お姉は私が嫌い   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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今回は彼方視点とその続きです。

ハッピーエンド目指してるはずなのに曇らせ描写が勝手に入ってしまう。病気かもしれないです。いい精神科知ってる人いるなら教えてください


12話

side 酒寄彼方

 

 階段を一段上るたびに、足の裏から少しずつ力が抜けていく気がした。

 

「まだ眠たいから、部屋で寝るね」

 

 さっき自分の口から出た声が、まだ耳の奥に残っている。抑揚も、温度もない声だった。そういう声を出すのは、得意だった。得意になってしまった、と言ったほうが正しいのかもしれない。八千年のあいだに覚えたことの中で、いちばん役に立って、いちばん嫌いなもの。それが、何も感じていないふりをする声だった。

 

 背中のほうで、何かが床に落ちるような、鈍い音がしていた。彩葉が膝をついた音だと、振り返らなくても分かった。

 

 分かったから、振り返らなかった。振り返ってしまったら、きっと足が止まる。足が止まってしまったら、今度こそ、胸の奥に押し込めてきたものが全部零れてしまう。そうなったら、もう二度と元には戻せない。

 

「彼方!」

 

 朝日の声が、あとを追ってきた。

 

 それにも、返事をしなかった。

 

 一段、また一段。古い板が、踏むたびに小さく軋む。昔はこの音が好きだった。夜中にこっそり水を飲みに下りるとき、軋まない場所を選んで足を置くのが、ちょっとした冒険だった。どの段のどこを踏めば音がしないのか、あの頃の私は全部知っていたはずだ。

 

 今は、もう覚えていない。

 

 七段、八段。踊り場で、手すりを掴む指に力がこもった。

 

 二階の廊下は、ひんやりとしていた。突き当たりの、自分の部屋の扉。帰ってきてから毎日開け閉めしているのに、今日はやけに重く感じる。ドアノブを回して、中へ滑り込み、できるだけ音を立てないように扉を閉めた。

 

 カチリ、と小さく掛け金の鳴る音がした。

 

 それが、私と彩葉のあいだに引いた線の音のように聞こえた。ベッドの上に上がって、壁に背中をつける。膝を引き寄せて、腕で抱え込んで、その中に顔を埋めた。

 

 前にも、こうしていたことがある。

 

 いつだったかは、思い出せない。けれど身体のほうが、この形を覚えていた。小さく、できるだけ小さく。誰の目にも留まらないように。そうしていれば、世界のほうが私を見逃してくれる気がした。

 

 ――都合がいいんだね、彩葉は。

 

 自分の声が、頭の中で何度も繰り返される。

 

 あんなことを言うつもりはなかった、と言えば、嘘になる。あれは、ずっと前から胸の底に沈んでいた言葉だった。あの夏の玄関で「帰って」と言われた日から、八千年という時間の底で、石みたいに固まって転がっていた言葉。いつか誰かに投げつけたくて、けれど一度も投げられずにいた言葉。

 

 それでも、口に出すつもりはなかった。

 

 彩葉を傷つけたかったわけじゃない。

 

 ただ、近づいてほしくなかった。

 

 彩葉が会いに来たのは、あの夏に追い返した妹にだ。あの玄関で、何も言えずに口を閉じた酒寄彼方にだ。謝りたいと思ってくれているのも、やり直したいと思ってくれているのも、全部、あの子に向けられたものだった。

 

 でも、あの子はもう、ここにはいない。

 

 九月十二日に、あの子は月へ向かった。自分の足で。自分で決めて。ここにいるのは、その先の八千年を生きて、この身体へ帰ってきただけの私だ。

 

 彩葉の謝罪は、あの子に届くべきものだった。それを私が受け取ってしまったら、それは、あの子のものを横から盗むのと同じことになる。そして、もし受け取ってしまったら、彩葉はきっと、私の中にあの子を探し始める。昔の笑い方を。昔の呼び方を。昔の、何も知らなかった頃の彼方を。

 

 探して、見つからなくて。

 

 そのとき彩葉は、どんな顔をするのだろう。

 

 それを見るくらいなら、最初から遠ざけてしまったほうがいい。そう思った。思ったから、あの言葉を選んだ。いちばん鋭くて、いちばん効く言葉を。

 

 効きすぎた、と今は思う。

 

 階下から、何かが動くような鈍い物音がした。さっき彩葉が膝をついたときの音が、耳の奥に蘇る。今頃、彩葉はどうしているのだろう。あの人は昔から、人前では泣かない人だった。泣くときは、誰にも見られない場所で、声を殺して泣く人だった。

 

 もしかしたら今も、リビングで一人、泣いているのかもしれない。そう想像するだけで、胸が痛んだ。あの人を傷つけたのは、私だ。膝を抱える腕に、爪が食い込む。痛い。痛いけれど、そのくらいがちょうどよかった。

 

 ごめんなさい、と思う。

 

 けれど、それを言いに下りていくことはできなかった。下りていけば、全部話さなければならなくなる。話さないまま謝ることは、もっと残酷な気がした。

 

 涙が、勝手に膝を濡らしていく。声だけは出さないように、唇を噛んだ。泣き方なら、知っている。息を細く吐いて、肩の震えを腕で押さえ込んで、喉の奥で嗚咽を潰す。そうすれば、扉一枚向こうにいる人にだって、気づかれずに済む。

 

 そうやって、何度も泣いてきたのだから。

 

     * * *

 

 コン、コン。

 

 扉を叩く音がした。

 

 息が、止まった。

 

 軽いノックだった。急かすような響きではなかった。けれど、そこに誰がいるのかは、すぐに分かった。彩葉のノックは、もっと遠慮がちで、もっと迷っている。この音には、迷いのあとに決めた人の重さがある。

 

 返事をしなかった。

 

 だめ、と言おうとした。来ないで、と。

 

 けれど、その言葉が形になるより先に、扉の向こうから声がした。

 

「入るで」

 

 許可を待つ声ではなかった。

 

 扉が開いて、廊下の空気がひやりと流れ込んでくる。足音が二つ、三つ。それから、止まった。顔を上げられなかった。上げたら、泣いていたことがばれてしまう。もう、とっくにばれているのだろうけれど。それでも、見せたくなかった。

 

 ベッドの端が、ゆっくりと沈んだ。

 

 その振動に、肩がびくりと跳ねる。高いところで止まったまま、下ろし方が分からなくなった。

 

 朝日は、何も言わなかった。

 

 私から一人分くらいの間を空けて、そこに座ったまま、動かなかった。部屋の中には、壁の時計の音だけがあった。カチ、カチ、と秒針が進むたびに、沈黙が一枚ずつ積み重なっていく。

 

 なんで、何も言わないんだろう。

 

 責めに来たのなら、責めればいい。彩葉をあんなふうに傷つけたのだから、怒られて当然だった。なんであんなこと言うたんや、と声を荒げてくれたなら、私はそれを受け止めて、黙って頷くことができた。

 

