 変わってしまったのは、きっと私のほうだ。靴を脱ぎながら、鞄の中のタブレットを、そっと抱え直した。

 

 玄関に並んだ靴を見る。お母さんのもの。お兄ちゃんのもの。そして、小さめの、擦り切れたスニーカーが一足。彼方のだ、と分かった。

 

 何でもない靴なのに、見つけた途端、喉の奥が熱くなった。あの子は、ここで暮らしている。眠って、起きて、靴を履いて、玄関で立ち止まったりしているのだろうか。

 

 私が知らない毎日の、小さな証拠。それがこんなにも重いものだとは、思っていなかった。

 

「……彼方?」

 

 お兄ちゃんが呼びかけた。返事はなかった。

 

「寝とるんかな」

 

「……かもね」

 

 リビングの扉は、少しだけ開いていた。お兄ちゃんが先に中を覗き込む。

 

「……彼方?」

 

 その声が、不意に止まった。

 

「……お兄ちゃん?」

 

 私は背中越しにリビングを覗いた。

 

「…………え?」

 

 ソファに、彼方がいた。横向きに身体を倒し、ぐったりと横たわっている。片腕はソファの端から垂れ下がり、顔はクッションに半分埋もれていた。

 

 目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。眠っているだけ。そう思おうとした。けれど、垂れ下がった腕を見た瞬間、その考えは消えた。

 

 以前より、ずっと細い腕だった。最後に会ったとき、彼方はこんなに痩せていただろうか。違う。痩せたのではない。削れてしまったのだ。

 

 いつから、こうなっていたのだろう。私が知らないうちに、ひと月ずつ、ひと日ずつ、あの子の身体は静かに細くなっていった。

 

 その間、私は何をしていた。バイトをして、ヤチヨと笑って、ご飯を食べて、眠っていた。同じ時間を、同じ世界で過ごしていたはずなのに。

 

 ふいに、胸の奥から、熱いものがせり上がってきた。それが怒りなのか、悲しみなのか、自分に向けた失望なのか、判別がつかない。

 

 ただ喉の奥が、きつく締まった。泣いてはいけない、と思った。ここで泣けば、彼方が目を覚ましたときに、私が先に壊れていることになってしまう。

 

 奥歯を噛んで、息を止めた。視線を上げると、ローテーブルの上に、病院の名前が入った薄い紙袋が置かれているのが見えた。

 

 口は折られたまま、開けられた様子はない。その隣には、飲みかけのコップが一つ。水が半分ほど残っていた。

 

 見てはいけないものを見てしまったような気がして、私はすぐに目を逸らした。

 

 彼方。

 

 そう呼ぼうとした。でも、声が出なかった。

 

「彼方!」

 

 お兄ちゃんが駆け寄った。私は、動けなかった。お兄ちゃんが彼方のそばに膝をつく。顔を覗き込み、何度も名前を呼んでいる。

 

「彼方! 聞こえるか!」

 

 返事はない。何かしなければ。けれど、何をすればいいのか分からなかった。足が床に縫いつけられたみたいに動かない。

 

 頭の中では、救急車、と単語が浮かぶのに、それを現実の行動に結びつける回路が、ぷつりと切れている。私はいつも、こうなのだ。

 

 大事なときに限って、立ち尽くす。あの日、玄関で泣きそうな顔をしていた妹に、手を伸ばせなかったときと同じように。

 

 違う、と自分に言い聞かせる。今は違う。あの日の私とは違う。そう思って、ようやく一歩、足を前に出した。たった一歩が、ひどく重かった。

 

 駆け寄らなければ。名前を呼ばなければ。お兄ちゃんを手伝わなければ。頭では分かっているのに、身体が動かなかった。目の前にいるのは、私の妹だ。

 

 ずっと会いたかった妹。謝りたかった妹。もう一度、ちゃんと向き合いたいと思っていた妹。その彼方が、動かない。

 

「……息はしとる」

 

 お兄ちゃんの声が聞こえた。息をしている。生きている。その意味を理解するまでに、少し時間がかかった。

 

「彼方! 起きられるか!」

 

 お兄ちゃんが肩を軽く叩く。彼方は動かなかった。私は、まだ何もできなかった。入院していたと知ったとき、何かできることがあったはずだと思った。

 

 もっと早く知りたかった。そばにいてあげたかった。その「あったはず」が、今はどこにもない。

 

 踏み出せるものも、変えられるものも、彼方の前では、すべて、遅すぎた。遅すぎたという感覚は、思いのほか、腹の底に冷たく溶けていった。それなのに、今、目の前に彼方がいるのに。

