side月見ヤチヨ
あの日のことを、私は今でもはっきりと覚えている。
月から地球へ向かう途中、私と犬DOGEを乗せた「もと光る竹」が突然、隕石に衝突した。激しい衝撃とともに制御を失い軌道を大きく外れ、気がつけば私は、本来たどり着くはずだった時代から八千年も前の地球に不時着してしまっていた。
最初は何が起きたのかさえ分からなかった。どうしてこんなことになってしまったのか。どうすれば元の時代に帰れるのか。そもそも、ここはどこなのか。何ひとつ分からないまま、私はただ途方に暮れていた。
隕石による損傷は、想像していたよりもずっと深刻だった。「もと光る竹」が持っていた肉体を生成する機能はほとんど失われ、私自身の身体を作ることさえできなくなっていた。かろうじて肉体を得られたのは、一緒に地球へやってきた犬DOGEだけ。それも、なぜか小さなウミウシの姿だった。
こうして私は、身体を持たない、ただの意識になってしまった。
歩くことも、走ることも、何かに触れることもできない。誰かに声をかけたくても、そもそもその声を届ける相手がいなかった。犬DOGEはそばにいてくれたけれど、私の言葉に返事をしてくれるわけではない。
最初のうちは、まだ希望を持っていたと思う。きっと何とかなる。いつか元の時代に戻れる。そうすれば、また彩葉に会える。あの狭いアパートに帰って、一緒にご飯を食べて、音楽を聴いて、くだらないことで笑い合える。そんな未来を、私は本気で信じていた。
でも、一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一年が過ぎても、何ひとつ変わらなかった。
季節だけが巡っていく。花が咲いて、散って、木々が色づき、やがて雪が降る。私が何もしなくても、世界は当たり前のように進んでいく。その中で、私だけが取り残されていた。
何もできない。誰とも話せない。どこにも帰れない。
寂しかった。本当に、寂しかった。
そんな時、私はいつも彩葉を思い出していた。
「この一瞬を最高のパーティーにしよう」
彩葉がくれた大切な歌。私はそれを何度も何度も口ずさんだ。最初は楽しかった思い出を振り返るためだった。彩葉の顔を思い出すだけで胸の奥が少しだけ温かくなったから。
けれど、いつしかそれは寂しさに押し潰されないためのおまじないに変わっていた。
歌っている間だけは、あの部屋に帰れたような気がした。彩葉が隣にいて、私の歌を聴いてくれているような気がした。でも歌い終わればすぐに現実へ引き戻される。そこに彩葉はいない。私を呼んでくれる人もいない。ただ、どこまでも続く時間だけが、静かに横たわっていた。
「……彩葉」
返事はない。
「会いたいよ……彩葉……」
何度願っても、その声が届くことはなかった。
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数年が経つ頃には、私はもう限界だった。泣いても誰も助けてくれない。寂しいと叫んでも、誰にも届かない。私がここにいることを知っている人なんて、世界のどこにもいなかった。
その事実が、何よりも怖かった。
私は、ここでずっと一人なのだろうか。彩葉に会えるまで、あとどのくらいの時間待たなければならないのだろうか。その途方もない時間を想像するだけで、気が遠くなりそうだった。
「……ヤチヨ」
気づけば、そんな名前を呼んでいた。
「ヤチヨ……ねえ、どこにいるの……?」
いるはずがない。そんなこと、分かっていた。それでも、呼ばずにはいられなかった。
「お願い……助けてよ……」
あの頃の私は、月見ヤチヨという存在が何者なのかさえ知らなかった。ただ、彩葉と一緒にいた時に知った、何でもできるように見えるあの歌姫なら、こんな私でも助けてくれるんじゃないか。そう思ってしまったのだ。
「誰でもいいから……お願い……一人にしないでよぉ……」
その願いに答えてくれる人なんて、いるはずがなかった。
そう思っていた。
――あの日までは。
「……ぐ……かく…………かぐや……」
最初は、風の音だと思った。どこか遠くから、かすかな声が聞こえた気がしたのだ。
「……ん?」
耳を澄ませる。気のせいかもしれない。だって、ここには誰もいない。何年もずっとそうだったのだから、今日だって同じはずだった。
けれど。
「……かぐや……」
また聞こえた。今度は、はっきりと。
女の子の声だった。
「……えっ?」
心臓があったなら、きっとものすごい勢いで鳴っていたと思う。
誰かがいる。私の名前を呼んでいる。
その事実を理解した瞬間、私は夢中で叫んでいた。
「えっ、誰!? 誰かいるの!?」
返事はない。
「いるよ! 私、ここにいるよ!」
必死だった。誰なのかなんて、どうでもよかった。人間でも、月の人でも、何だってよかった。ただ、私の声に答えてほしかった。
「ねえ! 聞こえてる!? お願い、返事してよ!」
けれど、どれだけ呼びかけても姿は見えない。辺りを見回しても、あるのは見慣れた景色だけ。誰かが近づいてくる気配もなく、風の音だけが静かに響いていた。
少しずつ、期待が恐怖に変わっていった。
もしかして、幻聴だったのだろうか。あまりにも長い孤独に耐えきれなくなった私が、都合のいい声を作り出してしまったのだろうか。
「……嘘」
嫌だ。そんなの、嫌だ。
ようやく誰かに会えたと思ったのに。
「……お願いだから……」
泣きながら、誰もいない場所へ手を伸ばそうとした。もちろん、身体のない私にそんなことができるはずもない。
その時だった。
ふわりと、肩に何かが触れたような気がした。
「……え?」
触覚なんてない。そもそも、触れられる身体すらない。なのに、確かに感じたのだ。誰かが、そっと肩に手を置いてくれたような。そして、いつの間にか私の隣に、誰かが座っているような気配があった。
「…………よかった」
声がした。さっきよりも、ずっと近くで。
「本当に……よかった。ようやく気づいてくれたんだね」
泣きそうな声だった。それなのに、とても優しい声だった。
「……誰?」
震える声で尋ねる。
「……そこに、いるの?」
「うん」
返事があった。
たった、それだけ。たった一言、返事をしてもらえただけなのに。
「…………っ」
涙が溢れた。
「いる……本当に、いるんだ……」
「うん。いるよ」
「私の……隣に?」
「そうだよ」
「……いなくならない?」
その質問をした瞬間、自分でも驚くほど声が震えた。怖かった。もしここで、また一人に戻されてしまったら、もう耐えられないと思った。
けれど、彼女は私を笑わなかった。
「大丈夫だよ」
優しい声が、すぐ隣から聞こえる。
「私はここにいるから。もう、一人で泣かなくていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は声を上げて泣いた。何年も我慢していたものが、一度に溢れ出したようだった。
「寂しかった……!」
「うん」
「ずっと……ずっと一人だったの……!」
「うん。辛かったね」
「誰もいなくて……彩葉もいなくて……私、どうしたらいいか分かんなくて……!」
「……うん」
「もう嫌だよぉ……! 一人は嫌なの……!」
彼女は何も急かさなかった。私が泣きやむまで、ずっと隣にいてくれた。
大丈夫だよ。そばにいるよ。辛かったね。
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返してくれた。それがどれほど嬉しかったか、今でもうまく言葉にできない。
あの時の私は、ただ誰かが隣にいてくれる。それだけのことが、幸せで仕方なかった。
「……ねえねえ!」
「なに?」
どれくらい泣いていただろう。ようやく落ち着いた私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「そういえばさ! 君って誰なの? もしかして、私を助けに来てくれたの!?」
さっきまで泣いていたことが少し恥ずかしくて、わざと明るく聞いてみた。まだ声は少し震えていたけれど、彼女と話せるのが嬉しくて、自然と笑顔になっていた。
すると、彼女は少しだけ黙った。
「…………」
