かぐや可愛いなヤチヨ可愛いな彩葉かっこいいなみんなもっと曇って欲しいな。
だから私…頑張るね
見慣れてしまった天井が、視界いっぱいに広がっていた。
何度も目にしてきた、お兄の家の天井。何か特別なものがあるわけでもない、ただの白い天井だった。けれど今の私には、その何でもない景色がひどく懐かしいものに思えた。しばらくの間、私は瞬きすら忘れて天井を見つめていた。ようやく現実に戻ってきたのだと理解できたのは、それから少し経ってからだった。
つい先ほどまで、私はあの暗い世界にいた。上も下も分からない、どこまでも続く暗闇。その中で、金色の髪をした彼女と向き合っていた。何度も夢の中で見てきた、かぐやさんによく似た女の子。彼女の言葉も、表情も、私に向けてくれた笑顔も、今でもはっきりと思い出せる。あまりにも鮮明で、目を閉じればまたあの場所に戻れるような気さえした。
けれど、もう分かっている。あれは夢なんかじゃなかった。少なくとも、ただの夢として片づけていいものではなかった。
私はゆっくりと身体を起こした。掛け布団が膝の上から滑り落ち、窓から差し込む朝の光が床を淡く照らしている。いつもと変わらない朝だった。昨日までの私なら、何も考えずに起き上がって、お兄におはようと言って、それから今日の予定を考えていただろう。でも、もうそんなことはできなかった。
あと二週間もしないうちに、私は八千年前へ旅立つ。
その事実が、ようやく寝起きの頭に追いついてきた。八千年。数字にしてしまえば、たった四文字。けれど、その長さを想像しようとすると、途端に何も分からなくなる。私が生きてきた時間なんて、その中ではほんの一瞬でしかない。お兄と過ごした日々も、お母さんに叱られた日も、お姉と笑い合っていた頃も、全部まとめたところで八千年には遠く及ばない。そんな途方もない時間を、私はこれから生きることになる。
「ほんまに、行くんやな」
口に出してみても、現実味はなかった。私は別に、特別勇敢な人間ではない。痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だ。寂しいのだって嫌いだし、本当ならずっと誰かのそばにいたい。それなのに、自分からそんな未来を選ぼうとしている。
「私、ほんまに馬鹿やなぁ」
小さく笑ってみたものの、その笑い声はすぐに消えてしまった。
そういえば、夢の彼女は言っていた。これから先、必要なことは身体が勝手にやってくれる、と。試しに右手を持ち上げてみる。普通に動いた。左手も動かしてみたけれど、やっぱり何も変わらない。頭の中に誰かがいるような気配も、身体を別の誰かに操られているような違和感もなかった。
「全然、勝手に動かへんやん」
思わず独り言が漏れる。もしかしたら、まだ始まっていないだけなのだろうか。そう考えた、その時だった。
『彼方』
不意に、声が聞こえた。耳から聞こえたわけではない。頭の中に、直接言葉が流れ込んできたような感覚だった。
『お別れ、済ませておいで。君が自分の気持ちで動ける時間は、今日ならまだあるから』
「お別れ?」
『うん。大切な人たちに、ちゃんと会っておいた方がいいと思う。言えなかったことを、全部言わなくてもいい。君が会いたいと思う人に、会っておいで』
あの声だった。夢の中で何度も聞いた、優しくて、どこか懐かしい声。急かすでもなく、ただ私が決めるのを待ってくれている。彼女はそれだけ言うと、静かになってしまった。私はもう一度呼びかけようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
お別れ。
その言葉が何を意味しているのか、嫌というほど理解できてしまった。
お兄と。お母さんと。そして、お姉と。
もう二度と、会えなくなるかもしれない。
その可能性を理解した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。八千年前へ行くということは、ただ遠い場所へ引っ越すのとは違う。新幹線に乗れば帰ってこられるわけでも、電話をかければ声が聞けるわけでもない。会いたくなったからといって、簡単に戻ってこられる場所ではないのだ。
「嫌やなぁ」
私は布団を強く握りしめた。
「ほんまは、嫌や……」
行きたくない。ここにいたい。お兄とくだらない話をして、お母さんにちゃんとご飯を食べなさいと叱られて、いつかお姉とも仲直りして。そんな未来を、私はまだ諦めきれていなかった。
けれど、ふと別の光景が頭に浮かんだ。
お姉が笑っている。昔みたいに、心の底から楽しそうに。その隣には、かぐやさんがいる。あの太陽みたいに眩しい女の子が、お姉の手を引いて、二人で笑い合っている。私はその光景を、どうしても見たかった。
お父さんが亡くなってから、お姉は少しずつ変わってしまった。大好きだった音楽から離れて、お母さんと喧嘩するようになって、私にも笑いかけてくれなくなった。昔のお姉に戻ってほしかった。ただ、それだけだった。でも、今なら分かる。お姉は昔に戻る必要なんてない。お姉が今の自分のままで、幸せになってくれればいい。その隣にいるのが私でなくても、かぐやさんならきっとお姉を笑顔にしてくれる。
「うん」
私はゆっくりと息を吐いた。怖い。それは変わらない。きっと八千年前に行ってからも、何度だって怖くなるのだろう。でも、私はもう決めたのだ。一度決めたことを、簡単に曲げたくはなかった。こんな時になって、お兄とのゲームで負けるたびに再戦を挑んでいた昔の自分を思い出す。そういえば私、結構負けず嫌いやったな。
「今さら思い出すなんてなぁ」
少しだけ笑えた。そして、胸の奥にいるはずの彼女に向かって、心の中で語りかける。
「時間、作ってくれてありがとう。ちゃんと、お別れしてくるね」
返事はなかった。それでも、きっと届いている。そんな気がした。
私はベッドから降りて、身支度を整え始めた。鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらなかった。少し眠たそうな目に、どこか頼りなく見える表情。これから八千年前へ旅立つ人間には、とても見えなかった。
「よし」
両頬を軽く叩く。せめて今日くらいは、いつもの私でいよう。そう決めて、私は部屋を出た。
* * *
「おはよぉ、彼方。よう眠れたみたいやな」
リビングに入ると、いつもの声が聞こえてきた。お兄はキッチンに立っていて、朝ご飯を用意してくれているらしい。焼きたての卵の匂いが漂ってきて、いつもと変わらない朝がそこにあった。
「おはよう、お兄」
「昨日はよう寝とったなぁ。何回か声かけたんやけど、全然起きへんかったし」
「そんなに寝てたんや、私」
「疲れとったんやろ。最近、いろいろあったさかい」
お兄はそう言って笑った。いつもと変わらない、優しい笑顔だった。その顔を見た途端、胸の奥が少しだけ痛くなる。私はもう、この人と同じ朝を迎えられないかもしれない。
「彼方? まだ眠いん?」
「あ、ううん。大丈夫やよ」
「ほんま? 顔色、あんまり良うないで」
「寝起きやからかな」
「昔から朝は弱かったもんなぁ。ほら、できたで。温かいうちに食べよし」