 

 もし、このまま目を覚まさなかったら。

 

 そんな考えが浮かんで、頭の中が真っ白になった。嫌だ。頭の中が、音を立てて静かになった。怖いという感情は、もっと騒がしいものだと思っていた。

 

 けれど本当に怖いときは、起こるのはこれだ。考えることが、一つずつ削られていく。残ったのは、あの子の名前だけ。

 

 彼方。彼方。彼方。

 

 呼ぶだけでいいのに、それさえできない。喉の内側が乾いて、買い物袋の取っ手を握る手の平にだけ、汗が滑んでいった。まだ、何も話していない。

 

 あの日の「帰って」が、最後に交わした言葉になってしまったら。そんなこと、考えたくなかった。

 

「…………ん」

 

 小さな声がした。彼方の眉が、わずかに動く。

 

「彼方!」

 

「……ん……?」

 

 彼方がゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした目がお兄ちゃんを捉え、それから私へ移った。

 

「…………っ!?」

 

 その瞬間、彼方の身体が大きく跳ねた。目を見開き、信じられないものを見るように私たちを見つめる。

 

「……なんで……」

 

 かすれた声が漏れた。

 

「……どうして、ここに……?」

 

 彼方が起きた。目を開けた。話している。それなのに、私の足はまだ動かなかった。安堵したのに、足は動かない。安堵したからこそ、動けなかったのかもしれない。

 

 ここから先は、もう「心配している」だけでは済まない。目を覚ました彼方の、この先の言葉を、私は受け取ることになる。

 

 その重さが、ようやく実感として肩に乗った。彼方は慌てて身体を起こそうとしたが、ソファの背もたれに身体を預けた。

 

「彼方! 急に起きたらあかん!」

 

 お兄ちゃんが支えようと手を伸ばす。

 

「……っ!」

 

 彼方は反射的に身を引いた。お兄ちゃんの手が止まる。

 

「……彼方?」

 

 彼方は何も答えず、私たちを見つめていた。その顔には、はっきりと怯えが浮かんでいた。

 

 どうして、そんな顔をするの。

 

 怖がられることに、私は慣れていなかった。嫌われることなら、覚悟していた。けれど、あの目は嫌悪ではなくて、もっとずっと悲しいものだった。

 

 追い詰められた動物が、それでも逃げ場所を探すときの目。そんな目をさせたのは、他でもない、私だ。

 

 あの日、追い返したからだろうか。でも、彼方はお兄ちゃんに対しても怯えている。

 

「……彩葉?」

 

 お兄ちゃんに呼ばれて、ようやく反応した。

 

「……え?」

 

「彼方、目ぇ覚ましたで」

 

「……うん」

 

 分かっている。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。

 

「……彼方、大丈夫?」

 

 やっと、それだけ言えた。彼方の肩が小さく震える。

 

「……ごめん」

 

 小さな声だった。

 

「……驚いて……」

 

「……ううん。こっちこそ、ごめん。勝手に入ってきちゃったから……」

 

 私は首を横に振った。

 

「……でも、彼方が倒れてるのかと思って」

 

「……倒れて……?」

 

「うん。全然起きないから、心配したんだよ」

 

 彼方は何度か瞬きをした。

 

「……寝てただけ」

 

「……本当に?」

 

「……うん」

 

 彼方は小さく頷いた。

 

「……ごめん」

 

 私は少しだけ安心した。でも、彼方は私たちの顔を何度も確かめるように見ている。まるで、次に何を言われるのかを恐れているようだった。その怖さの正体が、私にはまだ見えなかった。

 

 けれど、見えないことを理由に距離を取るのは、もうやめたい。分からないままでも、そばにいる。それだけは、今日の私にできることだと思う。

 

     * * *

 

side 酒寄彼方

 

 どうして。

 

 どうして、ここにいるの。

 

 目を覚ました瞬間、目の前に二人がいた。聞こえてきた声。私を呼ぶ声。そして、目の前にいる二人の顔。間違いない。八千年前、私がまだ酒寄彼方だった頃の家族だった。

 

 私は連絡を絶っていた。会わないようにしていた。話さないようにしていた。

 

 それが、私の選んだやり方だった。選んだはずなのに、いざ目の前に立たれると、あまりに脆い。それなのに。頭の中が真っ白になった。

 

 落ち着かないと。何でもないように振る舞わないと。この人たちに、知られてはいけない。昔の酒寄彼方が、もうここにはいないことを。

 

