side 酒寄紅葉
私にとって、子供たちは何よりも大切な存在やった。
朝日も、彩葉も、彼方も。三人とも私がお腹を痛めて産んだ、かけがえのない子供たちや。どれだけ生意気なことを言われようと、どれだけ手を焼かされようと、その気持ちが変わったことは一度もない。あの子らが笑ってくれるだけで嬉しかったし、元気に帰ってきてくれるだけで安心できた。親になった以上、子供の幸せを願うのは当たり前のことやと、私は今でも思っとる。
せやけど、私は決して優しい母親ではなかった。少なくとも、あの子らが望んでいたような母親ではなかったんやろう。
朝久さんが生きとった頃は、もう少し違ったと思う。あの人は私と違って、子供たちに甘かった。失敗して落ち込んどる子がおれば、まず隣に座って話を聞く。何かに挑戦して上手くいかんかった時も、結果より先に頑張ったことを褒める。私が叱った後には、決まってあの人が子供たちを慰めとった。
「紅葉さん、そんなに厳しくせんでもええやないか」
何度、そう言われたことやろう。そのたびに私は、あんたが甘やかすから私が厳しくせなあかんのや、と言い返しとった。すると朝久さんは困ったように笑って、それ以上は何も言わんかった。
今になって思えば、あの人は私の厳しさを否定したかったわけやなかったんやろう。ただ、子供たちには厳しくするだけやなく、安心して甘えられる場所も必要やと、そう伝えたかったんやと思う。
私が叱って、朝久さんが慰める。私が背中を押して、朝久さんが転んだ子を起こす。どちらか一方だけでは足りんかったものを、私らは二人で補っとった。せやから、あの人が亡くなった時、私は自分がどうすればええのか分からんようになってしもうた。
悲しんどる暇なんてなかった。葬儀を終えた後も、やらなあかんことは山ほどあった。家のこと、仕事のこと、これからの生活のこと。何より、まだ幼い子供たちを育てていかなあかんかった。朝久さんがおらんようになったからといって、子供たちの人生まで止めるわけにはいかん。そう思って、私は必死に働いた。
泣きたい時もあった。誰かに弱音を吐きたい夜もあった。けれど、私が崩れてしもうたら、あの子らは誰を頼ればええんやろう。そう考えると、子供たちの前で涙を流すことすら怖かった。そして、いつの間にか私は、一つの考えに取り憑かれるようになっとった。
この子らを、誰にも頼らんでも生きていける人間に育てなあかん。
人間は、いつ死ぬか分からん。昨日まで当たり前のように隣におった人が、今日にはもうおらんようになる。どれだけ大切に思っとっても、どれだけ一緒にいたいと願っても、そんなもんは何の保証にもならへん。私はそれを、朝久さんを失って嫌というほど思い知らされた。
いつか私までおらんようになった時、あの子らが途方に暮れることだけは避けたかった。誰かの助けがなければ何もできんような大人にはなってほしくなかった。自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の人生を選べる人間になってほしかった。そのためには、多少厳しくしてでも自立させる必要がある。私は、そう信じとった。
今でも、その考えの全部が間違っとったとは思わへん。ただ、あの頃の私は大切なことを一つ忘れとったんやと思う。子供が一人で歩けるようになることと、一人で歩かせ続けることは、同じやない。そんな当たり前のことに、私は随分と長い間、気づけへんかった。
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長男の朝日は、朝久さんによく似た子やった。
顔立ちもそうやけど、何より人のことを放っておけへんところが似とった。自分のことより先に妹たちの心配をして、私が仕事で遅くなる日には、頼んでもおらんのに家のことを手伝ってくれた。小さい頃から、あの子には随分と助けられたと思う。
せやけど、私はそれを素直に褒めてやることが少なかった。朝日が家事を手伝ってくれても、感謝するより先に、自分のことはちゃんとできとるんかと聞いてしもうた。妹たちの面倒を見てくれた時も、無理せんでええと言ってやればよかったのに、いつまでも兄に頼らせたらあかんと注意することの方が多かった。
朝日はそんな私の言葉にも、怒ることなく頷いとった。あの子は昔から、自分のやりたいことを自分で決められる子やった。興味を持ったことには積極的に取り組んで、必要な努力も惜しまへん。失敗しても、いつまでも落ち込んだりせず、次はどうすればええかを考える。もちろん、何もかも完璧やったわけやない。人並みに悩むこともあれば、失敗することもあった。それでも朝日は、自分の進む道を自分で選ぼうとしとった。
せやから、あの子が東京へ行きたいと言い出した時も、私は反対せんかった。
突然の話やったし、寂しくなかったと言えば嘘になる。家から朝日がおらんようになれば、今まであの子が担っとったものを私が引き受けなあかん。それに、離れて暮らすとなれば、何かあってもすぐに駆けつけてやれるとは限らへん。それでも、朝日は自分で考えて決めたんや。私が口を挟むことやない。
「ちゃんと考えて決めたんやな?」
そう聞くと、朝日は迷うことなく頷いた。
「ええよ、行ってきなさい。自分で決めたことなんやから、最後まで責任持つんやで」
私がそう言うと、朝日は少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。その笑顔を見た時、私はようやく安心できた気がした。ああ、この子はもう大丈夫なんやな。いつまでも私が手を引いてやらんでも、自分で行きたい場所を見つけて、そこへ向かって歩いていける。朝久さんがおらんようになってから、ずっと願い続けてきたことが、一つ叶ったように思えた。
ただ、家を出ていく朝日の背中を見送った時、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような寂しさを覚えたのも事実やった。
あの子は振り返って、私に手を振ってくれた。私はそれに、小さく手を上げて応えた。本当は、もっと言いたいことがあった。体には気をつけなさい。ちゃんとご飯を食べなさい。困ったことがあったら連絡してきなさい。たまには帰ってきなさい。そんな言葉がいくつも浮かんだのに、結局、私は最後まで口にできへんかった。
自立した息子に、いつまでも母親があれこれ言うもんやない。そう思っとったからや。けれど、今なら分かる。心配しとることを伝えるのと、自立を妨げることは、別の話やったんやろう。