 慰めに来たのなら、慰めればいい。大丈夫や、と言ってくれたなら、私は大丈夫だと答えて、それで終わりにできた。

 

 なのに朝日は、どちらもしなかった。

 

 ただ、そこにいた。

 

 逃げずに。急かさずに。

 

 その沈黙が、怒鳴り声よりもずっと、私の胸を締めつけた。

 

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 

「……朝日」

 

 気づけば、名前を呼んでいた。

 

 呼ぶつもりはなかった。出ていって、と言うつもりだった。なのに、喉から出てきたのは名前だけだった。

 

「……おう。どうした」

 

 返事までに、ほんのわずかな間があった。

 

 その間の意味を、私は知っている。

 

 この人は昔、私に「お兄」と呼ばれていた。ずっと、そう呼ばれていた。それが今は「朝日」になっている。帰ってきてから、私は一度も、この人を昔の名前で呼んでいない。

 

 呼べなかった。

 

 お兄、という呼び方は、あの子のものだと思ったから。月へ向かったあの子が、この人を呼ぶための名前だったから。それを、あとから帰ってきただけの私が使っていいとは、どうしても思えなかった。それに、口にした瞬間、自分の中の何かが崩れてしまいそうで怖かった。

 

 だから、名前で呼んだ。

 

 そのたびに、この人がほんの一瞬だけ言葉を失うことに、気づいていながら。

 

「……朝日。なんで……なんで来たの」

 

 膝の間から、声が漏れた。

 

 自分でも、ひどい言い方だと思った。

 

 来てほしくなかった。

 

 来てほしかった。

 

 どちらも本当で、どちらも口にできなくて、結局、そのどちらでもない言葉になった。

 

「彼方が泣いとるのが、聞こえたからや」

 

 肩が、また震えた。

 

 聞こえていた。

 

 あんなに声を殺していたのに。誰にも気づかれないように、上手に泣いていたはずなのに。八千年かけて覚えた泣き方は、この人の耳には通用しなかった。

 

 それが、悔しかった。

 

 それが、少しだけ、嬉しかった。

 

 そんなことを思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。

 

「彼方、聞いといてくれ。返事はいらん」

 

 朝日の声は、低くて、静かだった。

 

 顔を上げないまま、耳だけをそちらに向けた。

 

「俺は、彩葉とヤチヨちゃんから、ある程度話は聞いた。」

 

 心臓が、冷たい手で掴まれたように縮んだ。

 

 ヤチヨ。

 

 その名前が、朝日の口から出てくるとは思っていなかった。

 

 もしかしてヤチヨが、ここにいる?。

 

 この家に。彩葉と一緒に。

 

 頭の中が真っ白になった。さようなら、と送ったはずだった。名前も告げずに、あれを届けて、それで終わりにしたはずだった。もう二度と、あの子の声を聞くことはないのだと。そう決めて、そう諦めて、毎日を過ごしてきたはずだった。

 

 なのに、あの子は彩葉と一緒に、この家に来ているかもしれない。

 

 リビングで彩葉に「都合がいいんだね」と言ったとき、あの子も、どこかで聞いていたのだろうか。

 

 背中に、じっとりと汗が滲んだ。

 

 話を聞いた、と朝日は言った。

 

 何を。どこまで。

 

 八千年のことだろうか。お隣さんのことだろうか。月のことだろうか。

 

 知られてしまったのだろうか。

 

 問いが次々に浮かんで、どれ一つとして声にならなかった。

 

「正直、理解はあんまできとらんし、まだ納得もできてへん」

 

 続いた言葉に、身体の芯から力が抜けた。

 

 安堵、だったのだと思う。

 

 朝日は、まだ分かっていない。半分も信じていない。そういう声だった。けれど、その安堵のすぐ後ろから、別のものがやってきた。分かっていないのなら。この人はまだ、私をあの子だと思っている。そして、彩葉とヤチヨは、もう何かに気づき始めている。

 

 隠し通せる時間は、思っていたよりずっと短いのかもしれない。

 

「でも、それでも、これだけは言わせてくれ」

 

 朝日が、一度だけ息を吸った。

 

 その音が、ひどく近くに聞こえた。

 

「俺は、彼方がどんなに変わってしもても、お兄ちゃんや。彼方が俺のこと忘れてしもてても、ええ。呼び方も、何でもええ。朝日でも、アンタでも、名前を呼ばんでもええ。そこは俺にとって、なんの問題もない」

 

 呼び方も、何でもええ。

 

 この人は、気づいていたのだ。

 

 名前で呼ばれるたびに、自分が一瞬言葉を失っていることに。それを私が見ていることに。私がそのことで、もっと苦しくなっていることに。

 

 だから、先に言ってくれた。

 

 何でもええ、と。

 

「俺にとって、彼方は彼方や」

 

 その言葉が、薄暗い部屋の空気に、ゆっくりと沈んでいった。私は、膝に顔を埋めたまま、何も言えずにいた。

 

 今いちばん欲しかった言葉だった。

 

 欲しいと思うことさえ、とうに諦めていた言葉だった。それが、何の飾りもなく、あたりまえのことのように、朝日の口から零れた。さっきまで自責の念に苛まれて流していた涙が、別のものに変わっていく。

 

 嬉しい、というのとは、また違う。

 

 ほっとした、というのでも足りない。

 

 名前のつけられない感情が、胸の中で暴れ回っていた。

 

 八千年のあいだに積み上げてきたものを、根こそぎひっくり返されたような気がした。どれだけ時間が経っても、どれだけ遠くへ行っても、誰かに「彼方は彼方だ」と言ってもらえる日は来ないのだと、そう思って生きてきたのに。

 

 朝日は、何の迷いもなく、そう言ってくれた。

 

 私がどれほど変わっていても。

 

 昔のことを覚えていなくても。

 

 もう、お兄と呼べなくなっていても。

 

 それでも、自分は私のお兄ちゃんだと。

 

 嬉しかった。

 

 どうしようもなく、嬉しかった。

 

 八千年も生きてきたくせに、たったそれだけの言葉が、こんなにも欲しかったのだと思い知らされた。

 

 けれど。

 

 ねえ、朝日。

 

 それは、私があなたの知っている酒寄彼方だから、言ってくれるんじゃないの。

 

 あなたは、私が変わってしまったのだと思っている。

 

 長いあいだ会わなかったから。病気をして、辛い思いをしたから。昔のように笑えなくなって、呼び方まで変わってしまったから。

 

 それでも、妹であることに変わりはないのだと。

 

 そう思ってくれている。

 

 でも、違う。

 

 違うんだよ、朝日。

 

 あなたの知っている彼方は、もうここにはいない。

 

 あの子は、九月十二日に月へ行った。

 

 あなたのことをお兄と呼んで、彩葉のあとを追いかけて、いつかまた家族みんなで笑える日を願っていた、あの子は。

 

 もう、この身体の中にはいない。

 

 ここにいるのは、八千年もの時間を生きて、あなたの顔さえ満足に思い出せなくなってしまった私だ。

 

