銅貨三枚をポケットへ移す。指先が、もう迷いなく動いた。昨日の資材運びの疲れもない。
五日目。洗面も、朝食も、稽古料の用意も、繰り返すうちに手が勝手に段取りを覚えていく。女将には「今日も遅れずに行きな」とだけ送り出された。
朝露の匂いが残る職人区の路地を進むと、板垣で囲まれた稽古場には、すでにドランが立っていた。腰掛けの脇で、木剣を一本磨いている。
「おはようございます。遅れていませんよね」
「そうだな」
平らな石の上へ銅貨三枚を置く。硬い金属音が響くと、ドランは顎で庇の脇を示した。
「木剣を取れ」
言われた通り、昨日と同じ無骨な木剣を手にする。
「構えろ」
足を開き、右手を上、左手を下にして木剣を構える。昨日叩かれた右肩を下げ、膝の力をわずかに抜く。ドランは俺の肩、手元、足元へ順に視線を落とした。
「昨日よりはましだ。振れ」
息を吸い、振り下ろしながら吐き出す。踏み込んだ勢いが、わずかに剣先へ乗った。何度も繰り返すうちに、手首、足幅、呼吸と、その時に一番崩れている箇所だけを短く直された。半刻ほどが過ぎ、ドランが木剣を引いた。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました。……どうでしたか、今日は」
息を整えながら木剣を返し、様子を窺ってみた。ドランは木剣を受け取り、庇の脇へ戻しながら、一度だけこちらへ目を向けた。
「……まあ」
それだけだった。
「まあ、ですか」
「不合格ではない、という程度だ。明日も同じ動きができるならな」
「昨日よりは会いたくなりましたか」
ドランは露骨に嫌そうな顔をして、低い腰掛けへ戻った。
「黙って振れるようになってから言え。さっさと行け」
手で追い払われたが、昨日より扱いが雑になった気がした。それが妙に嬉しかった。俺は頭を下げる。
日差しが強くなり始めていた。
「まあ」という一言を頭の中で反復してみる。お世辞を言わない男からの「不合格ではない」だ。悪くない手応えだった。
稽古場を離れかけて、腰に何も下げていないことが気になった。毎朝木剣を借りて振っているが、街の外へ出るための自分の剣はまだない。俺は足を止め、庇の下にいるドランを振り返った。
「ドランさん。そろそろ自分の剣を買おうと思うのですが、何を選べばいいでしょう」
「知らん」
即答だった。少しは考えてくれても良いと思う。
「ええ……そこまできっぱり言われるとは思いませんでした」
「俺が使う剣じゃない」
ドランは油布を動かしたまま、こちらを見なかった。
「重すぎる物と、長すぎる物はやめろ。抜いて戻せない物もだ」
「それだけですか」
「今のお前には、それで十分だ」
選んでくれる気はないらしい。だが、考える基準は教えてくれた。俺は礼を言い、職人区を抜けて〈鉄床亭〉へ向かった。
店の扉を押すと、金属と油の匂いが鼻へ届いた。奥にいた店主が顔を上げ、俺を見て眉を動かす。
「おう。前に来た兄ちゃんだな。今度は剣を買いに来たのか」
「覚えていましたか」
「剣も持たずに外へ出ると言われれば、覚えてもいるさ」
褒められてはいない。事情を話すと、店主は壁際から三本の剣を持ってきた。どれも飾り気のない鉄の片手剣で、長さと重さがそれぞれ違う。
一本ずつ持ち上げ、鞘から抜き、戻す。最初の一本は重く、構えただけで右肩が上がった。二本目は長く、鞘へ戻す時に剣先が入口へ引っかかりかけた。
三本目は、ほかよりわずかに短かった。持ち上げた時に手首へ来る重さが素直で、鞘へ戻す動作も途中で詰まらない。
「これが、一番扱いやすい気がします」
「そいつが合うなら、今のあんたには三本の中で一番ましだろうな」
鞘に下げられた値札を裏返す。手持ちの銅貨では足りなかった。腰の袋へ意識を向けた。今日の宿代と、明日の稽古料も残しておかなければならない。
「……取り置きはできますか」
