今日も、職人区の稽古場を渡る風は、湿り気を帯びていた。呼吸を整え、木剣を正中線に置く。ドランの足がわずかに沈み込む動きに合わせ、左足を斜め前へ滑らせた。首元を狙う突きの軌道から身体を逸らし、同時に軸足を後ろへ踏み替える。
以前のように一歩目で止まりはしない。足を踏み替えた勢いのまま、右腕の木剣をドランの側腹へ向けて振るい抜こうとした。
だが、手と足の連動が噛み合わなかった。反撃を急ぐあまり、踏み替えた足が地面を捉えきる前に、腕が出た。そのわずかな前傾姿勢を見逃さず、ドランの木剣が下からすくい上げるように俺の剣身を叩いた。乾いた硬い音が跳ねる。
手に残る強い痺れとともに、俺の木剣の先が大きく上方へ跳ね上げられた。がら空きになった胴体へ、ドランの木剣の先端がぴたりと添えられる。
「……反撃が早い」
ドランは木剣を添えたまま、低い声で告げた。
「動けと言ったが、急いで振れとは言っていない。先に足を置け。それから振れ。体勢が整わんうちに刃を振れば、自分で守りを捨てることになる」
「……すみません。避けられたので、ついそのまま打てるかと思ってしまいました」
乱れた呼吸を吐き出しながら、構えを解いた。ドランは木剣を引き、静かに俺を見る。
「一日空けても、避けた後に足を止めなくなったのは良い。だが、一度成功した動きへ無意識に攻撃を繋げようとするな。動きながら整えるというのは、ただ連続して暴れることじゃねぇ」
「注文が増えていませんか」
「できることが増えれば、直すところも増える。当たり前の話だ」
褒められたような気がした。でも、素直に喜べない。ドランはそう言うと、いったん離れて木剣を構え直した。
「もう一度だ」
「はい」
「今と同じ動きをしろ。急ぐな」
俺も木剣を正中線へ戻す。ドランの足が沈む。突きが来る。
左足を斜め前へ滑らせ、首元を通る剣先から身体を外した。そこですぐには振らない。後ろへ踏み替えた足の裏が地面を捉える。膝をわずかに緩め、傾きかけた身体を戻す。
肩だけを先に出さない。足から腰へ。腰から肩へ。順番を確かめるように、木剣をドランの側腹へ走らせた。
「止めろ!」
低い声が飛んだ。反射的に腕へ力を入れかけて――やめる。踏み替えた足へ体重を残したまま、腰の回転を止めた。遅れて、木剣も止まる。
剣先はドランの脇腹へ届く少し手前で震えていた。完全には静止しきれず、身体もわずかに前へ流れた。それでも、さっきのように姿勢を崩して踏み込むことはなかった。ドランが俺の足元から木剣の先までを順に見る。
「……今のは止められたな」
「かなりギリギリでしたけど」
「それでいい。足が決まる前に振れば、途中で変えられん。振ることだけ考えるな」
ドランは木剣を下ろした。
「打つのも、止めるのも、お前が決めろ」
俺はまだ側腹の手前で止まっている木剣を見てから、ゆっくり構えを解いた。
「難しいですね」
「お前は笑えるくらいに不器用だからな」
師匠を叩きのめせるほど強くなりたいです。
「今日はここまでだ。さっさと行け」
ドランは背を向け、いつもの腰掛けへ戻って油布を手にした。
「ありがとうございました。また明日よろしくお願いします」
足を踏み替え、身体を整えてから反撃へ繋ぐ。振り始めても、身体が崩れていなければ途中で止められる。頭では理解していても、実際の身体はそう簡単に理想通りの順番では動いてくれない。
だが、前回のようにただ打たれて終わるのではなく、次の課題が見えるところまで来ていることには、確かな手応えを感じていた。右手を握ったり開いたりして、指先に残る痺れを確かめながら、俺は稽古場を後にした。
◆