テーブルには、私の好きなものが並んでいた。特別なご馳走ではない。けれど、お兄が私の好みを覚えていてくれることが、今は何より嬉しかった。
「いただきます」
私は箸を取った。味はいつもどおりおいしかったのに、飲み込むたびに喉が詰まるような気がした。今日が最後になるかもしれないと思うだけで、何でもない朝ご飯まで大切な思い出に変わってしまう。
「今日、実家帰るんやったな。新幹線はお昼前やったっけ?」
「うん」
「駅まで送ろか?」
「大丈夫。一人で行けるよ」
「遠慮せんでええのに」
「お兄も疲れてるやろ。ゆっくり休んで」
「そうか。ほんなら、着いたら連絡ちょうだいな」
私は頷いた。連絡をすることくらい、今ならできる。けれど、その先は分からない。八千年前に行ってしまったら、お兄に声を届けることもできなくなる。
「そういや彼方、向こうでもちゃんと休むんやで」
「分かってるよ」
「そう言うて無理するんが彼方やからなぁ。しんどい時ほど笑うやろ?」
箸を持つ手が止まった。
「そんなことないと思うけど」
「あるよ。小さい頃からずっとそうやった。せやから、困った時は一人で抱えんといてな」
私は俯いた。お兄には、やっぱり敵わない。何も知らないはずなのに、どうして私が一番聞きたくないくらい優しい言葉をくれるのだろう。
「ありがとう、お兄」
「ん。どういたしまして」
それ以上話すと泣いてしまいそうで、私は黙って朝ご飯を食べた。お兄も無理に話しかけてこなかった。ただ、私のお茶が少なくなると、いつものように淹れ直してくれた。
食べ終えて部屋に戻ると、私は扉に背中を預けた。もっと話したかった。一緒にゲームをして、くだらないことで笑って、いつものように負けず嫌いだとからかわれたかった。でも、そうしてしまえば、きっと帰れなくなる。
スマホには、お兄との写真がいくつも残っていた。一緒にゲームをした時のもの。ご飯を食べに行った時のもの。不意打ちで撮った、少し変な顔のお兄。私は一枚ずつ眺めてから、そっと画面を閉じた。
やがて、出発の時間になった。
* * *
玄関で靴を履いていると、お兄が見送りに来てくれた。
「ほんまに送らんでええの?」
「うん。荷物もそんなにないし」
「無理せんといてな。しんどなったら、いつでも言うて」
「もう、お兄は心配しすぎやよ」
私は笑った。けれど、お兄はすぐには笑わなかった。
「なぁ、彼方。なんかあったん?」
心臓が跳ねた。
「どうして?」
「今日は、いつもとちょっと違う気ぃする。話したくないんやったら無理に聞かへんけど」
私は答えられなかった。お兄は私の顔をじっと見つめ、それから少し困ったように笑った。
「ただ、何かあったら頼ってええんやで。それだけは覚えといて」
その言葉を聞いた瞬間、もう我慢できなかった。
「お兄」
「ん?」
「ちょっとだけ、いい?」
「何が?」
答える代わりに一歩近づき、お兄の服を掴んだ。そのまま、そっと胸元に額を寄せる。
「彼方?」
「少しだけ、このままでおらせて」
お兄は何も言わなかった。やがて、私の背中にゆっくり腕を回してくれた。
「今日は甘えん坊さんやなぁ」
「今日くらい、ええやろ?」
「今日だけやなくてもええよ。いつでも甘えてくれてええんやから」
その言葉が嬉しくて、私は服を握る手に力を込めた。小さい頃、怖い夢を見た夜も、熱を出して苦しかった時も、お兄はこうしてそばにいてくれた。お父さんが亡くなって家の中が変わってしまった時も、お兄は私のお兄でいてくれた。
本当は、離れたくなかった。
八千年前になんて行きたくない。ここでずっと、お兄の妹でいたかった。
「なんか、寂しなってしもた」
ようやく言えたのは、それだけだった。
「そっか」
お兄は、それ以上聞かなかった。ただ、私の頭を優しく撫でてくれた。
「またいつでも帰ってきたらええんよ。ここは彼方の家でもあるんやから」
「うん」
私は小さく頷いた。嘘ではない。でも、いつでも帰ってこられるわけじゃない。そう言いたかった言葉を、胸の奥にしまい込んだ。
しばらくして、私は身体を離した。お兄の服には、握りしめたところだけ小さなしわができていた。それを伸ばしながら、もう一度顔を上げる。
「お兄。私、お兄の妹で良かったよ」
「なんや、急に」
「ふふ。言いたくなっただけ」
お兄は少し驚いたあと、照れくさそうに笑った。
「俺も、彼方の兄貴で良かったと思っとるよ」
その言葉だけで十分だった。
「ありがとう」
「うん」
私は靴を履き直し、鞄を肩に掛けた。お兄の目元も、笑った時の表情も、忘れないように見つめる。
「じゃあ、行ってくるね」
「気ぃつけてな。またな、彼方」
いつもと同じ言葉だった。私もいつもなら、笑って「またね」と返していただろう。
でも、今日はどうしても言えなかった。
もう一度会えるなんて、約束できないから。
「お兄も、元気でね」
「なんやそれ。もちろん元気にしとくよ」
お兄は笑って手を振った。私も笑い返し、ゆっくり扉を閉めた。
扉の向こうから、お兄が部屋へ戻る足音が聞こえる。その音が遠ざかるまで、私はその場を動けなかった。
最後まで、「またね」とは言えなかった。
「お兄、ありがとう」
誰にも聞こえない声で呟いて、私は歩き出した。振り返れば、きっと戻りたくなる。だから、一度も振り返らなかった。
* * *
私は、お姉には会いに行かなかった。
会いたくなかったわけではない。むしろ、誰よりも会いたかった。最後に一度だけでも顔を見たかったし、できることなら昔みたいに話したかった。でも、私にはできなかった。お姉は私を必要としていない。そう思っていたから。
久しぶりに会いに行ったあの日、お姉は私に帰ってと言った。あの言葉は、今でも胸の奥に残っている。きっとお姉にも事情があったのだろう。私には分からない何かがあって、あんな態度を取ってしまったのかもしれない。それでも、傷つかなかったと言えば嘘になる。
私はずっと、お姉に嫌われているのだと思っていた。だから、最後のお別れなんて必要ないのかもしれない。そんなふうに考えてしまった。
けれど、本当の理由は別にあった。もし今、お姉に会ってしまったら。もし、お姉が私に笑いかけてくれたら。もし、昔みたいに名前を呼んでくれたら。私はきっと、八千年前へ行く決意を曲げてしまう。
そして何より、もしお姉が私を必要だと言ってくれたら。その時、私はどうすればいいのだろう。お姉のために旅立つと決めたのに、お姉の言葉ひとつで、その決意が揺らいでしまう。そんな自分が、怖かった。
「ごめんね、お姉」
新幹線の窓に映る自分に向かって、小さく呟いた。
「私、最後まで勝手な妹やね」
窓の外では、景色がものすごい速さで流れていく。街並みが遠ざかり、知らない景色が現れては消えていく。私はその光景をぼんやりと眺めながら、昔のことを思い出していた。
お姉がピアノを弾いていた頃。私が隣に座って、邪魔をしてしまったこと。お姉は怒るどころか、笑いながら私の指を鍵盤に乗せてくれた。
『彼方も弾いてみる?』
あの頃のお姉は、いつも優しかった。私のことを大切にしてくれていた。それが嬉しくて、私は何度もお姉の後ろをついて回っていた。お姉にとっては、少し鬱陶しかったかもしれない。でも、私は幸せだった。
