ハッピーエンド目指してるはずなのに曇らせ描写が勝手に入ってしまう。病気かもしれないです。いい精神科知ってる人いるなら教えてください
side 酒寄彼方
階段を一段上るたびに、足の裏から少しずつ力が抜けていく気がした。
「まだ眠たいから、部屋で寝るね」
さっき自分の口から出た声が、まだ耳の奥に残っている。抑揚も、温度もない声だった。そういう声を出すのは、得意だった。得意になってしまった、と言ったほうが正しいのかもしれない。八千年のあいだに覚えたことの中で、いちばん役に立って、いちばん嫌いなもの。それが、何も感じていないふりをする声だった。
背中のほうで、何かが床に落ちるような、鈍い音がしていた。彩葉が膝をついた音だと、振り返らなくても分かった。
分かったから、振り返らなかった。振り返ってしまったら、きっと足が止まる。足が止まってしまったら、今度こそ、胸の奥に押し込めてきたものが全部零れてしまう。そうなったら、もう二度と元には戻せない。
「彼方!」
朝日の声が、あとを追ってきた。
それにも、返事をしなかった。
一段、また一段。古い板が、踏むたびに小さく軋む。昔はこの音が好きだった。夜中にこっそり水を飲みに下りるとき、軋まない場所を選んで足を置くのが、ちょっとした冒険だった。どの段のどこを踏めば音がしないのか、あの頃の私は全部知っていたはずだ。
今は、もう覚えていない。
七段、八段。踊り場で、手すりを掴む指に力がこもった。
二階の廊下は、ひんやりとしていた。突き当たりの、自分の部屋の扉。帰ってきてから毎日開け閉めしているのに、今日はやけに重く感じる。ドアノブを回して、中へ滑り込み、できるだけ音を立てないように扉を閉めた。
カチリ、と小さく掛け金の鳴る音がした。
それが、私と彩葉のあいだに引いた線の音のように聞こえた。ベッドの上に上がって、壁に背中をつける。膝を引き寄せて、腕で抱え込んで、その中に顔を埋めた。
前にも、こうしていたことがある。
いつだったかは、思い出せない。けれど身体のほうが、この形を覚えていた。小さく、できるだけ小さく。誰の目にも留まらないように。そうしていれば、世界のほうが私を見逃してくれる気がした。
――都合がいいんだね、彩葉は。
自分の声が、頭の中で何度も繰り返される。
あんなことを言うつもりはなかった、と言えば、嘘になる。あれは、ずっと前から胸の底に沈んでいた言葉だった。あの夏の玄関で「帰って」と言われた日から、八千年という時間の底で、石みたいに固まって転がっていた言葉。いつか誰かに投げつけたくて、けれど一度も投げられずにいた言葉。
それでも、口に出すつもりはなかった。
彩葉を傷つけたかったわけじゃない。
ただ、近づいてほしくなかった。
彩葉が会いに来たのは、あの夏に追い返した妹にだ。あの玄関で、何も言えずに口を閉じた酒寄彼方にだ。謝りたいと思ってくれているのも、やり直したいと思ってくれているのも、全部、あの子に向けられたものだった。
でも、あの子はもう、ここにはいない。
九月十二日に、あの子は月へ向かった。自分の足で。自分で決めて。ここにいるのは、その先の八千年を生きて、この身体へ帰ってきただけの私だ。
彩葉の謝罪は、あの子に届くべきものだった。それを私が受け取ってしまったら、それは、あの子のものを横から盗むのと同じことになる。そして、もし受け取ってしまったら、彩葉はきっと、私の中にあの子を探し始める。昔の笑い方を。昔の呼び方を。昔の、何も知らなかった頃の彼方を。
探して、見つからなくて。
そのとき彩葉は、どんな顔をするのだろう。
それを見るくらいなら、最初から遠ざけてしまったほうがいい。そう思った。思ったから、あの言葉を選んだ。いちばん鋭くて、いちばん効く言葉を。
効きすぎた、と今は思う。
階下から、何かが動くような鈍い物音がした。さっき彩葉が膝をついたときの音が、耳の奥に蘇る。今頃、彩葉はどうしているのだろう。あの人は昔から、人前では泣かない人だった。泣くときは、誰にも見られない場所で、声を殺して泣く人だった。
もしかしたら今も、リビングで一人、泣いているのかもしれない。そう想像するだけで、胸が痛んだ。あの人を傷つけたのは、私だ。膝を抱える腕に、爪が食い込む。痛い。痛いけれど、そのくらいがちょうどよかった。
ごめんなさい、と思う。
けれど、それを言いに下りていくことはできなかった。下りていけば、全部話さなければならなくなる。話さないまま謝ることは、もっと残酷な気がした。
涙が、勝手に膝を濡らしていく。声だけは出さないように、唇を噛んだ。泣き方なら、知っている。息を細く吐いて、肩の震えを腕で押さえ込んで、喉の奥で嗚咽を潰す。そうすれば、扉一枚向こうにいる人にだって、気づかれずに済む。
そうやって、何度も泣いてきたのだから。
* * *
コン、コン。
扉を叩く音がした。
息が、止まった。
軽いノックだった。急かすような響きではなかった。けれど、そこに誰がいるのかは、すぐに分かった。彩葉のノックは、もっと遠慮がちで、もっと迷っている。この音には、迷いのあとに決めた人の重さがある。
返事をしなかった。
だめ、と言おうとした。来ないで、と。
けれど、その言葉が形になるより先に、扉の向こうから声がした。
「入るで」
許可を待つ声ではなかった。
扉が開いて、廊下の空気がひやりと流れ込んでくる。足音が二つ、三つ。それから、止まった。顔を上げられなかった。上げたら、泣いていたことがばれてしまう。もう、とっくにばれているのだろうけれど。それでも、見せたくなかった。
ベッドの端が、ゆっくりと沈んだ。
その振動に、肩がびくりと跳ねる。高いところで止まったまま、下ろし方が分からなくなった。
朝日は、何も言わなかった。
私から一人分くらいの間を空けて、そこに座ったまま、動かなかった。部屋の中には、壁の時計の音だけがあった。カチ、カチ、と秒針が進むたびに、沈黙が一枚ずつ積み重なっていく。
なんで、何も言わないんだろう。
責めに来たのなら、責めればいい。彩葉をあんなふうに傷つけたのだから、怒られて当然だった。なんであんなこと言うたんや、と声を荒げてくれたなら、私はそれを受け止めて、黙って頷くことができた。