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長女の彩葉は、朝日とは正反対の子やった。
あの子は昔から、優しくて、周りのことをよく見とる子やった。人の顔色の変化にはすぐ気づくし、誰かが困っとれば、自分にできることを探そうとする。朝久さんが生きとった頃は、よくあの人の隣でピアノを弾いとった。
あの頃の彩葉は、音楽が大好きやった。朝久さんに褒められると、それはもう嬉しそうに笑うんや。新しい曲を弾けるようになった日には、私が仕事から帰るのを待ち構えて、聞いてほしいとせがんできたこともあった。
けれど、私にはそれが心配やった。
あの子は何かを決める時、いつも周りの反応を気にしとった。自分がどうしたいかよりも、誰かが喜んでくれるか、褒めてくれるかを先に考える。上手くいかんことがあれば、すぐに自信をなくしてしまう。私には、それが甘さに見えた。誰かに認めてもらわな、自分の価値を見つけられへん。褒めてもらわな、努力を続けられへん。そんなままで大人になったら、いつか必ず苦労する。そう思っとった。
せやから私は、彩葉には特に厳しく接した。結果を出せへんかった時には、何が足りんかったのかを考えさせた。中途半端な努力で満足しとるように見えた時には、もっと上を目指せと言った。周りの評価ばかり気にしとるように見えた時には、人の目やなく自分で決めなさいと叱った。けれど、彩葉は私が厳しくすればするほど、反発するようになっていった。
「お母さんには分からへん!」
何度、そう言われたことやろう。そのたびに私は腹を立てた。分からんわけないやろ。あんたのことを思って言うとるんや。親が子供の将来を心配して、何が悪いんや。そう思って、さらに厳しい言葉を返した。
私らの喧嘩は、いつも同じような終わり方をした。彩葉が怒って部屋に戻るか、私が話を打ち切るか。どちらかが折れることは、ほとんどなかった。それでも、私は彩葉のことが嫌いやったわけやない。むしろ、あの子のことが心配で仕方なかった。
朝日は放っておいても自分の道を見つけられる。彼方も、自分のやりたいことをはっきり口にできる。けれど彩葉だけは、いつまでも誰かの言葉に振り回されとるように見えた。この子は、私がおらんようになったらどうするんやろう。誰かに否定された時、立ち上がれるんやろうか。大切なものを失った時、自分の足で歩いていけるんやろうか。その不安が、私をますます厳しくさせた。
今思えば、私は彩葉の弱いところばかり見ようとしとったんやろう。あの子がどれだけ努力しとったのか。何を大切にして、何に悩んでいたのか。そんなことを、私はどれほど理解できとったんやろう。
私が望む強さと、彩葉が持っとる強さは、必ずしも同じやなかった。けれど当時の私は、自分の考えが正しいと疑いもせんかった。あの子がいつか大人になった時、私の言っとったことを理解してくれる。今は嫌われても構わへん。いつか一人で生きていけるようになるなら、それでええ。そう自分に言い聞かせとった。
ただ、本当にそれだけやったんやろうか。彩葉に言い返されるたび、私は腹を立てとった。あの子が私の言葉を受け入れへんことが、どうしても許せへん時があった。子供のためやと思っとった厳しさの中に、私自身の意地が混じっとったんやないか。そのことを認めるのは、今でも辛い。
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そして、末っ子の彼方。
あの子は、三人の中でも特に手のかからん子やった。何をやらせても覚えるのが早く、興味を持ったことにはとことん夢中になる。学校の勉強でも、習い事でも、何かを競うことになれば、決まって一番を取りたがった。負けず嫌いで、少し頑固で、思ったことをすぐ口にする。負けた時には、それはもう分かりやすく不貞腐れとった。
口を尖らせて、悔しそうに俯いて、それでもしばらくすると、もう一回やると言い出す。泣きながらでも諦めへん。自分が納得するまで、何度でも挑戦する。そんな子やった。
朝日と同じように、やりたいことを自分で見つけられる。それでいて、朝日とは違う危なっかしさもあった。夢中になると周りが見えんようになるし、勝ちたいという気持ちが強すぎて、無理をすることもあった。けれど私は、そんな彼方を頼もしく思っとった。
あの子なら、きっと大丈夫や。誰かに言われんでも、自分の進む道を見つけられる。失敗しても、悔しがりながら立ち上がれる。私は、そう信じとった。
それに彼方は、三人の中で一番の甘えん坊でもあった。朝日はある程度大きくなると、私に甘えることが少なくなった。彩葉も、私と喧嘩するようになってからは、必要以上に近づいてこようとはせんかった。けれど彼方だけは、いつまでも変わらへんかった。
「お母さん!」
仕事から帰ってくると、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「今日な、私、一番やってん!」
そう言って、得意げに結果を見せてくる。私が「そうか、よう頑張ったな」と返すと、あの子はそれだけで満足そうに笑った。
時には、私が疲れて座っとるところへやって来て、何も言わず隣に座ることもあった。しばらくすると、そっと体を寄せてくる。
「なんや、彼方。どうしたん?」
「んー、なんでもない」
「なんでもないなら、自分の部屋に戻りなさい」
「もうちょっとだけ」
そう言って、私の腕にしがみついてくる。私は呆れたようにため息をつきながらも、結局は好きにさせとった。
甘やかしたらあかん。そう思っとったはずなのに、彼方にはどうしても甘くなってしまうことがあった。あの子は、自分の進む先を自分で決められる子やった。人に甘えることはあっても、何もかも人任せにすることはなかった。せやから私は、彼方の甘えをそれほど心配してへんかった。
甘えん坊ではあるけれど、甘ちゃんではない。私の中では、そういう子やった。
何より、あの子は私に愛情を伝えることを躊躇せんかった。
「お母さん、大好き!」
何か特別なことがあったわけでもないのに、突然そんなことを言ってくる。
「急になんやの」
「言いたくなっただけ!」
そう言って笑うんや。私は照れくさくて、いつもまともに返事をしてやれへんかった。
「はいはい。分かったから、宿題は終わったん?」
そんなふうに話を逸らすと、彼方は少し不満そうな顔をする。それでも、すぐにまた笑ってくれた。