「お姉。今度こそ、幸せになってね」
私がいなくなっても。私のことなんて、忘れてしまっても。かぐやさんと一緒に、笑っていてほしい。それが、私の最後の願いだった。
* * *
実家に着いた頃には、夕方が近づいていた。見慣れた家の前に立つと、少しだけ緊張した。ここで生まれて、ここで育った。楽しい思い出も、悲しい思い出も、全部この家に詰まっている。そんな場所に帰ってきたというのに、今の私はまるで初めて訪れる場所のように感じていた。
私はインターホンを押した。しばらくして、家の中から足音が聞こえてくる。鍵の開く音。そして、扉が開いた。
「おかえり、彼方」
お母さんだった。いつもと変わらない、少し厳しさを含んだ声。
「ただいま、お母さん」
私は笑って答えた。返事をしただけなのに、喉の奥が熱くなる。お母さんは私の顔をしばらく見つめてから、何も聞かずに玄関の扉を大きく開けた。それだけのやり取りなのに、胸が温かくなった。帰ってきたんだ。ちゃんと、帰ってこられたんだ。
「何ぼさっと突っ立ってんの。はよ入り。荷物も半分持ったるから」
「え、大丈夫やよ。自分で持てるし」
「ええから貸し。そんな細い腕で無理して、また体調崩したらどうすんの」
「ありがと」
お母さんは私の荷物を半分持ってくれた。普段なら、自分で持てるからと断っていただろう。でも、今日は素直に甘えることにした。もう、こんなふうに甘えられる機会はないかもしれないから。
「朝日のところでは、ちゃんと生活できとったん?」
「うん。お兄がいろいろしてくれたよ」
「まったく、あの子も甘やかしすぎや。彼方も、いつまでもお兄ちゃんに頼ってばっかりやったらあかんよ」
「そんなことないよ。私もちゃんとやってたもん」
「ほんまに? 自分でできることは自分でする。それくらい当たり前のことやろ」
「分かってるよ」
お母さんは私を一瞥すると、小さく息を吐いた。
「まあ、ええわ。長旅で疲れたやろ。荷物片づけたら、夕飯まで休んどき」
「うん。ありがとう、お母さん」
その後、私たちは一緒に荷物を片づけた。お母さんは何度も、必要なものは揃っているか、忘れ物はないかと確認してくれた。私はそのたびに、大丈夫だよと答えた。
お母さんは厳しい人だ。昔から、何かと口うるさく注意されてきた。勉強のこと。生活習慣のこと。体調管理のこと。正直、面倒だと思ったことも何度もある。でも、愛情がない人では絶対になかった。
お父さんが亡くなってから、お母さんは変わった。家族を守らなければならないという責任を、一人で背負い込んでしまったのだろう。そのせいで、お姉とはうまくいかなくなってしまった。私には、どちらが悪いのかなんて分からない。ただ、二人とも大切な家族だった。
「彼方、聞いてんの?」
「え?」
「さっきから何回も呼んどるやろ。ほんまに大丈夫なん?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「疲れとるんやったら、無理せんと休み。体調管理も自分の責任やで」
「うん」
お母さんは少し疑わしそうに私を見た。
「まあええわ。今日はゆっくりしとき」
私は頷いた。お母さんの厳しさが、今日は不思議と心地良かった。こんなふうに叱られることさえ、もうなくなるのだと思うと、何だか少し寂しかった。
* * *
夕食は、私の好きなものばかりだった。テーブルを見た瞬間、私は思わず声を上げてしまった。
「え、すごい。これ全部作ってくれたん?」
「そうやけど。何をそんなに驚いてんの」
「だって、私の好きなものばっかりやもん」
「久しぶりに帰ってきたんやから、これくらいはするやろ。ほら、冷める前に食べ」
「ありがとう」
「お礼はええから、ちゃんと残さず食べなさい」
そう言いながらも、お母さんは少しだけ嬉しそうだった。私は席について、手を合わせた。
「いただきます」
一口食べる。懐かしい味だった。お兄の作ってくれるご飯もおいしい。でも、お母さんの料理には、やっぱり特別なものがあった。
「おいしい」
お母さんは箸を止めなかった。それでも、私のお皿が少しずつ空いていくのを確かめるように目を向けていた。
「そうか。なら良かったわ」
「うん。めっちゃおいしい」
「向こうでもちゃんと食べとったんやろな?」
「食べてたよ。お兄がいっぱい作ってくれたし」
「朝日も甘いなぁ。彼方も自分で料理くらい覚えんと、いつまでも人に頼ってられへんで」
「はぁい」
「返事だけは一人前やな」
私は思わず笑ってしまった。お母さんは少しだけ呆れたような顔をしたけれど、何も言わずに食事を続けた。
それから、私はお兄の家での生活について、いろいろな話をした。ゲームのこと。最近あった出来事。もちろん、話せないこともたくさんあった。八千年前に行くことも、夢の彼女のことも。でも、それ以外のことなら、できるだけ話そうと思った。
「そういや彼方、向こうで友達はできたん?」
「友達?」
「ずっと朝日とばっかり一緒におったわけやないやろ。人付き合いも大事やで」
「うーん……友達、かなぁ」
かぐやさんの顔が浮かんだ。あの自由で、明るくて、少し強引な女の子。私にとって、かぐやさんはただの友達というには少し違う存在だった。お姉を幸せにしてくれる人。そして、これから私が八千年をかけて守ろうとしている人。
「大切な人には、会えたよ」
私はそう答えた。
「そうか。良かったやないの」
「うん。ほんまに良かった」
「その人とは、ちゃんと仲良うできとるん?」
「うん」
少しだけ考えてから、私は続けた。
「すごく優しい人なんよ。ちょっと自由すぎるところもあるけど、周りの人を笑顔にするのが上手で」
「へえ」
「一緒にいると、なんか元気になるんよね」
「彼方がそこまで言うんやったら、よっぽどええ人なんやろな」
「うん。大切な人やよ」
お母さんは、それ以上何も聞かなかった。ただ、少しだけ表情を緩めていた。その顔を見て、私は思った。お母さんにも、いつかお姉と仲直りしてほしい。昔みたいに、家族みんなで笑ってほしい。私がいなくなった後でも。
「お母さん」
「なんや?」
「お姉とは、最近どう?」
お母さんの箸が止まった。
「彩葉がどうかしたん?」
「ううん。連絡とか、してるんかなって」
「あの子からは、何も言うてこんよ」
「そっか」
少しだけ沈黙が流れた。聞かなければ良かったかもしれない。そう思った時、お母さんが口を開いた。
「あの子、ちゃんと生活できとるんやろな」
私は顔を上げた。
「お母さん?」
「何や、その顔は」
「お姉のこと、心配してるん?」
「当たり前やろ。あの子も私の娘なんやから」
お母さんは少し不機嫌そうに言った。
「ただ、あの子が自分で出ていくって決めたんや。せやったら、自分の選んだ道には責任持たんとあかん。それだけの話や」
その言葉に、胸が少しだけ痛くなった。お母さんは、お姉のことが嫌いなわけじゃない。ただ、うまく向き合えなくなってしまっただけなのだ。お姉もきっと、お母さんのことが嫌いになりきれないのだと思う。
「そっか」
「何や、さっきから」
「ううん。なんか、嬉しくて」
「ほんま、よう分からん子やな」