慰めに来たのなら、慰めればいい。大丈夫や、と言ってくれたなら、私は大丈夫だと答えて、それで終わりにできた。
なのに朝日は、どちらもしなかった。
ただ、そこにいた。
逃げずに。急かさずに。
その沈黙が、怒鳴り声よりもずっと、私の胸を締めつけた。
どれくらい、そうしていたのだろう。
「……朝日」
気づけば、名前を呼んでいた。
呼ぶつもりはなかった。出ていって、と言うつもりだった。なのに、喉から出てきたのは名前だけだった。
「……おう。どうした」
返事までに、ほんのわずかな間があった。
その間の意味を、私は知っている。
この人は昔、私に「お兄」と呼ばれていた。ずっと、そう呼ばれていた。それが今は「朝日」になっている。帰ってきてから、私は一度も、この人を昔の名前で呼んでいない。
呼べなかった。
お兄、という呼び方は、あの子のものだと思ったから。月へ向かったあの子が、この人を呼ぶための名前だったから。それを、あとから帰ってきただけの私が使っていいとは、どうしても思えなかった。それに、口にした瞬間、自分の中の何かが崩れてしまいそうで怖かった。
だから、名前で呼んだ。
そのたびに、この人がほんの一瞬だけ言葉を失うことに、気づいていながら。
「……朝日。なんで……なんで来たの」
膝の間から、声が漏れた。
自分でも、ひどい言い方だと思った。
来てほしくなかった。
来てほしかった。
どちらも本当で、どちらも口にできなくて、結局、そのどちらでもない言葉になった。
「彼方が泣いとるのが、聞こえたからや」
肩が、また震えた。
聞こえていた。
あんなに声を殺していたのに。誰にも気づかれないように、上手に泣いていたはずなのに。八千年かけて覚えた泣き方は、この人の耳には通用しなかった。
それが、悔しかった。
それが、少しだけ、嬉しかった。
そんなことを思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。
「彼方、聞いといてくれ。返事はいらん」
朝日の声は、低くて、静かだった。
顔を上げないまま、耳だけをそちらに向けた。
「俺は、彩葉とヤチヨちゃんから、ある程度話は聞いた。」
心臓が、冷たい手で掴まれたように縮んだ。
ヤチヨ。
その名前が、朝日の口から出てくるとは思っていなかった。
もしかしてヤチヨが、ここにいる?。
この家に。彩葉と一緒に。
頭の中が真っ白になった。さようなら、と送ったはずだった。名前も告げずに、あれを届けて、それで終わりにしたはずだった。もう二度と、あの子の声を聞くことはないのだと。そう決めて、そう諦めて、毎日を過ごしてきたはずだった。
なのに、あの子は彩葉と一緒に、この家に来ているかもしれない。
リビングで彩葉に「都合がいいんだね」と言ったとき、あの子も、どこかで聞いていたのだろうか。
背中に、じっとりと汗が滲んだ。
話を聞いた、と朝日は言った。
何を。どこまで。
八千年のことだろうか。お隣さんのことだろうか。月のことだろうか。
知られてしまったのだろうか。
問いが次々に浮かんで、どれ一つとして声にならなかった。
「正直、理解はあんまできとらんし、まだ納得もできてへん」
続いた言葉に、身体の芯から力が抜けた。
安堵、だったのだと思う。
朝日は、まだ分かっていない。半分も信じていない。そういう声だった。けれど、その安堵のすぐ後ろから、別のものがやってきた。分かっていないのなら。この人はまだ、私をあの子だと思っている。そして、彩葉とヤチヨは、もう何かに気づき始めている。
隠し通せる時間は、思っていたよりずっと短いのかもしれない。
「でも、それでも、これだけは言わせてくれ」
朝日が、一度だけ息を吸った。
その音が、ひどく近くに聞こえた。
「俺は、彼方がどんなに変わってしもても、お兄ちゃんや。彼方が俺のこと忘れてしもてても、ええ。呼び方も、何でもええ。朝日でも、アンタでも、名前を呼ばんでもええ。そこは俺にとって、なんの問題もない」
呼び方も、何でもええ。
この人は、気づいていたのだ。
名前で呼ばれるたびに、自分が一瞬言葉を失っていることに。それを私が見ていることに。私がそのことで、もっと苦しくなっていることに。
だから、先に言ってくれた。
何でもええ、と。
「俺にとって、彼方は彼方や」
その言葉が、薄暗い部屋の空気に、ゆっくりと沈んでいった。私は、膝に顔を埋めたまま、何も言えずにいた。
今いちばん欲しかった言葉だった。
欲しいと思うことさえ、とうに諦めていた言葉だった。それが、何の飾りもなく、あたりまえのことのように、朝日の口から零れた。さっきまで自責の念に苛まれて流していた涙が、別のものに変わっていく。
嬉しい、というのとは、また違う。
ほっとした、というのでも足りない。
名前のつけられない感情が、胸の中で暴れ回っていた。
八千年のあいだに積み上げてきたものを、根こそぎひっくり返されたような気がした。どれだけ時間が経っても、どれだけ遠くへ行っても、誰かに「彼方は彼方だ」と言ってもらえる日は来ないのだと、そう思って生きてきたのに。
朝日は、何の迷いもなく、そう言ってくれた。
私がどれほど変わっていても。
昔のことを覚えていなくても。
もう、お兄と呼べなくなっていても。
それでも、自分は私のお兄ちゃんだと。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
八千年も生きてきたくせに、たったそれだけの言葉が、こんなにも欲しかったのだと思い知らされた。
けれど。
ねえ、朝日。
それは、私があなたの知っている酒寄彼方だから、言ってくれるんじゃないの。
あなたは、私が変わってしまったのだと思っている。
長いあいだ会わなかったから。病気をして、辛い思いをしたから。昔のように笑えなくなって、呼び方まで変わってしまったから。
それでも、妹であることに変わりはないのだと。
そう思ってくれている。
でも、違う。
違うんだよ、朝日。
あなたの知っている彼方は、もうここにはいない。
あの子は、九月十二日に月へ行った。
あなたのことをお兄と呼んで、彩葉のあとを追いかけて、いつかまた家族みんなで笑える日を願っていた、あの子は。
もう、この身体の中にはいない。