 この身体にいるのが、八千年を生きた私だということを。退院してからの毎日は、眠って、目を覚まして、また眠ることの繰り返しだった。階段を上がるだけで息が切れる。

 

 薬の袋を開ける気力もなくて、ローテーブルに置いたまま、何日も放っておいた。

 

 今日も、ソファに横になったところまでは覚えている。そのまま眠ってしまったのだろう。お母さんは仕事で、家には誰もいないはずだった。誰にも会わなくて済む時間のはずだった。

 

 だから、油断していた。

 

 九月十二日。あの子が月へ旅立った日から、私は酒寄彼方として生きると決めた。けれど、決意することと、実際に振る舞うことは違った。

 

 私は、昔の自分をほとんど覚えていない。どんな性格だったのか。どんな話し方をしていたのか。どうやって笑っていたのか。

 

 家族の記憶がまったくないわけではない。幼い頃の景色や、誰かを追いかけた記憶の断片なら残っている。でも、そこにいる私はあまりにも遠い。この人たちは、私を昔の彼方だと思っている。それが、怖かった。

 

「……彼方?」

 

 返事をしなければ。でも、何と答えればいいのだろう。昔の私は、どんな声で返事をしていた?記憶の底を探っても、声の高さも、言葉の選び方も、どこにも見つからない。手を伸ばしても、空気を掴むだけだ。

 

 今の声を出せば、それがそのまま答えになってしまう。答えになった声を、二人は、耳の奥に記憶してしまう。私はただ頷いた。

 

「……大丈夫?」

 

「……うん」

 

 余計なことは言わない。聞かれたことにだけ答える。そうすれば、きっと気づかれない。昔の私は、二人を何と呼んでいたのだろう。お姉。お兄。

 

 そんな呼び方をしていたはずだ。でも、今の私には口にできなかった。私にとって二人は彩葉と朝日だ。八千年前に置いてきた家族だ。

 

 昔の彼方なら当たり前に知っていたことを知らないと言ってしまえば、きっと何かがおかしいと気づかれる。この人たちが会いたいと思っている彼方は、今、月へ向かっている。

 

 だからこそ、私がその場所に座っていることが、どこか申し訳ない。帰ってくるはずの子の場所を、代わりに温めているだけではないか。

 

 そんな気持ちが、肩のあたりに重く沈んだ。私はその子から身体を奪ったわけではない。あの子は自分の意思で旅立った。かつての私と同じように。

 

 それでも、この身体に残ったのは私だ。

 

 この胸の真ん中で、今もあの子の笑い声が、余韻みたいに残っている。「バイバイ、かぐや」と手を振ったときの、軽くて明るい声が。

 

 あの子の分まで、生きる。それが、この体に残ったものの責任だと思っていた。でも責任という言葉を握りしめていても、目の前の人たちの不安そうな視線は、ちっとも和らがない。

 

 その事実を知られたら、二人はどんな顔をするだろう。私を、彼方ではない誰かとして見るだろうか。

 

 私はそれが何より怖かった。拒まれるのよりも、受け入れられるほうが怖い。

 

 その考えは、自分でも歪んでいると分かっている。けれど、もし二人が「変わってしまった彼方」を優しく抱きしめてくれたら、私はきっと、その優しさに寄りかかってしまう。

 

 寄りかかったあとで、本当のことを話せば、その優しさは崩れるかもしれない。

 

 崩れるのを見るくらいなら、最初から、触れないほうがいい。八千年の間、会いたいと思ったことがなかったわけではない。むしろ、何度もあった。けれど、会えば昔のように話したくなる。もう一度家族の中に戻りたくなる。

 

 そして、戻れない自分を思い知らされる。だから連絡を絶った。その選択が正しかったのかどうか、今も分からない。

 

 分かっているのは、部屋の暗がりの中でスマートフォンが光るとき、胸の奥が同じだけ締め付けられること。そして、その締め付けを、自分で選んでいること。

 

 会わなければ、知られずに済むと思っていた。着信も、メッセージも、見ないふりをした。画面に二人の名前が出るたびに、胸の奥が痛んだ。

 

 返事を打とうとして、指が止まる。何を書けば、昔の私らしいのか分からなかったからだ。

 

 それでも、ヤチヨのことだけは別だった。

 

 匿名で送ったあのファイルを、あの子は受け取っただろうか。喜んでくれただろうか。そんなことばかり考えて、考えるたびに、もう隣にいないことを思い出した。

 