「……あれ? もしかして、聞いちゃダメだった?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど……」
困ったような声だった。何かを考えているような、言葉を探しているような。
「私は……そうだね。かぐやが、誰かに助けてほしいって、寂しいから誰かに会いたいって、そう願ったから生まれた存在……なのかな」
「……えっ?」
「かぐやを助けるために、ここに来たんだよ」
「ええっ!? そうなの!?」
思わず大きな声が出た。だって、私が願ったから生まれたなんて、そんなのすごいに決まっている。
「じゃあじゃあ! 私が寂しいって思ったから、君が来てくれたってこと!?」
「……うん。そういうことになるのかな」
「すごーい! なにそれ! 私ってば、そんなことまでできちゃうの!?」
「……ふふっ。どうなんだろうね」
「えへへ! でも、そっかぁ……私の願いから生まれたんだ……」
何だか、はぐらかされたような気もした。でも、その時の私にはどうでもよかった。彼女が何者でも、どこから来たのでも、私の隣にいてくれるのなら、それでよかった。
「じゃあさ、君って私のお願いを叶えてくれる妖精さんみたいな感じ?」
「……妖精かどうかは分からないけどね」
「えー! いいじゃん、妖精さん! かわいいし!」
久しぶりに、心から笑えた気がした。誰かと話すことが、こんなにも楽しいなんて。
それから私は、思いつくままにいろいろなことを尋ねた。どこから来たのか。どうして姿が見えないのか。いつから私のそばにいたのか。彼女は答えられることには答えてくれたけれど、時々困ったように笑って話を逸らした。
今思えば、あの頃から彼女は、たくさんの秘密を抱えていたのだろう。けれど当時の私は、そんなことに気づきもしなかった。
「あっ! そうだ!」
「どうしたの?」
「名前! 君の名前、まだ聞いてなかった!」
「……名前?」
「そうそう! なんていうの?」
彼女は少し黙ってから、静かに答えた。
「ごめんね。名前はないんだ」
「……えええっ!?」
思わず大きな声が出た。
「名前ないの!? なんで!?」
「……そんなに驚くことかな?」
「驚くよ! だって名前がないんだよ!? 呼びたい時どうするの!」
私は少し考えてから、ぱっと明るい声を出した。
「あっ、そっか! 私のお願いから生まれたんだもんね! じゃあ、まだ名前がないのも当たり前か!」
「…………」
「よーし! だったら私に任せて!」
「……え?」
「私が名前つけてあげる! 絶対かわいい名前にしてあげるから!」
当然、喜んでくれると思っていた。名前がないなんて寂しいじゃないか。これからずっと一緒にいるのなら、呼びかけるための名前があった方がいい。私は彼女の名前を何度も呼びたかったし、彼女にもその名前を好きになってほしかった。
けれど、返ってきたのは意外な言葉だった。
「……ごめんね」
「……え?」
「そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも、私に名前は必要ないんだ」
「えーっ!? なんでなんで!?」
「……必要ないから、かな」
「むぅ……そんなのダメだよ! 名前があった方が絶対いいって!」
私は当然のように食い下がった。かわいい名前がいいか、かっこいい名前がいいか。月に関係する名前なんてどうだろう。いっそ、私とお揃いにしてしまおうか。
思いつく限りの案を出した。でも彼女は、そのどれにも頷いてくれなかった。
「ごめんね、かぐや」
「むぅぅ……」
「本当に、名前はいらないんだ」
「でもさぁ! 呼ぶ時に困るじゃん!」
「好きに呼んでくれていいよ」
「……好きに?」
「うん。かぐやが呼んでくれるなら、私はちゃんと返事をするから」
そこまで言われてしまうと、さすがの私も無理強いはできなかった。でも、やっぱり呼び方くらいは決めたかった。だって、これからずっと一緒にいるんだから。
「……あっ! じゃあ、お隣さん!」
「……お隣さん?」
「そう! お隣さん!」
我ながら、いい考えだと思った。
「だって、君は私の隣にいてくれるんでしょ? だったら、お隣さん! ねっ、いいでしょ!」
彼女はしばらく黙っていた。もしかして、変だっただろうか。少し不安になり始めたところで、小さな笑い声が聞こえた。
「……ふふっ」
「えっ、なになに!? なんで笑うの!?」
「ううん。ずいぶん適当だなって思って」
「えーっ!? ひどーい! せっかく一生懸命考えたのに!」
「でも……いいね」
「……ほんと?」
「うん。お隣さん、か」
彼女は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「……私にぴったりだと思う」
「でしょでしょ!?」
「うん」
そして、優しく言った。
「私は、かぐやの願いが叶うまで、ずっと隣にいるよ」
その言葉が嬉しくて、私は何度も彼女を呼んだ。
「お隣さーん!」
「なに?」
「お隣さん!」
「うん?」
「おーとーなーりーさーん!」
「……ふふっ。どうしたの?」
「えへへ! 呼んでみただけ!」
「……もう、かぐやったら」
「だって嬉しいんだもん! 呼んだら返事してくれるんだよ? すごいよ!」
「……ふふっ。そっか」
「ねえねえ! もう一回呼んでいい?」
「……いいよ」
「お隣さーん!」
「はーい」
何度呼んでも、彼女は返事をしてくれた。面倒くさがることも、怒ることもなく。そのたびに、私の胸の奥にあった寂しさが、少しずつ薄れていくような気がした。
こうして私は、八千年という途方もない時間を共に過ごすことになる、大切なお隣さんと出会った。
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お隣さんと出会ってから、私の毎日は大きく変わった。
相変わらず身体はなく、元の時代に戻る方法も見つからなかった。それでも、もう以前のような絶望は感じなくなっていた。だって、話し相手がいるのだ。
朝になれば「おはよう」と言える。綺麗な景色を見つければ「見て見て!」と声をかけられる。寂しくなったら、お隣さんと呼べば返事をしてくれる。それがどれほど幸せなことか、私は身をもって知った。
私は本当にたくさんのことを話した。月で暮らしていた頃のこと。地球に来てからのこと。初めて見た景色のこと。そして何より、彩葉と過ごした宝物のような日々のこと。
「ねえねえ、聞いて! 彩葉ったらさ、クソまずいパンケーキ作ったことあるんだよ!」
「ふふっ。それは大変だったね」
「そうなの! しかもね、本人はすっごく真剣な顔してるの! もう、おかしくって!」
「……そっか」
「でもね、彩葉って本当に優しいんだよ! ちょっと不器用なところもあるけど、私のこと、すっごく大切にしてくれて……」
「うん」
「私ね、彩葉に会えて本当によかったって思ってるんだ!」
「……うん。そうだね」
不思議なことに、お隣さんは彩葉の話をする時、いつも嬉しそうだった。私が彩葉の好きなところを話せば、楽しそうに相槌を打ってくれる。彩葉がどんな人なのかを説明すると、まるで自分のことのように喜んでくれる。
だから私は、ますます話したくなってしまった。好きな人の話を、こんなにも楽しそうに聞いてくれる人がいる。それが嬉しくて仕方なかった。
時々、お隣さんは私の知らない彩葉のことまで知っているような言い方をすることがあった。
「彩葉って、昔からそういうところが――」
「……ん? 昔から?」
「……ううん。きっと、そういう人なんだろうなって」
「あはは! そうそう! そうなの! お隣さん、よく分かってるね!」
当時の私は、そんな小さな違和感を気にもしなかった。それよりも、彼女と話せることの方が、ずっと大切だったから。
私たちが世界に干渉する時は、犬DOGEのウミウシの身体を借りていた。小さな身体の中に、私とお隣さん、二人分の意識が入っているような状態だった。
でも、お隣さんが自分から何かをしようとすることは、ほとんどなかった。
「ねえねえ、お隣さん! あっち行ってみようよ!」
「うん。かぐやが行きたいなら」
「ねえ、あの人に話しかけてみてもいいかな?」
「かぐやがそうしたいなら、いいと思うよ」
「うーん、右と左、どっちにしよっかな! ねえ、お隣さんはどっちがいい?」