ここにいるのは、八千年もの時間を生きて、あなたの顔さえ満足に思い出せなくなってしまった私だ。
あの子が大切にしていた記憶を、少しずつ忘れて。
あの子が当たり前に呼んでいた名前さえ、口にできなくなって。
それなのに、あの子が帰るはずだった場所に、こうして座っている。
あなたに、彼方と呼ばれている。
お兄ちゃんでいてもらおうとしている。
ずるい。
そんなの、ずるいよ。
あなたが優しくしてくれるたびに、私は嬉しくなってしまう。
あなたが私を彼方と呼ぶたびに、もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまう。
本当のことを話さなければいけないのに。
あなたが大切にしている妹は、もうここにはいないのだと、伝えなければいけないのに。
もし、全部知ってしまったら。
あなたは、それでも私を彼方と呼んでくれるのだろうか。
それでも、お兄ちゃんでいてくれるのだろうか。
さっきまでなら、きっと諦められた。
どうせ私は、あの子の代わりなのだから。
いつか知られて、拒絶されるのなら、それも仕方がないのだと。
そう思っていられた。
けれど、今は。
もう、嫌だった。
この人に、嫌われたくない。
この人の優しさを、失いたくない。
もう一度、他人に戻ることが、怖くて仕方がなかった。
だから、何も言えなかった。
たった一つの真実を伝えるだけで、この温かい場所がなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、どうしても、声が出なかった。
* * *
ゆっくりと、顔を上げた。
目が合った。
あぁ。
朝日は、こんな顔だったんだ。
帰ってきてから、ろくに顔を合わせようとしなかった。目が合いそうになるたびに逸らして、話しかけられれば短く答えて、すぐに部屋へ戻った。見ていなかった顔が、今は、しっかりと分かる。
目尻の下がり方。
笑うと少しだけ片側に寄る口元。
心配をしているとき、眉の間にできる浅い皺。
視界はまだ涙で滲んでいて、眩しいものを見るみたいに焦点が合わない。だから私は、その顔の輪郭を一つずつ確かめていった。額の形。鼻筋。顎の線。少し伸びた前髪。
もう、忘れてしまっていた顔だった。
八千年は、長すぎた。
いろいろなものが、削れていった。
母の声も。家の匂いも。兄の笑い方も。
少しずつ、少しずつ。
思い出そうとするたびに輪郭がぼやけて、最後には「優しかった人」という、たったそれだけが残った。
いつも優しかった人。
私を守ってくれた人。
困ったときには、必ず助けてくれた人。
そんなことしか、覚えていられなかった。
けれど、忘れてしまったものが、何もかも消えていたわけではない。
声を聞けば、懐かしいと思う。
顔を見れば、どこかで知っていると思う。
そうして目の前にあるものを手がかりに、記憶の底へ沈んでいた断片が、少しずつ浮かび上がってくる。たとえば、あの夏。彩葉のアパートから帰ったあと、私は朝日の家にいた。扉を閉めた部屋で、声を殺して泣いていた。そのとき、この人は隣に座ってくれた。何も言わずに。ただ、そこにいてくれた。
――会いたかっただけやのに。
あのとき、私はそう言って泣いたのだと思う。
思う、としか言えない。それくらい、遠い記憶だった。でも、それはもう、昔のように自然に思い出せるものではなかった。目の前にこの人がいて、同じようにベッドの端に座っていて、ようやく掬い上げられる程度の、薄い記憶。八千年という時間が、私と家族のあいだに横たわっている。
その隔たりが、どうしようもなく悔しかった。
なんで、この人のことを覚えておけなかったんだろう。
こんなにも優しい人だったのに。
こんなにも、大好きだったのに。
目の前にいるのは、ちゃんと、あの人だ。
それだけは、今ならわかる。
だからこそ、伝えなければならないと思った。
私はもう、朝日の知っている酒寄彼方ではない。
あの夏、彩葉に会いに行って、拒絶されて、傷ついて。それでも姉を慕っていた、あの酒寄彼方は、もうここにはいない。
あの子は、自分の意思で月へ向かった。
そして私は、八千年を生きた末に、この身体へ帰ってきた。
同じところから始まったとしても、同じ時間を生きたわけではない。あの子がこの家で重ねていくはずだった毎日を、私は知らない。代わりに私が知っているのは、誰もいない月の静けさと、名前も残らない時代の街並みと、ヤチヨの笑い声だけだ。
あの子が何を思い、何を望み、最後にどんな気持ちで旅立ったのか。かつて自分だったはずなのに、私はもう、それを完全には思い出せない。なのに今、私はあの子の身体で、あの子の兄に優しくされている。あなたが知っている妹は、もうどこにもいないのだと。
この優しい人に、それを言わないまま隣に座っていることは、きっと罪なんだと思う。
「……私、は……もう……」
声が出た。
そこまでは、出た。
もう、あなたの妹じゃない。
続きは、それだけだった。たった一言だった。
けれど。
「…………」
続きが、出てこない。
唇が開いて、閉じる。
また開いて、また閉じる。
喉の奥に、熱くて重たいものが詰まっていた。言葉の形をしていない、塊のようなもの。押し出そうとするたびに、それは喉の壁にぶつかって、砂みたいに崩れて、また元の場所へ沈んでいく。何度も言葉を探して、それでも何も見つからなかった。
朝日は、何も言わなかった。
私の顔を見たまま、ただ、待っていた。
怖い。
受け入れると言ってくれた。どんなに変わっても、お兄ちゃんだと言ってくれた。なのに、一度触れてしまった優しさが、もし無くなってしまったらと考えると、声が出なかった。
知らなければ、失う痛みも知らずにいられた。
帰ってきてからずっと、この人を遠ざけてきたのは、きっとそのためだった。近づかなければ、失うこともない。何も受け取らなければ、何も返さなくていい。八千年のあいだ、私はそうやって、いろいろなものとの距離を測ってきた。
けれど、もう知ってしまった。
朝日の声も。
その表情も。
私に向けられる、何の疑いもない優しさも。
全部話したあとでも、この人は同じ顔で、私を見てくれるだろうか。朝日が愛している妹は、もう月へ行ってしまった。その事実を知っても、まだ、私を彼方と呼んでくれるだろうか。その答えを確かめることが、八千年待ち続けたことよりも、よほど怖かった。