 誰にも会わず、誰にも知られず、静かにやり過ごす。それが、私にできる唯一の守り方だった。

 

「……彼方、無理して起きんでええからな」

 

「……うん」

 

「……ほんまに大丈夫か?」

 

「……大丈夫」

 

 朝日の声に短く答える。すると、彩葉が隣に腰を下ろした。

 

「……彼方」

 

 身体が強張る。

 

「……久しぶり」

 

 久しぶり。この人にとっては、ほんの少し前に会ったばかりなのだろう。私にとっては、八千年ぶりだった。その差が、小さな座席の距離の中に、すべて詰まっている。

 

 膨の上の相手の手も、祈るように組まれた指も、触れられる距離にあるのに、私は一度もそちらを見なかった。

 

 これ以上見れば、明るい色のものに、目が耐えられなくなる気がしたから。その八千年の間、私はこの人の名前を、何度ヤチヨと一緒に呼んだだろう。

 

 ヤチヨが彩葉の話をするたびに、私は隣で相槌を打っていた。笑っている顔も、怒った顔も、ヤチヨの話の中で何度も思い描いた。

 

 それなのに、本物の彩葉が目の前にいる今、どんな顔をすればいいのか分からない。会えて嬉しい。その気持ちは、確かにここにある。同じくらい、逃げ出したい。どちらも本当で、どちらも口にできなかった。

 

 その間、何度もこの人の顔を思い出そうとした。最初は覚えていた声も、笑い方も、いつしか分からなくなっていた。名前だけが残った。彩葉。私の姉。

 

 それなのに今、その人が目の前で微笑んでいる。昔の私は、きっと喜んだはずだ。

 

 でも、今の私にはどうすればいいのか分からない。

 

「……うん」

 

 どうにか頷いた。その笑顔を見ていると、八千年前のあの日を思い出す。私が会いに行ったとき、この人は私を追い返した。

 

 細かな会話は曖昧なのに、「帰って」と言われたことだけは残っている。あのとき、私はどれほど悲しかったのだろう。今となっては、その悲しみ方さえ思い出せない。

 

 お願いだから、帰ってほしい。何も聞かないでほしい。心の中で、何度もそう繰り返した。これ以上、この人たちの前で、空気のように黙っているのも、嫌だった。

 

 でも口を開けば、間違いなく、何かを壊す。昔の私を演じられないことに、気づかないでほしい。

 

 私は黙っていることしかできなかった。黙っていることは、拒絶ではない。そう思ってほしいと、心の片隅で願っていた。

 

 けれど、黙り込む私を見て、二人が空気を読むように声を落とすのも、分かっていた。気を遣わせている。そう思うと、さらに胸が苦しくなる。

 

 素の自分でいられないことが、周りをこんなにも疑心暗鬼にさせている。膝の上で、指先が冷えていく。

 

 視線を上げたら、きっと見抜かれてしまう。だから、床の木目ばかりを数えていた。早く終わってほしい。そう願うたびに、心のどこかで、終わらないでほしいとも思っていた。矛盾していることくらい、自分でも分かっていた。

 

 二人の気配が、すぐそばにある。それだけで、筋肉のどこかがこわばっていく。

 

 温度を感じられるようになったこの体は、こんなところでも正直だ。すぐ隣に座る姉の体温が、脇腹のあたりで、あたたかくて、それが耐えられないほど嬉しい。嬉しいのに、それを認めたら、私はもう一人でいられなくなる。

 

     * * *

 

side 酒寄彩葉

 

 彼方はソファに座ったまま、ほとんど話さなかった。

 

「……最近、ちゃんと食べとるか?」

 

「……うん」

 

「……お母さん、食欲がないみたいやって心配しとったで」

 

「……大丈夫」

 

「……ほんまか?」

 

 彼方は小さく頷いた。昔は、聞いてもいないことまで楽しそうに話してくれたのに。今は、何かを聞かれるたびに少し考えてから答えている。

 

 それに、彼方はまだ一度も私たちを呼んでいなかった。昔なら、何度も「お姉」と呼んでくれた。

 

 けれど、呼んでくれないことを責めるつもりはなかった。私は、どんな彼方でも受け入れると決めたのだから。

 

 気になるのは、彼方が何かを恐れているように見えることだった。さっき、ソファで動かない彼方を見つけたとき、私は何もできなかった。

 

 助けたいと思って来たのに、あの子が何を抱えているのかさえ分からない。

 