店主が眉を上げた。
「いつ頃なら用意できそうだ」
「数日で。依頼をこなして貯めます」
「数日なら、銅貨二枚を預けておきな。一週間までは置いておく」
「分かりました」
銅貨二枚を平たい手のひらへ載せる。店主は代わりに、三本目の剣へ細い革紐を結びつけた。
「一週間を過ぎたら、悪いが店へ戻す。こっちも商売だからな」
「十分です」
剣は店主の手元へ戻った。
それでも、次に来た時に選ぶ一本は決まった。初日には見るだけで出た店に、今日は取り置きができた。
◆
冒険者ギルドへ戻ると、一階の広間は朝の依頼を探す者たちで混雑していた。今日の稽古代銅貨三枚はすでに払った。今夜の宿代と明日の稽古代で、銅貨九枚かかる。剣の分まで貯めるなら、それ以上は欲しい。
掲示板の下段、石級向けの紙面を上から追っていく。討伐依頼は剣を手に入れてからだ。配達や清掃の中に、ひとつ気になる依頼票があった。
『薬草採取および搬送。石川草、根葉。指定場所にて状態確認あり。報酬・銅貨五枚』
依頼主の欄には〈緑燈の薬師〉と書かれている。南通りにある店らしい。依頼票を一枚剥がし、受付の列へ並んだ。
「この依頼をお願いします」
ミラは依頼票へ目を通し、「状態確認あり」の文字を指先で示した。
「石川草と根葉の見分けはつきますか」
「この依頼票で名前を初めて見ました」
「では、出る前に資料室へ寄ってください。広間の奥です」
「資料室があるんですか」
「薬草や素材、周辺で確認された魔物の簡単な資料があります。この依頼は、数だけ揃えても完了にはなりませんので」
「そんな資料があったんですか、知りませんでした」
「今、お伝えしました」
「なるほど」
塩対応にも慣れた。意外と味があって悪くない。ミラが依頼票から顔を上げた。
「……ノワールさんは、落ち着いていますね」
「?」
「ありがとうございます?」
「褒めたわけではありません……ノワールさんは落人ですよね?」
「そうみたいです」
「落人の方は、ここへ来て何日かすると『帰れない』とか、訳の分からないことを言って取り乱すことが多いので」
「ああ……」
「ノワールさんも、そろそろかと思っていました」
「今のところは大丈夫そうです」
「そうですか」
ミラはそれだけ言うと、依頼票へ視線を戻した。依頼を受理したミラに礼を言い、教えられた場所へ向かった。広間の奥にある資料室には、周辺で採れる薬草や素材の簡単な図入り羊皮紙が並んでいた。目的の薬草のページを開いた。
石川草は、日当たりが強い場所のものは葉が硬くなり、日陰のものは柔らかい。根葉は水分を多く含むため、湿地に寄った低地でよく育つが、採取後に袋の中で潰れると急速に傷む。図を指でなぞりながら、条件を整理した。
単に摘んでくればいいというわけではない。同じものでも、状態が違えば扱いは変わる。資料を棚へ戻し、東門へ向かった。門を抜け、東の草原へ出ると、夏の風が草の匂いを運んできた。
道から外れ、草原の北端へ進む。木立が並び、日差しが和らぐあたりを歩くと、背の低い緑の草が群生していた。石川草だ。
日当たりの強い開けた場所の葉を触ってみる。厚みがあり、爪で押すと硬い手応えがあった。一方、木立の影に入った場所のものは、葉が薄く、指触りが柔らかい。
両方を分けて摘み、混ざらないよう袋の中で分けた。さらに奥、地面がわずかに湿り気を帯びた低地へ向かう。ぬかるんだ土の合間に、太い茎を持つ根葉が生えていた。
根元を傷つけないよう周囲の土を緩め、抜いた後は余分な土だけを軽く落とした。根葉は袋の底へ並べ、上から重いものを置かないようにした。規定の数量を揃え、袋の口を縛ると、日はすでに高く昇っていた。
◆
東門から街へ戻り、大通りから一本奥へ入った南通りへ向かった。このあたりは商業区の華やかさとは違い、日当たりが控えめで、静かな暮らしの匂いが漂っていた。革を鞣す匂い、乾物の匂い、木煙の匂いが混ざり合っている。