「無理に話さんでええ」
朝日の声が、静かに落ちてきた。
責める響きは、どこにもなかった。
「彼方が話せるようになったときでええ。明日でも、来週でも、来年でも。そのとき、お兄ちゃんに聴かせてくれ。俺は、いつでもここにおるから」
明日でも。来週でも。来年でも。
この人は、待つと言った。
私が話せるようになるまで。いつになるか分からない、その日まで。
ほんとうに、優しい人だ。
今は聞かないでくれる。
待っていてくれる。
その言葉に、救われた。
待たれることが、こんなに息のしやすいことだなんて、知らなかった。
私はずっと、待つ側だったから。
月で、七十年。
誰の声も届かない場所で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
それから八千年。ヤチヨと旅をしながら、時代が変わり、国が変わり、知っているものが何もかも失われていくのを見ながら、いつか来るはずのその日を、待っていた。彩葉とかぐやが再会する日。私の役目が終わる日。あの子に全部を託して、私がいなくなる日。
待つことには、慣れていた。
けれど、待たれることには、慣れていなかった。
今は、私を待ってくれる人がいる。
何も話せない私を、急かさずに。
変わってしまった私を、責めずに。
ここにいていいと、言ってくれる人がいる。
膝の上で組んでいた手に、ぎゅっと力がこもった。指先が、行き場を探すように膝の上をさまよう。この人の手を掴みたいのか、それとも自分の手を押さえつけたいのか、自分でも分からなかった。
私は、また俯いた。
朝日の顔を、それ以上見ていられなかった。見ていたら、甘えてしまいそうだった。
大好きだった人。
優しかった人。
今でも優しい人。
私のお兄。
胸の中で、そっと数える。
声に出せない呼び方を、心の中でだけ、呼んでみる。
お兄ちゃん。
お兄。
記憶の中には、そんな呼び方が残っている。けれど、口に出そうとすると、喉がひくりと強張ってしまう。
朝日、と呼ぶことさえ、最初は怖かった。
それでも、この人は責めなかった。
呼び方は何でもいいと、言ってくれた。
だからこそ、もっとこの人のことを知りたいと思った。八千年のあいだに忘れてしまった分を、取り戻したい。
記憶の中にいる人に、もう一度触れたい。
ぼやけてしまった輪郭を、この手でなぞって、ちゃんと思い出したい。けれど、それを望むことさえ、あの子に対する裏切りのような気がした。あの子が受け取るはずだった優しさを、私が先に受け取ってしまう。あの子が過ごすはずだった時間を、私が代わりに過ごしてしまう。
それでも。
もう少しだけ。
ほんの少しでいいから、私はこの人の優しさに触れていたかった。
* * *
「……今だけ……」
声が、零れた。
自分でも驚くほど、小さな声だった。空気を震わせるのも惜しいような、頭の重さをどこかに預けてしまいたいような声。
朝日が、耳を澄ませる気配がした。
我儘なんて、どのくらい言っていないんだろう。
あの頃の私は、ちゃんと言えていたのだろうか。
誰かに甘えること。
そばにいてほしいと頼むこと。
そんなことさえ、八千年の底に置いてきてしまったのかもしれない。ヤチヨの隣にいたときも、私はいつも、あの子を支える側でいようとした。寂しいと言われれば、そばにいた。困ったと言われれば、手を貸した。けれど、自分が寂しいとは、一度も言わなかった。言ってしまったら、あの子を困らせると思ったから。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、今だけは。
「……何も、言わないで……」
朝日は、黙っていた。
黙って、聞いてくれていた。
「……何も、聞かないで……」
膝を抱える腕に、力がこもる。
ここまで言ってしまったら、もう引き返せない。
断られたらどうしよう。
そんな子供みたいな不安が、喉元までせり上がってくる。八千年を生きたくせに。いくつもの時代の終わりを見てきたくせに。たった一言を頼むのが、こんなにも怖い。最後の言葉だけは、どうしても声が震えてしまった。
「……そばに、いて……」
返事が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。
時計の秒針が、一つ、二つ。
三つ目の音が鳴る前に。
「……おう。おるで」
朝日の声は、少しだけ震えていた。
「何も聞かへん。何も言わへん」
それから、いつもの穏やかな声に戻る。
「せやから、安心しとき」
一拍、おいて。
「お兄ちゃん、ここにおるから」
お兄ちゃん。
私が呼べなかった名前を、この人は、自分で名乗ってくれた。私が呼ばなくても、この人はお兄ちゃんでいてくれる。私が何と呼ぼうと、そこにいてくれる。その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けていった。
膝を抱えていた腕が、少しずつほどける。
頭の上に、手が乗せられた。
大きくて、少し硬くて、ゆっくりとした重み。
無理に撫でるのではなく、ただ、そこに置かれた手。その手のひらから、じんわりと温度が染み込んでくる。
あたたかい。
温かさを感じること自体は、もう珍しいことではなかった。
この身体には、ちゃんと温感がある。
帰ってきてから、冷たい水の冷たさも、日差しの熱も、湯気の立つ食事の温度も、少しずつ思い出してきた。最初の頃は、お茶の熱さに驚いて湯呑みを取り落としそうになったこともある。お母さんが作ってくれた味噌汁の温かさに、理由も分からず泣きそうになったこともある。
けれど、人の手がこんなにも温かいものだったことを、私は忘れていた。帰ってきて初めて、人の温かさに触れた気がした。病院でお母さんに抱き寄せられたときも、確かに温かかった。
ただ、あのときの私は、驚きと戸惑いと、「この人を悲しませてはいけない」という強張りでいっぱいで、その温かさを受け取る余裕がなかった。あの時はお母さんを騙してるような気がしてただ申し訳なかった。
けれど今は、不思議と身体の力が抜けていく。
張りつめていた糸が、一本ずつ、ほどけていく。
「……あたたかい……」