「私は、かぐやが決めた方でいいよ」
「えーっ!? またそれ!? たまにはお隣さんが決めてよ!」
「……ふふっ。じゃあ、右かな」
「右だね! よーし、じゃあ行こっ!」
いつだって、彼女は私の意思を尊重してくれた。最初は少し物足りなく感じることもあった。たまにはお隣さんが決めてもいいのに、と思ったこともある。
でも、彼女は決して私を突き放しているわけじゃなかった。私が迷えば一緒に考えてくれたし、間違えれば優しく教えてくれた。怖くて立ち止まれば、隣から背中を押してくれた。
それでも、最後に決めるのはいつも私だった。
彼女は、私の人生を代わりに生きようとはしなかった。ただ、私が選んだ道を一緒に歩いてくれた。
初めて地上で人間を見つけた時も、そうだった。
ずっと誰かと話したかったはずなのに、いざ目の前に人間が現れると、私は怖くなってしまった。もし拒絶されたら。もし恐ろしいものだと思われたら。もし傷つけられたら。そんなことばかり考えて、なかなか声をかけられなかった。
「……ねえ、お隣さん」
「どうしたの?」
「私……あの人に話しかけてもいいかな?」
「……怖い?」
「……うん。ちょっとだけ」
彼女は少しだけ考えてから、穏やかに答えた。
「大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「うん。かぐやが決めたことなんだから」
「でもさ……もし、怖い人だったらどうしよう……」
「もし何かあっても、私だけはずっと隣にいるよ」
「……そっか」
私は少し考えてから、できるだけ明るい声を出した。
「えへへ……そうだよね! お隣さんがいるもんね!」
「……うん」
「よーし! じゃあ、行ってみよっ!」
彼女の言葉があったから、私は勇気を出すことができた。
もちろん、その出会いがすべてうまくいったわけじゃない。嬉しいこともあれば、悲しいこともあった。優しい人もいれば、怖い人もいた。それでも私は、少しずつ世界を知っていった。
そして、そのすべての時間に、お隣さんがいた。
何十年、何百年、何千年。
人と出会い、別れ、また新しい誰かと出会う。その繰り返しだった。
人間の一生は、私たちにとってあまりにも短かった。昨日まで一緒に笑っていた人が、いつの間にか年老いて、やがていなくなってしまう。何度経験しても、別れには慣れなかった。
そんな時、お隣さんは決まって私のそばにいてくれた。
「……辛かったね」
「……うん」
「大切な人だったんだね」
「……うん」
「泣いてもいいよ」
そう言って、私が泣きやむまで待ってくれた。
何も解決できないことだって、たくさんあった。それでも、彼女が隣にいてくれるだけで、私はまた前を向くことができた。
いつからだろう。私にとってお隣さんが、ただ寂しさを埋めてくれる存在ではなくなったのは。
いつからだろう。何か嬉しいことがあると、真っ先に彼女に伝えたいと思うようになったのは。
そして、いつからだろう。彼女がいなくなる未来を、想像することさえ怖くなったのは。
きっと、明確なきっかけなんてなかった。あまりにも長い時間を一緒に過ごすうちに、彼女はいつの間にか、私の世界に欠かせない存在になっていた。
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その長い旅の中でも、大阪城での出来事は今でも忘れられない。
茶々ちゃん。
私にとって、本当に大切な友達だった。
最初に出会った時のことも、一緒に過ごした時間も、今でも鮮明に覚えている。笑い合ったこと。語り合ったこと。私の知らない世界を教えてくれたこと。そして、最後に交わした言葉も。
「会いたい者がいるのだろう?」
茶々ちゃんは、そう言ってくれた。私がずっと会いたがっている人がいることを、知っていたのだ。
彩葉。
もちろん、会いたい。何百年、何千年経っても、その気持ちが薄れたことなんて一度もなかった。
でも、だからといって、目の前の茶々ちゃんと別れたくない気持ちが消えるわけじゃなかった。
彩葉に会いたい。でも、茶々ちゃんにも生きていてほしい。もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。
いつか彩葉に会えた時、茶々ちゃんのことを紹介したかった。私にはこんなに素敵な友達がいたんだよって、胸を張って自慢したかった。
けれど、そんな願いは叶わなかった。
私は何もできなかった。どれだけ願っても、どれだけ叫んでも、歴史は変わらなかった。
茶々ちゃんとの別れを終えた後、私はずっと泣いていた。涙が止まらないまま、どれくらいの時間が過ぎたのかも分からなかった。
「……お隣さん」
「うん」
「……私、何もできなかったよ……」
「……うん」
「助けたかったのに……茶々ちゃんのこと、助けたかったのに……!」
「そうだね」
「もっと……もっと一緒にいたかったよぉ……!」
彼女は黙って聞いてくれた。何度同じことを言っても、嫌な顔ひとつしなかった。
「……ねえ、なんで……?」
「…………」
「なんで、みんないなくなっちゃうの……?」
「…………」
「私だけ……ずっととり残されるの、嫌だよ……」
そう言った時だった。突然、怖くなった。
今まで何度も大切な人を見送ってきた。そのたびに、お隣さんがそばにいてくれた。
でも、もし。
もしも、そのお隣さんまでいなくなってしまったら。
「……ねえ」
「なに?」
「お隣さんは……いなくならないよね?」
彼女は、すぐには答えなかった。ほんの一瞬、本当にわずかな沈黙だった。それでも、あの時の私は怖くて仕方なかった。
「……ねえ? いなくならないよね……?」
「……大丈夫だよ」
やがて、彼女は優しく答えた。
「私はここにいるから」
「……ずっと?」
「……うん」
「ほんとに? 約束だよ?」
「……大丈夫」
私は何度も確かめた。消えないで。私のそばにいて。一人にしないで。そのたびに、彼女は私を慰めてくれた。
今になって思えば、あの頃から違和感はあったのだ。
彼女は、私の願いから生まれた存在だと言っていた。でも、それならどうして私の知らないことを知っているのだろう。どうして時々、ひどく寂しそうな声を出すのだろう。どうして自分のことを何も話してくれないのだろう。
そして、どうして。
私が「ずっと一緒にいて」と願うたびに、少しだけ辛そうになるのだろう。
きっと、私は気づいていた。お隣さんは、私から生まれた存在なんかじゃない。彼女には彼女の過去があって、願いがあって、私の知らない何かを抱えている。
そんな当たり前のことに。
でも、私は考えないようにしていた。もし本当のことを知ってしまったら、彼女がいなくなってしまうような気がしたから。
だから、聞かなかった。何も知らないふりをした。今までと同じように笑って、甘えて、彼女の優しさに寄りかかり続けた。
あの時、ちゃんと聞いていれば。せめて、彼女が何を願って私の隣にいてくれたのか、知ろうとしていれば。
最後に、あんな後悔をせずに済んだのだろうか。
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彩葉に会えるまで、あと百年ほど。そんな時代になった頃、私たちは大きな戦争を経験した。
それまでにも、争いは何度も見てきた。人間同士が傷つけ合う姿も、街が焼かれる光景も、決して初めてではなかった。それでも、その時の戦争は恐ろしかった。
昨日まで当たり前にあった街が、一夜にして焼け野原になった。空は煙に覆われ、焦げた匂いが風に混じって流れていく。人が死んでいく。知っている顔が、一人、また一人といなくなっていく。
私は「逃げて」と叫ぶことしかできなかった。ウミウシの小さな身体では、瓦礫をどかすことも、傷ついた人を抱き起こすこともできない。
「逃げて! 早く逃げてよ!」
何度も叫んだ。
「お願い! そこにいたら危ないってば!」
でも、私の声が届く前に、たくさんの命が失われていった。
戦争が終わった後、街にはほとんど何も残っていなかった。焼け焦げた建物。崩れた家。人のいなくなった道。私は、その景色を呆然と見つめていた。
「……ねえ、お隣さん」
「……うん」
「ほんとに……彩葉に会えるのかな……」