今になって思う。どうして、あの時に一度でも言ってやらへんかったんやろう。私も大好きやで、と。たったそれだけの言葉を、どうしてあんなにも惜しんでしまったんやろう。
彼方は私にとって、目に入れても痛くないほど可愛い子やった。もちろん、朝日や彩葉と比べて愛情に差があったわけやない。ただ、あの子は私が表に出すことのできへんかった愛情を、何のためらいもなく言葉にしてくれた。
私はそれに、どれだけ救われとったことやろう。
朝久さんがおらんようになってから、私の毎日は余裕のないものになっとった。仕事から帰れば家事が待っとるし、子供たちのことを考えれば心配事も尽きへん。そんな日々の中で、彼方が笑いながら抱きついてくる時間だけは、私も少し肩の力を抜くことができた。あの子の前では、強い母親でおらなあかんという気持ちを、ほんの少しだけ忘れられたんやと思う。
せやけど、私はその大切な時間まで、自分の手で壊してしもうた。
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あの日のことは、今でも忘れられへん。
朝日はすでに東京へ行っていて、家には私と彩葉と彼方の三人が暮らしとった。朝日が家を出てから、家の中は以前より静かになっとったけれど、それでも彼方が彩葉に話しかける声や、二人が何かをして笑い合う声が聞こえることはあった。
彩葉とは、それまでにも何度となく喧嘩をしとった。意見がぶつかること自体は、珍しいことやなかった。けれど、あの日はいつもと違った。
何がきっかけやったのか、今となっては細かいところまで覚えとらん。ただ、彩葉が私の言葉に反発して、私も引くに引けんようになって、互いに声を荒らげていったことだけは覚えとる。
「だから、それが嫌だって言ってるでしょ!」
「嫌やからって、それで済む問題やないやろ」
「私の人生じゃん!」
「子供が何を分かったようなこと言うてんの!」
口にした瞬間、彩葉の顔が歪んだ。それでも、私は止まれへんかった。
私の人生。あの子の言葉が、どうしても引っかかったんや。もちろん、彩葉の人生は彩葉のものや。そんなことは分かっとる。私かて、あの子の人生を全部決めてやろうなんて思っとったわけやない。
けれど、まだ子供の彩葉が、自分の将来についてどこまで理解できとるというんやろう。今は好きなことだけをして生きていけると思っとっても、大人になればそうはいかへん。努力しても報われんことなんて、いくらでもある。それを教えるのが親の役目やと、私は思っとった。
せやから、彩葉の言葉を聞いた時、私はあの子が私の心配を何一つ理解してへんように感じてしもうた。私がどんな思いで働いて、どんな思いであんたらを育てとると思うてるんや。そんな感情が、次から次へと湧いてきた。
そして、言わんでもええことまで口にしてしもうた。
朝久さんのことや。
あの人が生きとったら、きっと彩葉の味方をしたやろう。そう思った途端、余計に腹が立った。あの人は優しかった。けれど、その優しさが彩葉を甘くしてしまったんやないか。そんなことを口にした。
今考えれば、随分と身勝手な言い分やった。朝久さんは、もう何も言い返せへんのに。彩葉にとっても、大好きやった父親やのに。
私がその名前を持ち出した時、彩葉の目つきが変わった。
「お父さんは関係ないでしょ!」
その声は、今でも耳に残っとる。
私も、そこでやめればよかった。これ以上話しても、互いに傷つけ合うだけや。少し時間を置いて、落ち着いてから話せばええ。普段の私なら、そう考えられたんかもしれへん。
けれど、あの日の私はできへんかった。彩葉が言い返すたびに、私も言い返した。親に向かってその口の利き方はなんや。自分のことばっかり考えて、少しは現実を見なさい。そんな言葉を重ねていくうちに、私はいつの間にか、彩葉に何を伝えたかったのかさえ分からんようになっとった。
ただ、あの子に自分の言葉を認めさせたかった。
そして、彩葉がまた何かを言い返した時やった。
気がつけば、私の手が上がっとった。
叩こうと思っていたのか。今でも、その問いに簡単には答えられへん。ただ一つ確かなのは、あの瞬間、私は自分の怒りを抑えられへんかったということや。
振り上げた手の先で、彩葉が目を閉じた。あの子が身を固くしたのが見えた。その姿を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。私は、何をしようとしとるんや。そう思った時には、もう遅かった。
「もぉやめて!」
小さな声が響いた。
次の瞬間、私と彩葉の間に、彼方が飛び込んできた。両腕を大きく広げて、彩葉を庇うように立っとった。
泣いとった。あの子は、顔をくしゃくしゃにして泣いとった。肩も、足も、小さく震えとった。それでも、私の前から退こうとはせんかった。
「彼方……」
名前を呼んでも、返事はなかった。彼方はただ、私を見上げとった。その目を見た瞬間、胸が締めつけられた。
怖がっとる。あの子は、私を怖がっとるんや。
毎日のように抱きついてきて、大好きやと言ってくれた子が、今は私から姉を守ろうとしとる。
私はゆっくりと手を下ろした。何か言わなあかんと思った。ごめんなさい。怖がらせてしもうたな。もう大丈夫やで。そう言って、彼方を安心させてやらなあかんかった。けれど、言葉が出てこんかった。
私はただ、立ち尽くすことしかできへんかった。
彼方はそんな私から彩葉を守るように、しっかりと両腕を広げとった。そして、泣きながら言ったんや。
「お姉は私が助ける。私が守る」
その言葉を聞いた時、私は何も言えへんかった。
彼方は、昔から彩葉のことが大好きやった。彩葉がピアノを弾いとれば、隣に座って嬉しそうに聞いとった。彩葉が何かを教えてやれば、目を輝かせて喜んどった。小さい頃には、何をするにも彩葉の後をついて回っとった。
せやから、姉を守ろうとしたこと自体は、何も不思議やなかったんやろう。けれど、私はその言葉を聞いて、初めて自分が何をしてしもうたのかを理解した気がした。
あの子にとって私は、守ってくれるはずの母親やった。その母親から、大好きな姉を守らなあかんと思わせてしもうたんや。どれほど怖かったやろう。どれほど勇気が必要やったやろう。まだ幼いあの子に、そんなことをさせてしもうた。
私は、母親失格や。そう思った。
けれど、本当に取り返しがつかんようになったのは、その後やった。
「あんたに守られなあかんほど、私は弱くなんかない!」
彩葉が叫んだ。
彼方が驚いたように振り返った。
「……お姉?」