 あの子が大切にしていた記憶を、少しずつ忘れて。

 

 あの子が当たり前に呼んでいた名前さえ、口にできなくなって。

 

 それなのに、あの子が帰るはずだった場所に、こうして座っている。

 

 あなたに、彼方と呼ばれている。

 

 お兄ちゃんでいてもらおうとしている。

 

 ずるい。

 

 そんなの、ずるいよ。

 

 あなたが優しくしてくれるたびに、私は嬉しくなってしまう。

 

 あなたが私を彼方と呼ぶたびに、もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまう。

 

 本当のことを話さなければいけないのに。

 

 あなたが大切にしている妹は、もうここにはいないのだと、伝えなければいけないのに。

 

 もし、全部知ってしまったら。

 

 あなたは、それでも私を彼方と呼んでくれるのだろうか。

 

 それでも、お兄ちゃんでいてくれるのだろうか。

 

 さっきまでなら、きっと諦められた。

 

 どうせ私は、あの子の代わりなのだから。

 

 いつか知られて、拒絶されるのなら、それも仕方がないのだと。

 

 そう思っていられた。

 

 けれど、今は。

 

 もう、嫌だった。

 

 この人に、嫌われたくない。

 

 この人の優しさを、失いたくない。

 

 もう一度、他人に戻ることが、怖くて仕方がなかった。

 

 だから、何も言えなかった。

 

 たった一つの真実を伝えるだけで、この温かい場所がなくなってしまうかもしれない。

 

 そう思うと、どうしても、声が出なかった。

 

 

     * * *

 

 ゆっくりと、顔を上げた。

 

 目が合った。

 

 あぁ。

 

 朝日は、こんな顔だったんだ。

 

 帰ってきてから、ろくに顔を合わせようとしなかった。目が合いそうになるたびに逸らして、話しかけられれば短く答えて、すぐに部屋へ戻った。見ていなかった顔が、今は、しっかりと分かる。

 

 目尻の下がり方。

 

 笑うと少しだけ片側に寄る口元。

 

 心配をしているとき、眉の間にできる浅い皺。

 

 視界はまだ涙で滲んでいて、眩しいものを見るみたいに焦点が合わない。だから私は、その顔の輪郭を一つずつ確かめていった。額の形。鼻筋。顎の線。少し伸びた前髪。

 

 もう、忘れてしまっていた顔だった。

 

 八千年は、長すぎた。

 

 いろいろなものが、削れていった。

 

 母の声も。家の匂いも。兄の笑い方も。

 

 少しずつ、少しずつ。

 

 思い出そうとするたびに輪郭がぼやけて、最後には「優しかった人」という、たったそれだけが残った。

 

 いつも優しかった人。

 

 私を守ってくれた人。

 

 困ったときには、必ず助けてくれた人。

 

 そんなことしか、覚えていられなかった。

 

 けれど、忘れてしまったものが、何もかも消えていたわけではない。

 

 声を聞けば、懐かしいと思う。

 

 顔を見れば、どこかで知っていると思う。

 

 そうして目の前にあるものを手がかりに、記憶の底へ沈んでいた断片が、少しずつ浮かび上がってくる。たとえば、あの夏。彩葉のアパートから帰ったあと、私は朝日の家にいた。扉を閉めた部屋で、声を殺して泣いていた。そのとき、この人は隣に座ってくれた。何も言わずに。ただ、そこにいてくれた。

 

 ――会いたかっただけやのに。

 

 あのとき、私はそう言って泣いたのだと思う。

 

 思う、としか言えない。それくらい、遠い記憶だった。でも、それはもう、昔のように自然に思い出せるものではなかった。目の前にこの人がいて、同じようにベッドの端に座っていて、ようやく掬い上げられる程度の、薄い記憶。八千年という時間が、私と家族のあいだに横たわっている。

 

 その隔たりが、どうしようもなく悔しかった。

 

 なんで、この人のことを覚えておけなかったんだろう。

 

 こんなにも優しい人だったのに。

 

 こんなにも、大好きだったのに。

 

 目の前にいるのは、ちゃんと、あの人だ。

 

 それだけは、今ならわかる。

 

 だからこそ、伝えなければならないと思った。

 

 私はもう、朝日の知っている酒寄彼方ではない。

 

 あの夏、彩葉に会いに行って、拒絶されて、傷ついて。それでも姉を慕っていた、あの酒寄彼方は、もうここにはいない。

 

 あの子は、自分の意思で月へ向かった。

 

 そして私は、八千年を生きた末に、この身体へ帰ってきた。

 

 同じところから始まったとしても、同じ時間を生きたわけではない。あの子がこの家で重ねていくはずだった毎日を、私は知らない。代わりに私が知っているのは、誰もいない月の静けさと、名前も残らない時代の街並みと、ヤチヨの笑い声だけだ。

 

 あの子が何を思い、何を望み、最後にどんな気持ちで旅立ったのか。かつて自分だったはずなのに、私はもう、それを完全には思い出せない。なのに今、私はあの子の身体で、あの子の兄に優しくされている。あなたが知っている妹は、もうどこにもいないのだと。

 

 この優しい人に、それを言わないまま隣に座っていることは、きっと罪なんだと思う。

 

「……私、は……もう……」

 

 声が出た。

 

 そこまでは、出た。

 

 もう、あなたの妹じゃない。

 

 続きは、それだけだった。たった一言だった。

 

 けれど。

 

「…………」

 

 続きが、出てこない。

 

 唇が開いて、閉じる。

 

 また開いて、また閉じる。

 

 喉の奥に、熱くて重たいものが詰まっていた。言葉の形をしていない、塊のようなもの。押し出そうとするたびに、それは喉の壁にぶつかって、砂みたいに崩れて、また元の場所へ沈んでいく。何度も言葉を探して、それでも何も見つからなかった。

 

 朝日は、何も言わなかった。

 

 私の顔を見たまま、ただ、待っていた。

 

 怖い。

 

 受け入れると言ってくれた。どんなに変わっても、お兄ちゃんだと言ってくれた。なのに、一度触れてしまった優しさが、もし無くなってしまったらと考えると、声が出なかった。

 

 知らなければ、失う痛みも知らずにいられた。

 

 帰ってきてからずっと、この人を遠ざけてきたのは、きっとそのためだった。近づかなければ、失うこともない。何も受け取らなければ、何も返さなくていい。八千年のあいだ、私はそうやって、いろいろなものとの距離を測ってきた。

 

 けれど、もう知ってしまった。

 

 朝日の声も。

 

 その表情も。

 

 私に向けられる、何の疑いもない優しさも。

 

 全部話したあとでも、この人は同じ顔で、私を見てくれるだろうか。朝日が愛している妹は、もう月へ行ってしまった。その事実を知っても、まだ、私を彼方と呼んでくれるだろうか。その答えを確かめることが、八千年待ち続けたことよりも、よほど怖かった。

 

「無理に話さんでええ」

 

 朝日の声が、静かに落ちてきた。

 

