ONESHEENで売っていた超かぐや姫のグッズに13万近く持っていかれてましまいました。クレカの引き落としがとても怖いです
暗い、暗い世界。
気がついた時、私は何もない暗闇の中に立っていた。上も下も分からない。空もなければ地面もない。どこまで続いているのかすら分からない、ただ黒だけが広がる世界。それなのに、不思議と怖くはなかった。
ここを知っているからだ。何度も来たことがある。夢の中で。
そして――私の目の前には、一人の女の子がいた。金色の長い髪。透き通るように白い肌。暗闇の中にいるのに、その子だけが微かに光を帯びているように見える。もう何度も夢の中で見てきた女の子だった。
けれど。
「…………?」
何かがおかしい。
最初に気づいたのは、自分の身体だった。苦しくない。さっきまで私を苦しめていた、胸の奥から全身へ広がっていく焼けるような熱がない。頭を内側から割られているような痛みも、息を吸うだけで肺が軋むような苦しさもない。全部、嘘だったみたいに消えている。
「……なんで」
胸に手を当てようとして、そこでまた違和感を覚えた。
身体が軽い。軽すぎる。
手を動かしているはずなのに、動かしているという感覚が曖昧だった。足も、指も、呼吸さえ。本当にここに自分の身体があるのか分からない。意識だけが、この暗闇の中へ放り込まれたような感覚だった。
これまでの夢でも、私は自分が夢を見ていることをなんとなく理解していた。意識はあったし、考えることもできた。でも、今回は違う。匂いもない。風もない。温度さえ感じない。なのに、目の前の少女だけは恐ろしいほど鮮明だった。
夢というには、あまりにも現実的で。現実というには、あまりにも何もなさすぎる。
私は少女を見つめ、もう一つの違いに気づいた。
泣いていない。
いつもなら、この少女は暗闇の中で一人膝を抱えていた。顔を伏せ、小さな身体をさらに小さく丸めて、ずっと、ずっと泣いていた。声は聞こえない。顔も見えない。それなのに、泣いていることだけは分かった。
だから私は、この子を見るたびに苦しくなった。
助けないと。泣き止ませないと。一人にしてはいけない。
理由なんて何一つ分からないのに、そんな気持ちだけが胸の奥から溢れてきた。ほとんど強迫観念だった。私自身の意思というより、もっと深いところにある何かが、私の意識を無理矢理この少女へ引っ張っているような。
触れたい。助けたい。その見えない顔を見たい。
ずっと、そう思っていた。
なのに。
「…………」
何も感じない。
目の前に少女が立っている。泣いていない。本来なら安心するはずだった。「よかった」と、そう思うはずだった。けれど、その安心すらない。胸の奥は妙に静かで、ただ困惑だけがあった。
そして、今まで一度も浮かばなかった疑問が、初めて頭の中に浮かんだ。
――誰なん、この子。
「…………え?」
その瞬間、少女の顔を覆っていた霞が揺らいだ。どれだけ目を凝らしても見えなかったもの。顔だけを隠すようにかかっていた白い靄が、少しずつ薄れていく。
「待って……」
なぜか怖くなった。ずっと見たかったはずなのに。この子が誰なのか知りたかったはずなのに、今は見てはいけないような気がした。
「待って……」
けれど、霞は消えていく。額。眉。閉じられていた瞼。鼻。唇。そして――。
「……え?」
私は息を呑んだ。
見間違えるはずがなかった。何度も配信で見た。画面の向こうで、馬鹿みたいに笑っていた。実際にも会った。私の手を握ってくれた。お姉のことが大好きだと、何の恥ずかしげもなく言っていた。
私が家から飛び出した時、一人になろうとした時、追いかけてきてくれた人。
「……かぐや……さん?」
私の声だけが暗闇へ落ちていく。少女は答えない。
「なんで……?」
意味が分からない。どうして、かぐやさんがここにいる? いや、そもそも。
「……おかしいやん」
私は、かぐやさんと出会うより前からこの夢を見ていた。何度も、何度も。顔は見えなかった。けれど、金色の髪の少女はずっとここにいた。
だったら、どうして。
「なんで……かぐやさんが……」
考えるより先に手が伸びていた。触れれば何か分かる。そんな気がした。あと少し。指先が少女の頬に届く、その直前。
――こつん。
「……っ」
指先が何かにぶつかった。何も見えない。でも、確かにそこにある。透明な壁。
「また……」
今までと同じだった。どれだけ近くにいても、どれだけ手を伸ばしても、この子には触れられない。私と少女の間には、いつも見えない何かがある。
「かぐやさん……」
それでも私は、透明な壁へ掌を押しつけた。向こう側の少女は動かない。
「なあ……」
返事はない。
「かぐやさんなんやろ?」
答えない。
「なんでここにいるん?」
その時だった。
「やめなよ」
「……え?」
聞き慣れた声だった。何度も配信で聞いた。実際に聞いたこともある。間違いなく、かぐやさんの声。
でも。
「…………」
背筋が冷たくなった。