通りの中ほどに、緑色の小ぶりな燈籠を軒先に吊るした店があった。看板には簡素な文字で〈緑燈の薬師〉と刻まれている。扉を押すと、小さな鈴がチリンと鳴った。店内は薄暗く、独特の薬草と乾燥した土の匂いが立ち込めていた。
壁際の棚には薬瓶や乾燥させた草束がぎっしりと並び、奥の作業台には石臼や天秤が置かれている。作業台に向かって、一人の人物が背を向けて座っていた。
小柄な体躯。丸まった背中。白の混じった灰色の短髪。
「……すみません。ギルドの依頼で薬草を持ってきました」
声をかけると、老薬師はすぐには振り向かなかった。天秤の皿へ小さな匙で粉末を載せ、重さを確かめてから、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。深く刻まれた皺。細く落ち窪んだ目が、俺の顔をじっと見つめてくる。
「そこに置け」
短く、低い声だった。俺は言われた通り、作業台の空いているスペースへ採取袋を置いた。老薬師は立ち上がり、身体を揺らしながら近づいてきた。袋の紐を解き、中身を木皿へあける。
骨ばった指先で、石川草を数本つまみ上げた。
「……どこで摘んだ」
「東の草原の北端です。木立の影と、開けた場所から、それぞれ分けて採りました」
老薬師の目が、わずかに動いた。
「なぜ分けた」
「資料に状態の違いがあると書かれていたので、実際に触って確かめて分けました」
老薬師は何も言わず、今度は根葉へ手を伸ばした。根の切り口や、水分を含んだ茎の弾力を指先で確かめている。
「根葉は」
「潰さないように持ち帰りました」
老薬師はつまんだ根葉を木皿へ戻し、腕を組んだ。品物の状態を確かめるのと同じ目で、俺の指先や服の汚れまで見ていた。
「石級になって何日だ」
「五日目です」
「……薬師か」
唐突な問いだった。
「違います。知識はギルドの資料で見た受け売りです」
「受け売りでここまで揃えるか」
老薬師は目を細めた。
「……落人か」
「はい」
「向こうで何をしていた」
老薬師の「向こう」という言葉は、落人の出身地を指しているのだろう。
「人の状態を見て、整えて、必要なことを伝える仕事をしていました」
短く答えた。過去の職業を長く説明するつもりはなかった。老薬師は鼻から短く息を吐き、俺の顔から木皿の石川草へ視線を戻した。一本をつまみ上げ、葉の縁を指で確かめてから、顎で扉の方を示した。
「報酬はギルドで受け取れ。次も依頼を出しておく。石川草二十束、根葉の太いものを十束だ。同じ場所で揃えられるか確認してこい。場所を変えたなら理由を残せ」
「依頼が出ていたら、内容を確認します」
「それとな」
老薬師は天秤へ視線を戻しながら、ついでに言うような口調で続けた。
「明日、時間があるなら来い。今日の根葉を使った調合を見せてやる。見れば分かることもあるだろ」
俺は一瞬、間を置いた。俺が見れば何か分かると考えているらしい。何を見込まれたのかは分からなかった。
「……考えておきます」
曖昧に返した。老薬師は振り返りもせず言った。
「来るなら来ればいい。来なけりゃそれまでだ」
「ありがとうございました。失礼します」
頭を下げ、店を出た。
◆
南通りの風は冷たくなっていた。調合を見せると言われた。厚意のつもりなのだろう。
それでも、その場で「行きます」とは言えなかった。行くかどうかは明日また考えれば良い。まずはギルドへ戻り、依頼の報告を済ませよう。ギルドへ戻り、受付で完了報告をして銅貨五枚を受け取った。
午後の掲示板の前は、朝より落ち着いていた。掲示板には、新しい依頼票が一枚貼られていた。
『マーロウ商会。商業区より東区画の仕立て屋へ、反物の運搬。荷扱いに注意。報酬・銅貨十枚』
運搬の仕事だ。報酬も悪くない。俺はその依頼票を外した。