息と一緒に、言葉が零れた。
「……朝日の手、あたたかい」
「そやろ。お兄ちゃんは、体温高めやからな」
少しだけ、冗談めかした声だった。
無理に軽くしてくれているのが、分かった。この部屋の空気が重くなりすぎないように。私が、これ以上何かを背負わなくて済むように。昔も、こんなふうに答えてくれたことがあったのだろうか。冬の朝、かじかんだ手を握ってもらったとき。熱を出して、額に手を当ててもらったとき。
思い出せない。
でも、懐かしかった。
可笑しくて、笑いそうになった。
けれど、笑おうとした途端、また涙が溢れそうになってしまった。
朝日は何も言わなかった。
ただ、頭の上に置いた手を、そっと動かしてくれた。
その温かさが、私をゆっくりと眠りへ誘う。
まぶたが重い。目を閉じれば、あの夏の玄関が浮かんだ。月の静けさが浮かんだ。ヤチヨの最後の笑顔が浮かんだ。そのどれもが、私を眠らせてはくれなかった。
意識の縁が、ゆるゆると滲んでいく。
「……眠い……」
「寝とけ。ずっとおるから」
ずっと。
その言葉に、もう抗う理由が見つからなかった。
私は、朝日の肩に、そっとこめかみを預けた。
その重みを受け止めても、朝日は動かなかった。
昔、遊び疲れて眠ってしまった私を、背負ってくれたことがあった。
いつのことだったか。
何歳だったのか。
もう、はっきりとは覚えていない。夕焼けだったような気がする。お祭りの帰りだったような気もする。それとも、そんな気がするだけで、本当はどこにもなかった記憶なのかもしれない。それでも、あのときも、きっとこんなふうに安心していたのだろう。
この人が近くにいるなら、安心して眠れる気がした。
身体が、小さく震えた。
寒いわけではなかった。たぶん、ずっと力を入れていた身体が、ようやくそれをやめただけだった。
けれど朝日は、寒いのだと思ったらしい。片手が離れて、ベッドの足元のほうへ伸びる気配がした。ふわりと、柔らかいものが肩にかけられる。毛布だった。起こさないように、そっと、肩から足もとまで。
目は開けなかった。
けれど、毛布の端を、指の先できゅっと掴んだ。
離したくなかった。
この温かさを。この重みを。この人がここにいるという、確かな手触りを。
あの夜も。
あの月も。
八千年の孤独も。
今だけは、遠い。
朝日の肩の硬さと、規則正しい呼吸の音を感じながら、私は静かに目を閉じた。眠りに落ちる直前、階下で何かが動いたような気がした。
彩葉は、まだそこにいるのだろうか。
確かめようとしたけれど、まぶたはもう持ち上がらなかった。
ひとつだけ、思った。
いつか、全部話せる日が来るのだろうか。
そのとき、この人は。
それでも、私のことを彼方と呼んでくれるのだろうか。
そして、彩葉は。
答えは、まだわからない。
けれど今は。
この温かさを、もう少しだけ覚えていたかった。
* * *
side 酒寄彩葉
階段の一段目に足をかけたところで、一度だけ振り返った。リビングのテーブルの上に、鞄を置いてきた。その中で、ヤチヨが待っている。
「ここで、待っててくれる?」
出がけにそう頼んだとき、画面の中のヤチヨは、少しだけ目を丸くした。それから、まだ赤い目元のまま、ふわりと笑った。
「うん。ヤチヨ、ここで待ってる。いってらっしゃい、彩葉」
本当は、一緒に来てほしかった。
一人で上がっていくのが、怖かった。
けれど、これは私の足で上らなければいけない階段だと思った。誰かに背中を押してもらうのではなく、誰かの言葉を借りるのでもなく。ヤチヨがくれた言葉は、もう胸の中にある。それで十分だった。
大好きだから、近づけないことだって、ある。
その言葉を、お守りみたいに握りしめた。
一段、また一段。
古い板が、足の下で小さく軋む。さっき、彼方が上っていったときと同じ音だった。リビングで床に座り込んだまま、私はその音を数えていた。今は、自分の足でそれを鳴らしている。
七段、八段。踊り場。
そこで、足が止まりそうになった。
この先に、あの子がいる。
膝が、まださっきの拒絶を覚えている。踏み出すたびに、ほんの少しだけ力が抜けそうになる。手すりに手を添えて、ゆっくりと、残りの段を上った。
二階の廊下は、ひんやりとしていた。
突き当たりに、彼方の部屋の扉がある。
その前にたどり着いた私は、そこで一度、立ち止まった。
深呼吸をする。
吸って、吐いて、もう一度吸って。
けれど、ちっとも落ち着かない。心臓の音が耳の奥でうるさく鳴っていて、緊張のせいか、床が少しだけ傾いているように感じる。
この扉の向こうに、彼方がいる。
さっき、二階からこの扉の閉まる音が聞こえた。
拒絶の言葉も、怒鳴り声もなかった。
ただ、小さく。カチリと、掛け金の鳴る音がしただけだった。
あの音を、私はたぶん一生忘れられない。
リビングの床に座り込んだまま、天井越しに聞いたあの音は、どんな言葉よりもはっきりと、あの子と私のあいだに線を引いていった。それまでにも、彼方から拒絶されたことはあった。
――前は追い返したのに、自分が話したいときは来るんだ。都合がいいんだね、彩葉は。
あの言葉は、今でも耳の奥に残っている。
あの子が私を「お姉」ではなく「彩葉」と呼んだこと。
その声に、かつて私を慕ってくれていた妹の面影を、ほとんど見つけられなかったこと。何より、そう言わせてしまったのが自分自身だったこと。
どれも、忘れられるはずがなかった。
けれど、だからといって、ここで引き返すつもりはない。
私は、彼方に会いに来た。
あの子がどれほど変わっていても、受け入れると決めて来た。八千年を生きたお隣さんが、本当に彼方なのだとしたら。私が知っている妹とは、もう何もかも違っているのかもしれない。
それでも、構わない。
昔と同じように笑ってほしいわけじゃない。
昔と同じように「お姉」と呼んでほしいわけでもない。
――ううん。
そこまで考えて、首を横に振った。
嘘だ。
本当は、呼んでほしい。昔みたいに笑ってほしい。さっきリビングで、自分の願いがどれほど身勝手か思い知ったばかりなのに、その願いはまだ、胸の奥にしぶとく残っている。
でも、それを、あの子に求めてはいけない。
願うことと、求めることは違う。
私が願うのは自由だ。けれど、それを叶えてほしいと、あの子に背負わせることだけは、もうしない。
