ドランとの朝稽古で身体を動かした後、宿で汗を軽く拭い、約束の時刻に東門の内側へと向かった。早い鐘が鳴ってから一刻ほど経つ頃の東門付近は、街の外へ向かう荷車や徒歩の行商人たちで活気があふれていた。
城門に渡された太い鉄鎖が擦れる音と、重い木扉を抜けていく馬の蹄の音が、冷えた朝の空気に響いている。東門の内側へ着くと、石壁の影から声がかかった。
「おはようございます、ノワールさん」
振り向くと、エルザがこちらを見ていた。昨日は腰に下げていた青銀色の小さな警笛が、今日は短く調整された細い革紐で首から下げられている。胸当ての上で、小さな鳥の刻印が朝の光を返していた。
「おはようございます、エルザさん。早いですね」
「到着時刻の誤差と混雑を考慮して、早めに待機していました」
「俺を待たせないために、気遣ってくれたんですね」
「……それも、含まれます」
エルザは真面目な顔のまま、小さく頷いた。その様子に思わず笑みが漏れてしまう。俺は自分の腰へ下げた無骨な真鍮製の警笛へ手を触れた。
「準備は良さそうですね。出発前に、装備と合図だけ確認しておきましょう」
「了解しました」
俺たちはその場で立ち止まり、実物に指先で触れながら荷物を確かめた。水筒の栓、応急用の布、予備の紙と木炭、短い縄、携帯灯。俺が水筒の揺れを抑え、エルザが鞄の留め具を確かめる。
「合図の確認です。長く一度が位置確認、短く三度が緊急事態ですね」
「ええ。互いの姿が見えない時は、無理に声を張り上げず警笛を使います」
俺たちは短く頷き合い、ギルドの控えと冒険者証を衛兵に見せて城門をくぐった。厚い壁の影を抜けると、朝日に照らされた東街道が一気に広がっていた。
前回の林縁での採取よりも、今回はさらに街道を深く進むことになる。歩を進めるにつれて、道端の畑や人影は徐々にまばらになり、荷車の深く削れた轍が細くなっていった。草の先についた朝露が靴底を濡らし、風に乗って湿った土と木々の青臭い匂いが漂ってくる。
俺たちは一列になったり横へ並んだりしながら、歩調を合わせて進んだ。一人で歩く時とは違う二人の足音が、一定の刻みで街道へ重なっていた。エルザが横を歩きながら、胸元の青銀色の警笛へ時々視線を向けている。
「警笛、首から下げることにしたんですか?」
「……こちらの方が、すぐ使えますので」
エルザは口元を引き結んで返した。
「似合ってますね」
俺がそう言うと、エルザの歩調が乱れて後ろに下がった。
◆
街道を進んで半刻ほど経った頃、最初の分岐点に差し掛かった。道端の草むらの中に、古びた石造りの道標がぽつんと立っている。表面には苔が薄くこびりつき、刻まれた文字は擦れかけていたが、まだ十分に読み取れる状態だった。
「第一の道標ですね」
俺は道標へ近づき、根元の土と石の状態を確かめる。
「東側へ傾いていますが、すぐに倒れそうな状態ではありません。根元の割れも浅いです。周囲の道幅も確保されていますね」
エルザは帳面を開き、木炭で手際よく書き込みを始めた。道標の確認を終えた後、俺たちは周辺の樹木へ目を向けた。目的の素材の一つである『固樹脂』の採取だ。
大きな幹の傷口から、淡褐色の樹脂が固まって飴細工のように盛り上がっているのを見つけた。日光を受けて半透明に光っている。俺は道具袋から小さな木片を取り出し、樹脂の根元へ当てた。
「直接手で触ると粘ついて取れなくなりますから、こうして木片や刃の平で削ぎ落とします。土や樹皮の屑が入らないように注意してください」
こりっ、と硬い手応えとともに、親指ほどの大きさの固樹脂が綺麗に剥がれ落ちた。かすかに甘い樹脂の香りが立ち上る。それを準備してきた布に丁寧に包み、採取袋へ収めた。
エルザも隣の木で同じように削ぎ取り、布に包む作業を真剣な手つきで真似ていた。一つ削ぐと、その先にもう一つ、傷口が目に入る。そちらの方が良さそうに見えて、幹を回り込む。回り込んだ先にも小さいのがあった。
「ノワールさん」
二度目で顔を上げた。エルザはもう採取袋の口を閉じている。
「二束分の固樹脂を確保しました。次は第二の道標ですね」
「ええ。行きましょう」
俺たちは荷物を整え、再び街道沿いを奥へと進んだ。
◆