その声は、ひどく小さかった。彩葉は泣きそうな顔をしとった。怒っとるようにも、傷ついとるようにも見えた。
彼方が何か言おうとして手を伸ばすと、彩葉はその手を振り払った。乾いた音がした。彼方の手が宙に取り残された。あの子は、何が起きたのか分からんような顔をしとった。
私はすぐに二人の間に入るべきやった。彩葉を落ち着かせて、彼方に悪気がなかったことを伝えてやるべきやった。そもそも、こんなことになった原因は私にあるんやと、きちんと謝るべきやった。
けれど、私は動けへんかった。
彩葉がどうしてあんなことを言ったのか、理解できへんかったんや。彼方は、あんたを守ろうとしてくれたんやで。怖い思いをしながら、あんたのために立ち上がってくれたんやで。どうして、そんな子にあんな言葉を言えるんや。そう思った。
けれど、今なら少しだけ分かる気がする。
私はずっと、彩葉に一人で立てと言い続けてきた。誰かに頼るな、自分で何とかしなさい、もっと強くなりなさいと、何度も何度も言い聞かせてきた。そんな彩葉にとって、妹から守ってあげると言われることが、どれほど辛かったんやろう。
自分は妹に守られなあかんほど弱い人間なんやと、そう突きつけられたように感じたんかもしれへん。もちろん、それが彩葉の本心やったのかは分からん。私は、あの子の気持ちをきちんと聞いたことがなかったからや。
ただ、もしそうやったとしたら。彼方の優しさを素直に受け取れんようにしてしもうたのも、私やったんやろう。
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あの日を境に、家の中の何かが変わった。
朝日はもう東京で暮らしとったから、家に残されていたのは私と彩葉と彼方の三人だけやった。もともと賑やかやった家から朝日がいなくなり、少し寂しくなったとは感じとった。それでも、彩葉と彼方が二人で話したり、何かをして笑い合ったりする声が聞こえるだけで、家の中にはまだ温かさが残っとった。
けれど、あの日からは、その声さえ聞こえんようになっていった。
最初に気づいたのは、彼方が彩葉の後をついて回らんようになったことやった。それまでは、彩葉がどこかへ行こうとすると、彼方も一緒に行きたがった。彩葉がピアノを弾いとれば隣に座って聞いとったし、何か嬉しいことがあれば、真っ先に彩葉に報告しとった。
けれど、あの日からは違った。彩葉がリビングに入ってくると、彼方は少しだけ身を固くするようになった。話しかけたいんやろうと思うことは何度もあった。彼方は彩葉の方を見て、何か言おうとして口を開く。けれど、結局は何も言わず、視線を逸らしてしまう。彩葉もまた、彼方にどう接してええのか分からんようやった。
二人が新しく喧嘩をしたわけやない。少なくとも、私の見とるところでは、あの日以降、激しく言い争うようなことはなかった。ただ、話さなくなったんや。それまで当たり前のように交わされとった言葉が、少しずつ減っていった。
夕食の時間が、特に辛かった。朝日が家におった頃は、あの子が何かと話題を持ち出してくれた。彩葉が不機嫌な時でも、彼方が黙り込んどる時でも、朝日は気にせず話しかけて、いつの間にか食卓を賑やかにしてくれとった。けれど、今はそんな朝日もおらへん。
私が何か聞けば返事は返ってくる。けれど、彩葉と彼方が互いに話しかけることはほとんどなかった。食器の触れ合う音だけが響く食卓で、私は何度も話題を探した。学校のこと、今日あったこと、明日の予定。何を聞いても、二人は必要なことだけを答えて、それ以上は話そうとせんかった。
最初は、少し時間が必要なんやと思っとった。姉妹の間で気まずいことがあったんや。時間が経てば、また元に戻るやろう。そう考えとった。けれど、何日経っても、何週間経っても、二人の関係は元に戻らへんかった。
それどころか、彼方の様子は少しずつ変わっていった。
あれほど負けず嫌いやった子が、勝ち負けにこだわらんようになった。以前なら、一番を取れへんかった時には悔しがって、次こそはと意気込んどった。けれど、ある日、思うような結果を出せへんかった彼方に声をかけると、あの子は何でもないことのように笑った。
「別にええよ。そんなに大したことやないし」
私は耳を疑った。
「彼方、あんた悔しないんか?」
「うん。別に」
そう言って、彼方は笑った。けれど、その笑顔は私の知っとるものとは違っとった。悔しさを隠して笑っとるんやない。負けたことに納得して笑っとるわけでもない。何と言えばええんやろう。最初から、何も期待してへんような笑い方やった。
私はそれが、どうしようもなく気になった。以前なら、私が何も言わんでも自分から次の目標を決めとった。できへんことがあれば、できるようになるまで挑戦しとった。それが、いつの間にかなくなっとった。
何かをしたいと言うことも減った。私が何かを勧めても、返ってくるのは決まって似たような言葉やった。
「どっちでもええよ」
「お母さんの好きな方でええ」
「私は大丈夫やから」
そのたびに、胸の奥がざわついた。
私は子供たちに、自分の意見を持ちなさいと言い続けてきた。特に彩葉には、何度もそう言ってきた。それなのに、今まで誰よりもはっきり自分の考えを口にしとった彼方が、何も言わんようになってしもうた。
以前の私なら、きっと叱っとったやろう。自分のことなんやから、自分で決めなさい。そう言って、あの子に考えさせたはずや。けれど、彼方には言えへんかった。あの子が変わってしもうた理由に、心当たりがあったからや。
私が彩葉に手を上げようとした、あの日。彼方が泣きながら私たちの間に入ってきた、あの日。あれから、あの子は変わってしもうた。その事実を、私はどうしても無視できへんかった。
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ある夜、仕事を終えて帰宅した時のことやった。
家の中は静まり返っとった。彩葉は自分の部屋におるようで、彼方の姿も見えへんかった。夕食の片づけを済ませ、廊下を歩いていた時、どこからか小さな声が聞こえてきた。最初は何の声か分からんかったけれど、足を止めて耳を澄ますと、それが彼方の部屋から聞こえてくる泣き声やと気づいた。
私は思わず足を止めた。
扉の向こうで、あの子が泣いとった。声を押し殺すように、何度も息を詰まらせながら。誰にも聞かれんようにしとるんやろう。時折、鼻をすする小さな音がして、それからまた静かになる。しばらくすると、堪えきれんように泣き声が漏れてくる。