 だから、知りたかった。

 

 昔の彼方ではなく、今の彼方を。

 

「……ねえ、彼方」

 

 彼方が顔を上げる。

 

「……何?」

 

「私、今日はちゃんと話がしたくて来たの」

 

「…………」

 

「私たちのこと、ヤチヨのこと……」

 

「やめて」

 

 言い終わる前に遮られた。

 

「……え?」

 

「……その話、やめて」

 

 彼方の声が震えていた。

 

「……彼方?」

 

「……聞きたくない」

 

 私はまだ、何も説明していない。ヤチヨが八千年を生きたことも、お隣さんを探していることも。その人が彼方かもしれないという疑いも。それなのに、彼方は話を止めようとしている。

 

「……彼方、ヤチヨのこと……」

 

「知らない!」

 

 彼方が声を荒らげた。お兄ちゃんも驚いたように彼方を見る。

 

「……彼方?」

 

 彼方は俯いた。膝の上で握りしめた手が、小さく震えている。

 

 どうして、そんなに怖がるの。

 

 怖がらせたいわけではなかった。ただ、もう一度、ちゃんと目を合わせたかっただけだ。それなのに、私が一歩近づくたびに、あの子は一歩遠ざかる。

 

 その距離を、私は責めることができなかった。責める権利が、私にはない。何かを知っているのだろうか。

 

 鞄の中のタブレットは、静かなままだった。ヤチヨは約束どおり、声を出さずにいてくれている。今のやり取りを、彼女はどんな顔で聞いているのだろう。そう思っても、それ以上問い詰めることはできなかった。

 

「……彼方、落ち着こ。無理に話さんでもええから」

 

 お兄ちゃんが静かに言った。私はヤチヨの話をやめた。今は、無理に聞き出すべきではない。でも、どうしても伝えたいことがあった。

 

「……ごめんね」

 

 ゆっくりと言った。

 

「……急にこんな話をして」

 

「…………」

 

「でも、私、彼方に謝りたくて……」

 

「……もういい」

 

 また遮られた。

 

「……彼方」

 

「……いいから」

 

 私は言葉を探した。家を出てから、彼方のことを気にかけられなかったこと。連絡をくれていたのに、ちゃんと向き合わなかったこと。そして、あの日、会いに来てくれた妹を追い返してしまったこと。

 

「あの日、私の家に来てくれたとき……」

 

「…………」

 

「……帰ってって言ったこと、本当に……」

 

「……やめて」

 

 彼方の声が低くなった。

 

「……その話も?」

 

 彼方は頷いた。

 

「……もう、いい」

 

 謝ることさえ、聞いてもらえない。喜びを言葉にする前に、負い目が先に来た。ここに来るまでの間に、何度も言い聞かせていたはずだった。

 

 話させてもらう前に、まず聞くこと。なのに、いざ彼方の顔を見たところで、用意してきた言葉たちが、先に口から溢れてしまった。

 

 自分を許してほしいという気持ちが、思ったより、ずっと強かった。そう考えて、気づいた。あと少しで、自分の中の答えに指が届きそうだった。届きそうで、怖かった。

 

 この答えを直視したら、私はきっと、彼方に許しを請うのをやめてしまうかもしれない。それは、あちらを見てくれない妹を、見捨てることにもなるのに。

 

 違う。彼方は、聞きたくないと言っているのだ。それなのに、私は自分が謝りたいという気持ちばかりを考えている。

 

 あの日と、何も変わっていないのだろうか。私はいつもそうだった。彼方が何か言いかけるたびに、「あとでね」と言って、あとで聞くことはなかった。

 

 忙しいから。疲れているから。そんな言い訳を並べているうちに、彼方は、私に何も言わなくなった。

 

 それを私は、あの子が大人になったからだと思っていた。違う。私が、聞かない姉になっていたのだ。

 

「……でも、私……」

 

「……帰って」

 

 小さな声だった。

 

「……彼方?」

 

「……お願い。帰って」

 

 その言葉に、あの日の記憶が蘇った。私が彼方に言った言葉。何の説明もせずに突きつけた言葉。今度は、私が言われている。

 

 会いたくて来た相手に、帰ってと言われる。話したいことがあっても、聞いてもらえない。あの日、彼方はこんな思いをしたのだろうか。

 

 傷ついて、それでも怒らずに、寂しそうに笑って、あの子はどんな顔で帰り道を歩いたのだろう。あのときの笑顔が、今、目の前で怯えた表情に変わっている。そう思うと、胸が潰れそうだった。