お母さんは呆れたように笑った。私はその笑顔を見ながら、心の中で願った。
どうか、いつか。お姉とお母さんが、もう一度笑い合えますように。
* * *
夕食を終えたあと、私はお母さんと一緒に台所に立っていた。お母さんが食器を洗い、私が布巾で拭いていく。昔から何度も繰り返してきた、何でもない家事の時間だった。
「彼方、あんたはもう休んどき。長旅で疲れとるんやろ」
「大丈夫やよ。今日は手伝いたいんよ」
「ほんま、珍しいこともあるもんやな」
「私、そんなに手伝わへんかった?」
「自分の胸に聞いてみ」
お母さんは呆れたように言いながら、洗い終えたお皿を渡してくれた。私は笑って受け取り、丁寧に水気を拭き取る。
蛇口から流れる水の音。食器が重なる小さな音。洗剤の匂い。隣に立つお母さんの気配。何もかもが懐かしくて、全部覚えておきたいと思った。
「お母さん」
「なんや?」
「私、小さい頃って、どんな子やった?」
「なんや急に。大人しいくせに、妙なところで頑固な子やったで」
「私が?」
「そうや。これって決めたら、なかなか聞かへんかった。今もそうやろ。休め言うても手伝っとるし」
「ふふ。そうかもしれへんね」
「それに、身体が弱かったからな。よう熱出して、心配ばっかりかけて」
「ごめんね」
お母さんの手が止まった。
「何を謝っとるん?」
「いっぱい迷惑かけたやろ?」
「迷惑やなんて思ったことないよ」
お母さんはそう言って、私の方を見た。
「心配はしたで。今もしてる。でも、それと迷惑は別や。親が子供の心配するんは、当たり前のことやろ」
私は手元のお皿を見つめた。お母さんはずっと、私のお母さんでいてくれた。熱を出した夜も、お姉とのことで落ち込んだ日も、私が何も話さない時も。厳しい言葉の奥には、いつだって私を大切に思う気持ちがあった。
「お母さんは、あんたら三人が元気で、幸せに暮らしてくれたら、それでええんよ」
「お兄も、お姉も、私も?」
「当たり前やろ。三人とも私の大事な子供なんやから」
お母さんは何でもないことのように答えた。その声を聞いて、私は少しだけ安心した。お姉とお母さんは、まだ上手く向き合えていない。でも、二人が互いを大切に思っていることは、きっと変わらない。
いつか、ちゃんと伝え合える日が来てほしい。
私がいなくなったあとでも。
最後のお皿を拭き終えた頃、私は少しだけ迷った。今までありがとう。大好きだよ。そんな言葉を突然口にしたら、お母さんはきっと驚くだろう。
それでも、言わずに終わるのは嫌だった。
「お母さん」
「今度は何や?」
「私ね、お母さんの娘で良かったよ」
お母さんが振り返った。
「ほんま、今日はどうしたんや。さっきから変なことばっかり聞いて」
「変かな?」
「変やろ。急に改まって」
「でも、言いたかったんよ」
私は笑った。
「私、いっぱい心配かけたし、困らせたこともあったと思う。でも、お母さんはずっと大事にしてくれたやろ。私、それが嬉しかった」
「そんなん、当たり前や」
「うん。分かってる。でも、その当たり前が嬉しかったんよ」
お母さんは何も言わず、手に持っていた布巾を畳んだ。少し困ったような顔をしている。
「お母さんの作ってくれるご飯も、心配してくれるところも、ちょっと口うるさいところも、全部好きやよ」
「口うるさいは余計や」
「ふふ。ごめんね」
お母さんは小さく息を吐いた。それから、私の頬にそっと手を添えた。さっきまで水仕事をしていたからか、少しだけ冷たい手だった。
「そんなこと、わざわざ言わんでもええのに」
「言いたかったんよ。今のうちに、ちゃんと」
最後の言葉に、お母さんがわずかに眉を寄せた。私はそれ以上何も言わず、ただ笑った。
「お母さん、大好きやよ」
お母さんは少しの間、私を見つめていた。やがて、その手が頬から髪へ移り、昔と同じように優しく撫でてくれた。
「私もやで。あんたが生まれてきてくれて、ほんまに良かったと思っとるよ」
その言葉を聞いた途端、目の奥が熱くなった。
「もう、そんなこと言われたら泣いてまうやん」
「先に言い出したんはあんたやろ」
「それもそうやね」
私は目元を拭って笑った。お母さんも、少しだけ笑ってくれた。
「ほら、もう遅いんやから、今日は早う寝なさい。身体、大事にするんやで」
「うん。分かった」
「ほんまに分かっとるんやろな?」
「ふふ。分かってるよ」
私は台所を出て、廊下へ向かった。振り返ると、お母さんは食器棚の扉を閉めているところだった。何度も見てきた、いつもどおりの姿。
「お母さん、おやすみ」
「おやすみ、彼方」
私は小さく手を振って、自分の部屋へ向かった。
お兄には「またね」と返せなかった。けれど、お母さんには「おやすみ」と言えた。次に会えると約束したわけではない。ただ、今日という一日を、ちゃんと終えられた気がした。
ありがとうも、大好きも、伝えられた。
寂しくないわけじゃない。もう一度台所に戻って、お母さんのそばにいたいと思う。それでも、今夜の私は少しだけ穏やかだった。
部屋の扉を開ける前に、私はもう一度だけ振り返った。
「ありがとう、お母さん」
誰にも聞こえないほど小さく呟いて、扉を閉めた。
* * *
ベッドに横になると、急に疲れが押し寄せてきた。今日一日、ずっと気を張っていたのだろう。お兄に会って、お母さんに会って、ちゃんとお別れをして。それなのに、まだ心残りはたくさんあった。もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。もっと、甘えたかった。でも、これ以上望んではいけない気がした。
「ありがとう」
私は暗い天井に向かって呟いた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。お兄に。お母さんに。そして、時間をくれた彼女に。きっと、全部だった。
目を閉じる。意識がゆっくりと沈んでいく。その時だった。
『ごめんね、彼方』
あの声が聞こえた。
『一日しか、あげられなくて。本当はもう少し、ゆっくりさせてあげたかったんだけど』
私は目を開けようとした。でも、身体が動かなかった。
『でも、もう準備を始めないと間に合わないんだ。だから、あとは私に任せてくれるかな』
私は心の中で答えた。大丈夫。ちゃんと、お別れできたから。
すると、彼女が小さく笑った気がした。
『うん。良かった』
少しの沈黙。そして、彼女は優しく言った。
『おやすみ、彼方。今はゆっくり休んでね』
その言葉を最後に、私の意識は深い眠りへと落ちていった。
* * *
それからの日々は、ほとんど記憶がない。正確には、ところどころ記憶が抜け落ちていると言った方がいいのかもしれない。
朝起きた記憶はある。学校へ行った記憶もある。授業を受けて、友達と話して、家に帰った。そんな、ごく普通の日常を送っていたはずだった。けれど、その間に何をしていたのか、どうしても思い出せない時間があった。
気づけば夕方になっていたこともあった。机に向かっていたはずなのに、次の瞬間にはベッドの上にいたこともあった。最初は、疲れているのだと思った。でも、そんな簡単な話ではなかった。
ある日のこと。私は夕食の席で、お母さんに聞いてみた。