顔もかぐやさん。声もかぐやさん。それなのに、表情がない。笑わない。怒らない。悲しまない。ただ静かに私を見ている。
いつも太陽みたいに笑っている人から、光だけを全部抜き取ってしまったみたいだった。まるで、太陽が燃え尽きたあとのように。
「まるで意味が分からないって顔だね」
少女が静かに言って、ほんの少しだけ目を細めた。
「あの頃は、私もそうだった」
「あの頃……?」
胸の奥がざわついた。まただ。何だろう、この違和感。
「かぐやさん……なんよな?」
少女は答えない。
「かぐやさん、やんな?」
どう見てもそうだ。姿も、声も、顔も、私の知っているかぐやさんそのもの。
なのに、違う。
喋り方が違う。目が違う。雰囲気が違う。
私の知っているかぐやさんは、もっと明るい。いつだって周りを巻き込んで、笑って、馬鹿みたいなことを言って、お姉に呆れられて、それでもまた笑って。そこにいるだけで、周りまで明るくしてしまうような人だった。
でも、目の前の少女にはそれがない。長い、長い時間を一人で歩き続けて、笑い方さえ忘れてしまった人みたいだった。
「なあ」
「…………」
「教えてよ」
「…………」
「なあってば!」
声が大きくなる。
「なんなん!? ここどこなん!? なんでかぐやさんがおるん!? あの夢はなんなん!? さっきの身体のことも……!」
自分でも驚くくらい、言葉が溢れた。怖かったのだ。分からないことだらけで、自分だけが何も知らない場所へ放り込まれたようで。
「ちゃんと教えてよ!」
それでも少女は怒らなかった。むしろ微笑んだ。とても寂しそうに、懐かしいものを見るように、私を見ていた。
「……ごめん」
「何が」
「教えてあげられないんだ」
「教えてあげられへんって……なんなん、それ」
腹が立った。この子は何者なのか。どうして夢に出てきていたのか。あの身体の異変は何だったのか。どうして私の名前を知っているのか。聞きたいことなんて山ほどある。
「でも」
少女が言った。
「教えてあげられることもある」
「……なに?」
そこで初めて、少女の表情に迷いが浮かんだ。
「これから話すことは、たぶん……君の運命を決定づける」
「運命……?」
何を言っているのか分からなかった。そんな言葉は、私みたいな普通の人間には似合わない。
「辛い選択をしなくちゃいけなくなるかもしれない」
少女が目を伏せる。
「できることなら、私も教えたくない。本当は、何も知らないままでいてほしい。このまま目を覚まして、朝になって。お兄さんとご飯を食べて、学校に行って。かぐやのライブを楽しみにして」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
どうして、そこまで知っている。
「そうやって普通に生きてほしい。でもね」
少女の声が、今にも消えてしまいそうに細くなる。それでも彼女は顔を上げた。
「これは、教えなくちゃいけないことなんだ」
「なん……なの、それ」
怖い。はっきりと、そう思った。
「運命とか、選択とか……全然分からへん。もっとちゃんと教えてよ」
「そうだね。気持ちは分かるよ」
「分かるって――」
「突然こんなことを言われても、誰だって困るよね」
まただ。まるで、自分も同じ経験をしたことがあるみたいな言い方。
「でも、彼方」
「……っ」
名前を呼ばれた。教えていないはずの、私の名前を。
「よく聞いて。今から話すことは大事なことなんだ。この話を聞いたら、君はきっと悩む。葛藤する。何を選べばいいのか分からなくなるかもしれない。それでも、最後に決めるのは君だから」
「私……?」
「うん。君の運命も。そして、その先にあるものも――」
そこで少女は言葉を止め、僅かに目を見開いた。
「……ごめん。今のは忘れて」
「忘れられるわけないやん!」
思わず叫んだ。
「さっきからなんなん!? 言いかけてやめて、聞いても教えてくれへんくて……!」
私はただの子供なのに。何を言われているのか分からない。運命だの選択だの言われても、そんなものを背負えるほど大人じゃない。
「彼方」
「……なに」
「君が今まで見てきた夢。あれは夢じゃない」
「……え?」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「あれは――これから現実に起こること」
「…………」
頭の中が真っ白になった。
あの夢。暗闇。一人で泣いている金髪の少女。どれだけ呼んでも答えてくれなくて、どれだけ手を伸ばしても届かなくて。ずっと、ずっと、一人で。
「かぐやは一人になる」
少女が言う。
「とても長い間。孤独で、苦しくて、寂しくて……ずっと、ずっと誰かに助けを求める」
膝を抱えて泣いていた少女。何度手を伸ばしても届かなかった、あの子。
「……かぐやさんが?」
「うん」
胸が痛んだ。
今のかぐやさんが頭に浮かぶ。笑っていた。お姉の話をする時なんて、こっちが恥ずかしくなるくらい嬉しそうだった。自由で、明るくて、太陽みたいな人。
あの人が、あんなふうに泣く?