ずっと信じていた。八千年待てば、彩葉に会える。そのために、ここまで来たのだ。
でも、目の前に広がるのは、私が知っている地球とはあまりにも違う世界だった。
「……街が、こんなになっちゃった……」
「……うん」
「彩葉と暮らしてた街に……ほんとに戻るのかな……?」
怖かった。もしかしたら、私が知っている未来はもう来ないのかもしれない。彩葉が生まれることさえ、なくなってしまうのかもしれない。
「……私、もう……」
「大丈夫だよ」
お隣さんの声がした。いつもと変わらない、穏やかな声だった。
「絶対に大丈夫」
「……なんで、そんなこと言えるの……?」
思わず尋ねてしまった。すると彼女は、少しだけ黙った。
「……信じてるから」
「……何を?」
「かぐやが、彩葉に会える未来を」
「…………」
「大丈夫。きっと会えるよ」
その言葉に、私は何度救われただろう。あの時も、私は彼女を信じた。だって、お隣さんは今まで一度だって私を一人にしなかったから。彼女が大丈夫だと言ってくれるなら、きっと大丈夫なのだと思えた。
私は知らなかった。彼女がどうして、そこまで確信を持って言えるのか。そして、その確信の裏に、どれほど長い覚悟が隠されていたのかを。
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やがて時代は進み、世界は少しずつ私の知っている姿に近づいていった。電気が当たり前のように使われるようになり、街には高い建物が増え、人々の暮らしも大きく変わっていった。
そして、インターネットが普及した。
それは、私にとって懐かしいものだった。まだ彩葉と一緒に暮らしていた頃、私たちは電子の世界でたくさんの時間を過ごした。そこで歌って、遊んで、笑い合って。あの頃は、毎日が本当に楽しかった。
けれど、八千年という時間は、私が思っていた以上に残酷だった。
彩葉の顔は覚えている。声だって、きっと聞けば分かる。でも、どんなふうに笑っていたのか、どんな言葉を交わしたのか。そんな何気ない記憶が、少しずつ曖昧になっていた。
あんなに大切だったはずなのに。忘れたくないと、何度も願ったのに。思い出そうとするたびに、記憶の輪郭がぼやけていく。
それが、怖かった。
彩葉だけじゃない。あの頃遊んでいた仮想空間のことも、そこで出会った人たちのことも、少しずつ思い出せなくなっていた。
それでも、楽しかったという気持ちだけは覚えていた。
だからだろうか。インターネットというものが広まり始めた頃、私はふと思った。
もう一度、あんな世界を作ってみたい。
誰もが自由に遊べて、歌えて、笑い合える場所。現実ではできないことだって、そこなら何でもできる。そんな、夢みたいな世界を。
「ねえねえ、お隣さん!」
「なに、かぐや?」
「私ね、作ってみたいものがあるんだ!」
「……作ってみたいもの?」
「そう! 昔、彩葉と一緒に遊んでた場所みたいな、仮想空間!」
そう言うと、お隣さんは少し驚いたようだった。
「……仮想空間?」
「うん! みんなが自由に遊べて、好きなことができる世界! そこで歌ったり、ゲームしたり……えへへ、なんか楽しそうじゃない?」
「……ふふっ。うん、楽しそうだね」
「でしょでしょ! それでね、名前も考えてるんだ!」
「名前?」
「そう! せっかく作るんだもん! とびっきり素敵な名前にしたいじゃん!」
私は少し考えた。
どんな名前がいいだろう。月に関係する名前がいいかもしれない。私が月から来たこともあるし、何より、あの頃遊んでいた世界も、確か月に関係する名前だった気がする。
何だっただろう。
ずっと昔のことだから、もうはっきりとは覚えていない。八千年という時間は、あまりにも長かった。彩葉のことも、あの頃の生活も、忘れたくなかった思い出さえ少しずつ曖昧になっていた。
それでも、何かが引っかかっていた。
月。夜。そして、あの懐かしい世界。
「……ツクヨミ」
何気なく、その名前を口にした。
「…………あ」
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
ツクヨミ。
かつて私が遊んでいた仮想空間。彩葉と出会い、一緒に歌い、たくさんの思い出を作った場所。
そして、その世界を作ったのは。
月見ヤチヨ。
「…………」
私は、何も言えなくなった。
銀色の髪。明るい笑顔。誰もが憧れる、何でもできるように見えた歌姫。八千年前、孤独に耐えきれなくなった私が、何度も助けを求めた存在。
ああ。
そういうことだったんだ。
「……はは」
乾いた笑いが零れた。
「……バカだったなぁ……」
どうして。どうして、今まで気づかなかったんだろう。
月見ヤチヨ。ツクヨミ。八千年前に飛ばされた私。そして、これから私が作ろうとしている世界。
全部、繋がっていた。
「……私が……ヤチヨになるんだ……」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。
嬉しくはなかった。ただ、どうしようもなく虚しかった。
私は、ずっと帰りたかった。彩葉のいる場所へ。あの狭いアパートへ。何も考えずに笑っていられた、あの日々へ。
でも、違った。
私は帰るんじゃない。
私自身が、あの未来を作るんだ。
月見ヤチヨになって、ツクヨミを作って、彩葉と出会う。そして、何も知らないあの頃の私と出会う。
全部、最初から決まっていたみたいに。
「……かぐや?」
お隣さんの声が聞こえた。けれど、私は答えられなかった。
「……どうしたの? 急に黙っちゃって」
「…………」
「……かぐや?」
「……ねえ、お隣さん」
「……うん?」
「……私、分かっちゃった」
「……何が?」
「……私が、月見ヤチヨなんだって」
「…………え?」
お隣さんの声が止まった。
「……月見、ヤチヨ……?」
「……うん」
「……あの、ヤチヨ……?」
「……そう」
長い沈黙が流れた。いつもなら、どんな時でも優しく返事をしてくれるお隣さんが、何も言わなかった。
「……ツクヨミを作るのは、私なんだよ」
「…………」
「私が月見ヤチヨになって……彩葉と出会って……それで、あの頃の私と出会うの」
お隣さんは、しばらく黙っていた。
「……そっか」
ようやく聞こえた声は、ひどく小さかった。
「……そういうこと、だったんだ……」
その声には、今まで聞いたことのない感情が混じっていた。驚き。戸惑い。そして、何かを理解してしまったような、深い悲しみ。
「……お隣さん?」
「…………」
「……どうしたの?」
「……ううん」
彼女は、小さく息を吐いた。
「……ちょっと、びっくりしちゃって」
「……そっか」
「……うん」
お隣さんは、もう一度呟いた。
「……ヤチヨが、かぐやだったんだね……」
不思議な言い方だった。まるで、私が知らない月見ヤチヨのことを、ずっと前から知っていたみたいに。
でも、その時の私には、そんなことを考える余裕なんてなかった。
「……ねえ、お隣さん」
「……なに?」
「……私、どうしたらいいのかな……」
声が震えた。
「……ずっと、帰りたかったのに……」
「…………」
「……彩葉に会いたくて……ずっと、ずっと頑張ってきたのに……」
私は、小さく笑った。
「……帰る場所を、自分で作らなきゃいけなかったんだね……」
お隣さんは何も言わなかった。
「……おかしいよね」
「…………」
「……私、ずっとヤチヨに助けてほしいって思ってたんだよ……?」
八千年前のことを思い出す。誰もいない世界で、何度も何度も名前を呼んだ。
助けて。一人にしないで。誰でもいいから、そばにいて。
「……なのに……」
声が詰まった。
「……助けてほしかった相手が……自分だったなんて……」
笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。
「……バカみたい……」
その時だった。
「……そんなことないよ」
お隣さんの声が聞こえた。
「……え?」
「……バカなんかじゃないよ、かぐや」
いつもより少しだけ、声が震えていた。
「……八千年も、一生懸命生きてきたんだから」
「…………」
「……誰かに助けてほしいって思うのは、悪いことじゃないよ」
私は何も言えなかった。