 責める響きは、どこにもなかった。

 

「彼方が話せるようになったときでええ。明日でも、来週でも、来年でも。そのとき、お兄ちゃんに聴かせてくれ。俺は、いつでもここにおるから」

 

 明日でも。来週でも。来年でも。

 

 この人は、待つと言った。

 

 私が話せるようになるまで。いつになるか分からない、その日まで。

 

 ほんとうに、優しい人だ。

 

 今は聞かないでくれる。

 

 待っていてくれる。

 

 その言葉に、救われた。

 

 待たれることが、こんなに息のしやすいことだなんて、知らなかった。

 

 私はずっと、待つ側だったから。

 

 月で、七十年。

 

 誰の声も届かない場所で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 

 それから八千年。ヤチヨと旅をしながら、時代が変わり、国が変わり、知っているものが何もかも失われていくのを見ながら、いつか来るはずのその日を、待っていた。彩葉とかぐやが再会する日。私の役目が終わる日。あの子に全部を託して、私がいなくなる日。

 

 待つことには、慣れていた。

 

 けれど、待たれることには、慣れていなかった。

 

 今は、私を待ってくれる人がいる。

 

 何も話せない私を、急かさずに。

 

 変わってしまった私を、責めずに。

 

 ここにいていいと、言ってくれる人がいる。

 

 膝の上で組んでいた手に、ぎゅっと力がこもった。指先が、行き場を探すように膝の上をさまよう。この人の手を掴みたいのか、それとも自分の手を押さえつけたいのか、自分でも分からなかった。

 

 私は、また俯いた。

 

 朝日の顔を、それ以上見ていられなかった。見ていたら、甘えてしまいそうだった。

 

 大好きだった人。

 

 優しかった人。

 

 今でも優しい人。

 

 私のお兄。

 

 胸の中で、そっと数える。

 

 声に出せない呼び方を、心の中でだけ、呼んでみる。

 

 お兄ちゃん。

 

 お兄。

 

 記憶の中には、そんな呼び方が残っている。けれど、口に出そうとすると、喉がひくりと強張ってしまう。

 

 朝日、と呼ぶことさえ、最初は怖かった。

 

 それでも、この人は責めなかった。

 

 呼び方は何でもいいと、言ってくれた。

 

 だからこそ、もっとこの人のことを知りたいと思った。八千年のあいだに忘れてしまった分を、取り戻したい。

 

 記憶の中にいる人に、もう一度触れたい。

 

 ぼやけてしまった輪郭を、この手でなぞって、ちゃんと思い出したい。けれど、それを望むことさえ、あの子に対する裏切りのような気がした。あの子が受け取るはずだった優しさを、私が先に受け取ってしまう。あの子が過ごすはずだった時間を、私が代わりに過ごしてしまう。

 

 それでも。

 

 もう少しだけ。

 

 ほんの少しでいいから、私はこの人の優しさに触れていたかった。

 

     * * *

 

「……今だけ……」

 

 声が、零れた。

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。空気を震わせるのも惜しいような、頭の重さをどこかに預けてしまいたいような声。

 

 朝日が、耳を澄ませる気配がした。

 

 我儘なんて、どのくらい言っていないんだろう。

 

 あの頃の私は、ちゃんと言えていたのだろうか。

 

 誰かに甘えること。

 

 そばにいてほしいと頼むこと。

 

 そんなことさえ、八千年の底に置いてきてしまったのかもしれない。ヤチヨの隣にいたときも、私はいつも、あの子を支える側でいようとした。寂しいと言われれば、そばにいた。困ったと言われれば、手を貸した。けれど、自分が寂しいとは、一度も言わなかった。言ってしまったら、あの子を困らせると思ったから。

 

 でも、もう少しだけ。

 

 もう少しだけ、今だけは。

 

「……何も、言わないで……」

 

 朝日は、黙っていた。

 

 黙って、聞いてくれていた。

 

「……何も、聞かないで……」

 

 膝を抱える腕に、力がこもる。

 

 ここまで言ってしまったら、もう引き返せない。

 

 断られたらどうしよう。

 

 そんな子供みたいな不安が、喉元までせり上がってくる。八千年を生きたくせに。いくつもの時代の終わりを見てきたくせに。たった一言を頼むのが、こんなにも怖い。最後の言葉だけは、どうしても声が震えてしまった。

 

「……そばに、いて……」

 

 返事が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。

 

 時計の秒針が、一つ、二つ。

 

 三つ目の音が鳴る前に。

 

「……おう。おるで」

 

 朝日の声は、少しだけ震えていた。

 

「何も聞かへん。何も言わへん」

 

 それから、いつもの穏やかな声に戻る。

 

「せやから、安心しとき」

 

 一拍、おいて。

 

「お兄ちゃん、ここにおるから」

 

 お兄ちゃん。

 

 私が呼べなかった名前を、この人は、自分で名乗ってくれた。私が呼ばなくても、この人はお兄ちゃんでいてくれる。私が何と呼ぼうと、そこにいてくれる。その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けていった。

 

 膝を抱えていた腕が、少しずつほどける。

 

 頭の上に、手が乗せられた。

 

 大きくて、少し硬くて、ゆっくりとした重み。

 

 無理に撫でるのではなく、ただ、そこに置かれた手。その手のひらから、じんわりと温度が染み込んでくる。

 

 あたたかい。

 

 温かさを感じること自体は、もう珍しいことではなかった。

 

 この身体には、ちゃんと温感がある。

 

 帰ってきてから、冷たい水の冷たさも、日差しの熱も、湯気の立つ食事の温度も、少しずつ思い出してきた。最初の頃は、お茶の熱さに驚いて湯呑みを取り落としそうになったこともある。お母さんが作ってくれた味噌汁の温かさに、理由も分からず泣きそうになったこともある。

 

 けれど、人の手がこんなにも温かいものだったことを、私は忘れていた。帰ってきて初めて、人の温かさに触れた気がした。病院でお母さんに抱き寄せられたときも、確かに温かかった。

 

 ただ、あのときの私は、驚きと戸惑いと、「この人を悲しませてはいけない」という強張りでいっぱいで、その温かさを受け取る余裕がなかった。あの時はお母さんを騙してるような気がしてただ申し訳なかった。

 

 けれど今は、不思議と身体の力が抜けていく。

 

 張りつめていた糸が、一本ずつ、ほどけていく。

 

「……あたたかい……」

 

 息と一緒に、言葉が零れた。

 

「……朝日の手、あたたかい」

 

「そやろ。お兄ちゃんは、体温高めやからな」

 

 少しだけ、冗談めかした声だった。

 

 無理に軽くしてくれているのが、分かった。この部屋の空気が重くなりすぎないように。私が、これ以上何かを背負わなくて済むように。昔も、こんなふうに答えてくれたことがあったのだろうか。冬の朝、かじかんだ手を握ってもらったとき。熱を出して、額に手を当ててもらったとき。

 

 思い出せない。

 