「……なんで?」
「…………」
「なんで黙るん」
「ごめんね」
「またそれ?」
「私も、どこまで話していいのか分からないんだ」
「なんで?」
「言葉は選ばなきゃならない」
「……意味分からへん」
「うん」
少女は困ったように笑った。
「でも、これだけは覚えておいて」
少女が透明な壁へ手を置く。ちょうど、私が手を置いている場所へ。壁一枚を挟んで、私たちの掌が重なった。
「これは、君が決めること。誰かに言われたからでもなく、私に頼まれたからでもなく、最後には自分で決めないといけない」
「何を……? 何を決めればいいの?」
「……うん。そこは、話さないといけないね」
そして、少女は言った。
「まずは、かぐやが何者なのかから話すよ」
そこから聞かされた話に、私は何度も言葉を失った。
かぐやさんが月から来たこと。地球へやってきて、お姉と出会ったこと。二人で暮らしたこと。最初は偶然だったはずの出会いが、少しずつ大切なものへ変わっていったこと。お姉とかぐやさんの間に、私が画面越しに想像していたよりずっと深い絆が生まれていたこと。
そして。
「もうすぐ、かぐやは月へ帰る」
「…………え?」
その一言だけでも、十分すぎるほど信じられなかった。
「帰るって……」
「月に」
「……戻ってくるん?」
少女は答えなかった。その沈黙だけで、嫌な予感がした。
「戻って……くるんやろ?」
「そのままでは、戻ってこられない」
「……なんで?」
怖かった。聞きたくない。でも、聞かなくちゃいけない。そんな気がした。
「月へ帰ったかぐやは、その後――八千年前の地球へ向かう」
「…………」
何を言われたのか分からなかった。
「……八千?」
「うん」
「八年?」
「違う」
「……八十年?」
「違うよ」
少女が静かに首を横に振る。
「八千年」
八年じゃない。八十年でも、八百年でもない。八千年。
数字だけなら知っている。でも、それが時間になった途端、意味が分からなくなった。
「なんで……? なんでそんな昔に……」
「彩葉に会うため」
「……お姉に?」
「うん」
少女が笑った。とても、とても寂しそうに。
「もう一度、彩葉に会うためだけに、かぐやは八千年前へ行く」
理解できない。八千年。そんな途方もない時間を、一人で。
「私はね、かぐやに幸せになってほしいんだ」
少女が少しだけ笑う。
「ハッピーエンドってやつだね」
「……なんで八千年前なん?」
「ごめん。そこは教えられない」
「なんで?」
「輪廻に影響するかもしれないから」
「……輪廻?」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが疼いた。
『輪廻を回して』
「……っ」
身体がおかしくなった時、頭の中で聞こえた声。
「なあ、輪廻って――」
「…………」
少女は答えない。
「……やっぱり教えてくれへんのや」
「ごめん」
「もうええよ」
良くはない。全然、良くない。でも、聞いたところで答えてくれないのだろう。
「かぐやはね、ずっと彩葉に会いたがっていた。八千年の間、ずっと」
胸の奥がきゅっと縮んだ。
「でも、八千年は長すぎる」
少女の声が僅かに震える。
「彼女一人では、途中で心が折れてしまうかもしれない。もしそうなったら、かぐやは彩葉に会えない」
少女が私を見る。
「君が大好きな彩葉にも会えなくて――バッドエンドだろうね」
頭の中に、二人の姿が浮かんだ。
お姉。かぐやさん。
二人が並んでいるところが好きだった。お姉は、かぐやさんの隣にいる時、楽しそうだった。SENGOKUでも、動画でも、ライブでも。私の知らないところでも、きっとお姉は笑っていた。
私には、もう向けてくれないような笑顔で。
最初は少しだけ寂しかった。ほんの少しだけ羨ましかった。私も昔は、その場所にいたかったから。お姉の隣で、くだらない話をして、音楽をして、笑って。ただの姉妹でいたかったから。
でも、もうそれは望まない。望んじゃいけない。
私はお姉を傷つけた。お姉に嫌われた。
