目が覚めると、寝台から起き上がるより先に机の端へ目をやった。小瓶の中で、先日買った野花が、朝の淡い光を受けて小さく揺れている。水が減っていたので、水差しから冷たい水を足し、倒れかけた茎を指先で軽く直す。花を飾る趣味などなかったが、朝の支度に一つ新しい作業が加わった。
階下へ降りると、女将が鍋の様子を見ながらこちらを振り返った。
「おはよう、ノワール。花は枯らしてないかい」
「おはようございます、女将さん。水は足しておきました」
「ほう。忘れなかったかい。感心だね」
女将は口元を緩め、温かいスープとパンを差し出した。
「せいぜい長持ちさせな。枯れたら枯れたで、気が向いた時に花売りの子から買ってやればいいのさ」
「それもそうですね」
スープにパンを浸し、朝食を済ませる。短く礼を言って宿を出ると、朝の空気が頬に冷たかった。路地の石畳には薄く朝露が残っている。
足裏の感触を確かめながら職人区へ向かうと、板塀に囲まれた稽古場には、すでにドランが待っていた。石の上へ銅貨三枚を置くと、ドランは無言で木剣を一本投げて寄こした。
「構えろ」
「はい」
足を開き、腰を落とす。右肩の力を抜き、木剣を身体の中心へ置く。
その瞬間、ドランが前触れなく踏み込んできた。一昨日と同じ一打――構えが整いきる前を狙った、喉元への鋭い突きだ。目の前の木剣へ意識を奪われそうになる。だが、剣先だけを見ていては遅れる。
視線をわずかに広げ、ドランの腰が沈む動きと、踏み込む足、肩の傾きを同時に拾う。見て、考えてから下がるのではない。踏み込みの兆しに合わせて、身体を先に動かした。土を蹴り、左足を斜め横へ滑らせる。
ドランの木剣の先が、俺の右肩の革当てをかすめ、鈍い衝撃が肩へ残った。避けきれたわけではない。それでも、後ろへ真っすぐ逃げなかったため、昨日のように足が揃って体勢を崩すことはなかった。ドランは突き切った木剣を止め、そのまま俺の足元を見た。
「……揃わなかったな」
「後ろではなく、横へ逃げてみました」
「判断が遅い。一歩遅ければ胸を突かれている」
避けられたのに叱られた。
「はい」
ドランは木剣を引いた。
「だが、前よりはましだ」
褒め言葉としては、ずいぶん控えめだった。
「ありがとうございます。今日は随分と高い評価ですね」
「調子に乗るな」
「はい」
ドランはもう一度木剣を構えた。
「構えてから戦おうとするな。動きながら整えろ」
「動きながら、ですか」
「止まってから考えるな」
その後も、俺が足を止めるたびに木剣が飛んできた。肩、脇腹、前腕。どれも本気で打たれてはいないが、触れた場所には痛みが残る。
早い鐘から一刻ほど経った頃、ドランは木剣を下ろした。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
俺が木剣を戻すと、ドランは腰掛けへ戻り、自分の片刃剣へ油布を滑らせ始めた。職人区の通りへ出ても、肩へかすった一打の感触が残っている。動きながら整える。頭の中で理解してから身体を動かす順番を、崩していく。
職人区の通りを歩きながら、俺は何度か手を開き、木剣の握りを空で確かめた。
◆
稽古場を出て、真っ直ぐギルドへは向かわず、大通りの角にある店へ寄った。〈鉄床亭〉の扉を押すと、金属と油の匂いが鼻へ届いた。奥にいた店主が顔を上げ、片方の眉を上げる。
「残りを払いに来たか」
「はい、お待たせしました」
腰の袋から、数えておいた銅貨を出す。店主は無言で受け取り、奥から革紐の結ばれた剣を持ってきた。あの日、店主が鞘へ細い革紐を結びつけた一振りだった。
「持ってけ、おまえのだ」
鞘ごと受け取り、重さを確かめる。稽古場で握ってきた木剣とは違う、冷たく硬い実感が手のひらへ伝わってくる。
「ありがとうございます」
「使い方は自分で覚えろよ。俺は売るだけだ」
腰へ提げ、鞘の位置を何度か調整する。歩くたびに脚へ当たる重みは、今のところ邪魔だった。じきに慣れるものなのだろうか。
店を出て、ギルドへ足を向けた。手で剣の存在を確かめながら歩く。子どもの頃下校時に拾った棒を振り回しながら帰ったことを思い出した。あの頃の俺は名付けた聖剣を気軽に振り回していた。
本物の剣の柄を握り、思わずにやけてしまう。あの頃の剣への憧れは今日叶った。
◆