「お母さん」
「なんや?」
「私、今日何してたっけ?」
お母さんの箸が止まった。
「は?」
「いや、なんか今日のこと、あんまり覚えてなくて」
「あんた、大丈夫なん?」
「多分」
「多分やないやろ。自分が何しとったかも覚えてへんなんて、普通やないで」
お母さんは心配そうに私を見た。
「今日、学校から帰ってきてから、ずっとパソコンの前におったやろ。何や難しそうなことしとったみたいやけど」
「パソコン?」
「そうや。自分で覚えてへんの?」
「うん」
お母さんの表情が険しくなった。
「彼方、最近おかしいで。ちゃんと寝とるんか?」
「寝てるよ」
「食欲は?」
「あるよ」
「頭痛いとか、気分悪いとかは?」
「それも大丈夫」
「ほんまに?」
私は頷いた。お母さんは納得していないようだった。
「明日もそんな調子やったら、病院行くで。自分の身体のことなんやから、軽く考えたらあかん」
「うん」
私は素直に答えた。でも、何となく分かっていた。これは病院に行ってどうにかなるものではない。夢の彼女が、私の身体を使って何かをしているのだ。おそらく、八千年前へ行くための準備。けれど、具体的に何をしているのかは分からなかった。
「先に言っといてほしかったなぁ」
部屋に戻ってから、小さく呟いた。当然、返事はなかった。ただ、机の上には見覚えのないメモが置かれていた。何やら難しい数字や記号が、びっしりと書き込まれている。私には、ほとんど理解できなかった。
「何これ」
パソコンを開いてみる。画面には、見たこともないコードが並んでいた。ツクヨミに関係するものだということだけは、何となく分かった。けれど、その内容は私の理解を超えていた。
「ほんまに、何してるんやろ」
不安がなかったわけではない。自分の身体が、自分の知らないところで勝手に動いている。普通に考えれば、恐ろしいことだった。それでも、私は彼女を信じていた。
夢の中で見た、あの笑顔。私を見つめる、どこか寂しそうな瞳。あの子が私を騙しているとは、どうしても思えなかった。だから、私は待つことにした。彼女が何をしているのか分からなくても、その先に何が待っているのか分からなくても。
私はもう、覚悟を決めていたのだから。それでも、眠っている間に身体を預けることへの怖さがなくなったわけではない。翌朝、机に残る知らない筆跡を見るたび、私の知らない時間が確かに積み重なっているのだと感じた。
* * *
そして、運命の日はやってきた。
九月十二日。かぐやさんの卒業ライブの日。そして、私が八千年前へ旅立つ日。
朝、目を覚ました時から、不思議な感覚があった。身体が軽い。いつもなら感じるはずの倦怠感も、今日はほとんどなかった。まるで、今日という日のために、身体の調子を整えられていたかのようだった。
「今日なんやね」
私は窓の外を見つめた。空は青かった。どこまでも続く、綺麗な青空だった。こんな日に、私はこの世界からいなくなるのだろうか。そう考えると、少しだけ不思議だった。
もっと特別な日になると思っていた。空が赤く染まるとか、何か不吉なことが起こるとか。でも、現実は何も変わらない。鳥は鳴いているし、車は走っている。お母さんはいつもどおり朝ご飯を作っていた。
世界は、私がいなくなることなんて知らない。きっと、私がいなくなった後も、何事もなかったかのように続いていくのだろう。
「そっか」
私は小さく笑った。それでいい。私がいなくなっても、みんなが幸せでいてくれるなら。それで、十分だった。
けれど、ひとつだけ問題があった。
「で、私、何したらええんやろ」
そう。肝心の私は、今日何をすればいいのか、まったく分かっていなかった。夢の彼女が準備をしていることは分かる。でも、何をどうすれば八千年前へ行けるのか、説明されていなかった。
かぐやさんの卒業ライブで何かが起こる。それだけは、何となく分かっていた。けれど、それ以上のことは何も知らない。
「ほんまに大丈夫なんかな」
そう呟いた時だった。
『彼方、聞こえる?』
突然、声が聞こえた。あの声だった。私は思わず周囲を見回した。もちろん、誰もいない。
「え、あ、はい」
『ふふ。そんなに驚かなくても大丈夫だよ。私だよ』
「いや、だって……急に話しかけてくるから」
『うん、ごめんね。ちゃんと声が届くか、確かめておきたかったんだ』
「確かめる?」
『そう。今日は君にも、ちゃんと起きていてもらわないといけないから』
私は首を傾げた。
「どういうこと?」
『今から説明するね。まず、今日も身体は私が動かすよ。その方が、きっと上手くいくから』
「うん。まあ、今までも動かしてたもんね」
『うん。勝手なことして、ごめんね』
「まあ、ええよ。でも、ひとつ聞いてもいい?」
『うん。何かな?』
「私の意識って、どうなるの?」
『大丈夫だよ。今日はちゃんと起きていられるから。君にも見ていてほしいんだ』
「今までみたいに、記憶が飛んだりせえへんの?」
『うん。今日は大丈夫。それに、君の意識がなかったら月には行けないからね』
私は思わず眉をひそめた。
「それなら、最初から意識残しておいてほしかったんやけど」
『ごめんね』
彼女の声が、少しだけ静かになった。
『私がやっていたことは、今の君が知ってしまうと駄目なんだ。だから、どうしてもこうするしかなかったの』
「なんで?」
『今はまだ、教えられないんだ。ごめんね』
「それ、説明になってへんよ」
『うん。分かってる』
彼女は小さく笑った。
『でも、もう少しだけ信じてくれるかな。全部終わったら、きっと分かるから』
私は黙り込んだ。信じていないわけではない。むしろ、信じているからこそ、ここまで来たのだ。でも、何も分からないままというのは、やっぱり少し怖かった。
「ひとつだけ」
『うん?』
「私、ちゃんとかぐやさんをお姉のところに帰してあげられるんよね?」
少しの沈黙があった。そして、彼女は答えた。
『うん。君が諦めなければ、きっと大丈夫だよ』
「そっか」
私はゆっくりと息を吐いた。
「なら、ええよ。私、もう決めたから」
彼女は何も言わなかった。けれど、少しだけ嬉しそうに笑った気がした。
『ありがとう、彼方』
その声が、なぜだかひどく懐かしく感じられた。
* * *
卒業ライブが始まる少し前。私はスマコンを取り出して、装着した。正確には、私の身体が勝手に動いていた。指先が迷いなく操作を進めていく。私自身は何もしていないのに、身体だけが目的を持って動いている。何とも奇妙な感覚だった。
「ほんまに動いてる」
『うん。少し変な感じがすると思うけど、我慢してね』
「なんか、自分の身体じゃないみたい」
『そうだよね。ごめんね、もう少しだけ借りるよ』
「ちゃんと返してくれるんよね?」
『うん。大丈夫だよ。必要な時が来たら、ちゃんとね』
その言葉に、少しだけ引っかかるものを感じた。けれど、深く考える暇はなかった。視界が切り替わる。仮想空間、ツクヨミ。見慣れた電子の世界が、目の前に広がった。
私は何度もこの世界で遊んできた。お兄と戦ったこともある。かぐやさんのライブを見たこともある。私にとって、もうひとつの居場所と言ってもいい世界だった。でも、今日のツクヨミは、いつもとは違って見えた。