 でも、懐かしかった。

 

 可笑しくて、笑いそうになった。

 

 けれど、笑おうとした途端、また涙が溢れそうになってしまった。

 

 朝日は何も言わなかった。

 

 ただ、頭の上に置いた手を、そっと動かしてくれた。

 

 その温かさが、私をゆっくりと眠りへ誘う。

 

 まぶたが重い。目を閉じれば、あの夏の玄関が浮かんだ。月の静けさが浮かんだ。ヤチヨの最後の笑顔が浮かんだ。そのどれもが、私を眠らせてはくれなかった。

 

 意識の縁が、ゆるゆると滲んでいく。

 

「……眠い……」

 

「寝とけ。ずっとおるから」

 

 ずっと。

 

 その言葉に、もう抗う理由が見つからなかった。

 

 私は、朝日の肩に、そっとこめかみを預けた。

 

 その重みを受け止めても、朝日は動かなかった。

 

 昔、遊び疲れて眠ってしまった私を、背負ってくれたことがあった。

 

 いつのことだったか。

 

 何歳だったのか。

 

 もう、はっきりとは覚えていない。夕焼けだったような気がする。お祭りの帰りだったような気もする。それとも、そんな気がするだけで、本当はどこにもなかった記憶なのかもしれない。それでも、あのときも、きっとこんなふうに安心していたのだろう。

 

 この人が近くにいるなら、安心して眠れる気がした。

 

 身体が、小さく震えた。

 

 寒いわけではなかった。たぶん、ずっと力を入れていた身体が、ようやくそれをやめただけだった。

 

 けれど朝日は、寒いのだと思ったらしい。片手が離れて、ベッドの足元のほうへ伸びる気配がした。ふわりと、柔らかいものが肩にかけられる。毛布だった。起こさないように、そっと、肩から足もとまで。

 

 目は開けなかった。

 

 けれど、毛布の端を、指の先できゅっと掴んだ。

 

 離したくなかった。

 

 この温かさを。この重みを。この人がここにいるという、確かな手触りを。

 

 あの夜も。

 

 あの月も。

 

 八千年の孤独も。

 

 今だけは、遠い。

 

 朝日の肩の硬さと、規則正しい呼吸の音を感じながら、私は静かに目を閉じた。眠りに落ちる直前、階下で何かが動いたような気がした。

 

 彩葉は、まだそこにいるのだろうか。

 

 確かめようとしたけれど、まぶたはもう持ち上がらなかった。

 

 ひとつだけ、思った。

 

 いつか、全部話せる日が来るのだろうか。

 

 そのとき、この人は。

 

 それでも、私のことを彼方と呼んでくれるのだろうか。

 

 そして、彩葉は。

 

 答えは、まだわからない。

 

 けれど今は。

 

 この温かさを、もう少しだけ覚えていたかった。

 

     * * *

 

side 酒寄彩葉

 

 階段の一段目に足をかけたところで、一度だけ振り返った。リビングのテーブルの上に、鞄を置いてきた。その中で、ヤチヨが待っている。

 

「ここで、待っててくれる?」

 

 出がけにそう頼んだとき、画面の中のヤチヨは、少しだけ目を丸くした。それから、まだ赤い目元のまま、ふわりと笑った。

 

「うん。ヤチヨ、ここで待ってる。いってらっしゃい、彩葉」

 

 本当は、一緒に来てほしかった。

 

 一人で上がっていくのが、怖かった。

 

 けれど、これは私の足で上らなければいけない階段だと思った。誰かに背中を押してもらうのではなく、誰かの言葉を借りるのでもなく。ヤチヨがくれた言葉は、もう胸の中にある。それで十分だった。

 

 大好きだから、近づけないことだって、ある。

 

 その言葉を、お守りみたいに握りしめた。

 

 一段、また一段。

 

 古い板が、足の下で小さく軋む。さっき、彼方が上っていったときと同じ音だった。リビングで床に座り込んだまま、私はその音を数えていた。今は、自分の足でそれを鳴らしている。

 

 七段、八段。踊り場。

 

 そこで、足が止まりそうになった。

 

 この先に、あの子がいる。

 

 膝が、まださっきの拒絶を覚えている。踏み出すたびに、ほんの少しだけ力が抜けそうになる。手すりに手を添えて、ゆっくりと、残りの段を上った。

 

 二階の廊下は、ひんやりとしていた。

 

 突き当たりに、彼方の部屋の扉がある。

 

 その前にたどり着いた私は、そこで一度、立ち止まった。

 

 深呼吸をする。

 

 吸って、吐いて、もう一度吸って。

 

 けれど、ちっとも落ち着かない。心臓の音が耳の奥でうるさく鳴っていて、緊張のせいか、床が少しだけ傾いているように感じる。

 

 この扉の向こうに、彼方がいる。

 

 さっき、二階からこの扉の閉まる音が聞こえた。

 

 拒絶の言葉も、怒鳴り声もなかった。

 

 ただ、小さく。カチリと、掛け金の鳴る音がしただけだった。

 

 あの音を、私はたぶん一生忘れられない。

 

 リビングの床に座り込んだまま、天井越しに聞いたあの音は、どんな言葉よりもはっきりと、あの子と私のあいだに線を引いていった。それまでにも、彼方から拒絶されたことはあった。

 

 ――前は追い返したのに、自分が話したいときは来るんだ。都合がいいんだね、彩葉は。

 

 あの言葉は、今でも耳の奥に残っている。

 

 あの子が私を「お姉」ではなく「彩葉」と呼んだこと。

 

 その声に、かつて私を慕ってくれていた妹の面影を、ほとんど見つけられなかったこと。何より、そう言わせてしまったのが自分自身だったこと。

 

 どれも、忘れられるはずがなかった。

 

 けれど、だからといって、ここで引き返すつもりはない。

 

 私は、彼方に会いに来た。

 

 あの子がどれほど変わっていても、受け入れると決めて来た。八千年を生きたお隣さんが、本当に彼方なのだとしたら。私が知っている妹とは、もう何もかも違っているのかもしれない。

 

 それでも、構わない。

 

 昔と同じように笑ってほしいわけじゃない。

 

 昔と同じように「お姉」と呼んでほしいわけでもない。

 

 ――ううん。

 

 そこまで考えて、首を横に振った。

 

 嘘だ。

 

 本当は、呼んでほしい。昔みたいに笑ってほしい。さっきリビングで、自分の願いがどれほど身勝手か思い知ったばかりなのに、その願いはまだ、胸の奥にしぶとく残っている。

 

 でも、それを、あの子に求めてはいけない。

 

 願うことと、求めることは違う。

 

 私が願うのは自由だ。けれど、それを叶えてほしいと、あの子に背負わせることだけは、もうしない。

 

 ただ、今の彼方を知りたい。

 

 あの子が何を思い、何を抱えて、ここまで帰ってきたのか。

 

 それを、ちゃんと聞きたい。

 

 急がなくていい。今日でなくてもいい。

 