冒険者ギルドの一階広間へ入ると、朝の依頼争いは一段落していた。窓口へ並ぶ列は短く、壁際の大きな掲示板の前にも、数人の冒険者が立っているだけだった。俺は先日見つけた依頼票を探した。
『東門の先、林縁での素材採取。二人以上推奨』
まだ残っている。内容をもう一度読み直す。東門から半刻ほど進んだ林の縁で、乾燥用の苔と低木の若枝を規定量採取する。林の深部へ入る必要はないが、低い茂みが多く、ホーンラビットや野犬が出る可能性がある。
依頼そのものは、石級でも扱える範囲だ。ただ、見通しの悪い場所で採取と警戒を一人で同時に行うのは、あまり賢いやり方ではない。誰かを探すべきだろうと思っても、思い当たる相手はいなかった。依頼票を眺めたまま考えていると、横から声をかけられた。
「……こちらの依頼を、検討されているのですか?」
よく通る、丁寧な声だった。振り返ると、一人の女性冒険者が立っていた。俺より年下に見える。
小柄な身体に、淡い銀灰色の髪。首元まで届く髪は耳の上から細く編み込まれ、後ろで濃紺のリボンにまとめられていた。青灰色の大きな瞳に、柔らかく整った顔立ち。素直に可愛らしいという言葉が似合う。
ただ、立ち姿に浮ついたところはなかった。背筋はまっすぐ伸び、手入れの行き届いた装備にも乱れがない。清潔な革の胸当てに、動きやすそうな旅装。腰には短剣が一本、邪魔にならない位置へ固定されている。
彼女は俺の顔を見たあと、腰の剣と、掲示板の依頼票へ順に視線を移した。
「ええ……受けたいとは思っているのですが、二人以上推奨と書かれているので、どうしたものかと考えていました」
「私もです」
彼女は依頼票へ目を戻した。
「一人で受けることは禁止されていませんが、採取と警戒を同時に行うのは、安全上あまり望ましくありません。同行できる方を探していました」
制度上の扱いを、すでに確認しているらしい。
「ノワールといいます。石級です」
「エルザと申します。私も石級です」
エルザは短く頭を下げた。俺はまた依頼票に視線を戻す。同じ依頼を迷っているなら誘ってみてもいいかもしれない。そんなことを考えていると、視線を感じたので周りに目を向ける。
複数人の男たちがこちらを見ていた。いや、エルザを見ていた。なるほど、可愛い女性とお近づきになりたいという若い男の至極当然の欲求だ。それに気づいた途端、エルザを誘うことに躊躇してしまう。
とはいえ、依頼には二人必要だ。どうしたものか。
「……もしよければ、一緒に受けませんか」
顎に手を当てて考えこむ俺に、エルザが声を掛けてきた。
「へ? 俺ですか?」
驚いた俺の第一声は、間の抜けた声だった。
「はい。ノワールさん。あなたです」
俺だった。
「俺でいいんですか?」
「駄目なのでしょうか?」
エルザは首を傾げながら真面目な顔で聞き返した。
「いえ。普通は、もう少し警戒するものかと思いまして」
エルザは一度口を閉じ、俺の剣と革当てをもう一度見た。視線がわずかに泳ぎ、指先で自分の短剣の柄に触れる。
「警戒はしています」
「そうですか? 正直驚きましたよ」
「どの程度、表に出すものなのか分かりません」
エルザは困ったように眉を寄せた。返事の仕方が、どこか不器用だった。最近の若い子というのはこういう感じなのかもしれない。
「なるほど。では、一緒に受けましょう。詳しくは場所を移して話しましょうか」
「はい」
俺たちは掲示板の前を離れ、広間の隅にある空いた木机へ向かった。先ほどの男たちの視線が痛い。勘弁してくれ。
◆
机を挟んで向かい合う。エルザは腰を下ろすと、小さな帳面と筆記具を鞄から取り出した。どのページを開くか一瞬指先を迷わせたあと、ぴたりと手を止めて俺を見る。
「まず、お互いの武器と、依頼中にできることを確認してもよろしいでしょうか」
「必要なことですね。俺から話します」
俺は買ったばかりの剣を軽く示した。
「武器は剣です。まだ習い始めて数日です。簡単な水魔法と、採取依頼の経験があります」
《授かり》や、血流に関する感覚は話さない。今の依頼に必要のない情報だ。エルザは小さく頷き、帳面へ数行を書き込んだ。文字は小さく、きれいに揃っている。
「剣術、水魔法、採取経験あり。承知しました」
「エルザさんは?」
「武器は短剣です。それと、身体強化魔法が使えます。長くは保ちませんが、動きや踏み込みを補う程度なら」
