明日も、ダンジョンへ。   作:為書結依

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第12話 治すということ

 

 七日目の朝も、稽古場の冷えた土を踏みしめていた。木剣を持ち、呼吸を整える。右手首を軽く回すと、昨日までの余計な力みは抜け、柄を指の腹で支える感覚が、だんだん分かってきていた。ドランは腰掛けから立ち上がり、木剣を片手に持ったまま静かに間合いを詰めてきた。

 

「構えろ」

 

 言われた通り、足を肩幅に開き、木剣を正面に掲げる。右肩を落とし、膝を柔らかく曲げる。頭の中で「足を先に出す」「動き出す前の軸を見る」と手順を反復しようとした、その瞬間だった。

 

 風を切る鋭い音が跳ねた。ドランの木剣が、こちらの構えが整うかどうかの隙を突いて、直線的に胸元へ伸びてきていた。

 

 速い。

 

 木剣を見てから、反射的に後ろへ一歩下がった。動き出しが遅れたうえ、左右の足先が一直線に揃ってしまう。ぐらりと重心が崩れた。倒れそうになる身体を無理に支えようとした時には、ドランの木剣が喉元のすぐ前で止まっていた。

 

「遅い」

 

 ドランは木剣をすっと引き、低い声で言った。

 

「見てから下がった。足が揃っているから、そのまま押し込まれれば倒れる」

 

「……分かっています」

 

 乱れた息を整えながら、崩れた足元を踏み直した。

 

 目の前の状態を確かめ、頭で整理してから動く。その順番が、まだ動き出しを遅らせていた。見てから動いたのでは間に合わない。足が揃えば、次には動けない。

 

 ドランは木剣を庇の脇へ戻すと、低い腰掛けへ腰を下ろした。

 

「今日はこれまでだ」

 

「はい。明日もよろしくお願いします」

 

 喉元に残った冷や汗の感覚を確かめながら、俺は稽古場を後にした。帰り道、職人区の石畳を歩きながら、さっきの一打を思い返す。頭で分かっていることと、土壇場で足が出るかどうかは別だ。

 

 だが、考えてから動く癖を自分の身体で実感できたことは、自分にとって意味があることだった。

 

◆

 

 冒険者ギルドへ戻ると、いつもと雰囲気が違っていた。一階の広間にも人は多かったが、東棟へ続く奥の廊下に、怪我を負った者や、付き添いの冒険者が数人、壁に背を預けて座り込んでいた。うめき声こそないが、肩を庇ったり、膝を押さえたりしながら、重い呼吸を繰り返している。掲示板の前に向かおうとすると、受付の窓口からミラが声をかけてきた。

 

「ノワールさん。少しお時間をいただけますか」

 

 ミラの手元には、数枚の書類が乱雑に置かれていた。いつもなら几帳面に整えられているカウンターの上だが、今日は忙しなく書類を繰っている。

 

「何かありましたか」

 

「東棟の医務室が混み合っていまして。早朝に外へ出たパーティーが何組か戻ってきたのですが、すり傷や捻挫の対応で手が回っていないのです。本来なら職員が一人、待合に付くのですが……」

 

 ミラは奥の廊下へ視線を向け、困ったように眉を寄せた。

 

「ノワールさん、このあと急ぎの依頼がなければ、待合の方々に声をかけていただけませんか。今日は手の空いている方にもお願いしているのです。順番を整理するわけではありません。顔色や様子を見て、明らかに悪そうな方がいれば中へ知らせるだけでいいのです」

 

 猫の手も借りたいというやつだ。俺は境界を確かめるため、短く返した。

 

「待っている人の様子を見て、中へ伝えるところまでですね」

 

「はい。診断や処置は中の者が行います。状態の観察と案内だけをお願いしたいのです。お礼はギルドから出しますので」

 

「分かりました。大したことはできませんが声をかけるだけなら」

 

 頷くと、ミラはほっとしたように息を吐き、奥の廊下を指し示した。東棟の奥にある医務室の待合は、広間よりも静かだった。窓から入る朝の光が石床に落ちている。血と汗、それから湿らせた布と乾燥させた薬草の匂いが、独特の重たさを作っていた。

 

 長椅子には三人が座っていた。俺はまず、一番手前に座っていた若い冒険者へ近づいた。右腕を力なく垂らし、左手でその肘を支えている。顔色は悪くないが、唇を噛み締め、痛みに耐えていた。

 

「肩ですか」

 

 声をかけると、若い冒険者は苛立ったように顔を上げた。

 