「……それにね」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「………ヤチヨは、たくさんの人を助けてきたんだと思う」
「……私が……?」
「……うん」
お隣さんは、静かに続けた。
「……きっと、ヤチヨがいたから救われた人がいるんだよ」
その言葉は、妙に確信に満ちていた。まるで、実際にそんな人を知っているみたいだった。
「……私、そんなにすごい人になれるのかな……」
「……なれるよ」
「……ほんとに?」
「……うん」
彼女は、少しだけ笑った。
「……だって、私は知ってるから」
「……え?」
「……かぐやが、どれだけ優しい人なのか」
「…………」
「……どれだけ泣いて、どれだけ頑張ってきたのか。私は、ずっと隣で見てきたから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「……だから、きっと大丈夫」
「……お隣さん……」
「……うん?」
「……私、ちゃんとヤチヨになれるかな……」
彼女は、少しだけ黙った。そして、いつもの優しい声で答えてくれた。
「……なれるよ」
「…………」
「……絶対に、なれる」
私は、しばらく何も言えなかった。怖さが消えたわけじゃない。自分がどうなるのかも、まだ分からない。
それでも、彩葉に会いたい。その気持ちだけは、八千年経っても変わらなかった。
「……じゃあ……頑張ってみようかな……」
「……うん」
「……月見ヤチヨに、なってみようかな……」
お隣さんは、小さく笑った。
「……応援してるよ、かぐや」
私は、もう一度目の前を見た。そこには、まだ何もなかった。
ツクヨミも、月見ヤチヨも。私が知っているあの世界は、まだどこにも存在していない。
これから私が、作らなければならないのだ。
私は静かに目を閉じた。
彩葉。
もう少しだけ、待っていてね。
今度は私が、あの場所を作るから。
そう心の中で呟いて、私はもう一度、前を向いた。
その隣で、お隣さんがどんな思いを抱いていたのか。私は、まだ知らなかった。
---
自分が月見ヤチヨになるのだと気づいてから、しばらくの間、私は何をするにも不思議な気持ちになっていた。
今までずっと、月見ヤチヨは私にとって憧れの存在だった。何でもできて、いつも明るくて、たくさんの人を笑顔にしてくれる歌姫。彩葉と一緒に過ごしていた頃の私にとって、彼女は当たり前のようにそこにいる、少し特別な存在だった。
けれど、その正体は私自身だった。
そう考えるたびに、胸の奥がざわついた。あの時、私に笑いかけてくれたヤチヨも、彩葉と一緒に歌っていたヤチヨも、これから私がなる姿なのだ。
未来の自分が、過去の自分と出会っていた。
何度考えても、頭がおかしくなりそうだった。
それでも、時間は待ってくれない。
私が何もしなければ、ツクヨミは生まれない。月見ヤチヨも生まれない。そして何より、彩葉と再会するための場所がなくなってしまう。
だから私は、少しずつ準備を始めた。
最初から何でもできたわけじゃない。むしろ、分からないことばかりだった。八千年もの間、世界の変化を見てきたとはいえ、電子の世界を一から作り上げるなんて、簡単なことではなかった。
何度も失敗した。思い描いていたものがうまく形にならず、途中で投げ出したくなったこともある。
そんな時は、決まってお隣さんが声をかけてくれた。
「……かぐや、少し休んだら?」
「えーっ? まだまだこれからだよ!」
「でも、ずっと頑張ってるでしょ?」
「むぅ……だって、早く完成させたいんだもん」
「……ふふっ。焦らなくても大丈夫だよ」
「でもさぁ……」
「八千年も待ったんだから、もう少しくらい待てるでしょ?」
「それはそうだけどぉ……!」
そう言って笑うお隣さんに、私は何度も助けられた。
昔からそうだった。私が焦っている時も、落ち込んでいる時も、彼女はいつも変わらず隣にいてくれた。無理に励ますわけでもなく、私の代わりに何かを決めるわけでもない。ただ、私が自分で立ち上がれるまで待っていてくれる。
そんな彼女がいたから、私は少しずつ前へ進むことができた。
---
そして、長い時間をかけて、ようやく仮想空間の原型が完成した。
まだ何もない、真っ白な世界だった。
建物もなければ、空を彩る星もない。人の姿なんて、もちろんどこにもない。それでも、私にとっては特別な場所だった。
ここから、すべてが始まる。
「……できた」
思わず、そんな言葉が零れた。
「……お隣さん」
「うん?」
「……できたよ」
「……うん。頑張ったね」
その声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
八千年前、私は何もない世界に一人ぼっちで取り残された。あの時は、どれだけ願っても、何ひとつ変えることができなかった。
でも、今は違う。
何もない世界なら、これから作っていけばいい。誰もいないのなら、誰かが来てくれる場所にすればいい。
かつての私が、そうしてほしかったように。
「……ねえ、お隣さん」
「なに?」
「私、ここをすっごく楽しい場所にしたい」
「……うん」
「誰も一人ぼっちにならなくていい場所。寂しい時に来たら、誰かがいてくれるような……そんな世界にしたいんだ」
彼女は、少しだけ黙っていた。
「……素敵だね」
「えへへ……でしょ?」
「うん。かぐやらしいと思う」
その言葉が嬉しくて、私は少しだけ笑った。
そして、ふと思い出した。
「……そういえばさ」
「……うん?」
「これから私、月見ヤチヨになるんだよね」
「……そうだね」
「だったらさ、いつまでもかぐやって呼ばれるのも、ちょっと変かな?」
何気なく言ったつもりだった。でも、お隣さんはすぐには答えなかった。
「…………」
「……お隣さん?」
「……かぐやって呼ばれるの、嫌になっちゃった?」
「えっ!? 違う違う! 全然そんなことないよ!」
慌てて否定した。
「ただ、これからは月見ヤチヨとして活動するわけだし! お隣さんにも、ヤチヨって呼んでもらえたら嬉しいなぁって!」
「……そっか」
彼女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……じゃあ、これからはヤチヨって呼ぶね」
「……うん!」
「……ヤチヨ」
初めて、お隣さんがその名前を呼んだ。
何千年もの間、ずっと「かぐや」と呼んでくれていた人。その人の口から、自分がかつて憧れていた名前が聞こえてくる。
不思議な気分だった。でも、嫌じゃなかった。
「……えへへ」
「……どうしたの?」
「なんか、照れちゃうね!」
「……ふふっ。自分で言ったのに?」
「そうだけどさぁ!」
私たちは、顔を見合わせることもできないまま、しばらく笑い合った。
この時の私は、まだ知らなかった。
彼女が私を「ヤチヨ」と呼ぶようになることに、どんな思いを抱いていたのか。
---
それから私は、月見ヤチヨとして活動するための準備を進めていった。
まずは、自分自身の姿を作ることにした。
銀色の長い髪。月を思わせる衣装。そして、いつも楽しそうに笑っている女の子。
何千年も前に見た、あの歌姫の姿。
記憶は少しずつ曖昧になっていたけれど、不思議とその姿だけは、今でもはっきりと思い出すことができた。
少しずつ形作られていく自分の姿を見ながら、私は何とも言えない気持ちになっていた。
これが、私。
これから彩葉と出会う、未来の私。
「……ねえ、お隣さん」
「なに?」
「……変じゃないかな?」
「……何が?」
「この姿。ちゃんと、月見ヤチヨに見える?」
お隣さんは少しだけ考えてから、優しく答えた。
「……うん。すごく似合ってるよ」
「……ほんと?」
「うん。かわいいと思う」
「えへへ……そっかぁ」
褒められると、やっぱり嬉しかった。
そうして私は、電子の世界に自分自身の身体を作り上げた。
もちろん、本物の肉体ではない。触覚もなければ、温かさもない。ただ、仮想空間の中で動かせるだけの、仮初めの身体。
それでも、私にとっては奇跡のような出来事だった。
歩ける。走れる。手を伸ばせる。鏡を見れば、そこには銀色の髪をした少女が映っている。
八千年もの間、失っていた当たり前のことが、ようやくできるようになった。
「……わぁ……!」
思わず、声が漏れた。