第二の道標は、街道が小さな斜面を下る途中の脇道にあった。先の雨で斜面の土が大きく削られており、道標の片側が完全に沈み込んで斜め下へ崩れ落ちかけていた。土が柔らかく、直接足を踏み入れると滑り落ちそうな状態だった。
「土台が削れていますね。下へ回り込んで根元を確認する必要があります」
エルザが斜面を見下ろしながら言った。
「私が下へ降ります。小柄な分、足場への負荷が少ないと思われます。身体強化を一時的に適用すれば、跳び下りることも可能です」
「……いいえ、魔法で飛び降りるのはやめましょう」
俺は手で制し、自分の袋から昨日買った短い縄を取り出した。
「降りるだけならできても、崩れやすい足場で戻れるとは限りません。この上の太い木の根に縄を回しますから、それを伝って降りてください。俺が上で保持します」
エルザは一瞬だけ首を傾げたが、すぐに理解したように頷いた。
「……了解しました。道具を活用した安全策を優先します」
俺は頑丈な木の根に縄をしっかり結びつけ、端を握って体勢を低くした。エルザは縄を両手で掴み、慎重に斜面を滑り降りて道標の裏手へと回った。縄がぴんと張り、俺の手元に彼女の体重が伝わってくる。
「ノワールさん、裏側の状態を確認しました。根元の土が大きく流出しており、次の大雨で滑落する可能性が高いです。補修工事の手配が必要と判断します」
下からエルザのはっきりとした声が届いた。
「了解です。記録が終わったら合図してください。引っ張り上げます」
エルザが木炭で状況を書き留めた後、縄を伝って足場を確かめながら登ってきた。俺が上から手を差し出し、彼女の腕を支えて平地へ引き上げる。
「助かりました、ノワールさん」
「お疲れ様でした。購入した縄が役に立ちましたね」
「ええ。単独行動や無理な魔法使用より、確実で安全な手順でした」
エルザは息を吐き、服についた泥を軽く払った。指定の固樹脂と薬草の追加採取も終え、残るは三つ目の道標のみとなった。
◆
街道から外れた枝道へ入ると、周りの木々は一気に密になり、背の高い茂みが道を覆い始めていた。風が止み、木漏れ日も届きにくくなった林の奥からは、湿った土と腐葉土の匂いが強く漂っていた。ふと、俺は足元の土の変化に気づき、立ち止まった。
土が新しく大きく掘り返され、近くの木の幹には泥の擦れた跡が残っていた。つんと鼻を突く、野生動物の荒い臭いがかすかに漂っている。
「……何か大型の生き物が通った跡に見えます。古い跡には見えませんね」
俺が低く囁くと、エルザも短剣の柄に手を添え、周囲の茂みへ視線を巡らせた。
「同感です。足跡の深さと掘り返された土の湿り気から、ごく最近の通過と推測されます。三つ目の道標はこの枝道を抜けた先にありますが……」
「討伐依頼ではありませんからね。無理に深追いする必要はありません」
俺は地図の羊皮紙を開き、位置関係を確認した。
「深くは入りません。枝道の入口から見える範囲だけ確認して、道標が見えなければそこで戻りましょう」
「分かりました。見失ったら、警笛で位置を確認しましょう」
「ええ。長一音で位置確認、異変があれば短三音ですね」
俺たちは距離を保ちながら、枝道の入口から見通せる範囲だけを進んだ。大きな倒木が道を塞いでいた。枝道の先を見通すには、右手へ数歩回り込む必要がある。エルザは倒木の手前で足を止め、こちらを見た。
「ここから先へは入りません。右から道標が見えるかだけ確認します」
「分かりました。俺はここで周囲を見ています」
エルザが数歩だけ右手の木の陰へ回り込む。分厚い葉が重なり、一時的に互いの姿が隠れた。俺は街道側で周囲を警戒しながら、足を止めた。静寂が林を包む。
ぴんと張り詰めた空気の中、右手の茂みの奥から、澄んだ高い金属音がひとつ響いた。
――ピーーッ。
長一音。エルザからの位置確認の合図だ。俺は即座に音のした方へ向くと、自分の真鍮の警笛を口元へ寄せ、息を吹き込んだ。
――ブーーッ。
低く太い音が、木立の間に響いた。これでこちらの位置も知らせられた。
だが、その直後だった。がさがさっと激しく茂みが揺れる音が響いた。続いて、甲高い金属音が三度、短い間隔で林の静寂を切り裂いた。
――ピッ、ピッ、ピッ!