私はKASENステージの天守閣、その頂上付近にいた。普通なら、簡単には立ち入れない場所だ。
「ここ、入ってええ場所なん?」
『本当は駄目なんだけどね。でも、大丈夫だよ。誰にも見つからないようにしてあるから』
「え?」
『認識阻害をかけてあるんだ。電子の中では、誰も君のことを認識できないようにしてあるの』
「それ、チートやん」
『ふふ。そうだね。ちょっとずるいかもしれない』
「ちょっとどころやないと思うんやけど……」
私は思わずため息を吐いた。彼女は小さく笑った後、静かに続けた。
『でも、これくらいしないと月にはついて行けないから。普通の認識阻害じゃ、月の技術には通用しないんだ』
「月の技術?」
『うん。だから、月の技術にも対応できるようにしてあるの。時間はかかったけど、何とか間に合ったよ』
「そんなこと、できるん?」
『うん。できたよ』
「どれくらい時間かかったん?」
『さあ、どれくらいだったかな』
彼女は曖昧に笑った。その答え方が、少しだけ気になった。まるで、途方もない時間をかけてきたかのような。けれど、それ以上聞く前に、会場の空気が変わった。
ライブが始まる。
* * *
かぐやさんの卒業ライブ。それは、私が想像していたものとはまったく違うものになった。
最初は、いつものように楽しいライブだった。かぐやさんの歌声が響き渡り、観客たちが歓声を上げる。私も、思わず見入ってしまった。あの子は、本当にすごい。ただ歌っているだけなのに、周りの人を笑顔にしてしまう。その姿は、まるで太陽のようだった。
でも、そんな時間は長く続かなかった。月の民が現れた。かぐやさんを連れ戻すために。
私はその光景を、ただ見つめていた。お姉が戦っていた。お兄も戦っていた。かぐやさんを月へ帰さないために、必死になっていた。
「お兄」
思わず声が漏れた。お兄は、いつものように誰かを守ろうとしていた。自分のためではなく、大切な誰かのために。その姿を見て、私は胸が熱くなった。
「ほんま、お兄らしいなぁ」
『うん。優しいお兄さんだね』
「うん。私の、自慢のお兄やよ」
彼女は何も言わなかった。けれど、その沈黙はどこか温かかった。
やがて、お姉の姿が見えた。必死だった。かぐやさんを失いたくない。その想いが、離れた場所にいる私にまで伝わってくるようだった。
「お姉」
私は小さく呟いた。あんな顔をするお姉を、私は久しぶりに見た。誰かのために、あそこまで必死になれるお姉。昔の私が大好きだった、優しいお姉。
でも、今のお姉は昔とは違う。かぐやさんと出会って、自分の足で前に進もうとしている。私はその姿が、嬉しかった。
「良かった」
『うん?』
「お姉、ちゃんと大切な人ができたんやなって」
私は笑った。
「私がいなくても、もう大丈夫そうやね」
その瞬間、彼女の気配が少しだけ揺れたような気がした。
『彼方』
「なに?」
『ううん。何でもないよ』
私は不思議に思った。けれど、その理由を聞くことはできなかった。戦いは続いていた。そして、時間は確実に進んでいた。
* * *
やがて、かぐやさんが天守閣の頂上へとやってきた。私は思わず息を呑んだ。すぐ近くに、かぐやさんがいる。手を伸ばせば触れられそうな距離だった。でも、彼女は私に気づかない。目の前にいるのに、私の存在を認識できていないのだ。
「ほんまに、見えてへんのやね」
『うん。ちゃんと上手くいってるみたい。良かった』
「すごいなぁ」
『ふふ。ありがとう』
そんなやり取りをしていると、突然、彼女の声が静かになった。
『彼方』
「ん?」
『私は、ここまでかな』
私は思わず聞き返した。
「え?」
『あとは、かぐやについて行けば大丈夫だよ。もう、私が手伝えることはないから』
「それだけ?」
『うん。それだけだよ』
「でも、まだ何も分かってへんよ」
『大丈夫。ちゃんと分かる時が来るから』
私は不安になった。
「待って。私、ほんまに大丈夫なん?」
彼女は少しだけ黙った。そして、優しく答えた。
『うん。大丈夫だよ。君なら、きっとできるから』
「なんで、そんなこと言い切れるん?」
私はずっと気になっていたことを、ようやく口にした。
「私のこと、そんなに知ってるん?」
少しの沈黙。そして、彼女は笑った。
『うん。知ってるよ』
「どうして?」
『ずっと、見てきたから』
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「ずっと?」
『うん。君がどれだけ優しい子なのかも、どれだけ頑固なのかも。私はちゃんと知ってるよ』
「頑固って」
『ふふ。ごめんね。でも、そこも君のいいところだと思うよ』
私は少しだけ笑った。でも、すぐに真剣な顔に戻る。
「ねえ」
『うん?』
「私たち、どこかで会ったことある?」
彼女は答えなかった。代わりに、小さく笑った。
『どうだろうね』
「またそれ」
『ごめんね』
そして、彼女は最後にこう言った。
『次の八千年、お願いね』
「次?」
その言葉の意味を聞こうとした。でも、もう遅かった。彼女の気配が、すっと消えた。
「え?」
私は何度も呼びかけた。
「ねえ。聞こえてる?」
返事はない。
「もう、いないん?」
何も聞こえなかった。まるで、最初から誰もいなかったかのように。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
別れの言葉すらなかった。ありがとうも。さようならも。何ひとつ。
「ほんま、勝手な子やなぁ」
私は小さく呟いた。でも、不思議と怒る気にはなれなかった。むしろ、少しだけ寂しかった。ずっと一緒にいたわけでもないのに。何度か話しただけなのに。まるで、大切な誰かを失ってしまったような、そんな気持ちだった。
* * *
私は、かぐやさんのすぐそばでライブを見ていた。誰にも見えないまま、誰にも気づかれないまま、ただ彼女の歌声を聞いていた。
綺麗だった。本当に、綺麗だった。
あの子は、竹取物語のかぐや姫なのだ。月からやってきて、地球で大切な人たちと出会い、そして月へ帰っていく。昔話と同じ結末。でも、私は知っている。これは終わりではない。私が、終わらせない。
ライブが終わる。月の民たちが、かぐやさんの前に恭しく頭を下げた。かぐやさんは、少しだけ寂しそうに笑っていた。
「逃げちゃってごめん。でも、さいこーに楽しかったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。楽しかった。その一言に、どれだけの想いが込められているのだろう。お姉と過ごした時間。みんなと笑い合った日々。きっと、かぐやさんにとっても、かけがえのないものだったのだろう。
「良かったね、かぐやさん。ちゃんと、楽しかったんやね」
かぐやさんには聞こえない。それでも、言いたかった。
やがて、月の民に導かれて、かぐやさんが船へと乗り込んだ。私はその後を追った。けれど、追いかけたのは現実の身体ではなかった。スマコンを介してツクヨミに重ねていた意識の奥から、私自身の魂だけがそっとほどけていく。遠くに残した身体の重さが薄れ、足音さえ消えていた。認識阻害は、まだ続いているらしい。月の民たちは、誰一人として私に気づかなかった。かぐやさんも、すぐ隣にいる私を見ていない。
