昼食を終え、掲示板を確かめるためギルドの広間へ戻った。受付の前を通りかかると、ミラが書類から顔を上げて笑顔で話しかけてきた。
「ノワールさん。先ほどはありがとうございました。待合がずいぶん助かったと、オーラさんからも聞いています」
「とんでもないです。声をかけて、様子がおかしければ中へ伝えただけですよ」
「それをしてくださる人がいなかったので、助かったんです」
ミラは手元の書類を揃えた。
「今日のお手伝いを正式な依頼にできるか、条件を整理します。まとまりましたら、改めて確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
「ええ。その時にはよろしくお願いします」
そのまま広間の掲示板へ向かう。石級向けの下段には、朝にはなかった依頼票が何枚か増えていた。
『東門外、林縁部での薬草および素材採取。二人以上推奨』
『南街道、崩落箇所の見張りおよび通行補助。二人以上推奨』
一人でできるかどうかと、一人でやってよいかどうかは別だ。報酬も悪くない。だが、二人以上を勧めるだけの理由があるのだろう。
セイを酒場から連れ出すのも、ドランへ稽古以外の同行を頼むのも、今の関係では違う気がした。誰かと組むにしても、まずは相手を探すところからだ。今日は依頼票を取らず、掲示板を離れた。
広間を出たあとは、道具店を何軒か回った。買い足したい物の値段を確かめているうちに、日差しが傾いていく。最後の店を出て、東広場を通って宿へ戻ることにした。
◆
東広場へ近づくにつれ、露店を畳む音と、残った品を売り切ろうとする声が重なって聞こえてきた。
野菜籠を積み直す音。木箱を引きずる音。値段を下げた焼き菓子を勧める声。その間を、買い物帰りの人たちがゆっくりと抜けていく。
広場の端に、小さな花籠を抱えた少女がいた。七、八歳ほどだろうか。籠には、薄紫と淡い黄色の小さな花が入っているのが見える。少女は通りを歩く相手の顔を見上げ、少し間を置いてから声をかけていた。
「お花はいかがですか。今日摘んだお花です」
そこだけは何度も練習したのだろう。売り声は妙に滑らかだった。声をかけられた女性は首を横に振り、そのまま通り過ぎた。少女は「はい」と返し、すぐ次の相手を探す。
俺と目が合った。少女の視線が、革当て、道具袋、空いた両手の順に動く。
「おじさん、お花はいかがですか」
「お……おじさんですか」
十八歳の顔で呼ばれるとは思わなかった。少女は俺の顔を見直した。
「……お兄ちゃん?」
「『お兄ちゃん』に昇格しましたね」
「買うの?」
「まだ見ているところです」
籠を覗く。薄紫の小花と、淡い黄色の花が束ごとにまとめられていた。茎の長さは揃っていないが、色の混ざり方は考えてある。
「自分で摘んだんですか」
「うん。……はい。朝、摘みました」
商売口調を思い出したらしい。
その時、少女が籠を持ち直した。乾いた音がして、片側の持ち手が外れた。
「あっ」
籠が傾き、花束が石畳へ滑り落ちる。俺は反射的に籠の底を支えた。少女もしゃがみ込み、散った束を急いで拾い集める。
「踏まないで!」
近くを通りかけた男が足を止め、花束を避けた。
「悪い悪い」
男が離れると、少女は切れた紐を睨んだ。
「切れましたね」
「見れば分かるよ」
さっきまでの売り声は消えていた。腰の道具袋を探る。荷物をまとめるための予備の麻紐が、短く一巻き残っていた。
「これを使いますか」
差し出すと、少女は紐と俺の顔を交互に見た。
「もらっていいの?」
「はい」
「あとで返せって言わない?」
「麻紐一本で、そこまでケチなことを言うつもりはありません」
「それならちょうだい」
少女は迷ってから、麻紐を受け取った。俺が代わりに結ぶ方が早い。だが、少女はすでに古い紐をほどき始めていた。なら、手を止める必要もないだろう。
俺は籠が動かないよう底を押さえた。
「そこではなく、もう一つ隣の太い部分へ通した方が、良いと思います」
「こっち?」
「はい。二巻きしてから結べば、すぐには抜けないと思います」
少女は舌先を出しながら、言われた場所へ紐を通した。一度目は輪が崩れたが、やり直して二巻きする。
「一度輪を作って、その下へ端を通してください」
「こう?」
「もう少し引いて。そうです」
少女が両手で結び目を引く。籠を持ち上げ、何度か揺らして確かめた。
「できた」
「上手にできましたね」
「毎日やってるから」
「毎日、籠を壊しているんですか。大変ですね」
「結ぶ方!」
「失礼しました」
素直な反応に思わず笑ってしまう。少女はむっとした顔をしたが、すぐに花束を籠へ戻し始めた。