私は扉に手を伸ばしかけた。どうしたんや。何か嫌なことでもあったんか。そう聞いてやろうと思った。けれど、手が止まった。
あの日の彼方の顔が、頭に浮かんだからや。
泣きながら私を見上げとった、あの子の顔。私が彩葉に手を上げようとした時、怖がりながらも二人の間に立ったあの子の姿が、どうしても忘れられへんかった。
今、私が部屋に入っていったら、彼方はどうするやろう。また、無理に笑うんやないやろうか。何でもない、大丈夫やと言って、涙を隠すんやないやろうか。そんなことを考えてしもうた。
結局、私は扉を開けられへんかった。しばらくその場に立ち尽くしてから、足音を立てんように廊下を戻った。
情けない話や。自分の子供が泣いとるのに、母親の私が何もしてやれへんかった。
それからも、彼方が一人で泣いとることは何度かあった。いつも声を殺して、誰にも聞かれんように泣いとった。翌朝になれば、あの子は何事もなかったように食卓に座って、私が話しかければ穏やかに笑った。目元が少し赤くなっとることもあったけれど、私が心配して声をかけると、決まって同じような返事が返ってきた。
「大丈夫やで、お母さん」
その言葉を聞くたびに、胸が痛んだ。大丈夫なわけないやろう。そう言って抱きしめてやりたかった。けれど、私は何も言えへんかった。自分が傷つけた子供に、どんな顔をして手を伸ばせばええのか分からんかったんや。
それでも、私は母親やった。分からんからといって、何もせんでええわけやなかった。そのことを、私は頭では理解しとった。けれど、理解しとることと、実際に行動できることは違った。
私はずっと、子供たちに強くなれと言い続けてきた。失敗しても立ち上がりなさい。怖くても前に進みなさい。自分のことは自分で決めなさい。そう教えてきた。それなのに、いざ自分が間違えた時には、その間違いと向き合うことすらできへんかった。
何とも情けない母親やと思う。
彼方が私に甘えてこんようになったのは、いつ頃からやったやろう。はっきりとした日は覚えとらん。ただ、ある時ふと気づいたんや。仕事から帰ってきても、以前のように駆け寄ってくる子がおらへんことに。
玄関を開けると、家の奥から「おかえり」と声はする。けれど、彼方が嬉しそうに走ってくることはなくなっとった。私がリビングで休んどっても、隣に座って体を寄せてくることはない。学校で何かあった時も、自分から報告してくることが減った。
私は最初、それを成長やと思おうとした。彼方も大きくなったんや。いつまでも母親に甘えとる年齢やない。自分のことを自分で考えられるようになったんやろう。そう思えば、少しは気が楽になった。
けれど、心のどこかでは分かっとった。あの子は、ただ成長しただけやない。自分から私との距離を置くようになったんや。
ある日の夕方、彼方がリビングに入ってきたことがあった。私は食卓で書類を整理しとった。彼方は私の隣まで来ると、何か言いたそうに立ち止まった。
「なんや、彼方?」
私が尋ねると、あの子は少し迷ったような顔をした。
「……ううん。なんでもない」
「何か用事があるんやないの?」
「大丈夫。お母さん、忙しそうやし」
そう言って、彼方は部屋へ戻っていった。
私はその背中を、黙って見送った。以前の彼方なら、私が忙しくしとっても構わず話しかけてきたやろう。今日こんなことがあった。こんなことができるようになった。これを見てほしい。そう言って、私の都合なんてお構いなしに笑っとった。
私はそのたびに、今は忙しいから後にしなさい、と叱ることもあった。けれど、あの子は少しも懲りへんかった。そんな彼方が、今は私の顔色を窺っとる。私が忙しそうにしとれば、何も言わずに引き下がる。何か聞いても、困らせんようにと笑って答える。
まるで、私の邪魔にならんように気をつけとるみたいやった。
そのことに気づいた時、私はようやく理解した。彼方は、私に甘えることができんようになったんや。甘えたくなくなったんやない。甘えてもええと思えんようになったんかもしれへん。
もちろん、本当のところは分からん。あの子が何を考えとるのか、私は聞けてへんかったからや。けれど、少なくとも以前のように、何のためらいもなく私に近づいてくることはなくなっとった。
それが、たまらなく寂しかった。
自分でそうさせておいて、勝手な話やと思う。私は子供たちに自立してほしかった。誰かに頼らんでも、自分の足で歩いていけるようになってほしかった。せやけど、こんな形で離れていってほしかったわけやない。
あの子が笑って、自分の好きなことをして、時には失敗して、それでも前を向いて歩いていく。そんな姿を見たかっただけなんや。決して、何も望まんようになってほしかったわけやない。
それなのに、私が望んだ強さとは、まるで違うものを、彼方は身につけようとしとった。誰にも迷惑をかけへんこと。誰にも心配をかけへんこと。自分の気持ちを押し殺してでも、周りを安心させること。それを強さやと思うようになってしもうたんやとしたら、私はあの子に何を教えてきたんやろう。
彼方が変わっていくのを見るたび、私は彩葉のことも考えるようになった。
あの子にも、同じようなことをしてきたんやないやろうか。
彩葉は、私に何度も反発しとった。そのたびに私は、あの子が甘いからやと思っとった。努力が足りへんから、私の言葉を素直に受け入れられへんのやと。けれど、本当にそうやったんやろうか。
私に否定されるたび、あの子はどんな気持ちやったんやろう。頑張ったことを認めてほしかったんやないやろうか。上手くいかんかった時、責めるより先に話を聞いてほしかったんやないやろうか。
朝久さんが生きとった頃、彩葉はあの人に何でも話しとった。嬉しいことも、悲しいことも、悔しいことも。あの人は、いつも最後まで聞いとった。私はそれを、甘やかしすぎやと思っとった。
けれど、朝久さんがおらんようになってから、彩葉は誰に話を聞いてもらっとったんやろう。私には、ほとんど話してくれへんかった。いや、違う。話してくれへんかったんやない。話そうとしてくれた時に、私が聞こうとせんかったんかもしれへん。
私は、彩葉が何か言うたびに、それが正しいか間違っとるかを判断しようとしとった。あの子が何を感じたのかより、これからどうすべきかを先に考えとった。親として、間違ったことを教えるわけにはいかん。そう思っとったからや。
けれど、子供が親に話しかける時、いつも正しい答えを求めとるとは限らへん。ただ聞いてほしい時もある。頑張ったな、と言ってほしい時もある。何も言わず、隣に座っていてほしい時もある。