ただ、今の彼方を知りたい。
あの子が何を思い、何を抱えて、ここまで帰ってきたのか。
それを、ちゃんと聞きたい。
急がなくていい。今日でなくてもいい。
まずは、お兄ちゃんと話そう。あの子が今どうしているのか、それだけでも知りたかった。廊下の窓から入る夕方の光が、ドアノブの金属を鈍く光らせていた。
私は、扉をノックした。
コン、コン。
思っていたより、小さな音だった。
「……入り」
中から、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。
いつもより、ずっと低く抑えた声だった。
彼方の返事ではなかった。
そのことに、ほんの少しだけ安堵して、同じくらい胸が痛んだ。
ドアノブを、ゆっくりと回す。
家を出てから、何年も足を踏み入れていなかった、彼方の部屋へ。
* * *
空気が、もう違った。
家具の位置は、最後に見たときからほとんど変わっていない。机も、本棚も、窓際のカーテンの色も。部屋の隅に立てかけられたバイオリンのケースも、あの頃と同じ場所にあった。なのに、そこにいる人の気配だけが、あの頃とはまったく違う。
静かで、深くて、どこか遠い場所から戻ってきたばかりのような。そんな空気が、部屋全体に沈んでいる気がした。半分だけ開いたカーテンから、細い光の筋が床に落ちている。その先、ベッドの上に、二人がいた。
お兄ちゃんが、ベッドの端に座っていた。
そして彼方は、その肩に、こめかみを預けて眠っていた。
息を、呑んだ。
毛布が、肩から足もとまで掛けられている。その端を、彼方の指先がきゅっと掴んでいた。小さな子供が、寝ているあいだに何かを手放さないようにするみたいに。
お兄ちゃんは、動かなかった。
あの子の重みを肩で受け止めたまま、身じろぎ一つせずに、そこにいた。どれくらいそうしていたのだろう。片方の腕が、少しだけ不自然な角度で止まっている。痺れているのかもしれない。それでも、あの子を起こさないことのほうを選んでいるのが分かった。
近づいて初めて、彼方の目元が赤く腫れているのに気づいた。
胸が痛んだ。
泣いたんだ。
きっと、たくさん。
私がリビングで泣いていたあいだ、あの子もこの部屋で、一人で泣いていたのだろうか。
お兄ちゃんが、こちらを見た。
「すぐに寝てしもたわ」
小さな声だった。
彼方を起こさないように、ぎりぎりまで声を落としている。
「……そっか」
私は、もう一度彼方の顔を見た。
眠っている顔は、昔とそれほど変わらない。
目を閉じて、静かに呼吸をしている。少しだけ開いた唇から、規則正しい寝息が漏れている。
それだけなら、何年も前の彼方と同じだった。
けれど、その目元に残された涙の痕が、私の知らない時間を物語っていた。
それに、痩せた。
毛布の上に出ている手首が、前よりずっと細い。頬の線も、少し鋭くなっている。入院していたことを、私はずっと知らされていなかった。あの子が苦しんでいたあいだ、私は何も知らずに、自分の毎日を過ごしていた。そのことを思い出して、喉の奥がまた狭くなった。
何を話していたんだろう。
お兄ちゃんと、彼方は。
部屋の中の光景が、言葉よりも雄弁に語っていた。
あの子は、お兄ちゃんの隣で眠っている。
肩を借りて。毛布を掛けてもらって。誰かがすぐそばにいるのに、安心しきった顔で。それだけでも、十分すぎるほど大きな変化だった。あの子は、誰かに甘えることさえ、怖がっているように見えたから。
リビングで私たちを見た瞬間の、あの怯えた表情。触れられることを、近づかれることを、何よりも恐れているような目。
それなのに。
お兄ちゃんには、こんなに近くにいることを許したんだ。
スッと、胸の奥で冷たいものが動いた。
羨ましい、と思った。
そんな自分が、少し嫌になった。
お兄ちゃんが彼方と話せたことは、喜ぶべきことなのに。あの子が誰かに頼れたことを、嬉しいと思っているのに。
どうしても、自分と比べてしまう。
私は、あの子に何も言ってもらえなかった。
何も聞かせてもらえなかった。
顔さえ、見てもらえなかった。
ただ、拒絶されただけだった。
もちろん、それは私がしてきたことの結果だ。
分かっている。
私があの子から目を逸らしていたあいだ、あの子のそばにいたのは、いつもお兄ちゃんとお母さんだった。入院していたときも、きっと。
私は、そのどこにもいなかった。
いなかった人間が、いきなり帰ってきて、同じ場所に座らせてほしいと言っても、座れるはずがない。
それでも、何か手がかりが欲しかった。
「あのさ、何話してたか聞いていい?」
声が、思っていたより掠れていた。
お兄ちゃんが、こちらを見る。
「彼方と。何を話してたの?」
教えてほしかった。
お兄ちゃんだって、最初は彼方に怯えた目を向けられていたはずだ。名前で呼ばれて、距離を置かれていたはずだ。それでも、こうして同じベッドの上で、あの子が安心して眠れるようになった。
何か、きっかけがあったはずだ。
魔法のような言葉でなくていい。
ほんの少しでいいから、知りたかった。
けれど、お兄ちゃんは何も言わずに、首を横に振った。
「……なんで?」
思わず、聞き返していた。
声が少しだけ大きくなって、慌てて口を押さえる。彼方の睫毛が、かすかに震えた気がした。けれど、寝息は乱れなかった。
断られるとは思っていなかった。
話してくれると、勝手に思い込んでいた。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
自分には、彼方の話を聞かせてもらう資格すらないのかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「資格とか、そういう話ちゃうで」
まるで私の考えを読んだみたいに、お兄ちゃんが言った。さすが、と思った。昔から、この人には隠し事ができない。
「これは彩葉自身が、彼方と何を話すか決めなあかんことや」
「……うん」
「俺の話を参考にしようとするんは、違うと思う。しっかり、自分で向き合わなあかん」
お兄ちゃんの顔は真剣だった。
穏やかな目の奥に、譲らないものがある。
「それにな」
一度、肩にもたれる彼方の寝顔に視線を落とす。