 

「……彼方、聞いて」

 

 私は静かに言った。

 

「……私、もう一度ちゃんとやり直したいの」

 

「…………」

 

「……今まで、彼方に寂しい思いをさせてきたと思う。だから、これからは……」

 

「……いらない」

 

「……え?」

 

「……もう、いい」

 

 その言葉が胸に刺さった。私がもう一度向き合いたいと思っていること。その全部を、いらないと言われたような気がした。けれど、彼方にはそう言う権利がある。私はあの日、彼方を拒絶したのだから。彼方が顔を上げる。

 

 その目には怯えが残っていた。何かを必死に押し殺しているようにも見えた。

 

「……彼方」

 

 私は、もう一度名前を呼んだ。

 

「……私、また昔みたいに……」

 

「やめて!」

 

 彼方が叫んだ。

 

「……彼方、もうええ。無理せんでええから」

 

 お兄ちゃんが静かに声をかける。それでも彼方は私を見ていた。

 

「……昔みたいに、なんて……」

 

 そこで言葉が途切れた。昔みたいに。私は、昔の彼方に戻ってほしいわけじゃない。八千年を生きていたとしても、どんなに変わっていたとしても、受け入れるつもりだった。その覚悟は今も変わらない。

 

 でも、彼方には伝わっていない。伝える順番を、また間違えたのだと思った。覚悟を言葉にする前に、先に相手の心の準備を確かめるべきだった。

 

 でも、その準備がいつ整うのかを、あの子はこれまでどれだけ一人で待ってきたのだろう。

 

 私が何を考えてここに来たのか。どんな覚悟で会いに来たのか。あの子は知らない。そして私も、今の彼方が何を望んでいるのかを知らない。

 

 もし本当に八千年を生きたのなら、「昔みたいに」なんて簡単に言えるはずがなかった。私はヤチヨの記憶を見て、そのことを知っていたはずなのに。

 

 長い時間を生きた人にとって、「昔みたいに」という言葉がどれほど遠いものなのか。ヤチヨが私の前で笑顔を作るのを、私は一番近くで見ていたのに。私はまた、同じ失敗をしかけている。

 

「……彼方、お願い。少しだけでも話を……」

 

「……前は」

 

 彼方が私の言葉を遮った。

 

「……え?」

 

「……前は、追い返したのに」

 

 息が止まった。

 

「……自分が話したいときは、来るんだ」

 

 何も言い返せなかった。そのとおりだった。反論できないということは、それが正しいということだ。

 

 理屈ではなく、胸の奥で分かっている。彼方の言葉は、怪我をした人が、傷を見せただけのようなものだった。責めているのではない。

 

 ただ、そこにあるものを言っただけ。だからこそ、沈黙があまりに重かった。あの日、彼方が会いに来てくれたとき、私は話を聞こうともしなかった。

 

 なのに今度は、私が話したいから来た。彼方が帰ってほしいと言っているのに、聞いてほしいと頼んでいる。心配だから。謝りたいから。

 

 もう一度向き合いたいから。それは全部、私の気持ちだった。彼方は、もう笑っていなかった。その事実が、思っていた以上に痛かった。

 

 泣かれるより、怒鳴られるより、笑ってもらえないことのほうが、ずっと。笑顔は、許しのしるしではない。それは分かっている。

 

 分かっているのに、あの子が笑わないことが、私への判決のように思えてしまう。そう感じる自分が、一番身勝手だった。

 

 その目には、怒りだけではなく、悲しみと諦めが浮かんでいた。私は、ヤチヨの記憶の中で見た表情を思い出した。長い時間を生きて、何かを失い続けた人の表情。

 

 もし本当に彼方があの八千年を生きたのなら、私はまだ何も知らない。何を失って、何を守ろうとしてきたのか。

 

 それでも、知りたい。

 

 昔の彼方だけではなく、今の彼方を。何年かかってもいい。話してくれるまで待つことだってできる。許してくれなくてもいい。昔のように笑ってくれなくてもいい。

 

 もう「お姉」と呼んでくれなくても。それでも私は、彼方の姉でいたかった。だから今度こそ、あの子の言葉を聞こう。

 

 鞄の中のタブレットが、かすかに熱を持っている気がした。ヤチヨも、息をひそめてこの瞬間を待っている。そう思った。そして、彼方が口を開いた。

 

「……都合がいいんだね、彩葉は」

 

 




彼方の攻撃 「名前呼び」 彩葉には効果抜群だ!!

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