 まずは、お兄ちゃんと話そう。あの子が今どうしているのか、それだけでも知りたかった。廊下の窓から入る夕方の光が、ドアノブの金属を鈍く光らせていた。

 

 私は、扉をノックした。

 

 コン、コン。

 

 思っていたより、小さな音だった。

 

「……入り」

 

 中から、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。

 

 いつもより、ずっと低く抑えた声だった。

 

 彼方の返事ではなかった。

 

 そのことに、ほんの少しだけ安堵して、同じくらい胸が痛んだ。

 

 ドアノブを、ゆっくりと回す。

 

 家を出てから、何年も足を踏み入れていなかった、彼方の部屋へ。

 

     * * *

 

 空気が、もう違った。

 

 家具の位置は、最後に見たときからほとんど変わっていない。机も、本棚も、窓際のカーテンの色も。部屋の隅に立てかけられたバイオリンのケースも、あの頃と同じ場所にあった。なのに、そこにいる人の気配だけが、あの頃とはまったく違う。

 

 静かで、深くて、どこか遠い場所から戻ってきたばかりのような。そんな空気が、部屋全体に沈んでいる気がした。半分だけ開いたカーテンから、細い光の筋が床に落ちている。その先、ベッドの上に、二人がいた。

 

 お兄ちゃんが、ベッドの端に座っていた。

 

 そして彼方は、その肩に、こめかみを預けて眠っていた。

 

 息を、呑んだ。

 

 毛布が、肩から足もとまで掛けられている。その端を、彼方の指先がきゅっと掴んでいた。小さな子供が、寝ているあいだに何かを手放さないようにするみたいに。

 

 お兄ちゃんは、動かなかった。

 

 あの子の重みを肩で受け止めたまま、身じろぎ一つせずに、そこにいた。どれくらいそうしていたのだろう。片方の腕が、少しだけ不自然な角度で止まっている。痺れているのかもしれない。それでも、あの子を起こさないことのほうを選んでいるのが分かった。

 

 近づいて初めて、彼方の目元が赤く腫れているのに気づいた。

 

 胸が痛んだ。

 

 泣いたんだ。

 

 きっと、たくさん。

 

 私がリビングで泣いていたあいだ、あの子もこの部屋で、一人で泣いていたのだろうか。

 

 お兄ちゃんが、こちらを見た。

 

「すぐに寝てしもたわ」

 

 小さな声だった。

 

 彼方を起こさないように、ぎりぎりまで声を落としている。

 

「……そっか」

 

 私は、もう一度彼方の顔を見た。

 

 眠っている顔は、昔とそれほど変わらない。

 

 目を閉じて、静かに呼吸をしている。少しだけ開いた唇から、規則正しい寝息が漏れている。

 

 それだけなら、何年も前の彼方と同じだった。

 

 けれど、その目元に残された涙の痕が、私の知らない時間を物語っていた。

 

 それに、痩せた。

 

 毛布の上に出ている手首が、前よりずっと細い。頬の線も、少し鋭くなっている。入院していたことを、私はずっと知らされていなかった。あの子が苦しんでいたあいだ、私は何も知らずに、自分の毎日を過ごしていた。そのことを思い出して、喉の奥がまた狭くなった。

 

 何を話していたんだろう。

 

 お兄ちゃんと、彼方は。

 

 部屋の中の光景が、言葉よりも雄弁に語っていた。

 

 あの子は、お兄ちゃんの隣で眠っている。

 

 肩を借りて。毛布を掛けてもらって。誰かがすぐそばにいるのに、安心しきった顔で。それだけでも、十分すぎるほど大きな変化だった。あの子は、誰かに甘えることさえ、怖がっているように見えたから。

 

 リビングで私たちを見た瞬間の、あの怯えた表情。触れられることを、近づかれることを、何よりも恐れているような目。

 

 それなのに。

 

 お兄ちゃんには、こんなに近くにいることを許したんだ。

 

 スッと、胸の奥で冷たいものが動いた。

 

 羨ましい、と思った。

 

 そんな自分が、少し嫌になった。

 

 お兄ちゃんが彼方と話せたことは、喜ぶべきことなのに。あの子が誰かに頼れたことを、嬉しいと思っているのに。

 

 どうしても、自分と比べてしまう。

 

 私は、あの子に何も言ってもらえなかった。

 

 何も聞かせてもらえなかった。

 

 顔さえ、見てもらえなかった。

 

 ただ、拒絶されただけだった。

 

 もちろん、それは私がしてきたことの結果だ。

 

 分かっている。

 

 私があの子から目を逸らしていたあいだ、あの子のそばにいたのは、いつもお兄ちゃんとお母さんだった。入院していたときも、きっと。

 

 私は、そのどこにもいなかった。

 

 いなかった人間が、いきなり帰ってきて、同じ場所に座らせてほしいと言っても、座れるはずがない。

 

 それでも、何か手がかりが欲しかった。

 

「あのさ、何話してたか聞いていい?」

 

 声が、思っていたより掠れていた。

 

 お兄ちゃんが、こちらを見る。

 

「彼方と。何を話してたの?」

 

 教えてほしかった。

 

 お兄ちゃんだって、最初は彼方に怯えた目を向けられていたはずだ。名前で呼ばれて、距離を置かれていたはずだ。それでも、こうして同じベッドの上で、あの子が安心して眠れるようになった。

 

 何か、きっかけがあったはずだ。

 

 魔法のような言葉でなくていい。

 

 ほんの少しでいいから、知りたかった。

 

 けれど、お兄ちゃんは何も言わずに、首を横に振った。

 

「……なんで?」

 

 思わず、聞き返していた。

 

 声が少しだけ大きくなって、慌てて口を押さえる。彼方の睫毛が、かすかに震えた気がした。けれど、寝息は乱れなかった。

 

 断られるとは思っていなかった。

 

 話してくれると、勝手に思い込んでいた。

 

 喉の奥が、きゅっと狭くなる。

 

 自分には、彼方の話を聞かせてもらう資格すらないのかもしれない。

 

 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。

 

「資格とか、そういう話ちゃうで」

 

 まるで私の考えを読んだみたいに、お兄ちゃんが言った。さすが、と思った。昔から、この人には隠し事ができない。

 

「これは彩葉自身が、彼方と何を話すか決めなあかんことや」

 

「……うん」

 

「俺の話を参考にしようとするんは、違うと思う。しっかり、自分で向き合わなあかん」

 

 お兄ちゃんの顔は真剣だった。

 

 穏やかな目の奥に、譲らないものがある。

 

「それにな」

 

 一度、肩にもたれる彼方の寝顔に視線を落とす。

 

「俺が聞いたんは、彼方が俺に話してくれた言葉や。あいつが、俺にやから言うてくれたことや」

 

 それから、私を見た。

 

「それを、俺が勝手に人に渡したらあかん。たとえ、彩葉でもな」

 

 一拍、おいて。

 

「彩葉が聞く彼方の言葉は、彩葉にしか聞けん。そこは、誰にも代われへんのや」

 