緊急合図。短く三度。俺は一瞬の躊躇もなく、腰の剣の柄を握りしめた。
焦るな。慌てて飛び込めば、足元をすくわれる。
ドランの「急いで振るな。動きながら整えろ」という言葉が脳裏をよぎる。俺は足元の根や濡れた土を視界に収めながら、刃を抜かずに鞘ごと右手に握り、音のした右手側の茂みへと迷いなく踏み込んだ。
茂みを押し分けた先に、その姿があった。大型犬ほどもある太い体躯。背中全体にびっしりと硬い針状の毛を生やした魔物――『ニードルボア』だ。短く太い牙を剥き出しにし、低い唸り声を上げながら地面を後脚で強く削っている。
その数歩先には、短剣を構えたエルザが立っていた。エルザは短剣を構えたまま、背後の木と街道側へ視線を走らせ、少しずつ開けた場所へ下がっていた。ニードルボアが地面を蹴り、力強い突進でエルザへ向かって直線的に迫った。
「――っ!」
エルザの足元が、一瞬だけかすかに沈み込んだ。一歩だけ身体強化を使い、斜め後ろの開けた空間へ身体をずらす。風と鋭い針の気配が、エルザの胸当ての脇を抜ける。
だが、ニードルボアはすぐに泥を巻き上げて反転し、体勢を立て直そうとしていた。俺はニードルボアの横合いから間合いを詰めた。無理に斬りつけようとはせず、右手で持った剣の鞘の金具で、隣の太い幹を強く叩いた。がぁん、と高い打撃音が林に響き渡る。
ニードルボアが驚いたように耳を立たせ、俺の方へ赤い目を向けた。その一瞬に、俺は左足を滑らせてエルザの隣へ入り、彼女の退路を塞がない位置へ並んだ。
「エルザさん、下がりましょう!」
「はい! 道標の位置は目視で確認しました。退路を確保します!」
俺たちはニードルボアへ正面を向けたまま、広い街道側へ下がった。ニードルボアは自分の縄張りを威嚇するように低く鼻を鳴らしたが、二人が素早く距離を取り、深追いしてこないのを見ると、それ以上は追ってこなかった。やがて荒い息を吐き、掘り返された土の奥へと消えていった。静寂が戻ってくる。
街道の広い場所まで完全に戻ったところで、俺たちは足を止め、大きく息を吐き出した。俺は鞘から離した手を軽く開閉し、呼吸を整えた。
「……怪我はありませんか、エルザさん」
「はい。無傷です。……ノワールさん、警笛の合図から到着までが非常に迅速でした」
エルザは胸元の警笛に手を添え、乱れた息を整えながら答えた。
「音が聞こえましたからね。そちらも、慌てずに合図を出してくれて助かりました」
「……約束でしたから」
俺は頷いた。
「ええ。次もそうしてください。俺も同じようにしますから」
「はい」
エルザが小さく微笑む。
「三基目の詳細記録は残せませんでしたが、位置と周囲の危険性の情報は十分に収集できました。無理に調査を継続せず、帰還するのが妥当です」
「そうですね。街へ戻って報告しましょう」
俺たちは、午後の光が差し込み始めた東街道を王都へ向かって歩き出した。
◆
午後早めの時間帯、俺たちは王都の東門をくぐり、冒険者ギルドへ戻った。受付の窓口でミラへ書類と採取袋を提出し、状況を報告する。
「なるほど……。一基目と二基目の確認、および樹脂と薬草の採取は完了。三基目は位置を確認したものの、ニードルボアの縄張りと遭遇したため、深追いを避けて撤退されたのですね」
ミラは提出されたエルザの帳面の控えと納品物を丁寧に確認し、頷いた。
「適切な判断です。石級の冒険者が危険を察知して深追いを避け、正確な情報を持ち帰ってくださるのは、ギルドとしても助かります。三基目の詳細調査とニードルボアへの対応については、上の等級の冒険者へ引き継ぎますね」
ミラは受付帳簿に処理を書き込み、今回の調査手当と採取分の報酬をカウンターへ置いた。
「部分達成と危険情報の提供分として、こちらをお受け取りください。お疲れ様でした」
硬貨を半分ずつに分け、ギルドの重い扉を出た。広場の階段の脇で、俺たちは足を止めた。エルザの胸元で揺れる青銀色の警笛には、先ほどの林の移動で付いた泥が付着していた。エルザは布を取り出し、それを拭き取る。
「明日、落ち着いて手入れしましょう」
俺が声をかけると、エルザの手が止まった。
「手入れ、ですか?」
「ええ。金属や革紐が気づかないうちに傷んでいるかもしれません。これからも使う道具ですし、明日、ギルドで一緒に状態を確認しませんか」
エルザは自分の警笛へ視線を落とした。
「……了解しました。明日、ギルドで道具点検ですね」
「では、明日」
「はい。失礼いたします」
エルザが丁寧に頭を下げる。俺も自分の腰へ下げた真鍮の警笛へ触れた。林で聞いた三つの短い音が、まだ耳に残っている。
宿へ戻ったら、泥くらいは落としておこう。