「外れたのを、仲間がその場で嵌めたんだよ。動くようにはなったが、まだズキズキしやがる。……お前、医務室の奴か?」

 

「いえ、待合の手伝いです」

 

 俺は彼の右手の指先を見た。指の腹へ軽く視線を送り、自然な口調で尋ねる。

 

「今は動くんですね。痺れや、冷たくなっている感じはありますか」

 

 若者は不審そうにしながらも、垂らした右手の指を曲げて見せた。

 

「動く。痺れもねえよ」

 

「分かりました。もし急に指先が冷たくなったり、痺れが強くなったりしたら、すぐに教えてください。中へ伝えますから。今は無理に動かさず、腕を抱えて待っていてください」

 

「……ああ。明日の依頼に響かなきゃいいんだがな」

 

 若者は文句を言いながらも、肩の力を抜いて長椅子に背を預けた。明日の仕事や分け前を気にしているようだった。次に、中央の椅子に深く腰掛けている年配の男へ向かった。

 

 革鎧を脱ぎ、右膝を丸出しにしている。膝が大きく腫れ上がり、皮膚が突っ張っていた。男は身を縮め、時折がちがちと歯を鳴らしている。

 

「いつから腫れていますか」

 

「昨日からだ……。ダンジョンで少し捻っただけなんだが、今朝から急に寒気がしてな。身体が重くてたまらん」

 

 膝の腫れだけではない。寒気と全身の重さがある。俺は男へ短く告げた。

 

「少し待っていてください」

 

 長椅子の横を抜け、奥の診療室の扉を二度、軽く叩いた。隙間から顔を出した職員へ、声を落として伝える。

 

「待合の年配の方ですが、膝の腫れに加えて、今朝から強い寒気と全身の重さを訴えています。順番を確認していただけますか」

 

 職員は俺の言葉を聞くと、視線を走らせて男の様子を確かめ、短く頷いた。

 

「分かりました。先に中へ入れます」

 

 扉が開いた。男は「大げさじゃないのか」と呟いたが、俺はにこやかに「大げさで済むなら、その方が良いですよ」とだけ返し、手を貸して中へ促した。最後に、廊下の隅で小さくなっていた少女の前に立った。

 

 七、八歳ほどだろうか。右手首に布を巻きつけており、そこから薄く血が滲んでいる。離れたところで、母親らしい女性が受付の職員と話していた。少女は小さな身体を丸め、「平気」と呟いているが、声はかすかに震えていた。

 

 俺は少女の目線に合わせて腰を落とした。

 

「怖いですか」

 

 少女はびくりと肩を揺らし、すがるような目でこちらを見た。

 

「切るの……? 痛いこと、する?」

 

「俺には分かりません。でも、何をするのか先に聞いていいんです。怖いことがあれば、始める前に言っておきましょう」

 

 微笑みながらゆっくりと、落ち着いた声で言葉を伝える。

 

「嫌なことや、怖くてたまらないことがあったら、我慢しないで言って大丈夫です。泣いたからといって、傷が悪くなるわけじゃありませんから」

 

 少女は小さく鼻をすすると、巻かれた布を握りしめていた左手の力を緩めた。

 

「ほんと……?」

 

「ほんとです。ここで座って、待っていましょう」

 

 椅子を引いて座るよう促し、母親が戻ってくるまで隣にいた。少女が小さく頷いたのを見て、俺はゆっくりと息を吐いた。行っていることは、かつての現場と大差なかった。

 

 判断を自分だけで完結させず、必要な場所へつなぐ。それだけの役割だった。奥の扉が開き、顔の下半分を布で覆った女性が出てきた。

 

 腰に道具袋を下げ、待合を見回している。目元に見覚えがあった。

 

「……ノワールさん?」

 

 女性が布を外した。仕立て屋のオーラだった。オーラは驚いたように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。

 

「ミラさんから手伝いがいるとは聞いていましたが、あなたでしたか」

 

「仕立て屋の方だと思っていましたが」

 

「仕立て屋だけではないのです。混雑している日は、こちらの手伝いもしていまして」

 

 オーラは少女の前へ膝をつき、怪我をしていない左手へそっと手を差し出した。少女が左手で握り返すのを待って優しく声をかけ、素直に立つのを確認してから、俺へ向き直る。

 

「先ほどの寒気を訴えていた方ですが、先に診れて良かったです。知らせてくださって助かりました」

 

「状態を中に伝えただけです。俺が何かをしたわけではありません」

 