エルザはそこで一度言葉を止め、視線を帳面の手元へ落とした。
「知識はありますが、街の外での実地経験は多くありません。石級の依頼経験も、単独の薬草採取か街中の依頼ばかりです」
話し方や装備の整い方を見る限り、何も知らない初心者ではなさそうだ。
「俺も、それほど経験があるわけではありません。無理をしない者同士なら、ちょうどいいかもしれませんね」
「私もそう考えます」
エルザは帳面へ目を戻した。
「魔物が出たら、逃げる方を優先でいいですか」
「はい。討伐依頼ではありませんから」
「どちらかが怪我をしたら、その時点で採取は中断。報酬は半分ずつで」
エルザは帳面へ書き込みながら、少し考える。
「依頼外で見つけた素材は、採った方のものにしますか」
「それでいいと思います」
エルザは短く頷いた。
「では、受付で確認しましょう」
「話が早くて助かります」
「必要なことは、先に決めておいた方が良いと思いますので」
「それは同感です。本当に早いですね」
エルザは首を傾げた。俺の言葉の意図を、眉を微かに寄せて判断しているように見えた。
「……何か問題がありましたか」
「いえ。褒めています」
「そうでしたか」
今度は納得したように、小さく頷いた。少なくとも、条件を曖昧にする人物ではなさそうだった。
◆
受付へ向かうと、ミラが俺たちを見て目を瞬いた。
「ノワールさん、エルザさん。お二人で依頼を受けられるのですか」
「今回だけ、共同で受けようと話しています」
俺が答えると、ミラは依頼票を受け取った。
「東門外の林縁での素材採取ですね。共同受注で登録します」
ミラは書類へ目を通しながら説明した。
「指定素材は、乾燥用のアオゴケ三束と、ニガキの若枝五本です。報酬は銅貨十二枚。林の深部へ入る必要はありません。ホーンラビットや野犬が出ることがありますが、討伐は依頼内容に含まれていません」
「遭遇時は回避を優先します」
エルザが背筋を伸ばして答える。
「それでお願いします。日没までに戻れないと判断した場合も、採取量にかかわらず撤退してください」
ミラは俺たちを交互に見た。
「初めて組まれるのでしたら、現地へ着く前にも役割を確認してください。どちらかが採取する間、もう一人が周囲を見る形が安全です」
「分かりました」
「承知しました」
依頼の受注手続きを終え、控えの紙を受け取る。依頼期限は明日の日没までだった。ギルドの入口近くへ移り、集合時刻を決める。
「明日の朝、早い鐘の後に東門前でよろしいでしょうか」
エルザが尋ねた。
「わかりました。ただ、俺は早い鐘から稽古があります。終わってから向かうので、鐘が鳴って一刻後ではどうでしょう」
「分かりました。一刻後に東門前ですね」
エルザは鞄から帳面を出し、素早く書き込む。
「もし、どちらかが来なかった場合は?」
「半刻待って来なければ、事故か取りやめと判断しましょう。その場合は、一人で出発せず、ギルドへ戻る」
「はい。合理的ですね。その条件で了解しました」
細かい。だが、初対面の相手と街の外へ出る以上、決めておくに越したことはない。
「持ち物は、水、昼食、ナイフ、採取袋、雨具、予備の紐。武器と、最低限の手当てに使う布」
「俺も同じように準備します」
「では、明日はよろしくお願いいたします」
エルザはまっすぐ俺を見て、頭を下げた。
「こちらこそ。遅刻しないよう、起こしに来てもらえますか」
エルザが顔を上げた。
「起こしに、ですか。どちらの宿に泊まっているのですか」
「……冗談です」
「あ」
エルザは小さく口を開いたあと、自分の勘違いに気づいて視線を泳がせた。耳の先がわずかに赤くなり、ぺこりと頭を下げる。この人、面白いな。
「失礼しました」
「いえ。分かりにくい方にも責任がありますので」
「次から気をつけます」
冗談を受け取る側が気をつける話でもない気がしたが、訂正すると長くなりそうだった。エルザはもう一度頭を下げ、大通りの方へ歩いていった。その背中を見送り、俺もギルドを出た。
明日必要なのは、水と昼食、採取袋、それから予備の麻紐。剣の状態も確かめておいた方がいい。頭の中で買い物と準備の順番を組み立てながら、商業区の方へ足を向ける。昨日までは、一人でできる依頼だけを探していた。
明日の仕事には、二人目がいる。