『用事は済んだでしょ、帰って』
あの声が蘇る。
だから、もう無理に近づかないと決めた。遠くから応援しようと。かぐやさんがお姉の隣にいてくれるなら、私なんて必要なくてもいい。そう思っていた。
なのに。
「……かぐやさんが会えへんかったら、お姉……また一人やん」
胸が痛い。
お父さんがいなくなって、家族が少しずつ壊れて、お兄が家を出て、お姉も家を出て。やっと。やっと、お姉の隣にいてくれる人ができたのに。
「……嫌や。それだけは……嫌や」
私は知っている。一人で泣いているお姉を。部屋に閉じこもって、誰にも聞こえないように泣いていたお姉を。
私は何もできなかった。守りたかったのに。助けたかったのに。結局、私はお姉を傷つけた。
「また一人になってまうやん……せっかく、お姉の隣にいてくれる人がおったのに……」
またいなくなる。お姉の大切な人が。
「そんなの……あんまりやん……」
ぽたりと涙が落ちた。落ちたはずなのに、暗闇には何も残らなかった。
「……そっか」
少女が呟いた。
顔を上げると、彼女は悲しそうだった。私よりも、ずっと。泣きそうなくらい。
「……どうしたん?」
「ううん」
小さく首を振り、どこか懐かしそうに私を見る。
「やっぱり、最初はそうだったよね」
「……最初?」
「なんでもない」
「またそれや」
「ごめんね」
「なあ」
私は少女を見据えた。
「あんたって……ほんまになんなん?」
「…………」
「かぐやさんなん?」
「…………」
「それとも……別の誰かなん?」
答えない。分かっていた。きっと、今は答えてくれない。少女はただ、寂しそうに私を見ている。
「彼方」
「なに?」
「さっきの気持ち、忘れないでね」
「……お姉のこと?」
少女はゆっくりと首を横に振った。
「大切な人に、一人で泣いてほしくないっていう気持ち。それだけは、絶対に忘れないで」
その言葉の意味は分からなかった。
私が一人で泣いてほしくないのは、お姉だ。かぐやさんがいなくなれば、お姉はまた一人で泣いてしまうかもしれない。そんなの嫌だ。
だったら。
「……なあ」
「なに?」
「かぐやさんを、月に返さないことってできるん?」
少女の表情が曇った。
「それはできない」
「……なんで?」
「もう決まっていることだから」
「変えられへんの?」
「うん」
「絶対?」
「……絶対。残酷な話だけどね」
だったら。
「かぐやさんを助ける方法は?」
どうせ、これも無理なんだろう。そう思っていた。
でも。
「あるよ」
「……え?」
「正確には、かぐやが八千年を越えて、もう一度彩葉に会うための方法が」
「……あるん?」
「うん」
「ほんまに?」
「あるよ」
「教えて」
「彼方」
「教えてよ」
透明な壁へ両手をつく。
「お願い」
私にできることなら、なんでもいい。
私には今まで何もできなかったから。お父さんが死んだ時も、お姉とお母さんが喧嘩していた時も、お姉が家を出ていった時も、この前お姉に会った時だって。私は何一つ、お姉のためにできなかった。
だったら、今度こそ。
「私にできることなら……なんでもするから。だから教えて」
少女の目が僅かに揺れた。長い沈黙のあと、彼女は口を開いた。
「かぐやが八千年前へ行くところまでは、変えられない。でも、そこから先は違う。かぐやが一人で八千年を越えられるかどうか。それは、まだ決まってない」
心臓が大きく鳴った。
「だったら……」
「方法は、とても簡単」
少女が言う。
「誰かが一緒にいてあげればいい」
「…………」
「八千年間」
息が止まった。
「かぐやが彩葉に会える、その日まで。一人にしない。倒れそうになったら支えて、泣いていたら隣にいて。もう無理だって言ったら、それでも大丈夫だよって言ってあげる」
八千年。
何度聞いても、その数字は大きすぎて本当の意味が掴めない。十五年ほどしか生きていない私には、想像することすらできなかった。
「そうすれば、きっとかぐやは彩葉のところまで辿り着ける」