「それを適切に拾ってつなぐ人が、ここには足りないのですよ」

 

 オーラはそう言うと、少女を伴って診療室の中へ入っていった。

 

◆

 

 待合の混雑が落ち着いた頃、オーラに声をかけられ、診療室の隅へ入った。室内は待合より明るく、大きな窓から日差しが入っている。作業台の上には包帯や薬瓶、小さな平皿が並んでいた。無機質な病院の処置室とは違い、木の温もりと薬草の匂いが満ちている。

 

 作業台の脇には、最後の患者である手の甲に浅い切り傷を負った男が座っていた。オーラが男へ「こちらの方が見ていても構いませんか」と確認すると、男は傷を押さえたまま、気にしないというように頷いた。オーラはまず、男の傷口を水で洗い、湿らせた布で周囲の汚れを丁寧に拭った。傷の中に砂や木片が残っていないことを確かめてから、男へ「術を使います」と告げた。

 

「少し染みますよ」

 

 オーラが男の手の甲へそっと手を添えた。

 

 その瞬間、彼女の手のひらから、薄く目立たない光がすっと漏れた。

 

 柔らかな光が傷口を包み込む。しばらくして光が収まると、割れていた皮膚がつながり、血が止まっていた。ただし、完全に元通りになったわけではない。傷の痕にはまだ赤みが残り、男も「助かった、痛みが少し引いたよ」と手指を動かしている程度だった。

 

 治癒術。この世界で初めて目の当たりにする、現象としての回復だった。男が礼を言って部屋を出ていくと、オーラは布で自分の手を拭き、息をついた。

 

「驚かれましたか?」

 

「はい……こうして見るのは初めてだったので」

 

「私にできるのは、この範囲です。傷口を塞ぐことはできても、痛みを完全に消したり、体力を戻したりはできません。浅い切り傷や軽い捻挫が限界です。深い傷や化膿したもの、骨折などは、教会か、もっと上位の術者へ回すことになります」

 

 誇る様子も、卑下する様子もなかった。

 

「こういう仕事に、興味がおありですか?」

 

 オーラが尋ねてきた。俺は作業台の横にある丸椅子を見つめ、静かに首を振った。

 

「以前、人の傍にいて、状態を見て、必要なところへつなぐ仕事をしていました。俺は治す側ではなく、見る側です。少なくとも、傷を塞ぐような力はありません」

 

 言葉にしてみると、それが現在の自分の立ち位置として一番しっくりきた。オーラは追及しなかった。かつて何をしていたのかも、どこでその仕事をしていたのかも尋ねなかった。

 

「必要なところへつなぐ仕事、ですか。……それも、とても大切な役割ですね」

 

 オーラは丁寧に頷き、作業台の上を片付け始めた。

 

「また医務室が混み合う日があれば、今日のように待合にいていただけませんか。傷口を確かめたり、処置したりする必要はありません。今日と同じように、待っている方へ声をかけ、様子がおかしい方がいれば教えてほしいのです。それ以上は求めません」

 

 頼まれた範囲は明確だった。治療も、技術の習得も求められていない。

 

「……正式な依頼として出していただけるなら。条件次第でお受けします」

 

「ええ、もちろんです。ギルドのミラさんを通して、きちんと手配させていただきますね」

 

 オーラは嬉しそうに微笑んだ。

 

◆

 

 医務室を出て、ギルドの広間へ戻った。

 

「あ、ノワールさん。本当にありがとうございました、助かりました」

 

 ミラから笑顔で礼を言われた。少し態度が軟化したように感じた。俺は報酬を受け取り、外へ出る。

 

 日差しはすっかり昼の強さになっていた。通り沿いの石の縁台に腰を下ろし、買ってきた硬いパンを口に含んだ。待合でのやり取りが、まだ頭に残っていた。

 

 治せる力があると知られれば、それを求める人は必ず現れる。「使ってほしい力」になれば、断ることも難しくなっていくだろう。セイが言っていた懸念が、さっき見た治癒術と重なった。

 

 だが、今日オーラから頼まれたのは、治療でも、技術の習得でもなかった。ただ、待っている人の傍にいて、必要なら中へつなぐことだった。その範囲なら、自分で選んで引き受けられる。

 

 七日目。

 

 向こうの世界なら、明日は看護師に戻る日だった。

 

 この先、戻れるかどうかは分からない。

 

 パンを飲み込み、水袋から水を飲んだ。明日の稽古料は残してある。午後は買い足したい道具の値段でも確かめて、早めに宿へ戻ろう。

 

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