「ほんまに、密航やね」
私は小さく笑った。あの子の言っていた意味が、ようやく分かった。誰にも知られずに、月へ行く。そして、八千年前へ。
私は船の中で、かぐやさんの隣にいるつもりで、その姿に寄り添った。彼女は地上を見つめていた。その視線の先にいるのが誰なのか、私には分かった。お姉だ。
かぐやさんは、小さく口を開いた。
「彩葉、大好き」
その言葉を聞いた時、私は泣かなかった。悲しくなかったわけではない。むしろ、胸が痛くなるほど切なかった。でも、それ以上に強い想いがあった。
この子を、お姉のところへ帰してあげたい。もう一度、二人を会わせてあげたい。そのためなら、私は何だってする。八千年でも。もっと長い時間でも。何度だって、頑張ってみせる。
「待っててね、お姉。絶対、かぐやさんを連れて帰るから」
届くはずのない言葉。それでも、私は約束した。
* * *
船はゆっくりと地上から離れていった。先ほどまであれほど近くにあったツクヨミの景色が、少しずつ遠ざかっていく。私はその光景を、ただ静かに眺めていた。もう戻れないのだという実感は、不思議なほどなかった。むしろ、ようやくここまで来られたのだという安堵の方が大きかった。
隣にはかぐやさんがいる。手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、彼女は私の存在に気づいていない。先ほどまでお姉たちと笑い合っていた彼女は、今はただ静かに地上を見つめていた。その横顔があまりにも寂しそうで、思わず声をかけたくなってしまう。
「大丈夫やよ、かぐやさん。今は寂しいかもしれへんけど、いつか絶対にお姉のところに帰してあげるから。だから、もうちょっとだけ待っててね」
当然、返事はなかった。それでも私は、少しだけ笑った。自分でも不思議なくらい、穏やかな声が出た。これから八千年も過去へ行くというのに、私は目の前の女の子のことばかり考えている。
少し前までの私なら、こんなことは考えられなかっただろう。自分の身体のことで精一杯で、お姉に嫌われていることが悲しくて、毎日を過ごすだけでも大変だった。それなのに、今の私は誰かのために八千年を生きようとしている。
「ほんま、変わったなぁ。私」
小さく笑った、その時だった。
足元が淡く光り始めた。月の民たちの身体が、足先から少しずつ光の粒へと変わっていく。かぐやさんも同じだった。私の輪郭も、指先や足元から徐々に透け始める。けれど、ここにあるのは肉体ではない。置いてきた身体の感覚を、魂がまだ覚えているだけなのだろう。
痛みはなかった。苦しさもない。ただ、自分という存在が少しずつ薄くなっていくような、不思議な感覚だけがあった。
「これが、月に帰るってことなんかな」
そう呟いた直後、私は何かに触れたような感覚を覚えた。いや、触れたというよりも、何かの上に乗ったと言った方が正しいのかもしれない。すでに足元と呼べるものは光になって消えかけているはずなのに、確かに何かに支えられている。目には見えない。けれど、その存在だけははっきりと感じ取れた。
それは、まるでレールのようだった。どこまでも続いているようで、どこにも続いていない。真っ直ぐ伸びているわけではなく、緩やかに弧を描いている。その先を辿ろうとすると、いつの間にか始まりへと戻ってくるような、不思議な感覚があった。
「あれ?」
胸の奥が、微かに震えた。初めてのはずだった。こんな感覚、今まで一度も経験したことがない。それなのに、どうしてだろう。私はこれを知っているような気がした。
懐かしい。
そう思った瞬間、ひとつの言葉が自然と浮かび上がった。
「輪廻」
夢の彼女が話していた、八千年の輪廻。きっと、これがそうなのだろう。
私はぼんやりと、その感覚に身を委ねていた。これから八千年前へ行くのだということも、そこで何が待っているのか分からないということも、今は不思議と怖くなかった。
けれど、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば」
夢の彼女は、最後に何と言っていただろう。
『次の八千年、お願いね』
次。
私はその言葉を、頭の中で繰り返した。どうして、次なのだろう。私が八千年前へ行くのは、これが初めてのはずだ。それなのに、彼女はまるで以前にも同じことを経験したかのように話していた。
それだけではない。彼女は私のことを、あまりにもよく知っていた。夢の中で私が言葉にできずにいた寂しさも、家族に会いたいという身勝手な願いも、最初から知っているようだった。私が何を考えているのか、何を望んでいるのか。何も言わなくても、全部分かっているようだった。
初めて夢の中で出会った時から、ずっと不思議だった。あの子は、どうしてあんなにも優しかったのだろう。
私が怖がっている時には、いつも安心させるように笑ってくれた。私が何も分からず戸惑っている時には、急かすことなく待ってくれた。そして、家族とお別れする時間まで作ってくれた。
自分だって、きっと大変だったはずなのに。
「なんで、そこまでしてくれたんやろ」
口に出してみても、答えは返ってこなかった。けれど、考えれば考えるほど、違和感は大きくなっていく。
彼女は私の身体を自由に動かしていた。私の知らない知識を持っていて、八千年前へ行くための準備を進めていた。そして、最後には何も告げずに消えてしまった。
そもそも、どうして彼女は私の中にいたのだろう。
もし、彼女が以前の輪廻でかぐやさんについて行った存在なのだとしたら、その輪廻はどこで終わったのだろう。八千年を生きた後、彼女はどうなったのだろう。そして、どうして今の私の中に戻ってきたのだろう。
「戻って、きた?」
自分で口にした言葉に、思考が止まった。
戻ってきた。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。私は今、輪廻の中にいる。八千年前へ向かっている。そして、夢の彼女は次の八千年を私に託した。
もし、これが初めてではないのだとしたら。もし、私が今から向かう八千年を、すでに生き終えた誰かがいるのだとしたら。その誰かが、もう一度この場所へ戻ってきたのだとしたら。
「……あ」
その瞬間、私は思い出した。
夢の中で、初めて彼女と向き合った時のことを。金色の長い髪。透き通るように白い肌。かぐやさんによく似た、綺麗な女の子。初めて見たはずなのに、どうしてか懐かしくて、怖いとは思わなかった。
あの時、私は彼女の笑顔を見て、不思議な気持ちになった。どこかで見たことがある。そう思った。けれど、思い出せなかった。
それが今になって、ようやく分かった気がした。
「そっか」
声が震えた。あの子が私のことを知っていた理由。私の身体を動かせた理由。八千年という途方もない時間を、まるで当たり前のことのように話していた理由。
全部、ひとつの答えに繋がっていく。
「なんや、そういうことやったんやね」
私は小さく笑った。
あの子は、私だったんだ。