「俺が聞いたんは、彼方が俺に話してくれた言葉や。あいつが、俺にやから言うてくれたことや」
それから、私を見た。
「それを、俺が勝手に人に渡したらあかん。たとえ、彩葉でもな」
一拍、おいて。
「彩葉が聞く彼方の言葉は、彩葉にしか聞けん。そこは、誰にも代われへんのや」
その言葉を聞いて、胸の奥にあったものが、少しずつほどけていくのを感じた。
確かに、その通りだと思った。
お兄ちゃんと彼方のあいだにあるものを、私がそのまま借りることはできない。
お兄ちゃんが何を言ったのか。
彼方が何を答えたのか。
それを知ったところで、私と彼方のあいだにあるものが、なくなるわけではない。
もしお兄ちゃんと同じ言葉を私が言ったとしても、きっと、あの子には届かない。同じ言葉でも、誰が言うかで、意味はまるで変わってしまう。あの子が「朝日」と呼ぶときと「彩葉」と呼ぶときの声が、同じ平らさの中に、ほんの少しだけ違う温度を持っていたように。
あの夏、彼方を追い返したのは私だ。
あの子が私を「彩葉」と呼ぶようになったのも、私とのあいだに積み重なった時間があるからだ。
それを、お兄ちゃんに埋めてもらうことはできない。彼方に向き合わなければならないのは、私自身なのだから。
それに。
お兄ちゃんは、彼方の言葉を守っているのだ。
あの子が自分に預けてくれたものを、誰にも渡さずに抱えている。それは、きっと、あの子にとって何よりの安心なのだと思う。話したことが、勝手にどこかへ流れていかない。
この人になら、話しても大丈夫。
そう思えるから、あの子はお兄ちゃんの肩で眠れているのかもしれない。だったら、私が今ここで無理に聞き出すことは、その安心を壊すことになる。
「……うん」
私は、小さく頷いた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
お兄ちゃんが、少し驚いた顔をした。
「……なんや、急に素直やな」
「急じゃないよ」
自然と、そんな言葉が出ていた。
「ずっと言いたかったんだと思う。でも、言えてなかっただけ」
「……さよか」
お兄ちゃんは視線を逸らして、空いているほうの手で頬をかいた。
照れているときの癖だ。
その仕草が、妙に懐かしかった。
そういえば、私はこの人にも、ずいぶん迷惑をかけてきた。
家を出たときも。
音楽を続けると決めたときも。
かぐやのことで悩んでいたときも。
そして、今も。
お兄ちゃんは、いつだって私のことを気にかけてくれていた。
私がそれに気づいていなかっただけだ。
かぐやと会うまでの私は、一人でなんでもしなきゃならないと思い込んでいた。
誰かに頼ることは、負けだと。
誰かに弱さを見せることは、迷惑をかけることだと。
そうやって、一人で走り続けてきた。走って、走って、気づいたときには、後ろを振り返っても誰もいないところまで来ていた。彼方が追いかけてきてくれていたことにさえ、気づかないまま。でも、それが違うことに、最近ようやく気づけた。
かぐやが教えてくれた。
ヤチヨが教えてくれた。
さっきも、リビングの床で、ヤチヨは答えを急かさずに待っていてくれた。
そして今、お兄ちゃんが教えてくれた。
誰かを頼ることと、自分の足で歩くことは、矛盾しない。一人で向き合わなければならないことがあっても、本当に一人きりになる必要なんてない。
だからこそ、今だけは。
この一歩だけは、自分の足で踏み出したい。
私は、お兄ちゃんの顔を見た。
「お兄ちゃん、お願いがあるの」
「ん?」
「彼方と、二人にしてほしい」
お兄ちゃんは、何も言わなかった。
私は続けた。
「ちゃんと向き合って話したいの。誰の力も借りずに、私の言葉で」
お兄ちゃんの肩で眠る彼方に、視線を向ける。
「今すぐ返事が欲しいわけじゃない。起こしてまで話そうとも思ってない」
あの子は、今、ようやく安心して眠れている。
それを、私の都合で壊したくはなかった。
「でも、あの子のそばにいたい」
声が、少しだけ震えた。
「何も話せなくてもいい。今は、ただ、そばにいたいの」
それが、今の私の本心だった。
あの子が目を覚まして、私がここにいることに気づいたら、また拒絶するかもしれない。
話しかけても、答えてくれないかもしれない。
出ていって、と言われるかもしれない。
それでも、私はここにいたかった。
拒絶されたからといって、もう一度あの子を置いていくことだけは、したくなかった。
あの夏、玄関の扉を閉めたのは私だった。
今日、この部屋の扉を閉めたのは、あの子だった。だからこそ、今度は私が扉をこじ開けてはいけない。彼方が自分の意思で開けられる日まで、待つことも必要なのだと思う。
「今までとは違う。これは本当に、私が向き合わなきゃいけないことなんだよ」
言い終えて、自分でも少し驚いた。
声が、思っていたより静かで、思っていたより、まっすぐだったから。
お兄ちゃんは、しばらく私の顔を見ていた。
何かを確かめるように。
さっきリビングで泣き崩れていた妹と、今ここに立っている妹が、同じ人間かどうかを測るみたいに。
それから、少しだけ目を細めた。
「……わかった」
その声は、穏やかだった。
「でも、無理せんといてな。しんどなったら、すぐ呼び。下におるから」
「うん」
「ヤチヨちゃんも、下で一人なんやろ。俺も、あの子に礼言うとかなあかんしな」
思わず、お兄ちゃんを見た。
この人は、ちゃんと全部見ているのだ。
私のことも。彼方のことも。リビングに置いてきた、ヤチヨのことまで。
「それと、彼方が起きたら、あいつの気持ちも聞いたってな」
私は頷いた。
ここにいることを、彼方が望まないかもしれない。
そのときは、ちゃんと受け止めよう。
私がそばにいたいからといって、あの子にまで同じ気持ちを求めてはいけない。出ていって、と言われたら、出ていく。それでも、あの子が望んだときに戻れる場所にはいる。それが、今の私にできる、精一杯の近さなのだと思う。
お兄ちゃんが、そっと身体の向きを変えた。
空いているほうの手で、彼方の頭の後ろを支える。ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。肩からこめかみを離して、その頭を枕のほうへ下ろしていく。
途中で、彼方の眉がわずかに寄った。