朝の混雑が和らぎ始めたギルドの一階広間へ入ると、壁際の大きな掲示板の前に、見覚えのある小柄な後ろ姿があった。エルザは小さな帳面を胸元に抱え、背筋を伸ばして依頼票を読んでいる。ギルドに来れば彼女がいるかもしれない、とは頭のどこかで思っていた。実際にその姿を見つけると、自然とそちらへ足が向いた。
「おはようございます、エルザさん」
声をかけると、エルザはすっと向き直り、丸い瞳でこちらを見上げた。
「おはようございます、ノワールさん。来られると思っていました」
「待っていましたか」
問いかけると、エルザは抱えていた小さな帳面を一度胸元に引き寄せ、少し間を置いてから答えた。
「掲示板の依頼票を見ながら、ノワールさんが来る頃だと思って待っていました」
「それを世間では『待っていた』と言うと思うのですが」
「……形式上は、そう言っても差し支えありません」
エルザは視線をわずかに泳がせ、ぺこりと短く頭を下げる。俺は苦笑を噛み殺し、彼女が眺めていた掲示板の紙面へ目を向けた。
「何か、良さそうな依頼はありましたか」
「はい。こちらの案件を検討していました」
エルザの指先が、一枚の依頼票を示した。
『東街道旧道標の状態確認。三基。周辺の薬草および樹脂素材の採取を含む。二人以上推奨。討伐不要』
目を通すと、東門から街道を半刻ほど進んだ先にある、古い分岐の道標三基の破損状況を調べ、その周囲で指定された素材を採取して持ち帰る仕事だった。
「林縁の採取より、街道の先へ足を伸ばす形ですね」
「ええ。距離は伸びますが、街道沿いなので迷う危険は低そうです。二人なら、一人が道標を確認している間、もう一人が周囲を見られます」
エルザは淀みなく分析を口にした。俺は依頼票の細部を確認し、あごに手を当てる。
「二人以上推奨で、内容も無理がなさそうですね。……ただ、今日は今からすぐ出発するのではなく、しっかり準備を整えて明日の朝に出る方が良い気がします」
「準備、ですか。日帰り可能な距離ですが……」
「前回より街から離れますし、道標の記録や樹木からの樹脂採取なら、専用の道具や灯りがあった方が安全です。焦って今から出るより、今日は道具を買い揃えて、明日の早朝に出直す方が確実に仕事をこなせると思いますが、どうでしょう」
エルザは一度目を瞬かせ、それから自分の帳面へ視線を落とした。
「……そうですね。現地で足りない物に気づくより、今日のうちに揃えた方がよさそうです。明日の朝にしましょう」
「では、受諾の手続きと確認を済ませましょう」
受付へ向かい、ミラの窓口の前へ立った。ミラは提出された依頼票と俺たちを見比べ、手際よく受注手続きを進めながら口を開いた。
「『旧道標の確認と採取』ですね。明日の出発で登録しておきます。……ノワールさん、エルザさん、お二人とも前回の林縁より遠くへ向かうことになりますから、持ち物の点検は怠らないでくださいね」
「必要な道具で、不足しているものはありますか」
俺が尋ねると、ミラは羊皮紙の裏に手早く文字を書きつけた。
「道標の確認用には簡単な地図と筆記具。それから、街の外で離れて作業する場合、お互いに位置を知らせる『警笛』は各自持っておいた方がいいです。あとは夜間の遅延に備えた携帯用の灯り、頑丈な短い縄、それぞれの水筒と応急用の布ですね。ギルドの貸出もありますが、冒険者を続けるなら自分の分を買っておくことをお勧めします」
「分かりました。買い足しておきます」
「無理は禁物ですよ。明日は気をつけて行ってきてくださいね」
ミラから仮控えを受け取り、ギルドの重い扉を押して外へ出た。
◆
日差しが街の石畳を鮮やかに照らす中、商業区にある装備店へと向かった。大きな木製の看板に剣と盾の絵が描かれた店舗の扉を押すと、カウベルがからりと乾いた音を立てた。店内には、鞣した革と防錆油、それから削られた金属の匂いが重く漂っていた。壁には太さの異なる縄や革帯が吊るされ、木棚には各種の小瓶、水筒、火打石の道具、革袋、補修用の金具などが整然と並んでいる。