八千年という長い時間を生きて、かぐやさんのそばにいて、そして輪廻を巡って帰ってきた、もうひとりの私。だから、あんなにも私のことを知っていた。だから、何も言わなくても分かってくれた。
そして、だからこそ。
あの子は、私にお別れの時間をくれたのだ。
「そっかぁ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。思い出すのは、お兄の笑顔だった。朝ご飯を作ってくれたこと。いつものように心配してくれたこと。最後に抱きついた私を、それ以上何も聞かずに受け止めてくれたこと。
お母さんの顔も浮かんだ。私の好きな料理を作ってくれたこと。久しぶりに帰ってきた私を、いつものように叱りながら迎えてくれたこと。そして、最後に大好きだと伝えた時、少し困ったように笑いながら頭を撫でてくれたこと。
あの時間がなかったら、私はきっと、何も伝えられないまま旅立っていた。お兄にも、お母さんにも。ありがとうも、大好きも、何ひとつ。
けれど、あの子はそれを許さなかった。私が後悔しないように。私が少しでも安心して旅立てるように。自分に残された時間を使って、私に最後の一日をくれた。
「ありがとう」
自然と、その言葉がこぼれた。もう返事をしてくれる人はいない。それでも、どうしても伝えたかった。
「ほんまに、ありがとう」
私はあの子の笑顔を思い出した。夢の中で何度も見た、優しい笑顔。
あの子は、私に言ってくれた。
『君なら、きっとできるから』
どうして、そんなことが言えるのだろうと思っていた。私はそんなに強い人間ではない。怖いことだってたくさんあるし、寂しくなれば泣いてしまう。お兄やお母さんに甘えてばかりで、お姉との関係だって自分ではどうにもできなかった。
そんな私に、どうしてあんなにも自信を持って言ってくれたのだろう。でも、今なら分かる。
あの子は、知っていたのだ。
私がこれから何度も泣くことを。何度も寂しくなって、帰りたいと思うことを。八千年という時間が、どれほど長く、どれほど孤独なものなのかを。
きっと、全部知っていた。その上で、私ならできると言ってくれた。それがどれほど優しい言葉だったのか、今になってようやく理解できた。
「ずるいなぁ。そんなこと言われたら、頑張るしかないやん」
私は笑った。
あの子は、どんな八千年を過ごしたのだろう。楽しいことはあったのだろうか。寂しい時には、誰かがそばにいてくれたのだろうか。泣きたい時には、ちゃんと泣けたのだろうか。
分からない。今の私には、何ひとつ分からなかった。
でも、ひとつだけ確かなことがあった。
あの子は、最後まで私のことを大切にしてくれた。
自分自身だと分かっていても、どこか不思議な気持ちだった。私は今まで、自分のことをそんなふうに思ったことがなかったから。
お姉のためなら頑張れる。お兄やお母さんのためなら、無理だってできる。かぐやさんを幸せにしてあげたいとも思う。でも、自分自身のために何かをしてあげたいなんて、考えたこともなかった。
それなのに、あの子は違った。
私が傷つかないように、後悔しないように、最後まで気遣ってくれた。まるで、大切な誰かを守るように。
「私も、そんなふうになれるんかな」
もう、身体はほとんど残っていなかった。指先は光になって消え、足元も見えなくなっている。意識だけが、どこか遠くへ引っ張られていくようだった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
だって、私はもう知っている。この先に、あの子がいる。八千年を生き終えて、それでも優しく笑っていた、もうひとりの私がいる。
なら、きっと大丈夫。あの子ができたのなら、私にもできるはずだから。
「ねえ、聞こえてる?」
返事はなかった。それでも私は続けた。
「私な、ほんまはまだ怖いんよ。八千年なんて、想像もできへんくらい長いし、ちゃんとやっていけるかも分からへん」
言葉にすると、少しだけ胸が苦しくなった。
「お兄にも、また会いたい。お母さんのご飯も食べたいし、お姉とも、ちゃんと仲直りしたかった」
ずっと我慢していた気持ちが、少しずつ溢れてくる。
「でもな、それでも、行くって決めたんよ」
私は、もう見えなくなった自分の手を見つめた。お姉の笑顔が浮かんだ。その隣で、楽しそうに笑うかぐやさんの姿も。
「お姉に、幸せになってほしいから。かぐやさんにも、もう一回お姉と会ってほしいから」
だから。
「私、頑張るね」
その言葉を口にした時、不思議なことに、胸の奥が少しだけ軽くなった。もうひとりの私が、優しく笑ってくれたような気がした。あの夢の中と同じように。
私は、もう一度だけ彼女のことを思い浮かべた。金色の長い髪を揺らして、少し困ったように笑う女の子。私に八千年を託してくれた、もうひとりの私。
あの子は最後に、何も言わずに消えてしまった。どうしてだろうと、ずっと思っていた。でも、今なら少しだけ分かる気がした。
きっと、あの子にとっても、お別れは寂しいものだったのだろう。
私がお兄に本当のことを言えなかったように。私がお母さんの前で涙をこらえたように。あの子も、最後まで笑っていたかったのかもしれない。
「ほんま、似た者同士やね」
自分自身なのだから、当たり前なのだけれど。そう思うと、少しだけおかしかった。
やがて、意識がさらに遠くなっていく。もう、かぐやさんの姿も見えなかった。月の民たちの声も聞こえない。ただ、温かな光だけが私を包んでいる。
これが最後なのだろう。今の私として、この世界にいられる最後の瞬間。
私は、もう一度だけ家族のことを思い出した。
お兄。お母さん。お姉。
今まで、本当にありがとう。私はみんなのことが大好きだった。そして、これからもずっと大好きだと思う。たとえ八千年という時間が流れても、絶対に忘れない。
その時、ふと、ひとつの光景が頭に浮かんだ。
いつか、遠い未来。八千年という長い旅を終えた私が、もう一度この世界に帰ってくる。その時、誰かが待っていてくれるのだろうか。
お兄は、笑って迎えてくれるだろうか。お母さんは、また私の頭を撫でてくれるだろうか。お姉は、私を見てくれるだろうか。
分からなかった。
でも、もしそんな日が来るのなら。私は、あの時言えなかった言葉を伝えたい。
ただいま。
そう言って、笑いたい。
「そっか」
私は小さく微笑んだ。だから、今はこの言葉でいいのだろう。
お兄にも、お母さんにも、お姉にも。そして、私に未来を託してくれた、もうひとりの私にも。
いつか帰ってくると信じて。八千年という、途方もなく長い旅へ向かうために。
私は、夢の彼女が見せてくれたように、できるだけ優しく笑った。
「行ってきます」
その言葉を最後に、私の意識は光の中へと遠ざかっていった。私には、それがどんな別れになるのか、まだ分からなかった。
この先の話なんですが彩葉とヤチヨの再会シーンは書きません。理由として私は原作が大好きなのであの感動の再会シーンを崩したくないのと書ける気がしないからです。基本的にこの物語は超かぐや姫!にプラスαとして書いてます。原作の物語にはほとんど介入しません。ヤチヨだけは曇らすために介入します。ごめんね
あらすじの部分にも今更ながら掲載させていただきます。