 その言葉を聞いて、胸の奥にあったものが、少しずつほどけていくのを感じた。

 

 確かに、その通りだと思った。

 

 お兄ちゃんと彼方のあいだにあるものを、私がそのまま借りることはできない。

 

 お兄ちゃんが何を言ったのか。

 

 彼方が何を答えたのか。

 

 それを知ったところで、私と彼方のあいだにあるものが、なくなるわけではない。

 

 もしお兄ちゃんと同じ言葉を私が言ったとしても、きっと、あの子には届かない。同じ言葉でも、誰が言うかで、意味はまるで変わってしまう。あの子が「朝日」と呼ぶときと「彩葉」と呼ぶときの声が、同じ平らさの中に、ほんの少しだけ違う温度を持っていたように。

 

 あの夏、彼方を追い返したのは私だ。

 

 あの子が私を「彩葉」と呼ぶようになったのも、私とのあいだに積み重なった時間があるからだ。

 

 それを、お兄ちゃんに埋めてもらうことはできない。彼方に向き合わなければならないのは、私自身なのだから。

 

 それに。

 

 お兄ちゃんは、彼方の言葉を守っているのだ。

 

 あの子が自分に預けてくれたものを、誰にも渡さずに抱えている。それは、きっと、あの子にとって何よりの安心なのだと思う。話したことが、勝手にどこかへ流れていかない。

 

 この人になら、話しても大丈夫。

 

 そう思えるから、あの子はお兄ちゃんの肩で眠れているのかもしれない。だったら、私が今ここで無理に聞き出すことは、その安心を壊すことになる。

 

「……うん」

 

 私は、小さく頷いた。

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

 お兄ちゃんが、少し驚いた顔をした。

 

「……なんや、急に素直やな」

 

「急じゃないよ」

 

 自然と、そんな言葉が出ていた。

 

「ずっと言いたかったんだと思う。でも、言えてなかっただけ」

 

「……さよか」

 

 お兄ちゃんは視線を逸らして、空いているほうの手で頬をかいた。

 

 照れているときの癖だ。

 

 その仕草が、妙に懐かしかった。

 

 そういえば、私はこの人にも、ずいぶん迷惑をかけてきた。

 

 家を出たときも。

 

 音楽を続けると決めたときも。

 

 かぐやのことで悩んでいたときも。

 

 そして、今も。

 

 お兄ちゃんは、いつだって私のことを気にかけてくれていた。

 

 私がそれに気づいていなかっただけだ。

 

 かぐやと会うまでの私は、一人でなんでもしなきゃならないと思い込んでいた。

 

 誰かに頼ることは、負けだと。

 

 誰かに弱さを見せることは、迷惑をかけることだと。

 

 そうやって、一人で走り続けてきた。走って、走って、気づいたときには、後ろを振り返っても誰もいないところまで来ていた。彼方が追いかけてきてくれていたことにさえ、気づかないまま。でも、それが違うことに、最近ようやく気づけた。

 

 かぐやが教えてくれた。

 

 ヤチヨが教えてくれた。

 

 さっきも、リビングの床で、ヤチヨは答えを急かさずに待っていてくれた。

 

 そして今、お兄ちゃんが教えてくれた。

 

 誰かを頼ることと、自分の足で歩くことは、矛盾しない。一人で向き合わなければならないことがあっても、本当に一人きりになる必要なんてない。

 

 だからこそ、今だけは。

 

 この一歩だけは、自分の足で踏み出したい。

 

 私は、お兄ちゃんの顔を見た。

 

「お兄ちゃん、お願いがあるの」

 

「ん?」

 

「彼方と、二人にしてほしい」

 

 お兄ちゃんは、何も言わなかった。

 

 私は続けた。

 

「ちゃんと向き合って話したいの。誰の力も借りずに、私の言葉で」

 

 お兄ちゃんの肩で眠る彼方に、視線を向ける。

 

「今すぐ返事が欲しいわけじゃない。起こしてまで話そうとも思ってない」

 

 あの子は、今、ようやく安心して眠れている。

 

 それを、私の都合で壊したくはなかった。

 

「でも、あの子のそばにいたい」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「何も話せなくてもいい。今は、ただ、そばにいたいの」

 

 それが、今の私の本心だった。

 

 あの子が目を覚まして、私がここにいることに気づいたら、また拒絶するかもしれない。

 

 話しかけても、答えてくれないかもしれない。

 

 出ていって、と言われるかもしれない。

 

 それでも、私はここにいたかった。

 

 拒絶されたからといって、もう一度あの子を置いていくことだけは、したくなかった。

 

 あの夏、玄関の扉を閉めたのは私だった。

 

 今日、この部屋の扉を閉めたのは、あの子だった。だからこそ、今度は私が扉をこじ開けてはいけない。彼方が自分の意思で開けられる日まで、待つことも必要なのだと思う。

 

「今までとは違う。これは本当に、私が向き合わなきゃいけないことなんだよ」

 

 言い終えて、自分でも少し驚いた。

 

 声が、思っていたより静かで、思っていたより、まっすぐだったから。

 

 お兄ちゃんは、しばらく私の顔を見ていた。

 

 何かを確かめるように。

 

 さっきリビングで泣き崩れていた妹と、今ここに立っている妹が、同じ人間かどうかを測るみたいに。

 

 それから、少しだけ目を細めた。

 

「……わかった」

 

 その声は、穏やかだった。

 

「でも、無理せんといてな。しんどなったら、すぐ呼び。下におるから」

 

「うん」

 

「ヤチヨちゃんも、下で一人なんやろ。俺も、あの子に礼言うとかなあかんしな」

 

 思わず、お兄ちゃんを見た。

 

 この人は、ちゃんと全部見ているのだ。

 

 私のことも。彼方のことも。リビングに置いてきた、ヤチヨのことまで。

 

「それと、彼方が起きたら、あいつの気持ちも聞いたってな」

 

 私は頷いた。

 

 ここにいることを、彼方が望まないかもしれない。

 

 そのときは、ちゃんと受け止めよう。

 

 私がそばにいたいからといって、あの子にまで同じ気持ちを求めてはいけない。出ていって、と言われたら、出ていく。それでも、あの子が望んだときに戻れる場所にはいる。それが、今の私にできる、精一杯の近さなのだと思う。

 

 お兄ちゃんが、そっと身体の向きを変えた。

 

 空いているほうの手で、彼方の頭の後ろを支える。ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。肩からこめかみを離して、その頭を枕のほうへ下ろしていく。

 

 途中で、彼方の眉がわずかに寄った。

 

 毛布を掴む指に、きゅっと力がこもる。

 

 お兄ちゃんの動きが、ぴたりと止まった。

 

 私も、息を止めた。

 

 部屋の中で、時計の秒針だけが動いている。

 

 やがて、彼方の眉間の皺が、ゆるゆるとほどけていった。指の力が、少しずつ抜けていく。それでも、毛布の端だけは離さなかった。お兄ちゃんは、そのまま、あの子の頭を枕の上に下ろした。