聞きたいことがたくさんあった。そんなことが本当にできるのか。誰が行くのか。どうやって八千年も生きるのか。食べ物は。眠る場所は。病気になったら。怪我をしたら。八千年前に行って、どうやって暮らしていくのか。
でも、少女の顔を見て分かってしまった。
「……私なんや」
少女の目が揺れた。
「私に……行ってほしいんやろ?」
答えない。その沈黙が、何より雄弁な答えだった。
「これが……選択? 最初に言ってた、私が決めなあかんこと?」
「私は」
少女が初めて、少し強い声を出した。
「君に行ってほしいなんて言わない」
「え?」
「絶対に言わない」
その声は震えていた。
「私は方法を教えただけ」
「でも――」
「決めるのは君だ。私に頼まれたからじゃない。かぐやに頼まれたからでもない。彩葉に頼まれたからでもない」
そして、一言一言を噛み締めるように言った。
「君自身が、決めることだ」
私は黙った。
八千年。途方もない時間。まだ怖さは分からない。分からないけれど、さっきまで考えないようにしていたことが一つだけ、頭に浮かんだ。
「……お姉は?」
少女の表情が僅かに揺れた。
「私が行ったら……お兄は? お母さんは? 学校は? 家は?」
少女は何も言わない。
それでようやく、少しだけ分かった。
行くということ。八千年前へ。
それは。
「……帰って、これへんの?」
声が震えた。少女はすぐには答えなかった。その沈黙だけで、胸が痛くなった。
「……そうなんや」
お兄の顔が浮かぶ。
熱を出した私の額に、何度も冷却シートを貼ってくれた。夜中でも「大丈夫か?」と聞きに来てくれた。私が「お兄のこと大好き」と言っただけで、変な顔をして固まった。
昔からずっと。私が泣いた時も、寂しかった時も、何も聞かずに隣にいてくれた。
「……もう、お兄とゲームできへんの?」
返事はない。胸がきゅっと締めつけられる。
「お母さんにも……会えへん? お姉にも?」
そこで声が出なくなった。
お姉。もう会えない。今度こそ、本当に。あの日が最後になる。
『用事は済んだでしょ、帰って』
最後に言われた言葉。それが、私がお姉から聞く最後の言葉になる。
嫌だ。
一瞬、そう思った。
嫌だ。帰りたい。お兄とまた遊びたい。お母さんのご飯が食べたい。学校だって、友達だって、まだやりたいことはきっといっぱいある。
それに、お姉と。
いつか。いつかでいいから、もう一回ちゃんと話したかった。昔みたいに戻れなくてもいい。許してもらえなくてもいい。ただ「ごめんなさい」と、ちゃんと言いたかった。
胸が痛い。怖い。
今になって、八千年という言葉が少しだけ怖くなった。
でも、その時。
もう一つの光景が浮かんだ。
一人で泣いている、金色の髪の少女。膝を抱えて、誰にも届かない場所で、ずっと、ずっと泣いている。
あれが、かぐやさん。
私が行かなければ、あの人は一人になる。そして、お姉のところまで辿り着けないかもしれない。そうしたら、お姉も。
私は、お姉の隣にはいられない。それはもう分かっている。私がいると、お姉を苦しめてしまう。
でも、かぐやさんならお姉を笑わせられる。私にはできなかったことを、あの人ならできる。
だったら。
絶対にかぐやさんを助ける。そして私にできることが、一つだけある。
「なら」
口が動いた。
「私が行く」
少女の目が大きく見開かれた。
「私が八千年、かぐやさんのそばにいる」
「……彼方」
「一人にせえへん」
言葉にすると、不思議なくらい胸が落ち着いた。
「お姉のところまで、ちゃんと連れて帰る。そうすれば、お姉も幸せになれるんやろ?」
少女の顔が歪んだ。
「……そっか」
今にも泣きそうだった。
「うん」
震える声で、彼女は言った。
「彼方なら、そう言うよね」
「……なんで泣きそうなん?」
「泣いてないよ」
「嘘や」
「…………」
少女は困ったように笑った。
彼女は知っている。私には分からない何かを。八千年がどれほど長いのか。そこで何が起こるのか。どれほど苦しくて、どれほど寂しくて、どれほど絶望するのか。全部、知っているような目だった。