私はその場でくるりと回ってみた。銀色の髪がふわりと揺れ、衣装の裾が広がる。
「すごい! すごいよ、お隣さん!」
「……ふふっ。よかったね」
「見て見て! ヤチヨ、歩けるよ! ほら、走ることだって!」
「……うん。ちゃんと見てるよ」
「えへへ……!」
嬉しくて、何度も同じ場所を行ったり来たりした。何千年も前なら当たり前にできていたことなのに、今はそのひとつひとつが愛おしかった。
そして、ふと気づいた。
私は、まだお隣さんの姿を知らない。
何千年も一緒にいた。何千年も話してきた。私の泣き声も、笑い声も、弱音も、全部知っている人。
なのに、私は彼女の顔さえ知らなかった。
「……ねえ、お隣さん」
「……なに?」
「ヤチヨ、すっごくいいこと思いついちゃった!」
「……いいこと?」
「ふっふっふ……本日のヤッチョは、一味違うのです!」
「……なにか企んでる?」
「失敬な! 企んでるんじゃなくて、素敵な計画を思いついたの!」
「……ふふっ。どんな計画?」
「じゃじゃーん! お隣さんの身体も作っちゃおう大作戦!」
「……私の?」
「そう! せっかくなんだし! ヤチヨだけ身体があるなんて、ずるいでしょ?」
彼女は少し戸惑っていた。
「でも、私は……」
「いいからいいから! ヤチヨが作りたいの! ねっ、お願い!」
「……ふふっ。分かったよ」
「やったぁ!」
そうして私は、お隣さんの身体を作ることにした。
どんな姿にしようかと考えて、真っ先に思い浮かんだのは、かつての私自身だった。月から地球へやってきて、彩葉と一緒に暮らしていた頃の、かぐやの姿。長い金色の髪に、透き通るような白い肌。今の私とは違う、あの頃の姿だった。
どうしてその姿にしようと思ったのか、自分でもうまく説明できなかった。ただ、何千年も私の隣にいてくれたお隣さんには、私が大切にしてきたものを分けてあげたかったのかもしれない。
「ねえ、お隣さん。ヤチヨの昔の姿、借りてもらってもいい?」
「……ヤチヨの?」
「うん! ヤチヨがかぐやだった頃の姿。お隣さんに、きっと似合うと思うんだ!」
「……そんな大切な姿を、私が使ってもいいの?」
「もちろん! だって、お隣さんはヤチヨの大切な人だもん!」
少しの沈黙のあと、彼女は小さく笑った。
「……ありがとう、ヤチヨ。大切にするね」
その返事が嬉しくて、私は張り切って作業を進めた。記憶を頼りに髪の長さや瞳の色を整えていく。画面の中に懐かしい少女の姿が形作られるたび、彩葉と過ごした日々が胸によみがえった。もう戻れない時間のはずなのに、その面影が今、私の目の前にある。少しだけ切なくて、それ以上に嬉しかった。
何度も調整を重ね、ようやく完成した身体を前に、私は少し緊張していた。
これから初めて、お隣さんの顔を見る。ずっと隣にいてくれた人。私の泣き声も、笑い声も、弱音も、全部知っている人。その人が、ようやく目の前に現れる。
「……お隣さん?」
呼びかけると、少女がゆっくりと顔を上げた。
「……うん」
聞き慣れた声だった。何千年もの間、私を支え続けてくれた声。それが、目の前の少女から聞こえてきた。
「……ヤチヨ」
彼女は、少し困ったように微笑んだ。
「……どうかな。変じゃない?」
「…………」
「……ヤチヨ?」
「……っ!」
私は考えるより早く、彼女に飛びついていた。
「お隣さぁぁん!」
「わっ……!」
ぎゅっと抱きしめる。触覚なんて、まだ再現されていない。温かさも、柔らかさも、何も分からない。
それでも、確かにそこに彼女がいた。
「……やっと……!」
涙が溢れた。
「やっと、会えた……!」
「……うん」
「ずっと……ずっと会いたかった……!」
「……私もだよ」
彼女の腕が、私の背中に回った。抱きしめ返してくれたのだと分かった。それだけで、また泣いてしまった。
「……お隣さん」
「うん」
「……あったかかったら、よかったのにね」
「……そうだね」
「本当に抱きしめてるって、感じられたらよかったのに……」
「……うん」
彼女は、少しだけ声を震わせた。
「私も……ヤチヨの体温を感じてみたいよ」
その言葉が、たまらなく嬉しかった。私だけじゃない。彼女も、私に触れたいと思ってくれていた。それが分かって、私はますます強く抱きしめた。
「えへへ……じゃあ、いつか絶対に作ろうね!」
「……うん」
「触覚も、温度も、全部!」
「そうだね」
「そしたら、もう一回ぎゅーってするの!」
「……ふふっ。今もしてるけどね」
「今のは練習! 本番はもっとすごいんだから!」
彼女は楽しそうに笑った。その笑顔を見て、私は思った。
ああ。この人が、私のお隣さんなんだ。
目の前にいるのは、かつての私と同じ顔をした女の子。それなのに、その微笑みを見ればすぐに分かる。これは私ではない。何千年もの間、ずっと隣で私を支えてくれた、お隣さんの笑顔だった。
それが嬉しくて、愛おしくて。私はしばらく、彼女を離してあげられなかった。
---
電子の世界で身体を得てから、私たちは以前よりずっと一緒に過ごすようになった。
最初に作った部屋は、彩葉と暮らしていた、あのボロアパートを参考にした小さな部屋だった。狭いキッチンに、ローテーブル。何千年も前に離れたはずなのに、部屋を作っている間は、まるで彩葉との生活に戻っているような気がした。
でも、そこにいるのは彩葉ではなく、お隣さんだった。それが不思議で、少しだけくすぐったかった。
「ねえねえ、お隣さん!」
「なに?」
「こっち来てー!」
「……また?」
「またまた! ほらほら、ヤッチョの隣が空いてますぞ!」
私は暇さえあれば彼女を呼び、隣に座らせ、抱きついていた。触覚はない。それでも、彼女が腕を回してくれることが嬉しかった。
彼女の肩に頭を預けたり、膝の上に寝転がったり、髪を撫でてもらったり。何千年も一緒にいたはずなのに、まるで初めて出会ったばかりのように甘えていた。
「……ヤチヨ」
「んー?」
「甘えん坊だね」
「えへへ。だって嬉しいんだもん」
「……そう」
彼女は困ったように笑いながら、私の頭を撫でてくれた。もちろん、感触はない。でも、見れば分かる。彼女が私を大切に扱ってくれていることくらい。
「お隣さんも甘えていいんだよ?」
「……私も?」
「そう! いつもヤッチョばっかりじゃ不公平でしょ!」
「……ふふっ。じゃあ、少しだけ」
そう言って、彼女が私の肩に頭を預けてくれたことがあった。
その時のことを、私は今でもよく覚えている。普段は何でも受け止めてくれる彼女が、珍しく私に寄りかかってくれた。それが、どうしようもなく嬉しかった。
「えへへ……」
「……なに?」
「なんでもなーい!」
私は彼女の髪を何度も撫でた。彼女は、少しくすぐったそうに目を細めていた。感触なんてないはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。不思議だったけれど、私はその表情が大好きだった。
こんな日々が、ずっと続けばいいと思った。
彩葉と再会するまで。そして、彩葉と再会した後も。
私は彩葉に、お隣さんを紹介したかった。この人が私を助けてくれたんだよ。この人がいたから、八千年も頑張れたんだよ。私の、大切な人なんだよ。そう言って、自慢したかった。
彩葉なら、きっと喜んでくれる。お隣さんも彩葉のことが大好きみたいだから、きっと仲良くなれる。そんな未来を、何度も想像していた。
でも、その頃には私の中にあった小さな違和感は、もう確信に変わっていた。
お隣さんは、私から生まれた存在ではない。彼女には、私の知らない過去がある。そして、私に隠していることがある。
それでも、私は聞けなかった。
もし彼女が、私のために何かを犠牲にしているのだとしたら。もし本当は別の場所へ帰りたいのに、私のために隣にいてくれているのだとしたら。
そう考えるだけで、怖かった。
私は、彼女を失いたくなかった。
だから、知らないふりを続けた。
その選択を、私は後悔することになる。
---
彩葉が生まれた。
その知らせを知った時、私はお隣さんと二人で大喜びした。
「お隣さん! 聞いて聞いて! 彩葉が! 彩葉が生まれたよ!」
「……うん」
「やったぁ! ついに! ついにここまで来たのです!」
「……そうだね」