朝久さんは、きっとそれを分かっとったんやろう。私は、分かってへんかった。
あの人が亡くなった時、私は父親の分まで頑張らなあかんと思っとった。母親としても、父親としても、あの子らを立派に育てなあかん。そう自分に言い聞かせて、必死になっとった。
けれど私は、朝久さんの分まで一人で背負い込む必要なんてなかったんや。あの人が子供たちに与えとった安心を、少しでも残してやるべきやった。そのことに気づいた時には、もう随分と時間が経っとった。
彩葉は私に心を開かんようになり、彼方は誰にも弱音を吐かんようになっとった。東京にいる朝日には、家で起きとることを詳しく話せへんかった。電話がかかってきても、元気にしとるかと聞いて、仕事や生活のことを尋ねるだけで終わってしまう。
朝日は時々、妹たちはどうしとるんやと聞いてきた。私はそのたびに、二人とも元気にしとると答えとった。嘘をつくつもりやったわけやない。ただ、何をどう説明すればええのか分からんかったんや。朝日が東京で自分の道を歩こうとしとるのに、家のことで余計な心配をかけたくないという気持ちもあった。
けれど、そんなふうに言い訳をして、私はまた一つ、向き合わなあかんことから逃げとったんやと思う。
私は三人とも自立した子に育てたかった。それなのに、気がつけば、家に残った二人は私の知らんところで何かを抱え込むようになっとった。朝日もまた、遠く離れた東京で、家族のことをどこまで心配しとるのか分からへん。
それが、私の望んだ家族の姿やったんやろうか。
そんなはず、あるわけない。
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ある日、押し入れの整理をしとった時、古いアルバムを見つけた。
朝久さんが生きとった頃の写真が、何枚も収められとる。家族で出かけた時の写真。誕生日の写真。学校の行事で撮った写真。どの写真にも、今より幼い子供たちが写っとった。
朝日は妹たちの隣で少し得意げに笑っとる。彩葉はピアノの前に座って、嬉しそうにこちらを見とる。彼方は、どの写真でもじっとしておらん。誰かに抱きついとるか、何かを指さしとるか、満面の笑みを浮かべとる。
その中に、彼方が私に抱きついとる写真があった。
まだ幼い彼方が、私の腰にしがみついて笑っとる。私は少し困ったような顔をしながらも、あの子の頭に手を置いとった。誰が撮ったんやったやろう。たぶん、朝久さんやと思う。あの人は、家族の何でもない瞬間を写真に残すのが好きやった。
私はその写真を、しばらく眺めとった。
あの頃の彼方は、私に触れることを少しも怖がらんかった。私がどれだけ厳しい顔をしとっても、構わず抱きついてきた。叱られた後でも、しばらくすればまた隣に座ってきた。あの子にとって、私は安心できる存在やったんやろう。少なくとも、そうであってほしいと思う。
けれど今の彼方は、私に触れようとせえへん。私が頭を撫でようとしても、少し驚いたような顔をする。それでも、嫌がることはない。ただ、どこか遠慮がちに笑うんや。
その笑顔を見るたびに、私は胸が苦しくなる。
怒ってくれたら、まだよかった。どうしてあんなことをしたんやと、責めてくれたらよかった。怖かった、嫌やった、悲しかったと、泣きながら訴えてくれたらよかった。そしたら私は、あの子の気持ちを聞くことができたんかもしれへん。
けれど彼方は、何も言わへん。大丈夫やと笑う。何でもないと首を振る。まるで、自分が傷ついたことよりも、私を困らせんことの方が大切やとでも言うように。
そんな姿を見るたび、私は思う。あの子は、いつからこんなふうに笑うようになったんやろう。そして、その笑顔を見て安心しようとしとる私は、どれだけ卑怯なんやろう。
彼方が大丈夫やと言ってくれれば、私はそれ以上踏み込まんで済む。あの子が笑ってくれれば、まだ取り返しがつくんやと思える。私は、あの子の優しさに甘えとったんや。
甘えるなと教えてきた私が、誰よりも子供の優しさに甘えとった。それに気づいた時、情けなくて仕方なかった。
私は、子供たちに幸せになってほしかった。その気持ちだけは、今でも嘘やない。
朝日には、自分の選んだ道を胸を張って歩いてほしかった。彩葉には、誰かの評価に振り回されず、自分の大切なものを見つけてほしかった。彼方には、あの負けず嫌いなところを失わず、好きなことに夢中になって生きてほしかった。
そのために、私は厳しくしてきた。甘やかすことが愛情やとは思わへんかったし、今でもそうは思わへん。けれど、厳しくすることだけが愛情やったわけでもない。失敗した子供を叱ることと、失敗した子供の気持ちを受け止めることは、両立できたはずや。自分の足で立ちなさいと教えながら、疲れた時には帰ってきてもええんやと伝えることもできたはずや。
私は、それをせんかった。
子供たちが一人で生きていけるようになることばかり考えて、今、この瞬間のあの子らが何を必要としとるのかを見ようとせんかった。朝久さんがおらんようになった時、私はあの子らを守らなあかんと思った。けれど、守るということを、私は勘違いしとったんかもしれへん。
傷つかんように強く育てること。誰にも頼らんで済むようにすること。どんな困難にも負けへん人間にすること。そればかり考えとった。けれど、人間はどれだけ強くなっても、傷つく時は傷つく。どれだけ立派になっても、誰かに甘えたい夜はある。そんな時に、帰ってこられる場所を残しておくことも、親の役目やったんやろう。
私は、あの子らにとってそんな場所になれとったんやろうか。
朝日は、私に弱音を吐くことがほとんどなかった。彩葉は、私に悩みを話そうとせんようになった。彼方は、私の前で泣かんようになった。三人とも、私が望んだ通りに自分のことを自分で抱え込むようになったんやとしたら、それは本当に喜ぶべきことなんやろうか。
私は子供たちを愛しとった。けれど、愛しとるだけでは足りへんかった。伝えなあかんかったんや。言葉にして、態度にして、何度でも。あんたらがどんなに失敗しても、どんなに情けない姿を見せても、私にとって大切な子供であることは変わらへんのやと。
そのことを、ちゃんと伝えてやらなあかんかった。
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夜、家の中が静かになってから、私は一人で食卓に座ることがある。
子供たちが小さかった頃は、この時間になっても家の中が賑やかなことがあった。朝日と彼方が何かで言い争っとったり、彩葉がピアノを弾いとったり。彼方が眠れへんと言って、私のところへやって来ることもあった。私はそのたびに、早く寝なさいと叱っとった。