「彼方」
「うん?」
「本当に、それでいいの?」
「…………」
「きっと、辛いなんて言葉じゃ足りない。一度行ったら、取り返しがつかない。途中で嫌になっても、帰りたいと思っても、もう帰れないんだ」
帰ることができない。
その言葉だけで、またお姉の顔が浮かんだ。お母さんの顔。お兄の顔。家。自分の部屋。学校。お兄とゲームをした時間。何気なく食べた晩ご飯。朝。夜。夏。冬。
全部、全部なくなる。
「…………怖いよ」
気づけば、そう言っていた。
少女が目を見開く。
「怖い。そんなん聞いたら……そら怖いよ」
私は笑った。上手く笑えているか分からない。
「だったら――」
「でも」
少女の言葉を遮る。
「それでも行く」
「…………」
だって、私はずっと何もできなかった。
お姉のために何かしたかった。守りたかった。助けたかった。なのに、私がやったことは全部、お姉を傷つけただけだった。
「私にも……できること、あるんやろ?」
「彼方……」
「私でも、お姉を幸せにできるんやろ?」
少女の顔が、泣きそうに歪んだ。
「だったら」
私は笑った。
「ええよ」
きっと私は、この時、少し嬉しかったのだと思う。
ようやく見つけられたから。
私にも、お姉のためにできることが。
「それに」
もう一人、浮かんだ人がいた。
私が泣きながら家から飛び出した時、追いかけてきてくれた人。
「かぐやさんには、恩があるから」
「……うん……そうだったね」
あの日、私を追いかけてきてくれた。一人になろうとした私を、一人にしないでくれた。
なら、今度は私の番だ。
「返さなあかんやろ?」
今度は私が、かぐやさんを一人にしない。
「……そっか」
少女は目を伏せた。
「分かった。ありがとう、彼方」
どこか安心したように。でも、それ以上に申し訳なさそうに、彼女は言った。
「……ところで」
「ん?」
「過去って、どうやって行くん?」
今更だった。
「私、普通の人間やで?」
「知ってる」
「八千年前なんて、どうやって――」
「大丈夫」
少女が笑う。
「君が行くと決めたなら、それでいい」
「いや、よくないやろ。ちゃんと教えてよ。どうやって行くん? 八千年どうやって生きるん? ご飯とかどうするん? というか、そもそも――」
「大丈夫だよ」
少女が透明な壁越しに、私の胸へ手を重ねる。
触れていないはずなのに、不思議とそこだけが温かくなった気がした。
「きっとすぐ、身体が勝手に動く」
「身体……?」
「そう。やらなきゃならないことに向けて、勝手に動いてくれる」
「なんなん、それ……」
「私に任せて」
「…………」
意味は分からなかった。怪しい。どう考えても怪しい。
なのに、なぜか彼女なら信じてもいいと思った。
いや、違う。きっと私は信じたかったのだ。この選択が間違っていないと。私にもお姉を幸せにできるのだと。
「彼方」
「なに?」
「大丈夫だよ。君は八千年を、かぐやと一緒に越えられる」
その声には、不思議なほど強い確信があった。
「辛い日もある」
「うん」
「もう無理だって思う日もある」
「うん」
「何をやってもどうしようもなくて、全部投げ出したくなる日だってある」
「…………」
「彩葉に会いたくて、泣く日もある」
「…………うん」
「お兄さんに会いたくなる日も」
「……うん」
「帰りたいって、何度も思う」
胸が痛んだ。
「それでも」
少女が笑う。
「大丈夫」
まるで、本当に八千年を見てきた人みたいだった。
「君なら大丈夫」
「……ありがと」
私も笑った。
「頑張るよ」
夢でずっと見ていた、一人で泣いているかぐやさん。あの人を、今度は私が助ける。
一人にしない。お姉のところまで連れていく。そして、二人をもう一度会わせる。
そうすれば、きっとお姉は笑ってくれる。私が隣にいなくても。私のことを許してくれなくても。
それでいい。お姉が笑っているなら、それだけで。
「頑張ろ」
小さく呟いた。
根拠なんてない。八千年がどれだけ長いのかも分かっていない。それでも、この人が大丈夫と言ってくれたから。