「いやぁ、長かったねぇ! でもでも、もうちょっとで会えるんだよ! 彩葉に!」
「……うん。よかったね、ヤチヨ」
彼女も嬉しそうだった。けれど、どこか寂しそうにも見えた。私はそれを、長い旅の終わりが近づいているからだと思っていた。
八千年。本当に長かった。
何度も諦めそうになった。何度も泣いた。それでも、ようやくここまで来た。
もう少しで彩葉に会える。もう少しで、あの顔を見ることが。そして、その時にはお隣さんも一緒にいてくれる。
私はそう信じて疑わなかった。
---
彩葉が生まれてから、数年が経った頃だった。
「……ヤチヨ」
ある日、お隣さんが珍しく私に声をかけてきた。
「んー? なんだいなんだい?」
「……少し、話があるんだ」
「話?」
「うん。時間がある時でいいから……二人で話せないかな」
彼女からそんなことを言われるのは、本当に珍しかった。いつも話しかけるのは私の方だったし、彼女は私の話を楽しそうに聞いてくれることが多かったから。
だから私は、何だか嬉しくなってしまった。
「もちろん! じゃあ、今日のお仕事が終わったらね!」
「……うん。ありがとう」
「えへへ! お隣さんからのお誘いとは珍しいですなぁ! ヤチヨ、楽しみにしてるね!」
その時、彼女はどんな顔をしていただろう。
今思えば、私は何も見ていなかった。彼女がどれほど辛そうに笑っていたのか。どれほどの覚悟で、私に声をかけてくれたのか。
何も。何ひとつ。
気づいてあげられなかった。
私は浮かれたまま、ツクヨミでの作業を切り上げ、いつもの部屋へ戻った。
お隣さんは、すでに帰っていた。ローテーブルを挟んだ向こう側に、綺麗な姿勢で座っている。
「ただいまー! ヤッチョのお帰りなのです!」
「……おかえり、ヤチヨ」
「えへへ! お待たせ!」
「ううん。大丈夫だよ」
私はいつものように、彼女の隣へ座ろうとした。けれど彼女は、少し困ったように笑って、向かい側を示した。
「……今日は、そこで話してもいい?」
「……ほえ?」
「ごめんね。少しだけ」
「……う、うん?」
不思議に思いながら、私は向かい側に座った。
最初は何でもない話をした。最近のツクヨミのこと。新しく作った機能のこと。昔、一緒に見た景色のこと。彼女はいつも通り、穏やかに相槌を打ってくれた。
でも、何かがおかしかった。
笑っているのに、嬉しそうじゃない。私の話を聞いているのに、どこか遠くを見ている。まるで、何かを言おうとして、何度も飲み込んでいるようだった。
「……ねえ、お隣さん?」
「……なに?」
「大丈夫?」
「……うん。大丈夫だよ」
いつもの言葉だった。でも、その日は少しも安心できなかった。
だから私は、わざと明るく聞いた。
「それでそれで! ヤッチョに話があるって聞いたけど、なんだいなんだい?」
彼女は黙った。
「…………」
「……お隣さん?」
俯いたまま、何も言わない。長い沈黙だった。
嫌な予感がした。理由なんて分からない。ただ、何か取り返しのつかないことが起きようとしている。そんな気がした。
「……ねえ?」
ようやく顔を上げた彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。その表情を見た瞬間、私は息を呑んだ。
何千年も一緒にいた。嬉しそうなところも、悲しいところも、困ったところも、たくさん見てきた。でも、こんな辛そうなところは、初めてだった。
「……ごめんね、ヤチヨ」
「…………え?」
突然、謝られた。何に対しての謝罪なのか、分からなかった。
「ど、どうしたのー? もしかして、ヤッチョに言えないような悪いことでもしちゃった?」
冗談めかして聞いた。そうすれば、彼女も笑ってくれると思った。いつものように、困った顔で「違うよ」と言ってくれると思った。
でも、彼女は笑わなかった。
「…………」
「……ねえ」
声が震えた。
「本当に……どうしたの?」
彼女は一度、目を閉じた。そして、ゆっくりと言った。
「……私は、もうすぐ消えると思う」
「…………」
「たぶん……あと一週間もないかな」
何を言われたのか、分からなかった。
消える。
誰が。何を。
お隣さんが?
「…………え?」
間の抜けた声が出た。
「……消えるって、なに?」
「……ごめんね」
「……え?」
「本当は、ヤチヨが彩葉と再会するまで、一緒にいてあげたかった」
彼女は静かに続けた。
「でも……もう、一緒にはいられないみたいなんだ」
頭が真っ白になった。何も考えられなかった。ただ、彼女の言葉だけが、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
「……なに、言ってるの?」
私は笑おうとした。きっと冗談だ。何かの間違いだ。そうに決まっている。
「……もう、お隣さん。そんな冗談、全然面白くないよ?」
「…………」
「ねえ……嘘でしょ?」
彼女は答えなかった。その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
「……大丈夫だよ、ヤチヨ」
彼女は優しく言った。
「彩葉は、もう生まれている。ヤチヨなら、きっと再会できるよ」
「…………」
「私がいなくても、もう大丈夫だから」
やめて。
そんなこと、言わないで。
「……それにね」
彼女は少しだけ笑った。
「もう少しで、温度や触覚も再現できるようになるところだったんだけど……間に合わないみたい」
そんなの、どうでもいい。
「本当は、一度くらい……ちゃんとヤチヨの温かさを感じてみたかったな」
いらない。
そんなもの、いらないから。
「……ごめんね」
彼女が、また謝った。
そこでようやく、私は理解した。
この人は、本当にいなくなろうとしている。
私の前から。私の隣から。
八千年もの間、一度だって離れなかった人が。
「…………嫌」
声が漏れた。
「……嫌だよ」
「……ヤチヨ」
「なんで……?」
涙が溢れた。
「なんで、そんなこと言うの……?」
「……ごめんね」
「謝らないでよ……!」
私は立ち上がり、彼女に駆け寄った。ぎゅっと抱きしめる。逃がさないように。どこにも行かせないように。
「嫌だ……!」
声が震えた。
「いなくならないで……!」
「……ヤチヨ」
「ずっと一緒にいてよ……!」
彼女は、私の背中に腕を回してくれた。いつものように。何千年もの間、そうしてくれたように。
でも、その優しさが、今はたまらなく怖かった。
「嫌! 嫌だよ!」
私は泣き叫んだ。
「お隣さんはヤチヨのものでしょ!? ずっと隣にいてくれるって言ったじゃん!」
「…………」
「なんで急にそんなこと言い出すの!? ヤチヨ、何かしちゃった!?」
「……違うよ」
「だったらなんで!?」
答えてくれない。
「お願い……謝るから……!」
「……ヤチヨ」
「ヤチヨが悪かったなら、何でもするから……!」
彼女の服を掴んだ。
「だから……そんなこと言わないでよ……!」
彼女は困ったように微笑んでいた。その顔が、嫌だった。
どうして、そんなに穏やかでいられるの。どうして、私だけがこんなに怖がっているの。
どうして、あなたは。
自分がいなくなることを、そんなに簡単に受け入れられるの。
「……決まっていることなんだ」
彼女は静かに言った。
「……ごめんね」
それだけだった。何度聞いても、答えは変わらなかった。
どうして消えるのか。どこへ行くのか。もう一度会えるのか。何を聞いても、彼女は首を横に振るか、困ったように笑うだけだった。
私は初めて、お隣さんの優しさを恨めしく思った。
どうして何も教えてくれないの。どうして私を頼ってくれないの。
八千年も一緒にいたのに。私たちは、そんなことも話せない関係だったの。
でも、そんな言葉をぶつけることすらできなかった。彼女を傷つけたくなかったから。そして何より、残された時間を喧嘩なんかで無駄にしたくなかったから。
---
それからの私は、ツクヨミでの仕事をすべて中断した。歌も、配信も、開発も。何もしたくなかった。
ただ、お隣さんのそばにいたかった。
朝も、昼も、夜も。彼女がどこかへ行こうとすればついていった。座れば隣に座り、横になれば抱きついた。まるで、目を離した瞬間に消えてしまうような気がした。
「……ヤチヨ」
「……なに?」