今は、そんな声も聞こえへん。
朝日は東京で暮らしとる。彩葉と彼方はそれぞれ自分の部屋におって、必要なことがなければ出てこようとせん。以前なら、二階から二人の話し声が聞こえてくることもあった。彩葉が彼方に何かを教えとる声や、彼方が楽しそうに笑う声。時には、二人で何かを言い争っとることもあったけれど、それさえ今となっては懐かしい。
静かな家の中で時計の音を聞いとると、時々、どうしようもなく昔が恋しくなる。朝久さんがおった頃。朝日がまだ幼くて、彩葉が嬉しそうにピアノを弾いて、彼方が私に抱きついてきた頃。
あの頃に戻れたら、私は何をするやろう。
きっと、同じように子供たちを叱ることもあるんやと思う。危ないことをしたら叱るし、間違ったことをしたら正す。親として、教えなあかんことは教える。けれど、今度はもう少し、話を聞いてやりたい。
朝日が無理をしとったら、頑張りすぎんでええと言ってやりたい。彩葉が何かに悩んどったら、答えを出す前に、あの子の言葉を最後まで聞いてやりたい。彼方が甘えてきたら、忙しいから後にしなさいなんて言わず、少しだけ手を止めて抱きしめてやりたい。
そして、あの子が大好きやと言ってくれたら、私も大好きやでと、今度こそちゃんと言ってやりたい。
そんなことを考えて、私は小さく息を吐いた。
過去には戻れへん。どれだけ後悔しても、あの日振り上げた手がなかったことにはならへんし、彼方が流した涙も消えへん。彩葉に言ってしもうた言葉も、取り消せへん。
せやけど、私はどうすればええんやろう。
今さら優しくしたところで、あの子らはどう思うやろう。急に態度を変えた私を、不審に思うんやないやろうか。これまで散々厳しいことを言ってきたくせに、今さら何を言うとるんやと、そう思われても仕方ない。
それに、私の考えが全部間違っとったとも思えへん。子供たちには、自分の足で立てる人間になってほしい。そのために必要な厳しさまで捨ててしまうことが、本当にあの子らのためになるんやろうか。
私は、何が正しいのか分からんようになっとった。
ふと、廊下の方から小さな物音がした。
顔を上げると、彼方が立っとった。
「……お母さん、まだ起きとったん?」
「ちょっと考え事しとっただけや。あんたこそ、こんな時間にどうしたん?」
「喉渇いたから、お水飲みに来たんよ」
「そうか」
彼方は台所へ向かい、コップに水を注いだ。昔なら、私の隣に座って何か話し始めたやろう。学校であったことや、最近夢中になっとること。私が聞かんでも、あの子は次から次へと話してくれた。けれど今の彼方は、水を飲み終えると、コップを片づけて部屋へ戻ろうとした。
「彼方」
気がつけば、私はあの子を呼び止めとった。
「ん? どうしたん、お母さん」
振り返った彼方は、いつものように穏やかに笑っとった。私は、その顔を見つめた。謝りたいことなら、いくらでもある。聞きたいことも、伝えたいことも、山ほどある。けれど、いざあの子を前にすると、上手く言葉が出てこんかった。
彼方は不思議そうに首を傾げた。
「お母さん?」
その声を聞いて、私はようやく口を開いた。
「……明日、何か食べたいもんある?」
自分でも、情けない質問やと思った。もっと言うべきことがあったはずや。けれど、今の私にはそれが精一杯やった。
彼方は少し驚いたような顔をした後、考える素振りを見せた。
「んー、私はなんでもええよ。お母さんの作るもん、好きやし」
またや。なんでもええ。あの子は、またそう言った。
以前の彼方なら、きっとすぐに食べたいものを答えたやろう。少し面倒な料理でも、遠慮なくお願いしてきたはずや。私は胸の奥に広がる痛みを堪えながら、もう一度尋ねた。
「なんでもええやなくて、彼方が食べたいもんはないんか?」
「……私が?」
「そうや。あんたが食べたいもんや」
彼方は少し困ったように笑った。それから、しばらく考えて。
「……ほな、ハンバーグがええな」
そう答えた。
私は思わず、顔が緩みそうになった。
「ハンバーグか。分かった。明日はそれにしよか」
「ええの?」
「なんであかんの。あんたが食べたい言うたんやろ」
彼方は少しだけ目を丸くした。それから、小さく笑った。
「……ありがとう、お母さん」
その笑顔は、昔のような屈託のないものではなかった。まだ、どこか遠慮がちで、私の反応を確かめるような笑顔やった。それでも、私は嬉しかった。あの子が、自分の食べたいものを言ってくれた。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて、昔の私なら考えもしなかったやろう。
「ほな、おやすみ」
「うん。おやすみ、お母さん」
彼方はそう言って、自分の部屋へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、しばらく動けへんかった。あの子が廊下の角を曲がり、姿が見えんようになってからも、ついさっきまで立っとった場所を眺めていた。
ハンバーグ。
昔から、あの子が好きやった料理や。まだ小さかった頃は、夕食がハンバーグやと分かるだけで大喜びして、焼き上がるまで何度も台所を覗きに来とった。私が危ないから向こうへ行きなさいと叱っても、しばらくするとまた顔を出す。そんな子やった。
明日は少し大きめに作ってやろう。あの子の好きなソースも、たっぷりかけてやろう。そう考えているうちに自然と頬が緩んだ。けれど、その直後、私は自分が何を喜んどるのかに気づいてしもうた。
たった一度、娘が食べたいものを言ってくれた。それだけのことが、今の私にはこんなにも嬉しいんや。
昔なら考えられへんことやった。彼方は何でも遠慮なく口にする子やった。食べたいものも、欲しいものも、やってみたいことも。叶えてやれるかどうかは別として、あの子が自分の望みを隠すことなんて、ほとんどなかった。それが今では、夕食の献立を決めることさえ、私の顔色を窺わなあかんようになっとる。
私は椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
いつから、こんなことになってしもうたんやろう。
いや、そんなことは分かっとる。あの日や。私が彩葉に手を上げようとして、彼方が泣きながら二人の間に入ってきた、あの日からや。
あの子は、私を怖がっとった。