毛布を掴む指に、きゅっと力がこもる。
お兄ちゃんの動きが、ぴたりと止まった。
私も、息を止めた。
部屋の中で、時計の秒針だけが動いている。
やがて、彼方の眉間の皺が、ゆるゆるとほどけていった。指の力が、少しずつ抜けていく。それでも、毛布の端だけは離さなかった。お兄ちゃんは、そのまま、あの子の頭を枕の上に下ろした。
それから、ずれた毛布を、肩まで引き上げる。
大きな手だった。
さっきまで、この手があの子の頭に乗っていたのだろうか。その手つきを見ているだけで、お兄ちゃんがこの部屋でどんなふうに彼方と過ごしていたのか、少しだけ分かった気がした。お兄ちゃんは立ち上がって、しばらく痺れた腕をさすっていた。顔をしかめているのに、どこか嬉しそうでもあった。
「彩葉」
「ん?」
「……ええ顔しとるで」
思わず、お兄ちゃんを見た。
お兄ちゃんは、少し照れくさそうに笑っていた。
その顔を見て、私も、ほんの少しだけ笑うことができた。
この家に来てから、初めて笑った気がした。
「……ありがと」
「おう」
お兄ちゃんは、彼方の髪をもう一度だけ、そっと撫でた。
起こさないように。
驚かせないように。
その手が離れ、ゆっくりと扉のほうへ向かう。
すれ違いざま、私の肩に、軽く手を置いた。
温かかった。
ほんの一瞬だったけれど、その温かさが、まだ震えの残っていた膝に、少しだけ力をくれた。
「何かあったら、呼びや」
「うん。わかってる」
扉が、静かに閉まった。
掛け金の鳴る、小さな音。
さっきリビングで聞いたのと同じ音なのに、今は、まるで違って聞こえた。階段を下りていく足音が、一段ずつ遠ざかっていく。
部屋には、彼方と私だけが残された。
* * *
私は、彼方の寝顔を、ただじっと見つめた。
目元は、まだ赤く腫れている。
何度も泣いたのだろう。
それでも、今は穏やかに眠っていた。
その寝顔を見ていると、昔のことを思い出す。
小さかった頃の彼方。
私の後ろをついて回っていた彼方。
何かあるたびに「お姉」と呼んで、嬉しそうに笑っていた彼方。
握った手の中の、石ころや折れたクレヨンを、「お姉、見て」と差し出していた彼方。
私のピアノの横に立って、バイオリンを肩に当てて、体を揺らしながら拍を取っていた彼方。
あの子は、いつも私を見ていた。
私は、それを当たり前だと思っていた。
あとでね、と言えば、いつまでも待っていてくれる子だった。受け取ってもらえなかったものを、怒りもせずに、大事そうに握り直す子だった。
部屋の隅のバイオリンケースに、目が留まる。
帰ってきてから、あの子はあれを開けたのだろうか。
開けたのなら、どんな音を鳴らしたのだろう。開けていないのなら、それはなぜなのだろう。弾く気になれないだけなのか。それとも、あの楽器を手に取ることさえ、今のあの子には重すぎるのか。
分からないことばかりだった。
けれど、もう違う。
分からないままにして、目を逸らすのは、もうやめる。
今度は、私があの子を見る番だ。
私の知っている彼方ではなく、今ここにいる彼方を。
八千年という時間を生きたのだとしても。
そのあいだに、私の知らない誰かになっていたとしても。
私は、ちゃんと知りたい。
あの子が何を好きで、何を嫌いで、何を怖がっているのか。
何を失って、何を大切にしてきたのか。
そして、今、何を望んでいるのか。
それを、あの子自身の言葉で聞きたい。
ヤチヨの記憶の中のお隣さんでもなく。お兄ちゃんの話の中の彼方でもなく。
この子の口から。
何年かかってもいい。
すぐに答えてくれなくてもいい。
ただ、今度こそ。
あの子が話してくれるときに、ちゃんと耳を傾けられる姉でありたい。
あとでね、とは、もう言わない。
ベッドのそばの床に、そっと腰を下ろす。
フローリングは、少しひんやりとしていた。さっきリビングで膝をついたときと同じ冷たさ。けれど今は、その冷たさが、自分がここにいることを確かめさせてくれる気がした。
彼方の寝息が、静かに聞こえていた。
手を伸ばせば、すぐに届く距離だった。
毛布から出ている、細くなった指。その指先が、まだ毛布の端を掴んでいる。
触れたい、と思った。
昔みたいに、その手を握って、大丈夫だよと言いたかった。
けれど、私は触れなかった。
今はまだ、あの子が安心して眠っていられることのほうが大切だった。この子が眠りの中で掴んでいるのは、私の手ではない。お兄ちゃんが掛けてくれた毛布だ。その事実を、ちゃんと受け止めなければいけないと思った。
いつか。
いつか、あの子が自分から手を伸ばしてくれる日が来たなら。
そのときに、ちゃんと握り返せるように。
今は、この距離のままでいい。
「……彼方」
小さく、名前を呼んだ。
返事はなかった。
それでよかった。
返事がないことが、こんなにも静かで、穏やかなものに感じられたのは、初めてだった。拒絶ではない沈黙。ただ、この子が眠っているだけの沈黙。
「……おやすみ」
私は、ベッドのそばに座ったまま、彼方の寝顔を見つめ続けた。
今度は、目を逸らさなかった。
カーテンの隙間から差し込む光が、少しずつ色を変えていく。橙から、薄い紫へ。床に落ちた光の筋が、ゆっくりと細くなっていく。あの子がどれほど遠くへ行ってしまったとしても。もう、私の知っている妹ではなかったとしても。
それでも。
私は、この子のお姉ちゃんでいたい。
そして、いつか。
彼方自身が、もう一度そう呼びたいと思ってくれる日が来たなら。
そのときは、ちゃんと返事をしよう。
昔みたいに、何も考えずに返すのではなく。
あの子がその言葉を口にするまでに、どれほどの時間が必要だったのかを、忘れずに。
もし、その日が来なかったとしても。
この子が一生、私を「彩葉」と呼び続けたとしても。
そのときは、その名前で呼ばれるたびに、ちゃんと振り返ろう。昔の私が、何度も聞き流してしまった呼び声の分まで。私は、彼方の寝息に耳を傾けながら、ベッドの縁にそっと額を寄せ、静かに目を閉じた。今はまだ、何も変わっていないのかもしれない。
けれど、少なくとも。
私はもう、あの子から目を逸らさない。
そう決めていた。
しっかりとハッピーエンドに向けて歩き出します。
彩葉はどんなパーフェクトコミュニケーションしてくれるんですかね?