「そんなにくっついてたら、何もできないよ」
「……いいもん」
「……ふふっ」
「笑わないでよ……」
私は彼女の胸元に顔を埋めた。
「……消えないで」
「…………」
「お願いだから……」
彼女は何も言わず、私の頭を撫でてくれた。何度も、何度も。
私は、眠ることさえ怖くなった。もし目を覚ました時、彼女がいなくなっていたら。そんなことを考えるだけで、恐ろしくなった。
「……お隣さん」
「うん?」
「……まだいる?」
「いるよ」
「……ほんと?」
「うん。ここにいる」
何度も確かめた。彼女はそのたびに返事をしてくれた。それでも、不安は消えなかった。残された時間が少なくなるほど、私は彼女に甘えることしかできなくなっていた。
何千年も生きてきた。たくさんの別れを経験してきた。そのたびに、少しは強くなれたつもりだった。
でも、違った。
私は、何も変わっていなかった。
あの日、八千年前の地球で、一人ぼっちになって泣いていた私のままだった。
お隣さんがいなくなる。ただそれだけで、何もできなくなってしまう。
「……ねえ」
ある夜、私は彼女に尋ねた。
「……私のこと、嫌いになった?」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「……どうして?」
「だって……」
言葉が続かなかった。
「……私、ずっと甘えてばっかりだったから」
「…………」
「お隣さんに、何でも任せちゃって……困らせてばっかりで……」
彼女は私の顔を見つめた。そして、少しだけ悲しそうに笑った。
「……嫌いになるわけないよ」
「……ほんと?」
「うん」
彼女は、私の頬に手を添えた。
「ヤチヨのこと、大好きだよ」
「…………っ」
「だから、そんなふうに思わないで」
私はまた泣いてしまった。
どうして。そんなに好きなら、どうしていなくなってしまうの。
そう聞きたかった。でも、もう聞けなかった。
彼女だって、辛そうだったから。私の知らないところで、ずっと何かに耐えていたのだと、ようやく分かったから。
それでも、私は彼女を手放したくなかった。
---
その日は、何の前触れもなくやってきた。
いつもの部屋。いつもの布団。いつものように、私はお隣さんに抱きついていた。
もう何日も、そうしていた。
時間なんて進まなければいいのに。このままずっと、二人でいられたらいいのに。そんなことばかり考えていた。
「……ヤチヨ」
ふと、彼女が私の名前を呼んだ。
「……ん?」
「……もうすぐ、かな」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、身体が凍りついた。
「……え?」
彼女は、自分の手を見つめていた。私もつられて、その手を見る。
淡い光が、指先から零れていた。
「…………あ」
最初は何が起きているのか分からなかった。でも、すぐに理解してしまった。
彼女の身体が、少しずつ透け始めていた。
「……嫌」
声が漏れた。
「……嫌だ」
私は慌てて彼女の手を掴んだ。離さないように、強く握った。でも、触覚のない電子の身体では、どれだけ強く握っているのかも分からない。
「……お隣さん?」
「……うん」
「……これ、何?」
彼女は答えなかった。
「……ねえ」
光が、少しずつ強くなっていく。
「……止めてよ」
「…………」
「お願い……止めて……!」
彼女の足先が、淡い光になって消えていった。
「嫌だ!」
私は叫んだ。
「嫌だよ! 消えないで!」
抱きしめた。今までで一番強く。でも、何も変わらなかった。
光は止まらない。彼女の身体が、少しずつ失われていく。
「お願い……!」
涙で前が見えなくなった。
「誰か……誰か助けてよ……!」
何千年も前、私は同じように叫んだことがあった。
誰でもいいから、助けて。一人にしないで。
あの時は、お隣さんが来てくれた。私の声に答えてくれた。
でも、今は。
そのお隣さんが、消えようとしている。
私を助けてくれた人を、私は助けられない。
「……ヤチヨ」
彼女が、私の名前を呼んだ。
「……お願いがあるんだ」
「嫌……!」
「……聞いてくれる?」
「聞かない……!」
首を横に振った。
「お別れなんて……絶対に嫌……!」
彼女は、困ったように笑った。
「……最後くらい、笑ってお別れしたいな」
「……無理だよ……」
そんなこと、できるわけがない。
「……笑えるわけないじゃん……!」
彼女の膝が消えた。腰が消えた。光が、ゆっくりと上へ昇ってくる。
「……ヤチヨ」
「……嫌……」
「君には、絶対に彩葉と再会してほしいんだ」
「……そんなの……」
「私がいなくても、ヤチヨなら大丈夫だよ」
「無理だよ……!」
私は必死に首を振った。
「お隣さんがいなきゃ……ヤチヨ……!」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
思わず叫んだ。
「何が大丈夫なの!? ヤチヨ、ずっとお隣さんに助けてもらってばっかりだったんだよ!?」
「…………」
「怖い時も、辛い時も、寂しい時も……全部、お隣さんがいてくれたから……!」
言葉が止まらなかった。
「なのに……どうして……!」
彼女は、私の頬に手を伸ばした。その手も、少しずつ透け始めていた。
「……ごめんね」
また、その言葉。何度も聞いた。もう聞きたくなかった。
「……謝らないでよ……」
私は泣きながら言った。
「……謝るくらいなら、いなくならないでよ……」
彼女は何も言わなかった。
どれだけ「消えないで」と願っても、彼女の消失は止まる気配がなかった。指先から、足元から、淡い光の粒になってほどけていく。
彼女は困り果てたように眉を下げて、それでも私に、最後の言葉を残してくれた。
「ヤチヨ、私がヤチヨを助けたのはね、初めは別の目的もあったんだ。もちろん、ヤチヨを助けるのは大前提だったんだけどね。初めのうちは、その目的のためにもヤチヨを助けるんだって思ってた」
私は何も言えず、ただ彼女の声を聞いていた。
「でもね、ヤチヨと出会ってから八千年、ずっと一緒にいて、私はヤチヨのことをたくさん知った。同じ経験をして、一緒に泣いて、一緒に笑って。そうやって過ごすうちに、本当に、本当に大切な存在になっていったんだよ」
涙が止まらない。視界が滲んで、彼女の姿がますます遠くなる。
「私はね……、ヤチヨを本当は一人にしたくないんだよ。でも、できないんだ。ごめんね。こんな私を許してほしい」
彼女の声は震えていた。それでも、いつもの優しい笑顔だけは崩さなかった。
「私は君が大好きだよ。大好きな君には笑っていてほしいし、一人で泣いているなら、その涙を拭ってあげたい。だから、もう泣かないで」
やめてよ。無理だよ。そんなの、できるわけがない。
胸の奥で叫んだ声は、言葉にならなかった。
「ねえ、ヤチヨ。私は本当に君に感謝してるんだ。この八千年、君の明るさに何度も救われたし、とても楽しかった。もう一度経験したいかって聞かれたら、ちょっと迷っちゃうけどね」
彼女は、いたずらっぽく笑う。その笑顔があまりにも彼女らしくて、余計に胸が痛んだ。
「でも、ヤチヨがいてくれて本当によかった。ヤチヨがいなかったら、絶対に八千年なんて越えられなかったよ。今ならわかるな。彩葉がどうしてヤチヨのことを好きになったのか」
光の粒は、もう彼女の胸元まで届いていた。
「今まで本当にありがとう。ごめんね。……絶対、彩葉と再会してね」
消えないで。お願い。行かないで。
何度も心の中で繰り返した願いは、やはり声にならなかった。
「大好きだよ。ありがとう。バイバイ、かぐや」
そう言い残して、彼女は光となって、静かに消えていった。
あとには、彼女が消えた光の余韻と、止まらない私の涙だけが残された。
お隣さんって誰なんやろな〜。
たった数ヶ月で彩葉の脳を焼いてるんだから8000年もいたお隣さんの脳は燃えカスです
かぐやも彩葉の前から消えたんだから、自分の目の前から大切な人が消えても仕方ないよね
この世界のお隣さんは温感や触覚を実装手前まで行ってます。まぁあの家系で手放しで天才だと言われる子が色々あって月に行ってからかぐや着いてくるんですからできないわけないですよね。
でもヤチヨがお隣さんの痕跡は触らずに残して起きたいから完成はしないです。可哀想だね