きっと大丈夫。
そんな気がした。
やがて、暗闇だった世界が少しずつ白く染まり始めた。最初は、遠くに小さな光が生まれただけだった。それがゆっくりと広がり、何もなかった黒を塗り潰していく。同時に、私の身体の感覚も薄れていった。指先がどこにあるのか分からない。足が地面についているのかも分からない。目の前にいる彼女の姿さえ、白い光の向こうへ溶け始めていた。
「もう起きる時間みたいだね」
「……そっか」
私は頷いた。夢が終わる。ただそれだけのことのはずなのに、なぜだろう。これで最後のような気がした。次に眠っても、もうこの場所には来られない。目の前の彼女とも、もう会えない。そんな予感だけが、不思議なくらいはっきりと胸の中にあった。
「なあ」
「なに?」
「また会える?」
「…………」
彼女は答えなかった。ただ、泣きそうな顔で笑った。その沈黙だけで、答えが分かってしまった気がした。
「……そっか」
少しだけ、寂しかった。ついさっきまで、何を聞いても教えてくれないこの人に腹を立てていたはずなのに。もう会えないと思った途端、聞いておきたいことが次々と浮かんでくる。
どうして私のことを知っているのか。どうしてお兄のことを、お姉のことを知っているのか。どうしてこれから起こることを知っているのか。そして、どうして八千年という時間を、まるで自分で経験したみたいに話すのか。
結局、私はこの人のことを何も知らない。顔も声もかぐやさんなのに、私の知っているかぐやさんとは何かが違う。そして――もっと単純なことすら、私は聞いていなかった。
「あ……名前」
「……え?」
彼女が目を瞬いた。
「そういえば、聞いてへんかった。あなたの名前」
その瞬間、彼女の表情が止まった。ほんの僅かに、目が見開かれる。どうしてそんな顔をするのか分からなかった。
「ずっとかぐやさんって呼んでたけど……あなた、かぐやさんやないんやろ?」
「…………」
否定しない。やっぱり、そんな気がしていた。姿は同じ。声だって同じ。でも違う。私が知っているかぐやさんは、こんな目をしない。こんなにも寂しそうに笑わない。こんなにも長い時間を知っているような顔をしない。
「最後くらい教えてよ。あなたの名前、なんていうん?」
「…………」
彼女は何も言わず、ただ私を見ていた。その目は、とても悲しそうだった。それなのに、ほんの少しだけ嬉しそうにも見えた。まるで、ずっと昔に失くしてしまったものを、もう一度見つけた人みたいに。
「……名前、か」
「うん」
彼女は自分の胸元へ手を添え、それから少しだけ笑った。
「懐かしいね」
「……なにが?」
「なんでもない」
「またそれ?」
「うん」
「最後までそれなんや」
「ごめんね」
彼女は笑っている。でも、その目は今にも泣きそうだった。
「……教えられない」
「名前も?」
「うん」
「なんで?」
「それを教えたら……」
彼女が言いかけて、止まる。
「教えたら?」
彼女は答えなかった。ただ、小さく首を横に振る。
「ごめん」
「……ほんま、秘密多すぎや。名前くらい教えてくれてもええやん」
「そうだね」
「そうだねって……」
「でも、これは駄目」
「ケチ」
「ふふっ」
彼女が笑った。ほんの小さな笑い声。その笑い方に、なぜか胸の奥がざわついた。
「…………?」
今の笑い方。どこかで――。
「どうしたの?」
「……いや」
気のせいだ。目の前にいるのは、かぐやさんの姿をした知らない誰かだ。私が知っているはずなんてない。
白い光がさらに強くなっていく。彼女の姿が薄れていく。もう時間がない。最後に何か言わないと。そう思ったけれど、別れの言葉は浮かばなかった。ありがとう。さようなら。またね。どれもしっくりこない。
だから、何も考えなかった。
すると――。
「……行ってきます」
自然と。本当に自然と、その言葉が口から零れた。
「…………」
彼女の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