奥の作業台では、頑丈そうな店員が革紐を小刀で切り揃えていた。
「いらっしゃい。備品の補充かい?」
店員が顔を上げる。俺は短く頭を下げた。
「ええ。街道での作業用に、警笛や縄、携帯用の灯りを見に来ました」
「それならあっちの棚だ。警笛は真鍮のやつが一番丈夫で音も通るよ」
示された棚へ向かう。そこには箱に分けられた様々な小さな備品が収められていた。俺は棚から長さ十センチほどの真鍮製の警笛を拾い上げた。装飾のない無骨な造りだが、ずしりと程よい重みがあり、革紐もしっかりしている。
「俺はこれで良さそうですね」
そう言って隣を見ると、エルザが棚の一角の前で足を止め、じっと何かを見つめていた。彼女が視線を注いでいたのは、同じ警笛の箱だったが、その中に数個だけ混ざっていた別の意匠の品だった。大きさは俺の選んだものより一回り小さく、色は落ち着いた淡い青銀色をしている。側面に、羽を休めた小さな鳥の形が丁寧に刻印されており、結ばれた革紐も細くしなやかなものが使われていた。
エルザはその警笛へ伸ばしかけた手を一瞬止め、一度息を吐いてから、すぐ隣にある無骨な真鍮の標準品を取り上げた。
「……こちらの標準型が、耐久性の面において最も信頼性が高いと思われます」
真面目な口調で口にするエルザだったが、取り上げた警笛を棚へ戻す際、その瞳は再びちらりと鳥の刻印が入った青銀色の品へと向けられていた。一度視線を逸らし、また戻す。手に取って重さを確かめるわけでもなく、また鳥の刻印へ視線を戻した。俺はその視線の動きを静かに見ていた。
青銀色と小さな鳥の刻印は、清潔に整えられた彼女の装備に自然と馴染んで見えた。そして彼女の容姿に良く合っていると思った。俺は店員へ尋ねた。
「店員さん、そっちの青銀色の警笛と、俺が持っている真鍮のもので、音量や機能に違いはありますか?」
作業台の店員が作業の手を止めずに答える。
「音の高さは少し違うが、街道で使う分には音の通り方や丈夫さに大きな差はないよ。そっちは若い冒険者や女性向けに、職人が遊びで鳥の絵を刻んだだけでね。刻印代も込みで値段は真鍮のと同じだ」
店員の言葉を聞いたエルザが、背筋をわずかに強張らせた。俺はエルザへ向き直った。
「だそうですよ。エルザさんが気になるなら、そちらを選んでも何の問題もないと思いますが」
「……っ。私は、別に装飾を求めているわけではありません。ただ、小型であるため装備に装着した際の動線阻害が少なく、また特有の色彩により暗所での識別性が高いという合理的利点が――」
すらすらと言い訳のような理由を並べ立てるエルザ。
だが、俺が何も言わずにいると、彼女は途中で言葉を詰まらせた。鞄の紐を指先で軽く握り直し、胸の動きとともに息を整える。そして、棚の青銀色の警笛へもう一度手を伸ばし、それを丁寧に持ち上げた。
「……こちらに、します……」
耳の先をわずかに赤くしながら、自分の手でそれを選び取った。
「可愛いですよね、それ」
俺が微笑むと、エルザは「……はい、可愛いです」と低く呟き、自分の小銭入れから硬貨を取り出してカウンターへ置いた。俺も真鍮の警笛の代金を支払う。
「同じ物にしないのですか?」
手元を覗き込んできたエルザが尋ねてきた。
「俺の物まで鳥の刻印が入っていたら、落ち着かないでしょう。俺はこれで十分です。……それとも、俺も鳥の方にした方が良かったですか?」
冗談めかして言ってみると、エルザは真鍮の警笛と俺の顔を交互に見比べ、真顔で頷いた。
「いいえ。ノワールさんには、そちらの無骨な形状の方が適合しています」