「ありがとう」
呟くような声だった。
「どういたしまして」
「違う。こっちが言うの」
「今、言いましたよね」
「ちゃんと言うから、もう一回」
「分かりました」
少女は俺を見上げ、今度は声を張った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少女は満足したように頷いた。それから、籠の中の花を見下ろす。
「お礼に、一つあげる」
「商品ではないんですか」
「紐くれたから」
「商品なら、貰うより買う方がいいですね」
「買うの?」
「ええ。売ってください」
少女は急に背筋を伸ばした。
「うん。薄紫のと、黄色いのがある。黄色いのは、薄紫のより長く咲くよ」
売る話になると、言葉が滑らかになる。
「一束、鉄貨八枚です」
「では、薄紫の束と、黄色い束を一つずつ」
「二つ?」
「はい、二つお願いします」
なんとなく、二束とも買うことにした。
「女の人にあげるの?」
「そういうわけではありません」
「自分で飾るの?」
「そうなると思います」
「好きな人とかいないの?」
「残念ながらいませんね」
「友達は?」
「ここではいません」
「おじさん寂しいんだね」
「『おじさん』に戻りましたね」
少女は俺を見上げ、考えてから笑った。
「だって、おじさんみたいなんだもん」
「なかなか鋭いです」
話し方が年寄りくさいのだろうか。銅貨二枚を渡すと、少女は籠の脇に下げた小袋から鉄貨を取り出した。四枚を手のひらに並べ、こちらへ差し出しかけてから、もう一度最初から数え直す。
「一、二、三、四。……お釣り、四枚、です」
時々、商売人に戻るのが可愛らしい。
「ええ。合っています」
鉄貨四枚を受け取ると、少女は薄紫と淡い黄色の花束を一つずつ差し出した。
「買ってくれてありがとう……名前、何ていうの?」
「ノワールです」
「変な名前」
「初対面なのに酷いですね」
「だって変だもん。私はリタ」
「リタは良い名前ですから、比べると不利ですね」
リタは意味が分からないという顔をしたが、すぐに籠を持ち上げた。
「またね、ノワール」
「はい。また」
数歩走ったところで、リタが振り返る。
「紐、ありがとう!」
「どういたしまして」
リタは手を振り、今度こそ人混みの向こうへ走っていった。手元に残った二束へ視線を落とす。
採取袋や道具なら持ち方が分かる。花束は、力を入れれば潰れ、緩めれば落としそうになる。なかなか難しい。
「……ところで、これはどうすればいいかな……」
もう聞く相手はいなかった。
◆
〈鈍色亭〉へ戻ると、女将が受付の奥で帳面を閉じた。
「お帰り。ずいぶん可愛らしい物を持ってるね」
「成り行きで花売りの子から買いました」
「何のために買ったんだい」
「そこまでは考えていませんでした」
「一番困る買い方だね」
言いながらも、女将は花束を受け取った。
「水差しを一つ借りられますか」
「二束まとめて突っ込む気かい」
「駄目なんですか?」
「生けて見れば分かるよ」
女将は厨房から小さな瓶と細口の器を持ってきた。水差しから水を注ぎ、花の茎を卓上の小刀で切り揃える。俺が手伝う隙もない。
薄紫の花を食堂の卓へ、淡い黄色の花を受付の端へ分けて置いた。さらに厨房から別の小瓶を持ってきて、短い一本を抜いて挿す。
「これは?」
「あんたの部屋だよ」
「俺の部屋にも要りますか」
「置いてみれば分かるさ」
「枯れたらどうすれば」
「そういうことを先に言うんじゃないよ」
女将は呆れたように言い、小瓶を俺へ渡した。
「水を替えて、それでも駄目なら片付けな」
「分かりました」
食堂の卓に薄紫の花が増え、受付には淡い黄色が残った。暗い木の色ばかりだった宿の中で、そこだけ明るく見える。
「悪くないですね」
「買ってきた本人が今さら言うのかい」
「買った後のことを考えていませんでしたので」
「次からは少し考えて買った方が良いよ」
小瓶を持って二階へ上がった。
◆
机の端へ花を置く。部屋の中に花がある。やはり、落ち着かない。
宿へ持ち込むものといえば、これまでは服や、依頼に使う道具ばかりだった。役に立つかどうかを考えずに買った物は、これが初めてかもしれない。薄い花びらが、開けた窓から入る風にわずかに揺れた。悪くはなかった。
明日は、もう一度ギルドの掲示板を見よう。二人以上を勧める依頼を受けるなら、一緒に動ける相手を探す必要がある。夕食を取りに下へ行こうと、俺は立ち上がった。部屋を出る前に、机の花を一度振り返った。
水を替えるのを忘れないようにしよう。