 

 それから、ずれた毛布を、肩まで引き上げる。

 

 大きな手だった。

 

 さっきまで、この手があの子の頭に乗っていたのだろうか。その手つきを見ているだけで、お兄ちゃんがこの部屋でどんなふうに彼方と過ごしていたのか、少しだけ分かった気がした。お兄ちゃんは立ち上がって、しばらく痺れた腕をさすっていた。顔をしかめているのに、どこか嬉しそうでもあった。

 

「彩葉」

 

「ん?」

 

「……ええ顔しとるで」

 

 思わず、お兄ちゃんを見た。

 

 お兄ちゃんは、少し照れくさそうに笑っていた。

 

 その顔を見て、私も、ほんの少しだけ笑うことができた。

 

 この家に来てから、初めて笑った気がした。

 

「……ありがと」

 

「おう」

 

 お兄ちゃんは、彼方の髪をもう一度だけ、そっと撫でた。

 

 起こさないように。

 

 驚かせないように。

 

 その手が離れ、ゆっくりと扉のほうへ向かう。

 

 すれ違いざま、私の肩に、軽く手を置いた。

 

 温かかった。

 

 ほんの一瞬だったけれど、その温かさが、まだ震えの残っていた膝に、少しだけ力をくれた。

 

「何かあったら、呼びや」

 

「うん。わかってる」

 

 扉が、静かに閉まった。

 

 掛け金の鳴る、小さな音。

 

 さっきリビングで聞いたのと同じ音なのに、今は、まるで違って聞こえた。階段を下りていく足音が、一段ずつ遠ざかっていく。

 

 部屋には、彼方と私だけが残された。

 

     * * *

 

 私は、彼方の寝顔を、ただじっと見つめた。

 

 目元は、まだ赤く腫れている。

 

 何度も泣いたのだろう。

 

 それでも、今は穏やかに眠っていた。

 

 その寝顔を見ていると、昔のことを思い出す。

 

 小さかった頃の彼方。

 

 私の後ろをついて回っていた彼方。

 

 何かあるたびに「お姉」と呼んで、嬉しそうに笑っていた彼方。

 

 握った手の中の、石ころや折れたクレヨンを、「お姉、見て」と差し出していた彼方。

 

 私のピアノの横に立って、バイオリンを肩に当てて、体を揺らしながら拍を取っていた彼方。

 

 あの子は、いつも私を見ていた。

 

 私は、それを当たり前だと思っていた。

 

 あとでね、と言えば、いつまでも待っていてくれる子だった。受け取ってもらえなかったものを、怒りもせずに、大事そうに握り直す子だった。

 

 部屋の隅のバイオリンケースに、目が留まる。

 

 帰ってきてから、あの子はあれを開けたのだろうか。

 

 開けたのなら、どんな音を鳴らしたのだろう。開けていないのなら、それはなぜなのだろう。弾く気になれないだけなのか。それとも、あの楽器を手に取ることさえ、今のあの子には重すぎるのか。

 

 分からないことばかりだった。

 

 けれど、もう違う。

 

 分からないままにして、目を逸らすのは、もうやめる。

 

 今度は、私があの子を見る番だ。

 

 私の知っている彼方ではなく、今ここにいる彼方を。

 

 八千年という時間を生きたのだとしても。

 

 そのあいだに、私の知らない誰かになっていたとしても。

 

 私は、ちゃんと知りたい。

 

 あの子が何を好きで、何を嫌いで、何を怖がっているのか。

 

 何を失って、何を大切にしてきたのか。

 

 そして、今、何を望んでいるのか。

 

 それを、あの子自身の言葉で聞きたい。

 

 ヤチヨの記憶の中のお隣さんでもなく。お兄ちゃんの話の中の彼方でもなく。

 

 この子の口から。

 

 何年かかってもいい。

 

 すぐに答えてくれなくてもいい。

 

 ただ、今度こそ。

 

 あの子が話してくれるときに、ちゃんと耳を傾けられる姉でありたい。

 

 あとでね、とは、もう言わない。

 

 ベッドのそばの床に、そっと腰を下ろす。

 

 フローリングは、少しひんやりとしていた。さっきリビングで膝をついたときと同じ冷たさ。けれど今は、その冷たさが、自分がここにいることを確かめさせてくれる気がした。

 

 彼方の寝息が、静かに聞こえていた。

 

 手を伸ばせば、すぐに届く距離だった。

 

 毛布から出ている、細くなった指。その指先が、まだ毛布の端を掴んでいる。

 

 触れたい、と思った。

 

 昔みたいに、その手を握って、大丈夫だよと言いたかった。

 

 けれど、私は触れなかった。

 

 今はまだ、あの子が安心して眠っていられることのほうが大切だった。この子が眠りの中で掴んでいるのは、私の手ではない。お兄ちゃんが掛けてくれた毛布だ。その事実を、ちゃんと受け止めなければいけないと思った。

 

 いつか。

 

 いつか、あの子が自分から手を伸ばしてくれる日が来たなら。

 

 そのときに、ちゃんと握り返せるように。

 

 今は、この距離のままでいい。

 

「……彼方」

 

 小さく、名前を呼んだ。

 

 返事はなかった。

 

 それでよかった。

 

 返事がないことが、こんなにも静かで、穏やかなものに感じられたのは、初めてだった。拒絶ではない沈黙。ただ、この子が眠っているだけの沈黙。

 

「……おやすみ」

 

 私は、ベッドのそばに座ったまま、彼方の寝顔を見つめ続けた。

 

 今度は、目を逸らさなかった。

 

 カーテンの隙間から差し込む光が、少しずつ色を変えていく。橙から、薄い紫へ。床に落ちた光の筋が、ゆっくりと細くなっていく。あの子がどれほど遠くへ行ってしまったとしても。もう、私の知っている妹ではなかったとしても。

 

 それでも。

 

 私は、この子のお姉ちゃんでいたい。

 

 そして、いつか。

 

 彼方自身が、もう一度そう呼びたいと思ってくれる日が来たなら。

 

 そのときは、ちゃんと返事をしよう。

 

 昔みたいに、何も考えずに返すのではなく。

 

 あの子がその言葉を口にするまでに、どれほどの時間が必要だったのかを、忘れずに。

 

 もし、その日が来なかったとしても。

 

 この子が一生、私を「彩葉」と呼び続けたとしても。

 

 そのときは、その名前で呼ばれるたびに、ちゃんと振り返ろう。昔の私が、何度も聞き流してしまった呼び声の分まで。私は、彼方の寝息に耳を傾けながら、ベッドの縁にそっと額を寄せ、静かに目を閉じた。今はまだ、何も変わっていないのかもしれない。

 

 けれど、少なくとも。

 

 私はもう、あの子から目を逸らさない。

 

 そう決めていた。

 

 




しっかりとハッピーエンドに向けて歩き出します。
彩葉はどんなパーフェクトコミュニケーションしてくれるんですかね?
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