「そこまで迷わず言われると、複雑ですね」
「適合性の話です」
きっぱりと言い切られ、俺は思わず吹き出した。エルザもつられたのか笑みを浮かべる。こうした目的の薄い軽口が、いつの間にか二人の間で自然に交わせるようになっていた。初対面の頃には、こんなふうに笑い合える距離感など、まだなかったはずだった。
店員から「音の試し方」を聞き、店の裏手にある小さな空き地へ向かった。
「吹き口を布か指で軽く覆いながら息を入れると、大きな音を立てずに振動だけで音の鳴りを確認できる」
教わった通り、エルザが指先で吹き口を軽く押さえ、息を吹き込んだ。チッ、と小さく高い金属音が通り抜ける。
「思ったより、澄んだ音が出ますね」
エルザが感心したように警笛を見つめる。俺も自分の警笛で試すと、低く太い音が手に響いた。
「店員さんの話では、合図は『危険や異常を知らせるなら短く三度』『居場所を知らせるだけなら長く一度』だそうです。これを俺たちの基本ルールにしましょう」
「了解しました。緊急時の短三音、位置確認の長一音。忘れないよう記録しておきます」
空き地のベンチに腰を下ろし、買い集めた道具を並べた。短い縄、携帯用の小さなランプ、応急用の布、予備の紙と木炭。エルザは自分の革帯の脇に、先ほど買った鳥の警笛を革帯の奥へきれいに収めて固定した。並べた道具を前に、分担を確認した。
「水筒と応急用の布、警笛は、それぞれ持ちましょう」
「はい。離れた時に困りますから」
「水魔法が使えますが、魔力が切れたり動けなくなったりした時に備えて、俺も水筒は持っておきます」
「その方が安心だと思います」
「縄と予備の資材は俺が持ちます。エルザさんは記録用の紙と木炭、それと携帯灯をお願いできますか」
「分かりました。その分け方でいきましょう」
道具を分け終える頃には、明日二人で街の外へ出るという実感が、鞄の重みとして残っていた。
◆
すべての買い出しと準備を終える頃には、午後の柔らかな光が街並みを包み込んでいた。商業区の露店を抜け、東門へと続く道をエルザと並んで歩いていた。エルザの腰元には、新しく取り付けられた青銀色の小さな警笛が、歩調に合わせて静かに揺れている。彼女は歩きながら、時折その側面の鳥の刻印を指先でそっとなぞっていた。
「明日の集合ですが」
俺が口を開くと、エルザは指を止め、こちらへ顔を向けた。
「はい」
「早い鐘が鳴ってから一刻後、東門の内側でどうでしょう。もしどちらかが半刻待っても来なかった場合は、事故か取りやめと判断して、一人では出発せずにギルドへ戻る」
「前回のルールと同じですね。了解しました。早い鐘から一刻後、東門内側です」
エルザは自分の帳面に書き込むことなく、まっすぐ俺を見つめた。
「ノワールさん。その……警笛についてですが」
「はい?」
「私がこういう造形の物を持つのは変ではないでしょうか?」
俺には、質問の意味がよく分からなかった。
「エルザさんによく似合っていると思いますよ?」
エルザは一瞬だけ言葉を詰まらせた。それから、青銀色の警笛へもう一度視線を落として、静かに口を開いた。
「……そうですか、良かったです」
その小さな一言に、俺は深く頷いた。
「ええ。大事に使いましょう。まずは明日の仕事で」
「はい。よろしくお願いします、ノワールさん」
東門へ続く分かれ道で足を止めた。
「では、明日の朝に」
「はい。遅刻しないよう、注意します」
エルザは丁寧に頭を下げると、くるりと向きを変え、自分の宿筋へ向かって歩き出した。背筋をぴんと伸ばしたその小柄な背中を、俺はしばらく見送っていた。曲がり角へ入る直前、腰の青銀色の警笛が一度だけ光を返した。俺も自分の真鍮の警笛へ触れる。
明日の朝は、東門だ。