何度思い出しても胸が苦しくなる。あれほど私に懐いとった子が、私から姉を守ろうとした。小さな体を震わせながら、それでも一歩も退こうとせんかった。あの時、私は何をしてやれたやろう。何もしてへん。手を下ろして、ただ立ち尽くしとっただけや。
それからも、私は何もできへんかった。彼方が甘えてこんようになっても、一人で泣いとることに気づいても、何も言えへんかった。謝らなあかん。そんなことは、ずっと前から分かっとる。それでも、今さら何と言えばええのか分からへんかった。
あの日はごめんなさい。怖い思いをさせてしもうたな。もう二度とあんなことはせえへんから、安心してええんやで。
そんな言葉で、あの子が受けた傷は消えるんやろうか。そもそも、私にそんなことを言う資格があるんやろうか。
彼方は何も悪いことをしてへん。ただ、大好きな姉を守ろうとしただけや。それなのに私は、あの子が変わってしもうたことを、どこかで責めるように考えとった。
昔みたいに笑ってほしい。昔みたいに甘えてほしい。昔みたいに、何でも話してほしい。けれど、それは全部私の願いや。あの子が何を望んどるのか、私は知らへん。
もしかしたら、もう私に甘えたいなんて思ってへんのかもしれん。私と距離を置いている方が、あの子にとっては安心できるんかもしれん。そう考えると、胸が締めつけられるようやった。
私は、子供たちを強く育てたかった。
誰かに頼らんでも、自分の足で歩いていけるようになってほしかった。大切な人を失っても、そこで人生を諦めてしまわんように。私がおらんようになっても、自分の力で幸せを見つけられるように。その考えが間違っとったとは、今でも思わへん。
せやけど、彼方を見とると分からんようになる。
あの子は確かに、誰にも甘えんようになった。自分のことは自分で片づけて、私に心配をかけんようになった。私が望んどった通りの、手のかからん子になった。それなのに、どうしてこんなにも苦しいんやろう。
私は顔を上げ、誰もおらん食卓を見渡した。
朝日が東京へ行ってから、家の中は随分と静かになった。けれど、本当に寂しくなったのは、あの子が家を出ていった時やなかったんやと思う。彩葉と彼方が話さんようになってからや。
二人とも、まだこの家におる。毎朝顔を合わせて、同じ食卓でご飯を食べて、夜になればそれぞれの部屋で眠る。それなのに、時々、私だけがこの家に取り残されとるような気がする。
彩葉とは、相変わらず上手く話せへん。
あの子の顔を見ると、どうしても言わんでええことまで口にしてしまう。もう少し優しくしてやろうと思っていても、将来のことや勉強のことになると、つい厳しい言葉が出てしまう。
私は間違ったことを言っとるつもりはない。彩葉には、もっと自分を大切にしてほしい。自分の将来から目を逸らさんといてほしい。今は嫌われても、いつか分かってくれればそれでええ。そう思う一方で、あの子が私を見る時の冷たい目が、どうしようもなく辛かった。
彼方には、もう怖い思いをさせたくない。彩葉にも、これ以上傷ついてほしくない。それなのに、私はきっと明日も同じように二人を叱るんやろう。言わなあかんことやと思えば、口を閉じることができへん。間違っとると思うことを、見過ごすこともできへん。
それが母親の役目やと、今でも信じとるからや。
けれど、もしその考えが、またあの子らを傷つけてしまうんやとしたら、私はどうすればええんやろう。
答えは出んかった。
ふと、食卓の端に置いてあった写真立てが目に入った。朝久さんが生きとった頃に撮った家族写真や。
あの人は、いつものように穏やかに笑っとった。その隣で朝日が少し得意げな顔をして、彩葉は照れくさそうに微笑んどる。彼方は私の腕に抱きついて、今にも笑い声が聞こえてきそうな顔をしとった。
私は写真立てを手に取った。
「……朝久さん」
名前を呼んでも、返事はない。
「あんたやったら、どうしたんやろうな」
あの人なら、きっと彩葉の話を聞いてやったやろう。彼方が泣いとれば、何も聞かずに抱きしめてやったやろう。私には、それができへんかった。
朝久さんがおらんようになってから、私はずっと一人で頑張ってきたつもりやった。あの人の分まで子供たちを育てなあかん。立派な大人にしてやらなあかん。そう思って、必死に働いてきた。
けれど、私が守ろうとしとったものは、いったい何やったんやろう。
子供たちの将来か。それとも、あの人を失った時に感じた恐怖から、もう二度と目を逸らさんで済むようにすることやったんやろうか。
分からへん。自分のことやのに、何も分からへんかった。
私は写真立てを元の場所に戻した。
明日は、彼方の好きなハンバーグを作ろう。彩葉の分も作って、三人で食卓を囲もう。きっと、二人はあまり話さんのやろう。私も、何を話せばええのか分からんまま、黙って食事をするんやと思う。
それでも、せめて温かいご飯くらいは食べさせてやりたい。今の私にできることは、それくらいやった。
台所の明かりを消し、寝室へ向かった。廊下を歩いていると、彼方の部屋の前で足が止まった。
扉の向こうは静かやった。もう眠ったんやろうか。それとも、まだ起きとるんやろうか。
昔なら、何のためらいもなく開けられた扉やった。眠れへんと言って甘えてくる彼方を叱ったり、布団をかけ直してやったり、時には少しだけ隣に座って話を聞いたりもした。けれど今は、扉一枚隔てた向こうにおる娘が、何を考えとるのかさえ分からへん。
手を伸ばせば届く距離におるのに、随分と遠くへ行ってしまったような気がした。
私は、扉に触れようとして、結局その手を下ろした。
明日でええ。
明日、ハンバーグを作ってやろう。あの子が美味しいと言ってくれたら、その時に何か話してみよう。そう自分に言い聞かせて、私は寝室へ向かった。
明日になれば、何かが変わるかもしれん。彼方がまた笑ってくれるかもしれん。彩葉とも、少しは落ち着いて話せるかもしれん。そんなことを考えながら、私は部屋の明かりを消した。
けれど、心のどこかでは分かっとった。
私はきっと、明日になっても同じことを考えるんやろう。
もう少し落ち着いてから。もう少し時間が経ってから。いつか、ちゃんと話せる時が来たら。
そうやって、何度も先延ばしにしてきた。
あの子らは、いつまでもこの家におるわけやないのに。
それでも私は、明日が来ることを疑わへんかった。明日も、その次の日も、あの子らはこの家に帰ってくる。何も変わらん毎日が、これからも続いていく。そんなふうに思っとった。
私は紅葉さんも好きなので今回の話を勢いで書きました後悔はありません。今週は投稿頻度落ちると思います申し訳ないです