言った私自身も驚いていた。どうして「行ってきます」なんだろう。これから目を覚ますだけなのに。
でも、違う。
これから私は行くのだ。八千年という、途方もない時間へ。かぐやさんと一緒に。お姉のところまで、かぐやさんを連れて帰るために。
だから――行ってきます。
それで合っている気がした。
彼女は何も言わなかった。ただ私を見ていた。そして、一粒。その瞳から涙が零れた。
「……え?」
もう一粒。白い頬を伝っていく。
「ちょ……どうしたん? なんで泣いてるん?」
「…………」
「私、なんか変なこと言った?」
「……ううん」
彼女は首を横に振った。
「なんでもないよ」
「いや、なんでもない人はそんな泣かへんやろ」
「そうかな」
「そうやって」
「……そっか」
彼女は笑った。涙を流しながら、とても嬉しそうに。それなのに、どうしようもなく寂しそうに。
「……懐かしいな」
「え?」
「なんでもない」
「またそれ!?」
「ふふっ」
「もう……」
私は呆れていた。だから、気づかなかった。彼女が私の「行ってきます」を聞いて、どうして泣いたのか。その言葉を、彼女がどれほど長い間覚えていたのか。これから私が歩く八千年を、彼女がどれほど鮮明に知っているのか。
当然だった。今の私に分かるはずがない。だって、私にとって八千年は――まだ、始まってすらいないのだから。
「彼方」
彼女が私の名前を呼んだ。
「ん?」
顔を上げた私は、一瞬だけ息を呑んだ。
彼女が笑っていた。
それは、かぐやさんの笑顔ではなかった。顔は同じ。金色の髪も、白い肌も、声だって変わらない。それなのに、その笑い方を、私は知っている気がした。
少しだけ眉を下げて、泣きそうなのを隠すみたいに笑って、大丈夫だと誰かに伝えるために、自分の方が苦しいくせに笑う。そんな笑い方。
「…………?」
胸の奥が、妙にざわついた。知らないはずなのに。初めて見るはずなのに。その笑顔だけは、ずっと昔から知っているような気がした。
彼女の輪郭が白い光に揺れる。
その瞬間、かぐやさんの姿の向こうに、別の誰かがいるように見えた。ほんの一瞬。髪も、顔も、背格好も分からない。ただ、そこに立っている誰かが私を見ていた。
どこか懐かしい目で。大切なものを見るような目で。そして――まるで、自分自身を見つめるような目で。
「…………」
何かに気づきそうになった。
けれど。
「いってらっしゃい、彼方」
その声に、思考が途切れた。
彼女は笑っていた。涙を流しながら、今度こそ本当に嬉しそうに。
「……うん」
なぜか私まで泣きそうになった。理由なんて分からない。それでも私は笑った。
「行ってくる」
彼女の顔が、くしゃりと歪んだ。
その表情を最後に、白い光がすべてを呑み込んだ。彼女が消える。暗闇が消える。声も、姿も、何もかもが遠ざかっていく。
最後まで、私は彼女の名前を聞くことができなかった。かぐやさんの姿をした、名前も知らない誰か。結局、何者だったのか分からない。
それでも、意識が途切れるその直前、どうしてだろう。私は、こんなことを思った。
――あの人のこと、私……どこかで知ってるんかな。
答えは出なかった。出るはずもなかった。
私はまだ十五年ほどしか生きていない。八千年という時間がどれほど長いのかも知らない。その八千年の中で、何を失うのかも。何を得るのかも。どれだけ泣いて、どれだけ笑って、最後に自分がどんな人間になるのかも。
何一つ知らない。
だから私は気づかない。
最後まで名前を教えてくれなかった彼女が、私のことを誰よりも知っていた理由に。私の「行ってきます」を聞いて涙を流した理由に。彼女が私を見る目が、あんなにも懐かしそうだった理由に。
何一つ気づかないまま。
私は――夢から醒めていった。
今の彼方ちゃんの状態を簡単に説明するとエヴァ13号機です。
もう少ししたら一人機体に残ってもう一人は射出されます
次の話はヤチヨ視点を書いてます。ヤチヨちゃんが曇って貰えて嬉しいな。最後はハッピーエンドにするからその間はいっぱい曇ってね